アドベント―夜明けを待ち望む

今日から教会暦ではアドベント(待降節)に入りました。これはクリスマスに先立つ4つ前の日曜日から始まる約4週間の期間を指しますが、西方教会(カトリック・プロテスタント)の暦はアドベントから始まりますので、これらの教会にとっては今日から新しい年を迎えるということになります。

アドベントという言葉はラテン語で「到来」を意味するadventusという言葉から来ています。これはもちろんイエス・キリストの到来を意味していますが、それには二つの意味があります。

まず第一に、この期間は約二千年前にキリストが人となって降誕されたできごとを覚え、それを待ち望む期間です。これはすでに起こったキリスト降誕のできごとを覚え、救い主を待望する神の民イスラエルの祈りに心を合わせる期間ということができるでしょう。

けれども、アドベントの意味は、たとえば日本でいう「もういくつ寝るとお正月」のように、ただクリスマスの祝日を待ち望む準備期間というだけではありません。ここで待ち望まれる「到来」は二千年前のキリストの到来を意味しているだけでなく、やがて将来起こる2度目の到来、再臨を待ち望むという意味合いもあります。地上での歩みを終えたイエスは復活後天に挙げられましたが、やがてこの地上に帰ってくることが約束されています(使徒1章9-11節)。その時キリストは神の国を完成し、王として統べ治められるのです(1コリント15章23-28節)。つまり、アドベントには過去と未来に二回にわたって行われるキリストの到来を待ち望むという、二重の意味があるのです。

このように、救いの歴史においてキリストは二度来られるわけですが、このことを聖書は美しいイメージで表現しています。

「わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。(黙示録22章16節)

ヨハネが見た終末についての幻(4章1節「これから後に起るべきこと」)は22章5節までで終わっており、16節の時点でヨハネは彼にとっての現在(紀元1世紀末)に帰ってきていますので、ここで語られている明けの明星としてのイエスは再臨のイエスではなく初臨のイエスを指していることが分かります。

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明けの明星とは金星のことで、日の出に先立って東の空にひときわ明るく輝く星です。この星が昇ると、夜明けが近いことが分かります。同様に、イエスが二千年前に来られたと言うことは、神の救いのドラマが最終段階に入り、神の国の完成がすぐそこまで来ていることを表しています。新約聖書の記者たちは一様に、彼らが終わりの時代に生きていることを意識しており、神の国を完成するためにイエスが再び来られることを待ち望んでいました。パウロはまさに夜明けというイメージを使って、そのことを表現しています。

なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。(ローマ13章11-12節)

初臨のイエスが夜明けの近いことを告げる明けの明星であるなら、再臨のイエスはまさに昇る太陽そのものと言えるでしょう(ルカ1章78節、マラキ4章2節参照)。イエスが二千年前に来られたときには、その存在に気づいたのはごく一部の人々に限られていました。けれどもキリストが再び到来する時、その輝きは世界のすべてを照らし、すべてを明らかにし、新しい時代が始まるのです。

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私たちはキリストの初臨と再臨の間の時代に生きています。いわば、明けの明星が既に輝き、東の空が白み始めていく中、太陽が地平線から昇ってくるのを今か今かと待ち構えている、そういう時代を私たちは生きているのです。

教会にとって、一年が待ち望むことから始まる―これはクリスチャンとしてのアイデンティティの重要な側面を教えてくれると思います。待ち望むことはクリスチャン信仰の重要な特質を表しています。私たちは完成された存在ではありません。常に未完成であり、成長の過程にあり、旅の途上にある存在といえます。教会とは、終わりの時代にあって、キリストの到来、神の国の到来を待ち望む共同体にほかならないのです。

「待つ」ということは、いつも易しいわけではありません。この地上に満ちる悪や苦しみに直面したとき、私たちは旧約時代の神の民のように、「主よ、いつまでなのですか。」(詩篇13篇1節)とうめくこともあります。けれども、すでにキリストが一度来られ、再び来られる約束が与えられている新約時代の私たちは、花婿の到来を待ち望む花嫁の喜びを抱きつつ、 「しかり、わたしはすぐに来る」と言われるイエスに対して、「アァメン、主イエスよ、きたりませ。 」と確信を持って祈ることができるのです(黙示録22章20節)。

Veni, Veni, Emmanuel(讃美歌94番「久しく待ちにし」)

 

復活のキリストにはなぜ傷痕があるのか

現在グレッグ・ボイドのBenefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介記事を連載していますが、そこでボイドは、十字架上のイエスにおいて啓示された神の姿は、旧約聖書で啓示された神の姿よりも優先するものであり、同時にそれらを解釈するためのレンズであると論じています(第18回第19回)。それに関連してこの記事では、十字架に先行する旧約聖書に描かれている神のイメージだけでなく、その後に来る終末における神観も、十字架のレンズを通して見なければならないということを論じていきたいと思います。

