復活のキリストにはなぜ傷痕があるのか

現在グレッグ・ボイドのBenefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介記事を連載していますが、そこでボイドは、十字架上のイエスにおいて啓示された神の姿は、旧約聖書で啓示された神の姿よりも優先するものであり、同時にそれらを解釈するためのレンズであると論じています(第18回第19回)。それに関連してこの記事では、十字架に先行する旧約聖書に描かれている神のイメージだけでなく、その後に来る終末における神観も、十字架のレンズを通して見なければならないということを論じていきたいと思います。

19  その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 20  そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。 (中略) 25  ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。 26  八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 27  それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。(ヨハネ20章19-27節)

新約聖書に収められている復活顕現記事の中で、ヨハネの福音書だけが、よみがえったイエスのからだに十字架の傷痕が残っていることを記しています。

The_Incredulity_of_Saint_Thomas_by_Caravaggioカラヴァッジョ「聖トマスの懐疑」

ヨハネの黙示録では、復活のキリストが「小羊」として繰り返し登場しますが、このキリストは「ほふられたと見える」小羊として描かれています。

わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。(黙示録5章6節)

なぜこの小羊がヨハネにはほふられたと見えたのでしょうか?おそらくこの小羊にはほふらられた時につけられた傷痕が残っていたのかもしれません。

Retable_de_l'Agneau_mystique_(10)ファン・エイク兄弟「神秘の子羊の礼拝」

有名な讃美歌Crown Him with Many Crowns(聖歌179番「おおくのかむり」)の歌詞にも、次のような一節があります。

Crown Him the Lord of love, behold His hands and side,
Those wounds, yet visible above, in beauty glorified.

愛の主に冠をささげよ。彼の手とわきを見よ。
これらの傷は今でも天上で、栄光に輝く麗しさの中で見ることができる。

十字架にかかって死なれたイエスは、三日後に肉体をもってよみがえりました。新約聖書によると、復活したイエスのからだは、霊ではなく物質的な肉体であり、しかも通常の人間の肉体とは異なる性質を持ったものでした。しかし、そのような栄光のからだをもって復活したキリストには、十字架の傷跡が残っていた―この非常に印象的なイメージは、十字架と復活の関係をみごとに表していると思います。一言でいえば、復活は十字架の否定ではなく肯定であり、十字架を通してでなければ理解できないということです。

近年、聖書やキリスト教信仰における復活の重要性が主張されてきています。これまでの「十字架偏重」の神学を見直し、復活の重要性を再評価しなければならない、というのです。私はそのような動きは心から歓迎しますし、確かに復活の教理は大いに強調されなければならないと思っています。しかし、問題はその強調すべき復活をどのように理解するかということです。それは一歩間違えると十字架の中心性を否定するような形の安易な勝利主義的神学に導かれれるおそれがあるのではないかと、私は危惧しています。

歴史における神の救済のドラマは、イエスの十字架によって完結したわけではもちろんありません。三日後にイエスは復活し、それは世の終わりのすべての死者の復活と新天新地の到来に導いていくものでした。ですから、確かに十字架のみを強調する神学は不完全のそしりを免れません。しかし、ここで注意しなければならないのは、十字架は終末にいたる神の物語の単なる通過点ではないということです。それどころか、十字架のできごとは、それ以後の救済史の展開を理解する上でも決定的に重要な鍵を提供しているのです。

たとえば、新約聖書が終末に再臨するイエスをどのように描いているか、それを私たちがどのように解釈すべきかを考えてみましょう。特にヨハネの黙示録は、キリストを悪を滅ぼす戦士として、怒りと裁きの神として描いています(19章11-16節)。多くの人々はこのイメージを文字通り受け取り、再臨のキリストを通して啓示される神の本質は怒りと裁きの神であると考えています。しかし、このような解釈は、黙示録自体においてキリストは同時に一貫して「ほふられた小羊」として描かれていることとも、福音書等でイエスが自己犠牲的な愛の神として啓示されていることとも矛盾します。ですから、私たちは黙示録における暴力的なイエスの描写を文字通り解釈するのではなく、ヨハネが黙示文学における戦う神の伝統的表象を逆用していると考えなければならないのです(このことについては、「黙示録における『福音』」のシリーズを参照してください)。しかし、その時私たちは、黙示録にある戦士としてのイエスのイメージを、十字架につけられた愛のイエスの姿をレンズとして見ていることになります。つまり、十字架上のイエスにおいて啓示された神の姿は、それに先行する旧約聖書の神啓示に優先するだけでなく、それ以後の新約聖書におけるその他の神啓示にも優先するということになります。その意味で、十字架は文字通り全聖書の中心であり、解釈学的転回点なのです。

聖書の終末論のポイントは神の国、つまり神の王なる支配が天だけでなく地にも到来し、すべてをおおいつくす、ということです。復活も新天新地もすべてはこの観点から見ていく必要があります。しかし、問題は、それがどのような種類の支配で、どのように行使されるのか、ということです。十字架が全聖書の中心であるというのは、この終末における神の王的支配もまた、十字架のレンズを通して理解しなければならないことを示しています。つまりそれは黙示録の「バビロン=ローマ」に象徴されているような、力による上からの支配ではなく、十字架のイエスが身をもって示されたような、自己犠牲的な愛によって他者に仕える(マルコ10:42-45、ルカ22:24-30)、そういう「支配」なのです。(この点については、「御国を来たらせたまえ(補)」をお読みください)。そういう意味で、新約聖書の終末論は「十字架形の終末論 cruciform eschatology」と言っても良いかも知れません。

