ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(8)

その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7

『確実性の罪(The Sin of Certainty)』の7章で、エンズは「疑い」について正面から取り上げます。疑いとは何でしょうか、そして、信仰者は疑いにどのように接していったら良いのでしょうか?

信仰者の多くは、これまで自分が確信し、そこに人生のよりどころを見いだしてきたことがらについての深刻な疑いを経験します。そしてそれは私たちに大きな不安や恐れを引き起こします。多くの場合、そのような危機に直面したクリスチャンは、何か自分に問題があると考え、なんとか壊れたところを修復しようと努力します。その試みがうまくいけば、私たちは元の信仰生活に戻り、以前と同じ歩みを続けて行きます。けれども、もしそれがうまくいかず、疑いが長期間にわたって続くような場合、心に絶望を秘めながら表面上はこれまでと同じ信仰の歩みを続けて行く人もいれば、潔く信仰に見切りをつけて去っていく人もいます。いずれにしても、疑いは信仰の敵と考えられています。

しかし、エンズはそのように考える必要はないと言います。エンズによると、疑いは信仰の敵ではありません。疑いが信仰の敵のように思えるのは、私たちが「信仰」を私たちの「確実な考え」と同一視するからだと言います。 続きを読む

ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(7)

その1 その2 その3 その4 その5 その6

これまで、『確実性の罪(The Sin of Certainty)』に基づいて、聖書的な信仰のあり方について探求してきました。著者のエンズによると、聖書が証しする信仰とは、神についての正しい思考にこだわるものではなく、不確実性の中でも神に信頼するということでした。なぜこのことが大切なのでしょうか?それは、私たちの神についての確信が揺るがされるようなできごとが人生にはしばしば起こるからです。エンズはそのようなできごとを否定したり避けたりしようとするのではなく、むしろそれらが語りかける内容に耳を傾けることをすすめます。

エンズは第6章で、2013年の夏に自身が運営するブログ上で行なったアンケート調査について書いています。彼はブログの読者に次のような質問を投げかけました:

あなたがクリスチャンであり続けることの最大の障害となっているものを一つ二つ挙げてください。あなたが繰り返しぶつかる障害物は何ですか?そもそもなぜ信仰を持ち続けているのかと疑問に思うような、あなたにつきまとって離れない問題とは何ですか?

これらの質問に対して、エンズは数多くの率直な(しばしば匿名の)回答を受け取りました。それらは、大きく分けて次の5つのカテゴリに分けられるものだったと言います: 続きを読む

ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(3)

その1 その2)

前回に引き続き、『確実性の罪(The Sin of Certainty)』の第1章を見ていきます。前回見たような信仰の危機が生じる背景には、ある特定の信仰理解があると思われます。エンズ自身がその中で育った、この種のメンタリティにおいては、「真の信仰と正しい思想とは同じコインの裏表であった」と言います(13ページ)。そこでは、自分が何を信じているかということについて確信が持てている限り、人は安定した信仰生活を送ることができます。何が信じるべき「正しい教え」であるかは明確に定義されており、その境界線の中にとどまっている限り、自分は正しい道を歩んでいるという安心感があります。

しかし、エンズは最終的にそのような「安住の地」を出て、「自分が確信を感じているかどうかにかかわりなく、幼子のような信頼をもって神に依り頼むことを選ぶ」境地に導かれていったと言います(15ページ)。なぜでしょうか? 続きを読む

ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(2)

その1

ピーター・エンズの著書『確実性の罪(The Sin of Certainty)』について、前回は導入的な記事を書きましたが、今回からいよいよ本書の内容に入っていきたいと思います。

本書は9章からなりますが、その第1章「自分が何を信じているのか、もう分からない(I Don’t Know What I Believe Anymore)」というショッキングな題がつけられています。ここでエンズは、多くの(もしかしたらすべての)クリスチャンが一度は体験したことのある、ある瞬間について語り始めます。 続きを読む

確かさという名の偶像(25)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は「結びのことば:信仰をどう生きるか」を取り上げます。

この最後の章でボイドは、彼自身が信仰と疑いをどのように生きているかについて語ります。たしかに、私たちは信仰の歩みの中で自分が信じていることがらについて深い確信を抱くようなときがあります。それについてボイドは言います。

私はそのような時を大切にはする。しかし、それらを追求することはしない。時として確信を持つことができるなら、それは賜物である。けれども心理的な操作によって確信を持とうと努めることは、決して適切なことでも健全なことでもないと思う。(p. 251)

それでは、確信ではなく疑いを抱いてしまうときにはどうすればよいのでしょうか?

