グレッグ・ボイド・インタビュー(7)

その1 その2 その3 その4 その5 その6

7回にわたって連載してきたグレッグ・ボイド博士のインタビューも今回が最終回です。今回も前回に引き続き、先生の最新刊、The Crucifixion of the Warrior God (十字架につけられた戦いの神)についてお聞きします。

*     *     *

――旧約聖書において神を暴力的な存在として描いているように見えるテクストは、どういう意味で霊感された権威ある神のことばだと言えるのでしょうか? 続きを読む

グレッグ・ボイド・インタビュー(6)

その1 その2 その3 その4 その5

今回からはボイド博士の最新刊についてお話を伺います。十字架の上で人類のためにいのちを捨てた愛の神イエス・キリストを礼拝するクリスチャンにとって、旧約聖書における、一見暴力に満ちた神の描写は大きな問題を引き起こします。このことについて、どう考えたらよいのでしょうか?

CrucifixionCover_FINALvol1

*     *     *

――今度出版される先生の著書、The Crucifixion of the Warrior God (十字架につけられた戦いの神)について教えてください。

GB:現在(注:2016年12月19日)、ゲラ刷りの校正に追われているところです。今度の本は2巻本で合計およそ1,500ページになります。当初はこれほどの長さにする計画ではなかったのですが、だんだんと内容が発展してこうなってしまいました。私が言おうとしていることは――すくなくとも現代の聞き手にとっては――目新しいことなので、細かい部分まで気を配って準備をする必要がありました。ですから私はとにかく徹底的に調べ尽くしたのです。けれどもそれは楽しい体験でした。

最初に私が論じたのは、私たちが神について考えることがらすべての中心に、イエスを位置づけなければならないということです。このことを2章にわたって論じています。さらに2章を費やして、イエスのアイデンティティ、生涯、働きのすべての中心にあるのは十字架だということを論じました。十字架はイエスに関するあらゆるものの中心的主題なのです。そして十字架が啓示する神は、自己犠牲的で、非暴力的で、敵をも受け入れるような神だということです。神は敵を殺そうとされるお方ではなく、むしろ敵のためにいのちを捨てられるお方です。 続きを読む

確かさという名の偶像(24)

(シリーズ過去記事 第1部          10 第2部 11 12 13 14 15 第3部 16 17 18 19 20 21 22 23

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回も前回に続いて第12章「十字架の約束」を見ていきます。

私たちのアイデンティティ

ボイドによると、十字架において神が与えてくださる第二の約束は、私たちについてのことばです。これは前回紹介した、神ご自身についてのことばにすでに暗示されているものです。それは、私たちの存在そのものが、神によって愛されているということです。

ボイドによると、アダムとエバの堕落以来、人間は神と親密な関係をもって、そこからいのちを得ていくためには、あるがままの存在でいるだけでは不十分であり、何か特定の行為を行ったり、特定のものを獲得しなければならないと思い込むようになりました。私たちのアイデンティティ・価値・存在意義・安心は私たちが何を持っているか、何を達成できるか等々によって定義されるようになってしまったのです。ボイドの表現を借りれば、人間はhuman beingからhuman doingになってしまったのです。これは前回見た、誤った神観に基づいて起こる神からの疎外の主要な現れです。

ボイドは、十字架上のイエスの姿は神がどのようなお方であるかを示しているだけでなく、私たち自身がどのような存在であるかを表していると言います。なぜなら、贖われるものの価値は、そのために支払われる代価によって計られるからです。それでは、神が私たちをキリストの花嫁とするために支払ってくださった代価とは何でしょうか?キリストが十字架にかかられたとき、彼は私たちの罪そのものとなり(2コリント5章21節)、のろいとなってくださいました(ガラテヤ3章13節)。罪やのろいは聖なる神のご性質とまったく相反するものです。つまり、神は私たちへの無限の愛のゆえに、ご自分とは正反対の存在になることさえ辞さなかったのです。ボイドは、これは神が払うことのできる最高の犠牲であると言います。そしてそのことは、私たちが神の目から見て最高に価値のある存在であることを示しているのです。つまり、神はいま実際に私たちをこれ以上ないほどの偉大な愛を持って愛してくださっているということになります。私たちは今すでに、神の目にはこの上なく価値ある存在なのです。神からさらに愛されるために、何かをしたり何かを獲得したりする必要はまったくありません。

そして、この最高の愛は、三位一体の神が永遠に持っておられる愛と同じであるとボイドは言います。十字架で表現されているのは、私たちにそのような愛の交わりに加わるようにとの招きなのです(ヨハネ17章26節、エペソ1章4-6節、2ペテロ1章4節、1ヨハネ3章16節、4章8節参照)。

