N.T.ライト『新約聖書と神の民』について(山口希生氏ゲスト投稿 その2)

その1

山口希生さんによるゲスト投稿の2回目をお送りします。お忙しい中、寄稿してくださった山口さんに心より感謝します。

4月には山口さんを講師として『新約聖書と神の民』出版記念講演会も行われるとのことです(詳細はこちらこちらをご覧ください)。日本でのライトをめぐる議論がさらに活性化する、素晴らしい機会になると思います。

NTPG

『新約聖書と神の民』原書
The New Testament and the People of God

第二回

ユダヤ・キリスト教の創造主信仰

ユダヤ教とキリスト教が共有する根源的な信仰とは、この物質世界は善なる神の創られた世界であり、元来は非常に「良い」世界だったという信仰です。創造主である神への信仰ということです。この創造主信仰と対立するのは、物質的世界を劣ったもの、一時的なものと見なすプラトン主義、この世界が劣った神によって創造されたという「グノーシス主義」、さらにはサタンによって創造されたという「カタリ派」などの一群の宗教的思想です。これらの宗教思想は現世を悪い世として悲観的に見て、この世の人生の喜びを否定し、極端な禁欲主義を推奨します。キリスト教においても「この世との分離」が強調される面がありますので、一見するとグノーシス的禁欲主義もキリスト教的だと理解される場合があります。しかし、その根底にある世界観は全く正反対であると言えます。キリスト教が掲げるビジョンとは、この世の消滅ではなく刷新だからです。 続きを読む

もう一つの座標系

ひとつ前の記事「アドベント―夜明けを待ち望む」で教会暦について書きましたが、「ミルトスの木かげで」のブログではちこさんが教会暦を用いたカレンダーを紹介し、その説明文を引用しておられました。

一般のカレンダーは、ローマ帝国に起源があります。ローマ帝国では、役人たちが一月一日に就任するのです。それとは異なる教会暦カレンダーのフォーマットは、私たちは神の時間の中に生きる、神の国の民であることを日々思い起こさせてくれます。

はちこさんのブログ記事のタイトルは「Happy Christian New Year!」です。つまり、クリスチャンにとっては1月1日ではなくアドベントの始まりが新年なのだということです。そこに表現されている、この世の時間とは異なる「神の時間の中に生きる」感覚はとても大切だと思わされました。クリスチャンは「天に国籍を持つ」存在であり(ピリピ3章20節)、この世と異なる世界観・時空観を持って生きるべき存在です。そのことヨハネの黙示録から見てみたいと思います。

ヨハネが生きていた当時のローマ帝国では、世界は皇帝によって定義されていました。世界の中心は皇帝の住む首都ローマであり、皇帝の家系はギリシア・ローマ神話の神々と結び付けて描かれることによって、世界の始まりと関係づけられていました。そして初代皇帝であるアウグストゥスの到来が人類史の黄金時代の幕開けであると考えられて(宣伝されて)いたのです。つまり、ローマのイデオロギーにおける世界は、首都を中心とした空間軸と、神話的起源からアウグストゥスの到来に至る時間軸によってとらえられていたのです。このような「座標系」は、人々にある特定のしかたで時間と空間を経験し、特定の物語(ナラティヴ)を生きることを要求し、したがって彼らに特定のアイデンティティを与えます。

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アウグストゥス(Photo by Alexander Z.

ところがヨハネが神から受け取った啓示は、これとはまったく異なる時空観を持っていました。彼が見せられた幻では、世界の中心は天にある神の御座でした(4-5章)。この王座から神はすべてを支配しておられるのです。

そして、黙示録における時間は、歴史における三つの重要なポイントによって枠付けられています。最初のポイントは歴史の起点である世界の創造です。このことは黙示録における神が万物の創造者として描かれていることから分かります。

「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。(4章11節)

神による創造によって始まった世界の歴史は、二つの出来事によって新しい段階を迎えます。このことをヨハネは「新しい」(ギリシア語kainos)という形容詞を用いて表現しています。ひとつ目は、小羊キリストによる救済のみわざです。ヨハネの見た天の御座の幻では、5章で小羊キリストが登場し、天使たちがその十字架のあがないをたたえます。

彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。 (5章9-10節)

