ジェームズ・フーストン師との出会い

1月末にワシントン州で奉仕があり渡米したのですが、その際ヴァンクーヴァーにいる知人を訪問するため、カナダまで足を伸ばしました。その折りに、かねてから興味のあったリージェント・カレッジを見学することができました。現地にお住いの荒木泉さんがキャンパスを案内してくださり、チャペルに出席した後、同大学教授であるジェームズ・フーストン先生のお宅に連れて行ってくださいました。 続きを読む

Equipper Conference 2016

12月27日から31日にかけてJCFNの主催でカリフォルニア州マリエータで行われたEquipper Conference 2016 (EC16)に参加して来ました。

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会場となったMurrieta Hot Springs Christian Conference Center

すでにシリーズ「ルカ文書への招待」(最終回の記事に各回へのリンクがあります)で書いてきたように、今回私は講師の一人としてお招きいただき、朝の4回の「聖書講解」の時間でルカ福音書からお話をさせていただきました。箇所とタイトルは以下の通りです。

第1回 「信じる者になること」(ルカ1章26-38節)
第2回 「弟子になること」(ルカ5章1-11節)
第3回 「隣人になること」(ルカ10章25-37節)
第4回 「証人になること」(ルカ24章44-53節)

参加者は毎朝の聖書講解の前に、小グループに分かれてIBS (Inductive Bible Study、帰納的聖書研究)と呼ばれるバイブルスタディを行いましたが、毎朝のIBSの箇所はその日の聖書講解と同じ箇所が取り上げられました(このような形でIBSと聖書講解を連動させたのは今回が初めての試みだったそうです)。このようにして、IBSで個人や小グループで読み、考え、話し合った同じ箇所について、さらに聖書講解で語られるのを聞くことで、聖書の理解がぐっと深まったということを何人もの方々から聞きました。語る側としても、会衆がとてもしっかりとこちらのメッセージを受けとめてくれているという手応えを感じて、安心してお話しすることができました。このような部分も含めて、集会全体が非常に緻密に考えられ、組み立てられていると思い感銘を受けました。 続きを読む

Global Returnees Conference 2015

このシルバーウィークに富士吉田市で開かれたGlobal Returnees Conference 2015に夫婦で参加してきました。私は分科会の講師として「福音の全体像を求めて」というタイトルでお話をさせていただき、妻はスモールグループのリーダーとして奉仕させていただきました。聖会の恵みとともに、多くの新しい出会いや懐かしい方々との再会もあり、大変充実した数日間を過ごさせていただきました。

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この集会を主催したのはJCFN(Japanese Christian Fellowship Network)という団体です。毎年海外で多くの日本人がイエス・キリストに出会ってクリスチャンになっています。実際、日本人が海外で信仰を持つ割合は、国内の数十倍であると言われます。ところが、その多くは日本に戻ってくると、様々な困難に直面します。教会探しの難しさ、家族や職場からのプレッシャー、異教的な日本文化との葛藤、周りにクリスチャンの友人がいない孤独感・・・残念なことに、海外で信仰を持った日本人の多くが、帰国後教会につながることができず、数年以内にキリスト者の交わりから姿を消していくそうです。JCFNはそのような大きな宣教的ニーズを見据え、在外日本人クリスチャンの帰国支援とフォローアップを行っておられる団体です。

実は私はJCFNについては十数年前から知っており、当時編集に携わっていたキリスト教系の雑誌でインタビュー記事を掲載したこともありました。それ以来、自分自身6年間の海外留学を経験したこともあり、ずっとその働きに関心を持ち続けてきましたが、こうして今回奉仕の機会が与えられ、実際に参加してみて、改めて帰国者ミニストリーの重要性を認識させられました。

今回のカンファレンスでは、海外から日本に帰国してくるクリスチャンたち、彼らを送り出す海外のミニストリー、そして日本で彼らを受け入れる働き、という様々な立場からの証詞や報告を聴く機会がありました。その中で、日本の教会が帰国者クリスチャンの存在を知り、彼らを受け入れる意識と体制を整えていくことの重要性を思いました。「帰国者大会」と聞くと、海外経験もなく、そのような人々に普段接する機会のないクリスチャンはまったく自分と無関係の働きのような印象を持つかもしれませんが、JCFNのような働きはそのような人々や教会にも広く知られていく必要があると思いました。

近年宣教学の中でも「ディアスポラ」(自発的・非自発的な移住・入植により、故郷を離れて移動した状態)の概念が注目されてきています。最近日本に帰国したという多くの(大多数が)若いクリスチャンたちの姿を見るにつけ、行き詰まりや閉塞感というキーワードで語られることが多い日本のキリスト教会にも大きなチャレンジと希望があることを思わされました。

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「福音」とは何か(関野祐二師ゲスト投稿 その5)