そして、このような揺るぐことのない完全な神の愛は、まったく無条件の愛であることをボイドは強調します。そしてこのことは、私たちのアイデンティティ形成にとって大変重要です。このような無条件の愛で愛されているということをアイデンティティの中核に持っている人は、人生の道中で何が起ころうとも、いのちにあふれた揺るがされない歩みをすることができるとボイドは言います。なぜならその人は、自分が何を持っているかいないか、あるいは何をするかしないかによって、自分に注がれている神の愛が減じることはけっしてないということを知っているからです。

Velazquez640px-Cristo_crucificado

私たちの将来

十字架で与えられる三番目の約束は、私たちの将来に関することばです。これは第一(神についてのことば)と第二(私たちについてのことば)の約束の中に暗示されているものです。

ボイドによると、ここで決定的に重要なのは、十字架を復活と密接に結びついたものとしてとらえることです。十字架と復活はコインの裏表のような関係にあるのです。少し長いですが、彼自身のことばを引用します。

私たちが十字架を復活と切り離して考えるなら、十字架につけられたキリストは1世紀のローマ人によって苦しめられ処刑された何千人もの犯罪者の一人に過ぎないことになる。そして、もし復活を十字架と密接に結びついたものとして考えることをやめてしまうなら、それはいともたやすく勝利主義的な超自然的力の爆発となってしまう。それは敵を愛する自己犠牲的な十字架の性質を欠いているだけでなく、それを覆してしまうのである。

実際、西洋の神学の中には、十字架に至るイエスの生涯に反映されているような、へりくだった自己犠牲的なアプローチを神が取られたのは、人間の罪のあがないをするためにはイエスが十字架にかかる必要があったからだ、という思想の系譜がある。このまちがった考え方によると、ひとたびこのことがなしとげられるなら、神は再びその圧倒的な力を容赦なくふるってその意志を地上で達成し、悪に勝利することができる。これが復活の意味するところだ、というのである。このような考え方に基づいて、神学者たちはクリスチャンの支配者や兵士やその他の人々に、神はすべてのクリスチャンが敵を愛する非暴力的なイエスの模範と教えに従うことを意図してはおられない、と請け合うことができたのである。不幸なことに、クリスチャンがイエスの教えと模範を脇に置いて、異端者を拷問し、敵を虐殺し、国々を征服する必要を感じる時はいつも、この考え方はたいへん好都合であった。

誰も口に出して認めようとはしてこなかったものの、このようなものの見方が示唆していることは、イエスの謙遜なしもべとしての生き方や、敵を愛し祝福せよという教え、そして何よりもその自己犠牲的な死は、神の真のご性質をすのではなく、おおい隠すものだということなのである!もし私たちが正直に認めるなら、それが暗示しているのは、神がキリストにおいてへりくだった姿勢を取られたのは、ただそのようなふりをしていただけだと言うことになる。神の真のご性質は、彼が十字架につけられたキリストではなく宇宙の皇帝のように振る舞うとき、すなわちご自分の計画を完遂し、その目的を達成するために十字架を担うのではなく、その全能の力を働かせる時に表される、ということになってしまうのである。(p. 242-243)

しかし、このような考え方は、すでに見たような、神の究極の自己啓示は十字架につけられたイエス・キリストであるということと真っ向から矛盾します。そこでボイドは十字架と復活をひとつながりのできごとの両側面ととらえることを提案し、このひとまとまりのできごとを「十字架=復活のできごとcross-resurrection event」と呼びます。それは次のことを意味しています。

復活は神の子が罪と死と地獄の力に勝利したということだけでなく、御子が悪に打ち勝った方法が、神ご自身が悪に打ち勝つ方法でもあることを裏づける。したがってこのことは、謙遜なしもべとしてのイエスの生き方と、敵を愛し祝福せよというその教え、そして特に彼の自己犠牲的な死が、神の真のまた永遠のご性質をおおい隠すのではなく明らかにするということを裏づけるのである。(p.244)

このことはさらに、新約聖書ではイエスを信じてその復活のいのちに与った者たちも、イエスがなさったのと同じ方法で悪に応答するように命じられていることからも裏づけられます(ローマ12章17-21節など)。パウロはまたキリストとその福音のために苦しむ生き方を教えていますが(2コリント1章5節、4章10節、2テモテ1章8節など)、それはまさに復活の力によって生きる生き方にほかならないとボイドは論じます。

