力の支配に抗して(2)

いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。(ルカ2:14)

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前回は、シモーヌ・ヴェイユのエッセイ「『イリアス』あるいは力の詩篇」に基づいて、万人を奴隷にする力の支配について考えました。

誤解のないように書いておきますと、このエッセイが好きだからと言って、私はヴェイユがそこに書いている内容のすべてを肯定しているわけではありません。それどころか、プラトン的な二元論、またキリスト教のヘブライ的ルーツに対する不当に低い評価といった、個人的にまったく同意しかねる部分もあります。けれども、そのためにこのエッセイ全体を否定するのは、まさに産湯とともに赤子を捨ててしまうような愚であると思います。私にとってヴェイユが典型ですが、ひとりの人の思想の中に、まったく同意できない部分と、おおいに共感できる部分が同居していることがあります。そこがヴェイユの不思議な魅力になっているとも言えます(過去記事「クリスマスの星」も参照)。

ともあれ、前回紹介した彼女の「力」の概念は非常にすぐれた洞察であり、今日もその輝きを失ってはいません。むしろその意義はますます大きくなっていると言えます。今回はこれを足がかりに、新約聖書に目を向けてみたいと思います。 続きを読む

キリストの昇天

今年は5月10日(木)がイエス・キリストの昇天を記念する昇天日(Ascension Day)にあたります。イエスが復活後に天に挙げられたできごとは、新約聖書のメッセージの中で重要な位置を占めています。にもかかわらず、昇天について語られることは意外と少ないように思います。 続きを読む

王なるイエスの福音

所属教会で礼拝説教の奉仕をしましたので、多少手を加えたものをお分かちします。

*     *     *

「王なるイエスの福音」(使徒の働き2章32-36節)

32  「このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。33  それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。34  ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、
『主はわが主に仰せになった、

35  あなたの敵をあなたの足台にするまでは、
わたしの右に座していなさい』。

36  だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。

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「全能者キリスト」(ハギア・ソフィアのモザイク)

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平和の君(1)

ルカの福音書によると、イエスが誕生した夜、野宿をしながら羊の番をしていた羊飼いたちに天使が現れて、救い主の誕生を告げました。その時天の軍勢が現れてこう歌ったと記されています。

「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。(ルカ2章14節)

天使はそれに先だって、羊飼いたちにこう語っています。

きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。(11節)

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ダビデの町に救い主(キリスト=メシア)が生まれたというこのメッセージは、この時に誕生した幼子は王であるということを示しています。ルカが世界の王としてのイエスの誕生を、ローマ皇帝との対比の中で描いているということについては、過去記事「本当は政治的なクリスマス物語」で述べました。

さて、天使の合唱は、王なるキリストの誕生を「地に平和がもたらされる」という概念と結びつけて歌っています。王が支配するということは、地に平和をもたらすことにほかならないのです。このことは、次のイザヤ書の預言を思い起こさせます。

ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、
ひとりの男の子がわれわれに与えられた。
まつりごとはその肩にあり、
その名は、「霊妙なる議士、大能の神、
とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、
ダビデの位に座して、その国を治め、
今より後、とこしえに公平と正義とをもって
これを立て、これを保たれる。
万軍の主の熱心がこれをなされるのである。
(イザヤ9章6-7節)

イエスはまさに、旧約聖書が約束していた「平和の君」としてお生まれになったのです。

 

旧約聖書における平和(シャローム)

「平和」という言葉はヘブル語では「シャローム」といいます。「平和」というと世の中に戦争や争いのない状態、という政治的・社会的な概念をまず思い浮かべるかもしれませんが、聖書的なシャロームはもっと広い概念であり、「完全性、健康、安全、繁栄、幸福、救い」といった様々な概念を含む言葉です。それは個人の状態を表すことも、人と人の関係、また人と神の関係を表すこともあります。要するに「シャローム」とは、人間や社会が理想的な幸福な状態にあることを描いていると言えます。イザヤ書ではバビロン捕囚からの解放という「良い知らせ(福音)」は、神が王となられたというできごとと、その結果もたらされる平和(シャローム)との関係で語られています。

よきおとずれを伝え平和を告げ
よきおとずれを伝え、救を告げ、
シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と
言う者の足は山の上にあって、
なんと麗しいことだろう。
(イザヤ52章7節)

旧約聖書では、終わりの日に訪れる神の最終的な救い、つまり神の国の訪れが「シャローム」という言葉で描かれています。そして、この最終的なシャロームをもたらすのがメシヤと呼ばれる存在でした。上で見たイザヤ書にあるように、この来るべきメシヤは「平和の君」と呼ばれます。またこの王は平和を告げ知らせる存在として描かれます。

