聖書の歴史的コンテクスト

私は神学校で聖書解釈学を教えていますが、学生たちに口を酸っぱくして教えていることは、「聖書解釈はコンテクストがいのちである」ということです。

「コンテクスト」という言葉は「文脈」「前後関係」などと訳されますが、聖書のテクストはその置かれている具体的な文脈の中で解釈してはじめてその意味を正確に理解できるということです。聖書解釈におけるコンテクストには大きく分けて二種類あります。

一つは「文学的コンテクスト」と呼ばれるもので、これは聖書のテクストそれ自体の文脈、すなわち、当該箇所の前後に何が書いてあるか、ということです。(この場合の「文学的」という表現には「フィクション」というニュアンスは含まれません。)たとえば聖書の中には、「神はない」という言葉が出てきますが、だからといって聖書が神の存在を否定しているわけではありません。この言葉はその前後関係、

愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。(詩篇14篇1節)

という文学的コンテクストに照らして、初めてその意図を十分に受け止めることができるのです。

さて、聖書のコンテクストにはもう一つ、「歴史的コンテクスト」と呼ばれるものがあります。これは「歴史的背景」と言ってもよいですが、特定の聖書のテキストが書かれた歴史的な状況を指します。 聖書は歴史的真空状態の中で書かれたものではありません。聖書記者は聖書を書く時に、読者が当時の歴史的・文化的状況をある程度知っていることを前提として書いていることが多いのです。したがって、現代の読者がその箇所を読んでも、歴史的背景を知らないとそのメッセージをとらえ損なうことがあります。逆に、その書かれた当時の歴史的・文化的状況を知ることは当該箇所の正確な理解を助けることになります。このように、解釈しようとする箇所の歴史的コンテクストを調べることは、聖書解釈の基本的なステップの一つです。

ある時私は聖書解釈学の授業で、いつものように歴史的コンテクストの重要性を教えていました。すると一人の神学生が手を挙げて、次のような質問をしたのです。

「聖書の歴史的コンテクストを調べなければならないということは、聖書のどこに書かれているのですか?」

この質問を受けて私は一瞬答に詰まってしまいました。ある聖書テクストの歴史的コンテキストは、普通は当然ながらそのテクスト自体には含まれません。また、聖書の著者とその最初の読者とは、同じ時代と文化の中に生きていることが多いので、そのような歴史的コンテクストは両者の間ですで共有されており、わざわざ言及する必要はなかったと思われます。つまり、聖書のオリジナルの読者は、聖書を正しく理解するために、今日の聖書学者のようにその歴史的コンテクストを意識的に調査する必要はあまりなかったのです。

一方で、このような質問がなされた意図も分からないことはありませんでした。聖書を信仰と実践の最終的権威と告白する福音主義的キリスト教の立場からすれば、聖書解釈という営みの具体的な方法論(この場合は歴史的コンテクストの再構成)の有効性もまた、聖書に基いて吟味されるべきだ、という考えがあったとしても理解できます。つまりこの学生には、聖書の歴史的コンテクストを調べるという作業は、聖書の外から持ち込まれた異質なものであると感じられたのかもしれません。

非常に興味深い質問だと思いましたので、この問題についてじっくりと考えてみることにしました。その中で見つけたのが次の箇所です。

1 さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。 2  そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。 3  もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。 4  また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。 5  そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。(マルコ7章1-5節)

このエピソードでは、イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をしているのをパリサイ人が批判しています。ここで注意したいのは、太字で示した3節と4節の部分は、福音書の著者であるマルコ自身が挿入した説明文だということです。話の筋自体はこの部分がなくても、2節から5節にスムーズにつながります。おそらくマルコが福音書を書く際に利用した資料では、そのようになっていたのでしょう。しかし、この説明部分があることによって、読者にはイエスとパリサイ人との論争が単なる衛生上の問題についてのものではなく、当時のユダヤで食前に行われていた儀式的な浄めの洗いの妥当性について行われた宗教的な性格のものだということが明らかになるのです。

もちろん、そのような説明は、当時のユダヤ社会の宗教的慣習をよく知る者には不要だったかもしれません。しかし、ユダヤの宗教文化に不案内な読者は、なぜ食前に手を洗わないことをパリサイ人が問題にしたのか、またそれに対してなぜイエスが「人間の言伝え」を守っているとパリサイ人を批判したのか(8節)理解しにくかったと思われます。そして、マルコはまさにそのような、パレスチナのユダヤ教文化をよく知らない異邦人読者を主な対象として福音書を書いていたからこそ、このような説明文を挿入したのだと思われます。

