ピーター・エンズ著『確実性の罪』 を読む(4)

その1 その2 その3

今回は、『確実性の罪(The Sin of Certainty)』の第2章”How We Got Into This Mess”(私たちがどのようにしてこの混乱状態に陥ったか)を取り上げます。

前回見たように、エンズは現代キリスト教の抱える大きな問題点の一つは、「神への正しい信仰」と「神についての正しい思想」を同一視する考え方にあると主張します。繰り返しますが、エンズは神についての正しい理解を知的に追求していく営みを否定しているわけではありません。問題はそれをキリスト教信仰の中心に据えようとする態度です。

けれども、どうしてこのような信仰的態度が生じてきたのでしょうか?エンズはアメリカの歴史において、聖書はキリスト教信仰の知的基盤(たとえば正確な科学的・歴史的知識)を提供するということに関しては長い間共通の理解がありましたが、19世紀になってそのようなコンセンサスを揺るがすようなできごとが起こってきたといいます。 続きを読む

ジェームズ・フーストン師との出会い

1月末にワシントン州で奉仕があり渡米したのですが、その際ヴァンクーヴァーにいる知人を訪問するため、カナダまで足を伸ばしました。その折りに、かねてから興味のあったリージェント・カレッジを見学することができました。現地にお住いの荒木泉さんがキャンパスを案内してくださり、チャペルに出席した後、同大学教授であるジェームズ・フーストン先生のお宅に連れて行ってくださいました。 続きを読む

確かさという名の偶像(17)

(シリーズ過去記事 第1部          10 第2部 11 12 13 14 15 第3部 16

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズも第3部に入っています。なるべく1回で1章を紹介しようと努めていますが、内容が濃くて1回では紹介しきれない章もあります。今回も第8章「強固な中心」の続きになります。

信仰の同心円モデル

前回も見たように、ボイドは福音派によく見られる「トランプの家」的な信仰モデルを批判します。このモデルにおいては、すべての信仰箇条が他のすべての信仰箇条に依存しているので、一つの要素が否定されると、全体が崩れてしまいます。それに対してボイドは同心円的な構造を持った信仰のあり方を提案します。それはいのちの源であるイエス・キリストを中心としてすべての信仰箇条をとらえるモデルです。ボイドが提唱する信仰モデルにあっては、個々の信仰箇条はそれ自体が目的ではなく、すべてこの中心であるイエス・キリストを通して神との人格的契約関係を持つために存在しているのです。

このイエス・キリストを中心に、ボイドはクリスチャンとしてのすべての信仰箇条を位置づけていきます。ここでポイントとなるのは、すべての信仰箇条は同じ重要性を持っているわけではないということです。より重要な要素は中心に近く、そうでないものは遠くというように位置づけていくと、クリスチャンが信じているさまざまな信仰箇条は、次のような同心円上に分布することになります。

信仰の同心円モデル信仰の同心円モデル

ボイドは中心に近い内側の輪を「教義dogma」と呼びます。これは歴史的正統キリスト教会が一貫して尊重してきた最も重要な信仰箇条で、ニカイア信条や使徒信条などで告白されているような内容です。ここにはたとえば三位一体論、キリスト両性論(イエス・キリストの神性と人性を両方とも認める立場)などが含まれます。

次の輪は「教理doctrine」と呼ばれます。ここには、正統的キリスト教会が常に受け入れてきたものの、その理解については見解の違いがあるようなものが含まれます。このレベルにおける立場の違いによって、様々な教派が分かれてきます。たとえば、神がこの世界を統治されるということはすべてのクリスチャンが認めてきましたが(つまりこれは教義です)、神がどのようにその統治を行われるかについては、見解の違いが存在します。つまり、神が歴史上起こるすべてのことがらを直接コントロールされるのか、それとも被造物にある程度の自由意志を与えておられるのか、ということです。

最後に、一番外側の輪は「意見opinion」と呼ばれます。これは個々のクリスチャンが時として主張することがあっても、キリスト教会全体において広く支持されることはないものです。これは特定の教理の異なる解釈として生じてくることが多いです。ボイドはこの中に含まれるものの例として、創世記1章1節と2節の記述の間には長い時間的隔たりがあるという、いわゆる「ギャップ理論」や、未来は部分的に開かれているという考え(いわゆるオープン神論)を挙げています。

ボイドはこのような信仰のモデルには多くの利点があると言います。このモデルは柔軟性に富むために、個々の信仰者が、中心であるキリストとのいのちにあふれる関係を保持しつつも、知的・霊的に成長していくことを容易にします。彼らのいのちがキリストに根ざしている限り、どのような問題について悩んだとしても、それらに真摯に向き合うことができるのです。したがって、このモデルを採用することによって、クリスチャンは異なる立場の信仰者やノンクリスチャンと、さまざまな主題について、愛をもって、防御的にならず、理性的に話し合うことができるようになる、と言います。これはまさに「確実性追求型」信仰、「トランプの家」的信仰の弱点をカバーする重要な利点であると言えます。