19  その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 20  そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。 (中略) 25  ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。 26  八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 27  それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。(ヨハネ20章19-27節)

新約聖書に収められている復活顕現記事の中で、ヨハネの福音書だけが、よみがえったイエスのからだに十字架の傷痕が残っていることを記しています。

The_Incredulity_of_Saint_Thomas_by_Caravaggioカラヴァッジョ「聖トマスの懐疑」

ヨハネの黙示録では、復活のキリストが「小羊」として繰り返し登場しますが、このキリストは「ほふられたと見える」小羊として描かれています。

わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。(黙示録5章6節)

なぜこの小羊がヨハネにはほふられたと見えたのでしょうか?おそらくこの小羊にはほふらられた時につけられた傷痕が残っていたのかもしれません。

Retable_de_l'Agneau_mystique_(10)ファン・エイク兄弟「神秘の子羊の礼拝」

有名な讃美歌Crown Him with Many Crowns(聖歌179番「おおくのかむり」)の歌詞にも、次のような一節があります。

Crown Him the Lord of love, behold His hands and side,
Those wounds, yet visible above, in beauty glorified.

愛の主に冠をささげよ。彼の手とわきを見よ。
これらの傷は今でも天上で、栄光に輝く麗しさの中で見ることができる。

十字架にかかって死なれたイエスは、三日後に肉体をもってよみがえりました。新約聖書によると、復活したイエスのからだは、霊ではなく物質的な肉体であり、しかも通常の人間の肉体とは異なる性質を持ったものでした。しかし、そのような栄光のからだをもって復活したキリストには、十字架の傷跡が残っていた―この非常に印象的なイメージは、十字架と復活の関係をみごとに表していると思います。一言でいえば、復活は十字架の否定ではなく肯定であり、十字架を通してでなければ理解できないということです。

近年、聖書やキリスト教信仰における復活の重要性が主張されてきています。これまでの「十字架偏重」の神学を見直し、復活の重要性を再評価しなければならない、というのです。私はそのような動きは心から歓迎しますし、確かに復活の教理は大いに強調されなければならないと思っています。しかし、問題はその強調すべき復活をどのように理解するかということです。それは一歩間違えると十字架の中心性を否定するような形の安易な勝利主義的神学に導かれれるおそれがあるのではないかと、私は危惧しています。

歴史における神の救済のドラマは、イエスの十字架によって完結したわけではもちろんありません。三日後にイエスは復活し、それは世の終わりのすべての死者の復活と新天新地の到来に導いていくものでした。ですから、確かに十字架のみを強調する神学は不完全のそしりを免れません。しかし、ここで注意しなければならないのは、十字架は終末にいたる神の物語の単なる通過点ではないということです。それどころか、十字架のできごとは、それ以後の救済史の展開を理解する上でも決定的に重要な鍵を提供しているのです。

たとえば、新約聖書が終末に再臨するイエスをどのように描いているか、それを私たちがどのように解釈すべきかを考えてみましょう。特にヨハネの黙示録は、キリストを悪を滅ぼす戦士として、怒りと裁きの神として描いています(19章11-16節)。多くの人々はこのイメージを文字通り受け取り、再臨のキリストを通して啓示される神の本質は怒りと裁きの神であると考えています。しかし、このような解釈は、黙示録自体においてキリストは同時に一貫して「ほふられた小羊」として描かれていることとも、福音書等でイエスが自己犠牲的な愛の神として啓示されていることとも矛盾します。ですから、私たちは黙示録における暴力的なイエスの描写を文字通り解釈するのではなく、ヨハネが黙示文学における戦う神の伝統的表象を逆用していると考えなければならないのです(このことについては、「黙示録における『福音』」のシリーズを参照してください)。しかし、その時私たちは、黙示録にある戦士としてのイエスのイメージを、十字架につけられた愛のイエスの姿をレンズとして見ていることになります。つまり、十字架上のイエスにおいて啓示された神の姿は、それに先行する旧約聖書の神啓示に優先するだけでなく、それ以後の新約聖書におけるその他の神啓示にも優先するということになります。その意味で、十字架は文字通り全聖書の中心であり、解釈学的転回点なのです。

聖書の終末論のポイントは神の国、つまり神の王なる支配が天だけでなく地にも到来し、すべてをおおいつくす、ということです。復活も新天新地もすべてはこの観点から見ていく必要があります。しかし、問題は、それがどのような種類の支配で、どのように行使されるのか、ということです。十字架が全聖書の中心であるというのは、この終末における神の王的支配もまた、十字架のレンズを通して理解しなければならないことを示しています。つまりそれは黙示録の「バビロン=ローマ」に象徴されているような、力による上からの支配ではなく、十字架のイエスが身をもって示されたような、自己犠牲的な愛によって他者に仕える(マルコ10:42-45、ルカ22:24-30)、そういう「支配」なのです。(この点については、「御国を来たらせたまえ(補)」をお読みください)。そういう意味で、新約聖書の終末論は「十字架形の終末論 cruciform eschatology」と言っても良いかも知れません。

