オープン神論とは何か(2)

その1

前回の記事で、オープン神論の中心的な考えは、神は被造物に真の意味での自由意志を与えられ、被造物とダイナミックな人格的相互関係を持たれるということ、そして未来は部分的に開かれているということだと述べました。今回は、このような主張が聖書の記述によってどのように裏付けられるのかを概観したいと思います。 続きを読む

確かさという名の偶像(21)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回も前回に引き続き、第10章「実体的な希望」を取り上げます。

前回取り上げた部分でボイドはマルコ11章24節(「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」)などの箇所に見られるイエスの教えは、祈る時に心理的な確信を持ちさえすれば、その祈りがかなえられるという意味ではない、と論じました。確かにこれらの箇所でイエスは信仰の重要性を語っていますが、それは人格的契約covenant関係に基づく信仰なのです。

それでは、具体的に信仰を持って祈るということは、どういうことを意味しているのでしょうか?ボイドはそれは、想像力(イマジネーション)を使って、祈り求めていることがらがすでに与えられているさまを思い描くことだといいます。

信仰と想像力

まずボイドは、私たちが思考するということはどういうことか、について論じます。多くの人はほとんど意識することはありませんが、実際に私たちがものを考えたり、過去のできごとを思い起こしたり、未来のことを予想したりする時には、私たちは単なる文字情報を繰り返しているのではなく、現実世界での体験を想像力によって再現しているのだ、と言います。

たとえば「今日朝食に何を食べたか思い出してください」と言われてそのようにするとき、私たちは「トースト、卵、コーヒー」といった文字情報を頭に思い浮かべているのではなく、実際に私たちが食べた朝食の様子をビデオをリプレイするように、頭の中で想像しているのです。そこには視覚的イメージだけでなく、音や匂いや味、口の中での感触なども含まれているかもしれません。

ボイドはそのようにして想像力の中で私たちが体験を繰り返す働きのことを「再現するre-present」と言います。(英語でrepresentという言葉は「示す」「思い描く」と言った意味がありますが、ボイドは「再び思い描く」というニュアンスを強調するためにre-presentと綴ります。日本語の「現」という言葉はこのニュアンスをよくとらえていると思います。)私たちが過去や現在や未来のものごとを考える時、私たちは常に想像力を使ってさまざまな体験を脳の中で再現しているのです。これらの「再現」は多くの場合無意識の内に、自動的に行われます。

そしてボイドによると、この想像力によって再現されたイメージが具体的で鮮明なものであればあるほど、それは私たちに強い感情的インパクトを与え、したがって私たちの行動やそのための動機づけに影響を及ぼします。そして、このことは私たちが信仰をどのように行使するかに関わってくるのだとボイドは言います。

ボイドは新約聖書でしばしば、私たちの思いをコントロールすることについて書かれていることにふれ(ローマ12章2節、2コリント10章3-5節、ピリピ4章8節など)、これらの箇所で命じられているのは、真なる情報を記憶して唱えること(それも大切ですが)だけでなく、私たちの脳内でほとんど無意識の内に再現される具体的なイメージをコントロールすることだといいます。なぜなら、私たちの実際の行動、したがって生き方に最も強い影響力を及ぼしているのは、頭で覚えた知的情報ではなく、そのようなイメージだからです。私たちが信仰者としてキリストの似姿につくり変えられていくためには、私たちはしばしば外界からの刺激に対して反射的に脳の中に起こってくるイメージをコントロールすることを覚える必要があるのです。

マルコ11章24節に戻りますと、ボイドはここでイエスが言われているのは、私たちが祈り求めているものごとを、あたかもそれがすでに手元に与えられているかのように頭の中で思い描くことだと言います。

これは前回ボイドが批判していた、確実性追求型信仰モデルによる解釈とどう違うのでしょうか?確実性追求型の信仰では、祈り求めたことが必ず応えられるという確信を持つことが重視されますが、ボイドの信仰理解ではそのような確信を持つことが目的ではありません。そうではなく、そのポイントは想像力を働かせて具体的なイメージを再現することにより、祈り求めていることがらを実現しようと忍耐強く努力していくために必要な動機づけを得るということにあります。確実性追求型の信仰では、祈りが応えられるという心理的確信を持つことによってそのことが(魔術的に)実現すると考えますので、確信さえあればそのために努力する必要はありません。

また、確実性追求型の信仰では、祈りが応えられるかどうかは、祈り手がどれだけ心の中で強い確信を持つかによってきまります。これは基本的に神との人格的関係を軽視した、法律的契約contract概念に基づく理解といえます。それに対して、想像力を用いて祈り求めているものを再現すること自体は、祈りが応えられることを保証するものではありません。そうではなく、それは神との人格的契約covenant関係の中で、不確実性の中でも、神に対して忠実に歩んでいくための動機付けに過ぎないのです。しかし、私たちが想像力を働かせて自分の思いをコントロールするようになれば、それは私たちの行動パターンを大きく変える力となっていきます。