ただし、私たちがキリストとともに耐え忍ばなければならない「苦しみ」とは、愛する者を失ったり、不治の病にかかったりというような、この世における「通常の苦しみ」のことではないとボイドは言います。もちろんそのような種類の苦しみも神の御手に委ねて行く必要があり、神は私たちとともに働いて苦しみから善を生み出すことがおできになります。その意味でそういった種類の苦しみが私たちを成長させることも確かにあります。けれども、私たちがキリストの似姿に変えられていく過程でどうしても通らなければならない苦しみ、新約聖書が語っているような「キリストとともに苦しむ」種類の苦しみとは、キリスト者に特有の苦しみ、キリストに従うがゆえに起こってくる種類の苦しみだとボイドは言います。そこには日々古い自我を十字架につける苦しみから始まり、クリスチャンであるがゆえに周囲の人々から拒絶されたり疎外されたりする苦しみを含み、人によっては明確な迫害、拷問、死などに直面することもあります。これらはみな「キリストとともに受ける苦しみ」なのです。キリストの十字架と復活が私たちに約束しているのは、このようにキリストと苦しみをともにしていくなら、私たちは最終的には彼とともに勝利し、統べ治めるようになるということです。それと同時に、十字架と復活は、イエスのやり方で悪に立ち向かうことこそが最終的には勝利するということを示しているのです。

そして、十字架において与えられた将来の約束は、花婿であるキリストが必ず帰ってくるということも意味しています。その時私たちの婚約期間は終わり、私たちは花婿イエスと婚宴の宴に連なることができます(黙示録19章9節)。そして同様に、私たちは神が最後にはかならず私たち一人ひとりをキリストのご性質を反映する存在に作りかえてくださることを確信することができます。十字架において表された神の真実と愛に基づいて、私たちは神が必ずこのフィナーレまで導いてくださることを確信することができるとボイドは言います。その時、まことのいのちに対する私たちの飢え渇きは完全にいやされるのです。

(続く)

復活のキリストにはなぜ傷痕があるのか

現在グレッグ・ボイドのBenefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介記事を連載していますが、そこでボイドは、十字架上のイエスにおいて啓示された神の姿は、旧約聖書で啓示された神の姿よりも優先するものであり、同時にそれらを解釈するためのレンズであると論じています(第18回第19回)。それに関連してこの記事では、十字架に先行する旧約聖書に描かれている神のイメージだけでなく、その後に来る終末における神観も、十字架のレンズを通して見なければならないということを論じていきたいと思います。

19  その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 20  そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。 (中略) 25  ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。 26  八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 27  それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。(ヨハネ20章19-27節)

新約聖書に収められている復活顕現記事の中で、ヨハネの福音書だけが、よみがえったイエスのからだに十字架の傷痕が残っていることを記しています。

The_Incredulity_of_Saint_Thomas_by_Caravaggioカラヴァッジョ「聖トマスの懐疑」

ヨハネの黙示録では、復活のキリストが「小羊」として繰り返し登場しますが、このキリストは「ほふられたと見える」小羊として描かれています。

わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。(黙示録5章6節)

なぜこの小羊がヨハネにはほふられたと見えたのでしょうか?おそらくこの小羊にはほふらられた時につけられた傷痕が残っていたのかもしれません。

Retable_de_l'Agneau_mystique_(10)ファン・エイク兄弟「神秘の子羊の礼拝」

有名な讃美歌Crown Him with Many Crowns(聖歌179番「おおくのかむり」)の歌詞にも、次のような一節があります。

Crown Him the Lord of love, behold His hands and side,
Those wounds, yet visible above, in beauty glorified.

愛の主に冠をささげよ。彼の手とわきを見よ。
これらの傷は今でも天上で、栄光に輝く麗しさの中で見ることができる。

十字架にかかって死なれたイエスは、三日後に肉体をもってよみがえりました。新約聖書によると、復活したイエスのからだは、霊ではなく物質的な肉体であり、しかも通常の人間の肉体とは異なる性質を持ったものでした。しかし、そのような栄光のからだをもって復活したキリストには、十字架の傷跡が残っていた―この非常に印象的なイメージは、十字架と復活の関係をみごとに表していると思います。一言でいえば、復活は十字架の否定ではなく肯定であり、十字架を通してでなければ理解できないということです。

近年、聖書やキリスト教信仰における復活の重要性が主張されてきています。これまでの「十字架偏重」の神学を見直し、復活の重要性を再評価しなければならない、というのです。私はそのような動きは心から歓迎しますし、確かに復活の教理は大いに強調されなければならないと思っています。しかし、問題はその強調すべき復活をどのように理解するかということです。それは一歩間違えると十字架の中心性を否定するような形の安易な勝利主義的神学に導かれれるおそれがあるのではないかと、私は危惧しています。

歴史における神の救済のドラマは、イエスの十字架によって完結したわけではもちろんありません。三日後にイエスは復活し、それは世の終わりのすべての死者の復活と新天新地の到来に導いていくものでした。ですから、確かに十字架のみを強調する神学は不完全のそしりを免れません。しかし、ここで注意しなければならないのは、十字架は終末にいたる神の物語の単なる通過点ではないということです。それどころか、十字架のできごとは、それ以後の救済史の展開を理解する上でも決定的に重要な鍵を提供しているのです。