終末における復活や神の国の完成を十字架のレンズを通して見るか見ないかということは、クリスチャン信仰のありかたそのものを大きく左右する、決定的に重要なことであると思います。この点を見誤ってしまうと、復活は単なる「十字架の死や弱さという否定的な効果のキャンセル」という理解になってしまいます。そうすると、死からよみがえったイエスは「本来そうであった」力と栄光に満ちた神として、敵対する者に復讐するために地上に戻ってくる存在として理解されることになります。つまり、このような勝利主義的な理解においては、復活は十字架において示された愛なる神の本質を否定あるいは少なくとも限定するものとしてとらえられてしまいます。しかし復活は十字架の否定でも限定でもありません。復活は十字架を通して啓示された愛なる神の本質を確証する、神の「しかり」なのです。復活のイエスが十字架の傷跡を持ち続けておられるのは、そのことを意味しているのだと思います。

聖書解釈や神学において、イエス・キリストを中心に考える「キリスト中心的 Christocentric」アプローチが語られることがあります。それは確かに重要な考え方であると思いますが、そこで中心に置かれる「キリスト」がどのようにイメージされるか―十字架上の愛のイエスか、それとも力に満ちた裁きの神としての勝利主義的イエスか―によって、その内容は大きく変わってきます。ですから、私は自分の神学を表現する時には「キリスト中心的」という表現より、「十字架中心的 crucicentric」という表現を用いたいと思っています。パウロが「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(1コリント2章2節)と語っている通りです。

十字架は復活がなければ完結しません。けれども同時に、復活は十字架の光に照らしてはじめて本当に理解できます。復活のイエスのからだに残された十字架の傷跡は、そのことを私たちにいつも思い起こさせてくれるのだと思います。

エペソ書とキリストの戦い(2)

前回に引き続いて、エペソ書における霊的戦いについて概観します。

エペソ書3章でパウロはふたたび神の「奥義」について語りますが、その表現は1章10節とは少し異なっています:

5  この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。 6  それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。(エペソ3章5-6節)

これは1章10節にあった「神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされた」という内容のうち、地上における神の働きの中身をより詳しく説明したものと言ってよいでしょう。パウロはこの「奥義にあずかる務」(3章9節)に携わるようになりました。その目的がすぐ次の箇所に書かれています。

10  それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、  11  わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。(3章10-11節)

このような知恵が支配や権威(前回見たように、これらは神に敵対する霊的存在をさしています)に対して示されるというのは何を意味しているのでしょうか?ここで、新約聖書の終末論に特徴的な「すでに」と「いまだ」の緊張関係を説明する必要があります。新約聖書では、キリストが来られたことによって、ある意味では「すでに」終わりの時代は始まっています。けれども、キリストが再臨して神の国が完成に至る時までは、「いまだ」終わりは来ていないのです。

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1章でパウロはキリストが「支配」や「権威」といった霊的存在よりも高く上げられた、つまりそれらを支配する存在であることを語りました。これは終末論の「すでに」の側面に属することです。しかし、支配や権威は今なお完全に神とキリストに服従するには至っていません。これは「いまだ」の側面です。このことは、「空中の権を持つ君」すなわち悪魔が「不従順の子らの中に今も働いている」とパウロが2章2節で述べていることから明らかです。

エペソ1章21節に出てくる「支配(アルケー)」「権威(エクスーシア)」「権力(デュナミス)」は1コリント15章24節にも登場しますが(翻訳によって訳語が異なることがあります)、そこでは、これらの霊的存在はキリストが再臨する時に滅ぼされるとパウロは言います。しかし、エペソ書1章ではパウロは現在の状態について、神はキリストをこれらの霊的存在の上に置かれたとのみ書いています。つまり、これら霊的な敵対勢力は世の終わりには滅ぼされることになっていますが、現在のところはキリストの下に置かれるにとどまっており、地上の教会に対して戦いを挑んできているのです(6章12節参照)。

では、そのような背景を頭に置いて3章10節の内容を考えるとどういうことが言えるでしょうか?パウロは神の右に挙げられたキリストの下に置かれながらも、いまだに抵抗を続ける支配や権威に対して、神の知恵が誇示されると言うのです。ここでパウロがこの知恵が「教会をとおして」示されると書いているのが重要です。古代の人々は、地上の世界で起こっている出来事を、天では御使いたちが見守っているという世界観を持っていました(1コリント4章9節、1テモテ3章16節、マタイ18章10節等を参照)。神が教会を通して地上で成し遂げられたできごとは、天上世界の存在に対してあるメッセージを発信しています。それは何でしょうか?