ボイドはこれに関してヘブル11章1節を取り上げます:

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

ここで口語訳聖書や新共同訳聖書が「確信」、新改訳聖書が「保証」と訳しているギリシア語はhypostasisですが、ボイドはこれは「実体substance」あるいは「実体化substantiating」と訳すべきだと主張します。つまり、信仰とは強い心理的確信を持つことではなく、望んでいることがらを心の中で「実体化」することに他ならないといいます。(他の学者はhypostasisを”reality,” “actuality,” “actualization”などと訳すこともあります。)またボイドは口語訳で「確認」と訳されているelegchosを証拠に基づいた「信念conviction」と訳します。このように考えると、これは前回見たヤコブ書のことばと同じことを言っていることが分かります。

本書で繰り返し述べてきたように、信仰とは確実性を追い求めることではない。それは不確実性のただ中で忠実であり続けようとすることである。・・・私たちが信仰を働かせるというのは、神の約束を実体的なリアリティ(hypostasis)として想像力を持って受け止めることによるのであり、その実体が今度はそれがそのようになるという信念(elegchos)を生み出す。それによって動機づけられることにより、私たちは想像力で思い描いたものが現実化するだろうと思われるような形で行動できるようになっていくのである。(p. 213)

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ある人は、ボイドの主張は欲しいものをありありと思い描くことによってそれを手に入れることができるというニューエイジ的な教えに近いと感じるかもしれません。ボイドはその懸念をよく承知していて、本章でもそのことについて触れています。確かに、ニューエイジャーや一部のクリスチャンが行っているように、想像力を神との人格的関係から切り離して用いていくと、それは魔術的なものになっていく危険があるとボイドも認めていますが、だからといって信仰における想像力の重要性を否定することは、産湯と一緒に赤子を捨ててしまうようなものだと言います。想像力を活用した祈りは肯定的なcataphatic祈りと呼ばれ、キリスト教の霊性神学の中では長い伝統を持っています。ボイドはまた、想像力が私たちの思考や感情において持っている重要な役割について、Escaping the Matrixという著作では神経科学の視点からも論証を試みています。

想像力についてのボイドの見解には必ずしもすべての人が賛同しないかもしれませんが、ボイドの提案するモデルは、確実性追求型信仰に対する一つの有力なオルタナティブを提供していると思われます。

(続く)

 

 

確かさという名の偶像(20)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第10章「実体的な希望」を取り上げます。

本書でボイドは確実性を追求し、疑いを排除するような信仰のあり方を批判してきました。しかし、多くのクリスチャンは、このような「確実性追求型」信仰のモデルには強固な聖書的根拠があると考えています。本章でボイドは、代表的な聖書箇所を二つ取り上げ、はたしてこれらの箇所が「確実性追求型信仰」を支持しているのか、吟味します。

ヤコブ1章6-8節

6  ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。 7  そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。 8  そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。

一見この箇所はこれ以上ないほどストレートに「確実性追求型」信仰を支持しているように見えます。しかし、この箇所は、他のすべての聖書箇所と同じように、前後の文脈の中で理解していかなければなりません。この箇所の直前の5節はこうなっています。「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」つまり、この箇所は何でも自分の欲しいものを求めるということではなく、神から知恵を願い求める際に必要な態度を表していることがわかります。

次に、ここで「疑う」と訳されているギリシア語はdiakrinōですが、この言葉は「揺れる」とか「ためらう」とも訳せる言葉です。そしてボイドは、ここでヤコブが語っているのは、神が知恵を与えてくださるかどうかを疑う、ということではなく、神に信頼してこの方に知恵を求めていくか、それとも知恵をこの世に求めていくかという、二つの選択肢の間で揺れ動いている状態をさすのだと言います。つまり、ここでヤコブが問題にしているのは、信仰者が心のなかでどれだけ強い確信を持つことができるかという心理的な問題ではなく、神との関係においていかにこの方に忠実に生きていくかという関係性の問題なのです。つまり、ここでヤコブは、ボイドがこれまで主張してきた人格的契約covenantに基づく信仰について語っているのです。

マルコ11章24節ほか

もう一つの、この主題に関してよく引用される聖書箇所は、マルコ11章24節です。

そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。

ボイドは、この箇所やこれに類する箇所(マタイ18章19節、21章21節、マルコ11章23節、ヨハネ14章13-14節、15章7節、16節、16章23節など)が文字通りに受け取られる時、それらは「偶像礼拝的で、不健康で、奇怪で、時として破滅的な結果をもたらしてきた」と言います(p. 200)。