ここで彼らが歌っているのが「新しい歌」と呼ばれているのは、キリストの救済のわざによって、人類の歴史が新しい段階に入ったことを示しています。

けれども、ヨハネの幻の中ではさらに「新しい」できごとが起こります。それは終末における再創造のわざです。

わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。(21章1-2節)

つまり、黙示録における時間軸は創造からキリストによる救済を経て新創造へと至るものであることが分かります。上の引用箇所では、宇宙の中心である神の御座が新しいエルサレムという形で天から地上へとシフトしてくるダイナミックな動きを見ることができますが、空間的中心は礼拝の対象たる神と小羊であることは変わりません。

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黙示録の世界観

世界の中心は皇帝のいるローマではなく神と小羊の御座であり、新しい時代の始まりは皇帝の到来ではなくイエスの到来でしるされ、それは来るべき新天新地の希望へとつながっていく・・・。これが黙示録の提示している空間軸と時間軸です。ヨハネが提供しているのは、私たちが生きるべき新しい「座標系」、新しい物語、新しいアイデンティティです。

キリスト教信仰とは、この世から隔絶した別世界(「天国」)を夢想する思想ではありません。そうではなく、この現実世界に対するもう一つの見方、世界観を提供するものです。クリスチャンはイエスの到来を起点とする「新しい暦」に従って生き、イエスが来られたことを祝う「新しい歌」を歌い、つねに宇宙の中心である神と小羊の御座を見つめながら生きる存在です。それはこの世から逃れて生きることではなく、この世にありながらこの世とは別の座標系を持って同じ現実を見つめ、そこに新しい意義を見出して生きていくことだと思います。

なお、聖書のクリスマス物語とローマ帝国の関係については、昨年書いたこの記事をご覧ください。

アドベント―夜明けを待ち望む

今日から教会暦ではアドベント(待降節)に入りました。これはクリスマスに先立つ4つ前の日曜日から始まる約4週間の期間を指しますが、西方教会(カトリック・プロテスタント)の暦はアドベントから始まりますので、これらの教会にとっては今日から新しい年を迎えるということになります。

アドベントという言葉はラテン語で「到来」を意味するadventusという言葉から来ています。これはもちろんイエス・キリストの到来を意味していますが、それには二つの意味があります。

まず第一に、この期間は約二千年前にキリストが人となって降誕されたできごとを覚え、それを待ち望む期間です。これはすでに起こったキリスト降誕のできごとを覚え、救い主を待望する神の民イスラエルの祈りに心を合わせる期間ということができるでしょう。

けれども、アドベントの意味は、たとえば日本でいう「もういくつ寝るとお正月」のように、ただクリスマスの祝日を待ち望む準備期間というだけではありません。ここで待ち望まれる「到来」は二千年前のキリストの到来を意味しているだけでなく、やがて将来起こる2度目の到来、再臨を待ち望むという意味合いもあります。地上での歩みを終えたイエスは復活後天に挙げられましたが、やがてこの地上に帰ってくることが約束されています(使徒1章9-11節)。その時キリストは神の国を完成し、王として統べ治められるのです(1コリント15章23-28節)。つまり、アドベントには過去と未来に二回にわたって行われるキリストの到来を待ち望むという、二重の意味があるのです。

このように、救いの歴史においてキリストは二度来られるわけですが、このことを聖書は美しいイメージで表現しています。

「わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。(黙示録22章16節)

ヨハネが見た終末についての幻(4章1節「これから後に起るべきこと」)は22章5節までで終わっており、16節の時点でヨハネは彼にとっての現在(紀元1世紀末)に帰ってきていますので、ここで語られている明けの明星としてのイエスは再臨のイエスではなく初臨のイエスを指していることが分かります。

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明けの明星とは金星のことで、日の出に先立って東の空にひときわ明るく輝く星です。この星が昇ると、夜明けが近いことが分かります。同様に、イエスが二千年前に来られたと言うことは、神の救いのドラマが最終段階に入り、神の国の完成がすぐそこまで来ていることを表しています。新約聖書の記者たちは一様に、彼らが終わりの時代に生きていることを意識しており、神の国を完成するためにイエスが再び来られることを待ち望んでいました。パウロはまさに夜明けというイメージを使って、そのことを表現しています。

なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。(ローマ13章11-12節)

