神がデスヴォイスで歌うとき(5)

するとヨハネが答えて言った、「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。
イエスは彼に言われた、「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。
(ルカの福音書9章49-50節)

(過去記事 1 2 3 4

まずは次の歌の歌詞をお読みください(英語からの私訳です):

自分の魂の救いについて、考えたことがあるのか
それとも、死んだら墓場で終わりと思っているのか
神はおまえの一部なのか、それとも頭の中の観念に過ぎないのか
キリストは学校の教科書に載っていた名前に過ぎないのか

死について考えるとき、息苦しくなるか、それとも冷静でいられるのか
教皇が苦境に立つのを見たいのか、彼は馬鹿だと思っているのか
でも俺は真理を見いだした。そうさ俺は光を見て、変えられたんだ
人生の終わりに、おまえが独りぼっちでおののくとき、俺は準備ができているのさ

それともおまえは仲間に何と言われるか恐れているのか
おまえが天の神を信じていると知った時に
奴らは批判する前に気づくべきなんだ
神が愛への唯一の道だってことを

群れがどこに向かって暴走しようとも従うしかない
おまえの心はそんなにちっぽけなのか
死を前にしたとき、それでもおまえはあざけって言うのか
太陽を拝んだほうがまだましだと

キリストを十字架につけたのは、おまえのような奴らだったのだ
おまえが持っていた意見が唯一の選択肢だったとは悲しむべきことだ
最期が迫ったとき、神など信じないと言えるほど、確信があるのか
チャンスがあったのに、おまえは拒絶した。もう後戻りはできない

神は死んでいなくなったという前に、もう一度考えてみるがいい
目を開けて分かってくれ、神しかいないってことを
神だけがおまえをすべての罪と憎しみから救える方なんだ
それともまだ、すべてをあざ笑うつもりか? そうか!それなら、もう手遅れだ

さて、これはいったい誰の歌か、ご存知でしょうか? 続きを読む

確かさという名の偶像(7)

(シリーズ過去記事      

今回もグレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)第2章「感情のとりこ」の続きを見ていきます。第2章は今回で最後です。

傲慢と偽善

ボイドによると、確実性追求型信仰のもう一つの問題点は、それがえてして偽善的になってしまうことです。

クリスチャンも含め多くの宗教の熱心な信者は、自分たち以外の宗教を信じる人々が、彼らはもしかしたら間違っているかも知れないという可能性を考慮しないと言って、それらの人々を批判します。しかし、確実性追求型の信仰は、まさにそのような傲慢な態度を生みやすいと言います。ボイドはこのようなダブル・スタンダードな態度はたいへん偽善的であると言います。彼らが他人に要求する基準を、自分たち自身にあてはめることを拒絶しているからです。

ボイドは、自分自身の信仰に対して疑問を持つことは、クリスチャンにとってもノンクリスチャンにとっても良いことだと言います。これは、いつでもすべてを疑いながら生きていくということではありません。しかし、クリスチャンもノンクリスチャンも、自分たちの信念が間違っているかも知れないという可能性を考慮して、自分の持っている信念を時々批判的に吟味してみることは有益であると言います。

ところが、確実性追求型の信仰者はそのような自己吟味ということができません。既に述べたように、自分の確信に浸りきって生きることは心地よく、自分は間違っているかもしれないという疑いを持つことは辛いことです。しかし、誰であっても、自分が正しいという確信を持つことが楽しいからと言って、自分だけが正しくて他のすべての人が間違っていると思い込むことは、罪とは言わないまでも傲慢なことです。ボイドは「吟味を受けつけない信仰は信じるに値しない信仰である。」と言います(p. 47)。

危険な宗教

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ボイドによると、過激な宗教テロリストの例からも明らかなように、キリスト教も含めて、疑いを抑圧し、確実性の感覚を持つことを人々に強いる宗教は潜在的に危険な宗教なのです。ボイドは、歴史を通じて行われてきた宗教対立にもとづく流血事件の大多数は、人々が確実性のもつ快楽に代えて疑いの持つ苦痛を受け入れることができさえすれば、避けられたかも知れないと言います。なぜなら、神が自分たちの味方であるという確信こそが、人々をして他の人間を殺し、自らも殺されるリスクを負うことを可能にするからです。