天にある支配と権威の働きによって、神の創造された良い世界はばらばらに分断され、人類も分裂を憎しみに支配されていました。しかしかつては水と油、犬と猿のように敵対していたユダヤ人と異邦人がキリストにあって一つの教会とされました。つまり、キリストにあって、天にある支配や権威の悪しき働きが地上においてキャンセルされたのです。この不可能と思える出来事を可能にされたところに神の知恵があります。それは1章10節でキリストにあって万物が神の元に集められる、という神のご計画の第一段階です。地上において教会が一致したと言うことは、近い将来に天においてもキリストの支配が完了することを示すものであって、神は一つになった教会の姿を通して、御自身に敵対する霊的存在に対して、彼らの時が短いことを宣言されているのです。つまり神は、地上における教会のはたらきを通して、神の確実な勝利と来るべき裁きを天にある支配と権威に見せつけておられます。

実は旧約聖書にも、敵の面前で神がご自分の民をあえて祝福してみせるという箇所があります。

あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。(詩篇23篇5節)

また、中間時代(旧約聖書と新約聖書の間の時代)に書かれたシリア語バルク書という文書には、メシヤが悪の勢力を滅ぼす時、その首領を生け捕りにしてシオンに引いてきて、彼の目の前でその罪状を並べて認めさせた後、首領を殺すという描写があります(40章1-2節)。

ところで、パウロはコリント人への第一の手紙でも神の知恵とキリストを結びつけていますが、そこで神の知恵とされているのは十字架のみわざです。

18  十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。19  すなわち、聖書に、
「わたしは知者の知恵を滅ぼし、
賢い者の賢さをむなしいものにする」
と書いてある。20  知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。21  この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。22  ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。23  しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、24  召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。25  神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
26  兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。27  それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、28  有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。29  それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。30  あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。31  それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。
(1コリント1章18-31節)

神はキリストによる十字架の死という、この世の標準からすれば最も弱く愚かな方法をもって、ご自分の知恵を示されました。30節ではキリスト御自身が「知恵」と呼ばれています。それだけでなく、神は同じ知恵を、この世では愚かで弱いとされる人々を選んでキリストのしもべとすることによっても示されたので。そして、その目的は「知者をはずかしめ」「強い者をはずかしめる」ためであり、「どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないため」でした。

1コリントではおそらく高ぶっている人間について語られていると思われますが、エペソ書では天にいる支配や権威といった霊的存在に対して同様のことがなされていると考えられるでしょう。神はキリストの十字架という一見「愚かで弱い」方法で救いを成し遂げ、教会を一致させました。また、その福音を宣べ伝えさせるために、パウロという教会の迫害者、使徒と呼ばれるに値しないような人物、迫害と苦しみの中で弱さを覚えているような人物をあえて選ばれたのです。それは、天における支配や権威に対してご自身の知恵を示し、これらの霊をはずかしめるためでした。

パウロは支配や権威がどのようにして神に反抗しているのかはっきり語っていませんが、おそらくその最も大きなものは高ぶりであると思われます。サタンの最大の罪は高ぶりでした(1テモテ3章6節参照)。神がこれらの高慢な霊をどのように罰せられるのでしょうか?高ぶっている者に対してもっとも効果的な処罰は、彼らに恥をかかせることです。神はここでまさにそのようなことをなされていると言えます。

私たちは信仰生活において弱さを覚える時があります。教会も時に力なく、この世のいろいろな組織や団体に比べていかにも弱く、頼りない存在のように見える時があります。しかし、そのような弱いクリスチャンたち、弱い教会をとおして福音が宣べ伝えられていくところにこそ、神の力が働き、神の知恵が示されているのです。

(続く)

 

御国を来たらせたまえ(補)

(本シリーズの過去記事         

本シリーズは一応前回で終了のつもりだったのですが、はちこさんこと中村佐知さんのブログ「ミルトスの木かげで」上でとても重要なご質問をいただきました。これは本シリーズでこれまで述べてきたこと全体の理解に関わる問題ですので、それに応答する形で補足記事を書きたいと思います。

詳しい質問の内容はリンク先のブログ記事を見ていただくとして、このご質問の核心は、「世の終わりに神(と神の民)が『支配する』とはどういう意味なのか?」ということだと思います。

このシリーズでも繰り返し、「神の国basileia」とは神の王としての支配であり、「御国が来る」とは神が天のみならず地においても王となられて支配されることだと書いてきました。けれども、「支配」というと何か自分の意に沿わない存在を力づくで従わせるようなネガティブなイメージがあり、永遠の至福の状態というクリスチャンの希望とはどこか相容れない違和感を感じる人々もおられると思います。

この問題を考える時には、神が「王」であるとはどういうことか、王なる神が「支配」するとはどういう意味かについて、聖書的な正しい理解を持つ必要があります。その鍵になるのが次の聖書箇所です。