(シリーズ過去記事     

関野祐二先生による、福音についてのゲスト連載も、いよいよ最終回です。お忙しい中、ご協力くださった先生に心から感謝します。

*   *   *

留守ばかりのゲストで申し訳ありません。「『福音』とは何か」の五回目(最終回)は、筆者を取り巻く状況を踏まえた、まとめのエッセーといたしましょう。

最初に、「『福音』とは何か」を追求する過程で生まれた、筆者の「物語」を一部引用します。これは今年の一月下旬、筆者が牧師を務める地域教会の週報に掲載した拙文です。

「先日、珍しくTV番組を録画鑑賞しました。自動車エンジン開発の責任者が、いかに世界一の低燃費エンジンを実現したかの話です。ほぼ完成の域に達しているエンジンを改良し、三大自動車会社に対抗し得る製品を送り出すとなれば、普通のやり方では到底無理。部下たちが自信満々で持って来る「ここを改良して少し燃費が良くなりました」とのアイデアを一蹴し、「もっと振れ幅を大きくせよ」と号令を出します。少し改良して少しだけ理想に近づく、そんなみみっちい考え方を捨て、思い切った発想の転換と冒険をせよ、というのです。そして、従来は異常燃焼を恐れて10が常識だったシリンダー混合気の圧縮比を、11でも12でもなく15に上げてみよ、と提案します。頂点を目指し、大きく振れてから現実可能性を探るアプローチです。半信半疑で燃焼実験をしてみると、意外とうまくいく。考えて考えて考え抜いて、他社にないアイデアを絞り出し、実現していくタフさに圧倒される思いでした。それ以来、「振れ幅を大きく」とのフレーズがいつも頭の中を駆け巡っています。

閑話休題。今夜から明日にかけて、JEA(日本福音同盟)神学委員会の合宿に出席します。委員長に就任して半年、あらためて責任の重さを痛感させられているこの頃です。先週月曜日は、2016年の第6回日本伝道会議に向けた打ち合わせでした。複雑な世界情勢がますます緊迫し、重苦しい閉塞感が覆う今の日本において、教会はどのように役割をはたしていけるのか。伝道会議というと、どうしても日本社会の分析や伝道ノウハウの共有が主なテーマとなるのですが、それを下支えし、動機付けるのが神学です。

昨年11月の研究発表以来、振れ幅大きく、福音派神学の再検討に入りました。創世記解釈の刷新、地を治める被造物管理のあり方、原罪およびアダムという存在の再考察、義認論の中身、福音とは何かの追及などなど。浮世離れした話題のようで、実は教会と信仰の生命線とも言えましょう。信頼できるメンバーで、そんなテーマを議論したいと思います。安全圏に閉じこもった守りの姿勢ではなく、振れ幅大きくブレークスルーし、パラダイム転換をはかるつもり。どうぞお祈りください」

連載第一回に書いた、5年前の『リバイバルジャパン』掲載記事の福音理解と今とでは何が変わったのか。周辺的なことから考えると、まず時代環境が変わりました。3・11という未曾有の自然災害と最悪レベルの原発事故を経験したことで、日本の教会はそれまでの福音理解では対応できない分野が多々あることに気づかされ、「包括的(ホリスティックな)福音理解」を今まで以上に求められたのです。連載第三回にも少し書きましたが、この五ヶ月前に発表された「ケープタウン決意表明(コミットメント)」を、地球の裏側で発せられた遠い世界の声明文とは言っていられず、まさしくコミットメントを求められる事態となったのでした。筆者の牧する教会も含め、この決意表明を学習し続けている教会も少なくないでしょう。加えて、日本の政治も特定秘密保護法施行や集団的自衛権行使の憲法解釈変更、平和憲法改憲の現実化、安保関連法案の衆議院可決など、戦後70年にしてかつてないほど右傾化が急速に進み、普天間基地問題や原発再稼動が国民的議論となることも相まって、この国において教会が福音に生きることの意味を真剣に問われるようになりました。そして、このブログ連載でも取り扱ってきたように、福音理解にかかわる神学分野で欧米を中心に活発な挑戦と議論がなされ、日本の福音派も傍観者ではいられなくなっています。加えて、2016年の第六回日本伝道会議、2017年のルター宗教改革500年を間近にし、福音主義キリスト教・福音派とは何か、福音とは何か、そのアイデンティティと中身を問い直す機が熟したと言えるのではないでしょうか。「福音」とは、守るものというよりも、生きるもの、追求するもの、つまり静的(スタティック)なものではなく動的(ダイナミック)なものでありましょう。

私たち福音主義者すなわち福音派の本分は、福音を福音としてそのまま生きる「福音への献身(コミットメント)」、その単純明快な誠実さにあると考えています。まさしくそれはWWJD(What Would Jesus Do? 主イエスだったら(こんな時)どうするだろうか)を問い続けることでしょう。これこそ主イエスへの献身ということ。主イエスが生きたように私も生きる、それが福音に生きるということです。なぜなら、神の贖い物語の結論としてこの世に訪れた主イエスご自身が福音であり、神の国そのもののお方だったからです。「福音を信じなさい」(マルコ1:15)との主イエスの招きは、「わたしを信じ、わたしに学び、わたしを信頼しなさい」と等価であると考えるべきでしょう。