このことは、新約時代に既に、キリスト教のメッセージを異文化の人々に正確に伝えるためには、その歴史的コンテクストを説明しなければならないと初代教会の人々が意識していたことを意味しています。このような例はこの箇所だけでなく他にも見出すことができます(たとえばヨハネ4章9節など)。

しかし、聖書の歴史的背景は、このように聖書テクスト自体の中でわざわざ説明されることはむしろ稀です。上述したように、聖書はもともと書かれた当時の人々が読むことを想定して書かれていますので、当時の人々が常識的に知っている内容は書く必要がなかったからです。けれども現代の私たちが聖書を読む時には、そのような知識を共有していないため、意識的に当時の背景を調べていく必要があります。その際には、聖書以外の資料(注解書等)を活用する必要も出てきます。

保守的なクリスチャンの中には、聖書を読む時に聖書以外の参考資料を用いたり、歴史的背景を調べたりする作業を否定する人々も存在します。「聖書だけを開いて素直に読めば、その意味は自ずと明らかになる」というわけです。しかし、聖書のメッセージを正しく理解するために、必要に応じてテクスト自体に含まれない背景情報も活用するべきであるということは、聖書自体が示唆しているのです。

黙示録における「福音」(2)

今回は、黙示録では神またはキリストがどのように描かれているか、と言う点について考えてみます。

多くの人は、黙示録に描かれている神は新約的な愛と赦しと恵みの神ではなく、旧約的な怒りと裁きの神、というイメージを抱いています。(このような旧新約聖書の性格付けは正確なものではないと思いますが、あくまで一般にもたれているイメージとして、ということです)。

 福音書では、イエス・キリストは神の愛を体現する存在として描かれています。イエスは敵を愛せよと教え(マタイ5章44節)、右の頬を打たれたら左の頬を向けよと言われ(マタイ5:39)、剣を取る者は剣で滅びると言われました(マタイ26章52節)。弟子たちにそう教えただけでなく、自らそれを実行して十字架にかかられ、「父よ、彼らをおゆるしください。」と祈られました(ルカ23章34節)。

ところが黙示録のキリストは世の終わりに現れて不信者を容赦なく滅ぼす戦士としてイメージされます。これは福音書に描かれている愛のメシヤとしてのイエスのイメージとどのように結びつけたら良いのでしょうか?「結局黙示録に描かれている神やキリストの暴力的な裁きは、ヨハネが批判している当のバビロン/ローマがしていることと変わらないのではないか?」という批判がなされることもあります。そのような理由で、黙示録を非キリスト教的文書として拒絶する人も存在します。これはどのように考えたら良いのでしょうか?

RavArchBpChapelXt(戦士としてのキリスト;6世紀)

伝統的に本書はヨハネの福音書や手紙を書いたのと同じ、使徒ヨハネによって書かれたと考えられてきました(この他に、使徒とは別人の「長老ヨハネ」と呼ばれる人物によって書かれたという説もあります)が、この説を受け入れると、上で述べたような、神とキリストの「暴力的イメージ」をめぐる困惑はさらに深まります。なぜならヨハネは福音書でも手紙でも神の愛を強調しているからです。

愛さない者は、神を知らない。神は愛である。(1ヨハネ4章8節)

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3章16節)

これほどまでに神の愛を強調したヨハネが、なぜ黙示録ではあのような厳しい裁きのメッセージを語れるのでしょうか?

多くの人々は、福音書の愛のイエスと、黙示録の暴力的なイエスのイメージを両方受け入れています。しかしそうだとすると、イエスは初臨の時には愛と赦しを語り、人々に悔い改める機会を与えたが、最後まで悔い改めない者には、世の終わりに容赦なく裁きを下す怒りの神として再臨するということになります。しかし、これはよく考えてみると首尾一貫しないキリスト観ではないかと思われるのです。

昨年米国のテレビ番組「サタデー・ナイト・ライブ」で福音書のパロディ・ビデオが放映されました。“DJesus Uncrossed”と題されたタランティーノ監督風のビデオでは、墓からよみがえったイエスが自分を殺した人々に次々と復讐するという血なまぐさいストーリーが描かれていきます。そこに「彼は死人のうちからよみがえった・・・そして彼は決して赦しを説くことはない( “He’s risen from the dead. . . And he’s preaching anything but forgiveness.”)」 というナレーションが入ります。つまり、復活のキリストは十字架にかかる前の愛と赦しを説いたイエスとは似ても似つかぬ存在として描かれているのです。

(警告:暴力的描写が含まれています!)