24  それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。  25  そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。  26  しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。」(ルカ22章24-26節)

ここでイエスは、世の中一般における「支配」の理解(「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。」)と、神の国における「支配」(「あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。」)を対比しています。つまり、神の国における「支配」とは、この世の王国のような暴力と強制によるのではなく、愛と謙遜にもとづく奉仕によるものであると言えます。そして、このような神の国における「王権」「支配」のあり方を身を持って示してくださったのがイエスご自身なのです。

「神が王である」ということは旧約聖書から一貫して見られる聖書の主張です。しかし、イエス・キリストにおいてはじめて、そのことの真の意味が明らかにされました。イエス時代のユダヤ人のメシヤ観は一様ではありませんでしたが、最も広く受け入れられていたのは、「メシヤはダビデの家系に属する王である」というものでした。来るべき救い主は、異邦人(この場合はローマ帝国)の支配を打ち破って、神の民を解放してくれるような、軍事的・政治的指導者と考えられていたのです。

さて、そのような王なるメシヤへの期待感が広がる1世紀のユダヤに登場したのがナザレのイエスでした。たとえば福音書におけるイエスのエルサレム入城の記事を見ると、群集がイエスを王として歓迎していることが伺えます(たとえばマタイ21章1-9節)。ところが、イエスはローマへの反乱を率いるどころか、逆に捕らえられてローマ人の手によって十字架刑に処されてしまいます。イエスが多くのユダヤ人が期待していたような種類の「王」でないことは明らかでした。しかし、十字架上で死なれたイエスは三日目によみがえり、弟子たちに現れてこう言われます。 「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」(マタイ28章18節)つまり、イエスは真の王であることが明らかにされたのです。

実際、マタイ福音書の受難記事で、イエスはくりかえし「王」と呼ばれています(27章11、29、37、42節)が、ここには二重のアイロニーが含まれています。つまり、人々はイエスが(本当はそうでないのに)ユダヤ人の王を自称した、ということでイエスを十字架につけたわけですが、マタイと福音書の読者には彼が本当の王であることが分かっているのです。イエスはダビデの家系に属する王なるメシヤとして、確かにイスラエルの救いをなしとげました。しかしそれは、人々が思っていたように武力を用いてローマを打倒することによってなされたのではなく、十字架の上でいのちを捨てることによってなされたのです。イエスはまさに「仕える王Servant King」ということができるでしょう。

さて、このことは冒頭のご質問にあった、終末における神の国の支配とどのように結びつくのでしょうか?多くの人々は、確かに初臨のイエスは十字架にかけられた無力な姿で来られたけれども、再臨のイエスはそれとはうって変わって力と栄光に満ちた姿で地上に到来し、この地上の権力を力で滅ぼす王であると考えています。つまり、多くの人の思い描く終末の王としてのイエスのイメージは、当のイエスがまさに批判したところの、この世の王たちの姿と何ら変わらないのです。

しかし、このような一般的イメージが間違っていることは、以前書いた黙示録についてのシリーズで論じましたので、そちらをご覧ください(黙示録における「福音」     )。再臨のキリストが悪に打ち勝たれるのは、ローマやバビロンのような暴力によってではなく、十字架に表されているような自己犠牲的な愛によるのです。そして、新天新地で神が王として永遠にすべ治めるということも、同じように考えるべきだと思います。上で引用したルカ福音書の箇所にあるように、もしイエスがこの世的な支配のあり方を否定し、弟子たちにそれとは反対の生き方を教えながら、世の終わりにイエスご自身がこの世的な支配のあり方に逆戻りするとは考えられません。やがて来るべき世界の王の姿は、十字架にかけられたイエスの姿において既にはっきりと示されているのです。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」お方です(ヘブル13章8節)。

このように考えてくると、「神の国が地上に到来する」「神がすべての王となられる」「神の民が神の支配に参加させていただく」といった、本シリーズで何度も述べてきたことがらを、この世的な王や支配のイメージで考えてはならない、ということが分かります。黙示録において世々にわたって世界を統べ治める王は、ほふられた小羊としてのキリストです。神の国における「支配」を考える時に、私たちは十字架にかけられたイエスというレンズを通して考えなければならないのです。つまり、神の国における支配とは、自己犠牲的な愛による奉仕にほかならないのです。

本シリーズで見てきたように、クリスチャンの究極的な希望は、神が王として世界のすべてを支配し、神の民もその支配に参加させていただくことです。一方、新約聖書が記しているもう一つの終末的ビジョンは、三位一体の神が永遠の昔から持っておられる愛の交わりの中に、神の民が参加することです(ヨハネ17章21-26節、1ヨハネ1章3節、4章12-16節)。以上述べてきたことから、この二つは別々のことがらではなく、同じものを指していると考えることができます。