主イエスがもたらした福音の豊かさ、その高さ、広さ、深さ、長さを追求するには、福音の骨組みたる神学をリアルタイムで刷新しなければなりません。そのためには、振れ幅大きく、思い切ったパラダイム転換への挑戦や、異なる立場との対話、常識と思われてきたことの問い直しが求められるし、福音理解の深まりをともに追及する健全なディスカッションが必須です。宣教が困難と言われるこの日本において、その方法論、教会形成やリーダーシップのあり方、説教論、牧会やカウンセリング方法論など、実践分野の議論や研究はそれなりになされてきましたが、組織神学的なディスカッションが十分になされてきたとは言いがたい、この五年間だったというのが率直な印象です。そこには、多少語弊があるかもしれませんが、福音派特有の、自由にものが言いにくい雰囲気があったような気もします。つまり、三十年前の聖書論論争や聖霊論論争のトラウマでしょうか、従来の伝統とは異なる神学を学んだり取り上げたりするだけで、信仰の正統性や福音主義者たる資格を疑われ、レッテルを貼られるのでは、との恐れを抱かせる気風です。不変の信仰と可変の神学を混同してきたのかもしれません。もちろん、どんなに過激な神学でもOKとまでは言えないし、福音派のルーツが聖書の権威を貶める自由主義神学との訣別にあったことを考えれば無理ない面もあるのですが、もしその守りの姿勢が福音本来の自由闊達な豊潤さを妨げる結果をもたらしているとすれば、それこそ本末転倒でしょう。虎穴に入らずんば虎子を得ず、とでも言えましょうか。

ルターの宗教改革は、誤りなき神のことばとしての聖書を民衆の手に取り戻す運動でした。万人祭司として、聖職者と信徒の区別なく誰もが聖書を母国語で読み、解釈し、適用する自由を与えられたのです。だから「福音とは何か」の追求とは、厳密な神学的考察が必須だとしても、それだけで完結すべきテーマではなく、ましてや専門家や教職者の独占的テーマでもなく、母国語でのみ聖書を読む一般信徒も参画して深めるべき課題のはず。むしろそこに、専門家が見落としていた意外な側面が発見されたり、思いがけず深遠な理解が得られる可能性があるかもしれません。いや、きっとそうに違いないのです。それが福音というもの。福音とは何かの追求、福音理解の深化には、ある種の素人臭さが不可欠なのかもしれません。みことばに、主は幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された(詩篇8:2、マタイ21:15-16。マタイ11:25-26も参照)とある通りです。これは、福音主義や福音派における信仰告白や信条の位置づけに関する考察にも道を開きます。聖書教理の硬直化による死せる正統主義からの脱却をはかったヨーロッパの敬虔主義と自由教会運動が、日本における福音主義のベースとなっているのは周知の事実ですが、基本的にそれは簡易信条の運動であり、厳密な信仰告白の体系化とは別の方向を目指して来たムーブメントでした。実際、中心軸をしっかり共有した上で、その他の自由を許容するのには聖霊による一致とセンスが求められます。しかし、福音には本質的にそうした要素が含まれているのではないか...もはや扱いきれないテーマになりそうなので、ここまでにしておきましょう。

「福音とは何か」の追求姿勢そのものが、「福音とは何か」を体現する、これが「福音」の定義を問われて右往左往してから五年後の結論です。「福音」は、それを聖書の物語という文脈から切り離して抽象化した瞬間、生気を失い、福音ではなくなってしまいます。福音の物語に私たちの物語を書き込み、贖いの歴史の一端を我々が構成していってこそ、福音を生きることになるのです。どんなに福音を理想的に定義し、語ったところで、その語る本人が鬼のような顔で平安を失っていたら、笑うに笑えない話でしょう。「福音」とは名詞でなく動詞、「福音」とは「福音する」という意味です。この点、「愛」ということばと相似かもしれません。「愛」も名詞ではなく動詞であり、行動に移すことなく抽象化してもなんら意味を成さない概念。なるほど、福音イコール愛、福音イコール「徹底的に愛されること」から始まるのだから納得できるではありませんか。

こうした定義もまた、「『福音』とは何か」の継続的追及によって変わり得るもの。固定化し、そこに権威付けをした途端、福音そのものが色あせ、ダイナミックさが消え、硬直化するに違いありません。いつか聞いた話ですが、目というのは絶えず細かく震えていてこそ、物を見ることができるそうです。試しに指で眼球を固定すると、不思議なことに数秒ですーっと視界が曇ってしまいます。福音主義とはムーブメント。絶えず振れ幅があってこそ、その中心にある真の福音を見据えることができるはずです。「『福音』とは何か」を、立場や伝統の違いを超えて共に追求し続け、共有すること、その福音共同体としてのあり方自体がきっと、福音とは何かを如実に証しするのでしょう。