当然のことながら、これは同番組史上最も冒涜的なビデオとして、多くのクリスチャンの憤激を買いました。しかしここで考えてみたいことがあります。多くのクリスチャンはこのような暴力的復讐のイメージは初臨のイエスには似つかわしくないと考えますが、再臨のイエスにはふさわしいと考えているのです。

「目には目を、歯には歯を」の原則に従い、この世の悪を力でねじ伏せる初臨のイエスのイメージが冒涜的であるなら、再臨のイエスについて同じような理解を持つのも冒涜的ではないでしょうか?「サタデー・ナイト・ライブ」のビデオは(それが制作者の意図であったかは別として)そのようなクリスチャンの持つアンビヴァレントなイエス像を浮き彫りにしていると言えるかも知れません。

一方、米国を中心に大ヒットしたレフト・ビハインド・シリーズ『グロリアス・アピアリング』という巻では、再臨のキリストが地上の敵を文字通り虐殺する様子が非常にリアルに描かれています。少し長いですが一部を引用します。

レイフォードがのぞいている双眼鏡の先では、男女の兵士や馬が立っているその場で爆発しているようだった。主のことばそのものが彼らの血を過熱させ,それが血管と皮膚を突き破っているかのようだった。「彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。」何万という歩兵が持っていた武器を落とし、自分の頭か胸をつかみ、膝をつき、身をよじりながら、目に見えない何かでばらばらに切り裂かれていった。はらわたが砂漠の床に流れ出し、そのまわりで逃げまどう者たちも殺され、血があふれ、キリストの栄光の容赦ない輝きのなかでその嵩を増していった。「天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ。主の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。主がボツラでいけにえをほふり、エドムの地で大虐殺をされるからだ。彼らの地には血がしみ込み、その土は脂肪で肥える」反キリストの軍隊が主の虐殺のいけにえの動物になったかのようだった。(邦訳258-59ページ)

しかし、個人的にはこのようなイエス像には何か根本的に受け入れがたいものがあります。正典の最後を飾る、世の終わりについて語る黙示録に現れるイエスが暴力的な裁きの神であるとすると、結局神とイエスの本質は愛ではなく裁きということになるのでしょうか?初臨の時の愛の教えや実践は、人々を信じさせるための一時的なテクニックだったのでしょうか?決してそうではないはずです。 「神は愛である」と語ったヨハネは初臨のイエスについて次のように書いています。

神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。(ヨハネ1章18節)

わたし(イエス)を見た者は、父を見たのである。(ヨハネ14章9節)

ヨハネだけではありません。ヘブル書の著者も次のように語っています。

御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。(ヘブル1章3節)

イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。(ヘブル13章8節)

まとめると、神の本質は愛であり、人となられたイエスはご自身の存在、教え、みわざを通して愛なる神の本質を表されたと言えます。そしてそのイエスの本質はこれから後も永遠に変わることはないのです。

もしここまでの考察が正しいとすれば、次のことを自問せざるを得ません:私たちの黙示録の読み方は、果たして正しいものだったのでしょうか?はたして、福音書のイエス像と黙示録のイエス像には連続性があるのでしょうか?

(続く)

使徒たちは聖書をどう読んだか(14)

(シリーズ過去記事             

前回は、聖書の救済史ナラティヴが教会共同体のアイデンティティを形成するということを述べました。今回はそれへの補足として、このような聖書テキストを通した共同体のアイデンティティ形成における聖霊の働きについて述べたいと思います。

プロテスタント信仰において、教会が従うべき最終的な権威は聖書のテキストを通して語られる聖霊にあるとされてきました(たとえばウエストミンスター信仰告白を参照)。しかし、聖霊が教会にあって、聖書のテキストを通して語られるということは、聖書記者の意図した意味を正確に伝達するという以上のことがあります。

私たちが言語を使う時、ただ単に情報を伝達するだけではなく、言葉を発することによっていろいろなことを行っています。そのように「何かを言うことによって何かを行うこと」を「言語行為speech act」と言います。例えば強盗が銀行員にピストルを突きつけて「手を上げろ」と言う時(発話行為locutionary actと呼ばれます)、強盗は手を上げるようにと命令しており(発話内行為illocutionary act)、その発話行為によって相手を脅している(発話媒介行為perlocutionary act)ということができます。

さて、聖書のテキストを通して聖霊が語られるという事実も、このような言語行為として捉えることができます。聖霊が聖書を通して私たちに語りかけるとき、それは私たちに神に関する正しい情報を伝達するというだけでなく、その語りを通して私たちに様々な働きかけがなされます。例えば次の聖書箇所を考えてみましょう。

しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。(2テモテ3章14-17節)

この箇所は聖書の霊感の議論で必ずと言って良いほど引用される箇所ですが、福音派の釈義においては、聖書記者が聖霊の導きを受けて誤りのない神のメッセージを書き記した、という意味で解釈されることが多いようです。しかし、パウロはこの箇所で旧約聖書の原典がいかに生み出されたかということについて語っているのではありません。そもそも彼がここで念頭に置いている「聖書」は旧約聖書のヘブル語原典ではなく、そのギリシア語訳(七十人訳聖書)であると思われます。