疑いが長引くときには、私はただ一歩下がって、すでに何度も探求した、「なぜ私は自分が信じていることを信じているのか?」という問題をもう一度検討してみるだけである。疑いとは、乗り越えなければならない問題ではない。それはさらなる探求への招きなのである。それは信仰の敵ではなく、友なのだ。(p. 251)

ボイドは、イエスが神の究極の自己啓示であるということについて、それが真理であるかのように生きる人生にコミットするために必要なだけの確信さえあれば、疑いや確実性の感覚は、彼自身の信仰の歩みとはまったく無関係であると言います。このコミットメントによって、ボイドはイエス・キリストに対する信仰を持って毎日を情熱的に生きることができる一方で、信仰に対するさまざまな反論を探求し、それを自らの信仰の再検討のために役立てると同時に、同じような問題で葛藤している人々を助けることができるようになると言います。このような柔軟な信仰の姿勢は、疑いを恐れて極力それを排除しようとする信仰のモデルとは大きく異なっていることが分かります。

benefit-of-the-doubt

本書においてボイドが展開してきたような、確実性を追求せず、疑いを排除しない信仰のあり方は、今日大きな意義を持っていると思われます。「十字架につけられたイエス・キリスト」を信仰と神学の中心に据え、このキリストにおいてご自身を完全に啓示された愛なる神との人格的な契約関係から与えられるいのちをよりどころにして生きていくとき、たとい疑いや苦しみや知的チャレンジに直面しても、それらを信仰に対する脅威としてではなく、むしろ信仰を深め成長させる契機として受けとめることができるのだと思います。

ますます多様化し、情報化する現代社会において、キリスト教信仰は教会外からのさまざまなチャレンジ(たとえば宗教多元主義や科学と信仰の問題など)に直面しているだけでなく、教会内に存在する教理的・実践的多様性も無視できなくなってきています。福音派と呼ばれる保守的プロテスタント教会も例外でないことは、先日紹介した藤本満先生の『聖書信仰』を読めば明らかです。以前なら日曜日に所属教会で聴く礼拝説教が主な情報源であった信徒の人々も、今ではインターネットで簡単に様々な情報にアクセスすることができ、自分が育ってきた教会的伝統以外のあり方に触れることができるようになりました。私は個人的にはこれは健全で好ましいことだと思っていますが、同時にそれは自分の信仰のあり方をたえず吟味することを迫られる時代ということでもあります。絶対的な真理を確実性を持って信じることに信仰の本質を見いだすという、今日広く見られる確実性追求型信仰のモデルは、このようなチャレンジに対して硬直した融通のきかない対応しか見せることができず、一方では世に対して効果的な証しをすることができず、他方では知的に誠実であろうとする真摯な信仰者をつまずかせる危険性があると思います。

ボイドが本書で展開しているような確実性追求型信仰への批判は、モダニズム的な信仰のあり方に対するポストモダニズムの立場からの批判ということができます。確実性追求型の信仰は、客観的な真理が存在し、適切な方法(それは知的な神学的探求であるかもしれませんし、霊的な宗教体験かもしれません)を用いさえすれば、その真理を正確に把握することができると考える点で、モダニズムの考え方に基づいています。ポストモダニズムの立場では、そのような、絶対に確実な知識を持つことは不可能であると考えます。なぜなら、すべての知識は認識する主体が置かれている特定の文化的・歴史的なコンテクストによって影響を受けると考えるからです。

