確かさという名の偶像(17)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズも第3部に入っています。なるべく1回で1章を紹介しようと努めていますが、内容が濃くて1回では紹介しきれない章もあります。今回も第8章「強固な中心」の続きになります。

信仰の同心円モデル

前回も見たように、ボイドは福音派によく見られる「トランプの家」的な信仰モデルを批判します。このモデルにおいては、すべての信仰箇条が他のすべての信仰箇条に依存しているので、一つの要素が否定されると、全体が崩れてしまいます。それに対してボイドは同心円的な構造を持った信仰のあり方を提案します。それはいのちの源であるイエス・キリストを中心としてすべての信仰箇条をとらえるモデルです。ボイドが提唱する信仰モデルにあっては、個々の信仰箇条はそれ自体が目的ではなく、すべてこの中心であるイエス・キリストを通して神との人格的契約関係を持つために存在しているのです。

このイエス・キリストを中心に、ボイドはクリスチャンとしてのすべての信仰箇条を位置づけていきます。ここでポイントとなるのは、すべての信仰箇条は同じ重要性を持っているわけではないということです。より重要な要素は中心に近く、そうでないものは遠くというように位置づけていくと、クリスチャンが信じているさまざまな信仰箇条は、次のような同心円上に分布することになります。

信仰の同心円モデル信仰の同心円モデル

ボイドは中心に近い内側の輪を「教義dogma」と呼びます。これは歴史的正統キリスト教会が一貫して尊重してきた最も重要な信仰箇条で、ニカイア信条や使徒信条などで告白されているような内容です。ここにはたとえば三位一体論、キリスト両性論(イエス・キリストの神性と人性を両方とも認める立場)などが含まれます。

次の輪は「教理doctrine」と呼ばれます。ここには、正統的キリスト教会が常に受け入れてきたものの、その理解については見解の違いがあるようなものが含まれます。このレベルにおける立場の違いによって、様々な教派が分かれてきます。たとえば、神がこの世界を統治されるということはすべてのクリスチャンが認めてきましたが(つまりこれは教義です)、神がどのようにその統治を行われるかについては、見解の違いが存在します。つまり、神が歴史上起こるすべてのことがらを直接コントロールされるのか、それとも被造物にある程度の自由意志を与えておられるのか、ということです。

最後に、一番外側の輪は「意見opinion」と呼ばれます。これは個々のクリスチャンが時として主張することがあっても、キリスト教会全体において広く支持されることはないものです。これは特定の教理の異なる解釈として生じてくることが多いです。ボイドはこの中に含まれるものの例として、創世記1章1節と2節の記述の間には長い時間的隔たりがあるという、いわゆる「ギャップ理論」や、未来は部分的に開かれているという考え(いわゆるオープン神論)を挙げています。

ボイドはこのような信仰のモデルには多くの利点があると言います。このモデルは柔軟性に富むために、個々の信仰者が、中心であるキリストとのいのちにあふれる関係を保持しつつも、知的・霊的に成長していくことを容易にします。彼らのいのちがキリストに根ざしている限り、どのような問題について悩んだとしても、それらに真摯に向き合うことができるのです。したがって、このモデルを採用することによって、クリスチャンは異なる立場の信仰者やノンクリスチャンと、さまざまな主題について、愛をもって、防御的にならず、理性的に話し合うことができるようになる、と言います。これはまさに「確実性追求型」信仰、「トランプの家」的信仰の弱点をカバーする重要な利点であると言えます。

ボイドはさらに、このモデルは他者に福音を分かち合う時にもたいへん有効であると言います。多くの人々はキリストとのいのちにあふれる関係に魅力を感じながらも、キリスト教会が「福音」をさまざまな要素(聖書の無誤性、若い地球の創造論など)からなる「パッケージ」として提供し、その全体を受け入れるか、拒否するかの二者択一を迫るために、その一部でも受け入れられない場合、福音の全体を拒絶してしまうという残念な事態が生じています。しかし、同心円モデルでは、人々はまずキリストと人格的関係を持つことから始め、歴史的正統キリスト教会の教義を学ぶところから出発して、あとは自分の知的興味に応じて自由にさまざまな主題を吟味し、成長していくことができます。そこでは、さまざまな教理や意見に関する議論は信仰に入るための前提条件ではなく、すでに信仰を持った者たちの間の「仲間うちの議論」として位置づけられます。そして、このレベルにおける立場の違いは、キリストとのいのちあふれる関係を脅かすことはないので、愛をもって、防御的にならず、楽しみさえ覚えながら行うことができるとボイドは言います。

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このブログを開設当初から読んでくださっている方は、ここでボイドが提示している「同心円モデル」は、「違いの違いが分かる男(女)」で提案したモデルとよく似ていることに気づかれたことと思います。ただし、そこには一つ違いがあります。私がかつて提案していたモデルには、中心に人格としてのキリストの存在がなく、すべてが信仰箇条の相対的重要性のみによってとらえられていました。今では私も、ここでボイドが提案しているように、イエス・キリストの人格をすべての中心に置くモデルの方が好ましいと考えています。しかし、基本的な考え方は同じです。クリスチャンとしての信仰箇条には重みの違いがあり、最も重要な部分において一致していれば、相対的に重要でないことがらに関する意見の違いは、クリスチャンとしての交わりを妨げることはないはずなのです。

