グレッグ・ボイド・インタビュー(3)

その1 その2

グレッグ・ボイド博士のインタビューを掲載しています。今回お届けする部分では、神の主権や力をどのように理解すべきかという、重要な問題について語ってくださっています。

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――オープン神論を学べば学ぶほど思わされるのは、私たちは神の主権や力、支配と言った概念について聖書的に再定義する必要があるのではないかということです。なぜなら、オープン神論に対して、特にカルヴァン主義陣営からもっともしばしば加えられる批判の一つは、それが神の主権をないがしろにしているということだからです。神の主権、つまり神が宇宙の王であるということと、自由意志や神の愛といった概念を、どのように両立させることができるのでしょうか? 続きを読む

創造という愛の狂気

最近、シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil:フランス語では「ヴェイ」と発音するらしい)の生涯と思想に心を惹かれて、折に触れてその著作を少しずつ味読しています。彼女は第二次世界大戦中に34歳の若さで亡くなったユダヤ系フランス人で、哲学者・政治活動家・神秘主義者でした。生前に出版した著作は多くはなく、無名に等しい存在でしたが、死後彼女の遺稿が次々と編集・出版され、多くの人々に影響を与えてきました。 続きを読む

オープン神論とは何か(2)

その1

前回の記事で、オープン神論の中心的な考えは、神は被造物に真の意味での自由意志を与えられ、被造物とダイナミックな人格的相互関係を持たれるということ、そして未来は部分的に開かれているということだと述べました。今回は、このような主張が聖書の記述によってどのように裏付けられるのかを概観したいと思います。 続きを読む

オープン神論とは何か(1)

昨年、グレゴリー・ボイドの著書Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)を取り上げて、「確かさという名の偶像」という25回シリーズで紹介させていただいたことがあります(最終回の記事に、過去記事へのリンクが貼ってあります)。これによって、恐らく日本で初めて、ボイドの神学的主張をある程度まとまった形で紹介することができたのではないかと思います。

これから何回かにわたって、ボイドが支持するある神学的潮流に光を当てていきたいと思います。それはopen theismと呼ばれるものです。これは日本ではまだ定着した訳語がなく、「開かれた神論」などと呼ばれることがありますが、このブログでは「オープン神論」と呼んでいきたいと思います。 続きを読む

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その7)

その1 その2 その3 その4 その5 その6

『聖書信仰』書評

藤本満先生によるゲスト投稿ですが、最終回の今回はフェミニズム神学について語ってくださいます。

私は男性がフェミニズム神学を論じることも、白人やアジア人が黒人神学を論じることも、重要であると考えています。「フェミニズム神学は女性がする神学」というステレオタイプが固定してしまうと、そもそも男女間の間にある隔ての壁を突き崩す可能性を持った神学が、より一層両者の溝を深めるセクト的神学にとどまってしまうのではないかと思います。ですので、今回藤本先生がフェミニズム神学を取り上げてくださったことを感謝しています。

藤本

しばらく間が空いてしまいました。先生のブログ読者の方々にも申し訳ないと思います。ところで、このブログの主催者のaboutのところをご覧になるとわかるのですが、山﨑ーランサムが御名字です。ご結婚されるとき、奥様の名字と合体させたとうかがいました。神さまが与えてくださった知恵です。

さて、寄稿は今回で最後なのですが、山﨑ランサム先生が投げてくださいました質問の中から、以下のものを取り上げさせてください。あくまで問題意識程度ですが、少し書かせてください。

Q.「結びにかえて」ではフェミニズム神学とフェミニズムの聖書解釈を本書で論じなかった点について触れられ、福音主義の立場からいずれ論じてみたいと書いておられます(398頁)。この点について、概略だけでもお聞かせ願えますか?

