Context Is King

聖書解釈における大原則の一つに、「文脈(コンテクスト)に即した解釈をする」というものがあります。英語では“Context is King” (文脈は王)などと言われます。聖書テキストの意味は、その前後の文脈の中ではじめて正確に捉えることができる、というもので、神学校で学ぶと、このような聖書の読み方を徹底的にたたき込まれます。

前後の文脈に即して聖書を解釈することが身についてくると、こんどは文脈を無視した解釈に生理的な違和感を覚えるようになってきます。牧師の説教やキリスト教関係の書籍、メディア、クリスチャンの友人との会話などで前後の文脈を無視した聖書の解釈や引用が行われると、条件反射的に頭の中に黄色信号や赤信号が点灯し、「この箇所はそんな意味じゃないよ」と頭の中でつぶやいてしまいます(口に出して言うことは滅多にありませんが)。

文脈を無視した解釈の代表的なものは「アレゴリー的解釈」です。「アレゴリー」は寓喩とも言われますが、ある言葉によって、その語が通常指示する事物とは別の事物を意味する表現技法です。これは著者が意図して行うこともありますが、「アレゴリー的解釈」とは普通は読者がテキストにある言葉の背後に、著者が意図したものとは異なる意味を読み取ろうとする解釈法を指します。 続きを読む

確かさという名の偶像(18)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第9章「聖書の中心」を取り上げます。

前の章でボイドは、キリスト教信仰の中心はイエス・キリストであることを論じました。しかし彼は、十字架上のイエス・キリストに表されているような自己犠牲的な愛の神と、聖書の他の部分に描かれている暴力的な神のイメージとの間に否定しがたい緊張関係があることを意識するようになりました。たとえば、旧約聖書にはイスラエルが入っていこうとする地に住むカナン人たちを滅ぼしつくすようにと神が命じておられる箇所もあります。申命記7章2節では「彼らに何のあわれみをも示してはならない」とさえ書かれています。このような箇所をどう考えたら良いのでしょうか?

同時にボイドは、自分が持っていた神のイメージは部分的にしかキリストに似ていないことに気づきました。その理由は、彼は聖書に描かれているさまざまな神のイメージがすべて同程度に権威あるものだと考えていたところにありました。その結果、彼の持つ神観は、多くのしばしば互いに矛盾するように見える神のイメージの混合体になっていったのです。それによって、彼はこの「神」から豊かないのちをいただいていくことに困難を覚えるようになっていったのです。

このような葛藤を経てボイドがたどり着いた結論は次のようなものでした:

聖書が完全に「神の息が吹き込まれた」ものであると告白することは、聖書に含まれるすべての内容が同程度に権威があるということでも、すべての神の描写が同じ重みを持っているということでもない。実際、後で示すように、聖書自身がこのような考えを否定している。私は聖書には中心があると理解するようになったが、その中心とは、私が神学において見いだした中心と同じであり、私の信仰の知的土台を構成する中心と同じであり、私のいのちの源である中心と同じものだったのだ。一言で言えば、すべてはイエス・キリスト、そしてイエス・キリストのみを中心にして回っているということを見いだしたのである。(p. 251)

聖書の記述のすべてが同程度の権威を持っているわけではないというボイドの主張は、聖書がそもそもどのような種類の本であるか、という理解に基づいています。ボイドは聖書は料理本のように、すべての要素が同じような重要性を持っている本ではなく、小説のようなストーリーである、と言います。しかも、それは驚くような筋の展開を持っているストーリーなのです。

時々、小説や映画で、最後に驚くようなどんでん返しが起こり、その結末部分がそれまでの話のすべてをまったく新しい光の下で照らし出してみせるようなものがあります。ボイドは聖書とはまさにそのような本であると言います。聖書においては、そのどんでん返しはイエス・キリストにおいて起こったのです。ボイドは言います:

全旧約聖書はメシアであるイエスに導き、彼において成就される。しかし、イエスがそれを成就する独特なやりかたは、すべてを新しい枠組みの中でとらえ直すのである。ほとんど誰もそのようなことが起こるとは予測していなかった。実際、イスラエルを取り扱う神の物語を完成するイエスのやりかたはあまりにも意外なものだったので、メシアを探し求めていた人々のほとんどは、彼がいざ到来すると彼を受け入れることができなかったのである。(p. 251)

