パンデミックを考える(1)

ここ数ヶ月というもの、「コロナ」という言葉を見聞きしない日はありません。新型コロナウイルスの感染は世界中で爆発的に拡大を続け、今もその勢いは衰えを見せていません。この原稿を書いている時点で、世界の感染者が2千万人を突破しました。感染症がもたらす健康被害はもちろんのこと、それに伴う社会的、政治的、経済的影響は甚大で、世界の国々を大きく揺るがし続けています。

私たちの「日常」は一変してしまいました。そして、コロナ以前の「日常」に戻ることは、もうないのかもしれません。

キリスト教会ももちろん、この変化と無縁ではありません。多くの教会堂は閉鎖され、礼拝はオンラインやその他の手段で行われるようになっています。私が教えている神学校でも、これまでの授業はすべてオンラインで行われるようになりました。

しかし、私たちにとって本当に重要なことは、これまでの「活動」や「ミニストリー」をいかに継続していくか、ということではありません。より重要な問題は、信仰者としてこの「非常事態」にどのように向き合い、このパンデミックの世界にあってどのように神の召しに従って歩んでいくか、ということだと思います。

今回のコロナ禍はまさに世界規模のできごとですので、これまでに世界中のキリスト者が様々な考察を発表してきています。日本国内でも、各キリスト教雑誌ではコロナ禍特集を組み、何冊かの書籍が出版されています。その内容も、神学的考察から実践的アドバイスまで多岐にわたります。

そんな中にあって、私も自分なりにいろいろと思うことはありましたが、それをなかなかこのブログ上で公表することができませんでした。

一つには、教会と神学校におけるコロナ禍への実際的な対応に追われて十分に考えを深める時間が取れなかったことがありますが(こちらを参照)、より大きな理由は、この問題があまりにも大きすぎたからです。

私たちにとって今回のパンデミックは現在進行中のできごとであり、まだその渦中にある状況です。現在も感染は拡大中ですし、今後第二波、第三波が続く可能性は大いにあります。感染の終息がいつ訪れるのか、さらにその傷跡から世界が完全に回復するまでどのくらい時間がかかるのか、誰にも予測できません。

日々めまぐるしく移り変わる状況の中で、一個人が何か確定的なことを主張できるとは思いません。そのような状況においては「語らない」「沈黙する」ことが賢明な選択肢である場面もあります。しかし、たとえ不完全なものであったとしても、それを言葉にしていくことによって、自らの考えを深め、他の人々との対話のきっかけになればと思います。それに結局のところ、私たちの思想と実践は切り離すことはできません。たとえ未完成のものであっても、私たちは現時点でできる限り考えを深めたら、そこから一歩を踏み出すしかないのです。

そういうわけで、これから綴っていくのは、パンデミックのただ中で生まれた暫定的な考察に過ぎません。何年か後にすべてが落ち着いた時に振り返ったら、また別の考えが生まれるかもしれません。できれば、ゆるい連載の形で何回か続けていくことができたらと思います。 続きを読む

神がデスヴォイスで歌うとき(1)

またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。
(ヨハネの黙示録14章2節)

私は音楽を聴くのが好きです。いわゆる「キリスト教音楽」だけを聴くわけではありませんが、広い意味で神への信仰を表現した音楽を多種多様なスタイルで聴くのが好きです。クラシック、ジャズ、ポップス、民族音楽・・・イエス・キリストへの信仰が実にさまざまなスタイルで表現されるのを耳にするにつけ、神の創られた世界と教会の豊かな多様性に触れる思いがします。そんなわけで、このブログでも過去にU2ブルースメシアニック・ジューの賛美など、いろいろな音楽を取り上げてきました。

さて、そのような多様な「キリスト教音楽」の中で、私がとりわけ関心を持っているひとつのジャンルがあります。それはクリスチャンのヘヴィーメタル、いわゆる「クリスチャンメタル」です。 続きを読む

ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(9)

(過去記事        

前回取り上げた、『確実性の罪(The Sin of Certainty)』の7章でエンズは疑いについて書きましたが、8章では信頼について書いています。信仰を神への信頼としてとらえるなら、疑いは信仰の敵ではありません。疑いを受け入れつつ、それでも神に信頼していくのが、聖書的な信仰と言えます。「信頼の習慣を養う Cultivating a Habit of Trust」と題された第8章では、ものごとをコントロールしようとする思いを手放して、神への信頼を身につけていくべきことについて書かれています。 続きを読む

ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(8)

その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7

『確実性の罪(The Sin of Certainty)』の7章で、エンズは「疑い」について正面から取り上げます。疑いとは何でしょうか、そして、信仰者は疑いにどのように接していったら良いのでしょうか?

