現代科学と開かれた未来(ジョン・ポーキングホーン)

今年になって名古屋の大学の非常勤講師としてキリスト教について教え始めました。その中で「キリスト教と科学」という主題について話をする機会があり、準備のために読んでいた本の中で、イギリスの物理学者・神学者ジョン・ポーキングホーンが神と未来について興味深いことを言っている箇所に出逢いました。 続きを読む

科学と聖書(2)

その1

第1回の投稿からずいぶん時間が経ってしまいましたが、気長に少しずつ書いていきたいと思います。今回は、クリスチャン新聞に寄稿したバイオロゴス・カンファレンスについてのレポートの補足です。

レポートの中で私は、聖書と科学をめぐるアメリカの現状について、次のように書きました:

創造論においては、世界は今から6千年から1万年ほど前に文字通り6日間で創造されたと主張する「若い地球説」が、福音派クリスチャンの間では強い支持を得ています。ギャラップ社が2014年に行なった調査によると、成年アメリカ人の42%が、「神は人間を現在とほぼ同じ形で過去1万年以内に創造した」と信じています。またこの立場の代表的団体である「アンサーズ・イン・ジェネシス」(ケン・ハム代表)が、ノアの方舟を聖書の記述どおりの寸法で再現したテーマパーク「アーク・エンカウンター」を2016年にオープンし、話題になりました。

ここで私は2014年のギャラップ社の調査結果を引用しましたが、今月22日に最新の調査結果が発表されたことを、バイオロゴスのサイトを通して知りました。 続きを読む

科学と聖書(1)

3月29日(水)から31日(金)にかけて、米テキサス州ヒューストンで開催されたバイオロゴス・カンファレンスに参加して来ました。

バイオロゴス(BioLogos)とはアメリカ国立衛生研究所(NIH)の所長であり、ヒトゲノム計画の指導者でもあったフランシス・コリンズ博士によって2007年に設立された、科学とキリスト教信仰の融和を追求・促進することを目的とした団体です。 続きを読む

ピーター・エンズ著『確実性の罪』 を読む(4)

その1 その2 その3

今回は、『確実性の罪(The Sin of Certainty)』の第2章”How We Got Into This Mess”(私たちがどのようにしてこの混乱状態に陥ったか)を取り上げます。

前回見たように、エンズは現代キリスト教の抱える大きな問題点の一つは、「神への正しい信仰」と「神についての正しい思想」を同一視する考え方にあると主張します。繰り返しますが、エンズは神についての正しい理解を知的に追求していく営みを否定しているわけではありません。問題はそれをキリスト教信仰の中心に据えようとする態度です。

けれども、どうしてこのような信仰的態度が生じてきたのでしょうか?エンズはアメリカの歴史において、聖書はキリスト教信仰の知的基盤(たとえば正確な科学的・歴史的知識)を提供するということに関しては長い間共通の理解がありましたが、19世紀になってそのようなコンセンサスを揺るがすようなできごとが起こってきたといいます。 続きを読む

ジェームズ・フーストン師との出会い

1月末にワシントン州で奉仕があり渡米したのですが、その際ヴァンクーヴァーにいる知人を訪問するため、カナダまで足を伸ばしました。その折りに、かねてから興味のあったリージェント・カレッジを見学することができました。現地にお住いの荒木泉さんがキャンパスを案内してくださり、チャペルに出席した後、同大学教授であるジェームズ・フーストン先生のお宅に連れて行ってくださいました。 続きを読む

確かさという名の偶像(17)

(シリーズ過去記事 第1部          10 第2部 11 12 13 14 15 第3部 16

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズも第3部に入っています。なるべく1回で1章を紹介しようと努めていますが、内容が濃くて1回では紹介しきれない章もあります。今回も第8章「強固な中心」の続きになります。