ボイドはこれらの箇所を文字通りに取るべきではない理由をいくつか挙げますが、その中で興味深いのは、祈りの効果に関する議論です。なぜある祈りは応えられ、別の祈りは応えられないのでしょうか?クリスチャンなら誰でも抱いたことのあるこの疑問について、ボイドはそれに答えるには、いくつもの要因を考慮しなければならないと言います。祈りを受ける人の信仰、祈りの粘り強さや熱心さ、祈りを助けあるいは妨げる霊的勢力の存在、罪の存在・・・。ボイドは、なぜある祈りが応えられるか(あるいは応えられないのか)、さらに言えば、どんなできごとでも、なぜそれがある特定の仕方で起こるのかを知るためには、時のはじめにまで遡って、歴史の方向性に影響を与えたすべてのできごとについての網羅的な知識が必要になると言いますが、もちろんそのようなことは不可能です。それゆえボイドは、祈りがその願っている効果をあらわすかどうかを前もって確実に知ることは不可能であり、心理的な操作によってそうでないかのように振る舞うことは愚かである、と言います。

ボイドは、イエスはこれらの言葉を語られた時、当時のユダヤ人がしばしばしたように誇張表現を用いていたのだと言います。リチャード・ボウカムもイエスが婉曲表現をこのみ、「一見明快な言葉でさえ実は誇張や皮肉だということもある。」と述べています(『イエス入門』98頁)。イエスが誇張表現を好んで用いられたことは、たとえば信仰があれば山をも動かすことができるという教え(マタイ17章20節)や、1万タラント(当時としては天文学的金額)の借金をした人物が出てくるたとえ話(マタイ18章24節)などに見ることができます。したがって、これらの箇所を読むときには、それらが誇張であることを意識して読まなければなりません。

誇張表現は、ある真理の重要性を強調するために、実際にそれが現実世界で持っている細かいニュアンスや原則に対する例外などをそぎ落として、そのエッセンスだけを増幅して語ります。したがって、私たちがそのような聖書箇所を読む時には、そこで語られている原則の重要性を認識する必要がありますが、だからといってそこに書かれている表現のすべてを文字通りに受け取る必要はありません。ですから、たとえば上で引用したマルコ11章24節について、

この聖句では祈り求めるものは「なんでも」与えられると書いてあります。「なんでも」とは、文字通りすべてのことを意味しています。だから、信仰を持ってなんでも祈り求めるなら、それはかならず与えられます!

という人があったとすると、それはイエスが用いられた誇張表現の性質を無視した解釈と言うことができます。確かに私たちは神に信頼して何でも祈り求めていくことが大切ですし、実際神はそれに応えてくださることも多いでしょう。しかし同時にこれは、このように祈れば必ず定められた結果が得られるという「祈りのマニュアル」ではありません。信じて祈っても応えられないことがあるということは、多くの人の体験からも(たとえば、病のいやしのために真摯に祈ってもいやされない場合など)、また聖書的にも(たとえば2コリント12章8-9節のパウロの祈りなど)裏付けられるからです。自動販売機に硬貨を投入してボタンを押せば、必ず飲み物が出てくるようなものではないのです。

ボイドはクリスチャンが聖書の誇張表現を文字通りに受け取ってしまうために起こってくる問題を指摘します:

人々が誇張表現を文字通りに解釈する時、彼らはいつも世界の巨大な複雑さを無視し、誇張的言語において表現されている諸原則を魔法の定式に変えてしまう。彼らはもしあれやこれやのことを行いさえすれば、その魔法の定式が約束していると彼らが信じるものは何でも、それこそ魔法のように入手できることが保証されていると考えることに安心感を覚えるのだ。しかし、ヨブの友人たちがそうであったように、彼らはその魔法の安心感を手に入れる代償として、これらの「約束」が果たされなかったすべての人を犠牲にする。そして同時に、もし彼ら自身あるいは彼らの愛する者がこれらの「果たされなかった」約束の犠牲者になるようなことが起こると、この偽りの安心感によってひどいしっぺ返しを食うことになるのである。(p. 204)

クリスチャンが聖書の誇張表現を文字通り受け取って、それを真摯に追求した結果、それらの箇所にある「約束」と相反する現実に直面した時、彼らの信仰は重大な危機に陥ります。ある人は神に裏切られたと思い、ある人は聖書の真実性を疑い、ある人は信仰がなかったからだと自分を責めます。けれどもそれらは、聖書が最初から意図しているわけではない「約束」にしがみつく見当違いな態度から来ていることが多いのだと思います。