しかしさらに重要なのは、パウロがこの文脈で語っているポイントは、霊感を受けた(原文を直訳すると「神の霊・息を吹き込まれた」)聖書がいかに存在するようになったかという成立事情ではなく、そのような聖書がいかにして教会の働き人を訓練していくことができるか、という現在の機能にあります。つまり、ここでパウロは、聖書は聖霊によるいのちに満ちているので、それを読む人々を変革し、教会という共同体を建て上げていくことができる、と言っているのです(ここでパウロは創世記2章7節で、アダムに神の息が吹き込まれ、彼が生きるものとなったと言う記述を念頭に置いているのかもしれません)。

聖霊が聖書のテキストを通して行う言語行為の結果、何が起こるのでしょうか。スタンリー・グレンツStanley J. Grenzとジョン・フランケJohn R. Frankeは、聖書テキストを通した聖霊の発話媒介行為(発話を行うことによって達成されること)は、神がテキストによって意図している終末論的世界を創り出すことであると言います。ちょうど神がはじめにことばを発することによって世界を創造されたように、現在も神は聖書を通して語る聖霊によって、神の「ことば」なるキリストを中心とした世界を創造しておられるというのです。これは前回扱った、ナラティヴによる世界の創出ということとつながってきます。聖霊が聖書の救済史ナラティヴを通して語る時、そこにキリストを中心とする新しい世界が生まれ、キリストをかしらとする神の民としての教会が生まれていきます。

私たちが教会の一員として聖書を読むということは、聖書のテキストを通して語りかける御霊に聴くことであり、それは単に正しい神学的知識を取得するということだけでなく、御霊によって人格が作り変えられ、キリストを中心とする終末論的な世界に引き入れられていくということなのです。

思わぬ長さになってしまったこのシリーズも、今回でとりあえず最終回としたいと思います。かつてリチャード・ヘイズはパウロの解釈学を形容するのに「自由freedom」という言葉を使いました。パウロは旧約テクストの「オリジナルな意味」に縛られることなく、御霊による自由の中で聖書を解釈したというのです。これはもちろん何の制約も受けない恣意的な解釈ということではなく、キリストにおける神のわざによって聖書に与えられた新しい統一的ナラティヴに照らして聖書を読むことができるようになったということです。そしてそのような解釈はまた、聖書を通して語られる聖霊の声の微妙なニュアンスに、教会共同体として耳を傾けることによってなされていきました。新約聖書はそのようなダイナミックな聖書との関わりを証ししています。21世紀に生きる私たちも、使徒たちのこのような柔軟で自由な聖書観に学ぶべきではないでしょうか。

使徒たちは聖書をどう読んだか(13)

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前回は教会共同体というコンテクストで聖書を読むことによって、個人による聖書解釈の限界を補っていくことができるということを述べました。しかし、教会で聖書を読むことはもっと積極的な意義もあります。それは私たちが何者であり、どのように生きるべきかについての指針を与えてくれるということです。つまり、私たちは教会共同体において聖書が正しく読めると同時に、聖書は教会にアイデンティティを与え、それぞれの時代と文化において神の民を形成していくという循環的な関係があるのです。

聖書を救済史ナラティヴの枠組みを通して読むことの重要性は既に指摘しましたが、ナラティヴと私たちのアイデンティティとは密接な関係があります。私たちがアイデンティティ(自分が何者であるのかの理解)を持つためには、私たちがこれまでたどってきた人生の記憶というものが重要な役割を果たします。記憶を喪失した人にはアイデンティティがありません。私たちにアイデンティティを与えるのは、自分の人生の物語(ナラティヴ)なのです。

同様に、共同体のアイデンティティも、その構成員が共有するナラティヴによって形成されます。部族の長老が物語る昔話や国家における建国神話などはそのような機能を持っているといえるでしょう。このようなナラティヴは単なる過去の記録ではなく、そのナラティヴを共有する人々が生きる象徴世界を創り出します。共同体のメンバーは自分たちのルーツに関するナラティヴを繰り返し聞き、それを自分の物語にすることによって、そのナラティヴが創り出す象徴世界の住人となり、共同体の成員としてのアイデンティティを形成していくのです。

初代教会のクリスチャンたちは、自分たちが旧約聖書における神の民イスラエルの正当な後継者であると考えていました。使徒たちは聖書を単なる神学の資料集や過去の事件の記録として扱ったのではありません。そうではなく、彼らは旧約聖書を自分たちのルーツを物語るナラティヴとして読んだのです。さらに、旧約聖書のイスラエルの物語に、イエス・キリストという新しい章が付け加えられた時、新しく補完されたナラティヴの全体は、新しく拡張された神の民のアイデンティティを提供するようになりました

