科学と聖書(3)

その1 その2

今回もずいぶん間が空いてしまいましたが、科学と聖書についてのシリーズを続けたいと思います。

バイオロゴスのウェブサイトには次のようなミッション・ステートメントが掲げられています。

バイオロゴスは、神による創造の進化的理解を提示することによって、教会と世界が科学と聖書的信仰の調和を見出すようにと勧めます。

そして次の中核的なコミットメントを掲げています:

  • 私たちは、歴史的キリスト教信仰を受け入れ、聖書の権威と霊感を支持します。
  • 私たちは神が何十億年にもわたって存在するすべての生命を造られた創造主であることを認め、進化的創造を支持します。
  • 私たちは真理を追求し、自然界と聖書を研究する中でつねに学び続けていきます。
  • 私たちは謙遜を得ようと努力し、異なる意見を持つ人々とも親切な態度で対話することに努めます。
  • 私たちは、科学や教育、ビジネスなどあらゆる領域で卓越することを目標とします。

ここからバイオロゴスについて2つのことが分かります。1.福音主義的なキリスト教信仰を掲げていること、そして2.生物学的進化を神の創造の手段として受け入れる、いわゆる「進化的創造論evolutionary creationism」の立場に立っていることです(バイオロゴスの詳しい信仰基準についてはこちらを参照)。

ある人々にとっては、この二つはまったく両立不可能と思えるかもしれません。けれども、そのような人々も、なぜバイオロゴスのような団体が存在し、多くの人々に支持されているのか、冷静に考えてみる必要があると思います。(バイオロゴスのサイトに登場する神学者や聖書学者の中には、このブログの読者にはおなじみの、N・T・ライト、スコット・マクナイト、ピーター・エンズ、グレッグ・ボイドらがいます。ただしもちろん、彼らが聖書と科学の問題について全く同じ見解をもっているわけではありません)。

どのような議論でもそうですが、進化論の問題を考える際には特に、用語の定義をはっきりとさせておくことが必要不可欠です。キリスト教会で進化論について議論することが大変難しい理由の一つは、「進化論」という言葉にあまりにも多くの含意が込められている現実があるからだと思います。 続きを読む

バイオロゴス・カンファレンス・レポート(クリスチャン新聞)

3月末に参加したバイオロゴス・カンファレンスについて、クリスチャン新聞の依頼で執筆したレポートが、5月21日号に掲載されました。同紙の許可を得て、その内容をブログでも掲載します。先に投稿した記事とも部分的に重なりますが、興味のある方はお読みください。

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バイオロゴスのデボラ・ハースマ代表による講演

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使徒たちは聖書をどう読んだか(7)

(このシリーズの先頭はこちら

前回までの記事では、新約聖書における旧約聖書の解釈は、現代福音主義の標準的釈義方法である歴史的・文法的方法の枠に収まりきらないものである(あるいは少なくともそう見える)ということを見てきました。私たちはこのような「現象」をどう考えたら良いのでしょうか?

多くの福音派の聖書学者は、たとえ一見奇異に見えても、新約記者たちの聖書解釈法が歴史的・文化的方法と適合する(つまり彼らは旧約聖句の元来意図された意味に忠実な引用を行っている)と言うことを示そうと努力して来ました。これからもそのような試みはなされていくでしょう。私はそれらの真摯な努力を否定するものではありませんが、二つのことを指摘しておきたいと思います。

一つは、聖書自体が行っている解釈の方法が現代の私たちのそれと異なるように見える時、聖書の解釈法を私たちの解釈法に合わせることを考えるよりも、私たちの解釈法を聖書の解釈法に合わせるべきである、あるいは少なくともその可能性を検討することを怠ってはならないのではないか、ということです。この点については、このシリーズの第3回で書きましたので、ここでは繰り返しません。

もう一つは、上記のような釈義上の難題に対して提出される福音派の釈義家からの解決案は、高度に複雑で繊細な議論が多く、一般的な聖書の読者が自然に気づくものとは思えないことです。