聖書を神のことばとして真剣にとらえ、それを正しく解釈するということは、テキストにある表現を何もかも額面通りに受け取るということとは違います。比喩は比喩として、誇張は誇張として、著者(話者)の意図した読み方で読むことが大切です。実際多くのクリスチャンはこのような読み方を日常的に行っています。たとえば、ダビデが「わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした。」(詩篇6篇6節)と書いているのを読んで、彼が文字通り涙で自分のベッドを漂わせたと考える人はいないでしょう。

しかし、今回見たような信仰に関する箇所は、その文字通りの解釈がさまざまな問題を含んでいるにもかかわらず、なぜか誇張表現であることが忘れられてしまうことが多いようです。このことは、確実性追求型の信仰理解(信仰の強さは心理的確信の強さに比例するという考え)がいかに根強いものであるかを表しています。同時に、ここにはボイドが批判してきた法律的契約contract概念にもとづく信仰理解も見られます。多くの人は、祈りを神との人格的関係にもとづいてとらえるのではなく、法律的取引(「私が神と交わした契約書によると、このように確信を持って祈るなら、神は必ずそれに応えなければならないはずだ」)としてとらえているのではないでしょうか。

つまり、マルコ11章24節のような箇所は、自分の祈りが応えられるという心理的確信を持ちさえすれば、かならずそのとおりになると言っているのではありません。では、この箇所が意味しているのは何なのでしょうか?次回は、聖書的に信仰を行使するとはどういうことなのか、ボイドの見解を紹介していきます。

(続く)

 

神の愛を呼吸する祈り

グレッグ・ボイドの著書をシリーズで紹介中ですが、彼のReKnewというミニストリーのサイトで、「不安になった時のための祈り」が紹介されています(元記事はこちら)。これは彼の著書Present Perfectから取られたものです(pp. 69-71)。ボイドはこれを「祈りの訓練prayer exercise」と呼んでいます。これは特に不安を抱えているときだけでなく、日常的に祈るにも良い祈りだと思いますので、要約して紹介します。

*     *     *

あなたにとって究極的に大切なのは、今この瞬間に神の愛に浸りきることだけであることを覚える。神が人となり、十字架の上でいのちを捨ててくださった完全な愛が今、あなたを包み込んでいることに意識を集中する。

このことは、あなたが過去に達成したことにも、将来達成することにもよらないことを覚える。それは、神がどのようなお方であるか、そしてカルバリーによって定義されたあなたがどういう存在であるかによるのである。この完全な愛には始まりも終わりもなく、脅かされることも、揺るがされることもない。息を吸うとき、神の愛なる臨在とそれに伴うすべての真理を吸い込むことをイメージする。

神の愛を吸い込むとともに、それ以外のすべてのものを吐き出す。神が私のすべての必要を満たしてくださることに信頼する。自分の財産、業績、名声、人間関係等、自分を価値ある存在とするために神以外に頼ろうとする、すべてのものを手放す。

神の臨在の中に憩いながら、今自分が吐き出したものが、昇る太陽の光の中で朝靄が消えていくように、神の変わることのない愛の中で消え去るのを見る

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この祈りを実践すると、不安が軽減されたり、なくなっていることに気づくかもしれません。私も実際に何回か祈ってみましたが、この祈りのポイントは「今この瞬間」ということだと思いました。大多数のクリスチャンは、自分は神に愛されている存在だということは、少なくとも理論上は受け入れています。ただ、そのような神の愛は過去(それは二千年前にイエスが十字架にかかられた時かも知れませんし、自分がキリストを受け入れた「新生体験」の時かもしれません)か未来(新天新地における復活のいのち、あるいは死後の「天国」)の体験に留まり、今現在、ここにいる自分が、そのままで神に愛され、受け入れられ、喜ばれていることは、意外と意識することが少ないのではないかと思います。けれどもボイドは、神の愛が私たちの人生の各瞬間におけるいのちの唯一の源泉となるなら、私たちは過去を悔いることも、将来に対して不安になることもないと言います。いま現在において私たちは満たされ、神に信頼を置いているからです。

これは、単なる自己暗示や心理的トリックではないと思います。私たちはこの世の価値観や思考パターンから解放され、心の一新によって変えられる必要がある、とパウロも教えています(ローマ12章2節)。十字架上のイエス・キリストにおいて啓示された神の愛、そしてそれによって定義される自分の真のアイデンティティを、単なる知的な神学知識ではなく、自分のものとして一瞬一瞬意識しながら生きていくことは、キリストの似姿に変えられていく霊的形成の重要なステップであり、不安から解放されるのはその結果に過ぎないのだと思います。ですから、不安を取りのぞくための単なる霊的「テクニック」としてではなく、このような祈りを日常的に行っていくことは、私たちの霊的成長のためにとても有益なことであると思います。