たとえば、新約聖書が終末に再臨するイエスをどのように描いているか、それを私たちがどのように解釈すべきかを考えてみましょう。特にヨハネの黙示録は、キリストを悪を滅ぼす戦士として、怒りと裁きの神として描いています(19章11-16節)。多くの人々はこのイメージを文字通り受け取り、再臨のキリストを通して啓示される神の本質は怒りと裁きの神であると考えています。しかし、このような解釈は、黙示録自体においてキリストは同時に一貫して「ほふられた小羊」として描かれていることとも、福音書等でイエスが自己犠牲的な愛の神として啓示されていることとも矛盾します。ですから、私たちは黙示録における暴力的なイエスの描写を文字通り解釈するのではなく、ヨハネが黙示文学における戦う神の伝統的表象を逆用していると考えなければならないのです(このことについては、「黙示録における『福音』」のシリーズを参照してください)。しかし、その時私たちは、黙示録にある戦士としてのイエスのイメージを、十字架につけられた愛のイエスの姿をレンズとして見ていることになります。つまり、十字架上のイエスにおいて啓示された神の姿は、それに先行する旧約聖書の神啓示に優先するだけでなく、それ以後の新約聖書におけるその他の神啓示にも優先するということになります。その意味で、十字架は文字通り全聖書の中心であり、解釈学的転回点なのです。

聖書の終末論のポイントは神の国、つまり神の王なる支配が天だけでなく地にも到来し、すべてをおおいつくす、ということです。復活も新天新地もすべてはこの観点から見ていく必要があります。しかし、問題は、それがどのような種類の支配で、どのように行使されるのか、ということです。十字架が全聖書の中心であるというのは、この終末における神の王的支配もまた、十字架のレンズを通して理解しなければならないことを示しています。つまりそれは黙示録の「バビロン=ローマ」に象徴されているような、力による上からの支配ではなく、十字架のイエスが身をもって示されたような、自己犠牲的な愛によって他者に仕える(マルコ10:42-45、ルカ22:24-30)、そういう「支配」なのです。(この点については、「御国を来たらせたまえ(補)」をお読みください)。そういう意味で、新約聖書の終末論は「十字架形の終末論 cruciform eschatology」と言っても良いかも知れません。

終末における復活や神の国の完成を十字架のレンズを通して見るか見ないかということは、クリスチャン信仰のありかたそのものを大きく左右する、決定的に重要なことであると思います。この点を見誤ってしまうと、復活は単なる「十字架の死や弱さという否定的な効果のキャンセル」という理解になってしまいます。そうすると、死からよみがえったイエスは「本来そうであった」力と栄光に満ちた神として、敵対する者に復讐するために地上に戻ってくる存在として理解されることになります。つまり、このような勝利主義的な理解においては、復活は十字架において示された愛なる神の本質を否定あるいは少なくとも限定するものとしてとらえられてしまいます。しかし復活は十字架の否定でも限定でもありません。復活は十字架を通して啓示された愛なる神の本質を確証する、神の「しかり」なのです。復活のイエスが十字架の傷跡を持ち続けておられるのは、そのことを意味しているのだと思います。

聖書解釈や神学において、イエス・キリストを中心に考える「キリスト中心的 Christocentric」アプローチが語られることがあります。それは確かに重要な考え方であると思いますが、そこで中心に置かれる「キリスト」がどのようにイメージされるか―十字架上の愛のイエスか、それとも力に満ちた裁きの神としての勝利主義的イエスか―によって、その内容は大きく変わってきます。ですから、私は自分の神学を表現する時には「キリスト中心的」という表現より、「十字架中心的 crucicentric」という表現を用いたいと思っています。パウロが「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(1コリント2章2節)と語っている通りです。

十字架は復活がなければ完結しません。けれども同時に、復活は十字架の光に照らしてはじめて本当に理解できます。復活のイエスのからだに残された十字架の傷跡は、そのことを私たちにいつも思い起こさせてくれるのだと思います。

確かさという名の偶像(19)

(シリーズ過去記事 第1部          10 第2部 11 12 13 14 15 第3部 16 17 18

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回も前回に引き続き、第9章「聖書の中心」を取り上げます。