ボイドはさらに、このモデルは他者に福音を分かち合う時にもたいへん有効であると言います。多くの人々はキリストとのいのちにあふれる関係に魅力を感じながらも、キリスト教会が「福音」をさまざまな要素(聖書の無誤性、若い地球の創造論など)からなる「パッケージ」として提供し、その全体を受け入れるか、拒否するかの二者択一を迫るために、その一部でも受け入れられない場合、福音の全体を拒絶してしまうという残念な事態が生じています。しかし、同心円モデルでは、人々はまずキリストと人格的関係を持つことから始め、歴史的正統キリスト教会の教義を学ぶところから出発して、あとは自分の知的興味に応じて自由にさまざまな主題を吟味し、成長していくことができます。そこでは、さまざまな教理や意見に関する議論は信仰に入るための前提条件ではなく、すでに信仰を持った者たちの間の「仲間うちの議論」として位置づけられます。そして、このレベルにおける立場の違いは、キリストとのいのちあふれる関係を脅かすことはないので、愛をもって、防御的にならず、楽しみさえ覚えながら行うことができるとボイドは言います。

*     *     *

このブログを開設当初から読んでくださっている方は、ここでボイドが提示している「同心円モデル」は、「違いの違いが分かる男(女)」で提案したモデルとよく似ていることに気づかれたことと思います。ただし、そこには一つ違いがあります。私がかつて提案していたモデルには、中心に人格としてのキリストの存在がなく、すべてが信仰箇条の相対的重要性のみによってとらえられていました。今では私も、ここでボイドが提案しているように、イエス・キリストの人格をすべての中心に置くモデルの方が好ましいと考えています。しかし、基本的な考え方は同じです。クリスチャンとしての信仰箇条には重みの違いがあり、最も重要な部分において一致していれば、相対的に重要でないことがらに関する意見の違いは、クリスチャンとしての交わりを妨げることはないはずなのです。

この問題は次のように考えることもできます。ある人々は「正統的・聖書的キリスト教信仰」を明確な境界線をもって定義される「領域」と考えています。すなわち正統的クリスチャンを特徴づける一群の信条や行動規範があり、それを外れた(境界の外にある)信条や行動は「異端的」「非聖書的」「非キリスト教的」として拒否する態度です。そこでは「内と外」「白と黒」「天国(救い)と地獄(滅び)」がはっきりしており、人々の関心はいかに境界線を厳密に「定義」し、誰が中にいて誰が外にいるかを「判定」することに向けられます。このような考え方を「境界線思考」と呼ぶことができると思います。

境界線思考

これに対して、ボイドの提唱する同心円モデルのように、イエス・キリストという人格を中心にして、その中心への距離感によってものごとの重要性を相対的に判断していく考え方もあります。これを「中心点思考」と呼ぶことができるでしょう。

中心点思考

この中心点思考では、どこまでが「正統的キリスト教」という明確な境界線があるわけではありません。このモデルでも、中心から離れれば離れるほどクリスチャンとしての正統性に疑問が増していきますが、「境界線思考」と違って、白と黒の明確な区別があるわけではありません。ある意味ファジーなモデルといえますが、福音の中心であるイエス・キリストとの人格的関係を基盤にしつつ、互いの違いを認め、また互いの不完全さも認めつつ、互いに交わり、励まし合いながら、共に成長していこうとするものです。

私の少年時代には、「太陽系は中心の太陽と水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星の9つの惑星からなる」と教わったものでした。けれども、近年では冥王星が「惑星」としての資格を失っただけでなく、これらの惑星の外側にもさまざまな準惑星や小惑星が存在し、「エッジワース・カイパーベルト」や「オールトの雲」といった外縁天体もあることが分かってきました。オールトの雲は長周期彗星の起源と考えられており、理論上その存在が推測される仮説的天体だそうですが、大きく見積もると太陽から10万天文単位(1天文単位は太陽から地球までの距離)の大きさにまで拡がっている可能性があるそうです。いずれにしても、実際の太陽系の外縁は雲のようなとらえどころのないものであり、昔のように「冥王星の軌道までが太陽系」という明確な境界線が引けなくなってきたようです。

F_oort_cloud太陽系(画像は”F oort cloud” by Jedimaster投稿者自身による作品. Licensed under CC 表示-継承 3.0 via Wikimedia Commons.)