連載中の「確かさという名の偶像」シリーズでも書いているように(たとえば 14 15)、クリスチャン信仰のポイントは、過去にキリストを信じ受け入れた経験よりも、むしろキリストとの人格的契約関係にあって、今現在どのようにキリストに献身して生きていくか、ということにあります。クリスチャン(教会)は、終末におけるキリストとの婚姻を待ち望む「婚約者」です。キリストの再臨までの「婚約期間」、フィアンセであるキリストの愛を日々実感しながら歩むことができるかどうかは、信仰生活のクオリティを大きく左右する問題だと思います。その意味で、このような祈りの訓練は重要な「花嫁修業」と言うことができるかもしれません。

確かさという名の偶像(12)

(シリーズ過去記事          10 11

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、前回から第2部「真の信仰」に入りました。今回は第5章「空に向かって叫ぶ」を取り上げます。

前回見た第4章では、旧約聖書に見られるイスラエルの信仰は、神に対して正直に向き合い、時には神と格闘することも辞さない信仰であるということを見ました。それでは、新約聖書においてはどうでしょうか?ある人々は、「新約聖書では旧約聖書よりも完全な啓示が与えられているので、キリスト者にとっての信仰の概念は旧約時代の人々とは異なる」と考えるかもしれません。しかしボイドは、新約聖書においてはイエス・キリストという形で神が究極的な自己啓示を行われたので、確かに信仰の内容は旧約時代とは異なっているけれども、「信仰を持つとはどういう意味か」ということに関しては、旧約時代といささかも変わっていないと主張します。この章でボイドは新約聖書における信仰、それもイエス・キリストご自身の信仰について見ていきます。

「疑いを排除しない信仰」「神と格闘する信仰」・・・このような概念は、イエスその人にはまったく当てはまらないように思われるかもしれません。結局のところ、イエスこそ「 信仰の導き手であり、またその完成者」(ヘブル12章2節)であり、完全な信仰の模範を示してくださった方ではないのでしょうか?しかし、ボイドはそのような考え方は、信仰と疑いを相反するものととらえる「確実性追求型信仰」の発想から出たものであるといいます。もし疑いや葛藤を持つことが信仰を持つことと矛盾するのであるなら、イエスが父なる神と格闘されることがあるなら、それは彼の信仰が揺らいだことを意味し、罪ということさえできるかもしれません。それはイエスが罪のない生涯を送られたという、正統的キリスト教の立場ではありえないことです。しかし、前回見たような「イスラエル的信仰」が真正な聖書的信仰であるとすると、イエスがそのような形の信仰を示されたとしてもまったく不思議はないのです。ボイドは言います:

たしかに、イエスは私たちと同様、本物の誘惑を受けられたものの、罪と葛藤されたことはなかった(ヘブル4章15節)。しかしそれはイエスは決して葛藤されなかったということではない。なぜなら、すべての葛藤が罪深いというわけではないからだ。私たちの葛藤の多くは、ただ単に私たちが人間であることの結果に過ぎないのである。したがって、たとえば完全な人間としてイエスは、私たち他の人間と同じように「苦しみによって従順を学」ばれた(ヘブル5章8節)。それだけでなく、これから見るように、イエスは信仰に関することについてさえ葛藤された。それはまさに、私の意見では、イエスが持たれたような完全な信仰とは葛藤と無縁な信仰ではない、ということを示している。それはむしろ、すすんで率直に葛藤しようとする信仰なのである。(p. 93)

ボイドはこのようなイエスの格闘を伝えている箇所として、ゲツセマネの園とゴルゴタの丘におけるできごとを取り上げます。十字架を目前としたイエスはゲツセマネの園で父なる神に祈られました。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26章39節)。ここでイエスは、十字架の苦しみ(それは単なる肉体的な苦痛だけでなく、人類の罪をその身に引き受け、父なる神から断絶されるという壮絶な霊的苦痛も意味しました)をもしできることなら避けたいという願いを父に申し上げたのです。

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ジュラ・ベンツール「オリーブ山上のキリスト」

しかし、十字架以外の道はありませんでした。イエスはその後に「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(同)と祈られ、父のみこころに従う道を選ばれました。しかし、その前にイエスが十字架を避ける道を求められたという事実は、イエスの従順は彼が信仰の葛藤を覚えられたことと矛盾するものではないことを示しています。ここからボイドは次のように述べます:

あなたの葛藤が疑いや混乱、神の御心を受け入れる困難さ、あるいは他のどのようなことがらについてのものであれ、あなたが葛藤しているということは信仰がないということを意味するわけではない。それどころか、あなたの信仰の強さは、あなたが正直に葛藤を受け入れようとする度合いに比例するのである。(p. 93)

