今年は5月10日(木)がイエス・キリストの昇天を記念する昇天日(Ascension Day)にあたります。イエスが復活後に天に挙げられたできごとは、新約聖書のメッセージの中で重要な位置を占めています。にもかかわらず、昇天について語られることは意外と少ないように思います。 続きを読む
教会暦
クリスマスの星
イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。 ・・・彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。(マタイの福音書2章1-2、9-10節)
東方の博士たちが星に導かれて幼子イエスを拝みに訪れた話は、聖書にあるクリスマスの物語の中でも、ひときわ印象的なエピソードです。
教会の降誕劇などでも馴染み深いこの話ですが、一般に知られているストーリーには、聖書に書かれていない要素もあります。 続きを読む
待ち望むということ
今週からアドベント(待降節)に入り、教会暦では新しい年を迎えました。アドベントについてはこちらの過去記事でも書きましたが、二千年前のキリスト降誕のできごとを思い起こすとともに、キリストの再臨を待ち望むという意味があります。そしてまた、信仰者が1月1日から始まるこの世の暦とは異なる時間のサイクルに生きることは、この世の世界観とは異なる神の国の時空に生きることにほかなりません(これについてはこちらの過去記事を参照してください)。
個人的に、今年の待降節は文字通り「待つ」ということの意味を深く考えさせられています。
ルカ福音書の降誕物語では、イスラエルの救いを待ち望む忠実なユダヤ人が何人も登場しますが、興味深いことにそのほとんどが老人です。バプテスマのヨハネの両親であるザカリヤとエリサベツしかり(1章)、そしてシメオンとアンナしかりです(2章)。彼らは若いヨセフやマリヤとともに、メシアを待ち望む敬虔な神の民イスラエルを代表しているわけですが、ルカはこのイスラエルを、神の約束の実現を待ち望みつつ年老いた民族というイメージで描いているように思われます。つまり、福音書の冒頭部分でルカは、イスラエルに対する神の約束の実現が久しく遅れていた――あるいは少なくとも人間の目にはそのように見えた――ことを読者に伝えようとしているのかもしれません。そしてそれは、今まさに到来しようとしている新時代の幕開けに対する期待を高め、ドラマティックな効果をあげています。
荒野の40日
今日から今年のレント(四旬節)が始まりました。レントとは、「灰の水曜日」に始まり、復活祭に先立つ40日間の期間を指します(6回の日曜日を除く)。伝統的に、教会はこの期間を祈りと悔い改め、慈善のわざをもって主の復活に備える時として守ってきました。
レントは福音書に記されている、イエス・キリストが公生涯のはじめに荒野で40日間断食をし、悪魔の誘惑を受けたという記事と結びつけて理解されます(マタイ4章1-11節、マルコ1章12-13節、ルカ4章1-13節)。クリスマスと復活祭以外、あまり教会暦を意識しないという教会に属するクリスチャンも、この時期に主が荒野で過ごされた40日間に思いを巡らすのは意味のあることだと思います。
イワン・クラムスコイ「曠野のイエス・キリスト」
上で述べたように、マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書はどれも、イエスが荒野で40日悪魔の試みを受けたと記していますが、今回はマタイ福音書の記述に従って見て行きたいと思います。
さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。 (マタイ4章1-2節)
バプテスマを受け、聖霊に満たされたイエスには、公の宣教を開始する前にもうひとつだけすることが残っていました。それは荒野でサタンの試みを受けることでした。
共観福音書の中でマタイだけが、イエスが荒野に行かれたのは「悪魔に試みられるため」であったことをはっきりと記しています。イエスは「御霊によって・・・導かれた」とあるたことから、この誘惑も神のご計画に沿ったものであることが分かります。「試み」は単なる苦難や敵からの攻撃ではなく、その人物の真価を試す「テスト」といえます。イエスがこの試練に耐えぬいてパスするならば、これからの宣教の働きをなすに相応しいものと認められた、ということになるのです。