初臨のイエスが夜明けの近いことを告げる明けの明星であるなら、再臨のイエスはまさに昇る太陽そのものと言えるでしょう(ルカ1章78節、マラキ4章2節参照)。イエスが二千年前に来られたときには、その存在に気づいたのはごく一部の人々に限られていました。けれどもキリストが再び到来する時、その輝きは世界のすべてを照らし、すべてを明らかにし、新しい時代が始まるのです。

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私たちはキリストの初臨と再臨の間の時代に生きています。いわば、明けの明星が既に輝き、東の空が白み始めていく中、太陽が地平線から昇ってくるのを今か今かと待ち構えている、そういう時代を私たちは生きているのです。

教会にとって、一年が待ち望むことから始まる―これはクリスチャンとしてのアイデンティティの重要な側面を教えてくれると思います。待ち望むことはクリスチャン信仰の重要な特質を表しています。私たちは完成された存在ではありません。常に未完成であり、成長の過程にあり、旅の途上にある存在といえます。教会とは、終わりの時代にあって、キリストの到来、神の国の到来を待ち望む共同体にほかならないのです。

「待つ」ということは、いつも易しいわけではありません。この地上に満ちる悪や苦しみに直面したとき、私たちは旧約時代の神の民のように、「主よ、いつまでなのですか。」(詩篇13篇1節)とうめくこともあります。けれども、すでにキリストが一度来られ、再び来られる約束が与えられている新約時代の私たちは、花婿の到来を待ち望む花嫁の喜びを抱きつつ、 「しかり、わたしはすぐに来る」と言われるイエスに対して、「アァメン、主イエスよ、きたりませ。 」と確信を持って祈ることができるのです(黙示録22章20節)。

Veni, Veni, Emmanuel(讃美歌94番「久しく待ちにし」)

 

復活のキリストにはなぜ傷痕があるのか

現在グレッグ・ボイドのBenefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介記事を連載していますが、そこでボイドは、十字架上のイエスにおいて啓示された神の姿は、旧約聖書で啓示された神の姿よりも優先するものであり、同時にそれらを解釈するためのレンズであると論じています(第18回第19回)。それに関連してこの記事では、十字架に先行する旧約聖書に描かれている神のイメージだけでなく、その後に来る終末における神観も、十字架のレンズを通して見なければならないということを論じていきたいと思います。

19  その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 20  そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。 (中略) 25  ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。 26  八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 27  それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。(ヨハネ20章19-27節)

新約聖書に収められている復活顕現記事の中で、ヨハネの福音書だけが、よみがえったイエスのからだに十字架の傷痕が残っていることを記しています。

The_Incredulity_of_Saint_Thomas_by_Caravaggioカラヴァッジョ「聖トマスの懐疑」

ヨハネの黙示録では、復活のキリストが「小羊」として繰り返し登場しますが、このキリストは「ほふられたと見える」小羊として描かれています。

わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。(黙示録5章6節)

なぜこの小羊がヨハネにはほふられたと見えたのでしょうか?おそらくこの小羊にはほふらられた時につけられた傷痕が残っていたのかもしれません。

Retable_de_l'Agneau_mystique_(10)ファン・エイク兄弟「神秘の子羊の礼拝」

有名な讃美歌Crown Him with Many Crowns(聖歌179番「おおくのかむり」)の歌詞にも、次のような一節があります。

Crown Him the Lord of love, behold His hands and side,
Those wounds, yet visible above, in beauty glorified.

愛の主に冠をささげよ。彼の手とわきを見よ。
これらの傷は今でも天上で、栄光に輝く麗しさの中で見ることができる。

十字架にかかって死なれたイエスは、三日後に肉体をもってよみがえりました。新約聖書によると、復活したイエスのからだは、霊ではなく物質的な肉体であり、しかも通常の人間の肉体とは異なる性質を持ったものでした。しかし、そのような栄光のからだをもって復活したキリストには、十字架の傷跡が残っていた―この非常に印象的なイメージは、十字架と復活の関係をみごとに表していると思います。一言でいえば、復活は十字架の否定ではなく肯定であり、十字架を通してでなければ理解できないということです。

近年、聖書やキリスト教信仰における復活の重要性が主張されてきています。これまでの「十字架偏重」の神学を見直し、復活の重要性を再評価しなければならない、というのです。私はそのような動きは心から歓迎しますし、確かに復活の教理は大いに強調されなければならないと思っています。しかし、問題はその強調すべき復活をどのように理解するかということです。それは一歩間違えると十字架の中心性を否定するような形の安易な勝利主義的神学に導かれれるおそれがあるのではないかと、私は危惧しています。