「フェミニズム神学」、またそれ以前に影響を与えた「解放の神学」が1970-80年代の遺物で、一世を風靡して消えていったと理解すべきではないと思います。解放の神学を考えてみます。解放の神学は、南米のキリスト教(特にその貧富の格差)が、ヨーロッパ植民地支配を依然として引きずっていて、その格差構造を教会が支えているという批判でした。社会経済構造の批判など、この神学はマルキシズムを援用したものであると批判されてきました。キリスト教的な解放運動がいつの間にか反政府勢力のイデオロギーと合体したなど、この神学が生み出した問題も多々ありました。

しかし、その神学的展開は出エジプトに始まる聖書の「解放」の神学的な本質を鋭く描き出しました。神学的運動としての「解放の神学」は今は活発ではありません。しかし、ここで指摘された、依然として世界を支配している「植民地支配の構造とキリスト教」というやっかいな問題は、しっかりとキリスト教神学の中心的課題と見なされるようになりました。現在、日本の教会で最も用いられている教会史の書物は、フスト・ゴンサレス『キリスト教史』上・下だろうと思いますが、この本が面白いのは、ゴンサレスがキューバ出身の教会史家だからでしょう。

格差構造を抱えた社会は、神学的には「聖書信仰」が厳しく批判の対象とすべき問題です。それは旧約聖書が厳しく批判するエジプト、アッシリヤ、バビロン、いやそればかりかイスラエル王国そのものの支配を見ればわかります。ブルッゲマン(『預言者の想像力』鎌野直人訳)は、同じ批判を見事に現代アメリカに適用します。私たちは聖書信仰のスタンスから、ヒットラーの第三帝国を、大日本帝国を、常に世界の覇者であろうとするアメリカを批判できます。支配する側ではなく、苦しむ人びとの側に十字架の主と共に立ち、悪(人)の支配から解放してくださる神に希望をもって行動することができます。確かに解放の神学は、「聖書」全体ではなく、「解放」のモチーフに振り回された感はありました。それでも、この問題にスポットを当てたという意味での貢献は、否定できないでしょう。

フェミニズム神学(最近は黒人女性の解放を目指すウーマニズムの立場からの神学も含みます)は、解放の神学から派生し、特に女性の視点からキリスト教神学を見直すというものでした。女性の視点、女性の経験から聖書を解釈し直すとは、未だかつてない大きな影響をキリスト教会に与えてしかるべきものです。なぜなら、古代から現代に至るまで、社会とキリスト教には父権的構造・考え方が染みついているからです。ハーバード大学の神学部に女性の入学が許されたのは1955年、つい60年前の出来事だったとは、いかにキリスト教が父権的であるかの象徴かもしれません。

さて、フェミニズム神学の幕が開けたときには、かなりショッキングな発言が出てきました。たとえば、この神学の礎を据えた一人であるローズマリー・リューサー(Rosemary Ruether)はこんな過激なことを言います。十字架を前に弟子たち(男性)はイエスを見捨てて逃げてしまいます。しかし、ゴルゴダの丘で主の十字架を見届けたのは数名の女性の弟子たちでした。さらに復活された主は、マグダラのマリアら女性の弟子たちに現れます。そのことを告げられたペテロは疑います。復活の主がご自身の存在をつぶさにお示しになったのはマグダラのマリアに対してでした(ヨハネ20:11-18)。主の復活を弟子たちに教えているのは彼女です(18)。リューサーは、もしマリアが復活の証人の第一人者と認められていたら、もし彼女が当時の社会で使徒となることを許されていたのなら……と想像を膨らませます(Ruether, Sexism and God-Talk)。

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復活のイエスに出会うマリア(フラ・アンジェリコ)

グノーシス文書で『マグダラのマリアによる福音書』がありますが、そんなことをリューサーは論じているのではありません。もし当時のイエスの共同体における女性の地位が男性と平等であったら、福音書の中身はどうなっていたのだろうか、と。もちろん、私たちは主が使徒として男性を立てられたという現実、また彼らが中心となって初代教会が構成され、教会権威が立ち上がり、やがて正典聖書ができあがっていったということに啓示の摂理があることにうなずいています。つまり、神の啓示はこの世に示され、それが父権的社会であるなら、その現実は神の啓示の摂理の中にあることを。

