N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(6)

(シリーズ過去記事     

今回は第3部「イメージを反映させる」を概観したいと思います。この部分で著者ライトは、第2部で提示したようなキリスト教信仰の要点に基づいて、今日の私たちがクリスチャンとして生きるとはどういうことなのかについて語っていきます。

すでに見たように、第2部でライトはクリスチャンの世界観と、クリスチャンが語る物語(救済史)を提示しました。世界観はいわば舞台設定であり、救済史はその舞台上で展開していく神のドラマであると考えられます。しかし、聖書の物語は紀元1世紀の初代教会の物語で終わる、単なる過去の歴史物語ではありません。聖書の物語は今も継続中であり、私たちはその現在進行中の物語に参加するように招かれているのです。

つまり、現代の私たちがクリスチャンとして生きると言うことは、天と地が部分的に重なり合うダイナミックな世界観を持ち、その天地が最終的に合一する終末のビジョンを意識しつつ、聖書の物語を継続するようなかたちで生きるということなのです。

具体的に言うとそれは、教会という共同体、神の民に属する者として生きるということです。ライトによると、教会の目的は、神を礼拝することと、この世にあって神の王国のために働くことであり、そのために互いに交わりを持つことでもあります(15章)。

まず、教会は神を礼拝する民です(11章)。そこでは、神による創造と救いの物語として聖書が読まれ、イエスとその死の物語の告知として聖餐式が行われます。ライトによれば、礼拝もまた、天と地が出会う契機の一つなのです。また、教会は祈る民でもあります(12章)。特に主の祈りは、キリスト教が何であるかを端的に表す祈りとして重視されます。主の祈りは天と地の間を生きるイエスの生き方にならうという意思表明です。そしてクリスチャンの祈りとは、天と地の狭間に立って、その二つが永続的に重ねられることを求めてうめくことでもあります。

ライトは教会の中心的目的は個人の霊的成長でも究極的救いでもなく、「宣教(ミッション)」であると言います。教会は福音を宣べ伝える共同体なのです。では「福音」とは何でしょうか? ライトによると、これは神がイエスの死と復活においてご自分の王国を開始されたという、すでに起こったことに関する「良い知らせ」を意味します(290-291ページ)。そのメッセージに対して、信仰と悔い改めをもって応答する人々は、神が全世界を正そうとするプロジェクトの先駆けとして「義とされる(正される)」―─これがパウロの言う「信仰義認」の意味であると、ライトは言います(295ページ)。バプテスマを受けて教会に加わるとは、神の創造から新しい創造に至り、イエスの死と復活が中心であるような神の物語の中に参加し、神のプロジェクトの一部となることなのです(303ページ)。

聖書の物語はどのような結末を迎えるのでしょうか? それは、これまで断続的かつ部分的にしか重なってこなかった天と地が最終的に完全に重なり合い、神の栄光がすべてをおおいつくすことです(16章)。ライトによると、「死後天国に行く」ということは、聖書の物語の結末ではありません。聖書の物語の結末は、私たちが肉体を脱ぎ捨てて天にある霊的楽園に昇っていくことではなく、新しいエルサレムが地上に降りてきて、神が、肉体をもって復活した人々と共に住まわれることです(黙示録21章1節以下)。「復活」とは、人が死んでキリストともに過ごした後(いわゆる「死後のいのち」)、新しい肉体をもってよみがえることであり、ライトはそれを「死後のいのちの後のいのち」と呼んでいます(306ページ)。そしてこの復活への信仰こそがキリスト教の終末的希望の中心であるといいます。聖書の物語の結末では、この物質的世界は見捨てられるのではなく造り直され、復活した人々は新しい被造物世界に住んで神と共にそこを治めることになります。これこそ、聖書の物語が指し示すクリスチャンの救いのビジョンなのです。