終末における復活や神の国の完成を十字架のレンズを通して見るか見ないかということは、クリスチャン信仰のありかたそのものを大きく左右する、決定的に重要なことであると思います。この点を見誤ってしまうと、復活は単なる「十字架の死や弱さという否定的な効果のキャンセル」という理解になってしまいます。そうすると、死からよみがえったイエスは「本来そうであった」力と栄光に満ちた神として、敵対する者に復讐するために地上に戻ってくる存在として理解されることになります。つまり、このような勝利主義的な理解においては、復活は十字架において示された愛なる神の本質を否定あるいは少なくとも限定するものとしてとらえられてしまいます。しかし復活は十字架の否定でも限定でもありません。復活は十字架を通して啓示された愛なる神の本質を確証する、神の「しかり」なのです。復活のイエスが十字架の傷跡を持ち続けておられるのは、そのことを意味しているのだと思います。

聖書解釈や神学において、イエス・キリストを中心に考える「キリスト中心的 Christocentric」アプローチが語られることがあります。それは確かに重要な考え方であると思いますが、そこで中心に置かれる「キリスト」がどのようにイメージされるか―十字架上の愛のイエスか、それとも力に満ちた裁きの神としての勝利主義的イエスか―によって、その内容は大きく変わってきます。ですから、私は自分の神学を表現する時には「キリスト中心的」という表現より、「十字架中心的 crucicentric」という表現を用いたいと思っています。パウロが「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(1コリント2章2節)と語っている通りです。

十字架は復活がなければ完結しません。けれども同時に、復活は十字架の光に照らしてはじめて本当に理解できます。復活のイエスのからだに残された十字架の傷跡は、そのことを私たちにいつも思い起こさせてくれるのだと思います。

確かさという名の偶像(19)

(シリーズ過去記事 第1部          10 第2部 11 12 13 14 15 第3部 16 17 18

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回も前回に引き続き、第9章「聖書の中心」を取り上げます。

暴力的な神の描写

前回見たように、ボイドは聖書の中心はイエス・キリストであり、十字架上のイエスを通して啓示された神観は、それに先行するすべての啓示に優先し、それらは十字架のイエスというレンズを通して解釈されるべきだ、と主張します。このことが具体的に問題となるのは、旧約聖書に描かれている暴力的な神の姿をどのように解釈したらよいのか、という難問を考える時です。たとえば神がモーセを通してイスラエルに、カナンの先住民の「聖絶」を命じているような箇所です(申命記7章1-2節)。これらの描写は、イエスにおいて啓示された愛の神とは矛盾するように思えます。

bone-664596_1920

ボイドは旧約聖書も霊感された神のことばであると信じていますので、これらの箇所をただ排除することはしません。また、しばしば弁証論的な文脈で論じられるように、これらの箇所で描写されているできごとは本当はそれほどひどいものではなかったという解釈も取りません。また、巧妙な釈義によって「旧約記者たちが意図したのはそのような暴力的な意味ではなかったのだ」と論じることもしません。そうではなく、ボイドはこれらの暴力的な記述を十字架のレンズを通して解釈する時に、旧約記者たちが意図したオリジナルの意味を超えて、さらに深い意味を読み取っていかなければならないと主張します。そしてボイドは、これらの暴力的な記述が十字架のキリストとただ両立可能だということを示すだけでは不十分だといいます。旧約聖書が霊感された神のことばであり、(前回見たように)聖書霊感の目的がキリストを指し示すことにあるとすれば、これらの暴力的な神の描写がどのようにしてキリストを指し示すことができるのか、を考えなければならないというのです。

ボイドのアプローチは基本的に次のようなものです。彼はこの問題は、キリストが私たちのために罪となり(2コリント5章21節)、のろいとなられた(ガラテヤ3章13節)ことによって、実際には罪のないお方であったにもかかわらず、罪人の姿を取られたことと同様であるといいます:

十字架によって神が本当はどのようなお方であるかが示されたという意識をもって聖書の暴力的描写を読むとき、私たちは神が暴力的に描かれている際その舞台裏で何が起こっているかを認識し始める、と私は主張する。要するに、神は身をかがめて、ある意味で、ご自身が働きかけておられる心のかたくなな民の罪とのろいになられたということだ。それによって神は、実際にはそのようなお方ではないにもかかわらず、暴力を行い、命じる者の姿を取られたのである。(p. 190)

つまり、神が旧約聖書に暴力的に描かれているのは、神の本質が暴力的であることを示しているのではなく、あえて身を低くして民の暴力的な罪深い性質を反映するような(神ご自身の本質とは相容れない)姿で彼らに現れたのだ、というのです。そしてこのようなイスラエルの神の姿は、やがてカルバリーの丘で罪人として処刑されるイエスの姿をはるかに指し示しているのです。

ボイドは、旧約聖書における暴力的な神の描写を私たちがどのように解釈するにせよ、最も大切なことは、十字架上のキリストに表されている、非暴力的な愛の神の姿が神の本当の姿であることに信頼を置くことだ、といいます。さもないと、イエスが表しているのは本当の神の一部に過ぎず、十字架の背後には無慈悲で暴力的な神のもう一つの顔が隠されているということになってしまうからです。

lithuania-682664_1280

旧約聖書における暴力的な神の描写を、十字架でいのちを捨てた愛の神イエスを信じる者としてどのように扱ったらよいのか?というのは古来クリスチャンを悩ませてきた問題です。そしてこれはリチャード・ドーキンスなどの無神論者がキリスト教を批判する際にとりあげる定番の主題でもあります。この問題については、大きく分けて二つの対応があるように思います。