しかし、だからと言って、記されていないことを単なる想像として葬り去ることにも納得がいきません。たとえば、こういうことです。創世記16章にアブラハムの妻サラの奴隷ハガルのことが記されています。ハガルはエジプト人の女性であり、奴隷です。しかし、神はハガルを祝福されます。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる」(16:10)。これは、アブラハムが受けたのと同じ祝福です。それを女性であり奴隷であるハガルは、直接神から受けています。さて、聖書はハガルの子孫ことをその後記していません。それどころか、ユダヤ人やイスラームの人びとは、ハガルから生まれたイシュマエルをアラブ人の祖先と見ています。では、16:10で約束された祝福は、その後、どのように果たされたのでしょうか。少なくとも、その祝福は「絶えてはいない」と言うべきなのではないでしょうか。私は、イシュマエル民族に流れる神の祝福を描き出せるなどと考えているのではありません。しかし、少なくとも「記されていないから途絶えてしまった」と考えるべきではないと思っています。

記されていないところから、様々なことを知ることはできません。マグダラのマリアがどのように福音を体験し、どのような影響を初代教会の共同体に与えたのかを掘り下げて考えるには限りがあります。

ここで「記されていないこと」をたぐり、あるいは記されていても「社会的な背景が強い箇所」に注目しますと、聖書信仰の論理の道筋は、やがて以下に述べる問題に直面します。それを私は卑怯にも、論じることを避けます。しかし、こういう問題は考えなければならない、とだけ提示させてください。

まず、フェミニズム神学が提示してくる課題は、聖書信仰の基本中の基本である命題に関わります。「聖書は救いと信仰の実践において誤りなき」神の言葉であり、その側面において十全であると信じます。ところが、仮にそれが父権社会に傾いていたら、「いや」傾いていたとは言いたくありません。女性の経験・視点を覆い隠すように神の言葉を解釈していたら、神の言葉は、十全たり得ないでしょう。あるいは現代の複雑多岐の実践課題に対する結論を誤りなき神の言葉からどのように導き出すかに至っては、私たちの考えていること行っていることは、おおよそ無誤無謬からはほど遠いと考えるべきでしょう。

私たちは、「主張だけは」男女平等の世界に生きていると思います。しかし、この主張は比較的新しいもので、それが叶わなかった一つの妨げにキリスト教の男性優位主義が存在していたことを認めることも大切であろうと思います。

さらに、父権的な枠組みを、神の言葉の本質と考えるのか、それともそれを一つの社会背景として考えるのか。神は人を男と女とに造られ、男性主導、女性従属的な役割を授けられたのか。それとも男性も女性も神の像にあって等しく創造され、等しくあがなわれ、新に造られているのか。

個別の事象で言えば、コリントの教会に向けてパウロが記した、教会における女性の役割が取り上げられます(1コリント11:3-16、14:34-35)。これをそのまま受け取ることだけが聖書信仰とは言えないでしょう。これを父権的な枠組みの中、歴史的な制限の下にある教えと見なす(相対化する)ことも、聖書信仰に抵触するとは思えません。寄稿(1)で述べたように、神の啓示は旧約聖書であれ新約聖書であれ、歴史的現実の中に現されるからです。

絹川久子氏による『沈黙の声を聴く――マルコ福音書から』(日本キリスト教団出版局、2014年)などは、かなり詳しく当時の社会的背景に照らして、福音書に描かれる女性や弱者の叫び、またそれに応えるイエスを描いています。同時に、荒井献氏の『新約聖書の女性観』(岩波書店、1988年)などを読むと、初代のキリスト教共同体が、父権制の強いユダヤ・ギリシャ・ローマの世界にあって、独特な女性解放的要素に富んでいたことを説いています。あるいは、こんなことも考えます。日本は、女子ミッションの高等教育がとても盛んな国です。にもかかわらず、女性の社会進出が非常に遅れた国でもあります。女子ミッション教育は、父権制の強い日本社会を破ることができなかったのだろうか? それはなぜなのか? 東京基督教大学で教え、また東京女子大学の学長もなさった湊晶子氏は、福音派におけるフェミニズム神学(健全な意味で)の論客です。そのあたりをお聞きしてみたいとも思います(参考、湊晶子『女性のほんとうのひとり立ち』、いのちのことば社)。

福音主義神学会の学会誌32号(2001年)には、「女性教職論」との特集テーマのもと、湊晶子「女性教職の歴史神学的考察」、國重潔志「米国福音派における女性教職論」、稲垣緋紗子「賜物に性による差はあるのかとの問いをめぐって」が所収されています。