このような洞察はボイドだけのものではありません。たとえばボブ・ディランは名曲「神が味方(With God on Our Side)」の中で次のように歌っています。

And you never ask questions
When God’s on your side
神様が味方してくださるときにゃ
質問なんぞしないもんさ

多くのクリスチャンは「キリスト教だけは真理なのだから、疑いをしりぞけ、確実性を追求することが許される。」と考えます。しかし、他宗教の信仰者も自分の宗教について同じことを考えているとボイドは指摘します。そして、もしある宗教が本当に真理であるなら、その真理はそれを信じる者が確信を持つ度合いによって証明されるのではなく、証拠自体がそれを証明するはずだと言います。

真理の追求?

ボイドの最後の論点は非常に逆説的です。彼は、自分の信仰内容が真理であることに確信を持とうと努める人々は、実際にはその信仰内容が真理であるかどうかには関心がないというのです。これはどういう意味でしょうか?

あることがらが真理であるかどうかを判定する理性的な方法は、それが真理であるという主張を裏付ける証拠や議論がどれほど強力であるかどうか、を考察することです。聖霊による促しや他者の証しはこの理性的方法を補うものであって、それに取って代わるものではありません。私たちは日常的にこのような方法を使って、さまざまな主張(たとえば商品の広告文句)が真理であるかどうかを確かめているのです。

しかし、ボイドによると、確実性追求型信仰者はまさにこれとは反対のことをしています。もし私たちの信じている内容が私たちの永遠の運命を左右するのなら、あらゆる方法を使ってその信仰内容の真理性を検証すべきです。しかし、確実性追求型の信仰モデルはその反対に、証拠を理性的に吟味することを拒否し、かえってそれが真理であることを何が何でも信じ込もうと努力することを求めるのです。このことからボイドは、このようなタイプの信仰者は、真理を信じることよりはむしろ、自分たちがすでに真理を信じていると確信し、自分たちが間違っているかもしれないという苦痛を避けることの方に関心があると結論づけます。

確かなことは、人は自分の信じていることがらが真理であるかどうかに関心を持ちながら、同時に自分がすでに信じていることがらが真理だと確信しようと努めることはできないということである。真理を信じるという目標と、自分がすでに真理を信じているという確信を持つという目標とは、互いに排除しあうものなのである。(p. 51)

このことからボイドは、確実性を追求する営みは利己的な追究であるといいます。確実性追求型信仰者は自分たちが真理を追求していると主張しますが、実際のところ彼らが追い求めているのは、確実性の感覚にともなう幸福感を味わい、同時に疑いにともなう苦痛を避けることだからです。

ボイドはこのようなかたちで信仰を追求する人々が真摯な動機を持っていることを疑ってはいません。しかし同時にボイドは、私たち人間がどれほど小さく無知で堕落した存在であり、この曖昧な世界において最善を尽くして真理を知ろうと努力している存在にすぎないかということを正直に認めるべきだと言います。私たちは自分の信じていることがらに対する絶えざる挑戦や反論に直面しながら生きており、その過程でさまざまな信仰内容を修正したり放棄したりすることが起こってくるのは当然なのです。

まとめ

これまでボイドは、確実性追求型信仰の問題点を列挙してきました。2章を読み終えるにあたり、これまでのポイントを整理してみましょう。

1.確実性追求型信仰は、非理性的である。
2.確実性追求型信仰が前提とする神観は、イエス・キリストにおいて啓示された神のイメージとそぐわない。
3.確実性追求型信仰は魔術的である。
4.確実性追求型信仰は硬直した信仰的態度を生み出す。
5.確実性追求型信仰は学ぶことに対する恐れを生み出す。
6.確実性追求型信仰は偽善的傾向を生み出す。
7.確実性追求型信仰は潜在的に危険な宗教を生み出す。
8.確実性追求型信仰は真理の追求には関心がない。