一つは、旧約聖書に描かれている神はキリスト教の神とは相容れないものだとして排除する立場です。これは2世紀のマルキオン以来現代にいたるまで根強くある考え方で、この立場の人々は旧約聖書自体をキリスト教には不要なものとして排除することもあります。「旧約聖書の神は怒りと裁きの神であるが、新約聖書の神は愛とゆるしの神である」などと言われることもあります。けれども、このような立場は、新約聖書が旧約聖書との連続性をはっきりと強調している点、イエスや使徒たちが旧約聖書に啓示されているイスラエルの神を唯一のまことの神としていたという点からして説得力を持ちません。

おそらく今日のキリスト教会で広く受け入れられているのは、「神は確かに愛の神であるけれども、同時に聖い神、義なる神、罪を裁かれる神でもある。そしてそのような神の姿は旧約聖書の一見暴力的な描写に表されている。聖書にはどちらの側面も書かれているので、私たちはこの両面を受け入れなければならない。」という立場です。これは確かに、聖書に含まれているさまざまな神の描写をすべて同じ重要性を持つものとして受け入れるなら、必然的に導かれる結論です。しかし、このような立場は前回見たような問題を含んでいます。それは聖書のすべての部分が同じ重要性を持つという、平板で機械的な聖書観に基づいているだけでなく、このような立場から導かれる神観は互いに対立するイメージの混合体となり、実際に人がこの神といのちにあふれる人格的関係を持つことを困難にします。

さらにこの立場にはもう一つの大きな難点があります。もし聖書に描かれた神の本質が愛の神であると同時に暴力的な裁きの神でもあるなら、現在でも神はその両面を持っているはずです。だとすると、今日でも神は「聖絶」を命じられる可能性はあるのでしょうか?これは世界各地で宗教テロが多発する今日、非常に切実な問題であると思います。どのような宗教であれ、その聖典に記された神の描写が暴力的なものであるなら、それが神の本質にかかわるものかどうかによって、その神を信じる者の生き方は大きく左右されてくるはずだからです。

今回ご紹介したボイドのアプローチにすべての人が同意するわけではないと思いますが、上で述べた二つの立場の中間を行く「第三の道」の一つとして興味深い提案ではないかと思います。この問題は非常に難しく、私も個人的に結論が出ているわけではありませんが、ボイドの議論からはいろいろなことを学び、考えさせられています。ちなみに、今回取り上げた問題について、ボイドは近く刊行予定の大著The Crucifixion of the Warrior God(『十字架につけられた闘いの神』)でさらに詳しく論じているとのことです。

ところで、聖書における暴力的な神描写は旧約聖書だけの問題ではありません。新約聖書でも、ヨハネの黙示録などでは、再臨のイエスが一見非常に暴力的な裁きの神として描かれています。このことは、これまで見てきたボイドの議論を無にしてしまうのでしょうか?そうではありません。この点については稿を改めて論じたいと思います。

(続く)

確かさという名の偶像(18)

(シリーズ過去記事 第1部          10 第2部 11 12 13 14 15 第3部 16 17

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第9章「聖書の中心」を取り上げます。

前の章でボイドは、キリスト教信仰の中心はイエス・キリストであることを論じました。しかし彼は、十字架上のイエス・キリストに表されているような自己犠牲的な愛の神と、聖書の他の部分に描かれている暴力的な神のイメージとの間に否定しがたい緊張関係があることを意識するようになりました。たとえば、旧約聖書にはイスラエルが入っていこうとする地に住むカナン人たちを滅ぼしつくすようにと神が命じておられる箇所もあります。申命記7章2節では「彼らに何のあわれみをも示してはならない」とさえ書かれています。このような箇所をどう考えたら良いのでしょうか?

同時にボイドは、自分が持っていた神のイメージは部分的にしかキリストに似ていないことに気づきました。その理由は、彼は聖書に描かれているさまざまな神のイメージがすべて同程度に権威あるものだと考えていたところにありました。その結果、彼の持つ神観は、多くのしばしば互いに矛盾するように見える神のイメージの混合体になっていったのです。それによって、彼はこの「神」から豊かないのちをいただいていくことに困難を覚えるようになっていったのです。

このような葛藤を経てボイドがたどり着いた結論は次のようなものでした:

聖書が完全に「神の息が吹き込まれた」ものであると告白することは、聖書に含まれるすべての内容が同程度に権威があるということでも、すべての神の描写が同じ重みを持っているということでもない。実際、後で示すように、聖書自身がこのような考えを否定している。私は聖書には中心があると理解するようになったが、その中心とは、私が神学において見いだした中心と同じであり、私の信仰の知的土台を構成する中心と同じであり、私のいのちの源である中心と同じものだったのだ。一言で言えば、すべてはイエス・キリスト、そしてイエス・キリストのみを中心にして回っているということを見いだしたのである。(p. 251)

聖書の記述のすべてが同程度の権威を持っているわけではないというボイドの主張は、聖書がそもそもどのような種類の本であるか、という理解に基づいています。ボイドは聖書は料理本のように、すべての要素が同じような重要性を持っている本ではなく、小説のようなストーリーである、と言います。しかも、それは驚くような筋の展開を持っているストーリーなのです。