最後に一言。昨年、私は徳島にある大塚美術館を訪れる機会を得ました。その時、聖書をテーマとした絵画に造詣の深い町田俊之先生をお迎えして、様々な絵画についてご説明をいただきました。有名な17世紀オランダのレンブラントによる「放蕩息子」を前にして、先生がレンブラントの栄枯盛衰的な人生の最後にこの作品が描かれたことを教えてくださいました。そして、息子を迎える父の手が、右と左が明らかに違うことを。片方は父親の節くれ立った手。もう片方が、やさしい母親の手。まさに、そうだなぁ、と味わい深く絵画に見入ってしまいました。

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レンブラント「放蕩息子の帰還」

実は、山﨑ランサム先生からは、他にもご質問をいただきました。これ以上、私の寄稿で先生のブログスペースを乱すことはやめておきます。せめて先生からのご質問だけは記させてください。私たちの今後の課題となると確信しています。

先生、本当にありがとうございました。

Q.本書でもカール・バルトについてかなり積極的な評価がなされているように、福音主義の聖書信仰も、いわゆる福音派教会の内部だけで議論されてきたのではなく、福音派外のさまざまな立場との積極的対話から実り多いものが生まれてくるように思います。この点について、先生のお考えをお聞かせください。

Q.本書の貴重な貢献の一つに、欧米の福音主義だけでなく、日本における福音主義の歴史についても紹介しておられる 点が挙げられると思います。12章「戦後日本の聖書信仰」では、1980年代の聖書信仰論争までが描かれています。他の章ではより最 近の日本の神学者についても個別に触れておられますが、先生の目からご覧になって、ここ30年の日本の福音派における「聖書信仰」の 理解は、どのように変わってきたとお考えでしょうか?

Q.本書で先生が提唱しておられるような幅のある豊かな「聖書信仰」を、ポストモダンの社会に生きる日本のキリスト 教会が体現していくためには、具体的にどのようなことに留意していくべきと思われますか?教職者として、信徒として有益と思われるアドバイスをいただけると感謝です。

――(藤本ですが、この質問に対する答えは、すでにこのブログに豊かに記されています)

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(以下、山崎ランサムです)

藤本先生が今回取り上げてくださったフェミニズム神学、あるいはラテンアメリカの解放の神学、アメリカ合衆国の黒人神学、韓国の民衆神学等、何らかの形での社会正義の実現がキリスト教の福音の重要な部分を占めるとする一連の神学的運動について、福音的「聖書信仰」の立場からどう考えるかというのは、たいへん重要な問題だと思います。

先生が『聖書信仰』の中で論じておられるように、聖書信仰が真理の啓示としての聖書の側面だけでなく、救いを与える力を持つものとしての「救済論的聖書観」を含むものだとすれば、その「救い」は個人の魂の救済のみならず、社会や究極的には被造物世界全体の回復を射程に入れているものでなければならないと思います。そのような意味で、フェミニズム神学や解放の神学等の主張に全面的に同意することがなかったとしても、それらが提起している社会的正義の問題は、福音主義の聖書信仰にとっても決して無視することのできないものであると思います。

キリスト者といえども自らが生きる文化や社会の制約から完全に自由な「純粋な聖書信仰」を持つことは不可能です。そのような文化的社会的バイアスは、私たちの聖書理解にも必ず影響してきます。たとえばローマ16:7を考えて見ましょう。

私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。この人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私より先にキリストにある者となったのです。(新改訳第3版)

ここで新改訳聖書(新共同訳、口語訳も同様)が「ユニアス」と男性名で訳している人物は女性名の「ユニア」であると、最近の学者の多くは考えています。また、この箇所は彼女とアンドロニコ(おそらく彼女の夫)が(十二弟子ではなく広い意味での)使徒であった可能性を示唆しています。つまり、彼らは「使徒たちによく知られた人々」ということではなく、「使徒たちの中でもぬきんでた人々」ということです。