キリスト教信仰もまた、イエス・キリストという「太陽」を中心として、その重力圏内でキリストの周りを回転運動する「キリスト系」あるいは「キリスト圏」のようなものととらえることができるかもしれません。これは「何でもあり」のモデルではありません。惑星と外縁天体ではかなりの違いがあります。けれども、それらの間に明確な境界線を設けない「中心点思考」の信仰モデルの方が、信仰のあり方として健全であり、またポストモダンの現代社会においてクリスチャンとして歩む上でも有効であると考えています。

(続く)

確かさという名の偶像(16)

(シリーズ過去記事 第1部          10 第2部 11 12 13 14 15

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回から第3部「信仰の行使」に入ります。今回は第8章「強固な中心」です。第1部でボイドは「確実性追求型信仰」の問題点を指摘し、第2部では聖書的な信仰のあり方について論じました。第3部では、どのようにその信仰を実践していけばよいのか、具体的な提案がなされます。

この章でボイドは信仰を知的に基礎づけつつ、しかも柔軟に神学を構築していく方法について議論します。

本シリーズの第2回で、「トランプの家」的な信仰のモデルについて述べました。それは、信仰を構成する多くの要素が危ういバランスを保ちながら組み合わされた体系になっており、そのどれか一つでも真理性が疑問にさらされると、全体が崩壊してしまうような不安定な信仰のあり方です。ここでボイドは、その時にも軽く触れた聖書の理解について詳しく論じていきます。

多くの福音派の教会は聖書の「無誤性inerrancy」を標榜しています。これは聖書は誤りなき神のことばであって、信仰の規範としてだけではなく、科学や歴史の分野においても一切の誤りを含まないという立場です。聖書の無誤性がキリスト教信仰の不可欠な基盤であるという立場からすると、もし聖書に一箇所でも明白な誤りが見つかったとすると(それが科学や歴史に関するものであっても)、キリスト教信仰全体が重大な危機にさらされることになります。これはまさに「トランプの家」的な聖書観にほかなりません。

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したがって、この立場の人々は、全精力を傾けて、聖書のすべての記述があらゆる点から見て真理であることを証明しようと努めます。しかし、これはたいへんな難事業であることが分かります。聖書には互いに矛盾しているように見える記述(たとえば福音書間の相違など)や、現代の歴史学や自然科学の成果と矛盾するように見えるような記述(創造記事の文字通りの解釈など)などが数多くあります。それらの中には、比較的容易に説明できるものもありますが、非常に難しいものもあります。英語圏では、そのような「難解な」聖書箇所を説明する専門の参考図書などもあったりします(たとえばこれ)。

聖書の真理を生涯をかけて護ろうとするこれらの人々の動機は高邁なものであり、彼らの真剣な信仰は尊敬に値します。しかし、ボイドは彼のそのような聖書観はどこか根本的にずれているところがあるのではないかと考えました。彼が自分の神学を深めていくにつれて、彼はこの「トランプの家」が何度も崩壊する経験をしました。そのたびに彼は大変な努力を払ってその家を建てなおすのですが、さらに学びを続けていくと再びその家は崩れ去ってしまう・・・。こんな経験を何度も繰り返すうちに、彼はそもそもこのような「トランプの家」的な聖書理解自体が間違っているのではないかと考えるようになったと言います。

ボイドがたどり着いた結論は、クリスチャン信仰の最重要な中心は、私たちが信じる「何か」(つまり聖書のような「もの」)ではなく、イエス・キリストという人格である、ということでした。私たちにとって最も大切なことは、このお方といのちを与える人格的関係を持っていくことです。このことはボイドにとって、大きな発想の転換をもたらしました。

そしてボイドは、キリストとの人格的関係をもつためには、聖書が霊感された神のことばであることに頼る必要はないことに気づいたと言います:

福音派の人々が典型的にするように、聖書が霊感された神の言葉であると信じるからイエスを信じる、というのではなく、私はまずイエスを信じるので、聖書が霊感された神のことばであると信じるようになった。(p. 159)

ボイドのアプローチはこうです。彼はまずイエスを歴史上の人物として研究し、なぜこの人物の死と「復活」が、キリスト教という歴史的ムーブメントを生み出したのかを考えます。彼はそこから、新約聖書のイエスに関する主張が基本的に信頼できること、イエスが確かによみがえった神の子であり、神の決定的な自己啓示であることを確信するに至ります。もちろん、その過程で彼は福音書や書簡を資料として用いるわけですが、この段階では彼はそれらを「霊感された誤りのない書物」としてではなく、一般の歴史資料と同列に扱います。つまり、彼は純粋に歴史的なアプローチによって、イエスがキリストであることを受け入れるようになりました。ボイドはこの結果について100パーセントの確信を持っているわけではありませんが(歴史学という学問においてそれは不可能です)、イエス・キリストとの人格的関係にコミットして生きるに十分なだけの確信は得ることができたのです。