アイデンティティの問題は異邦人クリスチャンにとって特に切実でした。ユダヤ教とまったく関係のない過去を歩んできた異邦人たちは、どのようにして自分たちがイスラエルの神の民であると理解できたのでしょうか?それは、神の民のナラティヴに、イエス・キリストという決定的な要素が加わったことによって可能になったのです。キリストを主と告白し、キリストとつながることによって、異邦人もキリストを中心として形成される終末的な神の民の中に組み入れられることができます。そしてこのキリストはイスラエルの物語のクライマックス(アブラハムへの約束を成就する存在)として来られたので、異邦人もまた、イスラエルの過去(アブラハム)と未来(相続の約束)を共有する者とされたのです。

あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。(ガラテヤ3章26-29節)

つまり、新約時代のクリスチャンたちが旧約聖書をイエス・キリストのレンズを通して読んだ時、それは単に正しい神学的な情報を学んだと言うことだけではなく、旧約聖書のナラティヴが創出する象徴世界に生きる共同体、すなわち終わりの時代における「まことのイスラエル」になった、ということなのです。

それでは、現代の私たちはどのように聖書を読んでいくべきでしょうか。使徒たちと同様に、私たちがとるべき正しい聖書の読み方は、聖書の救済史的ナラティヴが創り出す象徴世界の中に生きる共同体として読んでいくことです。

私たち一人ひとりもそれぞれのアイデンティティを形成する個人史のナラティヴを持っています。しかし私たちがキリストと出会い、キリストを主と告白し、同じ信仰を共有する人々の共同体に組み入れられる時、私たち一人ひとりのナラティヴも、救済史における神の民のナラティヴに組み入れられていきます。言い換えれば私たちは聖霊が聖書テキストを通してキリストにあって創り出す新しい象徴世界の中に入れられるのです。

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(2コリント5章17節)

この節の前半のギリシア語は、「だれでもキリストにあるならば、新しい創造がある」と訳すほうが良いように思います。パウロはここで、キリストにある個々の人間が新しい被造物となる、と言っているのではなく、キリストにあって世界全体が新しくされている、と言っているのです。

そしてこのナラティヴは、過去の出来事を通して私たちの起源を説明するだけではなく、私たちが向かって進むべき終末のビジョンをも提供するものです。ですから、私たちが現代において聖書に従って生きるとは、イスラエルからイエス、そして初代教会に至る救済の物語にルーツを置きつつ、神が形作ろうと望まれる終末的共同体のビジョンを現在において体現していくことにほかならないのです。

(続く)

 

 

 

 

 

 

 

使徒たちは聖書をどう読んだか(12)

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前回述べたソフト・ポストモダニズムのアプローチでは、聖書の解釈にはどうしてもある程度の幅が原理的に生じてきます。これに対して、第10回で提案した救済史的な視点を導入することによって、解釈の主観的暴走を防ぐことができると考えられます。

今回はそれに加えて、もう一つの重要な枠組みについて考えてみたいと思います。それは教会共同体として聖書を読むという視点です。

前にも書きましたように、歴史的・文法的方法によると、少なくとも理論的には、適切な方法を用いて聖書を解釈すれば、誰が読んでも同じ結論に達することになります。モダニズムの立場では、普遍的人間理性に従っていく限り、誰でも唯一の真理に到達することができるはずだからです。聖書も同じように、基本的には誰が読んでも(信仰者であるなしにかかわらず)、同じ「意味」を見いだすことができるはずだ、ということになります。

このような聖書の読み方は本質的に個人主義的なものです。そこでは共同体における議論や対話は絶対的に必要なものではありません。理想的状況においては、個人が書斎に籠もって歴史的・文法的方法を駆使し、理性の光に導かれて聖書を読めば、誰でも同じ釈義的結論に達するはずだからです。もちろん、実際には歴史的・文法的方法を用いる場合でも、共同体や対話の有効性が語られていますが、それは原理的な要請ではないのです。

これに対して、ポストモダン的状況においては、個人の解釈は必然的に限界を持っているので、その精度を高めていくためには、他の人々との対話が必須条件になってきます。したがって、真に有効な聖書解釈は共同体というコンテクストにおいてのみ可能になると言えます。

この場合、共同体なら何でも良いというわけではありません。個人の視点が特定の歴史的状況によって制約されているのと同様に、共同体も具体的な歴史的・文化的状況と離れては存在しえないからです。ナザレのイエスをメシア(キリスト)と信じていた初代教会の旧約聖書解釈と、そのような神学的前提を共有していなかった同時代のユダヤ教のそれとが異なっていたことを思い起こしましょう(シリーズ第5回参照)。聖書を正しく読むためにはイエス・キリストというレンズを通して読むことが必要だったように、聖書解釈はイエスをキリストと告白する共同体、すなわち教会という共同体のコンテクストでのみ、適切に行っていくことができるのです。

