オープン神論とは何か(2)

その1

前回の記事で、オープン神論の中心的な考えは、神は被造物に真の意味での自由意志を与えられ、被造物とダイナミックな人格的相互関係を持たれるということ、そして未来は部分的に開かれているということだと述べました。今回は、このような主張が聖書の記述によってどのように裏付けられるのかを概観したいと思います。 続きを読む

確かさという名の偶像(21)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回も前回に引き続き、第10章「実体的な希望」を取り上げます。

前回取り上げた部分でボイドはマルコ11章24節(「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」)などの箇所に見られるイエスの教えは、祈る時に心理的な確信を持ちさえすれば、その祈りがかなえられるという意味ではない、と論じました。確かにこれらの箇所でイエスは信仰の重要性を語っていますが、それは人格的契約covenant関係に基づく信仰なのです。

それでは、具体的に信仰を持って祈るということは、どういうことを意味しているのでしょうか?ボイドはそれは、想像力(イマジネーション)を使って、祈り求めていることがらがすでに与えられているさまを思い描くことだといいます。

信仰と想像力

まずボイドは、私たちが思考するということはどういうことか、について論じます。多くの人はほとんど意識することはありませんが、実際に私たちがものを考えたり、過去のできごとを思い起こしたり、未来のことを予想したりする時には、私たちは単なる文字情報を繰り返しているのではなく、現実世界での体験を想像力によって再現しているのだ、と言います。

たとえば「今日朝食に何を食べたか思い出してください」と言われてそのようにするとき、私たちは「トースト、卵、コーヒー」といった文字情報を頭に思い浮かべているのではなく、実際に私たちが食べた朝食の様子をビデオをリプレイするように、頭の中で想像しているのです。そこには視覚的イメージだけでなく、音や匂いや味、口の中での感触なども含まれているかもしれません。

ボイドはそのようにして想像力の中で私たちが体験を繰り返す働きのことを「再現するre-present」と言います。(英語でrepresentという言葉は「示す」「思い描く」と言った意味がありますが、ボイドは「再び思い描く」というニュアンスを強調するためにre-presentと綴ります。日本語の「現」という言葉はこのニュアンスをよくとらえていると思います。)私たちが過去や現在や未来のものごとを考える時、私たちは常に想像力を使ってさまざまな体験を脳の中で再現しているのです。これらの「再現」は多くの場合無意識の内に、自動的に行われます。

そしてボイドによると、この想像力によって再現されたイメージが具体的で鮮明なものであればあるほど、それは私たちに強い感情的インパクトを与え、したがって私たちの行動やそのための動機づけに影響を及ぼします。そして、このことは私たちが信仰をどのように行使するかに関わってくるのだとボイドは言います。

ボイドは新約聖書でしばしば、私たちの思いをコントロールすることについて書かれていることにふれ(ローマ12章2節、2コリント10章3-5節、ピリピ4章8節など)、これらの箇所で命じられているのは、真なる情報を記憶して唱えること(それも大切ですが)だけでなく、私たちの脳内でほとんど無意識の内に再現される具体的なイメージをコントロールすることだといいます。なぜなら、私たちの実際の行動、したがって生き方に最も強い影響力を及ぼしているのは、頭で覚えた知的情報ではなく、そのようなイメージだからです。私たちが信仰者としてキリストの似姿につくり変えられていくためには、私たちはしばしば外界からの刺激に対して反射的に脳の中に起こってくるイメージをコントロールすることを覚える必要があるのです。

マルコ11章24節に戻りますと、ボイドはここでイエスが言われているのは、私たちが祈り求めているものごとを、あたかもそれがすでに手元に与えられているかのように頭の中で思い描くことだと言います。