そしてボイドは様々な理由によって、聖書が霊感された神のことばであると信じていますが、それはイエスがキリストであるという信仰から導き出されてくるのであって、その逆ではないと言います。分かりやすく図示すると、福音派に典型的な信仰モデルでは、まず「霊感された誤りなき神のことば」という土台があって、その上に「イエスは神の決定的自己啓示である」という教理が乗っています。このことは、多くの組織神学の教科書がまず聖書論から始まることからも裏付けられます。

トランプの家的聖書観

ところが、ボイドの提唱する信仰モデルでは、まず「イエスは神の決定的自己啓示である」という土台があり、その上に「聖書は霊感された神のことばである」という教理が乗っているのです。

ボイドの聖書観

この二つのモデルは一見同じようなものに見えますが、実は大きな違いがあります。上のモデルでは、「霊感された誤りなき聖書」という「もの」が信仰の土台・中心になっているのに対して、下のモデルでは、イエス・キリストという「人格」が信仰の土台・中心になっています。さらに、上のモデルでは、聖書の無誤性という前提が何らかの形で脅かされてしまうと(たとえば特定の箇所の科学的・歴史的真実性が疑われるなど)、その上に乗っているキリストへの信仰までが揺るがされることになります。つまり、このモデルは「トランプの家」的な構造を持っているのです。これに対して、ボイドのモデルでは、イエス・キリストが神の決定的自己啓示であるという土台を支えるに十分なだけの史的信頼性が聖書によって保証されればそれで十分であって、たとえいくつかの箇所の史実性や科学的妥当性が疑われたとしても、それによってキリストへの信仰が揺らぐ心配はありません。つまり、ボイドが提唱する信仰モデルの方が、より柔軟で安定した構造を持っていると言えるのではないかと思います。

*     *     *

ボイドが提唱する聖書と信仰のモデルは、特に現代社会で生きるクリスチャンにとって大きな意義を持っていると思われます。価値観の多元化と情報化が進んだポストモダンの社会において、キリスト教信仰はかつてない挑戦を受けています。そのような中で、「トランプの家」的な信仰モデルは柔軟性に欠け、クリスチャンが自己の信仰を知的に吟味し、世界観を拡張し、成長していくニーズに対応する力が弱いと思われます。しかし、ボイドのモデルでは、イエス・キリストとの人格的関係に土台を置いていくために、様々な知的挑戦によって多少の疑いや不確実性が生じたとしても、このお方との関係にコミットし続けることは十分に可能となります。

それだけでなく、このような信仰モデルは聖書的なものであると思われます。イエスの弟子たちは、旧約聖書を権威ある神のことばと信じていましたが、旧約聖書の綿密な釈義によってイエスがキリストであるという確信に至ったわけではありません。その逆に、イエスとの生きた出会い(特に復活のできごと)を通してイエスがキリストであると確信するようになったからこそ、彼らは旧約聖書がイエスを指し示しているということが分かるようになったのです。つまり、使徒たちの聖書解釈はイエスとの人格的関係という土台の上に乗っていたのであって、その逆ではありません。(これについては、以前「使徒たちは聖書をどう読んだか」というシリーズで取り上げましたので、そちらをご覧ください)。

最後に、このモデルでは、聖書の無誤性を擁護することが至上命令ではなくなりますので、聖書記述のあらゆる細部の真実性を水も漏らさぬように弁証するために全精力を費やす必要から解放されます(この「戦い」は困難であるだけでなく、学問の進歩に伴い常に新しい挑戦が生じてくるので、終わることがありません)。信仰者がその分のエネルギーと情熱を、キリストとの生きた人格的関係を育むために注いでいくことができるとしたら、そちらのほうがはるかに好ましいのではないかと、個人的には考えています。

(続く)

 

 

確かさという名の偶像(3)

その1 その2

グレッグ・ボイドの著書Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介記事、今回は第1章「苦痛を受け入れる」を見ていきます。

ボイドはクリスチャンになってすぐの時期に通っていた教会で見られたタイプの信仰について語りますが、それは彼の経験によると大多数のクリスチャンにも見られるものだと言います。それは前回も見たような「確実性追求型の信仰」、すなわち、「信仰の強さは心理的な確信の強さに比例する」という考えです。このタイプの理解にとって、疑いは信仰の敵と見なされます。本書でボイドはこのタイプの信仰は聖書的なものでなく、かえってクリスチャンの信仰と教会の働きを疎外するものであることを論じていきます。

このタイプの信仰は、「人は救われるためには、ある一定レベル以上の確信を持たなければならない」という考え方に表れています。たとえば、聖書の中に出てくるいくつかの物語の史実性に確信を持てないクリスチャンは、「自分は果たして救われているのだろうか」という疑問を抱くことがあります。ボイドが例としてあげている疑問は、多くの人に思い当たるものではないでしょうか:

・疑いを抱いている私は「救い」からもれているのではないだろうか?
・イエスが神の子であることはかなり信じられるけれども、100パーセント確信は持てない。私はまだ「救われて」いるのだろうか?
・私の子どもがいやされなかったのは、神が彼女をいやしてくださろうとしておられることを私が疑ったからではないだろうか?
・夫の心を神が変えてくださるためには、どれほどの信仰が必要なのだろうか?
・神が私と家族を気にかけていてくださると信じるのには葛藤がある。私が仕事を見つけられないのはそのせいだろうか?
(p. 25)

ボイドは、もし信仰の強さが心理的な確信の度合いによって測られるのであるなら、信仰を強めるためには、疑いを脇へ押しやることが必要になってくると言います。そして彼は、このようなタイプの信仰を、遊園地にある力試しのアトラクションにたとえています。これはstrength tester gameまたはhigh strikerと呼ばれるもので、ハンマーで装置の定められた部分を叩くとパックが跳ね上がり、その力が十分に強ければ、タワーの上部に取り付けられたベルが鳴るというものです。

StrengthTester

確実性追求型の信仰によると、クリスチャンは信仰のハンマーをできるだけ強く打ち付けてパックを跳ね上げようとします。信仰のパックが確実性というベルの近くまで上がれば上がるほど(つまり彼らの心理的な確信が強ければ強いほど)、信仰が強いことになり、それは神を喜ばせたり祈りの答えを引き出したりすると言うのです。たとえばタワーの高さの25%までパックが上がるレベルを「救いのレベル」とすると、そこまでの確信を持っているクリスチャンはとにもかくにも救いにあずかることができます。同様に50%まで上がると、神から基本的な祝福を受けることができ、75%まで上がるとかなり華々しい祈りの答えを受け取ることができます。そして、もし疑いを完全に排除することができれば、確実性のベルを鳴らすことができ、どんな祈りでも答えられるようになるというのです!

これはやや戯画化されたたとえですが、このような信仰は意外と多くのクリスチャンに見られるものではないかと思います。しかし、ボイドはこのような信仰は確実性を偶像視することにつながると言います。

ボイドによると、このような信仰的態度を生み出す動機の一つに、認知的不協和に伴う苦痛を避けようとすることがあります。その例として、ボイドは自身の信仰の歩みの中で経験した認知的不協和について語ります。

ボイドは彼がクリスチャンになった後の最初の1年ほどは、救いの喜びと神に対する確信に満ちた至福の時であったと回想します。しかし彼の信仰は、大学で「進化生物学入門」のクラスを受講したことで大きく動揺することになります。彼の所属していた教会は「若い地球の創造論」の立場を取っており、創世記1章の字義的解釈にこだわり、地球の年齢は1万年足らずであると教えていました。ボイドは自分の信仰はこのクラスを受講した後も若い地球の創造論に対する揺るがぬ確信を持ち続けられるかどうかにかかっていると感じていました。彼は万全の準備をして(創造論の立場から進化論を論破する書物を3冊読んだといいます)クラスに臨み、あわよくばクラス全員を創造論者にしようと、果敢に教授に挑戦しました。その結果は無残なものに終わりました。温厚な教授は優しくしかし徹底的にボイドの反論を粉砕してしまったのです。その結果、ボイドは自分の信仰に対して疑いを持つようになってしまいました。そしてこの疑いは、苦痛に満ちた認知的不協和をもたらしました。彼は信仰への渇望と、生物学的進化が彼の信仰に対して突きつけた様々な疑問との間に引き裂かれてしまったのです。彼は疑うことを知らなかったあの至福の状態に戻りたいと切望しましたが、それは叶えられませんでした。ついに彼は、一時的に信仰を失うまでになったのです。

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最終的にボイドは信仰を取り戻すことになるわけですが、ここで重要なのは、世界の起源に関する特定の神学的立場が正しいかどうかということではありません。ボイドが指摘しているのは、私たちのアイデンティティや価値、目的、安心といった信仰に関わる重要な事柄について疑いを持つことは、たいへんな苦痛だということです。しかしボイドは、学びと成長のプロセスにおいては、ある程度の苦痛はつきものであると言います。たとえば、小さな子どもがサンタクロースは本当はいないのだということを受け入れるのはとても辛いことですが、いつかはそのことを認めなければなりません。それが成長するということです。時として人々は自分が慣れ親しんできた確信を手放すことに対して激しく抵抗します。しかし、私たちが真理を追求していこうとするなら、この種の苦痛を避けることはできません。ボイドはこの章の終わり近くで、読者に対して次のように語りかけています。