たとえば、紀元1世紀のユダヤ人の多くが待ち望んでいたメシアは、ローマ人のような異邦人の支配を打ち破って、地上的な王国を樹立する軍事的指導者であると考えていました。これはたとえばヨシュアやダビデといった旧約聖書の指導者のイメージからすれば、決して理解できないことではありません。けれどもイエスは、そのような「旧約的期待」を裏切るかのように敵を愛することを教え、自らそれを実践して十字架にかかられました。

ボイドによると、このような「どんでん返し」が意味しているのは、私たちはイエスにおいて啓示された神の姿を、旧約聖書において描写されている神の描写と同列においてはならないということです。イエスにおける神の自己啓示は、それに先立つすべての啓示に優先するものであり、それを通して先行するすべての啓示を解釈すべきレンズなのです。

そしてボイドは特に、イエスの存在のすべてが集約された十字架というレンズを通して旧約聖書を読むべきことを主張します。イエスご自身、旧約聖書のすべてはご自分について書かれていると教えておられます(ルカ24章25-27節、ヨハネ5章39-47節)。

このような旧約聖書の解釈法は、現代の福音派の標準的聖書解釈法である歴史的・文法的アプローチからすると問題を含んでいます。なぜならこの解釈法では、正しい釈義とは「聖書記者が意図したオリジナルの意味」を抽出することにあるからです。しかし、ボイドは、新約聖書記者たちの関心事は、旧約記者の意図した意味よりもむしろ、それらのテキストがどのようにキリストを指し示すかにあったと言います。

それでは、「聖書が霊感された神のことばである」とはどういう意味なのでしょうか?ボイドは、聖書が「神の霊感を受けて書かれた」(2テモテ3章16節)目的はキリストを指し示すことにあるのであり、この目的を達成することに関して聖書はあやまることがない(無謬infallible)と主張します。つまりボイドによると、聖書は神が意図されたその目的に関して霊感を受けた完全な書物なのです。聖書がこの目的を達成している限り、個別のテキストにいかなる人間的な限界や不完全さや誤りが含まれていたとしても、それは聖書の霊感された神のことばとしての地位を揺るがすものではない、とボイドは考えています。聖書霊感に関するボイドの確信はイエスが神の御子であるという確信に根ざしており、後者は(第16回で見たように)聖書の無誤性にではなく史的イエスについての彼の確信に基いています。このような聖書理解に立つクリスチャンは、聖書に関するさまざまな「難問」によってキリストに対する信仰が揺るがされることはなくなるとボイドは言います。

*     *     *

ここに紹介したボイドの聖書理解は現代の保守的プロテスタント教会で広く受け入れられている聖書観に対して、非常に重要な問題提起をしています。歴史的・文法的聖書解釈法の限界については、このブログでも「使徒たちは聖書をどう読んだか」のシリーズで論じましたが、旧約聖書をイエス・キリストのレンズを通して読むという解釈法は、新約聖書の記者たちも行っている聖書的なアプローチです。

聖書の全体を一つの大きなストーリー(ナラティヴ)として読むアプローチは、近年日本の福音派の教会にも浸透してきていますが、その本当に意味するところはあまり理解されていないように思います。聖書をナラティヴとして読むということは、プロットが時間軸にそって進行していくにつれ、新たな発見や思わぬ展開が待ち受けていることを意味しています。そして、ナラティヴ全体の「意味」は、最終章にたどり着いて全体を振り返った時に初めて本当の意味で理解できるのです。なぜなら、各部分の意味はナラティヴ全体の文脈の中ではじめて正確に読み取ることができるからです。聖書の各部分がすべて同じ比重で重要性を持っているという、平板で機械的な霊感理解は、聖書を組織神学の素材として百科事典のように読むアプローチには有効ですが、このようなナラティヴとしての聖書理解にはなじまないと思います。つまり、私たちの聖書理解(霊感理解)は、私たちの聖書解釈のアプローチと切り離すことができないのです。

(続く)

 

使徒たちは聖書をどう読んだか(12)

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前回述べたソフト・ポストモダニズムのアプローチでは、聖書の解釈にはどうしてもある程度の幅が原理的に生じてきます。これに対して、第10回で提案した救済史的な視点を導入することによって、解釈の主観的暴走を防ぐことができると考えられます。