このことから、保守的なクリスチャンの中にはポストモダニズムを敵視する人々もいます。けれどもそれは一面的な見方です。ポストモダニズムも一様ではなく、いろいろな立場がありますが、大きくハードなポストモダニズムとソフトなポストモダニズムの二つに分けて考えることができます。ハードなポストモダニズムは客観的な真理の存在そのものを否定するラディカルな相対主義で、このような立場は当然神の存在を前提とするキリスト教信仰とは相容れません。しかし、ソフトなポストモダニズムでは客観的な真理の存在を否定するわけではありません。この立場がモダニズムと違うところは、客観的な真理は実在するが、それを絶対的な確実性を持って認識することはできないとするところです。

私はこのようなソフトなポストモダニズムの認識論はじつは非常に聖書的な立場ではないかと考えています。それはパウロの次の言葉に通じるものです。

わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。(1コリント13章12節)

ここでパウロが言うように、たしかに客観的な真理としての神は存在しますが、限界のある被造物である人間には神のすべてを絶対的な確実性を持って知ることは(すくなくとも今の世では)不可能です。それでは、神を知ろうとする試みには何の意味もないのでしょうか?そうではありません。確かに絶対確実な知識を持つことは不可能だとしても、たえず自己の認識を批判的に吟味していくことによって、ちょうど数学における漸近線のように、真理に到達することはできなくても、それに近づいていくことはできるのです。私たちはそのことを謙虚に認め、他者から学びつつ、成長していく必要があります(このことについては以前書いたこの記事をご覧ください)。

確実性追求型信仰の落とし穴は、このように真理に向かって成長していくプロセスを無視して一足飛びに真理を手にしようとするために、自分が現在手にしている知識の体系(それは往々にして、最初に信仰を持った教会で教えこまれた教理であることが多いのですが)を絶対視してしまい、それを死守することが信仰であると思ってしまうところにあります。ボイドの提唱する信仰モデルでは、信仰者はより柔軟で謙遜な歩みをすることが可能になります。そしてそのような信仰の歩みにあっては、疑いや迷い、考えを改めることは決して避けるべきことではなく、むしろ成長のために必要なものであることが分かります。

しかし、確実性追求型信仰の問題は、それがポストモダンの現代社会では「うまく機能しない」ということだけではありません。ボイドが指摘する最大の問題は、本シリーズのタイトルにもあるように、確実性追求型信仰では「確かさ」ということが偶像、すなわち信仰者にとってのいのちの源泉となってしまうということだと思います。十字架のイエス・キリストを通してご自身を啓示された愛なる神との人格的関係からではなく、自分の信条に対する心理的な確実性の感覚(それが知的な神学的体系によるものであれ、何らかの宗教的体験によるものであれ)からいのちを得ようとする試みは失敗に終わります。なぜなら、そのような信仰者にとっては、自分のアイデンティティや存在価値や安心感は、いかに確実な真理の体系を把握・所有しているかどうかにかかっているからです。したがって、自分の信じているシステムが何らかの知的議論や人生の体験によって脅かされるなら、たちまちそのようなアイデンティティや存在価値や安心感は失われてしまいます(だからこそ、そのようなタイプの信仰者は自分の持っている確実性の感覚が脅かされないようにあらゆる手を尽くします)。言い換えれば、確実性という偶像はいのちを与えることができないのです。

ブログではあまり紹介できませんでしたが、本書ではボイドの個人的な信仰の歩みについてもかなりの紙数が費やされています。彼の祈りの生活など、興味深い内容が多いですが、中には普通なら他人に明かしたくないような失敗や罪についても赤裸々に綴られています。それは本書の神学的な内容を身近なものにするだけでなく、彼が自分の信仰を生きている証しとして貴重なものであると思います。ボイドは自分の弱さをさらけ出し、信仰の歩みの紆余曲折について語り、もっとも驚くべきことには、自分が本書で主張していることがらですら、絶対的な確信があるわけではないことを認めるのです(そしてそれは、確かに本書の中心的主張と首尾一貫した態度です)。彼がそのようにできるのは、いのちの源を自らの「信仰の強固さ」や「神学の正しさ」にではなく、イエス・キリストにおいてご自身を啓示した神との人格的関係に置いているからこそと思えるのです。