これは前回ボイドが批判していた、確実性追求型信仰モデルによる解釈とどう違うのでしょうか?確実性追求型の信仰では、祈り求めたことが必ず応えられるという確信を持つことが重視されますが、ボイドの信仰理解ではそのような確信を持つことが目的ではありません。そうではなく、そのポイントは想像力を働かせて具体的なイメージを再現することにより、祈り求めていることがらを実現しようと忍耐強く努力していくために必要な動機づけを得るということにあります。確実性追求型の信仰では、祈りが応えられるという心理的確信を持つことによってそのことが(魔術的に)実現すると考えますので、確信さえあればそのために努力する必要はありません。

また、確実性追求型の信仰では、祈りが応えられるかどうかは、祈り手がどれだけ心の中で強い確信を持つかによってきまります。これは基本的に神との人格的関係を軽視した、法律的契約contract概念に基づく理解といえます。それに対して、想像力を用いて祈り求めているものを再現すること自体は、祈りが応えられることを保証するものではありません。そうではなく、それは神との人格的契約covenant関係の中で、不確実性の中でも、神に対して忠実に歩んでいくための動機付けに過ぎないのです。しかし、私たちが想像力を働かせて自分の思いをコントロールするようになれば、それは私たちの行動パターンを大きく変える力となっていきます。

ボイドはこれに関してヘブル11章1節を取り上げます:

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

ここで口語訳聖書や新共同訳聖書が「確信」、新改訳聖書が「保証」と訳しているギリシア語はhypostasisですが、ボイドはこれは「実体substance」あるいは「実体化substantiating」と訳すべきだと主張します。つまり、信仰とは強い心理的確信を持つことではなく、望んでいることがらを心の中で「実体化」することに他ならないといいます。(他の学者はhypostasisを”reality,” “actuality,” “actualization”などと訳すこともあります。)またボイドは口語訳で「確認」と訳されているelegchosを証拠に基づいた「信念conviction」と訳します。このように考えると、これは前回見たヤコブ書のことばと同じことを言っていることが分かります。

本書で繰り返し述べてきたように、信仰とは確実性を追い求めることではない。それは不確実性のただ中で忠実であり続けようとすることである。・・・私たちが信仰を働かせるというのは、神の約束を実体的なリアリティ(hypostasis)として想像力を持って受け止めることによるのであり、その実体が今度はそれがそのようになるという信念(elegchos)を生み出す。それによって動機づけられることにより、私たちは想像力で思い描いたものが現実化するだろうと思われるような形で行動できるようになっていくのである。(p. 213)

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ある人は、ボイドの主張は欲しいものをありありと思い描くことによってそれを手に入れることができるというニューエイジ的な教えに近いと感じるかもしれません。ボイドはその懸念をよく承知していて、本章でもそのことについて触れています。確かに、ニューエイジャーや一部のクリスチャンが行っているように、想像力を神との人格的関係から切り離して用いていくと、それは魔術的なものになっていく危険があるとボイドも認めていますが、だからといって信仰における想像力の重要性を否定することは、産湯と一緒に赤子を捨ててしまうようなものだと言います。想像力を活用した祈りは肯定的なcataphatic祈りと呼ばれ、キリスト教の霊性神学の中では長い伝統を持っています。ボイドはまた、想像力が私たちの思考や感情において持っている重要な役割について、Escaping the Matrixという著作では神経科学の視点からも論証を試みています。

想像力についてのボイドの見解には必ずしもすべての人が賛同しないかもしれませんが、ボイドの提案するモデルは、確実性追求型信仰に対する一つの有力なオルタナティブを提供していると思われます。

(続く)

 

 

確かさという名の偶像(20)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第10章「実体的な希望」を取り上げます。

本書でボイドは確実性を追求し、疑いを排除するような信仰のあり方を批判してきました。しかし、多くのクリスチャンは、このような「確実性追求型」信仰のモデルには強固な聖書的根拠があると考えています。本章でボイドは、代表的な聖書箇所を二つ取り上げ、はたしてこれらの箇所が「確実性追求型信仰」を支持しているのか、吟味します。

ヤコブ1章6-8節

6  ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。 7  そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。 8  そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。