今回はそれに加えて、もう一つの重要な枠組みについて考えてみたいと思います。それは教会共同体として聖書を読むという視点です。

前にも書きましたように、歴史的・文法的方法によると、少なくとも理論的には、適切な方法を用いて聖書を解釈すれば、誰が読んでも同じ結論に達することになります。モダニズムの立場では、普遍的人間理性に従っていく限り、誰でも唯一の真理に到達することができるはずだからです。聖書も同じように、基本的には誰が読んでも(信仰者であるなしにかかわらず)、同じ「意味」を見いだすことができるはずだ、ということになります。

このような聖書の読み方は本質的に個人主義的なものです。そこでは共同体における議論や対話は絶対的に必要なものではありません。理想的状況においては、個人が書斎に籠もって歴史的・文法的方法を駆使し、理性の光に導かれて聖書を読めば、誰でも同じ釈義的結論に達するはずだからです。もちろん、実際には歴史的・文法的方法を用いる場合でも、共同体や対話の有効性が語られていますが、それは原理的な要請ではないのです。

これに対して、ポストモダン的状況においては、個人の解釈は必然的に限界を持っているので、その精度を高めていくためには、他の人々との対話が必須条件になってきます。したがって、真に有効な聖書解釈は共同体というコンテクストにおいてのみ可能になると言えます。

この場合、共同体なら何でも良いというわけではありません。個人の視点が特定の歴史的状況によって制約されているのと同様に、共同体も具体的な歴史的・文化的状況と離れては存在しえないからです。ナザレのイエスをメシア(キリスト)と信じていた初代教会の旧約聖書解釈と、そのような神学的前提を共有していなかった同時代のユダヤ教のそれとが異なっていたことを思い起こしましょう(シリーズ第5回参照)。聖書を正しく読むためにはイエス・キリストというレンズを通して読むことが必要だったように、聖書解釈はイエスをキリストと告白する共同体、すなわち教会という共同体のコンテクストでのみ、適切に行っていくことができるのです。

このことは言い換えれば、「聖書は誰が読んでも同じ結論に達する」「聖書は他の書物と同じように解釈することができる」というモダニズム的解釈の前提が成り立たないことを意味します。つまり、聖書は教会(神の民)に対して啓示された神のことばとして読まなくてはならない、ということです。

話は少し逸れますが、このような考えに基づいて、近年アカデミックな聖書学でも、「神学的聖書解釈Theological Interpretation of Scripture」という潮流が脚光を浴びてきています。その代表的な論客の一人に、米国トリニティ神学校のケヴィン・ヴァンフーザーKevin J. Vanhoozerがいます。神学的聖書解釈は解釈者の持つ神学的前提を前面に押し出したものですが、このような流れが米国聖書学会Society of Biblical Literature のようなアカデミックな団体においても認知されてきている状況は、ポストモダン的な時代背景を非常に良く反映しています。また、神学的聖書解釈の立場に基づいた聖書注解のシリーズや学術雑誌なども出版されるようになってきています。

さて、共同体に話を戻しますと、私たちが「教会共同体のコンテクストで聖書を読む」と言う時、その「教会共同体」はいろいろなレベルで考えることができます。「教会」というと、個別の地域教会を思い浮かべることが多いかもしれませんが、唯一のキリストのからだとしての普遍的教会(使徒信条で言うところの「聖なる公同の教会」)に属する意識を持って聖書を読むことも非常に大切なことです。そのためには自分の属する教派や伝統以外の人々の聖書解釈に耳を傾け、対話をしていくことが必要です。同時に、キリストのからだは空間的にだけでなく時間的にも広がっていますので、過去の信仰者たちの聖書解釈から学ぶことも有益です。上で述べた神学的聖書解釈においては、過去(特に近代以前)の聖書解釈も新たに注目を集めています。

同時に、実際の聖書解釈は個別の地域教会という場においてなされていくことを忘れてはなりません。具体的な歴史的状況から遊離した純粋に普遍的な教会というものはこの地上に実在しません。私たちの属する教会は必ず特定の時代と場所に存在し、特定の教会的伝統にルーツを持ち、特定の人々から構成されるユニークな存在です。個々の教会が置かれている具体的な状況によって、同じ聖書テキストの解釈であっても、微妙な幅が出てくるかもしれません。