時々、小説や映画で、最後に驚くようなどんでん返しが起こり、その結末部分がそれまでの話のすべてをまったく新しい光の下で照らし出してみせるようなものがあります。ボイドは聖書とはまさにそのような本であると言います。聖書においては、そのどんでん返しはイエス・キリストにおいて起こったのです。ボイドは言います:

全旧約聖書はメシアであるイエスに導き、彼において成就される。しかし、イエスがそれを成就する独特なやりかたは、すべてを新しい枠組みの中でとらえ直すのである。ほとんど誰もそのようなことが起こるとは予測していなかった。実際、イスラエルを取り扱う神の物語を完成するイエスのやりかたはあまりにも意外なものだったので、メシアを探し求めていた人々のほとんどは、彼がいざ到来すると彼を受け入れることができなかったのである。(p. 251)

たとえば、紀元1世紀のユダヤ人の多くが待ち望んでいたメシアは、ローマ人のような異邦人の支配を打ち破って、地上的な王国を樹立する軍事的指導者であると考えていました。これはたとえばヨシュアやダビデといった旧約聖書の指導者のイメージからすれば、決して理解できないことではありません。けれどもイエスは、そのような「旧約的期待」を裏切るかのように敵を愛することを教え、自らそれを実践して十字架にかかられました。

ボイドによると、このような「どんでん返し」が意味しているのは、私たちはイエスにおいて啓示された神の姿を、旧約聖書において描写されている神の描写と同列においてはならないということです。イエスにおける神の自己啓示は、それに先立つすべての啓示に優先するものであり、それを通して先行するすべての啓示を解釈すべきレンズなのです。

そしてボイドは特に、イエスの存在のすべてが集約された十字架というレンズを通して旧約聖書を読むべきことを主張します。イエスご自身、旧約聖書のすべてはご自分について書かれていると教えておられます(ルカ24章25-27節、ヨハネ5章39-47節)。

このような旧約聖書の解釈法は、現代の福音派の標準的聖書解釈法である歴史的・文法的アプローチからすると問題を含んでいます。なぜならこの解釈法では、正しい釈義とは「聖書記者が意図したオリジナルの意味」を抽出することにあるからです。しかし、ボイドは、新約聖書記者たちの関心事は、旧約記者の意図した意味よりもむしろ、それらのテキストがどのようにキリストを指し示すかにあったと言います。

それでは、「聖書が霊感された神のことばである」とはどういう意味なのでしょうか?ボイドは、聖書が「神の霊感を受けて書かれた」(2テモテ3章16節)目的はキリストを指し示すことにあるのであり、この目的を達成することに関して聖書はあやまることがない(無謬infallible)と主張します。つまりボイドによると、聖書は神が意図されたその目的に関して霊感を受けた完全な書物なのです。聖書がこの目的を達成している限り、個別のテキストにいかなる人間的な限界や不完全さや誤りが含まれていたとしても、それは聖書の霊感された神のことばとしての地位を揺るがすものではない、とボイドは考えています。聖書霊感に関するボイドの確信はイエスが神の御子であるという確信に根ざしており、後者は(第16回で見たように)聖書の無誤性にではなく史的イエスについての彼の確信に基いています。このような聖書理解に立つクリスチャンは、聖書に関するさまざまな「難問」によってキリストに対する信仰が揺るがされることはなくなるとボイドは言います。

*     *     *

ここに紹介したボイドの聖書理解は現代の保守的プロテスタント教会で広く受け入れられている聖書観に対して、非常に重要な問題提起をしています。歴史的・文法的聖書解釈法の限界については、このブログでも「使徒たちは聖書をどう読んだか」のシリーズで論じましたが、旧約聖書をイエス・キリストのレンズを通して読むという解釈法は、新約聖書の記者たちも行っている聖書的なアプローチです。

聖書の全体を一つの大きなストーリー(ナラティヴ)として読むアプローチは、近年日本の福音派の教会にも浸透してきていますが、その本当に意味するところはあまり理解されていないように思います。聖書をナラティヴとして読むということは、プロットが時間軸にそって進行していくにつれ、新たな発見や思わぬ展開が待ち受けていることを意味しています。そして、ナラティヴ全体の「意味」は、最終章にたどり着いて全体を振り返った時に初めて本当の意味で理解できるのです。なぜなら、各部分の意味はナラティヴ全体の文脈の中ではじめて正確に読み取ることができるからです。聖書の各部分がすべて同じ比重で重要性を持っているという、平板で機械的な霊感理解は、聖書を組織神学の素材として百科事典のように読むアプローチには有効ですが、このようなナラティヴとしての聖書理解にはなじまないと思います。つまり、私たちの聖書理解(霊感理解)は、私たちの聖書解釈のアプローチと切り離すことができないのです。

(続く)

 

確かさという名の偶像(16)

(シリーズ過去記事 第1部          10 第2部 11 12 13 14 15

benefit-of-the-doubt

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回から第3部「信仰の行使」に入ります。今回は第8章「強固な中心」です。第1部でボイドは「確実性追求型信仰」の問題点を指摘し、第2部では聖書的な信仰のあり方について論じました。第3部では、どのようにその信仰を実践していけばよいのか、具体的な提案がなされます。

この章でボイドは信仰を知的に基礎づけつつ、しかも柔軟に神学を構築していく方法について議論します。

本シリーズの第2回で、「トランプの家」的な信仰のモデルについて述べました。それは、信仰を構成する多くの要素が危ういバランスを保ちながら組み合わされた体系になっており、そのどれか一つでも真理性が疑問にさらされると、全体が崩壊してしまうような不安定な信仰のあり方です。ここでボイドは、その時にも軽く触れた聖書の理解について詳しく論じていきます。