この問題は次のように考えることもできます。ある人々は「正統的・聖書的キリスト教信仰」を明確な境界線をもって定義される「領域」と考えています。すなわち正統的クリスチャンを特徴づける一群の信条や行動規範があり、それを外れた(境界の外にある)信条や行動は「異端的」「非聖書的」「非キリスト教的」として拒否する態度です。そこでは「内と外」「白と黒」「天国(救い)と地獄(滅び)」がはっきりしており、人々の関心はいかに境界線を厳密に「定義」し、誰が中にいて誰が外にいるかを「判定」することに向けられます。このような考え方を「境界線思考」と呼ぶことができると思います。

境界線思考

これに対して、ボイドの提唱する同心円モデルのように、イエス・キリストという人格を中心にして、その中心への距離感によってものごとの重要性を相対的に判断していく考え方もあります。これを「中心点思考」と呼ぶことができるでしょう。

中心点思考

この中心点思考では、どこまでが「正統的キリスト教」という明確な境界線があるわけではありません。このモデルでも、中心から離れれば離れるほどクリスチャンとしての正統性に疑問が増していきますが、「境界線思考」と違って、白と黒の明確な区別があるわけではありません。ある意味ファジーなモデルといえますが、福音の中心であるイエス・キリストとの人格的関係を基盤にしつつ、互いの違いを認め、また互いの不完全さも認めつつ、互いに交わり、励まし合いながら、共に成長していこうとするものです。

私の少年時代には、「太陽系は中心の太陽と水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星の9つの惑星からなる」と教わったものでした。けれども、近年では冥王星が「惑星」としての資格を失っただけでなく、これらの惑星の外側にもさまざまな準惑星や小惑星が存在し、「エッジワース・カイパーベルト」や「オールトの雲」といった外縁天体もあることが分かってきました。オールトの雲は長周期彗星の起源と考えられており、理論上その存在が推測される仮説的天体だそうですが、大きく見積もると太陽から10万天文単位(1天文単位は太陽から地球までの距離)の大きさにまで拡がっている可能性があるそうです。いずれにしても、実際の太陽系の外縁は雲のようなとらえどころのないものであり、昔のように「冥王星の軌道までが太陽系」という明確な境界線が引けなくなってきたようです。

F_oort_cloud太陽系(画像は”F oort cloud” by Jedimaster投稿者自身による作品. Licensed under CC 表示-継承 3.0 via Wikimedia Commons.)

キリスト教信仰もまた、イエス・キリストという「太陽」を中心として、その重力圏内でキリストの周りを回転運動する「キリスト系」あるいは「キリスト圏」のようなものととらえることができるかもしれません。これは「何でもあり」のモデルではありません。惑星と外縁天体ではかなりの違いがあります。けれども、それらの間に明確な境界線を設けない「中心点思考」の信仰モデルの方が、信仰のあり方として健全であり、またポストモダンの現代社会においてクリスチャンとして歩む上でも有効であると考えています。

(続く)

確かさという名の偶像(9)

(シリーズ過去記事        

少し間が空いてしまいましたが、グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズを続けます。今回は第3章「確実性という偶像」の続きです。

「神学」や「聖書」という偶像

あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。(ヨハネ5章39-40節)

ユダヤ人の宗教指導者たちとの対話の中で、イエスは彼らが熱心に(旧約)聖書を研究し、それに精通していたにもかかわらず、聖書が指し示している、「いのち」の源であるイエスご自身のもとに来ようとしないことを指摘しました。ボイドはこの箇所から、聖書を知り、聖書に基づいた教えを信じていたとしても、それが彼らをイエスに導くことがなければ、彼らは聖書から「いのち」を得ることができないと言います。前回定義したように、偶像とは私たちが「いのち」を得ようとして神の代わりに用いようとするあらゆるものを指します。したがって、このユダヤ人指導者にとって聖書は偶像になっていたということができます。ボイドは言います:

このエピソードは、私たちが何かを信じる信じ方によっては、私たちが信じるその何かは偶像になってしまい、キリストから「いのち」を得ることの妨げとなることがある、ということを示している。そしてそれは、私たちの信じている内容が完全に正しいものであったとしても、そうなのである!そしてこのような事態は、私たちが「いのち」の唯一のまことの源であるお方との関係のゆえではなく、私たちが信じていることがらのゆえに、自分は神とうまくやっていると確信するときには、いつでも起こるものだ。もし自分の信条の正しさに対する確信によって、私たちが神とうまくやっていると感じているとしたら、自分の信条についての確信は、事実上私たちの神となっているのである。これによって私たちは「いのち」についての偽りの感覚を持ってしまうのだ。(p. 63)

ボイドはさらに、このような信仰的態度は、誤った神観に基づいていると言います。つまり、ユダヤ人宗教指導者が前提としている神は、熱心な聖書研究や正確な聖書知識を人間そのものよりも尊ばれる神だということです。このような神観は、十字架において啓示されたまことの神の姿よりも確実に劣ったものであると彼は言います。そして、あらゆる罪と偶像礼拝の根源には、このような誤った神観、信頼の置けない、「いのち」を与えることのない神のイメージがあるというのです。