要するに、教会共同体として聖書を読む時には、ローカルとグローバルの両方の視点を持って読んでいく必要があります。一方では、普遍的な教会における多様な聖書解釈から学ぶことによって無制約な解釈の暴走をとどめ、他方では現実の具体的な状況の中で聖書が語りかける声の微妙なニュアンスに耳を傾けていくことにより、聖書のことばがより活き活きと私たちの生活の中で働き始めると思われます。そして私たちは自分の解釈は誤りうるという可能性を常に心に留め、所属する教会の内(ローカル)と外(グローバル)にいる人々と絶えず対話を行うことにより、より良い聖書解釈を追求していく必要があります。

現代の私たちは特定の信仰共同体に属さなくても、個人で簡単に聖書を所有して読み、また解釈することができます。それは良い面もあると同時に、非常に個人主義的な狭い聖書解釈に陥っていく危険性があります。しかし新約時代のクリスチャンたちは現代の私たちよりもはるかに共同体的な意識を持って聖書を読んでいたと考えられます。使徒たちが一見かなり自由奔放な釈義を行いつつ、非常にバランスの取れた聖書理解を持っていた理由には、救済史的な視点を持っていたことと同時に、イエス・キリストを主と告白する信仰共同体として聖書を読んでいたことがあると思います。

(続く)

 

使徒たちは聖書をどう読んだか(11)

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前回の投稿では、歴史的・文法的方法を超えた聖書解釈が無制約な恣意的解釈に陥らないための歯止めの一つとして、「救済史」の考え方をはじめとする、いくつかの神学的枠組みについて書きました。

しかし、そのような枠組みを設定したとしても、使徒たちの解釈法に倣っていこうとする時に、そこから出てくる解釈はそれでもなお一意的に定まるものではなく、ある程度の幅、多義性が生まれてきます。これについてはどう考えたら良いのでしょうか?

私は個人的には、このようなある程度の解釈の多様性を恐れる必要はないと考えています。使徒たちの解釈学は厳密な科学というよりは、むしろアートと呼べる側面があります。

この表現は誤解を招く可能性がありますので、少し丁寧に説明したいと思いますが、この問題を考える際には、ポストモダニズムについて理解する必要があります。17世紀後半からヨーロッパで興ってきた啓蒙主義は、人間理性に全幅の信頼を置き、理性の光の下で真理を探究していこうとしました。これがモダニズム(近代主義)の考え方です。モダニズムにおいては、正しい認識方法を用いることによって、客観的な真理に到達できると考えられていました。そして、このシリーズの第2回で見たような、聖書解釈における歴史的・文法的方法も、まさにこのようなモダニズムの考え方の上に立っているのです。

20世紀の後半から、このようなモダニズムの考え方に対して様々な異議申し立てがなされるようになってきました。それがポストモダニズムです。「ポストモダン」というのは「モダンの後」という意味です。ポストモダニズムにはいろいろな流れがあり、一般化することは難しいのですが、共通しているのは、上で見たようなモダニズムの認識論的前提がもはや受け入れられなくなっているということです。ポストモダニズムの中には、客観的な真理の存在を否定する極端な立場もあります(これは時に「ハードなポストモダニズム」と呼ばれます)。聖書解釈においては、これはテキストには唯一の客観的な意味などない、各読者がクリエイティヴに意味を生み出していけばよい、という立場(「読み手応答批評reader-response criticism」と呼ばれます)になります。これは聖書を神のことばとするキリスト者としては当然受け入れられません。

しかし、これとは別に「ソフトなポストモダニズム」と呼ばれる立場もあります。それは、客観的な真理を前提としながらも、私たちの視点は各人の置かれている歴史的立場によって必然的に限定されているため、たゆまぬ努力とお互いの対話によってそこに近づいていくことはできるが、絶対確実な知識に到達することはできない、というものです。これは実は「鏡を通して見る」の投稿で述べた考え方に他なりませんが、そこで示したように、このような見方は聖書的なものと言うことができます。

つまり、これまで述べてきた内容(歴史的・文法的方法を包含しつつも、それにとらわれない聖書解釈の追求)は、基本的にソフトなポストモダニズムの立場に立つ聖書解釈のアプローチと言えます。個人的には、このアプローチはモダニズムやハードなポストモダニズムのそれよりも優れていると思います。