暴力的な神の描写

前回見たように、ボイドは聖書の中心はイエス・キリストであり、十字架上のイエスを通して啓示された神観は、それに先行するすべての啓示に優先し、それらは十字架のイエスというレンズを通して解釈されるべきだ、と主張します。このことが具体的に問題となるのは、旧約聖書に描かれている暴力的な神の姿をどのように解釈したらよいのか、という難問を考える時です。たとえば神がモーセを通してイスラエルに、カナンの先住民の「聖絶」を命じているような箇所です(申命記7章1-2節)。これらの描写は、イエスにおいて啓示された愛の神とは矛盾するように思えます。

bone-664596_1920

ボイドは旧約聖書も霊感された神のことばであると信じていますので、これらの箇所をただ排除することはしません。また、しばしば弁証論的な文脈で論じられるように、これらの箇所で描写されているできごとは本当はそれほどひどいものではなかったという解釈も取りません。また、巧妙な釈義によって「旧約記者たちが意図したのはそのような暴力的な意味ではなかったのだ」と論じることもしません。そうではなく、ボイドはこれらの暴力的な記述を十字架のレンズを通して解釈する時に、旧約記者たちが意図したオリジナルの意味を超えて、さらに深い意味を読み取っていかなければならないと主張します。そしてボイドは、これらの暴力的な記述が十字架のキリストとただ両立可能だということを示すだけでは不十分だといいます。旧約聖書が霊感された神のことばであり、(前回見たように)聖書霊感の目的がキリストを指し示すことにあるとすれば、これらの暴力的な神の描写がどのようにしてキリストを指し示すことができるのか、を考えなければならないというのです。

ボイドのアプローチは基本的に次のようなものです。彼はこの問題は、キリストが私たちのために罪となり(2コリント5章21節)、のろいとなられた(ガラテヤ3章13節)ことによって、実際には罪のないお方であったにもかかわらず、罪人の姿を取られたことと同様であるといいます:

十字架によって神が本当はどのようなお方であるかが示されたという意識をもって聖書の暴力的描写を読むとき、私たちは神が暴力的に描かれている際その舞台裏で何が起こっているかを認識し始める、と私は主張する。要するに、神は身をかがめて、ある意味で、ご自身が働きかけておられる心のかたくなな民の罪とのろいになられたということだ。それによって神は、実際にはそのようなお方ではないにもかかわらず、暴力を行い、命じる者の姿を取られたのである。(p. 190)

つまり、神が旧約聖書に暴力的に描かれているのは、神の本質が暴力的であることを示しているのではなく、あえて身を低くして民の暴力的な罪深い性質を反映するような(神ご自身の本質とは相容れない)姿で彼らに現れたのだ、というのです。そしてこのようなイスラエルの神の姿は、やがてカルバリーの丘で罪人として処刑されるイエスの姿をはるかに指し示しているのです。

ボイドは、旧約聖書における暴力的な神の描写を私たちがどのように解釈するにせよ、最も大切なことは、十字架上のキリストに表されている、非暴力的な愛の神の姿が神の本当の姿であることに信頼を置くことだ、といいます。さもないと、イエスが表しているのは本当の神の一部に過ぎず、十字架の背後には無慈悲で暴力的な神のもう一つの顔が隠されているということになってしまうからです。

lithuania-682664_1280

旧約聖書における暴力的な神の描写を、十字架でいのちを捨てた愛の神イエスを信じる者としてどのように扱ったらよいのか?というのは古来クリスチャンを悩ませてきた問題です。そしてこれはリチャード・ドーキンスなどの無神論者がキリスト教を批判する際にとりあげる定番の主題でもあります。この問題については、大きく分けて二つの対応があるように思います。

一つは、旧約聖書に描かれている神はキリスト教の神とは相容れないものだとして排除する立場です。これは2世紀のマルキオン以来現代にいたるまで根強くある考え方で、この立場の人々は旧約聖書自体をキリスト教には不要なものとして排除することもあります。「旧約聖書の神は怒りと裁きの神であるが、新約聖書の神は愛とゆるしの神である」などと言われることもあります。けれども、このような立場は、新約聖書が旧約聖書との連続性をはっきりと強調している点、イエスや使徒たちが旧約聖書に啓示されているイスラエルの神を唯一のまことの神としていたという点からして説得力を持ちません。

おそらく今日のキリスト教会で広く受け入れられているのは、「神は確かに愛の神であるけれども、同時に聖い神、義なる神、罪を裁かれる神でもある。そしてそのような神の姿は旧約聖書の一見暴力的な描写に表されている。聖書にはどちらの側面も書かれているので、私たちはこの両面を受け入れなければならない。」という立場です。これは確かに、聖書に含まれているさまざまな神の描写をすべて同じ重要性を持つものとして受け入れるなら、必然的に導かれる結論です。しかし、このような立場は前回見たような問題を含んでいます。それは聖書のすべての部分が同じ重要性を持つという、平板で機械的な聖書観に基づいているだけでなく、このような立場から導かれる神観は互いに対立するイメージの混合体となり、実際に人がこの神といのちにあふれる人格的関係を持つことを困難にします。

