復活のキリストの現われ

ヨハネの福音書21章には、復活したイエスがテベリヤ湖(ガリラヤ湖)でペテロと他の6人の弟子たちに現れたできごとが書かれています。

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話の筋を追うのは難しくありません。ペテロたちが漁に出て、夜通し働いても何も獲れなかったのが、そこに現れたイエスの助けによってたくさんの魚を獲り、その後イエスと一緒に食事をした、というものです。15節からは、イエスがペテロに「わたしを愛するか。」と三度問いかける有名な問答が描かれています。そして21章の最後には、ペテロがどのような死に方をするかについてのイエスの予告(18-19節)と、「イエスの愛しておられた弟子」すなわち福音書記者ヨハネの運命について述べられています(20-23節)。

ふつう、この章はヨハネ福音書の20章までがひとまず完成した後に(ヨハネ自身によってであれ他の人間によってであれ)付け加えられた部分であると論じられることが多いです。その目的は、一つには初代教会のリーダーであったペテロの「回復と再召命」について記すこと、そして、著者のヨハネがイエスの再臨までは死なないという噂があったのに対して、その誤解を解くことが目的であったとされます。しかしこの記事では少し違った角度からこの章を読んでみたいと思います。 続きを読む

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回も前回に引き続き、第9章「聖書の中心」を取り上げます。

暴力的な神の描写

前回見たように、ボイドは聖書の中心はイエス・キリストであり、十字架上のイエスを通して啓示された神観は、それに先行するすべての啓示に優先し、それらは十字架のイエスというレンズを通して解釈されるべきだ、と主張します。このことが具体的に問題となるのは、旧約聖書に描かれている暴力的な神の姿をどのように解釈したらよいのか、という難問を考える時です。たとえば神がモーセを通してイスラエルに、カナンの先住民の「聖絶」を命じているような箇所です(申命記7章1-2節)。これらの描写は、イエスにおいて啓示された愛の神とは矛盾するように思えます。

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ボイドは旧約聖書も霊感された神のことばであると信じていますので、これらの箇所をただ排除することはしません。また、しばしば弁証論的な文脈で論じられるように、これらの箇所で描写されているできごとは本当はそれほどひどいものではなかったという解釈も取りません。また、巧妙な釈義によって「旧約記者たちが意図したのはそのような暴力的な意味ではなかったのだ」と論じることもしません。そうではなく、ボイドはこれらの暴力的な記述を十字架のレンズを通して解釈する時に、旧約記者たちが意図したオリジナルの意味を超えて、さらに深い意味を読み取っていかなければならないと主張します。そしてボイドは、これらの暴力的な記述が十字架のキリストとただ両立可能だということを示すだけでは不十分だといいます。旧約聖書が霊感された神のことばであり、(前回見たように)聖書霊感の目的がキリストを指し示すことにあるとすれば、これらの暴力的な神の描写がどのようにしてキリストを指し示すことができるのか、を考えなければならないというのです。

ボイドのアプローチは基本的に次のようなものです。彼はこの問題は、キリストが私たちのために罪となり(2コリント5章21節)、のろいとなられた(ガラテヤ3章13節)ことによって、実際には罪のないお方であったにもかかわらず、罪人の姿を取られたことと同様であるといいます:

十字架によって神が本当はどのようなお方であるかが示されたという意識をもって聖書の暴力的描写を読むとき、私たちは神が暴力的に描かれている際その舞台裏で何が起こっているかを認識し始める、と私は主張する。要するに、神は身をかがめて、ある意味で、ご自身が働きかけておられる心のかたくなな民の罪とのろいになられたということだ。それによって神は、実際にはそのようなお方ではないにもかかわらず、暴力を行い、命じる者の姿を取られたのである。(p. 190)

つまり、神が旧約聖書に暴力的に描かれているのは、神の本質が暴力的であることを示しているのではなく、あえて身を低くして民の暴力的な罪深い性質を反映するような(神ご自身の本質とは相容れない)姿で彼らに現れたのだ、というのです。そしてこのようなイスラエルの神の姿は、やがてカルバリーの丘で罪人として処刑されるイエスの姿をはるかに指し示しているのです。