信仰者の多くは、これまで自分が確信し、そこに人生のよりどころを見いだしてきたことがらについての深刻な疑いを経験します。そしてそれは私たちに大きな不安や恐れを引き起こします。多くの場合、そのような危機に直面したクリスチャンは、何か自分に問題があると考え、なんとか壊れたところを修復しようと努力します。その試みがうまくいけば、私たちは元の信仰生活に戻り、以前と同じ歩みを続けて行きます。けれども、もしそれがうまくいかず、疑いが長期間にわたって続くような場合、心に絶望を秘めながら表面上はこれまでと同じ信仰の歩みを続けて行く人もいれば、潔く信仰に見切りをつけて去っていく人もいます。いずれにしても、疑いは信仰の敵と考えられています。

しかし、エンズはそのように考える必要はないと言います。エンズによると、疑いは信仰の敵ではありません。疑いが信仰の敵のように思えるのは、私たちが「信仰」を私たちの「確実な考え」と同一視するからだと言います。 続きを読む

ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(7)

その1 その2 その3 その4 その5 その6

これまで、『確実性の罪(The Sin of Certainty)』に基づいて、聖書的な信仰のあり方について探求してきました。著者のエンズによると、聖書が証しする信仰とは、神についての正しい思考にこだわるものではなく、不確実性の中でも神に信頼するということでした。なぜこのことが大切なのでしょうか?それは、私たちの神についての確信が揺るがされるようなできごとが人生にはしばしば起こるからです。エンズはそのようなできごとを否定したり避けたりしようとするのではなく、むしろそれらが語りかける内容に耳を傾けることをすすめます。

エンズは第6章で、2013年の夏に自身が運営するブログ上で行なったアンケート調査について書いています。彼はブログの読者に次のような質問を投げかけました:

あなたがクリスチャンであり続けることの最大の障害となっているものを一つ二つ挙げてください。あなたが繰り返しぶつかる障害物は何ですか?そもそもなぜ信仰を持ち続けているのかと疑問に思うような、あなたにつきまとって離れない問題とは何ですか?

これらの質問に対して、エンズは数多くの率直な(しばしば匿名の)回答を受け取りました。それらは、大きく分けて次の5つのカテゴリに分けられるものだったと言います: 続きを読む

ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(5)

その1 その2 その3 その4

聖書は多様性に満ち、複雑で、そしてリアルな書です。その中には、画一化されたキリスト教の「敬虔」のイメージに当てはまらないような箇所、多くのクリスチャンにとって、教会で公に朗読するのがはばかれるような箇所もあります。けれども、そのような箇所から目を背けることなく、また自分の信仰理解にこじつけたような解釈を施そうとすることなく、聖書が語りかけることにじっと耳を傾けていくことによって、今まで見えなかった新しい世界が開けてくることがあります。

ピーター・エンズは『確実性の罪(The Sin of Certainty)』の3章と4章で、旧約聖書の中からそのような箇所をいくつかピックアップしています。 続きを読む

Equipper Conference 2016

12月27日から31日にかけてJCFNの主催でカリフォルニア州マリエータで行われたEquipper Conference 2016 (EC16)に参加して来ました。

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会場となったMurrieta Hot Springs Christian Conference Center

すでにシリーズ「ルカ文書への招待」(最終回の記事に各回へのリンクがあります)で書いてきたように、今回私は講師の一人としてお招きいただき、朝の4回の「聖書講解」の時間でルカ福音書からお話をさせていただきました。箇所とタイトルは以下の通りです。

第1回 「信じる者になること」(ルカ1章26-38節)
第2回 「弟子になること」(ルカ5章1-11節)
第3回 「隣人になること」(ルカ10章25-37節)
第4回 「証人になること」(ルカ24章44-53節)