信仰の同心円モデル

前回も見たように、ボイドは福音派によく見られる「トランプの家」的な信仰モデルを批判します。このモデルにおいては、すべての信仰箇条が他のすべての信仰箇条に依存しているので、一つの要素が否定されると、全体が崩れてしまいます。それに対してボイドは同心円的な構造を持った信仰のあり方を提案します。それはいのちの源であるイエス・キリストを中心としてすべての信仰箇条をとらえるモデルです。ボイドが提唱する信仰モデルにあっては、個々の信仰箇条はそれ自体が目的ではなく、すべてこの中心であるイエス・キリストを通して神との人格的契約関係を持つために存在しているのです。

このイエス・キリストを中心に、ボイドはクリスチャンとしてのすべての信仰箇条を位置づけていきます。ここでポイントとなるのは、すべての信仰箇条は同じ重要性を持っているわけではないということです。より重要な要素は中心に近く、そうでないものは遠くというように位置づけていくと、クリスチャンが信じているさまざまな信仰箇条は、次のような同心円上に分布することになります。

信仰の同心円モデル信仰の同心円モデル

ボイドは中心に近い内側の輪を「教義dogma」と呼びます。これは歴史的正統キリスト教会が一貫して尊重してきた最も重要な信仰箇条で、ニカイア信条や使徒信条などで告白されているような内容です。ここにはたとえば三位一体論、キリスト両性論(イエス・キリストの神性と人性を両方とも認める立場)などが含まれます。

次の輪は「教理doctrine」と呼ばれます。ここには、正統的キリスト教会が常に受け入れてきたものの、その理解については見解の違いがあるようなものが含まれます。このレベルにおける立場の違いによって、様々な教派が分かれてきます。たとえば、神がこの世界を統治されるということはすべてのクリスチャンが認めてきましたが(つまりこれは教義です)、神がどのようにその統治を行われるかについては、見解の違いが存在します。つまり、神が歴史上起こるすべてのことがらを直接コントロールされるのか、それとも被造物にある程度の自由意志を与えておられるのか、ということです。

最後に、一番外側の輪は「意見opinion」と呼ばれます。これは個々のクリスチャンが時として主張することがあっても、キリスト教会全体において広く支持されることはないものです。これは特定の教理の異なる解釈として生じてくることが多いです。ボイドはこの中に含まれるものの例として、創世記1章1節と2節の記述の間には長い時間的隔たりがあるという、いわゆる「ギャップ理論」や、未来は部分的に開かれているという考え(いわゆるオープン神論)を挙げています。

ボイドはこのような信仰のモデルには多くの利点があると言います。このモデルは柔軟性に富むために、個々の信仰者が、中心であるキリストとのいのちにあふれる関係を保持しつつも、知的・霊的に成長していくことを容易にします。彼らのいのちがキリストに根ざしている限り、どのような問題について悩んだとしても、それらに真摯に向き合うことができるのです。したがって、このモデルを採用することによって、クリスチャンは異なる立場の信仰者やノンクリスチャンと、さまざまな主題について、愛をもって、防御的にならず、理性的に話し合うことができるようになる、と言います。これはまさに「確実性追求型」信仰、「トランプの家」的信仰の弱点をカバーする重要な利点であると言えます。

ボイドはさらに、このモデルは他者に福音を分かち合う時にもたいへん有効であると言います。多くの人々はキリストとのいのちにあふれる関係に魅力を感じながらも、キリスト教会が「福音」をさまざまな要素(聖書の無誤性、若い地球の創造論など)からなる「パッケージ」として提供し、その全体を受け入れるか、拒否するかの二者択一を迫るために、その一部でも受け入れられない場合、福音の全体を拒絶してしまうという残念な事態が生じています。しかし、同心円モデルでは、人々はまずキリストと人格的関係を持つことから始め、歴史的正統キリスト教会の教義を学ぶところから出発して、あとは自分の知的興味に応じて自由にさまざまな主題を吟味し、成長していくことができます。そこでは、さまざまな教理や意見に関する議論は信仰に入るための前提条件ではなく、すでに信仰を持った者たちの間の「仲間うちの議論」として位置づけられます。そして、このレベルにおける立場の違いは、キリストとのいのちあふれる関係を脅かすことはないので、愛をもって、防御的にならず、楽しみさえ覚えながら行うことができるとボイドは言います。