ボイドは、旧約聖書における暴力的な神の描写を私たちがどのように解釈するにせよ、最も大切なことは、十字架上のキリストに表されている、非暴力的な愛の神の姿が神の本当の姿であることに信頼を置くことだ、といいます。さもないと、イエスが表しているのは本当の神の一部に過ぎず、十字架の背後には無慈悲で暴力的な神のもう一つの顔が隠されているということになってしまうからです。

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旧約聖書における暴力的な神の描写を、十字架でいのちを捨てた愛の神イエスを信じる者としてどのように扱ったらよいのか?というのは古来クリスチャンを悩ませてきた問題です。そしてこれはリチャード・ドーキンスなどの無神論者がキリスト教を批判する際にとりあげる定番の主題でもあります。この問題については、大きく分けて二つの対応があるように思います。

一つは、旧約聖書に描かれている神はキリスト教の神とは相容れないものだとして排除する立場です。これは2世紀のマルキオン以来現代にいたるまで根強くある考え方で、この立場の人々は旧約聖書自体をキリスト教には不要なものとして排除することもあります。「旧約聖書の神は怒りと裁きの神であるが、新約聖書の神は愛とゆるしの神である」などと言われることもあります。けれども、このような立場は、新約聖書が旧約聖書との連続性をはっきりと強調している点、イエスや使徒たちが旧約聖書に啓示されているイスラエルの神を唯一のまことの神としていたという点からして説得力を持ちません。

おそらく今日のキリスト教会で広く受け入れられているのは、「神は確かに愛の神であるけれども、同時に聖い神、義なる神、罪を裁かれる神でもある。そしてそのような神の姿は旧約聖書の一見暴力的な描写に表されている。聖書にはどちらの側面も書かれているので、私たちはこの両面を受け入れなければならない。」という立場です。これは確かに、聖書に含まれているさまざまな神の描写をすべて同じ重要性を持つものとして受け入れるなら、必然的に導かれる結論です。しかし、このような立場は前回見たような問題を含んでいます。それは聖書のすべての部分が同じ重要性を持つという、平板で機械的な聖書観に基づいているだけでなく、このような立場から導かれる神観は互いに対立するイメージの混合体となり、実際に人がこの神といのちにあふれる人格的関係を持つことを困難にします。

さらにこの立場にはもう一つの大きな難点があります。もし聖書に描かれた神の本質が愛の神であると同時に暴力的な裁きの神でもあるなら、現在でも神はその両面を持っているはずです。だとすると、今日でも神は「聖絶」を命じられる可能性はあるのでしょうか?これは世界各地で宗教テロが多発する今日、非常に切実な問題であると思います。どのような宗教であれ、その聖典に記された神の描写が暴力的なものであるなら、それが神の本質にかかわるものかどうかによって、その神を信じる者の生き方は大きく左右されてくるはずだからです。

今回ご紹介したボイドのアプローチにすべての人が同意するわけではないと思いますが、上で述べた二つの立場の中間を行く「第三の道」の一つとして興味深い提案ではないかと思います。この問題は非常に難しく、私も個人的に結論が出ているわけではありませんが、ボイドの議論からはいろいろなことを学び、考えさせられています。ちなみに、今回取り上げた問題について、ボイドは近く刊行予定の大著The Crucifixion of the Warrior God(『十字架につけられた闘いの神』)でさらに詳しく論じているとのことです。

ところで、聖書における暴力的な神描写は旧約聖書だけの問題ではありません。新約聖書でも、ヨハネの黙示録などでは、再臨のイエスが一見非常に暴力的な裁きの神として描かれています。このことは、これまで見てきたボイドの議論を無にしてしまうのでしょうか?そうではありません。この点については稿を改めて論じたいと思います。

(続く)

確かさという名の偶像(8)