神と神の民が世の終わりにすべてを支配する王となるということは、すべての存在が互いに愛をもって仕えあい、神の造られた素晴らしい被造物世界をいつくしみをもって管理していくということです。言い換えれば、終末において完成する「神の国」とは、三位一体の神のアガペーの愛によってすべてが覆い尽くされた世界のことなのです。

御国を来たらせたまえ(9)

(本シリーズの過去記事        

神の国についてとりとめもなく書いてきたこのシリーズですが、今回でとりあえず最後にしたいと思います。最後に取り上げるのはヨハネの黙示録です。

「御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という主の祈りの一節に表されているような終末的希望、つまり神の王としての支配が天においてだけでなく、地においても実現するようにというビジョンは、ヨハネ黙示録の中心的なテーマと言っていいと思います。

黙示録の描き出す神学的世界は、「天と地」という空間的座標軸と、「今の世と来るべき世」という時間的座標軸によってとらえることができます。「」は神の御座のあるところであり、そこでは神の栄光が充ち満ちていて、神の支配が完全に行き渡っているところです(4章参照)。これに対して「」は悪の力が猛威をふるっており、いまだ神の主権的支配が完全に現れていない領域として描かれています(たとえば13章)。ヨハネと仲間のクリスチャンたちは、そのような地上において神を信じ従う存在として、大きな苦難の中にある存在として位置づけられています。ヨハネが本書を書いたのは、流刑先であるパトモス島において復活のキリストからの幻を受けたことがきっかけでした。

しかし、そのような地上の状態はあくまでも「今の世」におけるものであって、いつまでもそうではない、というのが黙示録のメッセージです。将来の「来るべき世」においては、現在は天においてのみ完全に表されている神の王なる支配(=神の国)が地においても完全に実現される時が来る。これが黙示録の希望であり、確信なのです。N・T・ライト風に言えば、「天と地が一つになり、神の未来が現在を訪れる」というビジョンです。

このことは、黙示録における神の呼び名によく表されています。

今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。(1章8節)

ここで使われている「今いまし、昔いまし、やがて来るべき者」という表現は、黙示録に何度も登場します(1章4節、4章8節)。この呼び名は、出エジプト記3章14節に出てくる「わたしは、有って有る者」という神の呼称を思わせます。神は永遠の存在であり、過去も現在も未来も支配されるお方です。神はこれまでの歴史も導かれたし、現在の状況もコントロールしておられ、未来もその御手の中にあります。似たような神の形容は他の宗教にもありました。たとえばヘレニズム宗教においてゼウスは「昔いまし、今いまし、後にいます方who was and who is and who will be」と呼ばれていました。ところがヨハネは「後にいます」というところを「やがて来たるべき」と言い換えています。これは、聖書の神がただ人間の歴史とは無関係に永遠に存在する神(哲学者の神)ではなく、人間の歴史に自ら介入される方であることを表しています。けれども、ヨハネが生きている「今の世」においては、神はまだ地上を訪れておらず、教会は将来起こるその訪れを待ち望んでいるのです。

けれども、ヨハネが見た「これから後に起るべきこと」(4章1節)の幻の中では、この神表現に変化が見られるのです。

今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。」(11章17節)

それから、水をつかさどる御使がこう言うのを、聞いた、「今いまし、昔いませる聖なる者よ。このようにお定めになったあなたは、正しいかたであります。」(16章5節)

これらの箇所では、「今いまし、昔いませる」の部分は同じですが「後に来られる」という部分がありません。なぜでしょうか?6章以降に描かれているのは、地上の悪に対する神の最終的なさばきです。これについてリチャード・ボウカムはこう言っています。

幻では、これらの時点で神の終末論的到来が起こりつつある。これはもはや未来のことではない。そして、その呼称を用いる賛歌はこの、神の目的の終末論的成就の出現を讃える。(『ヨハネ黙示録の神学』39ページ)

すなわち黙示録のナラティヴのこの時点では、神の到来はもはや未来のことではなく、すでに開始された地上の現実となっているのです。

神が地上を訪れるというのは、神が王としての支配を確立されることです。

第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国basileiaは、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろうbasileusei」。(11章15節)

ここで「この世の国」と訳されている部分の「国」は何度も出てきた「王国」「王としての支配」を表すbasileiaというギリシア語が使われています。興味深いことにここでは単数形が使われており、世界にある国々は、神に敵対する単一の「王国basileia」としてとらえられていることが分かります。神は世の終わりに地上の歴史に決定的な介入を行われ、その王国をご自分のものとして掌握されるのです。そして神が開始する王としての支配は永遠に続くものです。「支配なさるであろう」と訳されているのは、basileiaから派生した動詞basileuōの未来形が使われています。この世の国は神の国となり、その国は永遠に続くのです。

最後に、世の終わりに到来する神の国と教会とはどのような関係にあるのかを考えてみたいと思います。5章の天の御座の幻の中で、キリストの贖罪のみわざを讃える賛美の中で、天使たちは次のように歌います。