(終わり)

戦争と神学者(6)

(このシリーズの先頭はこちら

日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」(以下「書翰」。全文はこちら)について述べてきたシリーズも、今回で最終回としたいと思います。まとめに入る前に、第一回でも述べたことをもう一度確認したいと思います。

このシリーズの目的は、特定のグループや個人を批判することにあるのではありません。戦時中の極限状況の中で先人が取った言動を、現代の平和な時代に生きる私たちが軽々しく裁くことができるものではありません。しかし、歴史の中で過去にどのようなことが起こったかを知ることは、現代に生きる私たちが今後同じ過ちを繰り返さないために必要不可欠な作業であると信じるために、敢えて歴史の暗部に光を宛てるような内容を書いてきました。同様の検証作業はすでに多くの方々がなさっておられますし、これからも引き続きおこなっていく必要があるでしょう。

さて、神学に限らず学問一般は時代や国によって変わることのない客観的真理を追究するものであり、したがって国家の思想的統制を受けたりするものではないはずだと一般に考えられています。しかし、実際の歴史の中ではこの建前はしばしばあやふやにされてしまいます。このシリーズで取りあげた書翰もその典型的な例であるといえるでしょう。

本シリーズでは書翰とカール・バルトの神学の関係について考察しました。これも誤解を招きかねない書き方をしてしまったかもしれませんが、以下に述べるように、本シリーズの主眼はバルト神学の正当性を証明することにあるのではありません。バルトの神学にどのような評価を下すにせよ、少なくとも戦時中のバルト自身の立場は全体主義をはっきりと拒絶するものであったにもかかわらず、彼の神学が日本では軍国主義イデオロギーに奉仕するように用いられたということは紛れも無い事実であり、なぜそのようなことが起こったのかを考えようというのが、本シリーズの目的でした。

しかも、バルトは当時の日本の神学者たちに影響を与えた海外の神学者の中で最大の人物であったことからも、この問題の深刻さをうかがい知ることができます。当時多くの日本人キリスト者がバルトの神学を熱狂的に受け入れていった一方、戦争という時代背景の中で、彼らが進んでいった道はバルト本人とは正反対の道でした。しかも彼らは、バルトの神学を用いることによってそうしたのです。日本の神学者たちはバルトの神学は学んでもバルトという神学者から学ぶことをしなかったといえます。

神学は変わることのない神の真理を追究していきます。それと同時に、神学はその時代、国に固有の問題と格闘し、それに対する解答を追い求めていくものです。神学はその置かれた歴史的政治的文脈と切り離して考えることはできないのです。1930年代のバルトの神学は、ナチズムの台頭と猛威という当時のドイツの歴史的文脈における教会の戦いと無縁ではありませんでした。ところが「日本では、バルトの神学と文脈を分離して神学的抽象性のレベルにおいてのみ受容するという限定がひそかに行われた」のです(『日本におけるカール・バルト』序) 。このような、「神学的抽象性と社会的・政治的具体性の二元論」が日本におけるバルト受容の特色であったといえます

このことはまた、似たような神学的立場に立っていても、神学する主体である神学者の生き方、態度、霊性といったものによって、神学自体の内容および適用が異なる場合があることを示唆しています。本シリーズのタイトルを「戦争と神学」ではなく「戦争と神学者」としたのは、この理由によります。単純に考えますと、神と人間との間の断絶を強調する弁証法神学は、国家を絶対化する全体主義とは最初から適合しないように思われますが、日本ではそうなりませんでした。これは日本だけの問題ではありません。ドイツにおいても、バルトと同じ弁証法神学の立場を取ったフリードリヒ・ゴーガルテンを始めとする何人かの神学者たちはナチスを支持したのです 。その一方で、神の国と地上の国という「二つの王国」を分けて考える傾向の強いルター派のキリスト者たちは、ナチスを受け入れやすかったのではとも考えられますが(実際バルトは二王国論に批判的でした)、ボンヘッファーやマルティン・ニーメラーといった告白教会の指導者たちはルター派でした 。また、エマヌエル・ヒルシュとパウル・ティリッヒは神学的に非常に近い立場にありましたが、政治的には全く正反対の道を歩み、ヒルシュはナチスを支持し、ティリッヒはナチスに抵抗して米国に渡ることになります(ロバート・エリクセン『第三帝国と宗教』を参照)。つまり、キリスト者の神学的な立場そのものは、その人の国家に対する立場を一意的に決定するわけではないのです。

したがって、国家を神としその前にひざまずいてしまう誘惑は、その神学的立場を問わずすべてのキリスト者が直面している問題だといえます。バルトの神学を共有しないキリスト者であっても、その生き方から学ぶことができるゆえんがここにあります。(もちろん、バルト以外にもそのような模範となる人々は存在しました)。