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このブログを開設当初から読んでくださっている方は、ここでボイドが提示している「同心円モデル」は、「違いの違いが分かる男(女)」で提案したモデルとよく似ていることに気づかれたことと思います。ただし、そこには一つ違いがあります。私がかつて提案していたモデルには、中心に人格としてのキリストの存在がなく、すべてが信仰箇条の相対的重要性のみによってとらえられていました。今では私も、ここでボイドが提案しているように、イエス・キリストの人格をすべての中心に置くモデルの方が好ましいと考えています。しかし、基本的な考え方は同じです。クリスチャンとしての信仰箇条には重みの違いがあり、最も重要な部分において一致していれば、相対的に重要でないことがらに関する意見の違いは、クリスチャンとしての交わりを妨げることはないはずなのです。

この問題は次のように考えることもできます。ある人々は「正統的・聖書的キリスト教信仰」を明確な境界線をもって定義される「領域」と考えています。すなわち正統的クリスチャンを特徴づける一群の信条や行動規範があり、それを外れた(境界の外にある)信条や行動は「異端的」「非聖書的」「非キリスト教的」として拒否する態度です。そこでは「内と外」「白と黒」「天国(救い)と地獄(滅び)」がはっきりしており、人々の関心はいかに境界線を厳密に「定義」し、誰が中にいて誰が外にいるかを「判定」することに向けられます。このような考え方を「境界線思考」と呼ぶことができると思います。

境界線思考

これに対して、ボイドの提唱する同心円モデルのように、イエス・キリストという人格を中心にして、その中心への距離感によってものごとの重要性を相対的に判断していく考え方もあります。これを「中心点思考」と呼ぶことができるでしょう。

中心点思考

この中心点思考では、どこまでが「正統的キリスト教」という明確な境界線があるわけではありません。このモデルでも、中心から離れれば離れるほどクリスチャンとしての正統性に疑問が増していきますが、「境界線思考」と違って、白と黒の明確な区別があるわけではありません。ある意味ファジーなモデルといえますが、福音の中心であるイエス・キリストとの人格的関係を基盤にしつつ、互いの違いを認め、また互いの不完全さも認めつつ、互いに交わり、励まし合いながら、共に成長していこうとするものです。

私の少年時代には、「太陽系は中心の太陽と水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星の9つの惑星からなる」と教わったものでした。けれども、近年では冥王星が「惑星」としての資格を失っただけでなく、これらの惑星の外側にもさまざまな準惑星や小惑星が存在し、「エッジワース・カイパーベルト」や「オールトの雲」といった外縁天体もあることが分かってきました。オールトの雲は長周期彗星の起源と考えられており、理論上その存在が推測される仮説的天体だそうですが、大きく見積もると太陽から10万天文単位(1天文単位は太陽から地球までの距離)の大きさにまで拡がっている可能性があるそうです。いずれにしても、実際の太陽系の外縁は雲のようなとらえどころのないものであり、昔のように「冥王星の軌道までが太陽系」という明確な境界線が引けなくなってきたようです。

F_oort_cloud太陽系(画像は”F oort cloud” by Jedimaster投稿者自身による作品. Licensed under CC 表示-継承 3.0 via Wikimedia Commons.)

キリスト教信仰もまた、イエス・キリストという「太陽」を中心として、その重力圏内でキリストの周りを回転運動する「キリスト系」あるいは「キリスト圏」のようなものととらえることができるかもしれません。これは「何でもあり」のモデルではありません。惑星と外縁天体ではかなりの違いがあります。けれども、それらの間に明確な境界線を設けない「中心点思考」の信仰モデルの方が、信仰のあり方として健全であり、またポストモダンの現代社会においてクリスチャンとして歩む上でも有効であると考えています。

(続く)