誤解を恐れずに言うならば、聖書解釈の方法論を歴史的・文法的方法に限定しようとする態度は、「絶対確実な認識論」というモダニズムの幻想にもとづいているのではないかと考えられます。福音主義の釈義は「確実性」というモダニズムの強迫観念から解放される必要があると思います。それは決して客観的真理を否定するということではなく、むしろ私たちが自分たちの限界を認識し、やがて真理に完全に到達できる終末論的希望を抱きつつ、解釈学的謙遜をもって聖書に聴き続けていく姿勢であると考えています。

さて、このようなソフト・ポストモダニズム的な聖書解釈を行おうとする時に、欠かすことのできない視点があります。次回はそれについて書いてみようと思います。

(続く)

※明日から仕事が忙しくなるため、更新が遅れる可能性があります。ご了承ください。

使徒たちは聖書をどう読んだか(10)

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前回は、聖書の学問的な読み方とディヴォーション的な読み方を統合していく読み方を模索すべきではないか、というところまでお話ししました。新約時代の使徒たちは、現代の福音派のように釈義(聖書が意味したこと)と適用(聖書が意味すること)を必ずしも明確に区別してはおらず、もっと直接的に自分たちに語られる神のことばとして読んでいました。そして、現代の私たちもそのような読み方に倣うことができるのではないか(あるいはすでにそうしている人々が多い)、ということでした。

この主張に対して、そのような聖書の読み方は、ありとあらゆる主観的で恣意的な解釈を許容し、解釈学的無政府状態をもたらすのではないか、と危惧する声が聞こえてきそうです。

しかし、必ずしもそうではありません。使徒たちの聖書解釈も決してランダムな主観的解釈ではありませんでした。彼らの聖書解釈は、ある共通した神学的理解の枠がはめられていたと考えることができます。その枠組みには、次のような一群の確信が含まれています:

  • 聖書の全体は神による人類救済を描いた首尾一貫した物語(ナラティヴ)であるという救済史的確信
  • 旧約聖書のナラティヴの全体は来るべきキリストを指し示しているというキリスト論的(キリスト目的的)確信
  • その旧約聖書の約束が、ナザレのイエスを通してすでに成就し、神の救済のドラマは最終的な神の国の完成に向かって最終段階に入ったという終末論的確信
  • このキリストを信じる者たちは終末を生きる神の民としての教会共同体に属し、聖霊の力を受け、教会を通して神と人とに仕える存在となったという教会論的・聖霊論的確信

このような全体的な枠組みを通して、聖霊に導かれ、教会という共同体の中で、使徒たちは旧約聖書を読んでいったのです。現代の教会もこれに倣うべきであると私は考えます。もちろん、現代の私たちの解釈は使徒たちのそれと同等の権威を持っているわけではなく、誤ることもありえます。しかし、上記のような枠組みを意識することで、解釈の暴走をかなりの程度防ぐことができると思われるのです。実際、健全な福音的教会形成のためには、人々に上記のような神学的枠組みを教え、教会の共同体的コンテクストの中で聖書を読む習慣を身につけさせることの方が、歴史的・文法的釈義の訓練(これも有益ですが)を行うよりもはるかに重要だと私は考えています。

上の神学的枠組みのうち、キリスト論的な枠組みについては既に述べましたが、ここではもうひとつの重要なポイントである救済史的枠組みについて述べていきます。実際、上のリストのうち、最初の救済史的確信は、その他の要素をすべて貫く縦糸のような最重要の要素とも言えるかもしれません。使徒たちは唯一の神による万物の創造、人類の堕落、イスラエル、イエス・キリスト、教会、そして終末における万物の再創造(更新)といった、歴史に対して神が持っておられるご計画の全体像と、今自分たちがその中でどのような時代に生き、どのような結末に向かって進んでいるのかということをしっかりと把握した上で、彼らは聖書を読んでいたと思われます。これはまさに現代の私たちも取るべき解釈学的態度にほかなりません。

このような救済史的な聖書解釈のアプローチは多くの人々によって採用されていますが、おそらく最も有名なのは近年日本でも名を知られるようになってきたN・T・ライトのものではないかと思います。彼は聖書全体のナラティヴ(物語)を五幕ものの未完の劇にたとえています。最初の四幕は1. 創造、2. 堕落、3. イスラエル、4. イエス・キリストであり、劇の脚本(聖書)は、ここまでの部分と、最終幕の最初の部分(初代教会)だけが完成しており、あとは結末(終末)のラフスケッチのみが残されている、と考えます。