(シリーズ過去記事       

このシリーズでは、グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)に基いて、「確実性追求型信仰」の問題点を考察してきました。今回は第3章「確実性という偶像」を見ていきます。

ボイドはこの章で、「確実性追求型信仰」の最大の問題点と彼が考える主題を取り上げます。彼は、このような信仰モデルは、聖書中最大の罪である偶像礼拝に陥っていると主張します。ボイドはこのような種類の信仰を持つ人々が意図的に偶像礼拝を行っているとか、彼らは救われないと言っているのではありません。しかし、確実性を追求し、疑いを避けようとするタイプの信仰は、確実性というものを偶像視することになってしまうと言います。

ところで、「偶像礼拝」とは何でしょうか?それは普通、真の神以外の神々、あるいはそれらの像を礼拝する行為をさすと考えられます:

あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。(出エジプト20章3-5a節)

このような狭い定義によると、一神教徒であるクリスチャンは原則的に偶像礼拝は行わないはずだということになります。しかし、パウロが「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3章5節)と述べている例からも分かるように、「偶像礼拝」にはもっと広い意味がありえます。ボイドが偶像礼拝をどのように定義しているかを見てみましょう。

まずボイドは人間には根源的な飢え渇きがあることを指摘します。人はいつでも「もっと良いもの」を求めています。より良い車、より良い仕事、より良い配偶者・・・人はこれらのものが手に入りさえしたら、人生は幸せになると考えます。ブルース・スプリングスティーンも唄っているように、「すべての人は飢えた心を持っている(Everybody’s got a hungry heart)」のです。

ところが問題は、たとえ望むものを手に入れたとしても、その喜びは束の間であり、その渇望を完全に満たすことは決してできないということです。このようにとらえどころのない、決していやされることのない渇望をC・S・ルイスはドイツ語のSehnsucht(あこがれ)という言葉で表現しました。これは何か名状しがたい、手の届かないものに対する深い切望を表しています。クリスチャンにとって、このSehnsuchtは神へのあこがれにほかなりません。アウグスティヌスもまさに同じことを語っています:

あなたは、わたしたちをあなたに向けて造られ、わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじないからである。(『告白』第1巻第1章)

さて、ボイドはこのようなあこがれのもっとも重要な要素は、神の完全な、無条件の愛を体験することであると言います。そして私たちは、神にとって無制限の、これ以上ない価値を持つ存在であることを体験的に知り、その愛と価値の中に絶対的に安らうことを欲しているのです。神を信じているかどうかにかかわらず、人間はこのような無条件の愛・この上ない価値・絶対的な安全を感じる度合いに応じて、この世界にあって生きている実感を持つことができると言います。そこでボイドは、Sehnsuchtとはこのような種類の「いのち」への飢え渇きであると言います。(ボイドはこのようなあこがれの対象としての「いのち」を単なる生物学的な生命と区別しています)。そしてこのようなあこがれは、神ご自身の永遠に満ち満ちた「いのち」への渇望であり、その「いのち」は三位一体の神が永遠に持っておられる完全な愛の交わりにほかならないと言うのです。

私たちはこの「いのち」をどこで見つけることができるのでしょうか?ボイドによるとそれはイエス・キリストであり、その十字架に表された自己犠牲的な愛です。彼は言います:

カルバリーで啓示された神の愛以外のいかなるものに対しても、私たちが「いのち」を求めていくなら、それは偶像になり、私たちに「いのち」を与える代わりに、私たちの内から「いのち」を吸い取ってしまうのだ。(p. 61)

ボイドによると、偶像とは「神のみが満たすことのできるものを満たそうとして私たちが用いようとするあらゆるもの、すなわち、神の代替物として私たちが用いようとするあらゆるもの」を指します(p. 63)。私たちの内奥にあるもっとも深い必要―無条件の愛・この上ない価値・そして絶対的な安全、すなわち「いのち」―を満たすために神以外のものに頼ろうとするなら、それは私たちにとって偶像となるのです。