ナチスに抵抗したバルトと、その神学を熱心に受け入れながらも戦争に協力した(させられた)日本のバルト主義者の対照的な進路の分岐点となったのは、十戒の第一戒(唯一のまことの神以外の存在を神としてはならない)への徹底的服従であると思われます。教会がその置かれた国にあって福音を宣べ伝えていく時に、聖書が証しする三位一体の神だけが唯一まことの神であること、またイエス・キリストだけがすべての主であるという信仰と告白に立っていくことが重要です。この信仰的基礎の重要性に比べれば、教理的見解や教派的伝統の違いは二次的なことがらに過ぎないといっても過言ではありません。この点を考慮しないでバルト神学(あるいは他のいかなる神学も)と戦争との関係を議論することはあまり意味がないと思われます。

教会の主がキリスト以外の何ものかによって取って代わられていないかどうか。このことが、福音の純粋性、神学の健全さを測る一つの物差しとなります。日本基督教団がそもそも発足したのは、皇国史観に基づく「皇紀二千六百年」を記念した全国信徒大会が発端であったことを考えると、あのような書翰は決して突然変異的に生じてきたものではなく、その出発点からの論理的帰結であり、なるべくしてなったと言ってよいと思います。

日本人キリスト者の多くはキリストの十字架による罪の赦しという贖罪信仰はよく分かりますが、イエス・キリストだけが唯一の主である、という偶像禁止の教えには戸惑います。しかし福音のこの二つの側面は切り離すことができません。十字架の福音に意味があるのは、この贖いをなしてくださったイエス・キリストが、私たちの罪のために死んで復活してくださっただけでなく、やがて再び来られてさばきをなし、すべてを支配される時が来る、という信仰にあってのみです。もし私たちがすべての主であるキリストに従うことをしないなら、十字架の福音はボンヘッファーの言う「安価な恵み」に堕してしまうでしょう。神の唯一性とキリストの絶対的主権性こそ、日本のみならずあらゆる地域の神学の基礎であり、それはまた、真のいのちに溢れた神学が日本においても育っていくために必要な土壌でもあると思うのです。

(終わり)

戦争と神学者(5)

(このシリーズの先頭はこちら

前回までの投稿では、戦前日本の軍国主義イデオロギーを体現したかのような「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」(以下「書翰」。全文はこちら)とカール・バルトの神学の関係を見てきました。そこでは、当時日本で絶大な影響のあったバルト神学が天皇制イデオロギーと強引に結びつけられている姿を見ることができます。ここで生じるのは、明治以来ドイツ神学の影響を大いに受けてきた日本のキリスト教会において、なぜドイツの教会闘争に当たるような運動が出て来なかったのか、という疑問です。これにはいくつかの理由が考えられます。

一つは日独のキリスト教会がそれぞれの社会の中で置かれていた立場の違いです。古屋安雄氏(『日本の神学』)は、ドイツ教会闘争は国家と余りにも癒着した教会をどうただしていくか、という教会内の問題であったのに対し、日本の場合はマイノリティのキリスト教会、しかも敵国であるアメリカ系の教会がいかに弾圧から身を守るか、ということが問題であったと述べています。

次に、日本教会がそもそもナショナリズム的傾向を持っていたことが挙げられます。金田隆一氏(『昭和日本基督教会史』)によると、それは日本キリスト者自身が有していた「内なる天皇制」ともよべる精神構造です。古屋氏は、書翰はもちろん、当時の国家情勢の中でやむにやまれず書かれた文章ではあるが、それでも日本教会が以前から持っていたナショナリズム、また英米のキリスト教に対する批判がこの戦争を契機に顔を出したものではないかと述べています。

たとえば教団統理富田満は1943年2月1日に高知教会において行った講演の中で、米国が日本にキリスト教を植え付けたのは帝国主義の手先としてであったと述べ遺憾の意を表すると共に、教団創立と共に日本のキリスト教は「現在は何処の国の世話になることもなく純粋な日本キリスト教として信仰上日本のものとなつたのである。・・・我々は何処々々迄も日本人たる自覚を前提としてキリスト教を信仰し倫理道徳を通じ天皇陛下に帰一し奉るべきである」と述べました。

さらに、日本人の思想的特質ということも考えなければなりません。大塩清之助氏は丸山真男の『日本の思想』に依拠しながら、日本教会の体質的な弱さの原因を、異質なものを平然と結合する日本人の「精神的雑居性」に求めています:

日本のキリスト教は、「精神的雑居性の原理的否認」(イエスのみが主である!!)を要請する真理を奉じつつも、日本に対して「それを執拗に迫る」ことをせず、むしろ「この風土と妥協させる」ことによってかろうじて自己を保存して来たのだと言わざるをえない(少なくとも敗戦までは)。(大塩清之助「教会の罪の告白―日本キリスト教団の戦争責任をめぐって」『福音と世界』1967年1月号、22頁。強調は原文。)