ボイドはこのことを結婚を例にして説明します。二人の人間が結婚するとき、夫婦はお互いに相手がどのような人間であるかについて、さまざまなことがらを信じて、結婚の誓約を交わします。相手についてのそれらの信念が正確なものであるか、二人は絶対的な確信を持っているわけではありませんが、ある一定レベル以上の確信があるならば、残りの生涯を通して相手に対して献身するという決断をすることができるわけです。ボイドによると、結婚生活においては相手に関する知識の確実性を追求することよりも、不確実な見通しの中でも相手の人格に対して進んで献身することが重要なのです。そして、それはまさに私たちと神との関係についても言うことができます。神との関係において重要なのは私たちの神に関する信念の確実性よりはむしろ、私たちがそのような信念を通して信じている神という人格(ペルソナ)なのです。

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ここでボイドが述べている主張は大変重要なものであると思います。ボイドの議論の核心にあるのは、クリスチャンにとってもっとも重要なのは私たちが信じている内容の絶対的正確さやそれについての確信ではなく、キリストを通した神との人格的な関係である、ということです。ボイドは熱心に聖書を学ぶことや正しい神学的知識を持つことの重要性を決して否定しているわけではありませんが、それらは目的ではなく、あくまでも私たちがイエスを通して神と関係を持つための手段に過ぎないことを忘れてはならないと警告するのです。

教会史における最初期の異端にグノーシス主義と呼ばれるものがあります。「グノーシス」とはギリシア語で「知識」という意味です。グノーシス主義についてひとくちで説明することは大変難しいのですが、ここでの議論との関連で重要と思われる点だけを指摘すると、グノーシス主義とは神と自己に関するある特別な「知識(グノーシス)」を得ることによって救われる、という宗教・思想運動でした。

グノーシス的な救済は無知からの救いであって、罪からの救いではない。知識は救いの手段ではなく、救いそのものであった。(Everett Ferguson, Backgrounds of Early Christianity, 3d ed., p. 310)

実はこのようなグノーシス主義的な考え方は、形を変えて現代のキリスト教会の中にも見られるのではないかと思います。ある人々は教理的正確さにこだわるあまり、あたかもそれがクリスチャンの信仰生活にとって最も重要なゴールであるかのようにとらえ、人の永遠の救いは、いかに正しい神学を身につけるかによって決まると考えています。そうすると、ある特定の教理を信じるかどうかということが、救われるかどうかを左右するということになります(その「特定の教理」の内容は人によってさまざまに定義されますが)。このようなタイプの信仰者にとって、教理的な意見の相違は非常に重大な意味を持っており、この点において意見の異なる人々との交わりを拒んだり、極端な場合は彼らの救いを否定したりすることも少なくありません。

しかしこれは、人は神についての正しい神学的知識を得ることによって救われる、というグノーシス的な発想にほかならないと思われます。そしてこのような考え方はさまざまな問題を含んでいると思われます。

第一に、限界のある人間存在が、はたして神に関する完全な知識に到達することは可能なのかという疑問があります。二千年もの間、教会はさまざまな神学論争に明け暮れてきましたが、いまだに全キリスト教会が合意できるような「完全な神学」を持つには至っていません。それに、各人の神学もその信仰人生の歩みに伴い変化していきます。したがって、「完全な神学的正確さ」を追求することは非現実的ですし、ましてやそれを救いの基準にすることはできません。

第二に、神は人間を救われるかどうかを、その知識の量や正確さによって決定されるのか、ということははなはだ疑問です。もしそうだとすると、神学の博士号を持っている人間は、ちいさな子どもよりもより救いに近いことになりますが、必ずしもそうではないように思います。上の結婚のたとえで言うと、夫が妻の誕生日を一日間違えたからといって、それが離婚の理由になるでしょうか?聖書は神と人との関係を父親と子どもにもたとえていますが、子どもが父親のあらゆることについて正確な知識を持っていなければ愛されないということはありません。

ボイドが言うように、この問題は私たちが神をどのようなお方としてイメージしているかに関わってきます。私たちの信じている神は、及第点に達しなければ容赦なく落第させる厳格な教師のような神でしょうか?それとも、私たちの不完全さにかかわらず、子であるがゆえに愛し導いてくださる父親のような神でしょうか?

もちろん、どのような存在であれ、相手と意味のある人格的関係を持つことができるためには、相手についてある程度の知識を持っている必要があります。そして、交わりを深めていくにつれて、相手のことをもっと良く知りたいと思うようになるのは自然なことでしょう。ですから、神学が神との交わりの中に不要であるとか意味がないということではありません。しかし、私たちが神との人格的交わり以上に神学や聖書の知識を重視していくとき、それは私たちにとって偶像になっていくのです。

人は救いに関する特定の教理を信じることによって救われるのではありません。たとえば、「人は信仰によって義とされる」という聖書の教えは、「信仰義認の教理を信じることによって救われる」ということではありません。そうではなく、イエス・キリストと出会い、この方を主として信頼し、生きた人格的つながりを持っていく時に人は救われるのです。

(続く)

確かさという名の偶像(5)

(シリーズ過去記事    

前回に引き続き、グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)第2章「感情のとりこ」について見ていきます。この章で彼は確実性追求型信仰の持つさまざまな問題点を指摘しています。