さて、現代世界にはさまざまな種類の「偶像」が満ち溢れています。その中には宗教的・霊的な偶像も含まれます。これは異教の神々の像だけを指すのではありません。それは特定の儀式であったり、行動であったり、信条であったりします。神ご自身が無償で与えてくださる「いのち」をいただく代わりに、神のために何かを行ったり、神について何かを信じたりすることによって「いのち」を得ようとする時、それは偶像となるのです。

それでは、この記事の冒頭で述べた「確実性」はどのようにして私たちの偶像となるのでしょうか?次回はそのことについて見ていきたいと思います。

(続く)

確かさという名の偶像(5)

(シリーズ過去記事    

前回に引き続き、グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)第2章「感情のとりこ」について見ていきます。この章で彼は確実性追求型信仰の持つさまざまな問題点を指摘しています。

神観の違い

まずボイドは、あらゆる神学や実践の妥当性を判断する際に用いるべき重要な基準について述べます。それは、「そのような神学や実践は、どのような神観を前提としているのか?」ということです。

より具体的に言うと、神の真のご性質の究極的啓示はイエスであるので(ヘブル1章3節)、私たちは特定の信条や実践が前提としている神の像が、キリストにおいて表された神について私たちが知っている内容と整合性があるのかどうか、を常に問う必要があるのだ。(p. 37)

前回の記事で紹介した、がんに冒された若い男性のいやしを求める祈祷会で、ボイドの頭の中にはもう一つの奇怪なイメージが浮かんできました。その中で神は天から地上を見下ろして、彼らに向かってこう言います。「もし私がこのがんをいやすことをおまえたちが確信するなら、私はそのことをしよう。けれども、そうしないなら、彼は死ぬだろう。」ボイドには、あたかも神がこの男性を人質にとって、彼の頭に銃を突きつけ、そのいのちを助けて欲しければ彼が助かることを確信するようにと脅迫しているように感じたというのです。

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その時ボイドは、これはイエスがなさるはずこととはかけ離れていると思いました。それどころか、人間があることがらを心理的に強く信じ込めるかどうかによって、人をいやしたりいやさなかったり、救ったり救わなかったりする神は、信仰者に信じられないことを信じるという心理的な拷問を強いる、サディスティックな「アル・カポネ的神」であると言います。つまり、確実性追求型の信仰が描き出す神観は、イエス・キリストにおいて啓示された聖書的な神観とはかけ離れているのです。

信仰と魔術

ボイドが指摘する確実性追求型信仰のもう一つの問題点は、このようなタイプの信仰は聖書的な信仰を魔術と置き換えてしまうことだということです。「魔術magic」とは、ある特定の行動をとることによって、霊的世界に影響を与え、それを通して何らかの利益を得ようとする行為をさします。ボイドは聖書的信仰と魔術の違いを説明します:

「魔術」と聖書的信仰の間にある多くの相違点の一つは、魔術においては究極的にはそれを実践する者が利益をえるために行われる行動が重要であるのに対して、聖書的信仰では相互の信頼に基づく契約的な関係を養うことが重要だということである。そして、信頼に基づくすべての人間関係がそうであるように、神と人との関係はお互いに対して益となるのだが、彼らは何か他の目的のための手段としてそのような関係に入るわけではない。魔術的信仰は功利的であるのに対して、聖書的信仰はただ誠実なものである。(p. 39)

さて、このような信仰と魔術の違いを認識すると、確実性追求型の信仰は実は聖書的信仰よりも魔術に近いということが分かります。たとえば、ある人の病のいやしのために祈る時、確実性追求型信仰者は、特定の利益(この場合は病のいやし)を得るために、霊的世界(この場合は神)に対して影響力を与えるべく、特定の行為(この場合は、神がいやしてくださるという心理的確信を持つこと)を行います。これは聖書的な信仰者の祈りと一見同じように見えますが、その動機と、その人の内面で起こっているプロセスはまったく違うものです。