そして大塩氏は続けて、このような精神的雑居性を偶像礼拝性と言い換え、「戦争責任の罪は、このような日本的体質を持ったわれわれが、その偶像礼拝の罪を真に心から悔い改めることをせず、イエスのみが主であるとの福音の絶対性に服従できなかった罪である」というのです。

このような「精神的雑居性」はキリスト教とナショナリズムの融合を容易にします。佐藤敏夫氏も丸山の同書に言及しつつ、過去と正面から対決することなく、新しいものを取り入れるため、キリスト教の受容が上滑りなものになってしまったと論じています。危機が訪れると、沈潜していたナショナリズムが顔を出してくるのです(古屋安雄他『日本神学史』)。

以上のポイントは互いに関連しあっています。日本においてキリスト教は常に米英という「敵国の宗教」と見なされがちであったため、教会はそのような疑惑を常に打ち消す必要に迫られていきました。それは裏を返せば、国家への歩み寄りという誘惑に常にさらされていたということです。このことと、明治以来の教会が持っていたナショナリズムの流れが合わさったとき、「日本的キリスト教」運動につながっていきました。そして日本人の「精神的雑居性」は、そのような、論理的には困難と思えるキリスト教とナショナリズムの融合をよりいっそう容易にしたと想像できるのです。

さて、書翰に表れているような日本の神学の問題には、以上の理由のほかに、神学的な理由もあるように思われます。それは偶像礼拝のとらえ方に関する日独教会の違いです。バルメン宣言やドイツ教会闘争において見られるような信仰の戦いはアジアの各国でも見られました。しかし、同様の戦いは戦前の日本教会では、美濃ミッションのようなごく一部の例外を除いて見られませんでした。その大きな理由の一つは、明治以来の日本キリスト教会が持っていた、偶像礼拝に対する批判的態度の弱さであったと考えられます。

「唯一の真の神以外の存在を神としない」という十戒の第一戒(出エジプト20:3)こそ、ドイツ教会闘争で告白教会を支えた神学的バックボーンだったのであり、バルトや、同じくナチズムに抵抗したボンヘッファーといった神学者は繰り返し第一戒の重要性を強調していました 。バルメン宣言でもそれをキリスト論的に言い換えた形で、イエス・キリストこそが唯一の、すべての主であることが宣言されています。キリストのみがすべての主であり、国家であれ人間であれ、キリスト以外の存在がその座に座ることは許されないというのです。しかし書翰においてはまさにこのキリストの主権性がないがしろにされています。ボンヘッファーはヒトラー暗殺の陰謀に加わったかどで逮捕され、終戦の直前に処刑されましたが、1944年に獄中で書いた「十戒の第一の板」と題する文章の中で、「日本のキリスト者の大部分は、最近、国家の皇帝礼拝に参加することが許されていると宣言した」ことに触れ、これを批判しています 。

松村重雄氏は教団では伝統的に贖罪信仰の強調が見られる反面、キリストの贖罪が個人の罪の赦しという内面の領域に限定され、キリストは教会の主、世界の主、全被造物の主であるという面が強調されてこなかった点に、戦前の教会が天皇制国家に追従してしまった原因の一端を見ています(「バルメン宣言と日本基督教団信仰告白」『福音と世界』2005年5月号、22頁) 。

このように、日本の教会が犯した最大の罪というのは、戦争協力というよりはむしろ、天皇を現人神としてキリストと同列いやその上に置いてしまった、偶像礼拝の罪であると言わなければなりません。と言うよりも、キリストの絶対的主権性という点において妥協し、国家に屈従した教会が、侵略戦争への積極的加担という道に突き進んでいったのは必然であったと言えるのです。律法の中で一番大切な戒めは何かと訊ねられたイエスは、神を愛することと、隣人を愛することの二つをもって答えられました(マルコ12:28-31)。この二つは表裏一体であり、切り離すことができないのです。真の意味で隣人を愛するには、まことの神を神として愛し礼拝することが必要不可欠です。この点で妥協をした教会によって作成された書翰がまさにこの隣人愛の教えを逆用して、その対極に位置する戦争への協力を呼びかけた事実は重大であるといえます。

もうひとつ注目しなければならない問題点は、日本教会がアジアの諸教会に対して持った傲慢の罪です。書翰はくりかえし、国体に基づく日本精神の土壌の上に成立した「日本国自生のキリスト教」の卓越性を宣伝しています。そして、この日本的キリスト教こそが世界を救うのだといいます。書翰で言われているアジア諸国の一致は決して日本と他の国々の対等の関係によるものではなく、あくまで盟主としての日本に他国が追従するというものであって、そのような関係はキリスト教においても前提とされています。