この誘惑の舞台が「荒野」であったことは重要です。荒野は聖書では重要な意味を持っています。特にこの箇所との関連で重要なのは、モーセに導かれてエジプトを脱出したイスラエルの民が、荒野で試みに遭ったできごとです。その時イスラエルは試練に負け、約束の地に入ることはできませんでした。
主はわれらの神であり、われらはその牧の民、そのみ手の羊である。どうか、あなたがたは、きょう、そのみ声を聞くように。あなたがたは、メリバにいた時のように、また荒野のマッサにいた日のように、心をかたくなにしてはならない。あの時、あなたがたの先祖たちはわたしのわざを見たにもかかわらず、わたしを試み、わたしをためした。わたしは四十年の間、その代をきらって言った、「彼らは心の誤っている民であって、わたしの道を知らない」と。それゆえ、わたしは憤って、彼らはわが安息に入ることができないと誓った。(詩篇95篇7-11節)
福音書でイエスは新しいモーセとして、イスラエルを新しい霊的な出エジプトに導こうとしています。旧約のイスラエルは試練に耐えることができませんでしたが、イエスは試練にパスするのです。
2節にイエスは「四十日四十夜」断食をしたとあります。聖書の中では40はしばしば象徴的な意味をもって使われます。神はノアの洪水で地上の生き物を滅ぼされたとき40日40夜雨を降らせました(創世記7章4、12節)。ここではこの表現は裁きを意味します。イゼベルに命を狙われたエリヤは40日40夜何も食べずに歩いてホレブ山にたどり着きました(1列王記19章8節)。ヨナもニネベの人々に対し、40日後に訪れる裁きを宣べ伝えました(ヨナ3章4)。
しかし、もっとも重要な旧約的背景は申命記にあります。40は試練の数でもあります。イスラエルは荒野を40年間さまよって試みを受けました。
あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。 (申命記8章2節)
イエスは40日40夜、何を祈っておられたのでしょうか?ルカの並行箇所によると、イエスは40日間悪魔の試みに遭われたとも受け取れますが、マタイではイエスと悪魔が対決するのは40日40夜の断食が終わった後になります。イエスの40日40夜の断食も、単に悪魔と戦ったということだけではなく、イスラエルのためのとりなしの祈りが父なる神に捧げられていたと考えることができます。実際モーセもまた、主の前で「四十日四十夜」断食をして、反逆的なイスラエルの前にとりなしをしたことが書かれています(申命記9章9、18、25節)。
40日40夜の断食が終わった後、悪魔がイエスに語りかけます。ここに書かれている3つの誘惑について詳しく述べることはしませんが、この中で悪魔が繰り返し「もしあなたが神の子であるなら」と語りかけているのは重要です(4章3、6節)。荒野の誘惑記事においてイエスの「神の子」としてのステータスは中心的な重要性を持っています。バプテスマを受けられた後、イエスは天の父から「わたしの愛する子」と宣言され、神の子であることが証しされました(3章17節)。荒野の誘惑はイエスがどのような意味で「神の子」であるのか、ということを示そうとするものです。
さらに注意すべきは、旧約聖書においてイスラエルは「神の子」と呼ばれたことです。
あなたがたはまた荒野で、あなたの神、主が、人のその子を抱くように、あなたを抱かれるのを見た。あなたがたが、この所に来るまで、その道すがら、いつもそうであった。(申命記1章31節)
イエスが三つの誘惑のすべてに旧約聖書の引用をもって、しかもイスラエルの荒野における試みに言及している申命記の聖句をもって答えられたことに注意する必要があります。イエスの試練と荒野のイスラエルの試練が強く結びついていることが分かります。旧約における「神の子」イスラエルは試練に耐えることはできませんでした。けれども、真の「神の子」であるイエスは悪魔の試練に打ち勝つのです。
同じように、新約時代の神の民である教会も、このキリストにあることによってのみ、試練に耐え、まことの神の子らとなり、復活のいのちに至ることができます。イエス・キリストは歴史の中心にあって新旧両約時代の神の民を支え、神の子としての身分を保証してくださる存在といえるでしょう。
レントはイエス・キリストの荒野での40日間を覚え、追体験する期間といえます。私たちがこの期間をどのように過ごすにしても、大切なことはそれを通して神の民・神の子としての自覚を深め、より深くキリストに根ざして生きていくことだと思います。