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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズも第3部に入っています。なるべく1回で1章を紹介しようと努めていますが、内容が濃くて1回では紹介しきれない章もあります。今回も第8章「強固な中心」の続きになります。
信仰の同心円モデル
前回も見たように、ボイドは福音派によく見られる「トランプの家」的な信仰モデルを批判します。このモデルにおいては、すべての信仰箇条が他のすべての信仰箇条に依存しているので、一つの要素が否定されると、全体が崩れてしまいます。それに対してボイドは同心円的な構造を持った信仰のあり方を提案します。それはいのちの源であるイエス・キリストを中心としてすべての信仰箇条をとらえるモデルです。ボイドが提唱する信仰モデルにあっては、個々の信仰箇条はそれ自体が目的ではなく、すべてこの中心であるイエス・キリストを通して神との人格的契約関係を持つために存在しているのです。
このイエス・キリストを中心に、ボイドはクリスチャンとしてのすべての信仰箇条を位置づけていきます。ここでポイントとなるのは、すべての信仰箇条は同じ重要性を持っているわけではないということです。より重要な要素は中心に近く、そうでないものは遠くというように位置づけていくと、クリスチャンが信じているさまざまな信仰箇条は、次のような同心円上に分布することになります。
ボイドは中心に近い内側の輪を「教義dogma」と呼びます。これは歴史的正統キリスト教会が一貫して尊重してきた最も重要な信仰箇条で、ニカイア信条や使徒信条などで告白されているような内容です。ここにはたとえば三位一体論、キリスト両性論(イエス・キリストの神性と人性を両方とも認める立場)などが含まれます。
次の輪は「教理doctrine」と呼ばれます。ここには、正統的キリスト教会が常に受け入れてきたものの、その理解については見解の違いがあるようなものが含まれます。このレベルにおける立場の違いによって、様々な教派が分かれてきます。たとえば、神がこの世界を統治されるということはすべてのクリスチャンが認めてきましたが(つまりこれは教義です)、神がどのようにその統治を行われるかについては、見解の違いが存在します。つまり、神が歴史上起こるすべてのことがらを直接コントロールされるのか、それとも被造物にある程度の自由意志を与えておられるのか、ということです。
最後に、一番外側の輪は「意見opinion」と呼ばれます。これは個々のクリスチャンが時として主張することがあっても、キリスト教会全体において広く支持されることはないものです。これは特定の教理の異なる解釈として生じてくることが多いです。ボイドはこの中に含まれるものの例として、創世記1章1節と2節の記述の間には長い時間的隔たりがあるという、いわゆる「ギャップ理論」や、未来は部分的に開かれているという考え(いわゆるオープン神論)を挙げています。
ボイドはこのような信仰のモデルには多くの利点があると言います。このモデルは柔軟性に富むために、個々の信仰者が、中心であるキリストとのいのちにあふれる関係を保持しつつも、知的・霊的に成長していくことを容易にします。彼らのいのちがキリストに根ざしている限り、どのような問題について悩んだとしても、それらに真摯に向き合うことができるのです。したがって、このモデルを採用することによって、クリスチャンは異なる立場の信仰者やノンクリスチャンと、さまざまな主題について、愛をもって、防御的にならず、理性的に話し合うことができるようになる、と言います。これはまさに「確実性追求型」信仰、「トランプの家」的信仰の弱点をカバーする重要な利点であると言えます。
ボイドはさらに、このモデルは他者に福音を分かち合う時にもたいへん有効であると言います。多くの人々はキリストとのいのちにあふれる関係に魅力を感じながらも、キリスト教会が「福音」をさまざまな要素(聖書の無誤性、若い地球の創造論など)からなる「パッケージ」として提供し、その全体を受け入れるか、拒否するかの二者択一を迫るために、その一部でも受け入れられない場合、福音の全体を拒絶してしまうという残念な事態が生じています。しかし、同心円モデルでは、人々はまずキリストと人格的関係を持つことから始め、歴史的正統キリスト教会の教義を学ぶところから出発して、あとは自分の知的興味に応じて自由にさまざまな主題を吟味し、成長していくことができます。そこでは、さまざまな教理や意見に関する議論は信仰に入るための前提条件ではなく、すでに信仰を持った者たちの間の「仲間うちの議論」として位置づけられます。そして、このレベルにおける立場の違いは、キリストとのいのちあふれる関係を脅かすことはないので、愛をもって、防御的にならず、楽しみさえ覚えながら行うことができるとボイドは言います。