つまり、ここで起こっていたことは、ただ単に日本基督教団が当時の国家権力に妥協し屈従させられているというだけではありません。それと同時に教団は、日本政府と同じ側に立って、アジア諸国のキリスト教会に対して自らの優越性を誇示しているのです。つまりそこには、偶像礼拝の罪と並んで高慢の罪があったと言わなければならないのです。これは今日の日本キリスト教会全体の課題でもあると思われます 。

次回最終回では、これまでの内容を総括し、戦争と神学、そして神学者の関係について考察したいと思います。

(続く)

戦争と神学者(4)

(このシリーズの先頭はこちら

前回は、「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」(以下「書翰」。全文はこちら)における、カール・バルトの神学の影響について考察しました。書翰にはバルトからの著作の引喩が多く含まれ、彼の神学からの影響を随所に見ることができます。それでは、当のバルト自身の戦争との関わりはどのようなものだったのでしょうか?

1933年にアドルフ・ヒトラーが政権を奪取すると、キリスト教会の統制をもすすめていきました。ナチスに迎合する国粋主義的・民族主義的なキリスト者たちによる「ドイツ的キリスト者信仰運動」は力をつけていき、ヒトラーの下での教会の一元化を目指していきました。彼らはユダヤ人の公職からの追放を定めた「アーリア条項」を教会にも導入することを求めていきます。

Berlin, Luthertag

「ドイツ的キリスト者」の集会(Wikimedia Commonsより)

1933年11月13日、ベルリン体育館において、ドイツ的キリスト者の全国大会が二万の参加者を集めて開かれました。この中で急進派のラインホルト・クラウゼは「ナチスの党旗を打ち振る熱狂的な聴衆にこたえて長広舌をふるい、国家社会主義の精神を基盤とする宗教改革の成就に協力できない牧師の追放、あらゆる非ドイツ的なものを礼拝と信仰告白、なかんずく旧約聖書から削除すること、東洋的な歪曲からの福音の解放、民族と種の論理に適合するキリスト教の根底としての英雄的なイエス像の建設を提唱して、満場の熱狂的な拍手を浴びた」 といいます(森平太『服従と抵抗への道―ボンヘッファーの生涯』 [新教出版社、1964年] 、99頁)。この描写は日本における「皇紀二千六百年大会」を彷彿させます。

このような動きに反対するキリスト者たちは1934年5月バルメンにおいて「告白教会」を形成し、その神学的指針として「バルメン宣言」と後に呼ばれる宣言を行いました。バルトはこの宣言の起草者であり、彼はこの後も告白教会の理論的指導者であり続けたのです。

この宣言は六つのテーゼからなりますが、その土台となる中心的告白(第一テーゼ)では、キリストのみが唯一の主であること、第二テーゼでは、このキリストの支配領域に含まれない領域はないことが告白されます。ここでは偶像礼拝を禁じた十戒の第一戒の重要性が再確認されています。第三テーゼでは教会の使命について、第四テーゼでは教会の職位について、第五テーゼでは教会と国家との関係について、第六テーゼでは教会への委託について語られていきます 。この「バルメン宣言」が教会と国家との関係という問題に関して、書翰と対極に位置するのはいうまでもありません。バルトはその後ヒトラーへの忠誠宣誓を拒否して、1934年にボン大学教授の職を奪われます。そして翌年スイスに追放されると、国外から教会闘争を援助していくことになるのです。

1938年に書かれた「義認と法」においてもバルトは「国家そのものが、根源的・究極的にイエス・キリストに属している」と述べています。バルトはすべての国家が悪であるとは言っていませんが、国家が「デーモン化」つまり自己を絶対化することがいつでも起こりうるということに対して警鐘を鳴らしています。そしてそのような場合に教会が受けるべき栄光は、書翰が力説しているような「宗教報国」ではなく、「キリストに従うことによって受ける苦しみ」であるといいます 。「義認と法」には他にも次のような内容が見られます:

hypotassesthai(従う)ということは、決して教会とその肢々が、国家権力の意図と企てを、それが義認の宣教を護ろうとする代りに禁じようとする場合にも、自ら肯定し、自発的にそれを促進するということを、決して意味しえない。(カール・バルト「義認と法」『世界思想教養全集21 現代キリスト教の思想』井上良雄訳 [河出書房新社、1963年] 、201-202頁)

もし国家に対する誓約が、全体的誓約(トタリテーツァイト)として(すなわち、事実上或る神人という意味と力を持っている名前に対して義務を負わせるものとして)、したがって神の御言葉の自由を脅かす国家権力に対する積極的な順応を意味する場合、そしてそのことによってキリスト者にとっては、教会と教会の主に対する裏切りを意味する場合には、そのような国家に対する誓約は、(国家に対する尊敬の故にこそ)なされることは可能である。(同上、206-207頁。強調は原文)