さて、ライトによると現代の私たちはこの初代教会と終末の間の部分を演じる役者として舞台に立っています。ところが私たちの演じるべき部分の脚本は未完であるため、私たちはこれまでの劇のストーリー展開とその終わり方を熟知した上で、今の場面にふさわしい演技を即興improvisationで演じていかなければならない、と言います。従って、即興とは(ジャズの即興演奏がそうであるように)あらかじめどのように行うかは一通りに決められているわけではありませんが、だからといって単なるでたらめではありません。ライトは、現代の私たちはこのようにして聖書を読み適用すべきだ、というのです。

これまでこのシリーズで論じてきた内容に即して言うと、私たちが新約聖書における使徒たちの聖書解釈に倣うということは、最終幕の第一場(初代教会)を演じた先輩役者たちがどのように最初の四幕の内容に基いて即興演技を行ったかを学ぶということにほかなりません。しかし、ここでもまた、私たちは使徒たちの台詞や小道具(たとえばユダヤ的解釈法など)をそのままコピーするのではなく、現代にふさわしいやり方で、この劇を進行させていく必要があるのです。

使徒行伝20章で、エルサレムに向かおうとするパウロは、途中のミレトにおいてエペソ教会の長老たちを呼び寄せ、彼らに最後のメッセージを伝えますが、その中で彼は、エペソで行った3年間の奉仕を通して、彼は人々に「神のご計画の全体」をあますところなく伝えたと言いました(25節、新改訳)。「神のご計画の全体」とは何でしょうか?前後の文脈からすると、その内容は福音(24節)と同義であり、罪の悔い改めとイエスに対する信仰(21節)を含んでいますが、それにとどまらず、より広い神の国のメッセージ(25節)を意味していると思われます。

パウロが神のご計画の全体を伝えたという時、3年もの間来る日も来る日も「主イエスを信ずれば罪が赦されて永遠のいのちが与えられる」というメッセージを繰り返していたわけではないと思います。そうではなく、彼は聖書の全体から、人類の歴史における神のご計画の展開について教え、エペソのクリスチャンたちがその中で今どのような段階に生きており、やがて来る終末への希望を持ちつつどのように生きていくべきかを詳しく語り聞かせていたに違いないのです。パウロの手紙における旧約聖書の重要性からして、彼が創設した諸教会では、異邦人出身のクリスチャンであっても、旧約聖書の内容をしっかりと身につけるように指導がなされていたはずです。そして、そのような神の物語をエペソ人たちが自分たちの物語として血肉化するまでには、3年の年月が必要だったのかもしれません。

現代の私たちも、時間をかけて「神のご計画の全体」と、その中での自分たちの立ち位置を体得することによってのみ、聖書は正しく読むことができるようになるのだと思います。

(続く)

使徒たちは聖書をどう読んだか(9)

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前回の結論は、歴史的・文法的方法に必ずしもとらわれない使徒たちの聖書解釈法に、現代の私たちも倣うことができるはずだ、ということでした。

このように釈義の概念を拡張することによって得られる一つの利点として、学問的聖書解釈とディヴォーション的聖書解釈の間の乖離が解消(あるいは緩和)される可能性があります。

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2000年の夏、念願の米国留学が実現し、期待と不安に胸を膨らませながら、私は神学校の最初のチャペルに出席しました。そのチャペルで説教壇に立った教授が、大体次のような内容のことを私たち学生に話されました。

聖書には二種類の読み方がある。一つはディヴォーション的読み方で、もう一つは学問的読み方である。皆さんはこれから神学校で聖書を学問的に、体系的に学んでいくことになる。それはとても大切な学びだが、その一方で皆さんはデヴォーション的に聖書を読んでいくことも決して忘れてはならない。

学問的な聖書の読み方とディヴォーション的な読み方の両方を大切にしなければならない。このメッセージは、神学を学び始めたばかりの私の胸に深く刻み込まれ、その後学びを続けていく中でも私の霊性を養うのに大きな支えとなりました。しかし、二校目の神学校に進むことが許され、学問的にいよいよ精緻な聖書解釈の学びを続けていくうちに、自分の中でこの二種類の聖書の読み方をどのように統合して行ったらよいのか、という疑問が頭をもたげてきたのです。