さらにこの立場にはもう一つの大きな難点があります。もし聖書に描かれた神の本質が愛の神であると同時に暴力的な裁きの神でもあるなら、現在でも神はその両面を持っているはずです。だとすると、今日でも神は「聖絶」を命じられる可能性はあるのでしょうか?これは世界各地で宗教テロが多発する今日、非常に切実な問題であると思います。どのような宗教であれ、その聖典に記された神の描写が暴力的なものであるなら、それが神の本質にかかわるものかどうかによって、その神を信じる者の生き方は大きく左右されてくるはずだからです。

今回ご紹介したボイドのアプローチにすべての人が同意するわけではないと思いますが、上で述べた二つの立場の中間を行く「第三の道」の一つとして興味深い提案ではないかと思います。この問題は非常に難しく、私も個人的に結論が出ているわけではありませんが、ボイドの議論からはいろいろなことを学び、考えさせられています。ちなみに、今回取り上げた問題について、ボイドは近く刊行予定の大著The Crucifixion of the Warrior God(『十字架につけられた闘いの神』)でさらに詳しく論じているとのことです。

ところで、聖書における暴力的な神描写は旧約聖書だけの問題ではありません。新約聖書でも、ヨハネの黙示録などでは、再臨のイエスが一見非常に暴力的な裁きの神として描かれています。このことは、これまで見てきたボイドの議論を無にしてしまうのでしょうか?そうではありません。この点については稿を改めて論じたいと思います。

(続く)

確かさという名の偶像(7)

(シリーズ過去記事      

今回もグレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)第2章「感情のとりこ」の続きを見ていきます。第2章は今回で最後です。

傲慢と偽善

ボイドによると、確実性追求型信仰のもう一つの問題点は、それがえてして偽善的になってしまうことです。

クリスチャンも含め多くの宗教の熱心な信者は、自分たち以外の宗教を信じる人々が、彼らはもしかしたら間違っているかも知れないという可能性を考慮しないと言って、それらの人々を批判します。しかし、確実性追求型の信仰は、まさにそのような傲慢な態度を生みやすいと言います。ボイドはこのようなダブル・スタンダードな態度はたいへん偽善的であると言います。彼らが他人に要求する基準を、自分たち自身にあてはめることを拒絶しているからです。

ボイドは、自分自身の信仰に対して疑問を持つことは、クリスチャンにとってもノンクリスチャンにとっても良いことだと言います。これは、いつでもすべてを疑いながら生きていくということではありません。しかし、クリスチャンもノンクリスチャンも、自分たちの信念が間違っているかも知れないという可能性を考慮して、自分の持っている信念を時々批判的に吟味してみることは有益であると言います。

ところが、確実性追求型の信仰者はそのような自己吟味ということができません。既に述べたように、自分の確信に浸りきって生きることは心地よく、自分は間違っているかもしれないという疑いを持つことは辛いことです。しかし、誰であっても、自分が正しいという確信を持つことが楽しいからと言って、自分だけが正しくて他のすべての人が間違っていると思い込むことは、罪とは言わないまでも傲慢なことです。ボイドは「吟味を受けつけない信仰は信じるに値しない信仰である。」と言います(p. 47)。

危険な宗教

ground-zero-63035_1280

ボイドによると、過激な宗教テロリストの例からも明らかなように、キリスト教も含めて、疑いを抑圧し、確実性の感覚を持つことを人々に強いる宗教は潜在的に危険な宗教なのです。ボイドは、歴史を通じて行われてきた宗教対立にもとづく流血事件の大多数は、人々が確実性のもつ快楽に代えて疑いの持つ苦痛を受け入れることができさえすれば、避けられたかも知れないと言います。なぜなら、神が自分たちの味方であるという確信こそが、人々をして他の人間を殺し、自らも殺されるリスクを負うことを可能にするからです。

このような洞察はボイドだけのものではありません。たとえばボブ・ディランは名曲「神が味方(With God on Our Side)」の中で次のように歌っています。

And you never ask questions
When God’s on your side
神様が味方してくださるときにゃ
質問なんぞしないもんさ

多くのクリスチャンは「キリスト教だけは真理なのだから、疑いをしりぞけ、確実性を追求することが許される。」と考えます。しかし、他宗教の信仰者も自分の宗教について同じことを考えているとボイドは指摘します。そして、もしある宗教が本当に真理であるなら、その真理はそれを信じる者が確信を持つ度合いによって証明されるのではなく、証拠自体がそれを証明するはずだと言います。

真理の追求?

ボイドの最後の論点は非常に逆説的です。彼は、自分の信仰内容が真理であることに確信を持とうと努める人々は、実際にはその信仰内容が真理であるかどうかには関心がないというのです。これはどういう意味でしょうか?