ここにも書翰とは180度異なる神学が見られます。このような内容を当時の日本のキリスト者は知らなかったのでしょうか?驚くべき事に、実は知っていたのです。バルトの「義認と法」は日本のキリスト者の一部で熱心に学ばれ、部分的には一般に紹介されました 。書翰の中心的作者と考えられる山本和もこの論文を深い感動を持って熟読したと戦後語っています。

日本の神学者たちはバルトのナチスへの抵抗運動、またドイツ教会闘争について、当初からかなり詳しい情報を持っていたことが分かっています。その中には、バルメン宣言についての情報、バルトのボン大学追放とバーゼルへの赴任、スイスに追われたバルトが継続した反ナチ闘争についての情報も含まれていました。これらの情報を桑田秀延、熊野義孝、福田正俊らの神学者、牧師たちが精力的に紹介していったのです 。また、エーゴン・ヘッセル宣教師は1931年に来日してバルト神学の紹介に努めていましたが、ナチスによって東アジア・ミッションから解任されて後は、「在日ドイツ告白教会の《在外牧師兼日本宣教師》」として宣教活動を続けました 。

このようにバルトや告白教会についての情報は入ってきてはいたものの、それが日本の神学界に実質的な影響を及ぼすには至りませんでした。バルト神学は、日本においては「屈折」した受容のされ方をしていくのです 。

書翰の選考委員であった熊野義孝は当時の日本の代表的な神学者であり、バルト神学を早くから日本に積極的に紹介した神学者の一人です。彼は1932年に『弁証法的神学概論』を著していますが、すでに1926年の時点でバルトに関する論文を書いています(『福音新報』掲載の「神と世界との限界―カール・バルトの神学に就いて」) 。熊野はバルトの神学をどう受けとめたのでしょうか。熊野の神学一般に対する見解は、現実的政治的情況における神学と、思想としての神学を区別するもので、神学と社会との関わりについては重要視しないというものでした。バルトに関しても同様だったのです 。

またもう一人の代表的バルト主義者松谷義範は日独の国情の違いを理由に、日本の神学者は「バルトの政治的運命と彼の神学とを(中略)区別して学ぶべきものを学び、我らが日本といふ特殊な国に置かれていることを考えつつバルトの神学を考究する」ようになったと書いています (宮田光雄『国家と宗教―ローマ書十三章解釈史=影響史の研究』 [岩波書店、2010年] 、419頁より引用)。

このような傾向に対して、すでに1934年の段階で、植村環が「神学の危機」と題する一文をもって警告を発しています。ここで植村は日本のキリスト教会において「西欧諸国の学説は盛んに輸入らせるけれども活きた宗教運動としてそれが発展して来ない」ことを嘆じ、特にバルト神学の受容について、「今現にバルトの思想の研究家を以て任ずる人々でも、果たしてバルトの如く、基督を生命として信仰の中心に置き、之に生きつゝある経験を発見し、世を覚醒せしめつゝあるものがあるであらうか。研究は研究、自己の生活は生活と言ふのでは心細い」と批判し、「今や我が国神学の危機である」と結論づけています (『福音新報』1934年3月8日号)。

1934年の時点でこうであれば、その後政治統制が強まる一方の日本におけるバルト受容については推して知るべしです。こうして原誠氏が言われるように、「日本の戦時下においてバルト神学は、沈黙の神学、すなわち一方的な絶対的な啓示による救済の神学として、いわば後退のための、沈黙のための神学となった」のです 。これは、日本においてバルト神学が圧倒的な人気を博した理由がまさにその「徹底性(Radikalität)」にあったことを考えると 、実に皮肉なことと言わざるをえません。バルト神学の徹底性は、日本においてはあくまでも神学理論上のそれに留まり、実践の領域において貫徹されることはなかったのです。

このような日本における自らの神学の受容について、バルト本人はどう思っていたのでしょうか。彼は1940年9月に、ヘッセルに宛てて書かれた手紙の中で、最近松谷から日本語への翻訳許可を求められた彼の著作リストの中には、政治問題に関する論文が一切含まれていないと言うことに苦言を呈しています 。さらに戦後になっても、『福音主義神学入門』日本語版への序(1962年)においてバルトは、北森嘉蔵『神の痛みの神学』の「日本的キリスト教」を批判しています。彼は「神学者の思考がある種の国民的特性を有する」ということを認めつつ、北森が「日本的な固有性を持ちながら、『日本的』ではなくて、福音主義的であり、聖書に根ざし、世界教会的に妥当するようなひとつの神学を目ざ」すことを期待しています 。ここで彼は勿論、ドイツにおける「ドイツ的キリスト教」の試みの失敗のことを念頭に置いて言っているのです。

このように、書翰に表れているような「バルト神学」とバルト本人の立場とは全く相容れないものであることが分かります。次回はなぜこのようなバルト神学の「変質」が起きたのか、日本における神学の問題点を考察します。

(続く)