このようなキリスト教の希望は、第1部でライトが取り上げた4つの「声の響き」、すなわち義への希求、霊的なことがらへの渇望、人間関係への飢え、美における歓びという、人間の基本的な求めに応えるものであると言います(16章)。神は世界に義をもたらそうとしており、教会はイエス・キリストの福音と聖霊の力によって、その義の実現のために地上で働くように召されています。またイエスに見られるような神と人との関わりに生きる生き方に進むように召され、新しい創造の美を先取りして祝うように召されているのです。

クリスチャンは、このような終末の希望を抱きつつ、今を生きています。クリスチャンであるとは、「私たちの前に開かれた新しい世界、神の新しい世界のただ中を、イエス・キリストに従って歩んでいく」ことなのです(334ページ)。

(続く)

天の玉座の間の祈り

前回の投稿では、黙示録4-5章に描かれている、天の御座の幻の箇所をテキストにしておこなった礼拝説教をご紹介しました。宇宙の中心は天の神殿にある神の御座であり、その周りでは天使たちまた全被造物が常に神とキリストを礼拝しています。そして、私たちが地上で捧げる礼拝は、その天における礼拝に参加することだという内容でした。

N・T・ライトの著書Simply Christian(近く邦訳が出るそうです)に礼拝について書かれた章があります。ライトは礼拝において聖書ナラティヴの全体を語ることの重要性を述べていますが、そのナラティヴの重要な要素は「創造」と「救済」の二つであると述べています。これはまさに黙示録の4章(創造者なる父への礼拝)と5章(救済者なるキリストへの礼拝)の内容に対応しています。実際、ライトは黙示録のこの2章について詳しく説明した後、こう述べています。

これこそ礼拝の意味に他なりません。それは、おのれの創造者と小羊イエスの勝利を知る被造物から、造り主なる神と救い主なる神に向けて捧げられる喜びの賛美の叫びなのです。これこそ天、すなわち神の次元において常に進行中の礼拝なのです。私たちが問うべきは、どのようにしたらその礼拝に最善の形で参加することができるのか、ということです。(原書146-47頁、拙訳)

この後ライトはさらに教会の礼拝のあるべき姿について論じた後、この章の最後で、礼拝は教会だけでなく個人や小グループでもなされるべきと書いています。つまり、私たちは教会での公の礼拝においてだけでなく、個人や家族といった場での祈りや礼拝においても、天における礼拝に参加することができるのです。今回はこのことについて書いてみたいと思います。

前回の投稿では含めませんでしたが、先日の礼拝説教では、最後に会衆一同で祈りの時を持ちました。その時にしたことは、黙示録4-5章に出てくる、天の会衆の賛美の言葉(4章8節、11節、5章9-10節、12節、13節)を声に出して全員で朗読・告白することでした。地上における私たちの礼拝が天における礼拝に参加することであるなら、これらの聖句をもって祈ることは聖書的で理にかなっていると思われます。その時の礼拝では会衆が聖霊によって一つにされているだけでなく、全被造物による礼拝に参加しているという聖書の約束を実感することができ、たいへん祝福された時を持つことができました。

実は、4-5章から抜き出した賛美の言葉をもって祈るということは、その少し前から個人的な祈りの中でも実践していることでした。一般的に聖書の言葉を用いて祈るということはとても有益な祈りの方法ですが、この祈りは、ライトの言う「創造」と「救済」という聖書ナラティヴの二大要素を含んでおり、天と地の接点としてのクリスチャンの位置づけを日常の信仰生活の中で確認することができる点で、個人的に大変有効であると実感していますので、以下にお分かちしたいと思います。

ここにご紹介するのは、私が個人的に用いている祈りのパターンです。私はこれを勝手に「天の玉座の間の祈り The Heavenly Throne Room Prayer」と呼んでいます。この祈りの中心となるのはもちろん、黙示録から抜き出した聖句を告白して祈ることですが、これらの聖句を祈る時に助けとなると思われる、黙想のヒントとなるポイントもいくつか挙げています。重要なのは、この祈りを通して天の玉座の間でなされている礼拝に参加していることを意識することです。言うまでもないことですが、ここに書かれた通りに祈らなければならないということは全くありませんし、私自身毎回祈る度に少しずつパターンが変わっています。拙い祈りですが、もし有益と思われる方がおられたら、自由にアレンジして用いていただければ感謝です。

