前回は、「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」(以下「書翰」。全文はこちら)の内容を概観しました。今回は、神学という視点から本書翰を考察してみたいと思います。その中で特に、スイスの改革派神学者カール・バルト(1886-1968)の神学が本書翰に及ぼした「影響」について考えます。ここで「影響」と「」をつけているのは、それが本当の意味でバルトの真意・神学を正しく受けとめたものか、疑問があるからです。

カール・バルト
バルトの神学は1925年頃から日本に紹介され始め、1930年代以降にその影響は決定的なものとなり、多くの神学者がバルトの影響を受けたのみならず、西田幾多郎、三木清、和辻哲郎といったキリスト教会外の思想家たちにまで注目されるに至りました。そもそも日本の教会はドイツ神学の影響を多く受け、戦後の若い神学者たちによって日本神学の「ゲルマン捕囚」からの解放が叫ばれるほどでしたが 、その中でもひときわ大きな影響力を及ぼしたのがバルトだったのです。
ここで特にバルトに注目する理由は、今述べたような、日本神学界における彼の絶大な影響力のためばかりではなく、書翰の中にバルト神学の影響が濃厚に表れているからです。実際、書翰の文章の随所にバルトの著作からの借用、ないしバルト的表現が見出され、特に1928年に出た『ピリピ書注解』への引喩が目を引きます。ちなみに同書の訳者は書翰の二等入賞者であり、日本における熱烈なバルト主義者であった山本和(かのう)です。そして問題は、そのようなバルトの神学が天皇制賛美と戦争協力の道具として用いられたことです。
シリーズ第1回で、本書翰は懸賞募集で当選した複数の候補作をもとに作成された事を述べましたが、具体的に誰の文章がどのように用いられたかについては、今日も謎に包まれています(二等となった鮫島と山本の二人は戦後いずれもこの書翰が自分のものであることを否定しています)。
一條英俊氏は『福音と世界』誌上において、この問題について詳細な検討を行いました(「大東亜書翰と『バルト神学』上」『福音と世界』2005年4月号、「同下」2005年5月号)。以下の考察は同氏の論文に負うところが大です。それによると、書翰の中に山本が後年訳出したバルトの『ピリピ書注解』からの借用と思われる表現が散見されるだけでなく、書翰の内容自体も山本の戦後の著作とも通ずるものがあります。また、書翰の内容は、山本が愛読していた『ピリピ書注解』に、表現だけでなく構成まで類似しているというのです。ここから、一條氏は山本が教団首脳部の指示を受けて、他の入選者の原稿を参考にしつつ書き下ろしたと結論づけています 。その上で書翰には教団首脳部の指示に従って『国体の本義』などから天皇制賛美の内容が補強されて完成されたものとします。書翰の最終版は選考委員の熊野義孝、序文を書いた富田満教団統理、発行責任者である総務局長鈴木浩二ら教団首脳部が関わり、さらに文部省の意向にも神経をとがらせながら作成されたと考えられます 。
それでは、書翰に盛り込まれたというバルトの神学は、国体を護持し大東亜戦争に突入していった当時の日本軍国主義のイデオロギーと適合するものだったのでしょうか。その答えは否です。一條氏は「書翰はバルト神学をダシに使っただけというほかない」と述べています 。バルトの神学が書翰の中でどのように「ダシに使」われているかについての詳細は同氏の論文に譲るとして、ここでは、書翰の根幹をなす二つのテーマについて見てみたいと思います。書翰の中心的メッセージは二つに絞られます。第一は東アジア諸国のキリスト者に対して一致を呼びかけること、第二はそのようにして一致したキリスト者が、天皇の権威の下にあって大東亜共栄圏建設に邁進するよう促すことです。これらの神学的裏付けがバルト神学を援用することによってなされているのです。
第一の一致という主題について、書翰はまず第1章でエペソ書を引きつつ次のように語ります:
「汝ら召されたる召しにかないて歩み、平和の繋ぎ(靭帯)のうちに勉めて御霊の賜う一致を守れ」(エペソ書四・一、三)。兄弟たちよ、われらは牛が力を合わせて犂を牽くように、この強靭なる紐を牽いてゆかなくてはならぬ。
ここで目を引くのは、「平和の繋ぎ」ということばと関連させて牛が力を合わせて犂を牽くイメージが語られていることです。ところがこれとよく似た箇所を、バルトの『ピリピ書注解』に見出すことができます:
幾人もの《たましい(心)》―それはいかにもまさに争い合っている《たましい(心)》にすぎない―が言わば共通の軛の下に繋がれて、いっしょに同じ犂を引かなければならない。これこそ《平和の絆》(エペソ四・三)であり、ちょうど今真剣に争い合って不和になっている心を結合しうる唯一のものなのである。( 『ピリピ書注解』山本和訳 [新教出版社、2003年]、62頁)
ここから、書翰の著者がバルトの『ピリピ書注解』を意識していたことが推測されます。しかも、バルトのこの文章は、ピリピ2章2節の注解の中に見出されるものですが、まさにこの句が書翰の第4章で引用されているのです:
使徒パウロがピリピの教会に勧めているように、われらはキリストの慰めによって呼びかけられている者として同じ愛と同じ思念とを懐き一つとならなければならない。われらは敵性国民らのキリスト教にのみならず、われらの自らの中にも、自己に立ち、己れを高しとし、他を己れに優れりとなしえぬ罪が「唯一つの事」(ピリピ二・二)を念おうと欲せざる人間固有の分裂的遠心作用が働いていることを人間存在の秘奥の底に認めざるをえない 。
「唯一つの事」はギリシア語to autoの訳ですが、文語訳の「思ふことを一つにして」とは異なるユニークな訳です。ところがバルトはピリピ書のこの箇所をまさに「ただ一つの事das Eine」と訳しているのです。書翰はこのようなピリピ2章2節のバルト的解釈を援用して、東アジアのキリスト者に「唯一つの事」を思うようにと呼びかけていますが、そこでの「唯一つの事」とは、「大東亜共栄圏の建設」に他ならないのです。一條氏は、このピリピ書からの引用こそが「バルトと書翰をつなぐ”決定的な絆”」であると述べています。
ところが『ピリピ書注解』で当のバルトは次のように述べています:
ただ一つの事は、いずれにしてもある人間的な、わたしの、あなたの、彼の真理とか義などではない。さらに、交わりの中に統合された人間的諸真理ともろもろの義―それらの間にはさてまあ寛容が支配しなければならぬはずだが―の総体でさえもないであろう。それどころか、後で示されるように、これらの個々人にとって真理と義であるものいっさいの、神的根源が支配すべきである 。(前掲書、61頁。強調は原文)
ここから明らかなように、「大東亜共栄圏の建設」といった人間の政治的理想がパウロのいう「唯一つの事」であるなどとは、バルト本人は到底認めるはずのないものです。書翰はバルトの釈義の一断片を文脈を無視して取り出し、自らの目的のために利用していると言わざるをえません。
次に、なぜ一致団結した東アジアのキリスト者が日本の軍事政策に従わなければならないのかを説いた第2章の冒頭で、書翰はピリピ4章8節「おおよそ真なること、おおよそ尊ぶべきこと、おおよそ正しきこと、おおよそいさぎよきこと、おおよそ愛すべきこと、おおよそよき聞こえあること、いかなる徳、いかなる誉にても汝らこれを念い」を引用します。
書翰の論理は次のような筋道をたどります。この「おおよそ尊ぶべきこと」とは「単に教会の中なる諸徳について言っているのではなく、教会の外の一般社会の中にあるかのごときもの」である。そして「分裂崩壊の前夜にある個人主義西欧文明が未だ一度も識らなかった『おおよそ尊ぶべきもの』が、東洋には残っている」と続け、最終的にはこれは「世界に冠絶せる万邦無比なるわが日本の国体」に他ならない、だから東アジアのキリスト者もこの日本の国体を思念し、尊敬するようにと結論づけるのです。つまり書翰では、パウロのいう、教会外にある「おおよそ尊ぶべきもの」が日本の国体と直結されているのです。
では、ピリピ書のこの箇所に関するバルトの解釈はどうでしょうか。確かに彼はパウロが「ちょうどローマ書一三章が国家に対する尊敬を命じているように、そのようにここでも、すべて人間的に真なるものや善なるものいっさいに対する尊敬を、キリスト者たちに命じている」といいます(152頁) 。ここだけ見ると、バルトの解釈は書翰の主張と一致するか、少なくとも許容しているようにも見えます。一條氏も「この個所の釈義はバルトらしくない。」と書いておられます。一方、訳者である山本はまさにこの部分に注をつけて「バルトを文化否定の危険神学と烙印したのは、昭和初年期の幼稚性、原始素朴な錯覚であった。この神学的釈義に基づいてこそ、日本におけるキリスト教的文化形成が一つの課題となる」と述べているのです(163頁)。
しかしその後の箇所でバルトは、「しかし善についての知識は、ただ善が誡めである場合、しかもその戒めが守られている場合にのみ、神認識である」と警告しているのです(152頁。強調は原文) 。つまり、ここでバルトが言っていることは、この世で尊ばれているものをキリスト者が尊重しつつも、それをよく吟味して、それが神からの誡めに合致する限りにおいてそれを実行せよと言うことです 。ここから、キリスト者が日本の国体とその遂行する侵略戦争を尊び実行するということは、バルト本人の意図から大きく外れたものと言わなければなりません。
たしかにローマ書13章に言及したバルトの文言は、書翰の趣旨に都合の良いように解釈できる余地を残しています。しかし、この『ピリピ書注解』はヒトラーによる政権奪取前の1928年に書かれたものであることを覚えなければなりません。ここでバルトが念頭に置いている国家とはヒトラーのナチスではなくその前のヴァイマール共和国でした 。ナチス時代の1938年に書かれた「義認と法」では、キリスト者の国家に対する服従には限度があることをバルトははっきりと述べているのです。
そもそも神の絶対的主権性を強調するバルトの立場が、書翰の趣旨に適うものでないことは明白です。実際にバルトは同時代のドイツにあって、ヒトラー政権に追従する「ドイツ的キリスト者運動」に対して断固として拒否の姿勢を貫いたのです。次回はバルト本人の戦争との関わりについて見ていきます。
(続く)