多くの福音派の教会は聖書の「無誤性inerrancy」を標榜しています。これは聖書は誤りなき神のことばであって、信仰の規範としてだけではなく、科学や歴史の分野においても一切の誤りを含まないという立場です。聖書の無誤性がキリスト教信仰の不可欠な基盤であるという立場からすると、もし聖書に一箇所でも明白な誤りが見つかったとすると(それが科学や歴史に関するものであっても)、キリスト教信仰全体が重大な危機にさらされることになります。これはまさに「トランプの家」的な聖書観にほかなりません。

house-of-cards-763246_1280

したがって、この立場の人々は、全精力を傾けて、聖書のすべての記述があらゆる点から見て真理であることを証明しようと努めます。しかし、これはたいへんな難事業であることが分かります。聖書には互いに矛盾しているように見える記述(たとえば福音書間の相違など)や、現代の歴史学や自然科学の成果と矛盾するように見えるような記述(創造記事の文字通りの解釈など)などが数多くあります。それらの中には、比較的容易に説明できるものもありますが、非常に難しいものもあります。英語圏では、そのような「難解な」聖書箇所を説明する専門の参考図書などもあったりします(たとえばこれ)。

聖書の真理を生涯をかけて護ろうとするこれらの人々の動機は高邁なものであり、彼らの真剣な信仰は尊敬に値します。しかし、ボイドは彼のそのような聖書観はどこか根本的にずれているところがあるのではないかと考えました。彼が自分の神学を深めていくにつれて、彼はこの「トランプの家」が何度も崩壊する経験をしました。そのたびに彼は大変な努力を払ってその家を建てなおすのですが、さらに学びを続けていくと再びその家は崩れ去ってしまう・・・。こんな経験を何度も繰り返すうちに、彼はそもそもこのような「トランプの家」的な聖書理解自体が間違っているのではないかと考えるようになったと言います。

ボイドがたどり着いた結論は、クリスチャン信仰の最重要な中心は、私たちが信じる「何か」(つまり聖書のような「もの」)ではなく、イエス・キリストという人格である、ということでした。私たちにとって最も大切なことは、このお方といのちを与える人格的関係を持っていくことです。このことはボイドにとって、大きな発想の転換をもたらしました。

そしてボイドは、キリストとの人格的関係をもつためには、聖書が霊感された神のことばであることに頼る必要はないことに気づいたと言います:

福音派の人々が典型的にするように、聖書が霊感された神の言葉であると信じるからイエスを信じる、というのではなく、私はまずイエスを信じるので、聖書が霊感された神のことばであると信じるようになった。(p. 159)

ボイドのアプローチはこうです。彼はまずイエスを歴史上の人物として研究し、なぜこの人物の死と「復活」が、キリスト教という歴史的ムーブメントを生み出したのかを考えます。彼はそこから、新約聖書のイエスに関する主張が基本的に信頼できること、イエスが確かによみがえった神の子であり、神の決定的な自己啓示であることを確信するに至ります。もちろん、その過程で彼は福音書や書簡を資料として用いるわけですが、この段階では彼はそれらを「霊感された誤りのない書物」としてではなく、一般の歴史資料と同列に扱います。つまり、彼は純粋に歴史的なアプローチによって、イエスがキリストであることを受け入れるようになりました。ボイドはこの結果について100パーセントの確信を持っているわけではありませんが(歴史学という学問においてそれは不可能です)、イエス・キリストとの人格的関係にコミットして生きるに十分なだけの確信は得ることができたのです。

そしてボイドは様々な理由によって、聖書が霊感された神のことばであると信じていますが、それはイエスがキリストであるという信仰から導き出されてくるのであって、その逆ではないと言います。分かりやすく図示すると、福音派に典型的な信仰モデルでは、まず「霊感された誤りなき神のことば」という土台があって、その上に「イエスは神の決定的自己啓示である」という教理が乗っています。このことは、多くの組織神学の教科書がまず聖書論から始まることからも裏付けられます。

トランプの家的聖書観

ところが、ボイドの提唱する信仰モデルでは、まず「イエスは神の決定的自己啓示である」という土台があり、その上に「聖書は霊感された神のことばである」という教理が乗っているのです。

ボイドの聖書観

この二つのモデルは一見同じようなものに見えますが、実は大きな違いがあります。上のモデルでは、「霊感された誤りなき聖書」という「もの」が信仰の土台・中心になっているのに対して、下のモデルでは、イエス・キリストという「人格」が信仰の土台・中心になっています。さらに、上のモデルでは、聖書の無誤性という前提が何らかの形で脅かされてしまうと(たとえば特定の箇所の科学的・歴史的真実性が疑われるなど)、その上に乗っているキリストへの信仰までが揺るがされることになります。つまり、このモデルは「トランプの家」的な構造を持っているのです。これに対して、ボイドのモデルでは、イエス・キリストが神の決定的自己啓示であるという土台を支えるに十分なだけの史的信頼性が聖書によって保証されればそれで十分であって、たとえいくつかの箇所の史実性や科学的妥当性が疑われたとしても、それによってキリストへの信仰が揺らぐ心配はありません。つまり、ボイドが提唱する信仰モデルの方が、より柔軟で安定した構造を持っていると言えるのではないかと思います。