9  彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、10  わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょうbasileusousin」。(5章9-10節)

ここで、キリストによって贖われた人々は、地上を「支配するに至るでしょう」と書かれていますが、ここでも上に出てきた動詞basileuōの未来形が使われています(ただしここでは複数形)。さらに同じ動詞の形が、ヨハネの見た幻の最後の部分にも登場します。

夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配するbasileusousin。(22章5節)

つまり、黙示録には、世の終わりに神ご自身が王として支配するだけでなく、神の民である教会もまた王として支配すると書かれているのです。これはつまり、神の王としての支配の働きにクリスチャンが参加させていただくことを意味しています。

「御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」この祈りは、教会が地上に訪れる神の支配の単なる受け手となるだけでなく、やがておとずれる新しい世界の共同統治者としていただく時に、最終的に成就するのです。

御国を来たらせたまえ(6)

(シリーズ過去記事     

神の国についてのシリーズの中で、過去2回にわたって「携挙」の概念について書いてきました。

なぜ「携挙」の概念がこれほど人気があるのでしょうか?それは一つには、これまで論じてきたような、ギリシア的霊肉二元論に基づく通俗的天国観があると思います。つまり、クリスチャンの最終的希望は、滅び行く地上世界を離れ去って、霊的な楽園としての「天国」で神と永遠に過ごすことだという考えです。もちろん、1テサロニケ4章16-17節でパウロは携挙について語っていると信じるならば、その時には同時に死者の復活も起こることも認めなければなりませんので(16節「その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、」)、これは厳密には「死後霊魂が肉体を離れて天国に行く」というものとは異なります。しかし、地上の悪の世界から脱出して神のおられる「天国」に入る、という天国観は、「携挙」の考えと非常になじみやすいということは言えます。このような現世逃避的な思想(「悲観的終末論」と言ってもいいかもしれません)は、携挙によって教会は終末の患難期を経験することがない、という考え方に典型的に表れています。

「携挙」が広く信じられているもう一つの理由は、聖書の中には天に挙げられた人々の記述があるからだと思います。それはエノク(創世記5章24節)、エリヤ(2列王記2章11節)、そしてもちろんイエス(ルカ24章50-51節、使徒1章9節)の昇天記事です。これらの人々は、地上から神の住む領域である天へと移されました。これらの記述から、「神に祝福された人々は最終的に地上から天に挙げられる」という「原則」を人々が見いだしたとしても不思議ではありません。しかし、これは真理の半分しかとらえていない理解です。

確かにこれらの昇天記事は、神の住まわれる領域すなわち「天」に移されること、つまり神とともに生きるいのちの祝福を表していると言えます。しかし、聖書の語る最終的な終末のビジョンは、神ご自身が地上に降りてきて人とともに住み、天と地が神の普遍的な支配の下で一つになるということです。

1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。2  また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。3  また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、4  人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(黙示録21章1-4節)

終末に起こる、再臨のキリストとの出会いはそのような聖書ナラティヴの全体的なストーリーラインの中でとらえなければなりません。そのように考える時、パウロがキリスト者は「いつも主と共にいる」と言ったときに彼が語っているのは、地上に降りてきた新しいエルサレムにおけるキリストとの生活を意味していると考える十分な根拠があります。

このことは、聖書の読み方についても多くの示唆を与えてくれます。私たちが聖書に書かれている断片的事例から普遍的な原則を導き出そうとするとき、聖書に繰り返し出てくるできごとが、永遠に繰り返される固定されたパターンであるかのように誤解してしまうことがあります。たとえばある人々は次のように考えるかもしれません。

スライド1

しかし、聖書は歴史と関わりのない普遍的な命題的真理の単なるコレクションではなく、首尾一貫したストーリーラインを持つ一つの物語(ナラティヴ)です。物語においては話がどのような展開を経てどういう結末にいたるかが重要であり、同じようなできごとがただ繰り返されていくのではありません。物語の各部分はそのようなストーリーラインの枠組みと、その部分が全体の中でどういう位置を占めているかに照らして解釈されなければならないのです。したがって、聖書の昇天物語に見られるテーマ(神とともに生きるいのちへの移行)はかならずしも「地上から天に引きあげられる」という固定された物理的移動によっていつも表現されるわけではなく、同じテーマが終末における救済史の新しい展開(天における神の支配が地にも現される。言い換えれば天と地が一つになる)においては、新しい形態を取る(神の民が再臨の主を地上に迎え入れる)ということも十分にあり得るわけです。

スライド2

このように、「携挙」の問題を考えるときにも、聖書の全体像をどう把握するかが重要であることが分かります。そして、最終的に最も説得力のある解釈は、聖書全体のストーリーラインにもっともよく適合する解釈なのです。

(続く)