福音主義に立つ多くの教会や神学校では、聖書を学問的に釈義だけでなく、ディヴォーション的にも読む(「神が聖書を通して今日私に何を語られているのか」を求めて読む)ことが推奨されています。しかし、この二つの読み方には通常明確な区別が付けられており、しかも各クリスチャンの信仰生活において学問的な解釈とディヴォーション的な解釈とをどのように橋渡ししていったらよいのかが明らかに語られることは少ないように思います。

ここで、「ディヴォーション的な読み方」というのは、福音派の解釈学のクラスで教えられる「適用」とは異なることに注意しなければなりません。解釈学のクラスでは、まずオリジナルの歴史的・文化的コンテクストにおいて聖書が「意味したこと」を「釈義」し、それに基づいて、同じテキストが現代の私たちに対して何を「意味している」かを明らかにします。これが解釈学における「適用」です。

しかし、大多数のクリスチャンが日々のディヴォーションで聖書を読む時には、該当箇所の歴史的・文法的釈義に基づいて聖書記者の意図した意味を確定し、それを現代の歴史的・文化的コンテクストに適用するといった手続きを踏んだ上で、自分に対する個人的な神の語りかけを受け取っているわけではありません。人々はもっと直接的に聖書のテキストを今の自分に対する「神のことば」として読んでいるのです。福音派の一部の教会で語られる、救いや召命の「みことばが与えられる(示される)」という概念もこれに近いと言えるでしょう。

そのようにして受け取られる聖書の「意味」は、歴史的・文法的釈義によって明らかにされる「オリジナルの意味」とは必ずしも一致しません。では、そのような読みは主観的な読み込み(eisegesis)として排除されるべきなのでしょうか?ところが、多くの場合、新約記者たちの聖書の読み方は、神学者による歴史的・文法的釈義よりも、大多数のクリスチャンが日常的に行っているディヴォーション的な読み方に近いように思えるのです。

1939年6月26日、当時ユニオン神学校の招きでアメリカに来ていたドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーが聖書を読んでいた時、彼は2テモテ4章21節に目をとめました。彼はそこに記されていた、「冬になる前に、急いできてほしい。」という言葉を自分に直接適用して、危機的状況にある祖国ドイツに帰る最終的決断を下したのでした。彼は日記にこう書いています。

『冬になる前に、急いできてほしい』―これをもし僕が自分に言われたことだとしても、それは聖書の誤用ではない。神がそのために恵みを賜わりさえすれば。

ボンヘッファーの聖書解釈は、今日の福音主義の釈義家からすれば、まったく主観的な読み込みにすぎません。彼は学問的な聖書釈義の訓練を受けた第一級の神学者でした。しかし、彼は祖国と自分の命運を左右する危機的な状況にあって、この聖句が自分に直接語りかけてくるのを聞いたのです。米国の新約聖書学者リチャード・ヘイズRichard Haysはこの時のボンヘッファーについて、このような個人的・直接的な聖書の適用は、パウロによる聖書の扱いに似ていると述べています(Echoes of Scripture in the Letters of Paul)。

新約時代の使徒たちは、現代の福音主義教会のように、学問的聖書解釈とディヴォーション的聖書解釈を区別することをしていません。今日の福音主義教会もまた、このような釈義の分裂状態を解消する方法を模索していく必要があると思われるのです。では、具体的に私たちはどのように聖書を読んでいくべきなのでしょうか?

(続く)

使徒たちは聖書をどう読んだか(8)

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前回の結論は、新約記者たちの聖書解釈法には、旧約記者の意図した意味を超える「より完全な意味」を読み取る側面があった、というものでした。

先に進む前に、二つほど確認しておきたいことがあります。

まず、私は歴史的・文法的方法の有効性を否定しているのではありません。私自身今でもそれを用いて釈義していますし、自分の学生にも教えています。ただ、このシリーズで訴えたいのは、歴史的・文法的釈義は聖書釈義の唯一の妥当な方法ではない、ということです。

また、私は新約聖書における旧約引用のすべてが引用元の意図された意味を超えてなされていると言っているわけではありません。むしろ新約聖書における旧約引用は、引用元の文脈における意図された意味を充分にくみ取ってなされている場合が多いです。にもかかわらず、歴史的・文法的方法ではとらえきれない事例もあり、そのような「逸脱」的な事例を歴史的・文法的方法であくまでも説明しようとするアプローチに無理があるのではないか、と主張しているのです。