そして、イエスの最もはげしい葛藤はゴルゴタの丘で起こりました。彼は十字架の上で 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)と叫ばれたのです。十字架の死は永遠の昔から定められていたにもかかわらず、ここでイエスは「なぜ?」と父に問いかけているのです。

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ルーベンス「十字架のキリスト」

 「確実性追求型」の信仰からすると、この決定的な瞬間にイエスは疑いを持ったので罪を犯したということになるか(それはイエスには罪がなかったという聖書の証言と矛盾します)、あるいはこのことばは彼の本心からの叫びではなかったということになり(この場合はイエスの苦しみや神からの断絶の純粋性が疑われます)、どちらにしても問題があります。けれども、聖書的な信仰が、神と格闘することを恐れない真正な信仰であるならば、イエスが十字架上で示された信仰は、まさに完璧な「イスラエル的信仰」であったということができるのです

*     *     *

この章ではボイド自身の人生における信仰の一大転機についても語られています。キリストに対する信仰を持ってまもなく、習慣的な罪からどうしても解放されることができず、絶望のどん底にまで追い詰められたボイドは、ある夜ついに感情を爆発させ、ありったけの怒りと悲しみ、絶望を神にぶつけます。原書に記述されたその時の叫びは、冒涜的とも言えるほど激しい内容ですが、少なくともそれは正直でリアルな心からの叫びでした。ボイドは、彼が神に対して正直になった時にはじめて、神は彼に対してリアルになってくださったと言います。その直後に開かれた聖書の箇所(ローマ8章1節「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」)を通して、彼の信仰は一変することになるのです。彼は言います:

真正さは聖書的な信仰の基礎である。なぜなら真の関係は、それに関わる当事者がリアルである度合いに応じてリアルになるからだ。そして私たちと神との関係がリアルなものとならないうちは、それは決して人を変革するものにはならない。それはただ宗教的な見せかけを生む、まがいものの関係にとどまるのである。私たちの内側にある醜さは、そのような関係によっては決してつくり変えられることはない。それはただ隠されるだけである。(p. 108)

真の聖書的信仰は、ありのままの自分を神の前に差し出す率直な信仰です。そして、新約聖書に描かれているイエス・キリストは、その信仰の完璧なモデルを提供しているのです。

(続く)

確かさという名の偶像(11)

(シリーズ過去記事          10

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回から第2部「真の信仰」を概観します。前回までの記事では、第1部「偽りの信仰」の内容をかなり細かく紹介してきました。これからは少しスピードアップして、基本的に1回で1章の内容をカバーするようにしたいと思います。

前回までの記事では、今日のキリスト教会で広く見られる「確実性追求型の信仰」について、その問題点を考察してきました。第2部でボイドは、確実性を追求し、疑いを排除しようとする信仰のあり方は聖書的なものではないことを論じ、聖書的な信仰のあり方はどのようなものかを探っていきます。今回は第4章「神との格闘」です。

ボイドによると、聖書的な信仰とは真正さauthenticityに基づくものです。「確実性追求型信仰」は疑いを持つことを禁じ、疑いを抑圧しようとします。けれども、聖書的な信仰は、疑いや不平不満も含めて、自らと神に対して正直になろうとする態度に土台を置くものなのです。

ボイドはこのような信仰のあらわれを、創世記32章22-32節に記されているヤコブの物語に見いだします。彼はある人物(物語の中でそれは神ご自身であることが明らかにされます)と夜通し格闘し、その結果その名をヤコブからイスラエルに変えるように命じられます。

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天使と格闘するヤコブ(ギュスターヴ・ドレ)

この奇妙なナラティヴでヤコブは神との格闘の後、「イスラエル」という名前を授かります。「イスラエル」の語源については諸説ありますが、少なくとも創世記の文脈では、彼がこの名前を与えられたのは「神と人とに、力を争って勝ったから」だと説明されます(28節)。そしてヤコブはこの出来事の後、彼は「顔と顔を合わせて神を見た」と言います(30節)。

ボイドはこの記事について、ヤコブが神とこのような親密な関係を持つことができたのは、彼が祝福を受けるために神と格闘することも厭わなかった大胆さのゆえであったと言います。それだけではありません。この「イスラエル的な信仰」の姿勢は、彼の子孫である神の民「イスラエル人」の信仰に受け継がれていく聖書的な信仰であると言うのです。つまり、聖書に見られる「イスラエル的信仰」とは、神と格闘する用意のある信仰なのです。