参加者は毎朝の聖書講解の前に、小グループに分かれてIBS (Inductive Bible Study、帰納的聖書研究)と呼ばれるバイブルスタディを行いましたが、毎朝のIBSの箇所はその日の聖書講解と同じ箇所が取り上げられました(このような形でIBSと聖書講解を連動させたのは今回が初めての試みだったそうです)。このようにして、IBSで個人や小グループで読み、考え、話し合った同じ箇所について、さらに聖書講解で語られるのを聞くことで、聖書の理解がぐっと深まったということを何人もの方々から聞きました。語る側としても、会衆がとてもしっかりとこちらのメッセージを受けとめてくれているという手応えを感じて、安心してお話しすることができました。このような部分も含めて、集会全体が非常に緻密に考えられ、組み立てられていると思い感銘を受けました。 続きを読む

暗闇からの叫び

所属教会で礼拝説教の奉仕をしました。多少手を加えた原稿をアップします。

暗闇からの叫び(詩篇88:1-2)

今日は詩篇の中から、88篇を取り上げました。いま司会者の先生に最初の2節を読んでいただきました。少し長いですがこの詩篇の全体をお読みしたいと思います。

1  わが神、主よ、わたしは昼、助けを呼び求め、
夜、み前に叫び求めます。

2  わたしの祈をみ前にいたらせ、
わたしの叫びに耳を傾けてください。
3  わたしの魂は悩みに満ち、
わたしのいのちは陰府に近づきます。

4  わたしは穴に下る者のうちに数えられ、
力のない人のようになりました。

5  すなわち死人のうちに捨てられた者のように、
墓に横たわる殺された者のように、
あなたが再び心にとめられない者のように
なりました。
彼らはあなたのみ手から断ち滅ぼされた者です。

6  あなたはわたしを深い穴、
暗い所、深い淵に置かれました。

7  あなたの怒りはわたしの上に重く、
あなたはもろもろの波をもって

わたしを苦しめられました。
8  あなたはわが知り人をわたしから遠ざけ、
わたしを彼らの忌みきらう者とされました。
わたしは閉じこめられて、のがれることはできません。

9  わたしの目は悲しみによって衰えました。
主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、
あなたにむかってわが両手を伸べました。

10  あなたは死んだ者のために
奇跡を行われるでしょうか。
なき人のたましいは起きあがって

あなたをほめたたえるでしょうか。
11  あなたのいつくしみは墓のなかに、
あなたのまことは滅びのなかに、
宣べ伝えられるでしょうか。

12  あなたの奇跡は暗やみに、
あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。

13  しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。

14  主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。
なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。

15  わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。
あなたの脅かしにあって衰えはてました。

16  あなたの激しい怒りがわたしを襲い、
あなたの恐ろしい脅かしがわたしを滅ぼしました。

17  これらの事がひねもす大水のようにわたしをめぐり、
わたしを全く取り巻きました。

18  あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、
わたしの知り人を暗やみにおかれました。

これが詩篇88篇です。読んでみてお分かりのように、この詩篇は全体が非常に暗いトーンで貫かれていて、読んでいると心が暗くなってくる、という方もあるかもしれません。

「好きな詩篇は何篇ですか?」と聞かれたら、皆さんは何と答えるでしょうか?「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。」という23篇が好きだという方もおられるでしょうし、「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。」という42篇が好きだという方、「息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。」という150篇が好きな人もおられるかも知れません。しかし、好きな詩篇を聞かれて「私は88篇が大好きで、いつも口ずさんでいます!」と答える人はほとんどいないと思います。

この詩は最初から悲痛なうめきと叫びに満ち、最後まで救いや賛美の明るいトーンがまったく聞かれません。この詩はおそらく詩篇全体の中で、あるいは聖書全体の中で最も暗い箇所であると思います。だからなのでしょう。この詩篇が礼拝説教で取り上げられることはほとんどありません。私がアメリカの神学校で学んでいたとき、旧約聖書を教えてくださった教授が「この詩篇から説教ができたら、聖書のどこからでも説教ができる」と語っておられたのを覚えています。私たちは聖書を通読していても、この詩篇のような箇所は、あまり深く思い巡らすことをしないで、さっと読み飛ばしてしまうことが多いのではないかと思います。