御国を来たらせたまえ(5)

(シリーズ過去記事    

前回に引き続き、「携挙」について考えます。携挙の聖書的根拠として取り上げられるもう一つの箇所は、マタイ福音書の次の箇所です。

37  人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 38  すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 39  そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。 40  そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。 41  ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。 42  だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。(マタイ24章37-42節)

二人の人物が一緒にいるときに、一人が取られ、一人が残されるという印象的なイメージは、ルカ福音書17章にも並行箇所がありますが、ここで問題になるのが、「取られる」「残される」というのがそれぞれ何を指しているのか、ということです。この二つはどちらか一方がさばきを、他方が救いを表していると考えられますが、どちらがどちらなのかははっきりしません

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携挙を支持する人々は、ここで「取られる」方の人物が救われるのだ、と解釈します。たとえば上の画像は18世紀末に出版された聖書の挿絵(マタイ24章40節の部分)ですが、この解釈に基づいて描かれたものといえます。31節でキリストがご自分の民を集めると書かれているのもこの解釈を支持するように思われますので、「取られる」方が救われる方であると考えることは可能です。

しかしその場合でも、この部分が必ずしも「携挙」を表しているとは言えません。まず、この箇所では「取られる」人々が天に引き上げられるということが明示されているわけではありません。天から地上に降臨したキリストが、ご自身のおられる場所にご自分の民を集めるという解釈も十分成り立ちます。またいずれにしても、この時の「再臨」は患難期前再臨説が主張するような、(そして「レフト・ビハインド」シリーズに見られるような)、世の人々が知らないうちにキリストが密かに来臨し、クリスチャンが取り去られるというものではありません。30節には、「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。 」とあるからです。

さらに、この箇所は「取られる」方が裁きを受ける方であると解釈することも可能です。この箇所でイエスは終末に起こる、救われる者と裁かれる者との分離をノアの洪水にたとえていますが、39節では「そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。」と書かれています。明らかに、ここで洪水にさらわれていくのは裁きを受けておぼれ死んだ人々です。

したがって、世の終わりには一部の人々が取り去られ、一部が残されるというイエスの表現だけでは、携挙の根拠とするには不十分といえます。

続いて、ヨハネ福音書に目を転じましょう。受難前夜の弟子たちに対する長い説話の中で、イエスはこう言われました:

3 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3  そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。(ヨハネ14章2-3節)

ここも「携挙」を支持する箇所のように見えます。つまり、イエスが死と復活を通して父のみもとに帰るとき、「わたしの父の家」つまり天国で弟子たちのためのすまいを用意し、しかるべき後にこの地上に帰ってきて弟子たちを迎え、天国に連れて行ってくださる、というのです。

ここは非常に難しい箇所で、いろいろな解釈が提示されていますが、イエスがこの箇所で「わたしの父の家」に弟子たちのためのすまいを用意し、そこに弟子たちを導くために迎えに来ると言われているのは確かです。しかし、「わたしの父の家」とは何を指しているのでしょうか?ヨハネ福音書では、この表現は神殿を指しています(2章16節)ので、14章で語られる「わたしの父の家」も神殿と考えることができます。ただし、世の終わりにイエスが弟子たちを導き入れるという神殿は、もちろんエルサレムにある人の手で造られた神殿のことではなく、天から下ってくる新しいエルサレムであると考えられます(黙示録21章2節)。新エルサレムは都全体が神殿であると語られているからです(同22節)。つまり、ここでイエスが弟子たちに語っているのは、世の終わりには彼らはイエスとともに終末的神殿である新しいエルサレムでいつまでも住むことができる、ということです。このように考えれば、この箇所も聖書全体の方向性である「天から地へ」という枠組みの中で考えることができます。

*   *   *

今回取り上げた聖書箇所は、どれも解釈の幅のある箇所であり、携挙を支持するとも支持しないとも解釈することのできる、難解な部分です。上で示した解釈は、いくつかある解釈の一つの選択肢に過ぎません。しかし、だから「何でもあり」ということではなく、どの解釈がより説得力があるのか、を考えなければなりません。このような場合に大切なことは、聖書の示す大きな物語のストーリーラインに沿ってその箇所を理解することです。

個人的にはクリスチャンが再臨時に空中でキリストと出会い、そのまま天に引き上げられていくという「携挙」は聖書的根拠に乏しいと考えています。それは、これまでとり上げたいくつかの個所の釈義的可能性に基づくだけでなく、「天から地へ」という聖書の終末論全体を貫く方向性と逆行しているように思えるからです。つまり、世の終わりにクリスチャンが天に引き上げられるという解釈よりも、天から降臨するイエスを地上で迎えるという解釈のほうが、聖書の物語全体の文脈により適合するということです。

次回は、携挙の問題をより大きな聖書のストーリーラインの観点からさらに深く見て行きたいと思います。

(続く)