*     *     *

ボイドが提唱する聖書と信仰のモデルは、特に現代社会で生きるクリスチャンにとって大きな意義を持っていると思われます。価値観の多元化と情報化が進んだポストモダンの社会において、キリスト教信仰はかつてない挑戦を受けています。そのような中で、「トランプの家」的な信仰モデルは柔軟性に欠け、クリスチャンが自己の信仰を知的に吟味し、世界観を拡張し、成長していくニーズに対応する力が弱いと思われます。しかし、ボイドのモデルでは、イエス・キリストとの人格的関係に土台を置いていくために、様々な知的挑戦によって多少の疑いや不確実性が生じたとしても、このお方との関係にコミットし続けることは十分に可能となります。

それだけでなく、このような信仰モデルは聖書的なものであると思われます。イエスの弟子たちは、旧約聖書を権威ある神のことばと信じていましたが、旧約聖書の綿密な釈義によってイエスがキリストであるという確信に至ったわけではありません。その逆に、イエスとの生きた出会い(特に復活のできごと)を通してイエスがキリストであると確信するようになったからこそ、彼らは旧約聖書がイエスを指し示しているということが分かるようになったのです。つまり、使徒たちの聖書解釈はイエスとの人格的関係という土台の上に乗っていたのであって、その逆ではありません。(これについては、以前「使徒たちは聖書をどう読んだか」というシリーズで取り上げましたので、そちらをご覧ください)。

最後に、このモデルでは、聖書の無誤性を擁護することが至上命令ではなくなりますので、聖書記述のあらゆる細部の真実性を水も漏らさぬように弁証するために全精力を費やす必要から解放されます(この「戦い」は困難であるだけでなく、学問の進歩に伴い常に新しい挑戦が生じてくるので、終わることがありません)。信仰者がその分のエネルギーと情熱を、キリストとの生きた人格的関係を育むために注いでいくことができるとしたら、そちらのほうがはるかに好ましいのではないかと、個人的には考えています。

(続く)

 

 

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(6)

(シリーズ過去記事     

今回は第3部「イメージを反映させる」を概観したいと思います。この部分で著者ライトは、第2部で提示したようなキリスト教信仰の要点に基づいて、今日の私たちがクリスチャンとして生きるとはどういうことなのかについて語っていきます。

すでに見たように、第2部でライトはクリスチャンの世界観と、クリスチャンが語る物語(救済史)を提示しました。世界観はいわば舞台設定であり、救済史はその舞台上で展開していく神のドラマであると考えられます。しかし、聖書の物語は紀元1世紀の初代教会の物語で終わる、単なる過去の歴史物語ではありません。聖書の物語は今も継続中であり、私たちはその現在進行中の物語に参加するように招かれているのです。

つまり、現代の私たちがクリスチャンとして生きると言うことは、天と地が部分的に重なり合うダイナミックな世界観を持ち、その天地が最終的に合一する終末のビジョンを意識しつつ、聖書の物語を継続するようなかたちで生きるということなのです。

具体的に言うとそれは、教会という共同体、神の民に属する者として生きるということです。ライトによると、教会の目的は、神を礼拝することと、この世にあって神の王国のために働くことであり、そのために互いに交わりを持つことでもあります(15章)。

まず、教会は神を礼拝する民です(11章)。そこでは、神による創造と救いの物語として聖書が読まれ、イエスとその死の物語の告知として聖餐式が行われます。ライトによれば、礼拝もまた、天と地が出会う契機の一つなのです。また、教会は祈る民でもあります(12章)。特に主の祈りは、キリスト教が何であるかを端的に表す祈りとして重視されます。主の祈りは天と地の間を生きるイエスの生き方にならうという意思表明です。そしてクリスチャンの祈りとは、天と地の狭間に立って、その二つが永続的に重ねられることを求めてうめくことでもあります。

ライトは教会の中心的目的は個人の霊的成長でも究極的救いでもなく、「宣教(ミッション)」であると言います。教会は福音を宣べ伝える共同体なのです。では「福音」とは何でしょうか? ライトによると、これは神がイエスの死と復活においてご自分の王国を開始されたという、すでに起こったことに関する「良い知らせ」を意味します(290-291ページ)。そのメッセージに対して、信仰と悔い改めをもって応答する人々は、神が全世界を正そうとするプロジェクトの先駆けとして「義とされる(正される)」―─これがパウロの言う「信仰義認」の意味であると、ライトは言います(295ページ)。バプテスマを受けて教会に加わるとは、神の創造から新しい創造に至り、イエスの死と復活が中心であるような神の物語の中に参加し、神のプロジェクトの一部となることなのです(303ページ)。

聖書の物語はどのような結末を迎えるのでしょうか? それは、これまで断続的かつ部分的にしか重なってこなかった天と地が最終的に完全に重なり合い、神の栄光がすべてをおおいつくすことです(16章)。ライトによると、「死後天国に行く」ということは、聖書の物語の結末ではありません。聖書の物語の結末は、私たちが肉体を脱ぎ捨てて天にある霊的楽園に昇っていくことではなく、新しいエルサレムが地上に降りてきて、神が、肉体をもって復活した人々と共に住まわれることです(黙示録21章1節以下)。「復活」とは、人が死んでキリストともに過ごした後(いわゆる「死後のいのち」)、新しい肉体をもってよみがえることであり、ライトはそれを「死後のいのちの後のいのち」と呼んでいます(306ページ)。そしてこの復活への信仰こそがキリスト教の終末的希望の中心であるといいます。聖書の物語の結末では、この物質的世界は見捨てられるのではなく造り直され、復活した人々は新しい被造物世界に住んで神と共にそこを治めることになります。これこそ、聖書の物語が指し示すクリスチャンの救いのビジョンなのです。