ボイドはこのような「イスラエル的信仰」はたとえばヨブの信仰に見出すことができると言います。ヨブはヤコブの子孫ですらありませんが、「イスラエル的信仰」のモデルを提供していると言えます。神の許しの中でサタンによってもたらされた苦難に対し、ヨブは初めのうちは模範的な敬虔を持って耐えていますが、苦難がいや増すにつれて、自分がいわれのない苦しみを受けていると主張し、神に対して論争を挑むようになります:

あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。
わたしはあなたがたに劣らない。
しかしわたしは全能者に物を言おう、
わたしは神と論ずることを望む
(ヨブ13章2-3節)

ヨブ記の結論部分では主なる神ご自身が登場し、ヨブやその友人たち(彼らは因果応報的神学によってヨブの苦しみを説明しようとします)を沈黙させます。しかし、興味深いのはその結末です。神はヨブの信仰を賞賛されたのです!

主はこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、
「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。」(ヨブ42章7節)

あれほど神に対して激しい言葉を投げかけたヨブがなぜ「正しい」とされたのでしょうか?これはヨブの「神学」が正しかったからではありません。彼自身、自分の無知を認め、悔い改めているのです(42章1-6節)。

ボイドは、神がヨブを賞賛されたのはその率直さのゆえであると言います。つまり、ヨブの「正しさ」とはその「率直さ」だったのです。ヨブの友人たちは自分たちの神学(「悪は罪の結果である」)にヨブの状況をあてはめようと躍起になっていました(「ヨブが苦しんでいるのは、彼が罪を犯したからだ」)。彼らは自分たちの神学が正しいことを証明することに、自分の安心を見出そうとしていました。これは「確実性追求型の信仰」であるとボイドは言います。これに対してヨブは正しい神学を持つことによってでもなく、敬虔な言葉を語ることによってでもなく、疑いを排除することによってでもなく、ただ神に対して率直に語ることによって、結果的に神に喜ばれる信仰を示したのです。

*     *     *

旧約聖書のイスラエルに見られた模範的信仰は、このような神に対する正直な態度、時には神に正面から怒りや不満をぶつけるほどの率直な態度によって特徴づけられています。実はこのような「イスラエル的信仰」は聖書時代よりもはるか後の時代までも受け継がれていきました。

ナチスによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の体験にもとづいて『夜』等の書物をあらわし、ノーベル平和賞を受賞したユダヤ人作家エリ・ウィーゼルは、あるインタビューで自分の信仰について次のように語っています。

私の信仰は傷ついた信仰です。けれども信仰がないわけではありません。私の人生は信仰なしの人生ではありません。私は神から離れたわけではありませんが、神と言い争い、議論し、問いかけ続けています。それは傷ついた信仰なのです。

ElieWiesel

エリ・ウィーゼル

ホロコーストを歌ったウィーゼルの詩「アニ・マアミン(われ信ず)」の中には次のような一節があります。

沈黙の神よ、語りたまえ。
残酷の神よ、微笑みたまえ。
ことばの神よ、答えたまえ。
義なる神よ、不義なる神よ、
ことばを裁き、行いを裁きたまえ。
犯罪を裁き、その手先を裁きたまえ。
臨在の神よ、不在の神よ、
あなたは万物のうちにおられる、
悪の中にさえも。
あなたは万物のうちにおられる、
何よりも、人の中に。
臨在の神よ、不在の神よ。
あなたはどこにおられるのか
この夜に?

ある意味ショッキングな内容ですが、これは想像を絶する悪を体験した信仰者のことばであることを理解する必要があります。何百万人ものユダヤ人たちが殺されていく現実の中で、沈黙を守られる神に対し、ウィーゼルは懇願し、問いかけ、また怒りや疑いをぶつけ、糾弾します。けれどもその表現がどれほど激烈なものであろうと、彼が神に向かって叫び続けるそのこと自体は、彼がまだ神を信じていることを示しているのです。この詩は最後はメシアを待ち望む祈りでしめくくられます。これはいわゆる「敬虔な信仰」ではないかもしれませんが、すくなくとも「真実な信仰」ということができるかもしれません。

神の喜ばれる聖書的信仰、「イスラエル的信仰」は、自らの疑いや問いかけ、神に対する不平などを「神学」や「敬虔」によって説明し去ったり覆い隠そうとするものではなく、それらすべてをそのまま神の前に注ぎ出し、ありのままの姿で神の前に出て行く信仰です。その時に初めて私たちは、「顔と顔を合わせて神を見る」ことができるのだと思います。

(続く)

確かさという名の偶像(4)