さらにボイドは、この種の信仰が「救い」ということに関してはさらに深刻な問題をはらんでいることを指摘します。確実性追求型の信仰によると、人間の救いはある特定の「救われるために最小限必要な」教理をその人がどれだけ確信を持って信じることができるかによって決まります。同時に、すべてのクリスチャンが罪を犯す存在であることは広く認められているにもかかわらず、ある特別重い罪があって、その「一線を越えてしまう」と、悔い改めない限りその人は救いを失うと考えられています。たとえば、多くのクリスチャンは貪欲や大食やゴシップは(それが聖書の指摘する罪であるにもかかわらず)大した罪だとは考えていませんが、同性愛のような罪は「滅びに至る」罪であると考えています。ボイドがここで問題にしていることは、個別の罪の軽重を比較することではなく、このような物の考え方は聖書的なものなのか、それとも魔術的なものなのか?ということです。彼によるとそれは後者です。

多くのクリスチャンは、ある特定の「救いに必要な」教理を十分な確信をもって信じ、「一線を越える」ような種類の罪を犯さないように努めることで、神から救いを得ようとします。ボイドによると、これは魔術的な信仰理解です。もちろん、そのようなクリスチャンが信じている内容は異教の魔術とはまったく異なるものです。しかし、彼らの信仰の持ち方、そして信じる動機は非常に魔術的であるとボイドは言うのです。

次回も2章の続きを見ていきます。

(続く)

 

 

「主の祈り」を祈る(8)

(シリーズ過去記事       

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」

私たちが祈る時には、物質的な必要だけでなく、関係における必要についても祈るべきです。それには神との関係人との関係の二つの側面が含まれます。私たちが健全な信仰生活を歩んでいくためには、この二つの側面がどちらも正されていく必要があります。すべての人は罪人であり(ローマ3章23節)、神と人に対して罪を犯しながら生きている存在です。したがって、すべての人の人間関係また神との関係の回復は罪のゆるしによってなされていく必要があります。

「罪」と訳されていることばはマタイ6章12節では「負債ofeilēma」、並行箇所のルカ11章4節では「罪hamartia」となっています。当時のパレスチナの日常語であったアラム語においては、「負債」は罪を表す慣用的な表現でした。罪というのは神に対する負債と考えられていたのです(コロサイ2章14節参照)。したがって、これらの表現は基本的に同じ内容を指していると考えられます。

私たちが日々神にゆるしを求めて行くというのは、救いを得るためではありません。私たちのすべての罪の代価はイエス・キリストの十字架によってすでに支払われ、イエスを信じる私たちは救いをいただいているのです。私たちはまずそのことを感謝する必要があります。同時に、クリスチャンであっても日々罪をまったく犯さないで完璧な歩みをすることは現実的に不可能です。よく言われるように、聖書でいう「罪」とは「的外れ」という意味であり、「悔い改め」とはただ悪事を後悔するということではなく、神の御心に沿った生き方へと方向転換することです。ここで言われているのも、信仰の歩みの中で道から外れたらすぐに方向転換をして神に向きを変え、正しい方向に歩き始めることです。

すでにこのシリーズで何度も強調してきましたように、この祈りも神の国の到来を求めるという主の祈りの文脈の中で考える必要があります。神の国が来るとは、神の支配が行われることであり、神の支配とは、恵み深い父の愛によってすべての関係が規定されることです。私たちが罪のゆるしを祈るのは、私たちと他者との関係、神との関係に愛と平和が満ち溢れ、それによって神の国が地上に現されていくためなのです。

さて、この祈りは主の祈りの中で唯一私たちの行いが条件になっている祈りです。イエスは、私たちが人の罪を赦すことなしに、天の父にゆるしを求めることはできないと言われます。しかも、マタイ福音書では主の祈りの後に念押しするかのように、イエスはゆるしの必要性を説いています(6章14-15節)。さらに、18章21-35節でもイエスはたとえも交えながら他者の罪をゆるす必要性について弟子たちに教えていますが、その結論部分でこう言われています:

「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。(マタイ18章35節)