歴史における神の救済のドラマは、イエスの十字架によって完結したわけではもちろんありません。三日後にイエスは復活し、それは世の終わりのすべての死者の復活と新天新地の到来に導いていくものでした。ですから、確かに十字架のみを強調する神学は不完全のそしりを免れません。しかし、ここで注意しなければならないのは、十字架は終末にいたる神の物語の単なる通過点ではないということです。それどころか、十字架のできごとは、それ以後の救済史の展開を理解する上でも決定的に重要な鍵を提供しているのです。

たとえば、新約聖書が終末に再臨するイエスをどのように描いているか、それを私たちがどのように解釈すべきかを考えてみましょう。特にヨハネの黙示録は、キリストを悪を滅ぼす戦士として、怒りと裁きの神として描いています(19章11-16節)。多くの人々はこのイメージを文字通り受け取り、再臨のキリストを通して啓示される神の本質は怒りと裁きの神であると考えています。しかし、このような解釈は、黙示録自体においてキリストは同時に一貫して「ほふられた小羊」として描かれていることとも、福音書等でイエスが自己犠牲的な愛の神として啓示されていることとも矛盾します。ですから、私たちは黙示録における暴力的なイエスの描写を文字通り解釈するのではなく、ヨハネが黙示文学における戦う神の伝統的表象を逆用していると考えなければならないのです(このことについては、「黙示録における『福音』」のシリーズを参照してください)。しかし、その時私たちは、黙示録にある戦士としてのイエスのイメージを、十字架につけられた愛のイエスの姿をレンズとして見ていることになります。つまり、十字架上のイエスにおいて啓示された神の姿は、それに先行する旧約聖書の神啓示に優先するだけでなく、それ以後の新約聖書におけるその他の神啓示にも優先するということになります。その意味で、十字架は文字通り全聖書の中心であり、解釈学的転回点なのです。

聖書の終末論のポイントは神の国、つまり神の王なる支配が天だけでなく地にも到来し、すべてをおおいつくす、ということです。復活も新天新地もすべてはこの観点から見ていく必要があります。しかし、問題は、それがどのような種類の支配で、どのように行使されるのか、ということです。十字架が全聖書の中心であるというのは、この終末における神の王的支配もまた、十字架のレンズを通して理解しなければならないことを示しています。つまりそれは黙示録の「バビロン=ローマ」に象徴されているような、力による上からの支配ではなく、十字架のイエスが身をもって示されたような、自己犠牲的な愛によって他者に仕える(マルコ10:42-45、ルカ22:24-30)、そういう「支配」なのです。(この点については、「御国を来たらせたまえ(補)」をお読みください)。そういう意味で、新約聖書の終末論は「十字架形の終末論 cruciform eschatology」と言っても良いかも知れません。

終末における復活や神の国の完成を十字架のレンズを通して見るか見ないかということは、クリスチャン信仰のありかたそのものを大きく左右する、決定的に重要なことであると思います。この点を見誤ってしまうと、復活は単なる「十字架の死や弱さという否定的な効果のキャンセル」という理解になってしまいます。そうすると、死からよみがえったイエスは「本来そうであった」力と栄光に満ちた神として、敵対する者に復讐するために地上に戻ってくる存在として理解されることになります。つまり、このような勝利主義的な理解においては、復活は十字架において示された愛なる神の本質を否定あるいは少なくとも限定するものとしてとらえられてしまいます。しかし復活は十字架の否定でも限定でもありません。復活は十字架を通して啓示された愛なる神の本質を確証する、神の「しかり」なのです。復活のイエスが十字架の傷跡を持ち続けておられるのは、そのことを意味しているのだと思います。

聖書解釈や神学において、イエス・キリストを中心に考える「キリスト中心的 Christocentric」アプローチが語られることがあります。それは確かに重要な考え方であると思いますが、そこで中心に置かれる「キリスト」がどのようにイメージされるか―十字架上の愛のイエスか、それとも力に満ちた裁きの神としての勝利主義的イエスか―によって、その内容は大きく変わってきます。ですから、私は自分の神学を表現する時には「キリスト中心的」という表現より、「十字架中心的 crucicentric」という表現を用いたいと思っています。パウロが「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(1コリント2章2節)と語っている通りです。