このようなキリスト教の希望は、第1部でライトが取り上げた4つの「声の響き」、すなわち義への希求、霊的なことがらへの渇望、人間関係への飢え、美における歓びという、人間の基本的な求めに応えるものであると言います(16章)。神は世界に義をもたらそうとしており、教会はイエス・キリストの福音と聖霊の力によって、その義の実現のために地上で働くように召されています。またイエスに見られるような神と人との関わりに生きる生き方に進むように召され、新しい創造の美を先取りして祝うように召されているのです。

クリスチャンは、このような終末の希望を抱きつつ、今を生きています。クリスチャンであるとは、「私たちの前に開かれた新しい世界、神の新しい世界のただ中を、イエス・キリストに従って歩んでいく」ことなのです(334ページ)。

(続く)

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(4)

その1 その2 その3

前回に引き続いて、第2部「太陽を見つめる」を見ていきます。前回とりあげた第5章では、ライトはキリスト教の世界観を提示しました。すなわち、神がおられる場としての「天」と、人間が住む場としての「地」は、完全に一致しているわけでも完全に分離しているわけでもなく、部分的に重なり合い、かみ合っている関係でとらえられています。

第6章から第10章まで、いよいよライトはキリスト教が提示する物語(ストーリー)とはどのようなものかを語り始めます。第5章で彼が世界観について語ったのは、いわばその物語のための舞台を設定する作業だったと言って良いと思います。

キリスト教のメッセージとは何かということについて、ライトは第5章の冒頭で次のように語っています。

クリスチャンは、神と世界についての真実の物語(ストーリー)を語っていると主張する。(81頁)

ここで彼が使っている「物語(ストーリー)」ということばに注目する必要があります。ライトはキリスト教のメッセージとは、抽象的な教理の体系ではなく、なによりも一つの物語であると主張しているのです。

キリスト教のメッセージの中心的な資料は言うまでもなく聖書です。では聖書とはどのような本なのでしょうか?多くの人々は、聖書とは人がいかに生きるべきかのマニュアル、救われるために何をすべきで何をしてはいけないかが書かれているルールブック、または、神についてのさまざまな情報が述べられている百科事典のようなものであると考えています。聖書にそのような側面がないわけではありませんが、それらは聖書の本質をとらえた理解ではありません。実際に聖書を手に取ってみれば一目瞭然ですが、聖書はマニュアルやルールブックや百科事典のように、主題別に系統立てて整理されて書かれている書物ではありません。時にはそのように読める部分もありますが、それらはさらに大きな全体の一部に過ぎないのです。

聖書を全体としてとらえたとき、最も適切な理解は、それを一つの長い物語(ストーリー)として読むことです。旧新約聖書66巻からなる正典聖書は全体としてみれば、宇宙と人類の創造に始まり、人類の救済と宇宙の再創造に至る、一つの壮大な物語であると言うことができます。

(先に進む前に一言ことわっておきますが、ライトが聖書について「物語」や「ストーリー」と言う時、それは必ずしも「作り話」「フィクション」という意味ではありません。聖書学ではそのような誤解を避けるために「ナラティヴ」という用語を使うこともあります。)

西洋のキリスト教において、聖書はしばしば神や世界、人間についての命題(「神は愛である」「すべての人は罪人である」等々)を含む書物であり、神学の任務は聖書のあちこちに断片的に含まれるそのような命題を抽出して、聖書以外の情報源(人間の体験や理性や伝統など)も加味しながら体系的に整理しなおすことであると考えられてきました。そのような営みを「組織神学」といいます。

組織神学は、キリスト教の信仰内容を秩序だって提示するにはたいへん有益ですが、一つの問題が生じます。つまり、組織神学においては、神のことばである聖書は、命題的真理を抽出するための単なる素材に過ぎなくなってしまうということです。神学者の務めは、聖書という鉱床から様々な神についての命題という原石を掘り出し、磨き上げ、種類ごとに整理して陳列することであって、ひとたび見事な宝石のコレクションが完成したら、もはや元の鉱床が顧みられることはありません。同様に、もし神学者たちが聖書に含まれるあらゆる命題的真理を正確に抽出し、緻密な体系に組み立てていくことによって、「完璧な組織神学書」が書かれることができた暁には、もとの聖書そのものは、果汁を絞り尽くされた後のオレンジの皮のように、用済みになってしまうのでしょうか?

もちろん、実際にそのようなことが口に出されることはありません。神のことばとしての聖書には、(少なくとも形式的には)今も昔も十分な敬意が払われ、尊重されています。けれども実質的には、聖書は神についての命題的真理という宝物が豊富にしかしランダムに詰め込まれた宝物庫のようにみなされていることが多いように思います。これは神学者だけの話ではありません。多くのクリスチャンが「デボーション」と称して日々聖書を読んでいます。しかし、しばしばそこで読まれる断片的な聖句は聖書全体の大きなストーリーラインの中で理解されるのではなく、その日の箇所からいかに貴重な「霊的教訓」を得ることができるかということに関心が寄せられています。そのような聖書理解は、多くの場合オリジナルの文脈から切り離された解釈で、聖書記者の意図とはかけ離れたものであるばかりでなく、そもそもそのような「教訓」を適用すべき自分たちが、歴史における神のご計画の中でどのような位置にあるのかも顧みられずになされることが多いため、かなり偏った主観的な解釈と適用に終わってしまうことが少なくありません。