ここで手の内を見せてしまうと、私はあなたにこの確実性追求型の信仰について、そしてそれとともに、あなたが大切にしているだろう多くの信念や仮定についても再考して欲しいと求めていこうとしている。そして私はあなたを、私たちの世界が複雑さと曖昧さと答えの出ない疑問に満ちていることを受け入れるような信仰を持つ道へと、招待したいと思う。それは、絶対確実な立ち位置などないといことを受け入れ、しかも同時に、私たちがキリストにすべての信頼を置くのに十分なだけの理由さえあれば、そのような立ち位置は必要ないと言うことのできる種類の信仰である。(p. 32)

確実性追求型信仰の問題点について、次回以降もさらに見て行きたいと思います。

(続く)

「福音」とは何か(関野祐二師ゲスト投稿 その3)

その1 その2

関野祐二先生によるゲスト連載の第3回です。お忙しい中寄稿してくださる先生に心から感謝します。それでは、お楽しみください。

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「『福音』とは何か」の三回目、だいぶ間が空いてしまいましたが、「福音と被造物統治/管理」の続きです。

2011年3月11日に発生した東日本大震災、関連する福島第一原発の事故は、キリスト教界にも多くの課題を突きつけました。折しもそれは、2010年10月、第3回ローザンヌ世界宣教会議が南アフリカのケープタウンで開催され、その成果である「ケープタウン決意表明(コミットメント)」が宣言されて五ヵ月後のこと。本コミットメントでは、包括的(ホリスティックな)宣教、包括的福音理解が提示され、天地創造から新天新地に至る、全被造物を対象とした神の贖い(和解と回復と再統合)計画を「神の宣教」と位置づけて、キリストを王なる主権者としたキリスト者がその統合的宣教に参与する見取り図を得たのでした。ならば福音主義に立つ者たちは当然のことながら、震災と原発事故による諸課題のキリスト教的理解も、このコミットメントの文脈に即して考えるべきものと言えましょう。投げかけられた具体的諸課題を思いつくまま並べるなら、自然災害は神のさばきなのか、いわゆる神義論の問題、福音的聖書的自然理解と環境問題、被造物を支配せよとの文化命令の意味、被災者救援と伝道の関係性と優先順位、包括的宣教と包括的福音の中身、聖書から見た核技術と原発の是非などなど。本来ならこうした課題は福音派キリスト教界がとっくに取り組んでおくべきものだったはずですが、どちらかというと後回しにしてきた苦手な分野だったようで、震災と原発事故を契機に、自戒を込めて遅ればせながら正面から取り扱うことになった経緯があります。

さて、包括的福音理解に基づく包括的宣教を深める上で鍵となる出発点は、我々福音に生きる者が文化命令(創世記1:28)に基づき統治/管理を命じられている「自然」(Nature)です。よって最初になすべきは、「キリスト教的自然理解」、すなわち我々が生き、そこに置かれている宇宙をも含めた自然界を神がどのようなものとして創造し治めているのか、その自然を支配するよう委託された「神のかたち」としての人間のあり方、そして贖いの対象でもある自然を、同じく贖いの対象である我々人間がどのように理解し、管理したらいいのかという問いかけに帰結します(人間が宇宙を統治/管理するとはいかなる意味合いを持つのかは、天文がライフワークの筆者にとっても興味深いテーマです)。主なる神は、被造物全体が贖われる新天新地への回復のプロセスにおいて、我々人間を「贖われた統治者」と位置づけ、ご摂理の内に用いておられます。換言するならこれは、主イエスの十字架と復活によって成し遂げられた、人類における被造物統治/管理権の回復であり、この地上におけるキリスト者の使命に直結するものです。被造物を治めるためにはそれらを理解し、各分野における最新の学問的成果と歴史的文化的価値を評価する必要がありますから、聖書以外のあらゆる領域にも関心を持ち、各分野の専門家たちの意見も取り入れ、協力していかなければなりません。

あらためて、創世記1:28を引用しましょう。「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ』」。この「地を従えよ」「支配せよ」というみことばをめぐっては、これこそが今日の環境破壊を引き起こした元凶であり、キリスト教は自然界に対し罪の責任を負っているとの、リン・ホワイトによる有名な指摘があります。しかしこのみことばには確かに神から委託された統治・支配の意味があるものの、決してそれは上からの横暴なわざでなく、神との共同(協働)統治であり、統治支配のニュアンスを含んだ管理という意味で、統治/管理との複合的表現がふさわしく、リン・ホワイトの理解は一面的と思われます。