十字架は復活がなければ完結しません。けれども同時に、復活は十字架の光に照らしてはじめて本当に理解できます。復活のイエスのからだに残された十字架の傷跡は、そのことを私たちにいつも思い起こさせてくれるのだと思います。

エペソ書とキリストの戦い(2)

前回に引き続いて、エペソ書における霊的戦いについて概観します。

エペソ書3章でパウロはふたたび神の「奥義」について語りますが、その表現は1章10節とは少し異なっています:

5  この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。 6  それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。(エペソ3章5-6節)

これは1章10節にあった「神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされた」という内容のうち、地上における神の働きの中身をより詳しく説明したものと言ってよいでしょう。パウロはこの「奥義にあずかる務」(3章9節)に携わるようになりました。その目的がすぐ次の箇所に書かれています。

10  それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、  11  わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。(3章10-11節)

このような知恵が支配や権威(前回見たように、これらは神に敵対する霊的存在をさしています)に対して示されるというのは何を意味しているのでしょうか?ここで、新約聖書の終末論に特徴的な「すでに」と「いまだ」の緊張関係を説明する必要があります。新約聖書では、キリストが来られたことによって、ある意味では「すでに」終わりの時代は始まっています。けれども、キリストが再臨して神の国が完成に至る時までは、「いまだ」終わりは来ていないのです。

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1章でパウロはキリストが「支配」や「権威」といった霊的存在よりも高く上げられた、つまりそれらを支配する存在であることを語りました。これは終末論の「すでに」の側面に属することです。しかし、支配や権威は今なお完全に神とキリストに服従するには至っていません。これは「いまだ」の側面です。このことは、「空中の権を持つ君」すなわち悪魔が「不従順の子らの中に今も働いている」とパウロが2章2節で述べていることから明らかです。

エペソ1章21節に出てくる「支配(アルケー)」「権威(エクスーシア)」「権力(デュナミス)」は1コリント15章24節にも登場しますが(翻訳によって訳語が異なることがあります)、そこでは、これらの霊的存在はキリストが再臨する時に滅ぼされるとパウロは言います。しかし、エペソ書1章ではパウロは現在の状態について、神はキリストをこれらの霊的存在の上に置かれたとのみ書いています。つまり、これら霊的な敵対勢力は世の終わりには滅ぼされることになっていますが、現在のところはキリストの下に置かれるにとどまっており、地上の教会に対して戦いを挑んできているのです(6章12節参照)。

では、そのような背景を頭に置いて3章10節の内容を考えるとどういうことが言えるでしょうか?パウロは神の右に挙げられたキリストの下に置かれながらも、いまだに抵抗を続ける支配や権威に対して、神の知恵が誇示されると言うのです。ここでパウロがこの知恵が「教会をとおして」示されると書いているのが重要です。古代の人々は、地上の世界で起こっている出来事を、天では御使いたちが見守っているという世界観を持っていました(1コリント4章9節、1テモテ3章16節、マタイ18章10節等を参照)。神が教会を通して地上で成し遂げられたできごとは、天上世界の存在に対してあるメッセージを発信しています。それは何でしょうか?

天にある支配と権威の働きによって、神の創造された良い世界はばらばらに分断され、人類も分裂を憎しみに支配されていました。しかしかつては水と油、犬と猿のように敵対していたユダヤ人と異邦人がキリストにあって一つの教会とされました。つまり、キリストにあって、天にある支配や権威の悪しき働きが地上においてキャンセルされたのです。この不可能と思える出来事を可能にされたところに神の知恵があります。それは1章10節でキリストにあって万物が神の元に集められる、という神のご計画の第一段階です。地上において教会が一致したと言うことは、近い将来に天においてもキリストの支配が完了することを示すものであって、神は一つになった教会の姿を通して、御自身に敵対する霊的存在に対して、彼らの時が短いことを宣言されているのです。つまり神は、地上における教会のはたらきを通して、神の確実な勝利と来るべき裁きを天にある支配と権威に見せつけておられます。

実は旧約聖書にも、敵の面前で神がご自分の民をあえて祝福してみせるという箇所があります。

あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。(詩篇23篇5節)

また、中間時代(旧約聖書と新約聖書の間の時代)に書かれたシリア語バルク書という文書には、メシヤが悪の勢力を滅ぼす時、その首領を生け捕りにしてシオンに引いてきて、彼の目の前でその罪状を並べて認めさせた後、首領を殺すという描写があります(40章1-2節)。