一見この箇所はこれ以上ないほどストレートに「確実性追求型」信仰を支持しているように見えます。しかし、この箇所は、他のすべての聖書箇所と同じように、前後の文脈の中で理解していかなければなりません。この箇所の直前の5節はこうなっています。「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」つまり、この箇所は何でも自分の欲しいものを求めるということではなく、神から知恵を願い求める際に必要な態度を表していることがわかります。

次に、ここで「疑う」と訳されているギリシア語はdiakrinōですが、この言葉は「揺れる」とか「ためらう」とも訳せる言葉です。そしてボイドは、ここでヤコブが語っているのは、神が知恵を与えてくださるかどうかを疑う、ということではなく、神に信頼してこの方に知恵を求めていくか、それとも知恵をこの世に求めていくかという、二つの選択肢の間で揺れ動いている状態をさすのだと言います。つまり、ここでヤコブが問題にしているのは、信仰者が心のなかでどれだけ強い確信を持つことができるかという心理的な問題ではなく、神との関係においていかにこの方に忠実に生きていくかという関係性の問題なのです。つまり、ここでヤコブは、ボイドがこれまで主張してきた人格的契約covenantに基づく信仰について語っているのです。

マルコ11章24節ほか

もう一つの、この主題に関してよく引用される聖書箇所は、マルコ11章24節です。

そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。

ボイドは、この箇所やこれに類する箇所(マタイ18章19節、21章21節、マルコ11章23節、ヨハネ14章13-14節、15章7節、16節、16章23節など)が文字通りに受け取られる時、それらは「偶像礼拝的で、不健康で、奇怪で、時として破滅的な結果をもたらしてきた」と言います(p. 200)。

ボイドはこれらの箇所を文字通りに取るべきではない理由をいくつか挙げますが、その中で興味深いのは、祈りの効果に関する議論です。なぜある祈りは応えられ、別の祈りは応えられないのでしょうか?クリスチャンなら誰でも抱いたことのあるこの疑問について、ボイドはそれに答えるには、いくつもの要因を考慮しなければならないと言います。祈りを受ける人の信仰、祈りの粘り強さや熱心さ、祈りを助けあるいは妨げる霊的勢力の存在、罪の存在・・・。ボイドは、なぜある祈りが応えられるか(あるいは応えられないのか)、さらに言えば、どんなできごとでも、なぜそれがある特定の仕方で起こるのかを知るためには、時のはじめにまで遡って、歴史の方向性に影響を与えたすべてのできごとについての網羅的な知識が必要になると言いますが、もちろんそのようなことは不可能です。それゆえボイドは、祈りがその願っている効果をあらわすかどうかを前もって確実に知ることは不可能であり、心理的な操作によってそうでないかのように振る舞うことは愚かである、と言います。

ボイドは、イエスはこれらの言葉を語られた時、当時のユダヤ人がしばしばしたように誇張表現を用いていたのだと言います。リチャード・ボウカムもイエスが婉曲表現をこのみ、「一見明快な言葉でさえ実は誇張や皮肉だということもある。」と述べています(『イエス入門』98頁)。イエスが誇張表現を好んで用いられたことは、たとえば信仰があれば山をも動かすことができるという教え(マタイ17章20節)や、1万タラント(当時としては天文学的金額)の借金をした人物が出てくるたとえ話(マタイ18章24節)などに見ることができます。したがって、これらの箇所を読むときには、それらが誇張であることを意識して読まなければなりません。

誇張表現は、ある真理の重要性を強調するために、実際にそれが現実世界で持っている細かいニュアンスや原則に対する例外などをそぎ落として、そのエッセンスだけを増幅して語ります。したがって、私たちがそのような聖書箇所を読む時には、そこで語られている原則の重要性を認識する必要がありますが、だからといってそこに書かれている表現のすべてを文字通りに受け取る必要はありません。ですから、たとえば上で引用したマルコ11章24節について、

この聖句では祈り求めるものは「なんでも」与えられると書いてあります。「なんでも」とは、文字通りすべてのことを意味しています。だから、信仰を持ってなんでも祈り求めるなら、それはかならず与えられます!