ちなみに、マタイ18章では教会内におけるクリスチャン同士の関係が主題になっていますが、山上の説教における罪のゆるしも、同様に教会内の人間関係について語られているように思えます(5章23-24節を参照)。もちろん、クリスチャンがノンクリスチャンの罪をゆるすことを妨げるものは何もありませんが、主の祈りが神の国が地上に到来することを願う祈りであり、教会が地上における神の国のもっとも顕著な現れであるならば、クリスチャン同士がゆるしあうことの重要性は強調してもしすぎることはないでしょう。

このように、マタイ福音書では互いの罪をゆるしあうことが繰り返し強調され、しかもそれが神からのゆるしをいただくために必要不可欠であることが強調されています。これは行いによらない、恵みによる救いと矛盾するのでしょうか?必ずしもそうではありません。スコット・マクナイトは、山上の説教の注解書の中で、このことを次のように説明しています。

1.神は私たち(のはるかに重い罪)をゆるしてくださった。
2.それゆえ、私たちは神の恵みを拡大するために、他者をゆるすべきである。
3.もし私たちが他者をゆるさなければ、私たちは自分たちがゆるされていないことを示している。
4.ゆるされた人々は他者をゆるす。
5.しかし私たちが人をゆるすことによって、神のゆるしを得ることはできない。

これはヤコブ書における、信仰と行いの関係に似ていると言えるかも知れません。私たちは良い行いをするから救われるのではありませんが、信仰によって獲得される救いのリアリティは、必然的に良い行いを通して表されてくるはずです。まったく良い行いの伴わないクリスチャンは、その信仰と、したがって救いのリアリティを疑われてもしかたがありません。同様に、神の恵みによってゆるしを得ているクリスチャンは、その恵みを体現して生きる者とならなければなりませんし、そうであるなら、当然他者の罪もゆるすことができなければならないはずなのです。

ここにも、神の国の到来に関する「すでに」と「いまだ」の両側面があるように思います。キリストを信じたからといってすぐに聖人君子のような生き方ができるわけではないのと同様、クリスチャンであるからといって他者をいつも完全にゆるすことができるとは限りません。しかし、天の父が無限のあわれみによって私たちをゆるしてくださったのと同様、すべての人が互いにゆるしあって生きるというのが、世の終わりにおける神の国の完成の一つの表れであり、クリスチャンはそのような終末的リアリティを先取りして生きるようにと招かれているのだと思います。

このようなゆるしのリアリティはイエス・キリストにおいてすでに起こりました。十字架につけられたイエスは、自分を殺そうとする者たちについてこう祈られました。

「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。(ルカ23章34節)

この箇所から、クリスチャンが他者をゆるすとは、父なる神から与えられるゆるしの恵みを他者へと取り次ぐ行為であると言えるかもしれません。クリスチャンはこのキリストにあって罪のゆるしを体験した存在であると同時に、敵をゆるしたキリストの足あとに従う者として生きるように召された存在です。キリストの十字架によって罪がゆるされたからこそ、私たちは他者の罪をゆるすことができます。と同時に、私たちが他者をゆるす時、私たちはまさに、その人々に対して、キリストにおいて示された神の恵みとゆるしを体現する存在となるのです。これはまさに、主の祈りの中心テーマである、「神の国(支配)が地上に現されていくこと」であると言えます。

このように考えるなら、主の祈りにおいて神に罪をゆるしていただくことを求める祈りに、他者の罪をゆるすという「条件」がつけられているのは、決していたずらに罪のゆるしを難しくするものでも、クリスチャンを束縛するものでもなく、ましてや行いによる救いを教えるものでもなく、神による罪のゆるしを本当の意味で体験するとはどういうことかを明確化させるものであると言えます。私たちが神に罪をゆるしていただくことと、他者の罪をゆるすこととは、車の両輪のように働いて、地上に神の国を拡大していくのだと思います。

(続く)

戦争と神学者(5)