けれども、そのように暗く悲しみに満ちた詩篇88篇ですが、これも聖書の一部であることを、私たちは覚える必要があります。この詩篇が聖書の中に収められているということは、実はとても深い意味があると思いますので、今日はここから学んでいきたいと思います。 続きを読む

Even Saints Get the Blues(信仰者と嘆きの歌)(1)

「詩篇はブルースである」

音楽を「キリスト教音楽」と「それ以外の音楽」に分けるのは好きではありません。しかし、あえて「世界でいちばん有名なクリスチャン・バンドは?」と聞かれたら、私なら「U2」と答えるでしょう。ここで「クリスチャン・バンド」とは、「キリスト教信仰に関わる主題や価値観に基づいた歌を歌うバンド」という、非常に広い意味で言っています。U2はいわゆるコンテンポラリー・クリスチャン音楽業界(CCM)の枠にははまらないバンドですし、すべての曲が信仰を題材にしているわけでもありませんが、彼らの歌には信仰に裏打ちされた歌詞を持つものも少なくありません。これらの歌は「クリスチャン・ミュージック」という気負いなしに、信仰者としての葛藤や疑いもストレートに表現しているがゆえに、職業的CCMにありがちな「嘘くささ」や「説教くささ」がなく、逆説的に非常に真実に心に響いてきます。

リードボーカルでバンドのフロントマンでもあるボノはクリスチャンで、その信仰をしばしば公にしていますが、彼は欽定訳聖書の詩篇のために序文を書いたことがあります。その中に「詩篇はブルースである」という言葉があって、深く頷いてしまいました:

12歳の時、僕はダビデのファンだった。彼は身近に感じられた・・・ちょうどポップ・スターが身近に感じられるように。詩篇の言葉は宗教的であると同時に詩的でもあり、彼はスターだった。とてもドラマティックな人物だ。なぜなら、ダビデは預言を成就してイスラエルの王となる前に、ひどい目にあわなければならなかったのだから。彼は亡命を強いられ、国境地帯の誰も知らないような町にある洞窟の中で、エゴが崩壊し、神から見捨てられるような危機に直面した。でもこのメロドラマの面白いところは、ダビデが最初の詩篇を作ったと言われているのはこの時だと言われているということだ。それはブルースだった。僕にはたくさんの詩篇がブルースに感じられる。つまり、人が神に叫んでいるということだ―「わが神、わが神。 どうして、私をお見捨てになったのですか。 遠く離れて私をお救いにならないのですか。 」(詩篇22篇)

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ボノ(Image by Phil Romans via Flickr)

嘆きの詩篇

旧約聖書に収められている150の詩篇には、さまざまな種類のものがあります。もちろん神への賛美や感謝なども含まれていますが、その中でもっとも多いのは、実は「嘆きの詩篇」と呼ばれるものです。詩篇の作者はしばしば敵にいのちを狙われ、自分の罪に打ちひしがれ、絶望の淵をさまよい、夜を徹して神に向かって泣き叫びます。時には敵に対する怒りや憎しみをむき出しにした呪いの表現さえ見られます。

わたしは嘆きによって疲れ、
夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、
わたしのしとねをぬらした。
わたしの目は憂いによって衰え、
もろもろのあだのゆえに弱くなった。
(詩篇6篇6-7節)

これはまさに、「古代イスラエルのブルース」と言ってよいでしょう。

興味深いのは、詩篇は古代イスラエルの公の礼拝によって歌い継がれてきた、いわば公式の賛美歌集のようなものだったということです。神の民の公の集まりで、嘆きの歌がしばしば歌われていたということはとても示唆に富んでいます。

嘆きの詩篇は、一見するとまったく「信仰的」「敬虔」には見えません。しかし、そこには信仰者にとって欠くことのできない、非常に大切な要素が見られます。それは真実を語ることです。