このことは言い換えれば、「聖書は誰が読んでも同じ結論に達する」「聖書は他の書物と同じように解釈することができる」というモダニズム的解釈の前提が成り立たないことを意味します。つまり、聖書は教会(神の民)に対して啓示された神のことばとして読まなくてはならない、ということです。

話は少し逸れますが、このような考えに基づいて、近年アカデミックな聖書学でも、「神学的聖書解釈Theological Interpretation of Scripture」という潮流が脚光を浴びてきています。その代表的な論客の一人に、米国トリニティ神学校のケヴィン・ヴァンフーザーKevin J. Vanhoozerがいます。神学的聖書解釈は解釈者の持つ神学的前提を前面に押し出したものですが、このような流れが米国聖書学会Society of Biblical Literature のようなアカデミックな団体においても認知されてきている状況は、ポストモダン的な時代背景を非常に良く反映しています。また、神学的聖書解釈の立場に基づいた聖書注解のシリーズや学術雑誌なども出版されるようになってきています。

さて、共同体に話を戻しますと、私たちが「教会共同体のコンテクストで聖書を読む」と言う時、その「教会共同体」はいろいろなレベルで考えることができます。「教会」というと、個別の地域教会を思い浮かべることが多いかもしれませんが、唯一のキリストのからだとしての普遍的教会(使徒信条で言うところの「聖なる公同の教会」)に属する意識を持って聖書を読むことも非常に大切なことです。そのためには自分の属する教派や伝統以外の人々の聖書解釈に耳を傾け、対話をしていくことが必要です。同時に、キリストのからだは空間的にだけでなく時間的にも広がっていますので、過去の信仰者たちの聖書解釈から学ぶことも有益です。上で述べた神学的聖書解釈においては、過去(特に近代以前)の聖書解釈も新たに注目を集めています。

同時に、実際の聖書解釈は個別の地域教会という場においてなされていくことを忘れてはなりません。具体的な歴史的状況から遊離した純粋に普遍的な教会というものはこの地上に実在しません。私たちの属する教会は必ず特定の時代と場所に存在し、特定の教会的伝統にルーツを持ち、特定の人々から構成されるユニークな存在です。個々の教会が置かれている具体的な状況によって、同じ聖書テキストの解釈であっても、微妙な幅が出てくるかもしれません。

要するに、教会共同体として聖書を読む時には、ローカルとグローバルの両方の視点を持って読んでいく必要があります。一方では、普遍的な教会における多様な聖書解釈から学ぶことによって無制約な解釈の暴走をとどめ、他方では現実の具体的な状況の中で聖書が語りかける声の微妙なニュアンスに耳を傾けていくことにより、聖書のことばがより活き活きと私たちの生活の中で働き始めると思われます。そして私たちは自分の解釈は誤りうるという可能性を常に心に留め、所属する教会の内(ローカル)と外(グローバル)にいる人々と絶えず対話を行うことにより、より良い聖書解釈を追求していく必要があります。

現代の私たちは特定の信仰共同体に属さなくても、個人で簡単に聖書を所有して読み、また解釈することができます。それは良い面もあると同時に、非常に個人主義的な狭い聖書解釈に陥っていく危険性があります。しかし新約時代のクリスチャンたちは現代の私たちよりもはるかに共同体的な意識を持って聖書を読んでいたと考えられます。使徒たちが一見かなり自由奔放な釈義を行いつつ、非常にバランスの取れた聖書理解を持っていた理由には、救済史的な視点を持っていたことと同時に、イエス・キリストを主と告白する信仰共同体として聖書を読んでいたことがあると思います。

(続く)

 

使徒たちは聖書をどう読んだか(11)

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前回の投稿では、歴史的・文法的方法を超えた聖書解釈が無制約な恣意的解釈に陥らないための歯止めの一つとして、「救済史」の考え方をはじめとする、いくつかの神学的枠組みについて書きました。

しかし、そのような枠組みを設定したとしても、使徒たちの解釈法に倣っていこうとする時に、そこから出てくる解釈はそれでもなお一意的に定まるものではなく、ある程度の幅、多義性が生まれてきます。これについてはどう考えたら良いのでしょうか?