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<天の玉座の間の祈り The Heavenly Throne Room Prayer>(黙示録4-5章)

1.準備:天の礼拝への参加
・聖霊の導きを祈る(4章2節)。霊とまことによって礼拝する真の礼拝者としていただくことを求める(ヨハネ4章23-24節)。
・日常の悩みや思い煩いを地上に残して、天に昇る様を想像する(4章1節)。特にとりなしたい人々がいる場合は、彼らと共に天に昇る様を思い描く。
・宇宙の中心にある、天の神殿の玉座の間を想像し、御座に着いておられる神と、その周りで主を賛美し礼拝する天使たちを思い浮かべる。(4章2-8節)
・ここで賛美歌を歌ってもよい。

2.造り主なる神(御父)への賛美

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者。(4章8節)

われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります。(4章11節)

・ここでは特に次のポイントについて思い巡らす:
  -神の聖さ
  -神の永遠性
  -神の主権
  -神による万物の創造(過去)と保持(現在)
  -終末における神の到来(「後に来られる方」)
・御座におられる神の前に冠を投げ出し、ひれ伏して礼拝する思いをもって祈る(4章10節)。自分に与えられているすべての賜物や名誉、リソース等はすべて神から与えられたものであることを思い起こし、すべての栄光を神にお返しする。
・自分(また特にとりなしたい人々)も、神の御心によって造られ支えられていることを感謝する。
・黙示録ではこれらの賛美が絶え間なく繰り返されていた(4章8-9節)とあるので、私たちも全体を、あるいは心にとまった部分を好きなだけ繰り返してよい。あせらず、ゆっくりと、時間をかけて祈り、賛美する。導きを感じたら次に進む。以下同様。

3.救い主なるイエス・キリスト(御子)への賛美

あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう。(5章9-10節)

ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい。(5章12節)

・黙想のポイント:
  -ほふられたと見える小羊が神の御座の右にあるイメージ
  -キリストの十字架と復活の「新しさ」を思う。キリストのみわざによって終末の新しい時代が始まったことについて思い巡らす(2コリント5章17節参照)。
  -終末に至る歴史の展開を導くキリストの主権(巻き物の封印を解く)
  -キリストがすべての民族から神のために人々をあがなわれたこと
  -神の民の王国また祭司としてのつとめ(「地上を治める」)
・自分(また特にとりなしたい人々)も、キリストによって贖われ、王国また祭司とされたことを感謝する。
・小羊への7重の賛美(12節)は「あらゆる賛美」を意味するので、これら以外にも様々な言葉で賛美してよい。

4.三位一体の神への賛美

御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように。(5章13節)

・御座におられる神とその右におられるキリストだけでなく、御座の前におられる聖霊(4章5節)も含めた三位一体を思い浮かべる。聖霊も父と子と共にあがめられる方(ニカイア・コンスタンティノポリス信条参照)。
・黙想のポイント:
  -王としての神の栄光
  -神の国の永遠性
  -全被造物の礼拝(5章13節前半)

5.地上への帰還

・天上の玉座の間を離れ、地上に戻る様を想像する。
・自分(また特にとりなしたい人々)が神によって創造され、生かされ、キリストの血によって贖われ、神の王国また祭司として地を治めるために遣わされていることを確認する。(5章10節)
・今日の自分の生活を通し、教会を通して、天と地がつながり、天の支配が地上に表されるように祈る。
・主の祈りで締めくくってもよい。

天と地の礼拝

所属教会で礼拝説教のご奉仕をさせていただきましたので、若干修正を施したテキストをここにアップしたいと思います。通常、ここまで長いテキストは何回かに分けて投稿しますが、礼拝説教という性格を考慮して、1回の投稿にまとめました。

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「天と地の礼拝」

さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。 (黙示録5章11-14節)