という人があったとすると、それはイエスが用いられた誇張表現の性質を無視した解釈と言うことができます。確かに私たちは神に信頼して何でも祈り求めていくことが大切ですし、実際神はそれに応えてくださることも多いでしょう。しかし同時にこれは、このように祈れば必ず定められた結果が得られるという「祈りのマニュアル」ではありません。信じて祈っても応えられないことがあるということは、多くの人の体験からも(たとえば、病のいやしのために真摯に祈ってもいやされない場合など)、また聖書的にも(たとえば2コリント12章8-9節のパウロの祈りなど)裏付けられるからです。自動販売機に硬貨を投入してボタンを押せば、必ず飲み物が出てくるようなものではないのです。

ボイドはクリスチャンが聖書の誇張表現を文字通りに受け取ってしまうために起こってくる問題を指摘します:

人々が誇張表現を文字通りに解釈する時、彼らはいつも世界の巨大な複雑さを無視し、誇張的言語において表現されている諸原則を魔法の定式に変えてしまう。彼らはもしあれやこれやのことを行いさえすれば、その魔法の定式が約束していると彼らが信じるものは何でも、それこそ魔法のように入手できることが保証されていると考えることに安心感を覚えるのだ。しかし、ヨブの友人たちがそうであったように、彼らはその魔法の安心感を手に入れる代償として、これらの「約束」が果たされなかったすべての人を犠牲にする。そして同時に、もし彼ら自身あるいは彼らの愛する者がこれらの「果たされなかった」約束の犠牲者になるようなことが起こると、この偽りの安心感によってひどいしっぺ返しを食うことになるのである。(p. 204)

クリスチャンが聖書の誇張表現を文字通り受け取って、それを真摯に追求した結果、それらの箇所にある「約束」と相反する現実に直面した時、彼らの信仰は重大な危機に陥ります。ある人は神に裏切られたと思い、ある人は聖書の真実性を疑い、ある人は信仰がなかったからだと自分を責めます。けれどもそれらは、聖書が最初から意図しているわけではない「約束」にしがみつく見当違いな態度から来ていることが多いのだと思います。

聖書を神のことばとして真剣にとらえ、それを正しく解釈するということは、テキストにある表現を何もかも額面通りに受け取るということとは違います。比喩は比喩として、誇張は誇張として、著者(話者)の意図した読み方で読むことが大切です。実際多くのクリスチャンはこのような読み方を日常的に行っています。たとえば、ダビデが「わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした。」(詩篇6篇6節)と書いているのを読んで、彼が文字通り涙で自分のベッドを漂わせたと考える人はいないでしょう。

しかし、今回見たような信仰に関する箇所は、その文字通りの解釈がさまざまな問題を含んでいるにもかかわらず、なぜか誇張表現であることが忘れられてしまうことが多いようです。このことは、確実性追求型の信仰理解(信仰の強さは心理的確信の強さに比例するという考え)がいかに根強いものであるかを表しています。同時に、ここにはボイドが批判してきた法律的契約contract概念にもとづく信仰理解も見られます。多くの人は、祈りを神との人格的関係にもとづいてとらえるのではなく、法律的取引(「私が神と交わした契約書によると、このように確信を持って祈るなら、神は必ずそれに応えなければならないはずだ」)としてとらえているのではないでしょうか。

つまり、マルコ11章24節のような箇所は、自分の祈りが応えられるという心理的確信を持ちさえすれば、かならずそのとおりになると言っているのではありません。では、この箇所が意味しているのは何なのでしょうか?次回は、聖書的に信仰を行使するとはどういうことなのか、ボイドの見解を紹介していきます。

(続く)

 