あることがらが真理であるかどうかを判定する理性的な方法は、それが真理であるという主張を裏付ける証拠や議論がどれほど強力であるかどうか、を考察することです。聖霊による促しや他者の証しはこの理性的方法を補うものであって、それに取って代わるものではありません。私たちは日常的にこのような方法を使って、さまざまな主張(たとえば商品の広告文句)が真理であるかどうかを確かめているのです。

しかし、ボイドによると、確実性追求型信仰者はまさにこれとは反対のことをしています。もし私たちの信じている内容が私たちの永遠の運命を左右するのなら、あらゆる方法を使ってその信仰内容の真理性を検証すべきです。しかし、確実性追求型の信仰モデルはその反対に、証拠を理性的に吟味することを拒否し、かえってそれが真理であることを何が何でも信じ込もうと努力することを求めるのです。このことからボイドは、このようなタイプの信仰者は、真理を信じることよりはむしろ、自分たちがすでに真理を信じていると確信し、自分たちが間違っているかもしれないという苦痛を避けることの方に関心があると結論づけます。

確かなことは、人は自分の信じていることがらが真理であるかどうかに関心を持ちながら、同時に自分がすでに信じていることがらが真理だと確信しようと努めることはできないということである。真理を信じるという目標と、自分がすでに真理を信じているという確信を持つという目標とは、互いに排除しあうものなのである。(p. 51)

このことからボイドは、確実性を追求する営みは利己的な追究であるといいます。確実性追求型信仰者は自分たちが真理を追求していると主張しますが、実際のところ彼らが追い求めているのは、確実性の感覚にともなう幸福感を味わい、同時に疑いにともなう苦痛を避けることだからです。

ボイドはこのようなかたちで信仰を追求する人々が真摯な動機を持っていることを疑ってはいません。しかし同時にボイドは、私たち人間がどれほど小さく無知で堕落した存在であり、この曖昧な世界において最善を尽くして真理を知ろうと努力している存在にすぎないかということを正直に認めるべきだと言います。私たちは自分の信じていることがらに対する絶えざる挑戦や反論に直面しながら生きており、その過程でさまざまな信仰内容を修正したり放棄したりすることが起こってくるのは当然なのです。

まとめ

これまでボイドは、確実性追求型信仰の問題点を列挙してきました。2章を読み終えるにあたり、これまでのポイントを整理してみましょう。

1.確実性追求型信仰は、非理性的である。
2.確実性追求型信仰が前提とする神観は、イエス・キリストにおいて啓示された神のイメージとそぐわない。
3.確実性追求型信仰は魔術的である。
4.確実性追求型信仰は硬直した信仰的態度を生み出す。
5.確実性追求型信仰は学ぶことに対する恐れを生み出す。
6.確実性追求型信仰は偽善的傾向を生み出す。
7.確実性追求型信仰は潜在的に危険な宗教を生み出す。
8.確実性追求型信仰は真理の追求には関心がない。

次の第3章でボイドは、彼によれば確実性追求型信仰の持つ最大の問題点について論じていきます。

(続く)

御国を来たらせたまえ(補)

(本シリーズの過去記事         

本シリーズは一応前回で終了のつもりだったのですが、はちこさんこと中村佐知さんのブログ「ミルトスの木かげで」上でとても重要なご質問をいただきました。これは本シリーズでこれまで述べてきたこと全体の理解に関わる問題ですので、それに応答する形で補足記事を書きたいと思います。

詳しい質問の内容はリンク先のブログ記事を見ていただくとして、このご質問の核心は、「世の終わりに神(と神の民)が『支配する』とはどういう意味なのか?」ということだと思います。

このシリーズでも繰り返し、「神の国basileia」とは神の王としての支配であり、「御国が来る」とは神が天のみならず地においても王となられて支配されることだと書いてきました。けれども、「支配」というと何か自分の意に沿わない存在を力づくで従わせるようなネガティブなイメージがあり、永遠の至福の状態というクリスチャンの希望とはどこか相容れない違和感を感じる人々もおられると思います。

この問題を考える時には、神が「王」であるとはどういうことか、王なる神が「支配」するとはどういう意味かについて、聖書的な正しい理解を持つ必要があります。その鍵になるのが次の聖書箇所です。

24  それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。  25  そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。  26  しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。」(ルカ22章24-26節)

ここでイエスは、世の中一般における「支配」の理解(「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。」)と、神の国における「支配」(「あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。」)を対比しています。つまり、神の国における「支配」とは、この世の王国のような暴力と強制によるのではなく、愛と謙遜にもとづく奉仕によるものであると言えます。そして、このような神の国における「王権」「支配」のあり方を身を持って示してくださったのがイエスご自身なのです。