私たちの生きているこの地には、悪と苦しみが満ち溢れています。神を信じていても、その現実から逃れられるわけではありません。そのような現実に直面したとき、私たちは苦しみ、嘆き、うめき、泣き叫びます。人や時には神に対する激しい怒りにさいなまれることさえあります。聖書は、そのような私たちの内側に存在するネガティブな感情を否定しません。それどころか、そのような感情をありのままに神の前に注ぎだしていくことをすすめています。嘆きの詩篇はまさにそのような、信仰者の現実を直視した真実の歌ということができるでしょう。

過去記事にも書きましたが、神に対して、自分に対して正直であること、真実であることは、聖書的な信仰の重要な特質です。もちろん聖書は悲惨な現実を超えた救済の希望について語り、またそのような救いを待ち望みつつ、苦しみの中でも神に信頼し続けることの大切さを教えます。実際、嘆きの詩篇には最後には神への信頼と賛美で終わるものが少なくありません。しかし、詩篇の記者は賛美の前に嘆きの歌を歌う必要がどうしてもあったのです。聖書的な信仰とは、いまここに否定しがたく存在する苦しみから目を背けた現実逃避ではありません。

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振り返って、現代のキリスト教会はどうでしょうか?

詩篇に曲をつけて教会で歌われることは多いですが、嘆きの詩篇を歌っている教会はどのくらいあるでしょうか。より伝統的な教派では、詩篇全巻を特定の期間内に朗唱することがありますが、多くの福音主義プロテスタント教会ではそのような習慣は失われてしまっています。ましてや、信仰者の嘆きをテーマにしたオリジナル曲を歌う教会はほとんどないのではないかと思います。もしそうであるなら、教会は嘆きの言語を失ってしまったと言えるのではないでしょうか。

パウロは「泣く者と共に泣きなさい」と言いました(ローマ12章5節)。しかし多くの教会では、泣く者がいると、その人と共に悲しむというプロセスを経ないで、「泣いてはいけない。信仰を持ちなさい。疑ってはいけない。」と一足飛びにポジティブな結論に辿り着こうとすることが多いような気がします。たとえ善意から出ているものにせよ、そこにはともすれば皮相的な信仰に導き、安易な勝利主義を生み出していく危険性があると思います。クリスチャンの信仰にとって重要なのは、嘆きや悲しみをおおい隠し、敬虔そうな顔をして神を賛美することよりも、苦しみのただ中でも、嘆きが賛美へと変えられていく内面の変革を体験することなのではないでしょうか。そのためにはまず、自分の内面にある嘆きの歌を押し殺さないことが大切であると思います。

主よ、いつまでですか?

U2がライブの最後に歌う定番の曲に、「40」という歌があります。この曲はタイトルが示すように、詩篇40篇に基づいています。サビの”How long to sing this song?“(いつまでこの歌を歌わなければならないのですか)というフレーズは実際には詩篇40篇には出てきませんが、ボノはそれを詩篇6篇から取ったそうです。

「Yahweh」(これもいい曲です)と「40」

“How long?”という叫びは、1972年に北アイルランドで起こった「血の日曜日事件」を題材にした初期の代表曲「Sunday Bloody Sunday」でも聞かれます。この曲も「40」も1983年のアルバム「War」に収録されています。

How long
How long must we sing this song
How long, how long

いつまで
いつまで僕たちはこの歌を歌い続けなければならないのか
いったいいつまで?

そしてこの曲は次のように終わります:

The real battle just begun
To claim the victory Jesus won
On
Sunday Bloody Sunday

本当の戦いは始まったばかりだ
この血みどろの日曜日に
イエスが勝ち取った勝利を主張するために

いつまでですか?」という神への叫びには、目の前に厳然として存在する苦しみの現実と、そこから救い出してくださる神への信頼という、複眼的な信仰の視点が見られます。私たちはこの両者のバランスを大切にしなければならないと思います。

ボノは「いつまでこの(嘆きの)歌を歌わなければならないのですか?」と歌います。けれども現代の多くのキリスト教会では、そもそも嘆きの歌を歌いません。それどころか、教会では嘆きや葛藤の思いをそのまま口にすることは「不信仰」として忌避される場合さえあります。

どちらが真実な聖書的信仰を表していると言えるでしょうか?

主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。(詩篇13篇1節)

(続く)