(シリーズ過去記事   

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第2章「感情のとりこ」を見ていきます。

ボイドは、彼自身が確実性追求型の信仰のあり方に対して疑問を持つきっかけとなったできごとについて語ります。それは本書が書かれる約20年前に起こりました。彼の知り合いの若い男性の脳にがんが拡がっているのが見つかり、医者からは手遅れだと言われました。彼の教会ではその男性のいやしのために祈祷会が持たれました。その時、ボイド自身も含め、その場にいたクリスチャンたちは、彼らがその男性のがんがいやされることを疑わずに信じるなら、実際にその通りになると考えていました。そこで彼らは聖書のことば(マタイ9章29節「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」)を告白し、「神の約束に立ち」、この若い男性のいやしを宣言しました。要するに、彼らはこれまで見てきたような確実性追求型の信仰に立っていたのです。

彼らが熱心にがんのいやしのために祈りはじめた時、ボイドは自分自身の心の中に起こっている葛藤に気がつきました。彼は、おそらくこの男性は死ぬだろうという至極道理にかなった考えと戦い、彼のがんはいやされることを何とかして自分自身に納得させようと必死に努力していたのです。すると突然、彼は映画「オズの魔法使い」の1シーンを思い浮かべたそうです。それは、臆病なライオンが目を固くつむって、必死になって「私は信じる、私は信じる、私は信じる信じる信じる!」と唱えている場面でした。

「オズの魔法使い」の臆病ライオン

その祈祷会の真剣な雰囲気とはまったくそぐわないこのコミカルなイメージが頭に浮かんできた時、ボイドはこのようなタイプの信仰のあり方はとても愚かに思えてきたと言います。多くのクリスチャンは、現実から目を背けて、あることがらが真理であることを自分自身に納得させようと必死に努力し、それを「信仰」と呼んでいるのではないでしょうか

ボイドはこのようなタイプの信仰のあり方はまったく理不尽なものであることに気づきました。彼は言います:

理性的な人間が、あることがらが真理であると確信する度合いは、その信念が誤りであるとする証拠と議論に対して、それを支持する側の証拠と議論がどれほど強力であるかに比例する。だがあることがらが真理であると自分自身に語りかけることによって、自分の確信の度合いを強めようと試みることは、理性的な人間のすることではない。(p. 34)

ボイドによると、このようなタイプの信仰は現実を無視したものであると言います。彼自身、もちろん神が祈りに応えられる方であることを信じていますが、「力ある祈り」ということは、現実的には不可能と思えるような結果が与えられることについて強固な確信を持つことを必ずしも意味するわけではない、と言います。

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確かに聖書は信仰の重要性をくりかえし強調しています(たとえばヘブル11章6節)。しかし、ボイドはある人の信仰が強いということと、その人が特定のことがらについて強い確信を持つことができる能力は必ずしも関係がないと言います。そして、この後者の能力が高いからと言って、必ずしもクリスチャンとして徳が高いわけではないと論じます。生まれつき他の人々よりもものごとを「信じやすい」人々がいますが、そのことは必ずしも人格的高潔さの指標ではありません。場合によってはそのような人々は他人から騙されやすい、「おめでたい」人々と言えるかもしれません。ましてや人々のいやしや救いがそのような「信じる」心理的能力にかかっていると考えるのは道理に合わないことです。

そして、もし神がそのような「疑わずに信じる」能力にそれほど重きをおいているのなら、なぜ神は人間に批判的精神をお与えになったのでしょうか?たしかにクリスチャンは知的高慢には注意しなければなりませんし、幼子のように神に信頼することを求められています(マタイ18章3節)が、神はクリスチャンたちが幼子のように無批判にものごとを信じるように努めることを望んでおられるのでしょうか?ボイドは言います:

確実性を美徳とし、疑いを悪徳とする、このあまりにも広く行き渡っている信仰のモデルにとっては、批判的思考は最高の障害となるのである。(p. 36)

ボイドはこのようなタイプの信仰は理不尽なものであるだけでなく、非聖書的であると言います。なぜなら神は人間に理性を与え、それを行使することを望んでおられるからです。

「主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。」(イザヤ1章18節)

「主は言われる、『あなたがたの訴えを出せ』と。ヤコブの王は言われる、『あなたがたの証拠を持ってこい。』」(イザヤ41章21節)

聖書全巻を通して、神は人間に知恵を追い求め、真理を追究し、ものごとを理性的に考えるように求めておられます(たとえば箴言8章参照)。復活後のイエスは弟子たちに現れ、「数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」とあります(使徒1章3節)。また、信仰者は「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22章37節)と命じられています。このように、聖書的な強い信仰を持つことと批判的な理性を行使することとは矛盾するものではないのです。信仰は「盲信」とは違います。

ボイドは2章でさらに確実性追求型信仰の問題点について論じていきますが、長くなりましたので続きは次回にします。

(続き)