エデンの園におけるアダムとエバの堕落の結果、人間と自然との関係性に起きた問題点とは、ひとつには人間が原初において完全であった「神のかたち」ではなくなり、本来的に統治支配権を行使した被造物支配の責任が与えられてはいても、今や正しく支配することが出来なくなってしまったこと、もうひとつは、「非常に良かった」(創世記1:31)はずの被造物世界全体に「ある変化」が生じ、土地はのろわれ(3:18)、いばらとあざみが生え、被造物は虚無に服した(ローマ8:20)ことでした。人間の堕落ゆえ虚無に服した被造物は、我々自身の身体も含め、うめきつつ贖われる日を待ち望んでいます(ローマ8:19-23)。贖われるとは、今の不完全な状態が人間の罪による滅びの束縛から解放され、元の完全な姿へと買い戻され回復させられるということでしょう。それは、先の後藤敏夫先生による解説の通り、詳細は不明ですが、新天新地の完成が今の被造世界となんらかの連続性や関連性を持っていることを暗示します。つまり、今の被造世界がすべて失われ滅びた後に、今とは断絶した形で全く新しい新天新地が現れるとの従来型理解は、聖書本来のメッセージとはいいがたいのです。

ということは、現在の地上におけるあらゆる営みが永遠の御国と連続性を持ち、地上での忠実な働きがなんらかの意味で完成された未来の御国へと持ち込まれることを意味し、今のこの地上における社会的活動すべては、神の目に意義あるものと認められており、委ねられた働きへの忠実さ誠実さが問われているということになります。そうでなければ、この世の生活はキリスト者にとってかりそめの意味しか持たなくなり、悪い意味で御国の待合室と化してしまうでしょう。

したがって私たちはここに、「身体の贖い(復活)を待ち望みつつ、神のかたちとして被造世界を統治/管理しながら、被造世界の贖いをも待ち望む」という、地上における生の枠組みと意義付けを確認できることになります。しかしその一方で、(1)アダムの罪により堕落して、正しい意味での統治/管理者としての資格や能力を失った我々に、堕落前(創世記1:28)定められたこの世を治める委託業務行使の資格や力はあるのか。(2)創造の当初、我々人間に委ねられていた被造物世界の統治/管理のわざは、神への反逆と堕落とともに我らの手から取り上げられ、主ご自身の直接統治へと戻されたのではないのか。(3)そこにあえて文化を築き、バベルの塔を建設した人類に、主にある健全な地の管理や文化形成は不可能なのではないか。(4)主イエスの十字架と復活による贖いのわざは、我々のこの世に対する統治/管理能力や権限をも回復したのだろうか。 こうした疑問が次々と沸き起こってきます。これはアウグスティヌスとペラギウスの論争以来常に議論されてきた、原罪による神のかたちの破壊や歪みの問題、自由意志能力の有効性、および神の主権と人間の自由意志の関係性も含めた、根本的問いかけと言えましょう。

筆者は、主イエスの十字架と復活による贖いのみわざが、人間の被造物統治/管理能力をも回復させ、神は再度そのわざを人類に委託して、贖いの歴史進展の中で人間との共同(協働)統治を進めていると理解しています。この結論については今後も幅広い継続的議論が必要ですが、福音を「個人的霊的救い」から解き放ち、自然科学を含むこの世一般の学問や文化活動の価値を認めた上で理解を深め、主イエスの十字架と復活によって神の国の統治者/管理者に召し出されたキリスト者こそが、地の贖いの完成を目指してこの地上の統治/管理を神との協働によって推し進めて行く、という基本的道筋は妥当な見解と思われます。であれば、「福音」とは、「十字架による罪からの救いと天国行きの保証」という単純化された表現では収まりきれない、キリスト教的自然観と世界観、贖い理解に基づくきわめて広い包括概念となるでしょう。

(続く)

「福音」とは何か(関野祐二師ゲスト投稿 その2)

関野祐二先生による、「『福音』とは何か」ゲスト投稿、第2回をお送りします。(その1はこちら

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 「『福音』とは何か」というテーマ、次は「福音と被造物統治/管理」のお話をしましょう。ここには、終末論、職業観、罪の影響、文化命令、自然観、救済論と贖罪の意味合いなど、多くの要素が複雑に絡み合っています。

筆者が新生した大学生の頃、あちこち参加したバイブルキャンプの分科会三大テーマはご他聞にもれず、働く意味と職業選択、人生の意味と目的、そして恋愛と結婚でした。最初に挙げた職業観ですが、多少の誇張と単純化を許していただくなら、「会社には伝道に行くのだ」という考え方が主流だったと記憶しています。この世の仕事には「神の栄光を現す」という意義はあってもそれ以上の聖書的意味付けをせず、むしろ職場という、教職者では入りにくい社会の現場に遣わされ、滅び行くこの世から一人でも多くの人を福音伝道によって救い出し、天国行きの切符を手渡すことが職業人の至上命令であると叩き込まれたのです。それ自体決してすべて間違いとは言えないのですが、与えられた仕事を忠実に果たす動機付けとしてはいかにも弱く、どこかこの世と正面から向き合っていない、それゆえ仕事にも身が入りにくい、かりそめの職業観と思えるものでした。ベースには、人生の軸足を滅び行く今のこの世ではなく未来の完成された輝かしい御国に置く、「悲観的終末論」(今のこの世はどんどん悪くなって、ついに終末と再臨に至り、千年王国が訪れるという考え方)があると後で知った次第です。どうせ滅びてしまうこの世の事象に全力を投入するよりも、永遠のいのちを与える伝道にこそ価値がある...勤務した会社の製品開発実験室で、証しと個人伝道にいそしんだのは懐かしい思い出ですが、どこか「これでいいのかな」との迷いがあったのも事実。全力で仕事に取り組む一方、「どうせこの世は...」と上から目線でさばくような自己矛盾の姿勢がそこにはあったからです。