(このシリーズの先頭はこちら

前回までの投稿では、戦前日本の軍国主義イデオロギーを体現したかのような「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」(以下「書翰」。全文はこちら)とカール・バルトの神学の関係を見てきました。そこでは、当時日本で絶大な影響のあったバルト神学が天皇制イデオロギーと強引に結びつけられている姿を見ることができます。ここで生じるのは、明治以来ドイツ神学の影響を大いに受けてきた日本のキリスト教会において、なぜドイツの教会闘争に当たるような運動が出て来なかったのか、という疑問です。これにはいくつかの理由が考えられます。

一つは日独のキリスト教会がそれぞれの社会の中で置かれていた立場の違いです。古屋安雄氏(『日本の神学』)は、ドイツ教会闘争は国家と余りにも癒着した教会をどうただしていくか、という教会内の問題であったのに対し、日本の場合はマイノリティのキリスト教会、しかも敵国であるアメリカ系の教会がいかに弾圧から身を守るか、ということが問題であったと述べています。

次に、日本教会がそもそもナショナリズム的傾向を持っていたことが挙げられます。金田隆一氏(『昭和日本基督教会史』)によると、それは日本キリスト者自身が有していた「内なる天皇制」ともよべる精神構造です。古屋氏は、書翰はもちろん、当時の国家情勢の中でやむにやまれず書かれた文章ではあるが、それでも日本教会が以前から持っていたナショナリズム、また英米のキリスト教に対する批判がこの戦争を契機に顔を出したものではないかと述べています。

たとえば教団統理富田満は1943年2月1日に高知教会において行った講演の中で、米国が日本にキリスト教を植え付けたのは帝国主義の手先としてであったと述べ遺憾の意を表すると共に、教団創立と共に日本のキリスト教は「現在は何処の国の世話になることもなく純粋な日本キリスト教として信仰上日本のものとなつたのである。・・・我々は何処々々迄も日本人たる自覚を前提としてキリスト教を信仰し倫理道徳を通じ天皇陛下に帰一し奉るべきである」と述べました。

さらに、日本人の思想的特質ということも考えなければなりません。大塩清之助氏は丸山真男の『日本の思想』に依拠しながら、日本教会の体質的な弱さの原因を、異質なものを平然と結合する日本人の「精神的雑居性」に求めています:

日本のキリスト教は、「精神的雑居性の原理的否認」(イエスのみが主である!!)を要請する真理を奉じつつも、日本に対して「それを執拗に迫る」ことをせず、むしろ「この風土と妥協させる」ことによってかろうじて自己を保存して来たのだと言わざるをえない(少なくとも敗戦までは)。(大塩清之助「教会の罪の告白―日本キリスト教団の戦争責任をめぐって」『福音と世界』1967年1月号、22頁。強調は原文。)

そして大塩氏は続けて、このような精神的雑居性を偶像礼拝性と言い換え、「戦争責任の罪は、このような日本的体質を持ったわれわれが、その偶像礼拝の罪を真に心から悔い改めることをせず、イエスのみが主であるとの福音の絶対性に服従できなかった罪である」というのです。

このような「精神的雑居性」はキリスト教とナショナリズムの融合を容易にします。佐藤敏夫氏も丸山の同書に言及しつつ、過去と正面から対決することなく、新しいものを取り入れるため、キリスト教の受容が上滑りなものになってしまったと論じています。危機が訪れると、沈潜していたナショナリズムが顔を出してくるのです(古屋安雄他『日本神学史』)。

以上のポイントは互いに関連しあっています。日本においてキリスト教は常に米英という「敵国の宗教」と見なされがちであったため、教会はそのような疑惑を常に打ち消す必要に迫られていきました。それは裏を返せば、国家への歩み寄りという誘惑に常にさらされていたということです。このことと、明治以来の教会が持っていたナショナリズムの流れが合わさったとき、「日本的キリスト教」運動につながっていきました。そして日本人の「精神的雑居性」は、そのような、論理的には困難と思えるキリスト教とナショナリズムの融合をよりいっそう容易にしたと想像できるのです。