神観の違い

まずボイドは、あらゆる神学や実践の妥当性を判断する際に用いるべき重要な基準について述べます。それは、「そのような神学や実践は、どのような神観を前提としているのか?」ということです。

より具体的に言うと、神の真のご性質の究極的啓示はイエスであるので(ヘブル1章3節)、私たちは特定の信条や実践が前提としている神の像が、キリストにおいて表された神について私たちが知っている内容と整合性があるのかどうか、を常に問う必要があるのだ。(p. 37)

前回の記事で紹介した、がんに冒された若い男性のいやしを求める祈祷会で、ボイドの頭の中にはもう一つの奇怪なイメージが浮かんできました。その中で神は天から地上を見下ろして、彼らに向かってこう言います。「もし私がこのがんをいやすことをおまえたちが確信するなら、私はそのことをしよう。けれども、そうしないなら、彼は死ぬだろう。」ボイドには、あたかも神がこの男性を人質にとって、彼の頭に銃を突きつけ、そのいのちを助けて欲しければ彼が助かることを確信するようにと脅迫しているように感じたというのです。

Ludovico_Mazzolino_-_God_the_Father

その時ボイドは、これはイエスがなさるはずこととはかけ離れていると思いました。それどころか、人間があることがらを心理的に強く信じ込めるかどうかによって、人をいやしたりいやさなかったり、救ったり救わなかったりする神は、信仰者に信じられないことを信じるという心理的な拷問を強いる、サディスティックな「アル・カポネ的神」であると言います。つまり、確実性追求型の信仰が描き出す神観は、イエス・キリストにおいて啓示された聖書的な神観とはかけ離れているのです。

信仰と魔術

ボイドが指摘する確実性追求型信仰のもう一つの問題点は、このようなタイプの信仰は聖書的な信仰を魔術と置き換えてしまうことだということです。「魔術magic」とは、ある特定の行動をとることによって、霊的世界に影響を与え、それを通して何らかの利益を得ようとする行為をさします。ボイドは聖書的信仰と魔術の違いを説明します:

「魔術」と聖書的信仰の間にある多くの相違点の一つは、魔術においては究極的にはそれを実践する者が利益をえるために行われる行動が重要であるのに対して、聖書的信仰では相互の信頼に基づく契約的な関係を養うことが重要だということである。そして、信頼に基づくすべての人間関係がそうであるように、神と人との関係はお互いに対して益となるのだが、彼らは何か他の目的のための手段としてそのような関係に入るわけではない。魔術的信仰は功利的であるのに対して、聖書的信仰はただ誠実なものである。(p. 39)

さて、このような信仰と魔術の違いを認識すると、確実性追求型の信仰は実は聖書的信仰よりも魔術に近いということが分かります。たとえば、ある人の病のいやしのために祈る時、確実性追求型信仰者は、特定の利益(この場合は病のいやし)を得るために、霊的世界(この場合は神)に対して影響力を与えるべく、特定の行為(この場合は、神がいやしてくださるという心理的確信を持つこと)を行います。これは聖書的な信仰者の祈りと一見同じように見えますが、その動機と、その人の内面で起こっているプロセスはまったく違うものです。

さらにボイドは、この種の信仰が「救い」ということに関してはさらに深刻な問題をはらんでいることを指摘します。確実性追求型の信仰によると、人間の救いはある特定の「救われるために最小限必要な」教理をその人がどれだけ確信を持って信じることができるかによって決まります。同時に、すべてのクリスチャンが罪を犯す存在であることは広く認められているにもかかわらず、ある特別重い罪があって、その「一線を越えてしまう」と、悔い改めない限りその人は救いを失うと考えられています。たとえば、多くのクリスチャンは貪欲や大食やゴシップは(それが聖書の指摘する罪であるにもかかわらず)大した罪だとは考えていませんが、同性愛のような罪は「滅びに至る」罪であると考えています。ボイドがここで問題にしていることは、個別の罪の軽重を比較することではなく、このような物の考え方は聖書的なものなのか、それとも魔術的なものなのか?ということです。彼によるとそれは後者です。

多くのクリスチャンは、ある特定の「救いに必要な」教理を十分な確信をもって信じ、「一線を越える」ような種類の罪を犯さないように努めることで、神から救いを得ようとします。ボイドによると、これは魔術的な信仰理解です。もちろん、そのようなクリスチャンが信じている内容は異教の魔術とはまったく異なるものです。しかし、彼らの信仰の持ち方、そして信じる動機は非常に魔術的であるとボイドは言うのです。

次回も2章の続きを見ていきます。

(続く)

 

 

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(4)

その1 その2 その3

前回に引き続いて、第2部「太陽を見つめる」を見ていきます。前回とりあげた第5章では、ライトはキリスト教の世界観を提示しました。すなわち、神がおられる場としての「天」と、人間が住む場としての「地」は、完全に一致しているわけでも完全に分離しているわけでもなく、部分的に重なり合い、かみ合っている関係でとらえられています。

第6章から第10章まで、いよいよライトはキリスト教が提示する物語(ストーリー)とはどのようなものかを語り始めます。第5章で彼が世界観について語ったのは、いわばその物語のための舞台を設定する作業だったと言って良いと思います。