私は個人的には、このようなある程度の解釈の多様性を恐れる必要はないと考えています。使徒たちの解釈学は厳密な科学というよりは、むしろアートと呼べる側面があります。

この表現は誤解を招く可能性がありますので、少し丁寧に説明したいと思いますが、この問題を考える際には、ポストモダニズムについて理解する必要があります。17世紀後半からヨーロッパで興ってきた啓蒙主義は、人間理性に全幅の信頼を置き、理性の光の下で真理を探究していこうとしました。これがモダニズム(近代主義)の考え方です。モダニズムにおいては、正しい認識方法を用いることによって、客観的な真理に到達できると考えられていました。そして、このシリーズの第2回で見たような、聖書解釈における歴史的・文法的方法も、まさにこのようなモダニズムの考え方の上に立っているのです。

20世紀の後半から、このようなモダニズムの考え方に対して様々な異議申し立てがなされるようになってきました。それがポストモダニズムです。「ポストモダン」というのは「モダンの後」という意味です。ポストモダニズムにはいろいろな流れがあり、一般化することは難しいのですが、共通しているのは、上で見たようなモダニズムの認識論的前提がもはや受け入れられなくなっているということです。ポストモダニズムの中には、客観的な真理の存在を否定する極端な立場もあります(これは時に「ハードなポストモダニズム」と呼ばれます)。聖書解釈においては、これはテキストには唯一の客観的な意味などない、各読者がクリエイティヴに意味を生み出していけばよい、という立場(「読み手応答批評reader-response criticism」と呼ばれます)になります。これは聖書を神のことばとするキリスト者としては当然受け入れられません。

しかし、これとは別に「ソフトなポストモダニズム」と呼ばれる立場もあります。それは、客観的な真理を前提としながらも、私たちの視点は各人の置かれている歴史的立場によって必然的に限定されているため、たゆまぬ努力とお互いの対話によってそこに近づいていくことはできるが、絶対確実な知識に到達することはできない、というものです。これは実は「鏡を通して見る」の投稿で述べた考え方に他なりませんが、そこで示したように、このような見方は聖書的なものと言うことができます。

つまり、これまで述べてきた内容(歴史的・文法的方法を包含しつつも、それにとらわれない聖書解釈の追求)は、基本的にソフトなポストモダニズムの立場に立つ聖書解釈のアプローチと言えます。個人的には、このアプローチはモダニズムやハードなポストモダニズムのそれよりも優れていると思います。

誤解を恐れずに言うならば、聖書解釈の方法論を歴史的・文法的方法に限定しようとする態度は、「絶対確実な認識論」というモダニズムの幻想にもとづいているのではないかと考えられます。福音主義の釈義は「確実性」というモダニズムの強迫観念から解放される必要があると思います。それは決して客観的真理を否定するということではなく、むしろ私たちが自分たちの限界を認識し、やがて真理に完全に到達できる終末論的希望を抱きつつ、解釈学的謙遜をもって聖書に聴き続けていく姿勢であると考えています。

さて、このようなソフト・ポストモダニズム的な聖書解釈を行おうとする時に、欠かすことのできない視点があります。次回はそれについて書いてみようと思います。

(続く)

※明日から仕事が忙しくなるため、更新が遅れる可能性があります。ご了承ください。

使徒たちは聖書をどう読んだか(10)

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前回は、聖書の学問的な読み方とディヴォーション的な読み方を統合していく読み方を模索すべきではないか、というところまでお話ししました。新約時代の使徒たちは、現代の福音派のように釈義(聖書が意味したこと)と適用(聖書が意味すること)を必ずしも明確に区別してはおらず、もっと直接的に自分たちに語られる神のことばとして読んでいました。そして、現代の私たちもそのような読み方に倣うことができるのではないか(あるいはすでにそうしている人々が多い)、ということでした。

この主張に対して、そのような聖書の読み方は、ありとあらゆる主観的で恣意的な解釈を許容し、解釈学的無政府状態をもたらすのではないか、と危惧する声が聞こえてきそうです。

しかし、必ずしもそうではありません。使徒たちの聖書解釈も決してランダムな主観的解釈ではありませんでした。彼らの聖書解釈は、ある共通した神学的理解の枠がはめられていたと考えることができます。その枠組みには、次のような一群の確信が含まれています:

  • 聖書の全体は神による人類救済を描いた首尾一貫した物語(ナラティヴ)であるという救済史的確信
  • 旧約聖書のナラティヴの全体は来るべきキリストを指し示しているというキリスト論的(キリスト目的的)確信
  • その旧約聖書の約束が、ナザレのイエスを通してすでに成就し、神の救済のドラマは最終的な神の国の完成に向かって最終段階に入ったという終末論的確信
  • このキリストを信じる者たちは終末を生きる神の民としての教会共同体に属し、聖霊の力を受け、教会を通して神と人とに仕える存在となったという教会論的・聖霊論的確信