聖書の中にはいろいろと素晴らしい箇所がありますが、個人的に黙示録4-5章(天の御座の場面)は聖書全巻の中で最も美しい箇所の一つだと思っています。黙示録の記者ヨハネは御霊の感動を受けて、天の幻を見せられます。彼は天に引き上げられ、そこに何があるか、何が起こっているかを見るのです。

4章の冒頭を見ますと、ヨハネがまず目にしたのは、一つの御座と、そこに着いておられる方、すなわち神ご自身でした(4章2節)。神の御座は王座であり、神が御座に着座された方として描かれているのは、王としての権威と力を表しています。

ヨハネは紀元1世紀の終わり頃に黙示録を書きましたが、当時彼が生きていたローマ帝国では、世界の中心はローマであり、そこにある王座に着いている皇帝が世界を支配する存在であると考えられていました。これに対してヨハネは、神が全宇宙を支配されるお方であり、その御座が宇宙の中心だと言います。これは黙示録のみならず、聖書全巻を貫く基本的な世界観です。黙示録が書かれた時代にはエルサレムの神殿は存在しませんでした。紀元70年にローマ軍によって破壊されたからです。けれども、ヨハネの幻において天の神殿は無傷のまま存在しており、そこでは神ご自身が全宇宙を統べ治めておられます。地上のエルサレムにある神殿は、天にある神殿のコピーに過ぎないのです。

それからヨハネは、御座の周りに何があるかを描いていきます。細かい描写を省略して述べますと、御座のすぐ周りには4つの生き物がおり、その周りに24人の長老たちがいました。これらは神に仕える高位の天使たちを表していると思われます。これらの存在が何者なのか、また、それぞれの特徴ある姿は何を表しているのか、いろいろな解釈がありますが、それよりも重要なのは、彼らが何をしているかということです。

4章8-11節には、この4つの生き物と24人の長老は昼も夜も絶え間なく神を賛美し礼拝している、と書かれています。天の御座の周りでは、天使たちが一日24時間、一日も休まず神を礼拝し賛美しているのです。イザヤ書の6章にも同様の箇所があり、そこではセラフィムと呼ばれる天使が御座の周りを飛び交いながら主を賛美していたとあります。イザヤの時代も、ヨハネの時代も、そして今この瞬間も、天では絶え間ない礼拝が捧げられているのです。

ここで重要な事があります。黙示録というと、遠い未来のことを書いた本というイメージがありますが、黙示録の記述のすべてが未来について書かれているわけではありません。この4-5章はヨハネの時代に起こっただけでなく、現在も天において起こっている出来事を描いている、ということを覚えていただきたいと思います。

さて、天使たちは何と言って神を賛美しているのでしょうか?4章8節では四つの生き物が「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」と言い、11節では24人の長老が「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」と言っています。これらのことばから総合すると、神は聖なる方、永遠に生きておられる方、万物を創造し、今も支配しておられる方であり、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方であると言うことです。4章では全体として、創造者としての神が賛美されています。聖書の神は天地万物を造り、今もそれを支えておられる神です。この方に向かって長老たちは「われらの主なる神よ」と叫ぶのです。このような素晴らしい神を「われらの神」と呼ぶことができるのは、何という特権でしょうか。私たちの賛美と礼拝も、この天における礼拝にならうものになりたいと思います。

しかし不思議なことに、この光景を見たヨハネはあまり嬉しそうではありません。5章4節で彼は激しく泣いています。なぜでしょうか?彼は天に昇って、そこで世界の王である神の栄光を見、このお方に対して天使たちが絶え間なく賛美と礼拝をささげている姿を見ました。それは確かに素晴らしい光景でした。しかし、彼が知っている地上の現実はそのような栄光溢れる世界とはかけ離れていたのです。

ヨハネが主から啓示を受けた時、彼がどのような境遇にあったかは、1章9節に書かれています。

あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

当時ローマ帝国の中でクリスチャンは急速に増えていきましたが、同時に迫害も起こっていました。ヨハネもイエス・キリストについてのあかしのゆえに、エーゲ海に浮かぶパトモスという島に流刑になっていたのです。