こうした疑問や出来事に向かい合う、いくつかの機会が与えられてきました。ざっと挙げれば、ライフワークとしての天文学の継続、後藤敏夫師の著書との出会い、東日本大震災と原発事故、中澤啓介師の被造物管理の神学などです。

実は昨晩も、神学校の屋上で神学生たちに望遠鏡で土星を見せたのですが、輪を持った土星の堂々たる姿を自分の目で直接見てもらうのは嬉しいことでした。同席したP教師は、「土星を観るより、望遠鏡を覗いている人の反応を見ているほうがおもしろい」とも。もし、何のために土星を観るのですか、と問われたら、「そこに土星があるから」「観ておもしろいから」と答えましょうか。誤解を恐れずに言うなら、少なくとも「聖書に土星のことが書いてあるから」(直接は書いてありません)でも、「天地創造のみわざを称えるため」などという高邁な動機があってでもありません。ましてや「土星を見せることで伝道や証しのきっかけをつかむため」でもないのです。それでいいと思っています。まずは自分が今そこに生きている自然や宇宙を知ること、興味を持つこと、直接それを見て美しさに感動し、宇宙の中に置かれている自分を意識することがたいせつだからです。結果としてそれが、神を知ること、自然界と宇宙を治める神を称えること、共に創造主を喜ぶこと、詩篇の作者のように「人とは何者なのでしょう」(詩篇8:4)という神学的問いへと進むことになるのでしょう。

この順序をたいせつにしたいと思っています。なぜならそれが、この地上における人の営みを肯定し、地に足をつけた生き方の出発点となるからです。先ほど述べた、「ひとりでも多くの人を救いに導く」ことを主眼とした生き方は、それ自体はすばらしいわざであっても、気をつけないと浮き足立った前のめりの歩みとなり、地上のわざを軽視する結果をもたらしかねません。自然科学のみならず、文化や芸術、先端技術、哲学や文学など、人のさまざまな営みに肯定的な意味づけを与える道があるはずですし、多くの人に主イエスを紹介しつつ、人生そのものを喜び楽しむことをも主は願っていると思うのです。福音を知り、福音に生かされ、福音を伝えるという生き方がこのように統合されるならば、どんなにすばらしいことでしょう。『ケープタウン決意表明』(いのちのことば社、2012年)45-51頁に、従来型の聖俗分離的考えを改めて人間のわざの価値を認め、真理と職場、真理とグローバルメディア、真理と宣教におけるメディア、真理と先端技術、真理と公の場という項目で、文化と専門分野の意義を提案した箇所がありますので、ご参照ください。

土星観望から少し飛躍し過ぎました。結局たいせつなのは、終末や再臨を見通した上での、この地上における営みの肯定的位置づけです。それを筆者に教えてくれたのは、後藤敏夫先生の著書「終末を生きる神の民 ――聖書の歴史観とキリスト者の社会的行動――」(いのちのことば社、初版1990年、改訂新版2007年)でした。詳しくは本を読んでいただくとして、筆者がここから一番教えられたのは、「地上における営みが新天新地へと連続している」ということ。現在の先取りされた神の国経験は決してかりそめのものではなく、それが不完全であってもやがて完成する神の国の実体の一部を構成しており、地は滅びるのではなく贖われるのだ、私たちは御国へと携挙するのではなく御国がこの地上にもたらされ、主イエスはこの地上へと再臨されるのだ、だから今の地上における営みは何らかの意味で完成された御国へと持ち込まれ、そこには連続性があるのだ、というのです。これこそが聖書的な統合された人生観につながる神学だと直感しました。ここにはもはや、神の国とこの世的なものを分ける聖俗二元論は存在しませんし、どうせこの世はという否定的な対立構造もありません。文化命令(創世記1:28)に従って地を管理するため、この世界をよく知り、かかわっていく道筋が与えられたのです。こうした枠組みを考えながら、後藤敏夫先生にも神学校で講演していただいたり、前述の書を2007年に改訂新版として再版いただいたりという歩みを続ける中、2011年の東日本大震災と原発事故を迎えることになるのです。

(続く)