つまり、私がこのシリーズで目指しているのは、歴史的・文法的方法そのものの否定ではなく、それへの過度の依存を戒め、歴史的・文法的方法を包含しつつも、より自由で豊かな聖書の読み方の可能性を探ることであり、新約聖書はまさにそのような聖書解釈のモデルを提供しているのではないかと考えています。

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さて、以上見てきたように、新約記者たちの聖書解釈法は、現代福音主義の標準的釈義方法である、歴史的・文法的方法の枠に収まるものではないとすると、現代の私たちはどのように聖書を読むべきでしょうか?基本的には3つのアプローチが考えられます:

  1. 一見どのように奇妙に見えようと、使徒たちはやはり現代の歴史的・文法的方法に相当する解釈法を用いていたことを示そうとするもの。
  2. 使徒たちの聖書解釈は歴史的・文法的方法に縛られていなかったことを認めるが、そのような解釈は霊感を受けた聖書記者にのみ許された特権であって、現代の私たちは彼らの方法に倣うことは許されないとするもの。
  3. 使徒たちの聖書解釈は歴史的・文法的方法に縛られていなかったことを認め、なおかつ現代の私たちも彼らの解釈学的態度に倣うことができる、つまり新約聖書は解釈学的方法論においても規範的である、とするもの。

従来の福音派の聖書学では、1.および2.のアプローチが多かったように思います。どちらの場合も、福音主義釈義の規範的方法論としての歴史的・文法的方法の地位は保証されることになります。しかし、これまで見てきたように、1.のアプローチには無理があります。

2.のアプローチはどうでしょうか。福音派の聖書学者の中には、使徒たちが歴史的・文法的釈義を超えた解釈法を用いていることを認めながらも、そのような方法は霊感を受けた聖書記者たちにのみ許された特権であって、今日の私たちがそのような方法を模倣することは許されないと論じる人々がいます。 しかし、このような議論は「使徒たちの解釈法が本来は正しい釈義でないにもかかわらず、霊感を受けた使徒であるが故に許された」という含みがあるため、受け入れられません。使徒たちが霊感を受けていたのなら、なおさら正しい釈義方法を用いていたと考えるべきではないでしょうか。この問題に霊感が関わってくるのは、旧約テキストの「より完全な意味」を使徒たちは霊感によって正確に把握したという点においてであって、使徒たちの「誤った」解釈法が聖霊によってお墨付きを得たということではないのです。

私は現代福音主義の釈義は3.の可能性も真剣に考察すべきではないかと思います。つまり、新約聖書に記録されている使徒たちの解釈法は、その釈義の結果のみならず、方法論としても私たちの規範となり得るのではないでしょうか。

もちろん、これは現代の私たちの解釈が使徒たちと同レベルの正確さを持っているということではありません。霊感を受けていない私たちの解釈は使徒たちのそれとは違い、誤りを犯す可能性は常にあります。しかし、一般的原則としては使徒たちの解釈法に倣うことができるし、またそうすべきではないかと思うのです。聖書自体に見られる釈義の方法が現代福音主義の標準的な釈義の方法と異なるとしたら、私たちが自らの方法論の有効性を(少なくとも部分的には)疑い、使徒たちの釈義方法から学ぶことによって、自らの解釈学を修正していくことこそ、本来の福音主義(聖書信仰)の精神に沿ったものではないでしょうか。

ここで誤解を避けるために付け加えますと、私は使徒たちの具体的釈義方法(ユダヤ的解釈法など)を杓子定規に模倣すべきだと言っているのではありません。使徒たちが採用したユダヤ的解釈法は彼らが生きた歴史的文化的コンテクストに特有の要素を多く含んでおり、彼らと異なる歴史的文化的コンテクストに生きる私たちが、彼らの解釈法を形式だけ真似たとしても、あまり意味はないと思います。むしろ私たちが学ぶべきなのは、時には聖書記者の意図した意味を超えて語りかける神のことばに耳を傾けようとする使徒たちの解釈学的態度なのです。

次回は、このように釈義の方法論を拡張することから得られる利点について考えたいと思います。

(続く)