男性名「ユニアス」の記録はこの箇所以外の古代文献には存在せず、教父時代から中世にかけて、この箇所の人物は女性の「ユニア」であると考えられてきましたが、近代になってこれを「ユニアス」と取る解釈が一般化しました。ジェームズ・ダンはそのローマ書注解の中で、「この人物が男性であるに違いないという思い込みがあるということは、最初期キリスト教の性格と構造についての男性の厚顔さに対する顕著な批判となっている」と述べています。つまり、この人物は「ユニアス」という男性だとしてきた解釈史には、「使徒は女性であるはずがない」という男性優位主義的な偏見が多分に影響していると考えられるのです。

しかし、近年になってこのようなバイアスは多少是正されてきており、それが聖書翻訳にも反映されてきています(もちろんそれだけが翻訳の決め手ではありませんが)。英語圏で広く読まれているNew International Versionの1984年版と2011年版でローマ16:7を比較してみるとそのことがよく分かります。

Greet Andronicus and Junias, my relatives who have been in prison with me. They are outstanding among the apostles, and they were in Christ before I was.(1984年版

Greet Andronicus and Junia, my fellow Jews who have been in prison with me. They are outstanding among the apostles, and they were in Christ before I was.(2011年版

同時に、藤本先生も おっしゃるように、新約聖書が当時の父権社会に生きる人々に向けて語られた神の言葉であるということも忘れてはならないと思います。これは奴隷制についても同様です。福音派は聖書の神的側面を強調しすぎるあまり、当時の人々の世界観や文化的バイアスのレベルにまで神が降りてきてくださっ て語りかけられた、という事実を軽視してしまい、聖書の中にある、本来は福音の価値観にそぐわない文化的要素を「神のことば」の名の下に絶対視してしまう危険性があると思います。

藤本先生、7回にわたって当ブログに貴重な文章をお寄せくださり、心から感謝いたします。ありがとうございました。

(おわり)

要約すると

1962年のこと、カール・バルトはシカゴ大学のロックフェラー・チャペルで講演をしていました。講演後の質疑応答の時間に、一人の学生が、「先生のこれまでの神学的業績のすべてを一文に要約すると、どのようになりますか?」と訊ねました。

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カール・バルト

この質問に対して、この20世紀最大の神学者は、次の有名な子どもの讃美歌の一節をもって答えたと言われています。

Jesus loves me this I know, for the Bible tells me so.
(私は知っている。イエス様に愛されていることを。なぜって、聖書にそう書いてあるから。)

簡潔にしてポイントをおさえた、実に素晴らしい要約だと思います。バルトが本当にそのようなことを言ったのかどうか、定かではありませんが、神学者ロジャー・オルソンによると、かなり信憑性は高いようです。彼のブログ(こちらこちら)によると、バルトは1962年のアメリカ講演旅行の中で複数回、このような発言をしたとされています。たとえこれが一種の都市伝説であり、バルト本人の言葉ではなかったとしても、たいへん含蓄のある、味わい深い内容であることに変わりはありません。

聖書が私たちに語りかけているメッセージの中心は、すべての人に注がれるイエス・キリストの愛である――これはバルト一人の神学のみならず、すべての正統的キリスト教神学のエッセンスを凝縮したものといえるでしょう。

この讃美歌の上に引用した一節が神学の要約なら、それに続く次の部分は、クリスチャンの信仰の歩みを要約していると言えるかもしれません。

Little ones to Him belong; they are weak but He is strong.
(小さき者らは主のもの。彼らは弱くても、主は強いお方。)

ここでいうlittle onesとは、単に子どもを指しているのではないと思います。私たちはいくつになっても神の前には小さき者であり、足りない者、弱い者です。けれどもそのような私たちが唯一誇ることができるのは、自分がイエス・キリストに属する存在だということです。このことを自分のアイデンティティとして持つことができるならば、恐れることがありません。なぜなら、たとえ私たちが弱くても(事実その通りですが)、私たちとともにおられる主は強いお方だからです。

聖書の中心はイエス・キリストであり、全聖書はキリストを通して表された神の愛を指し示し、それを証しするものです。その愛はすべての人にわけ隔てなく注がれています。私たちは恵みによって救われ、恵みによって日々導かれている存在です。どれほど神学の研鑽を積み、どれほど信仰の深みを体験したとしても、この中心点から目をそらすことのないように、心していきたいと思わされています。

Yes, Jesus loves me. Yes, Jesus loves me.
Yes, Jesus loves me. The Bible tells me so.