*     *     *

長きにわたって連載してきたこのシリーズも、今回が最終回です。このシリーズを通して、これまで日本でほとんど知られていなかったボイド神学の一端を紹介することができたと思います。連載中から、何人もの方々からフィードバックをいただき、彼の神学に対する関心が広まりつつあることを実感しています。重要なことはボイド師の主張すべてを無批判に受け入れることではなく(それはまさに、彼が本書を通じて主張してきた信仰のあり方に反することです)、彼の問題意識を受けとめ、私たちの信仰や生活のあり方に関わってくる部分があれば、それを批判的かつ創造的に取り入れていくことだと思います。グレッグ・ボイドの神学については、今後も折に触れて紹介していきたいと思います。

(完)

確かさという名の偶像(21)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回も前回に引き続き、第10章「実体的な希望」を取り上げます。

前回取り上げた部分でボイドはマルコ11章24節(「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」)などの箇所に見られるイエスの教えは、祈る時に心理的な確信を持ちさえすれば、その祈りがかなえられるという意味ではない、と論じました。確かにこれらの箇所でイエスは信仰の重要性を語っていますが、それは人格的契約covenant関係に基づく信仰なのです。

それでは、具体的に信仰を持って祈るということは、どういうことを意味しているのでしょうか?ボイドはそれは、想像力(イマジネーション)を使って、祈り求めていることがらがすでに与えられているさまを思い描くことだといいます。

信仰と想像力

まずボイドは、私たちが思考するということはどういうことか、について論じます。多くの人はほとんど意識することはありませんが、実際に私たちがものを考えたり、過去のできごとを思い起こしたり、未来のことを予想したりする時には、私たちは単なる文字情報を繰り返しているのではなく、現実世界での体験を想像力によって再現しているのだ、と言います。

たとえば「今日朝食に何を食べたか思い出してください」と言われてそのようにするとき、私たちは「トースト、卵、コーヒー」といった文字情報を頭に思い浮かべているのではなく、実際に私たちが食べた朝食の様子をビデオをリプレイするように、頭の中で想像しているのです。そこには視覚的イメージだけでなく、音や匂いや味、口の中での感触なども含まれているかもしれません。

ボイドはそのようにして想像力の中で私たちが体験を繰り返す働きのことを「再現するre-present」と言います。(英語でrepresentという言葉は「示す」「思い描く」と言った意味がありますが、ボイドは「再び思い描く」というニュアンスを強調するためにre-presentと綴ります。日本語の「現」という言葉はこのニュアンスをよくとらえていると思います。)私たちが過去や現在や未来のものごとを考える時、私たちは常に想像力を使ってさまざまな体験を脳の中で再現しているのです。これらの「再現」は多くの場合無意識の内に、自動的に行われます。

そしてボイドによると、この想像力によって再現されたイメージが具体的で鮮明なものであればあるほど、それは私たちに強い感情的インパクトを与え、したがって私たちの行動やそのための動機づけに影響を及ぼします。そして、このことは私たちが信仰をどのように行使するかに関わってくるのだとボイドは言います。

ボイドは新約聖書でしばしば、私たちの思いをコントロールすることについて書かれていることにふれ(ローマ12章2節、2コリント10章3-5節、ピリピ4章8節など)、これらの箇所で命じられているのは、真なる情報を記憶して唱えること(それも大切ですが)だけでなく、私たちの脳内でほとんど無意識の内に再現される具体的なイメージをコントロールすることだといいます。なぜなら、私たちの実際の行動、したがって生き方に最も強い影響力を及ぼしているのは、頭で覚えた知的情報ではなく、そのようなイメージだからです。私たちが信仰者としてキリストの似姿につくり変えられていくためには、私たちはしばしば外界からの刺激に対して反射的に脳の中に起こってくるイメージをコントロールすることを覚える必要があるのです。

