『聖書信仰とその諸問題』への応答8(藤本満師)

(過去記事       

藤本満先生によるゲスト投稿シリーズの8回目をお送りします。

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8 聖書(新約)が聖書(旧約)を解釈するとき

筆者はジェームズ・ダンに倣って(前掲論文、113)、「釈義」(エクセジーセス)と「解釈」(インタープリテーション)とを分けておきます。

釈義とは、私は聖書の文書をそのオリジナルな意味において、オリジナルな表現、オリジナルの文脈において意味を理解する試みであると考えています。それに対して、解釈とは、便宜的に言えば、そのオリジナルな意味にできるだけ付け加えることも削除することもせずに、解釈者の生きている時代の言葉、考え方、表現の仕方に言い替える試みです。

いわば、「釈義」とは近代聖書学が始まって以来考えられてきた歴史的・文法的手法をもってオリジナルな意味を探し求める努力です。そして「解釈」とは、読者がその時代に理解できる枠組み・表現・考え方を用いてテクストの意味を理解できるように、その意味を引き出し表現することです。釈義の方が技術的で精密な研究の積み重ねで、解釈は時代性・アーティスティックな要素が求められます。

まず初めに、この二つを分けて考えることは、キリスト者が旧約聖書を読むときに特に大切でしょう。私たちが旧約聖書を旧約聖書としてオリジナルな文脈とセッティングで釈義したとしても、キリスト者である限り、その解釈においては、福音というフィルターでもう一度その意味を篩わなければなりません。そうして現れるのがキリスト者としての解釈です。 続きを読む

神とともに創造する

前回の記事からずいぶん間が空いてしまいましたが、聖書における創造概念についてもう少し考察を進めてみたいと思います。

ジョン・ウォルトン師の中心的主張は、聖書が語る創造の概念は物質的なものというよりは、機能に中心的な重点が置かれていると言うことです。そのような機能的創造概念が旧新約聖書全体に渡って見られることは、前回も述べたとおりです。

今回考えてみたいのは、そのような創造の主体は誰か?ということです。もちろん、第一義的にはそれは唯一の神であることは言うまでもありません。しかし、同時に、神はその創造のわざ――つまり、世界に機能と秩序をもたらすこと――に参加するように被造物(特に人間)を招いておられるのではないかと思うのです。

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キリストの昇天

今年は5月10日(木)がイエス・キリストの昇天を記念する昇天日(Ascension Day)にあたります。イエスが復活後に天に挙げられたできごとは、新約聖書のメッセージの中で重要な位置を占めています。にもかかわらず、昇天について語られることは意外と少ないように思います。 続きを読む

Global Returnees Conference 2018(その2)

昨日の記事に引き続き、GRC18での聖書講解メッセージを掲載します。

集会3日目のテーマは「神の民=家族」でした。前日に行われた1回目の聖書講解は、「福音」とは何か、ということについてのメッセージでした。これは分科会でも取り上げさせていただいたのですが、新約聖書の伝えている「福音」(良い知らせ)とは、「十字架につけられたイエスがよみがえって、全世界を治める王となられたことに関するニュース」です。2回目の聖書講解では、この内容を受けて、それではその「福音」が具体的にどのようにこの世界にインパクトを与えていくのか、ということについてお話しさせていただきました。 続きを読む

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その2)

藤本満先生によるゲスト投稿の第2回です。第1回目の投稿はこちらです。

聖書信仰

聖書信仰―その歴史と可能性』(いのちのことば社)

聖書信仰(2)
ギャップに架けられた橋2――聖霊

前回、聖書信仰が向き合うべき二つの命題(①聖書が永遠なる神の普遍的言葉である、②それが特定の古代の言語によって記され、歴史的文化的に規定されている)の緊張関係について記しました。二つの現実の緊張関係・ギャップに架ける一つの橋は批評学です。

そして、もう一つの橋があります。福音主義は本来こちらの橋を頻繁に用いてきました。しかし、この橋の使用にたけてはいるはずが、いわゆる聖書の「無誤性」を強く主張する保守的な福音主義においては、第二の橋は、かなり制限されてきました。その第二の架け橋とは、聖霊です。

17世紀のプロテスタント正統主義、それを引き継いだ米国のプリンストン神学(ホッジやウォーフィールド)、さらにそれを継承した米国の保守的な福音主義にあっては、聖霊の働きは聖書が記されるときに記者に働いた「霊感」に集中します。聖霊は記者に書くべき事項を示し、聖霊はそれらの事項を表現する言葉の選択を促し、それらの言葉を書き記させ、聖霊は本文と正典の保護保全に働いた、と。