次の第3章でボイドは、彼によれば確実性追求型信仰の持つ最大の問題点について論じていきます。

(続く)

戦争と神学者(6)

(このシリーズの先頭はこちら

日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」(以下「書翰」。全文はこちら)について述べてきたシリーズも、今回で最終回としたいと思います。まとめに入る前に、第一回でも述べたことをもう一度確認したいと思います。

このシリーズの目的は、特定のグループや個人を批判することにあるのではありません。戦時中の極限状況の中で先人が取った言動を、現代の平和な時代に生きる私たちが軽々しく裁くことができるものではありません。しかし、歴史の中で過去にどのようなことが起こったかを知ることは、現代に生きる私たちが今後同じ過ちを繰り返さないために必要不可欠な作業であると信じるために、敢えて歴史の暗部に光を宛てるような内容を書いてきました。同様の検証作業はすでに多くの方々がなさっておられますし、これからも引き続きおこなっていく必要があるでしょう。

さて、神学に限らず学問一般は時代や国によって変わることのない客観的真理を追究するものであり、したがって国家の思想的統制を受けたりするものではないはずだと一般に考えられています。しかし、実際の歴史の中ではこの建前はしばしばあやふやにされてしまいます。このシリーズで取りあげた書翰もその典型的な例であるといえるでしょう。

本シリーズでは書翰とカール・バルトの神学の関係について考察しました。これも誤解を招きかねない書き方をしてしまったかもしれませんが、以下に述べるように、本シリーズの主眼はバルト神学の正当性を証明することにあるのではありません。バルトの神学にどのような評価を下すにせよ、少なくとも戦時中のバルト自身の立場は全体主義をはっきりと拒絶するものであったにもかかわらず、彼の神学が日本では軍国主義イデオロギーに奉仕するように用いられたということは紛れも無い事実であり、なぜそのようなことが起こったのかを考えようというのが、本シリーズの目的でした。

しかも、バルトは当時の日本の神学者たちに影響を与えた海外の神学者の中で最大の人物であったことからも、この問題の深刻さをうかがい知ることができます。当時多くの日本人キリスト者がバルトの神学を熱狂的に受け入れていった一方、戦争という時代背景の中で、彼らが進んでいった道はバルト本人とは正反対の道でした。しかも彼らは、バルトの神学を用いることによってそうしたのです。日本の神学者たちはバルトの神学は学んでもバルトという神学者から学ぶことをしなかったといえます。

神学は変わることのない神の真理を追究していきます。それと同時に、神学はその時代、国に固有の問題と格闘し、それに対する解答を追い求めていくものです。神学はその置かれた歴史的政治的文脈と切り離して考えることはできないのです。1930年代のバルトの神学は、ナチズムの台頭と猛威という当時のドイツの歴史的文脈における教会の戦いと無縁ではありませんでした。ところが「日本では、バルトの神学と文脈を分離して神学的抽象性のレベルにおいてのみ受容するという限定がひそかに行われた」のです(『日本におけるカール・バルト』序) 。このような、「神学的抽象性と社会的・政治的具体性の二元論」が日本におけるバルト受容の特色であったといえます

このことはまた、似たような神学的立場に立っていても、神学する主体である神学者の生き方、態度、霊性といったものによって、神学自体の内容および適用が異なる場合があることを示唆しています。本シリーズのタイトルを「戦争と神学」ではなく「戦争と神学者」としたのは、この理由によります。単純に考えますと、神と人間との間の断絶を強調する弁証法神学は、国家を絶対化する全体主義とは最初から適合しないように思われますが、日本ではそうなりませんでした。これは日本だけの問題ではありません。ドイツにおいても、バルトと同じ弁証法神学の立場を取ったフリードリヒ・ゴーガルテンを始めとする何人かの神学者たちはナチスを支持したのです 。その一方で、神の国と地上の国という「二つの王国」を分けて考える傾向の強いルター派のキリスト者たちは、ナチスを受け入れやすかったのではとも考えられますが(実際バルトは二王国論に批判的でした)、ボンヘッファーやマルティン・ニーメラーといった告白教会の指導者たちはルター派でした 。また、エマヌエル・ヒルシュとパウル・ティリッヒは神学的に非常に近い立場にありましたが、政治的には全く正反対の道を歩み、ヒルシュはナチスを支持し、ティリッヒはナチスに抵抗して米国に渡ることになります(ロバート・エリクセン『第三帝国と宗教』を参照)。つまり、キリスト者の神学的な立場そのものは、その人の国家に対する立場を一意的に決定するわけではないのです。