例えば、第4回で取り上げたマタイ福音書2章15節におけるホセア書11章1節の引用の問題について、著名な福音派の旧約学者ウォルター・カイザーWalter C. Kaiser, Jr. は、霊感を受けたホセアは意図的に「わが子」という単数名詞を用いて、イスラエルの民を集合的に表すと同時に、やがて来るべきメシアも表した。なぜなら、イスラエルの民がエジプトから脱出した時、その中にはやがて来るべきメシアの先祖も含まれていたからである、と説明します。つまりホセアが11章1節を書いた時に、彼は来るべきメシアについて意図して書いており、マタイはその意図された意味を正しく読み取ったというのです。(カイザーの解釈についてさらに知りたい方は、Three Views on the New Testament’s Use of the Old Testamentを参照ください。)

カイザーの解釈にどのくらい説得力があると感じるかは人それぞれだと思いますが、既に述べたように、マタイ以前のユダヤ教でホセア書11章1節がメシア的に解釈されたことがなかった事実からすると、このような解釈が「誰でも思いつく自然な解釈」でないことは確かだと思います。むしろ、あまりに人工的で複雑な解釈は、かえって解釈者が(使徒たちは現代の福音主義者と同じ解釈学的方法論を持っていたはずだという)自分の先入観を聖書テキストに読み込んでいる結果ではないかという疑念を生じさせるように思います。

この問題を議論する際には、「この箇所はこのように解釈すれば説明できる」というだけでは不十分です。同じ聖書の箇所をありとあらゆる違った方法で解釈することが可能だからです。むしろそこで考えなければならないのは、「どのような解釈の枠組み(パラダイム)からアプローチしたほうが、この箇所だけでなく他の箇所も含めて多くの現象を無理なく理解できるか?」ということです。

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天文学の例を挙げて説明します。天動説が主流であった時代には、地球は宇宙の中心に固定されていて、その周りを天球が回転していると考えられていました。これは確かに、人々が日頃目にしている現象(大地は動かず、星々が動いているように見える)をうまく説明していましたが、いくつかの問題も含んでいました。その一つは、惑星の動きです。惑星は他の星々と同じようには動かないばかりか、時として逆戻り(逆行)するように見えることさえあったのです。この現象を説明するために、学者たちは周転円のような補助的な理論を考えだして、天動説というパラダイムを修正していきました。このように、現行のパラダイムに問題が生じた時には、いろいろな補助理論を使ってそこに「パッチを当てる」ことで、パラダイムを保持することができます。

しかし、このような問題が数多く生じてくると、その都度パッチを当てているだけでは間に合わなくなります。そもそもパラダイム自体が間違っているのではないかと考えられるようになり、すべての現象をすっきりと説明できる新しいパラダイムが模索されていきます。天文学の場合では、それは地動説でした。ここで重要なのは、天動説でも地動説でも惑星の逆行という同じ現象を説明できたということです。ではなぜ地動説の方が優れていると考えられたかというと、地球や他の惑星が太陽の周りを回っていると考えると、天動説の周転円のような余計な補助理論を用いなくても、惑星の逆行現象を無理なく説明できたからなのです。

新約聖書における旧約聖書解釈という問題でも同じように考えることができます。そこには、新約聖書の中で引用された旧約の聖句が、引用元の文脈における、旧約記者の意図したものとは異なる意味で用いられているように見えるという「現象」があります。これを説明するのにいろいろな方法が取られていますが、難解な箇所を説明するのに、あまりにも巧妙で複雑な解釈がたびたび考案されなければならないような解釈のパラダイムは見直しが必要になってくるのではないかと思います。

私は地動説が天動説を葬り去ったように、歴史的・文法的方法をまったく放棄すべきだと言っているのではありません。しかし、それだけですべてを説明しようとするのは賢明でないと考えています。新約記者たちの聖書解釈法には、旧約記者の意図した意味を超える「より完全な意味」を読み取る側面があった、というのが私の理解です。

さて、もし使徒たちの聖書解釈法に、歴史的・文法的方法には収まりきらない部分があるとしたら、それは現代の私たちの聖書解釈にどのような影響を与えるのでしょうか?私たちは使徒たちの解釈方法に倣って、彼らと同じように聖書を読むべきでしょうか?次回はこの問題について考えたいと思います。

(続く)