確かさという名の偶像(16)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回から第3部「信仰の行使」に入ります。今回は第8章「強固な中心」です。第1部でボイドは「確実性追求型信仰」の問題点を指摘し、第2部では聖書的な信仰のあり方について論じました。第3部では、どのようにその信仰を実践していけばよいのか、具体的な提案がなされます。

この章でボイドは信仰を知的に基礎づけつつ、しかも柔軟に神学を構築していく方法について議論します。

本シリーズの第2回で、「トランプの家」的な信仰のモデルについて述べました。それは、信仰を構成する多くの要素が危ういバランスを保ちながら組み合わされた体系になっており、そのどれか一つでも真理性が疑問にさらされると、全体が崩壊してしまうような不安定な信仰のあり方です。ここでボイドは、その時にも軽く触れた聖書の理解について詳しく論じていきます。

多くの福音派の教会は聖書の「無誤性inerrancy」を標榜しています。これは聖書は誤りなき神のことばであって、信仰の規範としてだけではなく、科学や歴史の分野においても一切の誤りを含まないという立場です。聖書の無誤性がキリスト教信仰の不可欠な基盤であるという立場からすると、もし聖書に一箇所でも明白な誤りが見つかったとすると(それが科学や歴史に関するものであっても)、キリスト教信仰全体が重大な危機にさらされることになります。これはまさに「トランプの家」的な聖書観にほかなりません。

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したがって、この立場の人々は、全精力を傾けて、聖書のすべての記述があらゆる点から見て真理であることを証明しようと努めます。しかし、これはたいへんな難事業であることが分かります。聖書には互いに矛盾しているように見える記述(たとえば福音書間の相違など)や、現代の歴史学や自然科学の成果と矛盾するように見えるような記述(創造記事の文字通りの解釈など)などが数多くあります。それらの中には、比較的容易に説明できるものもありますが、非常に難しいものもあります。英語圏では、そのような「難解な」聖書箇所を説明する専門の参考図書などもあったりします(たとえばこれ)。

聖書の真理を生涯をかけて護ろうとするこれらの人々の動機は高邁なものであり、彼らの真剣な信仰は尊敬に値します。しかし、ボイドは彼のそのような聖書観はどこか根本的にずれているところがあるのではないかと考えました。彼が自分の神学を深めていくにつれて、彼はこの「トランプの家」が何度も崩壊する経験をしました。そのたびに彼は大変な努力を払ってその家を建てなおすのですが、さらに学びを続けていくと再びその家は崩れ去ってしまう・・・。こんな経験を何度も繰り返すうちに、彼はそもそもこのような「トランプの家」的な聖書理解自体が間違っているのではないかと考えるようになったと言います。

ボイドがたどり着いた結論は、クリスチャン信仰の最重要な中心は、私たちが信じる「何か」(つまり聖書のような「もの」)ではなく、イエス・キリストという人格である、ということでした。私たちにとって最も大切なことは、このお方といのちを与える人格的関係を持っていくことです。このことはボイドにとって、大きな発想の転換をもたらしました。

そしてボイドは、キリストとの人格的関係をもつためには、聖書が霊感された神のことばであることに頼る必要はないことに気づいたと言います:

福音派の人々が典型的にするように、聖書が霊感された神の言葉であると信じるからイエスを信じる、というのではなく、私はまずイエスを信じるので、聖書が霊感された神のことばであると信じるようになった。(p. 159)

ボイドのアプローチはこうです。彼はまずイエスを歴史上の人物として研究し、なぜこの人物の死と「復活」が、キリスト教という歴史的ムーブメントを生み出したのかを考えます。彼はそこから、新約聖書のイエスに関する主張が基本的に信頼できること、イエスが確かによみがえった神の子であり、神の決定的な自己啓示であることを確信するに至ります。もちろん、その過程で彼は福音書や書簡を資料として用いるわけですが、この段階では彼はそれらを「霊感された誤りのない書物」としてではなく、一般の歴史資料と同列に扱います。つまり、彼は純粋に歴史的なアプローチによって、イエスがキリストであることを受け入れるようになりました。ボイドはこの結果について100パーセントの確信を持っているわけではありませんが(歴史学という学問においてそれは不可能です)、イエス・キリストとの人格的関係にコミットして生きるに十分なだけの確信は得ることができたのです。