聖霊の霊感は聖書が記された時点に限定され、後に、聖書を読むときに働く聖霊の力は、「照明」と呼ばれて区別されます。もちろん、「霊感」と「照明」の区別は妥当だと思います。しかし実際には、プリンストン神学が霊感されて神の息吹によって吹き出された聖書の完全性を確立すると、その完全な聖書を実証し、解釈するために登場したのは、聖霊の照明ではなく、理性でした(拙著5章「理性の時代の聖書信仰」)。

「霊感された聖書」は、古代の文化脈を超えた普遍的な真理そのものとなり、そのように信じる者は、現代のいっさいのことを客観的な真理の書物によって判断すべきだと考えます。そこで大切なのは、客観的な真理命題を体系づける神学、言葉を釈義する理性です。その意味で、保守的な福音派は、とても理性的・客観的です。

しかしそのとき、福音主義が最も大切にしてきた、神の言葉によっていまも新らたに生起する神の語りかけ、神と人との交わり(コミュニケーション)という側面は後退します。「霊感された書物」の客観性・普遍性・絶対性を確立すると同時に、聖書の完璧な無誤性に聖書信仰の核を据えているうちに、いつのまにか、「神は御言葉を通して私に語りかける、聖霊は御言葉を通して私を救い、変貌させる」という福音主義の体験的・救済論的真髄は、犠牲になったのではないでしょうか。いや「犠牲」とまでは言わなくても、神との交わりとしての聖書信仰は、たましいの救い、あるいはデボーションの世界のことに限定されてしまったように思います。つまり、昔も今も変わらずに人に語りかけ、人の生を変貌させていく聖霊の働きは、絶対的・客観的真理を確信する「聖書信仰」の陰に隠れてしまった時期があったように思います。

そもそも、聖書はそのような絶対的客観的真理という枠組みで記されていたのでしょうか。英国福音主義の聖書学の確立に尽力したF・F・ブルースは、聖書は単純に客観的に一方的に神の側から伝えられた御旨という啓示理解ではカバーしきれないと言います(拙著、201-203頁)。聖書の歴史的記述の中には民の反応(信仰か不信仰か、服従か不服従か)も記されています。人間側の応答の典型は詩篇です。聖書は必ずしも神が人に語りかけるのではなく、人が神に、あるいは人が人に語りかけている既述もあります。そして、それらがすべて後の読者にも意味があるように記されています。

 

さて、聖霊の働きを、記者の側から読者の側へ、記された過去から読まれる現代へと、圧倒的なシフトをはかったのがカール・バルトです。単純すぎる表現ですが、バルトは、人間的な要素をたくさん含んだ聖書の言葉は、読者が聖霊の感動を受ける今、「神の言葉になる」と説明しました。それは「今」働く聖霊の感動です。

この考え方に保守的な福音主義は反発します。なぜなら、聖霊の働きを「今」にシフトすることによって、過去において霊感された啓示としての言葉の完成度が低められると考えたからです。

しかし、聖霊の働きの「今」へのシフトは、最初に挙げた二つの命題をどちらか一方に解消せず、二者の緊張関係を保ったままで、二者のギャップを埋めるために、強調されるべき架け橋だったに違いありません。米国改革派の福音主義的神学者であるドナルド・ブローシュは、聖書の言葉が「今」聖霊によって用いられるというダイナミックな「言葉と霊」(Word and Spirit)の関係を次のように説明しています。聖書はそれ自体、その本質において啓示であると考えるべきではない。「なぜなら聖書の啓示的本質は、その文字列に内在しているのではなく、聖霊が啓示としての意味と力を言葉に満たすから」である。同様に、聖書の真理性は聖書言語の属性ではなく、それを通して語る聖霊の属性である。聖書の言葉を真理の言説に減じてはならず、御言葉は聖霊によって「生きていて」、御言葉を通して人は神と出会う。聖霊によって、聖書の言葉という器が用いられ、その中身であるキリストに仕えさせるのである(拙著、377-378頁)。

別にバルト神学を持ってこなくても、「聖霊(神)は聖書の言葉を用いて直接に語りかけ、働きかけてくる」とは、聖書信仰がしっかりと握ってきた考え方です。これこそが啓示の書である聖書の「神秘」であると、聖書信仰が考えてきました。たとえば、戦後、関西聖書神学校を設立し、きよめ派の指導者的存在の一人となった澤村五郎は、次のように述べています。御言葉を聞くとき、まず「聖霊の光によって心の真相を照らし出される」、「そうすれば心は全く砕かれて、信じやすい柔らかな心となるので、神のことばは、なるほどそうだと一つ一つ心の底から納得の行くように悟らせられる」。キリストの受肉、降誕、十字架の救い、復活、昇天、永遠の審判と永遠の栄光、これらすべて、「聖霊の啓示によらなければ、人の知恵や悟りでは絶対にわからないことである」。「真理のことばである聖書は、真理の霊である聖霊によってのみ、生ける神のことばとしてわれわれの心に働くのである。」(拙著、115-117頁)