キリスト教のメッセージとは何かということについて、ライトは第5章の冒頭で次のように語っています。

クリスチャンは、神と世界についての真実の物語(ストーリー)を語っていると主張する。(81頁)

ここで彼が使っている「物語(ストーリー)」ということばに注目する必要があります。ライトはキリスト教のメッセージとは、抽象的な教理の体系ではなく、なによりも一つの物語であると主張しているのです。

キリスト教のメッセージの中心的な資料は言うまでもなく聖書です。では聖書とはどのような本なのでしょうか?多くの人々は、聖書とは人がいかに生きるべきかのマニュアル、救われるために何をすべきで何をしてはいけないかが書かれているルールブック、または、神についてのさまざまな情報が述べられている百科事典のようなものであると考えています。聖書にそのような側面がないわけではありませんが、それらは聖書の本質をとらえた理解ではありません。実際に聖書を手に取ってみれば一目瞭然ですが、聖書はマニュアルやルールブックや百科事典のように、主題別に系統立てて整理されて書かれている書物ではありません。時にはそのように読める部分もありますが、それらはさらに大きな全体の一部に過ぎないのです。

聖書を全体としてとらえたとき、最も適切な理解は、それを一つの長い物語(ストーリー)として読むことです。旧新約聖書66巻からなる正典聖書は全体としてみれば、宇宙と人類の創造に始まり、人類の救済と宇宙の再創造に至る、一つの壮大な物語であると言うことができます。

(先に進む前に一言ことわっておきますが、ライトが聖書について「物語」や「ストーリー」と言う時、それは必ずしも「作り話」「フィクション」という意味ではありません。聖書学ではそのような誤解を避けるために「ナラティヴ」という用語を使うこともあります。)

西洋のキリスト教において、聖書はしばしば神や世界、人間についての命題(「神は愛である」「すべての人は罪人である」等々)を含む書物であり、神学の任務は聖書のあちこちに断片的に含まれるそのような命題を抽出して、聖書以外の情報源(人間の体験や理性や伝統など)も加味しながら体系的に整理しなおすことであると考えられてきました。そのような営みを「組織神学」といいます。

組織神学は、キリスト教の信仰内容を秩序だって提示するにはたいへん有益ですが、一つの問題が生じます。つまり、組織神学においては、神のことばである聖書は、命題的真理を抽出するための単なる素材に過ぎなくなってしまうということです。神学者の務めは、聖書という鉱床から様々な神についての命題という原石を掘り出し、磨き上げ、種類ごとに整理して陳列することであって、ひとたび見事な宝石のコレクションが完成したら、もはや元の鉱床が顧みられることはありません。同様に、もし神学者たちが聖書に含まれるあらゆる命題的真理を正確に抽出し、緻密な体系に組み立てていくことによって、「完璧な組織神学書」が書かれることができた暁には、もとの聖書そのものは、果汁を絞り尽くされた後のオレンジの皮のように、用済みになってしまうのでしょうか?

もちろん、実際にそのようなことが口に出されることはありません。神のことばとしての聖書には、(少なくとも形式的には)今も昔も十分な敬意が払われ、尊重されています。けれども実質的には、聖書は神についての命題的真理という宝物が豊富にしかしランダムに詰め込まれた宝物庫のようにみなされていることが多いように思います。これは神学者だけの話ではありません。多くのクリスチャンが「デボーション」と称して日々聖書を読んでいます。しかし、しばしばそこで読まれる断片的な聖句は聖書全体の大きなストーリーラインの中で理解されるのではなく、その日の箇所からいかに貴重な「霊的教訓」を得ることができるかということに関心が寄せられています。そのような聖書理解は、多くの場合オリジナルの文脈から切り離された解釈で、聖書記者の意図とはかけ離れたものであるばかりでなく、そもそもそのような「教訓」を適用すべき自分たちが、歴史における神のご計画の中でどのような位置にあるのかも顧みられずになされることが多いため、かなり偏った主観的な解釈と適用に終わってしまうことが少なくありません。

組織神学がまったく無用の長物だというつもりは毛頭ありません。しかし、長らく西洋のキリスト教では聖書の命題的側面がナラティヴ的側面に対して過度に重視されてきたことは事実です(恐らくこれと関連して、新約聖書学において、福音書がパウロ書簡に比べて相対的に軽視されがちな傾向もあったと思います)。これに対して、20世紀になって聖書のナラティヴ的側面を重視しようとする流れが起こってきました。ライトもその流れの中にあると考えることができます。

物語は要約してしまうとその魅力やインパクトを失ってしまいます。言い換えると、ナラティヴは単なる命題の集合に還元することはできないのです。ナラティヴを本当に理解するためには、その全体を読み、味わい、その物語世界に入り込んでいって、一連の出来事を追体験していくことが必要になってきます。そして、ライトによると、これこそがまさに聖書の正しい読み方なのです。クリスチャンは聖書を物語として読み、聖書に描かれている神の物語を語り告げる民なのです。その物語とは、神がいかにして人類と被造物世界の救いを達成されるかという救いの歴史、「救済史」にほかなりません。

このように、本書において、ライトは前回見たような天と地が部分的に重なりあう世界観を縦糸に、救済史を横糸にして、キリスト教とは何かを描き出していきます。次回は、ライトが描く聖書の救済史について具体的に見て行きたいと思います。