ところで、パウロはコリント人への第一の手紙でも神の知恵とキリストを結びつけていますが、そこで神の知恵とされているのは十字架のみわざです。

18  十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。19  すなわち、聖書に、
「わたしは知者の知恵を滅ぼし、
賢い者の賢さをむなしいものにする」
と書いてある。20  知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。21  この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。22  ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。23  しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、24  召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。25  神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
26  兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。27  それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、28  有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。29  それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。30  あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。31  それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。
(1コリント1章18-31節)

神はキリストによる十字架の死という、この世の標準からすれば最も弱く愚かな方法をもって、ご自分の知恵を示されました。30節ではキリスト御自身が「知恵」と呼ばれています。それだけでなく、神は同じ知恵を、この世では愚かで弱いとされる人々を選んでキリストのしもべとすることによっても示されたので。そして、その目的は「知者をはずかしめ」「強い者をはずかしめる」ためであり、「どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないため」でした。

1コリントではおそらく高ぶっている人間について語られていると思われますが、エペソ書では天にいる支配や権威といった霊的存在に対して同様のことがなされていると考えられるでしょう。神はキリストの十字架という一見「愚かで弱い」方法で救いを成し遂げ、教会を一致させました。また、その福音を宣べ伝えさせるために、パウロという教会の迫害者、使徒と呼ばれるに値しないような人物、迫害と苦しみの中で弱さを覚えているような人物をあえて選ばれたのです。それは、天における支配や権威に対してご自身の知恵を示し、これらの霊をはずかしめるためでした。

パウロは支配や権威がどのようにして神に反抗しているのかはっきり語っていませんが、おそらくその最も大きなものは高ぶりであると思われます。サタンの最大の罪は高ぶりでした(1テモテ3章6節参照)。神がこれらの高慢な霊をどのように罰せられるのでしょうか?高ぶっている者に対してもっとも効果的な処罰は、彼らに恥をかかせることです。神はここでまさにそのようなことをなされていると言えます。

私たちは信仰生活において弱さを覚える時があります。教会も時に力なく、この世のいろいろな組織や団体に比べていかにも弱く、頼りない存在のように見える時があります。しかし、そのような弱いクリスチャンたち、弱い教会をとおして福音が宣べ伝えられていくところにこそ、神の力が働き、神の知恵が示されているのです。

(続く)

 

御国を来たらせたまえ(補)

(本シリーズの過去記事         

本シリーズは一応前回で終了のつもりだったのですが、はちこさんこと中村佐知さんのブログ「ミルトスの木かげで」上でとても重要なご質問をいただきました。これは本シリーズでこれまで述べてきたこと全体の理解に関わる問題ですので、それに応答する形で補足記事を書きたいと思います。

詳しい質問の内容はリンク先のブログ記事を見ていただくとして、このご質問の核心は、「世の終わりに神(と神の民)が『支配する』とはどういう意味なのか?」ということだと思います。

このシリーズでも繰り返し、「神の国basileia」とは神の王としての支配であり、「御国が来る」とは神が天のみならず地においても王となられて支配されることだと書いてきました。けれども、「支配」というと何か自分の意に沿わない存在を力づくで従わせるようなネガティブなイメージがあり、永遠の至福の状態というクリスチャンの希望とはどこか相容れない違和感を感じる人々もおられると思います。

この問題を考える時には、神が「王」であるとはどういうことか、王なる神が「支配」するとはどういう意味かについて、聖書的な正しい理解を持つ必要があります。その鍵になるのが次の聖書箇所です。

24  それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。  25  そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。  26  しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。」(ルカ22章24-26節)

ここでイエスは、世の中一般における「支配」の理解(「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。」)と、神の国における「支配」(「あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。」)を対比しています。つまり、神の国における「支配」とは、この世の王国のような暴力と強制によるのではなく、愛と謙遜にもとづく奉仕によるものであると言えます。そして、このような神の国における「王権」「支配」のあり方を身を持って示してくださったのがイエスご自身なのです。

「神が王である」ということは旧約聖書から一貫して見られる聖書の主張です。しかし、イエス・キリストにおいてはじめて、そのことの真の意味が明らかにされました。イエス時代のユダヤ人のメシヤ観は一様ではありませんでしたが、最も広く受け入れられていたのは、「メシヤはダビデの家系に属する王である」というものでした。来るべき救い主は、異邦人(この場合はローマ帝国)の支配を打ち破って、神の民を解放してくれるような、軍事的・政治的指導者と考えられていたのです。