さて、書翰に表れているような日本の神学の問題には、以上の理由のほかに、神学的な理由もあるように思われます。それは偶像礼拝のとらえ方に関する日独教会の違いです。バルメン宣言やドイツ教会闘争において見られるような信仰の戦いはアジアの各国でも見られました。しかし、同様の戦いは戦前の日本教会では、美濃ミッションのようなごく一部の例外を除いて見られませんでした。その大きな理由の一つは、明治以来の日本キリスト教会が持っていた、偶像礼拝に対する批判的態度の弱さであったと考えられます。

「唯一の真の神以外の存在を神としない」という十戒の第一戒(出エジプト20:3)こそ、ドイツ教会闘争で告白教会を支えた神学的バックボーンだったのであり、バルトや、同じくナチズムに抵抗したボンヘッファーといった神学者は繰り返し第一戒の重要性を強調していました 。バルメン宣言でもそれをキリスト論的に言い換えた形で、イエス・キリストこそが唯一の、すべての主であることが宣言されています。キリストのみがすべての主であり、国家であれ人間であれ、キリスト以外の存在がその座に座ることは許されないというのです。しかし書翰においてはまさにこのキリストの主権性がないがしろにされています。ボンヘッファーはヒトラー暗殺の陰謀に加わったかどで逮捕され、終戦の直前に処刑されましたが、1944年に獄中で書いた「十戒の第一の板」と題する文章の中で、「日本のキリスト者の大部分は、最近、国家の皇帝礼拝に参加することが許されていると宣言した」ことに触れ、これを批判しています 。

松村重雄氏は教団では伝統的に贖罪信仰の強調が見られる反面、キリストの贖罪が個人の罪の赦しという内面の領域に限定され、キリストは教会の主、世界の主、全被造物の主であるという面が強調されてこなかった点に、戦前の教会が天皇制国家に追従してしまった原因の一端を見ています(「バルメン宣言と日本基督教団信仰告白」『福音と世界』2005年5月号、22頁) 。

このように、日本の教会が犯した最大の罪というのは、戦争協力というよりはむしろ、天皇を現人神としてキリストと同列いやその上に置いてしまった、偶像礼拝の罪であると言わなければなりません。と言うよりも、キリストの絶対的主権性という点において妥協し、国家に屈従した教会が、侵略戦争への積極的加担という道に突き進んでいったのは必然であったと言えるのです。律法の中で一番大切な戒めは何かと訊ねられたイエスは、神を愛することと、隣人を愛することの二つをもって答えられました(マルコ12:28-31)。この二つは表裏一体であり、切り離すことができないのです。真の意味で隣人を愛するには、まことの神を神として愛し礼拝することが必要不可欠です。この点で妥協をした教会によって作成された書翰がまさにこの隣人愛の教えを逆用して、その対極に位置する戦争への協力を呼びかけた事実は重大であるといえます。

もうひとつ注目しなければならない問題点は、日本教会がアジアの諸教会に対して持った傲慢の罪です。書翰はくりかえし、国体に基づく日本精神の土壌の上に成立した「日本国自生のキリスト教」の卓越性を宣伝しています。そして、この日本的キリスト教こそが世界を救うのだといいます。書翰で言われているアジア諸国の一致は決して日本と他の国々の対等の関係によるものではなく、あくまで盟主としての日本に他国が追従するというものであって、そのような関係はキリスト教においても前提とされています。

つまり、ここで起こっていたことは、ただ単に日本基督教団が当時の国家権力に妥協し屈従させられているというだけではありません。それと同時に教団は、日本政府と同じ側に立って、アジア諸国のキリスト教会に対して自らの優越性を誇示しているのです。つまりそこには、偶像礼拝の罪と並んで高慢の罪があったと言わなければならないのです。これは今日の日本キリスト教会全体の課題でもあると思われます 。

次回最終回では、これまでの内容を総括し、戦争と神学、そして神学者の関係について考察したいと思います。

(続く)