シオンの娘よ、大いに喜べ、
エルサレムの娘よ、呼ばわれ。
見よ、あなたの王はあなたの所に来る
彼は義なる者であって勝利を得、
柔和であって、ろばに乗る。
すなわち、ろばの子である子馬に乗る。
わたしはエフライムから戦車を断ち、
エルサレムから軍馬を断つ。
また、いくさ弓も断たれる。
彼は国々の民に平和を告げ
その政治は海から海に及び、
大川から地の果にまで及ぶ。
(ゼカリヤ9章9-10節)

 

キリストによる平和

この約束を成就したのが、イエス・キリストです。パウロは「キリストはわたしたちの平和」であると述べています。

14  キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、15  数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、16  十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。17  それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。
(エペソ2章14-17節)

エペソ書の中心的主題は「教会」です。パウロは2章で、以前は敵対していたユダヤ人と異邦人がどのように十字架によって一つとされたか、ということについて語ります。キリストは二つのグループの間にあった隔ての壁を打ちこわし(14節)、敵意を廃棄されました(15節)。パウロはこの敵意とは律法であるといいます。律法は二重の敵意、二重の壁を生み出します。一方ではユダヤ人と異邦人を分断し(なぜなら律法はユダヤ人にしか与えられていないから)、他方では人類と神との間の断絶を作り出すのです(なぜなら、ユダヤ人も異邦人も、律法に適う生き方をすることができないから)。

けれどもキリストはユダヤ人と異邦人の間、また人類と神の間にある二重の壁を打ち壊されました。キリストにあって、ユダヤ人と異邦人は和解して一つの神の民となることができるのです。それをパウロは「ひとりの新しい人」(15節)と呼びます。それはただ単にユダヤ人と異邦人が仲良くするということではありません。またユダヤ人が異邦人のようになることでも、その逆でもありません。キリストにある者は、ユダヤ人も異邦人も超越した新しいアイデンティティを獲得するのです。それだけではありません。そのようにして一つとされた神の民は、今度は神ご自身と和解することができるのです(16節)。

このようなパウロにおける「平和」の概念は、キリストが死からよみがえって神の右に着座され、すべてにまさって高く挙げられたお方である(エペソ1章20-22節)、という彼の理解と切り離して考えることはできません。キリストが王として治められるところには、平和があるのです。

(続く)

 

復活のキリストにはなぜ傷痕があるのか

現在グレッグ・ボイドのBenefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介記事を連載していますが、そこでボイドは、十字架上のイエスにおいて啓示された神の姿は、旧約聖書で啓示された神の姿よりも優先するものであり、同時にそれらを解釈するためのレンズであると論じています(第18回第19回)。それに関連してこの記事では、十字架に先行する旧約聖書に描かれている神のイメージだけでなく、その後に来る終末における神観も、十字架のレンズを通して見なければならないということを論じていきたいと思います。

19  その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 20  そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。 (中略) 25  ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。 26  八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 27  それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。(ヨハネ20章19-27節)

新約聖書に収められている復活顕現記事の中で、ヨハネの福音書だけが、よみがえったイエスのからだに十字架の傷痕が残っていることを記しています。

The_Incredulity_of_Saint_Thomas_by_Caravaggioカラヴァッジョ「聖トマスの懐疑」

ヨハネの黙示録では、復活のキリストが「小羊」として繰り返し登場しますが、このキリストは「ほふられたと見える」小羊として描かれています。

わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。(黙示録5章6節)

なぜこの小羊がヨハネにはほふられたと見えたのでしょうか?おそらくこの小羊にはほふらられた時につけられた傷痕が残っていたのかもしれません。

Retable_de_l'Agneau_mystique_(10)ファン・エイク兄弟「神秘の子羊の礼拝」

有名な讃美歌Crown Him with Many Crowns(聖歌179番「おおくのかむり」)の歌詞にも、次のような一節があります。

Crown Him the Lord of love, behold His hands and side,
Those wounds, yet visible above, in beauty glorified.

愛の主に冠をささげよ。彼の手とわきを見よ。
これらの傷は今でも天上で、栄光に輝く麗しさの中で見ることができる。

十字架にかかって死なれたイエスは、三日後に肉体をもってよみがえりました。新約聖書によると、復活したイエスのからだは、霊ではなく物質的な肉体であり、しかも通常の人間の肉体とは異なる性質を持ったものでした。しかし、そのような栄光のからだをもって復活したキリストには、十字架の傷跡が残っていた―この非常に印象的なイメージは、十字架と復活の関係をみごとに表していると思います。一言でいえば、復活は十字架の否定ではなく肯定であり、十字架を通してでなければ理解できないということです。