ヨハネも仲間のクリスチャンとともにイエス・キリストを主と信じて従っていたのですが、万物の支配者である王なる神を信じていても、現実は何も変わらない、いや時代が進むとともにもっと悪くなっているように見えたのです。どうしてそのようなことがあり得るのでしょうか?なぜまことの神を信じるクリスチャンたちがこれほどまでに苦しまなければならないのでしょうか?ヨハネはそのような信仰の葛藤を抱えていたかもしれません。しかしそのような中で彼は天に引き上げられ、神の御座の幻を見たのです。

どんなに厚い雲が地上を覆い、雨や雪が降っていても、飛行機でその上まで昇ると、上空ではいつも太陽が輝いています。それと同じように、地上の状況はどのように悲惨であっても、天では神の栄光が常に讃えられています。これはある意味では慰めですが、その慰めは完全なものではありません。確かに天においては神の栄光ある支配はつねに完全に表されていますが、地上では未だそうなっていないからです。つまり神の国の支配は、今現在は完全に地上にまでは及んでいないのです。このような天と地が分断された状態はいつまで続くのでしょうか?

その答えは5章で与えられます。そこでは天の幻に新しい展開が起こります。ヨハネは王座に着いておられる神の右手に一本の巻き物があるのを見ます。この巻き物には、世界の歴史に対する神のご計画が述べられています。その内容は一言で言うと、神がすべての悪の力に勝利し、天においても地においてもご自分の支配を完全に確立されるということです。しかし、そのご計画はまだ成就されていません。巻き物が封印されているということは、神の御心が地になされることがとどめられている状態を表しています。だからヨハネは4節で激しく泣いているのです。

しかし、その時ヨハネに天使が語りかけます。「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(5節)その言葉の通りに、ほふられた小羊キリストが登場し、神の手から、封印された巻き物を手渡されます。小羊が巻き物の封印を解くということは、キリストが歴史に対する神のご計画を成就させることを表しています。ここでヨハネは、彼独特の表現でキリスト教の「福音(良い知らせ)」の本質を語っています。「ほふられたとみえる小羊」(6節)と言う表現は明らかに十字架上のキリストの死と、それに続く復活を表しています。それは私たち一人ひとりの罪のゆるしのためばかりでなく(1章5節)、世界の歴史が新しい時代を迎えるためでもあったのです。

その結果何が起こったでしょうか?先ほどの4つの生き物と24人の長老たちが今度は小羊の前でひれ伏して礼拝して言います。

彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。 (5章9-10節)

神の国の支配が天だけでなく地にも及ぶということは、どのようにしてなされるのでしょうか?それは小羊キリストの血によって贖われた人々、すなわちクリスチャンが「御国の民」(直訳は「王国」)となり「祭司」となって「地上を支配する」ことを通してなのです(1章6節参照)。

このように見てくると、聖書にある私たちの希望は、ただ単に神の栄光が天であがめられていて、地上の苦しい人生が終わればそのような素晴らしい場所、天国に行けるということではないと分かります。そうではなく、その希望とは、天における神のご支配がやがてこの地の上にも及ぶ時が来て、私たち教会もその働きに参加させていただくことができる、ということなのです。

5章の終わりでは、小羊への賛美が天と地に拡がり、満ちあふれる様が描かれています。

さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。 (5章11-14節)

いまや小羊を賛美し礼拝しているのは4つの生き物と24人の長老たちだけではなく、数え切れないほどの御使い、また宇宙に住むすべての被造物が礼拝の輪に加わります。すべての被造物が創造者なる神と主なるキリストをほめたたえるというのは、旧約以来聖書が語ってきたビジョンでしたが(詩篇150篇6節、ピリピ2章10-11節)、今そのことが成就しているのをヨハネは見ます。ヨハネが見た幻のクライマックスは、天地に満ちるすべての被造物が父なる神とイエス・キリストを声を合わせて賛美し礼拝する、という壮大な光景だったのです。