このような全体的な枠組みを通して、聖霊に導かれ、教会という共同体の中で、使徒たちは旧約聖書を読んでいったのです。現代の教会もこれに倣うべきであると私は考えます。もちろん、現代の私たちの解釈は使徒たちのそれと同等の権威を持っているわけではなく、誤ることもありえます。しかし、上記のような枠組みを意識することで、解釈の暴走をかなりの程度防ぐことができると思われるのです。実際、健全な福音的教会形成のためには、人々に上記のような神学的枠組みを教え、教会の共同体的コンテクストの中で聖書を読む習慣を身につけさせることの方が、歴史的・文法的釈義の訓練(これも有益ですが)を行うよりもはるかに重要だと私は考えています。

上の神学的枠組みのうち、キリスト論的な枠組みについては既に述べましたが、ここではもうひとつの重要なポイントである救済史的枠組みについて述べていきます。実際、上のリストのうち、最初の救済史的確信は、その他の要素をすべて貫く縦糸のような最重要の要素とも言えるかもしれません。使徒たちは唯一の神による万物の創造、人類の堕落、イスラエル、イエス・キリスト、教会、そして終末における万物の再創造(更新)といった、歴史に対して神が持っておられるご計画の全体像と、今自分たちがその中でどのような時代に生き、どのような結末に向かって進んでいるのかということをしっかりと把握した上で、彼らは聖書を読んでいたと思われます。これはまさに現代の私たちも取るべき解釈学的態度にほかなりません。

このような救済史的な聖書解釈のアプローチは多くの人々によって採用されていますが、おそらく最も有名なのは近年日本でも名を知られるようになってきたN・T・ライトのものではないかと思います。彼は聖書全体のナラティヴ(物語)を五幕ものの未完の劇にたとえています。最初の四幕は1. 創造、2. 堕落、3. イスラエル、4. イエス・キリストであり、劇の脚本(聖書)は、ここまでの部分と、最終幕の最初の部分(初代教会)だけが完成しており、あとは結末(終末)のラフスケッチのみが残されている、と考えます。

さて、ライトによると現代の私たちはこの初代教会と終末の間の部分を演じる役者として舞台に立っています。ところが私たちの演じるべき部分の脚本は未完であるため、私たちはこれまでの劇のストーリー展開とその終わり方を熟知した上で、今の場面にふさわしい演技を即興improvisationで演じていかなければならない、と言います。従って、即興とは(ジャズの即興演奏がそうであるように)あらかじめどのように行うかは一通りに決められているわけではありませんが、だからといって単なるでたらめではありません。ライトは、現代の私たちはこのようにして聖書を読み適用すべきだ、というのです。

これまでこのシリーズで論じてきた内容に即して言うと、私たちが新約聖書における使徒たちの聖書解釈に倣うということは、最終幕の第一場(初代教会)を演じた先輩役者たちがどのように最初の四幕の内容に基いて即興演技を行ったかを学ぶということにほかなりません。しかし、ここでもまた、私たちは使徒たちの台詞や小道具(たとえばユダヤ的解釈法など)をそのままコピーするのではなく、現代にふさわしいやり方で、この劇を進行させていく必要があるのです。

使徒行伝20章で、エルサレムに向かおうとするパウロは、途中のミレトにおいてエペソ教会の長老たちを呼び寄せ、彼らに最後のメッセージを伝えますが、その中で彼は、エペソで行った3年間の奉仕を通して、彼は人々に「神のご計画の全体」をあますところなく伝えたと言いました(25節、新改訳)。「神のご計画の全体」とは何でしょうか?前後の文脈からすると、その内容は福音(24節)と同義であり、罪の悔い改めとイエスに対する信仰(21節)を含んでいますが、それにとどまらず、より広い神の国のメッセージ(25節)を意味していると思われます。

パウロが神のご計画の全体を伝えたという時、3年もの間来る日も来る日も「主イエスを信ずれば罪が赦されて永遠のいのちが与えられる」というメッセージを繰り返していたわけではないと思います。そうではなく、彼は聖書の全体から、人類の歴史における神のご計画の展開について教え、エペソのクリスチャンたちがその中で今どのような段階に生きており、やがて来る終末への希望を持ちつつどのように生きていくべきかを詳しく語り聞かせていたに違いないのです。パウロの手紙における旧約聖書の重要性からして、彼が創設した諸教会では、異邦人出身のクリスチャンであっても、旧約聖書の内容をしっかりと身につけるように指導がなされていたはずです。そして、そのような神の物語をエペソ人たちが自分たちの物語として血肉化するまでには、3年の年月が必要だったのかもしれません。

現代の私たちも、時間をかけて「神のご計画の全体」と、その中での自分たちの立ち位置を体得することによってのみ、聖書は正しく読むことができるようになるのだと思います。

(続く)