マルコ11章24節に戻りますと、ボイドはここでイエスが言われているのは、私たちが祈り求めているものごとを、あたかもそれがすでに手元に与えられているかのように頭の中で思い描くことだと言います。

これは前回ボイドが批判していた、確実性追求型信仰モデルによる解釈とどう違うのでしょうか?確実性追求型の信仰では、祈り求めたことが必ず応えられるという確信を持つことが重視されますが、ボイドの信仰理解ではそのような確信を持つことが目的ではありません。そうではなく、そのポイントは想像力を働かせて具体的なイメージを再現することにより、祈り求めていることがらを実現しようと忍耐強く努力していくために必要な動機づけを得るということにあります。確実性追求型の信仰では、祈りが応えられるという心理的確信を持つことによってそのことが(魔術的に)実現すると考えますので、確信さえあればそのために努力する必要はありません。

また、確実性追求型の信仰では、祈りが応えられるかどうかは、祈り手がどれだけ心の中で強い確信を持つかによってきまります。これは基本的に神との人格的関係を軽視した、法律的契約contract概念に基づく理解といえます。それに対して、想像力を用いて祈り求めているものを再現すること自体は、祈りが応えられることを保証するものではありません。そうではなく、それは神との人格的契約covenant関係の中で、不確実性の中でも、神に対して忠実に歩んでいくための動機付けに過ぎないのです。しかし、私たちが想像力を働かせて自分の思いをコントロールするようになれば、それは私たちの行動パターンを大きく変える力となっていきます。

ボイドはこれに関してヘブル11章1節を取り上げます:

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

ここで口語訳聖書や新共同訳聖書が「確信」、新改訳聖書が「保証」と訳しているギリシア語はhypostasisですが、ボイドはこれは「実体substance」あるいは「実体化substantiating」と訳すべきだと主張します。つまり、信仰とは強い心理的確信を持つことではなく、望んでいることがらを心の中で「実体化」することに他ならないといいます。(他の学者はhypostasisを”reality,” “actuality,” “actualization”などと訳すこともあります。)またボイドは口語訳で「確認」と訳されているelegchosを証拠に基づいた「信念conviction」と訳します。このように考えると、これは前回見たヤコブ書のことばと同じことを言っていることが分かります。

本書で繰り返し述べてきたように、信仰とは確実性を追い求めることではない。それは不確実性のただ中で忠実であり続けようとすることである。・・・私たちが信仰を働かせるというのは、神の約束を実体的なリアリティ(hypostasis)として想像力を持って受け止めることによるのであり、その実体が今度はそれがそのようになるという信念(elegchos)を生み出す。それによって動機づけられることにより、私たちは想像力で思い描いたものが現実化するだろうと思われるような形で行動できるようになっていくのである。(p. 213)

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ある人は、ボイドの主張は欲しいものをありありと思い描くことによってそれを手に入れることができるというニューエイジ的な教えに近いと感じるかもしれません。ボイドはその懸念をよく承知していて、本章でもそのことについて触れています。確かに、ニューエイジャーや一部のクリスチャンが行っているように、想像力を神との人格的関係から切り離して用いていくと、それは魔術的なものになっていく危険があるとボイドも認めていますが、だからといって信仰における想像力の重要性を否定することは、産湯と一緒に赤子を捨ててしまうようなものだと言います。想像力を活用した祈りは肯定的なcataphatic祈りと呼ばれ、キリスト教の霊性神学の中では長い伝統を持っています。ボイドはまた、想像力が私たちの思考や感情において持っている重要な役割について、Escaping the Matrixという著作では神経科学の視点からも論証を試みています。

想像力についてのボイドの見解には必ずしもすべての人が賛同しないかもしれませんが、ボイドの提案するモデルは、確実性追求型信仰に対する一つの有力なオルタナティブを提供していると思われます。

(続く)