さて、これまで見てきたことは、私たちの信仰生活とどう関係しているのでしょうか?この地上の人生においては、私たちは多くの苦難があり、信仰の激しい戦いを経験しています。しかしその最中で、主を信じる者たちがともに集まって、造り主である神と救い主イエス・キリストを賛美し礼拝する時、私たちは天における天使たちの礼拝、天地のあらゆる被造物たちの礼拝に参加しているのです。繰り返しますが、ヨハネが見た天の御座の周りでの礼拝の光景は、遠い未来に起こるできごとではありません。今この瞬間にも天の御座には父なる神が着座しておられ、その右には主イエスがおられます。そして天使たちがその周りで主を礼拝しているのです。その様子を心の中で想像してみてください。黙示録1章10節では、ヨハネが復活の主からの啓示を受けたのは「主の日」すなわち日曜日、主を礼拝する日であったとあります。彼がパトモス島で流刑仲間のクリスチャンと一緒に細々と礼拝を守っていた時、彼らは孤独ではなく、全宇宙の被造物とともに主を礼拝しているということが分かったのです。現代の私たちも同じように、天の礼拝に参加する特権が与えられているのです。

しかし、先ほども述べましたように、今現在、天と地は完全につながっているわけではありません。まるで厚い黒雲が上空を覆っているかのように、天においてどれほど神の栄光が表され、天使たちが美しい礼拝を捧げていたとしても、地上では依然として暗闇と悪の力が猛威をふるっているように見えます。そのような世界の中で、私たちはどのようにして天の礼拝に参加することができるのでしょうか?

ここでヨハネの福音書の4章を開いてみましょう。サマリヤの地を訪れたイエスは、井戸端で出会った一人のサマリヤ人の女性と会話を始めます。その中で女性はイエスに一つの神学的な問いを投げかけます。

女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。 (ヨハネ4章19-20節)。

サマリヤ人はイスラエルの北王国がアッシリヤに滅ぼされた後、その地に残った住民と外から移住してきた異民族との混血によって生まれてきた民族だと考えられています。彼らはモーセ五書、しかも彼ら独自の編集がなされたものしか聖書として認めず、サマリヤにあったゲリジム山に彼ら独自の神殿を建てて礼拝を行っていました。その神殿はこのエピソードの100年以上前に、ヨハネ・ヒルカノスというユダヤ人の支配者によって破壊されましたが、サマリヤ人たちは依然としてゲリジム山を正統的な礼拝の場所として主張していたのです。

そこで、サマリヤの女性はイエスに、ゲリジム山とエルサレムと、どちらの場所で神を礼拝することが正しいのか、と問いかけるのです。これに対してイエスは次のように答えます。

イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。 (21-24節)

「礼拝場所としてふさわしいのはゲリジム山ですか、エルサレムですか?」という女性の問いかけに対して、イエスはどちらともお答えになりません。そうではなく、「霊とまこととをもって父を礼拝する」ことが重要だと言われます。そのように礼拝を行う人々が「まことの礼拝をする者たち」だというのです。

ところで、「霊とまこととをもって礼拝する」とはどういう意味でしょうか?これはただ単に「真心をこめて礼拝する」という意味ではありません。原文のギリシア語にあるプネウマという言葉は「霊」とも「御霊」すなわち聖霊とも理解することができ、さらに、文法的にはここでの「霊」と「まこと(真理)」は同じ存在を指していると考えることができますので、この箇所は「真理である聖霊において礼拝する」とも訳すことができます。ヨハネの福音書16章13節で、イエスは真理の御霊を送られると語られました。また、黙示録4章2節でも、ヨハネは「御霊に感じ」て天に引き上げられ、そこで行われている礼拝に参加したことを思い起こしましょう。

別の角度から見ると、ここでサマリヤの女性が尋ねているのは、「神を礼拝すべき真の神殿はどこですか?」ということだとも言えます。聖書の中で、神殿とは神と人が出会う場所、天と地が交錯する場所です。ゲリジム山の神殿はユダヤ人によって破壊され、エルサレムの神殿もこのできごとから数十年後にローマ人によって破壊されることになりますので、ヨハネが福音書を書いている1世紀末の時点ではどちらの神殿も存在していませんでした。では人が神に出会うことのできるまことの神殿とはどこにあるのでしょうか?ヨハネの答えは「イエス・キリストご自身が真の神殿である」というものです。