(続く)

 

 

関野祐二先生講演会「『福音』とは何か」

昨日5月11日(月)、日本福音主義神学会中部部会の春の公開講演会が金山キリスト教会を会場に開かれました。毎年中部部会の春の講演会は、中部以外の地区の先生を講師としてお招きしていますが、今年は関野祐二先生(聖契神学校校長)をお招きして、「『福音』とは何か」というテーマでお話しをいただきました。

関野師講演会2 関野氏講演1

関野先生は昨年11月に関西聖書学院で行われた福音主義神学会の全国研究会議でも、教理部門の主題講演を担当されました。こちらのサイトにその時のレジメと講演動画(部分)がアップされています。その講演内容を元に、『福音主義神学』45号に「震災後の日本における福音主義神学の教理的課題」という論文を発表しておられます。

これらの講演及び論文では、現代福音主義神学の多様な課題を概観する内容になっていましたが、今回の中部部会の講演会では、さらにテーマを絞って、「福音」についてお話しをいただき、ディスカッションの時を持つことになりました。

「福音(良い知らせ)」は単に「福音派」と呼ばれる人々だけでなく、すべてのキリスト者の信仰の基盤であり、中核であるべきものです。しかし、クリスチャンは「福音」をあまりにも身近に感じているがゆえに、その言葉の意味内容を良く把握しないままで使ってしまっている部分があるのかもしれません。また、近年英米の福音主義キリスト教会の内部でも、罪の赦しと魂の救いに特化した個人主義的な福音理解を超えて、福音とは何かを改めて問い直す動きが起こってきており、そのような問題意識は日本でも共有されるようになってきました。その象徴的な事件が、スコット・マクナイトの『福音の再発見』が邦訳出版されたできごとでしょう。今回の講演会でも、約20名の方々が参加してくださいましたが、これは小所帯の中部部会にしては多い方でした。このテーマへの関心の深さを伺わせます。

当日は私が司会を務め、まず先生から約90分の講演をいただき、それを受けて会場からの質疑応答とフリーディスカッションの時を持ちました。自分と異なる見解を最初から切り捨てようとするのではなく、相手の立場を尊重した実り多いディスカッションができたと思います。後で関野先生からいただいたメールでも、「講演会では、従来の福音派でははじかれてしまうような話も皆さんがよく聞いてくださり、ディスカッションにも加わって、いわゆる『斜に構える』ような方が誰もいらっしゃらなかったのが幸いでした。」とおっしゃっていただけました。

「『福音』とは何か」というテーマでは、当ブログでも以前に投稿したことがありましたが(その1 その2)、関野先生はまた少し違った視点からこのテーマにアプローチしてくださいました。私自身も大変良い刺激を受け、多くを学ばせていただくことができて感謝しています。

余談ですが、関野先生とは講演会前に中部部会の理事会と昼食をご一緒しながら楽しい交わりの時が与えられました。天体観測がご趣味という先生は、同じく天文マニアのT理事と星や望遠鏡の話で大変盛り上がっておられました。講演会の後はすぐに東京に戻られ、聖契神学校で夜の授業を教えられたということです。お忙しいスケジュールの中、名古屋まで来てくださった関野先生と、参加者の皆様に感謝いたします。

さて、肝心の先生の講演内容については、次回の投稿でご紹介したい思います。その際、本ブログ初となる、ある試みを行おうと考えています。

おことわり:私は中部部会の理事長という立場にある者ですが、このブログ記事の内容はあくまで私個人の見解であり、中部部会の見解を代表するものではありません。)

 

 

 

 

 

 

C・S・ルイスの「七つの大罪」?

C・S・ルイスは20世紀の最も影響力のあったクリスチャン著述家の一人と言えるでしょう。映画にもなった児童文学の傑作「ナルニア国ものがたり」シリーズをはじめ、『キリスト教の精髄(Mere Christianity)』、『悪魔の手紙(The Screwtape Letters)』などを読まれたことのある方も多いと思います。

ルイスは英国国教会に属していましたが、教派を超えて、特に英米の福音主義キリスト教界に今日に至るまで強い影響力を持ち続けています。彼の死後40年以上も経った2005年にルイスはアメリカ福音派の雑誌『クリスチャニティ・トゥデイ』の表紙を飾りました。その号の「C. S. Lewis Superstar」と題されたカバーストーリーでは、ルイスを「福音派のロックスター的存在」と形容しています。

CTonCSLewis

ところが、福音派におけるルイスの絶大な人気とは裏腹に、彼のキリスト教信仰は標準的な福音主義プロテスタントのそれとは必ずしも一致しません。それどころか、保守的な福音派のクリスチャンなら戸惑いを隠せないような側面が彼の信仰にはあったのです。

フランク・ヴィオラは「C・S・ルイスのショッキングな見解」と題するブログ記事を書いています。その中で彼はルイスが信じていた6つの「ショッキングな」ことがらを列挙しています。