「神が王である」ということは旧約聖書から一貫して見られる聖書の主張です。しかし、イエス・キリストにおいてはじめて、そのことの真の意味が明らかにされました。イエス時代のユダヤ人のメシヤ観は一様ではありませんでしたが、最も広く受け入れられていたのは、「メシヤはダビデの家系に属する王である」というものでした。来るべき救い主は、異邦人(この場合はローマ帝国)の支配を打ち破って、神の民を解放してくれるような、軍事的・政治的指導者と考えられていたのです。

さて、そのような王なるメシヤへの期待感が広がる1世紀のユダヤに登場したのがナザレのイエスでした。たとえば福音書におけるイエスのエルサレム入城の記事を見ると、群集がイエスを王として歓迎していることが伺えます(たとえばマタイ21章1-9節)。ところが、イエスはローマへの反乱を率いるどころか、逆に捕らえられてローマ人の手によって十字架刑に処されてしまいます。イエスが多くのユダヤ人が期待していたような種類の「王」でないことは明らかでした。しかし、十字架上で死なれたイエスは三日目によみがえり、弟子たちに現れてこう言われます。 「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」(マタイ28章18節)つまり、イエスは真の王であることが明らかにされたのです。

実際、マタイ福音書の受難記事で、イエスはくりかえし「王」と呼ばれています(27章11、29、37、42節)が、ここには二重のアイロニーが含まれています。つまり、人々はイエスが(本当はそうでないのに)ユダヤ人の王を自称した、ということでイエスを十字架につけたわけですが、マタイと福音書の読者には彼が本当の王であることが分かっているのです。イエスはダビデの家系に属する王なるメシヤとして、確かにイスラエルの救いをなしとげました。しかしそれは、人々が思っていたように武力を用いてローマを打倒することによってなされたのではなく、十字架の上でいのちを捨てることによってなされたのです。イエスはまさに「仕える王Servant King」ということができるでしょう。

さて、このことは冒頭のご質問にあった、終末における神の国の支配とどのように結びつくのでしょうか?多くの人々は、確かに初臨のイエスは十字架にかけられた無力な姿で来られたけれども、再臨のイエスはそれとはうって変わって力と栄光に満ちた姿で地上に到来し、この地上の権力を力で滅ぼす王であると考えています。つまり、多くの人の思い描く終末の王としてのイエスのイメージは、当のイエスがまさに批判したところの、この世の王たちの姿と何ら変わらないのです。

しかし、このような一般的イメージが間違っていることは、以前書いた黙示録についてのシリーズで論じましたので、そちらをご覧ください(黙示録における「福音」     )。再臨のキリストが悪に打ち勝たれるのは、ローマやバビロンのような暴力によってではなく、十字架に表されているような自己犠牲的な愛によるのです。そして、新天新地で神が王として永遠にすべ治めるということも、同じように考えるべきだと思います。上で引用したルカ福音書の箇所にあるように、もしイエスがこの世的な支配のあり方を否定し、弟子たちにそれとは反対の生き方を教えながら、世の終わりにイエスご自身がこの世的な支配のあり方に逆戻りするとは考えられません。やがて来るべき世界の王の姿は、十字架にかけられたイエスの姿において既にはっきりと示されているのです。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」お方です(ヘブル13章8節)。

このように考えてくると、「神の国が地上に到来する」「神がすべての王となられる」「神の民が神の支配に参加させていただく」といった、本シリーズで何度も述べてきたことがらを、この世的な王や支配のイメージで考えてはならない、ということが分かります。黙示録において世々にわたって世界を統べ治める王は、ほふられた小羊としてのキリストです。神の国における「支配」を考える時に、私たちは十字架にかけられたイエスというレンズを通して考えなければならないのです。つまり、神の国における支配とは、自己犠牲的な愛による奉仕にほかならないのです。

本シリーズで見てきたように、クリスチャンの究極的な希望は、神が王として世界のすべてを支配し、神の民もその支配に参加させていただくことです。一方、新約聖書が記しているもう一つの終末的ビジョンは、三位一体の神が永遠の昔から持っておられる愛の交わりの中に、神の民が参加することです(ヨハネ17章21-26節、1ヨハネ1章3節、4章12-16節)。以上述べてきたことから、この二つは別々のことがらではなく、同じものを指していると考えることができます。

神と神の民が世の終わりにすべてを支配する王となるということは、すべての存在が互いに愛をもって仕えあい、神の造られた素晴らしい被造物世界をいつくしみをもって管理していくということです。言い換えれば、終末において完成する「神の国」とは、三位一体の神のアガペーの愛によってすべてが覆い尽くされた世界のことなのです。