組織神学がまったく無用の長物だというつもりは毛頭ありません。しかし、長らく西洋のキリスト教では聖書の命題的側面がナラティヴ的側面に対して過度に重視されてきたことは事実です(恐らくこれと関連して、新約聖書学において、福音書がパウロ書簡に比べて相対的に軽視されがちな傾向もあったと思います)。これに対して、20世紀になって聖書のナラティヴ的側面を重視しようとする流れが起こってきました。ライトもその流れの中にあると考えることができます。

物語は要約してしまうとその魅力やインパクトを失ってしまいます。言い換えると、ナラティヴは単なる命題の集合に還元することはできないのです。ナラティヴを本当に理解するためには、その全体を読み、味わい、その物語世界に入り込んでいって、一連の出来事を追体験していくことが必要になってきます。そして、ライトによると、これこそがまさに聖書の正しい読み方なのです。クリスチャンは聖書を物語として読み、聖書に描かれている神の物語を語り告げる民なのです。その物語とは、神がいかにして人類と被造物世界の救いを達成されるかという救いの歴史、「救済史」にほかなりません。

このように、本書において、ライトは前回見たような天と地が部分的に重なりあう世界観を縦糸に、救済史を横糸にして、キリスト教とは何かを描き出していきます。次回は、ライトが描く聖書の救済史について具体的に見て行きたいと思います。

(続く)

 

 

御国を来たらせたまえ(6)

(シリーズ過去記事     

神の国についてのシリーズの中で、過去2回にわたって「携挙」の概念について書いてきました。

なぜ「携挙」の概念がこれほど人気があるのでしょうか?それは一つには、これまで論じてきたような、ギリシア的霊肉二元論に基づく通俗的天国観があると思います。つまり、クリスチャンの最終的希望は、滅び行く地上世界を離れ去って、霊的な楽園としての「天国」で神と永遠に過ごすことだという考えです。もちろん、1テサロニケ4章16-17節でパウロは携挙について語っていると信じるならば、その時には同時に死者の復活も起こることも認めなければなりませんので(16節「その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、」)、これは厳密には「死後霊魂が肉体を離れて天国に行く」というものとは異なります。しかし、地上の悪の世界から脱出して神のおられる「天国」に入る、という天国観は、「携挙」の考えと非常になじみやすいということは言えます。このような現世逃避的な思想(「悲観的終末論」と言ってもいいかもしれません)は、携挙によって教会は終末の患難期を経験することがない、という考え方に典型的に表れています。

「携挙」が広く信じられているもう一つの理由は、聖書の中には天に挙げられた人々の記述があるからだと思います。それはエノク(創世記5章24節)、エリヤ(2列王記2章11節)、そしてもちろんイエス(ルカ24章50-51節、使徒1章9節)の昇天記事です。これらの人々は、地上から神の住む領域である天へと移されました。これらの記述から、「神に祝福された人々は最終的に地上から天に挙げられる」という「原則」を人々が見いだしたとしても不思議ではありません。しかし、これは真理の半分しかとらえていない理解です。

確かにこれらの昇天記事は、神の住まわれる領域すなわち「天」に移されること、つまり神とともに生きるいのちの祝福を表していると言えます。しかし、聖書の語る最終的な終末のビジョンは、神ご自身が地上に降りてきて人とともに住み、天と地が神の普遍的な支配の下で一つになるということです。

1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。2  また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。3  また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、4  人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(黙示録21章1-4節)

終末に起こる、再臨のキリストとの出会いはそのような聖書ナラティヴの全体的なストーリーラインの中でとらえなければなりません。そのように考える時、パウロがキリスト者は「いつも主と共にいる」と言ったときに彼が語っているのは、地上に降りてきた新しいエルサレムにおけるキリストとの生活を意味していると考える十分な根拠があります。

このことは、聖書の読み方についても多くの示唆を与えてくれます。私たちが聖書に書かれている断片的事例から普遍的な原則を導き出そうとするとき、聖書に繰り返し出てくるできごとが、永遠に繰り返される固定されたパターンであるかのように誤解してしまうことがあります。たとえばある人々は次のように考えるかもしれません。

スライド1

しかし、聖書は歴史と関わりのない普遍的な命題的真理の単なるコレクションではなく、首尾一貫したストーリーラインを持つ一つの物語(ナラティヴ)です。物語においては話がどのような展開を経てどういう結末にいたるかが重要であり、同じようなできごとがただ繰り返されていくのではありません。物語の各部分はそのようなストーリーラインの枠組みと、その部分が全体の中でどういう位置を占めているかに照らして解釈されなければならないのです。したがって、聖書の昇天物語に見られるテーマ(神とともに生きるいのちへの移行)はかならずしも「地上から天に引きあげられる」という固定された物理的移動によっていつも表現されるわけではなく、同じテーマが終末における救済史の新しい展開(天における神の支配が地にも現される。言い換えれば天と地が一つになる)においては、新しい形態を取る(神の民が再臨の主を地上に迎え入れる)ということも十分にあり得るわけです。

スライド2

このように、「携挙」の問題を考えるときにも、聖書の全体像をどう把握するかが重要であることが分かります。そして、最終的に最も説得力のある解釈は、聖書全体のストーリーラインにもっともよく適合する解釈なのです。

(続く)