澤村五郎は、バルト神学とは無関係です。しかし同時に、プリンストン神学とも関わりがありません。敬虔な福音主義の聖書信仰にあっては、このように「今」に働く聖霊の感動を抜きに、聖書の「神の言葉」性を語ることはありませんでした。かつて、霊感によって完成された啓示の書物であっても、その言葉を神の言葉として私たちに響かせるのは、同じ聖霊です。数千年も昔に、その時代の歴史的出来事・文化の中で聖書の記者を感動させた聖霊が、同じように今日の歴史的出来事・文化の中で神の声を聞こうとする私たちを感動させてくだる――これもまた、聖書信仰の主要な柱の一つだったのではないでしょうか。

先に触れた英国の聖書学者F・F・ブルースも、聖霊の働きを強調します。とても強い聖霊の今日的干渉がなければ、ユダヤ的背景にあった福音が、見事にその殻を破って異邦的土壌に根づくとはなかったであろう、と。二千年前と同様、福音が現代の世界中の異文化に根づくことを期待するなら、聖霊が全く異なる文化・時代に記された聖書の言葉を通して、今日のあらゆる境遇にある読者に神の声を響かせることを信じるべきだと言います。

聖霊こそが、①聖書の神の言葉としての永遠性・普遍性と、②その言葉が歴史性・文化性を帯びて記され、同じ限界を持つ私たちに今も語りかけることを保証してくれる、架け橋です。本論の最初に挙げた二つの命題の「ギャップ」を意識すればするほど、聖霊の働きの尊さがわかるように思います。

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(5)

(本シリーズの過去記事    

今回は『クリスチャンであるとは』第2部の6-10章に基いて、ライトが再構成する聖書ナラティヴのストーリーラインについて概観します。聖書の物語の「主人公」は言うまでもなく神ご自身ですが、実際の事件はほとんどが地上で起こります。先に見たように、神は天におられ、その天は地と部分的に重なり、かみ合っています。天の神は地に住む人々の歴史に介入され、人々との間にやりとりがなされます。つまり、聖書の物語は神と人が織りなす物語と言えます。

ライトは本書では人類の創造と堕落については軽くしか触れていません。彼の物語る聖書のナラティヴ(少なくともその本編)はイスラエルから始まります(6章)。現代のクリスチャンの多くは、あたかもイエス・キリストが歴史の真空からある日突然現われて人類の救いをなしとげたかのように、自分たちの信仰にとってイスラエルが持っている重要性について、ほとんど意識していません。しかしライトは、イスラエルの物語を理解することなしにイエスの物語を理解することはできないと言います。

イスラエルの長い物語(ストーリー)において、ナザレのイエスのうちに起こったことこそが、まさにクライマックスであると受け止めることは、クリスチャンの世界観にとって文字どおり最も根本的なことである。(102ページ)

イエスの物語がイスラエルの物語のクライマックスである、というライトの視点は大変重要です。けれどもそれはどういう意味なのでしょうか?

ライトによると、旧約聖書におけるイスラエルの物語には繰り返し登場するあるパターンがあります。それは、「捕囚と帰還」のパターンです。エジプトでの奴隷生活とそこからの解放(出エジプト)、バビロン捕囚とそこからの帰還など、イスラエルの歴史は大小様々な隷属と解放、捕囚と帰還の物語で満ちています。それは究極的には、堕落によってエデンの園から追放され、神から離反してしまった人類を神が最終的に回復されるという、聖書全体を貫く大きな物語の反映であるのです。

ライトによると、イエスと同時代のユダヤ人たちは、バビロン捕囚からの帰還は完全には実現していないと感じており、神による最終的な解放を待ち望んでいました。それは神が王となる時であり、世界に義がゆきわたる時であり、天と地が一つとなる時であり、新しい創造がなされる時でした。そのような希望は、捕囚と回復の物語を集約するある人物、すなわち「メシア(油注がれた者)」に向けられていきます。

ユダヤ人たちが待ち望んでいた神による救いを体現したのが、ナザレのイエスでした(7-8章)。イエスは、イスラエルの神のみが為されるとされていた救いのわざを自らの使命として受け入れ、行動しました(ライトによると、イエスは自分が神であることをこのような意味で「知って」いました)。そして、イスラエルの物語で繰り返されてきた捕囚と帰還のパターンが究極的に凝縮された形で現れたのが、イエスの死と復活の物語だったのです。イエスは十字架上でこの世の悪の力のすべてをその身に引受けて死ぬことにより、悪に勝利しました。そしてイエスの復活を通して、天と地が最終的に結びつきました。ライトによると、イエスにおいて神が成し遂げたことこそが、キリスト教のエッセンスなのです:

キリスト教は、今も生きている神が、ご自身の約束の成就として、またイスラエルの物語のクライマックスとして―─見つけだし、救いだし、新しいいのちを与える―─というすべてが、イエスにあって成し遂げられたと信じることにほかならない。神がそれをなされた。イエスと共に、救出のわざをただ一度で完全に実現された。この宇宙において、決して二度と閉じられることのない素晴らしいドアがサッと開かれた。それは、私たちが鎖につながれ、閉じ込められている牢獄から出るために開かれたドアである。(133ページ)

イエスが復活され、天に帰られて後も、聖書の物語は続いていきます。この章における主要な登場人物は教会ですが、ライトは教会の務めは聖霊の助けなしにはありえないと語ります(9-10章)。聖霊は、すでに天に昇られたイエスのいのちを、教会が地上において分かち合い、イエスの働きを進めていくために与えられています。聖霊に導かれて生きるとは、「天と地が重なり合う場で生き、そのあり方に沿って生きること」なのです(192ページ)。

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救済史の展開という視点から聖書のナラティヴを見ていくライトの視点において、もっとも議論を呼ぶのは、「1世紀のユダヤ人は捕囚はまだ終わっていないと考えていた」という主張であると思います。この考えは、ライトの主著であるChristian Origins and the Question of Godシリーズの第1巻The New Testament and the People of Godをはじめとして、彼が繰り返し主張してきたものです。もちろん、1世紀のユダヤ教の多様性については広く知られており、すべてのユダヤ人が同じように考えていたわけではありませんが、ライトはイエスと同時代のユダヤ人の多くがそのように考えていたと主張しています。

これはもちろん「捕囚の終わり」をどう理解するかによって変わってきます。バビロンに捕囚にされたユダの人々がカナンの地に物理的に帰還し、エルサレムに神殿を再建したことをもって「捕囚の終わり」とするなら、確かにバビロン捕囚は終わったと言えますが、もちろんライトはそのような意味で言っているのではありません。

捕囚後のユダヤ人たちが待ち望んでいたのは、異邦人による支配からの完全な解放、神の臨在と栄光あふれる完全な神殿の再建、イスラエルの罪の赦し、そして諸国民によるヤハウェ礼拝などといった、旧約預言書に記されている約束が完全に実現する状態としての「捕囚の終わり」であったとライトは言います。そして捕囚後のユダヤ人の多くが、これらの約束は何一つとしてまだ実現していないと感じていたということを、ライトは様々な旧約聖書や中間時代のユダヤ教文書を元に論じています。本書では一例として、捕囚の期間としてダニエル書に記されている「七十週」(=490年と解釈されます)という数字が、中間時代のユダヤ人たちによって、「捕囚のほんとうの終わり」の時期を計算するために用いられていたと述べています(114ページ)。

「1世紀のユダヤ人たちは、自分たちはまだ捕囚状態にあると思っていた」というライトの表現は、人によってはセンセーショナルに感じるかもしれませんが、彼が言っている内容そのものはそれほど過激なものではないと個人的には感じています。要するに、終末における完全な解放という預言的ビジョンに対して、ユダヤ人の歴史的現実(第二神殿の建設やハスモン王朝の成立などを含め)はつねに部分的で不完全な満足しか与えてくれないものであり、どの時代にも「より完全な解放」を待ち望む人々が存在したと言うことではないかと思います。(このあたりは、第1部でライトが論じていた、「声の響き」の議論に通じるものがあると思います。)

1世紀のユダヤ人たちが感じていたこのような問題に対して、新約聖書が与えている解答は、「捕囚からの完全な解放への道は、十字架につけられ、死んでよみがえったナザレのイエスによって開かれた」というものでした。例えばイザヤ書はバビロンからの解放を「新しい出エジプト」として描いていますが、新約聖書においてはイエスはしばしば新しいモーセとして描かれています。イエスから始まった運動は、まさに新しい出エジプトとしての、捕囚からの最終的解放の始まりだったのです。

もちろん、イエスの死と復活が、当時のユダヤ人たちの終末的希望を即座に完全に実現したわけではありません。神の国の完全な到来はいまだに将来の希望にとどまっていました。したがって、懐疑的な眼差しを向けるユダヤ人も当然多かったことでしょう。しかしイエスの弟子たちはイエスと彼に従う者たちの共同体(教会)のうちに、「捕囚の終わり」として約束されていたものが、世界の主としてのイエス、罪の赦し、神の臨在あふれる神殿としての教会共同体、異邦人の神の民への参加、等々という形ですでに実現し始めているのを見たのです。

(続く)