ヨハネの福音書では様々な形で、イエスがエルサレムの神殿に代わる存在として描かれています。2章では神殿でものを売り買いする人々を追い出された、いわゆる「宮きよめ」のできごとの後、ユダヤ人たちに対してイエスは「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」(19節)と言われました。これに対してヨハネは、これはイエスの復活のことをさして言われたのだと解説しています(21節)。つまり、ヨハネの福音書においては、真の神殿とはイエス・キリストご自身を指しているのです。実際、黙示録21章22節では、世の終わりに天から下ってくる新しいエルサレムにおいて、神とキリストご自身が神殿であると語られています。

ここまでをまとめますと、霊とまこととをもって礼拝する真の礼拝者とは、イエス・キリストという神殿において父なる神を礼拝する人々です。そして、キリストという神殿において礼拝するとは、真理の御霊に導かれて礼拝するということであると言えます。ちなみに、パウロも同じことを少し違う表現で書いています。彼は教会を神殿にたとえていますが(1コリント3章16節)、教会とは聖霊によってキリストのからだに組み入れられた人々の共同体にほかならないのです(1コリント12章13節)。

さて、ヨハネ4章23節でイエスはこの女性に対して、人々が霊とまこととをもって父を礼拝する真の礼拝が行われる時が来る、いやもう今来ている、と言われました。このような礼拝は昔からいつもあったわけではなく、歴史上のある時点から、すなわちイエスが来られ、十字架と復活のできごとがなされて初めて可能になったのです。

ここで、黙示録の天の玉座の間の幻に戻りましょう。

彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。 (5章9-10節)

ここで天使たちが「新しい歌」を歌った、と書かれています。これは天国で作曲された賛美歌の最新作という意味ではありません。歴史の中で決定的に新しいことが起こり、新しい時代が始まった、そのことを歌った歌という意味です。言うまでもなくそれは、小羊であるキリストがほふられてよみがえったできごとを指しています。

つまり、黙示録における「新しい」できごとが始まった「時」と、ヨハネの福音書において真の礼拝が始まるとされる「時」は同じ時、イエス・キリストの時を指しているのです。さらにここではキリストのみわざによって贖われた人々、つまりクリスチャンは、御国の民であると同時に「祭司」でもある、とあります。言うまでもなく、祭司の務めは神殿において神を礼拝することです。その神殿とはイエス・キリストご自身にほかならないのです。

ここで、天において神の御座の前で行われている礼拝と、地上で私たちが捧げる礼拝がどのように結びついているかが明らかになりました。世界中どこにいても、またどのような教派に属していたとしても、どんな人数で、あるいはどんな環境で礼拝を持っていたとしても、私たちが真理の御霊によって神を礼拝する時に、私たちはイエス・キリストというまことの神殿において父なる神を礼拝するまことの礼拝者となることができるのです。

世界には、公に礼拝式を行うことができず、個人の家で隠れるようにして細々と礼拝を守っている人々もいます。中には、同じ場所に集まって礼拝ができず、インターネットを通して礼拝を守っているような群もあります。けれども、すべての礼拝は、それが霊とまこととをもってなされるなら、天において神の御座の周りで絶えず主を賛美している天使たちの礼拝とつながっているのです。私たちの捧げる礼拝が、どんなに少人数であっても、みすぼらしい建物や迫害の中で捧げられるものであっても、私たちは孤独ではありません。聖霊に導かれ、イエス・キリストにあって神を賛美し礼拝する時に、私たちはいつでも世界大、いや宇宙大の聖なる公同の教会の礼拝、永遠に途絶えることのない礼拝の会衆の一部となっているのです。だから私たちの賛美や礼拝が無駄になることは決してありません。そして、私たちがそのようにして礼拝していく時、天と地がつながり、この地に神の国が表されていくことになるのです。そのことを信じて、今日も霊とまこととをもって主を礼拝していきましょう。