神の愛を呼吸する祈り

グレッグ・ボイドの著書をシリーズで紹介中ですが、彼のReKnewというミニストリーのサイトで、「不安になった時のための祈り」が紹介されています(元記事はこちら)。これは彼の著書Present Perfectから取られたものです(pp. 69-71)。ボイドはこれを「祈りの訓練prayer exercise」と呼んでいます。これは特に不安を抱えているときだけでなく、日常的に祈るにも良い祈りだと思いますので、要約して紹介します。

*     *     *

あなたにとって究極的に大切なのは、今この瞬間に神の愛に浸りきることだけであることを覚える。神が人となり、十字架の上でいのちを捨ててくださった完全な愛が今、あなたを包み込んでいることに意識を集中する。

このことは、あなたが過去に達成したことにも、将来達成することにもよらないことを覚える。それは、神がどのようなお方であるか、そしてカルバリーによって定義されたあなたがどういう存在であるかによるのである。この完全な愛には始まりも終わりもなく、脅かされることも、揺るがされることもない。息を吸うとき、神の愛なる臨在とそれに伴うすべての真理を吸い込むことをイメージする。

神の愛を吸い込むとともに、それ以外のすべてのものを吐き出す。神が私のすべての必要を満たしてくださることに信頼する。自分の財産、業績、名声、人間関係等、自分を価値ある存在とするために神以外に頼ろうとする、すべてのものを手放す。

神の臨在の中に憩いながら、今自分が吐き出したものが、昇る太陽の光の中で朝靄が消えていくように、神の変わることのない愛の中で消え去るのを見る

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この祈りを実践すると、不安が軽減されたり、なくなっていることに気づくかもしれません。私も実際に何回か祈ってみましたが、この祈りのポイントは「今この瞬間」ということだと思いました。大多数のクリスチャンは、自分は神に愛されている存在だということは、少なくとも理論上は受け入れています。ただ、そのような神の愛は過去(それは二千年前にイエスが十字架にかかられた時かも知れませんし、自分がキリストを受け入れた「新生体験」の時かもしれません)か未来(新天新地における復活のいのち、あるいは死後の「天国」)の体験に留まり、今現在、ここにいる自分が、そのままで神に愛され、受け入れられ、喜ばれていることは、意外と意識することが少ないのではないかと思います。けれどもボイドは、神の愛が私たちの人生の各瞬間におけるいのちの唯一の源泉となるなら、私たちは過去を悔いることも、将来に対して不安になることもないと言います。いま現在において私たちは満たされ、神に信頼を置いているからです。

これは、単なる自己暗示や心理的トリックではないと思います。私たちはこの世の価値観や思考パターンから解放され、心の一新によって変えられる必要がある、とパウロも教えています(ローマ12章2節)。十字架上のイエス・キリストにおいて啓示された神の愛、そしてそれによって定義される自分の真のアイデンティティを、単なる知的な神学知識ではなく、自分のものとして一瞬一瞬意識しながら生きていくことは、キリストの似姿に変えられていく霊的形成の重要なステップであり、不安から解放されるのはその結果に過ぎないのだと思います。ですから、不安を取りのぞくための単なる霊的「テクニック」としてではなく、このような祈りを日常的に行っていくことは、私たちの霊的成長のためにとても有益なことであると思います。

連載中の「確かさという名の偶像」シリーズでも書いているように(たとえば 14 15)、クリスチャン信仰のポイントは、過去にキリストを信じ受け入れた経験よりも、むしろキリストとの人格的契約関係にあって、今現在どのようにキリストに献身して生きていくか、ということにあります。クリスチャン(教会)は、終末におけるキリストとの婚姻を待ち望む「婚約者」です。キリストの再臨までの「婚約期間」、フィアンセであるキリストの愛を日々実感しながら歩むことができるかどうかは、信仰生活のクオリティを大きく左右する問題だと思います。その意味で、このような祈りの訓練は重要な「花嫁修業」と言うことができるかもしれません。