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このブログを開設当初から読んでくださっている方は、ここでボイドが提示している「同心円モデル」は、「違いの違いが分かる男(女)」で提案したモデルとよく似ていることに気づかれたことと思います。ただし、そこには一つ違いがあります。私がかつて提案していたモデルには、中心に人格としてのキリストの存在がなく、すべてが信仰箇条の相対的重要性のみによってとらえられていました。今では私も、ここでボイドが提案しているように、イエス・キリストの人格をすべての中心に置くモデルの方が好ましいと考えています。しかし、基本的な考え方は同じです。クリスチャンとしての信仰箇条には重みの違いがあり、最も重要な部分において一致していれば、相対的に重要でないことがらに関する意見の違いは、クリスチャンとしての交わりを妨げることはないはずなのです。
この問題は次のように考えることもできます。ある人々は「正統的・聖書的キリスト教信仰」を明確な境界線をもって定義される「領域」と考えています。すなわち正統的クリスチャンを特徴づける一群の信条や行動規範があり、それを外れた(境界の外にある)信条や行動は「異端的」「非聖書的」「非キリスト教的」として拒否する態度です。そこでは「内と外」「白と黒」「天国(救い)と地獄(滅び)」がはっきりしており、人々の関心はいかに境界線を厳密に「定義」し、誰が中にいて誰が外にいるかを「判定」することに向けられます。このような考え方を「境界線思考」と呼ぶことができると思います。
これに対して、ボイドの提唱する同心円モデルのように、イエス・キリストという人格を中心にして、その中心への距離感によってものごとの重要性を相対的に判断していく考え方もあります。これを「中心点思考」と呼ぶことができるでしょう。
この中心点思考では、どこまでが「正統的キリスト教」という明確な境界線があるわけではありません。このモデルでも、中心から離れれば離れるほどクリスチャンとしての正統性に疑問が増していきますが、「境界線思考」と違って、白と黒の明確な区別があるわけではありません。ある意味ファジーなモデルといえますが、福音の中心であるイエス・キリストとの人格的関係を基盤にしつつ、互いの違いを認め、また互いの不完全さも認めつつ、互いに交わり、励まし合いながら、共に成長していこうとするものです。
私の少年時代には、「太陽系は中心の太陽と水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星の9つの惑星からなる」と教わったものでした。けれども、近年では冥王星が「惑星」としての資格を失っただけでなく、これらの惑星の外側にもさまざまな準惑星や小惑星が存在し、「エッジワース・カイパーベルト」や「オールトの雲」といった外縁天体もあることが分かってきました。オールトの雲は長周期彗星の起源と考えられており、理論上その存在が推測される仮説的天体だそうですが、大きく見積もると太陽から10万天文単位(1天文単位は太陽から地球までの距離)の大きさにまで拡がっている可能性があるそうです。いずれにしても、実際の太陽系の外縁は雲のようなとらえどころのないものであり、昔のように「冥王星の軌道までが太陽系」という明確な境界線が引けなくなってきたようです。
太陽系(画像は”F oort cloud” by Jedimaster – 投稿者自身による作品. Licensed under CC 表示-継承 3.0 via Wikimedia Commons.)
キリスト教信仰もまた、イエス・キリストという「太陽」を中心として、その重力圏内でキリストの周りを回転運動する「キリスト系」あるいは「キリスト圏」のようなものととらえることができるかもしれません。これは「何でもあり」のモデルではありません。惑星と外縁天体ではかなりの違いがあります。けれども、それらの間に明確な境界線を設けない「中心点思考」の信仰モデルの方が、信仰のあり方として健全であり、またポストモダンの現代社会においてクリスチャンとして歩む上でも有効であると考えています。
(続く)