そしてボイドは様々な理由によって、聖書が霊感された神のことばであると信じていますが、それはイエスがキリストであるという信仰から導き出されてくるのであって、その逆ではないと言います。分かりやすく図示すると、福音派に典型的な信仰モデルでは、まず「霊感された誤りなき神のことば」という土台があって、その上に「イエスは神の決定的自己啓示である」という教理が乗っています。このことは、多くの組織神学の教科書がまず聖書論から始まることからも裏付けられます。

トランプの家的聖書観

ところが、ボイドの提唱する信仰モデルでは、まず「イエスは神の決定的自己啓示である」という土台があり、その上に「聖書は霊感された神のことばである」という教理が乗っているのです。

ボイドの聖書観

この二つのモデルは一見同じようなものに見えますが、実は大きな違いがあります。上のモデルでは、「霊感された誤りなき聖書」という「もの」が信仰の土台・中心になっているのに対して、下のモデルでは、イエス・キリストという「人格」が信仰の土台・中心になっています。さらに、上のモデルでは、聖書の無誤性という前提が何らかの形で脅かされてしまうと(たとえば特定の箇所の科学的・歴史的真実性が疑われるなど)、その上に乗っているキリストへの信仰までが揺るがされることになります。つまり、このモデルは「トランプの家」的な構造を持っているのです。これに対して、ボイドのモデルでは、イエス・キリストが神の決定的自己啓示であるという土台を支えるに十分なだけの史的信頼性が聖書によって保証されればそれで十分であって、たとえいくつかの箇所の史実性や科学的妥当性が疑われたとしても、それによってキリストへの信仰が揺らぐ心配はありません。つまり、ボイドが提唱する信仰モデルの方が、より柔軟で安定した構造を持っていると言えるのではないかと思います。

*     *     *

ボイドが提唱する聖書と信仰のモデルは、特に現代社会で生きるクリスチャンにとって大きな意義を持っていると思われます。価値観の多元化と情報化が進んだポストモダンの社会において、キリスト教信仰はかつてない挑戦を受けています。そのような中で、「トランプの家」的な信仰モデルは柔軟性に欠け、クリスチャンが自己の信仰を知的に吟味し、世界観を拡張し、成長していくニーズに対応する力が弱いと思われます。しかし、ボイドのモデルでは、イエス・キリストとの人格的関係に土台を置いていくために、様々な知的挑戦によって多少の疑いや不確実性が生じたとしても、このお方との関係にコミットし続けることは十分に可能となります。

それだけでなく、このような信仰モデルは聖書的なものであると思われます。イエスの弟子たちは、旧約聖書を権威ある神のことばと信じていましたが、旧約聖書の綿密な釈義によってイエスがキリストであるという確信に至ったわけではありません。その逆に、イエスとの生きた出会い(特に復活のできごと)を通してイエスがキリストであると確信するようになったからこそ、彼らは旧約聖書がイエスを指し示しているということが分かるようになったのです。つまり、使徒たちの聖書解釈はイエスとの人格的関係という土台の上に乗っていたのであって、その逆ではありません。(これについては、以前「使徒たちは聖書をどう読んだか」というシリーズで取り上げましたので、そちらをご覧ください)。

最後に、このモデルでは、聖書の無誤性を擁護することが至上命令ではなくなりますので、聖書記述のあらゆる細部の真実性を水も漏らさぬように弁証するために全精力を費やす必要から解放されます(この「戦い」は困難であるだけでなく、学問の進歩に伴い常に新しい挑戦が生じてくるので、終わることがありません)。信仰者がその分のエネルギーと情熱を、キリストとの生きた人格的関係を育むために注いでいくことができるとしたら、そちらのほうがはるかに好ましいのではないかと、個人的には考えています。

(続く)