1.ルイスは煉獄の存在を信じていた。

2.ルイスは死者への祈りの有効性を信じていた。

3.ルイスは地獄に堕ちた者が死後に恵みへと移行することは可能であると信じていた。

4.ルイスは全てのクリスチャンが禁酒すべきだという考えは間違っていると信じていた。

5.ルイスはカトリックのミサは聖餐の妥当な理解であると信じていた。

6.ルイスはヨブ記は史実ではなく、聖書は誤りを含むと信じていた。

ヴィオラ自身が述べているように、これらのルイスの見解がすべてのクリスチャンにとって「ショッキング」というわけではありません。しかし、これらの項目は、多くの保守的な福音派クリスチャンにとってはかなり受け入れがたいものではないかと思います。

ヴィオラが挙げているのは以上の6項目ですが、私はこれに7番目を付け加えたいと思います。

7.ルイスは生物の進化を信じていた。

神学的には乱暴な表現であることを承知であえて言うなら、これらの7ポイントは福音派にとってのルイスの「七つの大罪Seven Deadly Sins」と言ってもよいかもしれません

ちなみに「七つの大罪」とは、カトリック教会において、悔い改めなければ永遠の死に至るとされる七つの罪のことで、伝統的に「傲慢」「嫉妬」「憤怒」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」がこれに当たります。ただし、ここで述べているルイスの「七つの大罪」はあくまでもアナロジーですので、これらのカトリックの概念に対応しているわけではありません。「福音派のクリスチャンにとって、ルイスのキリスト教信仰の正統性を疑問視させる根拠となりうるような7つの信仰内容」程度に受け止めていただければ幸いです。

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さて、このようなルイスの「ショッキングな見解」について、どう考えるべきでしょうか?この記事の趣旨は上に列挙したルイスの考えが教理的に正しい「聖書的な」ものかを吟味することではありません。むしろここで提起したいのは、上で述べたような神学的見解を持っているからといって、福音派のクリスチャンはルイスのキリスト教信仰の正統性を否定すべきなのか?(通俗的な表現を使えば、ルイスは天国に行けたのか?)という問題です。言い換えれば、これら(福音派にとって)非正統的な信仰内容は、ルイスのいわば「死に至る罪」なのでしょうか?

ここで、ヴィオラのコメントに耳を傾けてみましょう。

(このような「ショッキングな見解」について記事にする理由は)これらの人々が今日の福音派の大多数が眉をひそめるような意見を持っていたからといって、キリストのからだに対して彼らの貴重な思想がおこなった貢献が覆されたり否定されたりすることはない、ということを示すことにある。

不幸なことに、多くの福音主義者は、いわゆる教理的誤りについて、キリストにある兄弟姉妹をすぐに軽視したり、罵倒さえしたりする。それらの兄弟姉妹たちが歴史的正統信条(使徒信条、ニカイア信条など)を堅持していたとしても、である。そのような軽視や罵倒は神の国に属する者たちの誰にも益することがなく、いつでも避けることができるものである。

ここでヴィオラは「歴史的正統信条」について触れていますが、これを堅持しているということは、キリストと使徒たちに起源を持ち、二千年にわたって受け継がれてきた正統的信仰の中核的部分を共有しているということです。これらの信条は、教派を問わず世界中のすべての正統的キリスト教の最大公約数的な信仰内容を要約したものであると言えます。ここでは、その一つとして「使徒信条」を取り上げたいと思います。

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。
アーメン。

さて、この信条の内容と上で述べたルイスの「七つの大罪」とを比較してみると、ルイスの「ショッキングな見解」のどれ一つとして、使徒信条の内容と矛盾するものはないと言えます。おそらくルイスは、何の留保もなく使徒信条を告白していたことでしょう。

このことは、ルイスの信じていたことがすべて正しいということではありません。ルイスと他のクリスチャンとの間には多くの解消しがたい意見の相違があり、ルイスの信じていたことの少なくともいくつかは間違っている可能性もあります。しかし、あらゆる点で完全無欠な教理の体系を持つことは誰にもできません。大切なことは、ルイスの信仰は歴史的正統キリスト教の中核的信仰告白とは何ら矛盾しないのであり、その意味で「正統的信仰」であったということです。つまり、ルイスが「教理」や「意見」のレベルでは多くの福音派クリスチャンと異なる部分を持っていたとしても、「教義」のレベルでは両者は同意することができるのです。(「教義」「教理」「意見」についてはこちらの過去記事をご覧ください。)

福音派のクリスチャンがルイスの神学的見解のすべてを受け入れる必要はありません。しかし、彼の「ショッキング」な見解を知って彼を異端視したり、彼の豊かな信仰的遺産から学ぼうとすることをやめてしまうのはたいへん不幸なことであると思います。むしろ、彼の一見違和感を覚えるような見解と向き合い、じっくりと吟味していくことによって、福音派自身の信仰を見つめなおしていく機会も与えられてくるのではないかと思います。

C・S・ルイスは「福音派」ではありません。しかし、彼はこれからも多くの福音派プロテスタントにとって「スーパースター」であり続けるでしょうし(偶像視するという意味ではなく、大きな影響を受けるという意味で)、それは福音派にとっても良いことであると思います。

違いの違いが分かる男(女)

以前、「違いが分かる男の○○」というインスタント・コーヒーのCMがありました。シリーズ化されて、いろいろな有名人が出ていました。独特の音楽とナレーションで、今でも記憶に残っています。