さて、そのような王なるメシヤへの期待感が広がる1世紀のユダヤに登場したのがナザレのイエスでした。たとえば福音書におけるイエスのエルサレム入城の記事を見ると、群集がイエスを王として歓迎していることが伺えます(たとえばマタイ21章1-9節)。ところが、イエスはローマへの反乱を率いるどころか、逆に捕らえられてローマ人の手によって十字架刑に処されてしまいます。イエスが多くのユダヤ人が期待していたような種類の「王」でないことは明らかでした。しかし、十字架上で死なれたイエスは三日目によみがえり、弟子たちに現れてこう言われます。 「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」(マタイ28章18節)つまり、イエスは真の王であることが明らかにされたのです。

実際、マタイ福音書の受難記事で、イエスはくりかえし「王」と呼ばれています(27章11、29、37、42節)が、ここには二重のアイロニーが含まれています。つまり、人々はイエスが(本当はそうでないのに)ユダヤ人の王を自称した、ということでイエスを十字架につけたわけですが、マタイと福音書の読者には彼が本当の王であることが分かっているのです。イエスはダビデの家系に属する王なるメシヤとして、確かにイスラエルの救いをなしとげました。しかしそれは、人々が思っていたように武力を用いてローマを打倒することによってなされたのではなく、十字架の上でいのちを捨てることによってなされたのです。イエスはまさに「仕える王Servant King」ということができるでしょう。

さて、このことは冒頭のご質問にあった、終末における神の国の支配とどのように結びつくのでしょうか?多くの人々は、確かに初臨のイエスは十字架にかけられた無力な姿で来られたけれども、再臨のイエスはそれとはうって変わって力と栄光に満ちた姿で地上に到来し、この地上の権力を力で滅ぼす王であると考えています。つまり、多くの人の思い描く終末の王としてのイエスのイメージは、当のイエスがまさに批判したところの、この世の王たちの姿と何ら変わらないのです。

しかし、このような一般的イメージが間違っていることは、以前書いた黙示録についてのシリーズで論じましたので、そちらをご覧ください(黙示録における「福音」     )。再臨のキリストが悪に打ち勝たれるのは、ローマやバビロンのような暴力によってではなく、十字架に表されているような自己犠牲的な愛によるのです。そして、新天新地で神が王として永遠にすべ治めるということも、同じように考えるべきだと思います。上で引用したルカ福音書の箇所にあるように、もしイエスがこの世的な支配のあり方を否定し、弟子たちにそれとは反対の生き方を教えながら、世の終わりにイエスご自身がこの世的な支配のあり方に逆戻りするとは考えられません。やがて来るべき世界の王の姿は、十字架にかけられたイエスの姿において既にはっきりと示されているのです。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」お方です(ヘブル13章8節)。

このように考えてくると、「神の国が地上に到来する」「神がすべての王となられる」「神の民が神の支配に参加させていただく」といった、本シリーズで何度も述べてきたことがらを、この世的な王や支配のイメージで考えてはならない、ということが分かります。黙示録において世々にわたって世界を統べ治める王は、ほふられた小羊としてのキリストです。神の国における「支配」を考える時に、私たちは十字架にかけられたイエスというレンズを通して考えなければならないのです。つまり、神の国における支配とは、自己犠牲的な愛による奉仕にほかならないのです。

本シリーズで見てきたように、クリスチャンの究極的な希望は、神が王として世界のすべてを支配し、神の民もその支配に参加させていただくことです。一方、新約聖書が記しているもう一つの終末的ビジョンは、三位一体の神が永遠の昔から持っておられる愛の交わりの中に、神の民が参加することです(ヨハネ17章21-26節、1ヨハネ1章3節、4章12-16節)。以上述べてきたことから、この二つは別々のことがらではなく、同じものを指していると考えることができます。

神と神の民が世の終わりにすべてを支配する王となるということは、すべての存在が互いに愛をもって仕えあい、神の造られた素晴らしい被造物世界をいつくしみをもって管理していくということです。言い換えれば、終末において完成する「神の国」とは、三位一体の神のアガペーの愛によってすべてが覆い尽くされた世界のことなのです。