近年、聖書やキリスト教信仰における復活の重要性が主張されてきています。これまでの「十字架偏重」の神学を見直し、復活の重要性を再評価しなければならない、というのです。私はそのような動きは心から歓迎しますし、確かに復活の教理は大いに強調されなければならないと思っています。しかし、問題はその強調すべき復活をどのように理解するかということです。それは一歩間違えると十字架の中心性を否定するような形の安易な勝利主義的神学に導かれれるおそれがあるのではないかと、私は危惧しています。

歴史における神の救済のドラマは、イエスの十字架によって完結したわけではもちろんありません。三日後にイエスは復活し、それは世の終わりのすべての死者の復活と新天新地の到来に導いていくものでした。ですから、確かに十字架のみを強調する神学は不完全のそしりを免れません。しかし、ここで注意しなければならないのは、十字架は終末にいたる神の物語の単なる通過点ではないということです。それどころか、十字架のできごとは、それ以後の救済史の展開を理解する上でも決定的に重要な鍵を提供しているのです。

たとえば、新約聖書が終末に再臨するイエスをどのように描いているか、それを私たちがどのように解釈すべきかを考えてみましょう。特にヨハネの黙示録は、キリストを悪を滅ぼす戦士として、怒りと裁きの神として描いています(19章11-16節)。多くの人々はこのイメージを文字通り受け取り、再臨のキリストを通して啓示される神の本質は怒りと裁きの神であると考えています。しかし、このような解釈は、黙示録自体においてキリストは同時に一貫して「ほふられた小羊」として描かれていることとも、福音書等でイエスが自己犠牲的な愛の神として啓示されていることとも矛盾します。ですから、私たちは黙示録における暴力的なイエスの描写を文字通り解釈するのではなく、ヨハネが黙示文学における戦う神の伝統的表象を逆用していると考えなければならないのです(このことについては、「黙示録における『福音』」のシリーズを参照してください)。しかし、その時私たちは、黙示録にある戦士としてのイエスのイメージを、十字架につけられた愛のイエスの姿をレンズとして見ていることになります。つまり、十字架上のイエスにおいて啓示された神の姿は、それに先行する旧約聖書の神啓示に優先するだけでなく、それ以後の新約聖書におけるその他の神啓示にも優先するということになります。その意味で、十字架は文字通り全聖書の中心であり、解釈学的転回点なのです。

聖書の終末論のポイントは神の国、つまり神の王なる支配が天だけでなく地にも到来し、すべてをおおいつくす、ということです。復活も新天新地もすべてはこの観点から見ていく必要があります。しかし、問題は、それがどのような種類の支配で、どのように行使されるのか、ということです。十字架が全聖書の中心であるというのは、この終末における神の王的支配もまた、十字架のレンズを通して理解しなければならないことを示しています。つまりそれは黙示録の「バビロン=ローマ」に象徴されているような、力による上からの支配ではなく、十字架のイエスが身をもって示されたような、自己犠牲的な愛によって他者に仕える(マルコ10:42-45、ルカ22:24-30)、そういう「支配」なのです。(この点については、「御国を来たらせたまえ(補)」をお読みください)。そういう意味で、新約聖書の終末論は「十字架形の終末論 cruciform eschatology」と言っても良いかも知れません。

終末における復活や神の国の完成を十字架のレンズを通して見るか見ないかということは、クリスチャン信仰のありかたそのものを大きく左右する、決定的に重要なことであると思います。この点を見誤ってしまうと、復活は単なる「十字架の死や弱さという否定的な効果のキャンセル」という理解になってしまいます。そうすると、死からよみがえったイエスは「本来そうであった」力と栄光に満ちた神として、敵対する者に復讐するために地上に戻ってくる存在として理解されることになります。つまり、このような勝利主義的な理解においては、復活は十字架において示された愛なる神の本質を否定あるいは少なくとも限定するものとしてとらえられてしまいます。しかし復活は十字架の否定でも限定でもありません。復活は十字架を通して啓示された愛なる神の本質を確証する、神の「しかり」なのです。復活のイエスが十字架の傷跡を持ち続けておられるのは、そのことを意味しているのだと思います。

聖書解釈や神学において、イエス・キリストを中心に考える「キリスト中心的 Christocentric」アプローチが語られることがあります。それは確かに重要な考え方であると思いますが、そこで中心に置かれる「キリスト」がどのようにイメージされるか―十字架上の愛のイエスか、それとも力に満ちた裁きの神としての勝利主義的イエスか―によって、その内容は大きく変わってきます。ですから、私は自分の神学を表現する時には「キリスト中心的」という表現より、「十字架中心的 crucicentric」という表現を用いたいと思っています。パウロが「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(1コリント2章2節)と語っている通りです。

十字架は復活がなければ完結しません。けれども同時に、復活は十字架の光に照らしてはじめて本当に理解できます。復活のイエスのからだに残された十字架の傷跡は、そのことを私たちにいつも思い起こさせてくれるのだと思います。