「違いが分かる男」がはたしてインスタントを選ぶのかという疑問は別にして、「違いが分かる」というのはキリスト教界においても重要なことです。自分の教会を一歩出ると、同じクリスチャンでも多くの主題について多種多様な理解を持っていることが分かるものです。礼拝や賛美の形式から始まって、聖書や救いや終末についての理解など、同じ神を信じ同じ聖書を読んでいても、ここまで違うのかと驚くこともあります。

個人的には、そのような違いを認識すること、まさに「違いが分かる男(女)」になることは、信仰者として健全なあり方であると思います。自分の信仰理解が全てではないこと、キリストのからだなる教会の大きさを知ることは、とても大切なことです。しかし、そこから一歩進んで「違いの違いが分かる男(女)」になる必要があると思います。

ややこしくなってきたので、説明しましょう。

自分と他人との違いを認識することがすべてのスタートです。しかし、違いを認識しただけではまだ「対話」や「協力」「成長」にまで結びつきません。その違いにどう向き合っていくかが大切です。そのためには、「違いには違いがある」ということを知ることです。つまり、すべての意見の違いは同じ重要性を持っているわけではないということです。

コーヒーを飲むのにA社の製品を選ぶかB社の製品を選ぶかは、普通それほど大きな問題ではありません。しかし、Aさんと結婚するかBさんと結婚するかは重大な選択であり、それによってその後の人生が大きく左右されてきます。したがって、AコーヒーとBコーヒーの違いは、AさんとBさんの違いに比べれば些細なものと言えます。このように、違いの中には、単なる「見解の違い」で片付けることができず、「ここはどうしても譲れない」というものがあります。一方、違っていても同じ信仰者としてまったく問題なく協力していけるようなものもあります。

こだわるべき違いにこだわることをしないと絶対的な真理を否定する多元主義・相対主義に陥り、こだわるべきでない違いにこだわり過ぎると排他的な原理主義・セクト主義に陥ってしまいます。私たちはこの両極端を避けなければなりません。そのためには、違いの重要性をレベル分けすることが有益です。

クリスチャンは神について、人間について、世界について膨大な数のことがらを信じています。けれども、どの信仰内容も同じように重要であるわけではありません。試みに、私たちの信仰内容の重要性に従って、1.教義、2.教理、3.意見の3段階に分けてみます。

教義教理意見

教義(dogma)は、正統的キリスト教信仰の根幹をなす基本的な信仰内容で、これを否定すればキリスト教でなくなってしまう(つまり異端ということ)内容のことがらを言います。たとえば三位一体論、キリストの神性と人性などです。教義の部分での一致は私たちが「クリスチャンとして」一致するためには必要不可欠で、この部分での意見の違いを受け入れることはできません。ごくおおざっぱに言うなら、歴史的キリスト教会が受け入れてきた信条(使徒信条、ニカイア・コンスタンティノポリス信条等)に含まれる内容は教義に入ると考えてよいでしょう。

教理(doctrine)は、キリスト教内部のある特定のグループでは共通の立場を取ることを求められるが、上の「教義」のレベルには入らないようなものを言います。ローマ教皇の権威を認めないローマ・カトリックの信徒というのは難しいと思いますし、浸礼(全身を水に浸す洗礼方式)を認めないバプテスト派というのも原則としてはありえないでしょう。しかし、このレベルで立場の違いがあっても、その特定のグループのメンバーにはなれないかもしれませんが、クリスチャンでなくなるわけではありません。他にも聖餐式の理解など、いろいろあると思います。

最後に、意見(opinion)はさらに下位のレベルの信仰内容で、同じグループ(教会)内で立場が違っても構わないようなものを言います。細かい聖書箇所の解釈の違いの多くは、この意見のカテゴリーに含まれます。このレベルで立場の違いがあっても、私たちは同じグループ内で一緒に信仰生活を送っていくことができるのです。

これらの3つのカテゴリーに具体的にどういった信仰内容が含まれるのかを細かく論じるスペースはありませんし、人によって線引きも多少異なってくるでしょう。重要なのは、私たちの信仰内容をその重要度によって区別するということです。このようなニュアンスのある信仰理解を拒絶して、フラットな信仰理解を取ってしまうと、いろいろな弊害が生じます。

たとえば、自分たちの信仰内容のすべてを「教義」のレベルでとらえている人たちは、どんな些細な点においても、立場の違いを認めません。これはセクト主義の立場です。逆に、すべてを「意見」としてしか見ない人々は、絶対的な真理の基準を見失い、何でも受け入れてしまいます。これが相対主義の立場です。私たちはクリスチャンとして一致すべき部分と、多様な立場があってもよい部分を、バランスよく見極め、後者のレベルで立場の異なる人々とも協力していく態度を養っていく必要があります。

世の中には、対話のできる相手とできない相手がいます。対話ができる人は、必ずしも私たちと同じ意見を持っているとは限りません。そのような人々は、「違いの違いが分かる男(女)」なのです。私たちも、そのようになっていく必要があります。

(2015年11月追記) この記事で提案した「教義・教理・意見」の同心円モデルについては、グレッグ・ボイドが同様のモデルを提案しています。彼のモデルでは、すべての中心にイエス・キリストの人格を置いており、今では私もそちらのモデルの方が好ましいと考えています。詳しくは「確かさという名の偶像(17)」をご覧ください。