したがって、国家を神としその前にひざまずいてしまう誘惑は、その神学的立場を問わずすべてのキリスト者が直面している問題だといえます。バルトの神学を共有しないキリスト者であっても、その生き方から学ぶことができるゆえんがここにあります。(もちろん、バルト以外にもそのような模範となる人々は存在しました)。

ナチスに抵抗したバルトと、その神学を熱心に受け入れながらも戦争に協力した(させられた)日本のバルト主義者の対照的な進路の分岐点となったのは、十戒の第一戒(唯一のまことの神以外の存在を神としてはならない)への徹底的服従であると思われます。教会がその置かれた国にあって福音を宣べ伝えていく時に、聖書が証しする三位一体の神だけが唯一まことの神であること、またイエス・キリストだけがすべての主であるという信仰と告白に立っていくことが重要です。この信仰的基礎の重要性に比べれば、教理的見解や教派的伝統の違いは二次的なことがらに過ぎないといっても過言ではありません。この点を考慮しないでバルト神学(あるいは他のいかなる神学も)と戦争との関係を議論することはあまり意味がないと思われます。

教会の主がキリスト以外の何ものかによって取って代わられていないかどうか。このことが、福音の純粋性、神学の健全さを測る一つの物差しとなります。日本基督教団がそもそも発足したのは、皇国史観に基づく「皇紀二千六百年」を記念した全国信徒大会が発端であったことを考えると、あのような書翰は決して突然変異的に生じてきたものではなく、その出発点からの論理的帰結であり、なるべくしてなったと言ってよいと思います。

日本人キリスト者の多くはキリストの十字架による罪の赦しという贖罪信仰はよく分かりますが、イエス・キリストだけが唯一の主である、という偶像禁止の教えには戸惑います。しかし福音のこの二つの側面は切り離すことができません。十字架の福音に意味があるのは、この贖いをなしてくださったイエス・キリストが、私たちの罪のために死んで復活してくださっただけでなく、やがて再び来られてさばきをなし、すべてを支配される時が来る、という信仰にあってのみです。もし私たちがすべての主であるキリストに従うことをしないなら、十字架の福音はボンヘッファーの言う「安価な恵み」に堕してしまうでしょう。神の唯一性とキリストの絶対的主権性こそ、日本のみならずあらゆる地域の神学の基礎であり、それはまた、真のいのちに溢れた神学が日本においても育っていくために必要な土壌でもあると思うのです。

(終わり)

戦争と神学者(5)

(このシリーズの先頭はこちら

前回までの投稿では、戦前日本の軍国主義イデオロギーを体現したかのような「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」(以下「書翰」。全文はこちら)とカール・バルトの神学の関係を見てきました。そこでは、当時日本で絶大な影響のあったバルト神学が天皇制イデオロギーと強引に結びつけられている姿を見ることができます。ここで生じるのは、明治以来ドイツ神学の影響を大いに受けてきた日本のキリスト教会において、なぜドイツの教会闘争に当たるような運動が出て来なかったのか、という疑問です。これにはいくつかの理由が考えられます。

一つは日独のキリスト教会がそれぞれの社会の中で置かれていた立場の違いです。古屋安雄氏(『日本の神学』)は、ドイツ教会闘争は国家と余りにも癒着した教会をどうただしていくか、という教会内の問題であったのに対し、日本の場合はマイノリティのキリスト教会、しかも敵国であるアメリカ系の教会がいかに弾圧から身を守るか、ということが問題であったと述べています。

次に、日本教会がそもそもナショナリズム的傾向を持っていたことが挙げられます。金田隆一氏(『昭和日本基督教会史』)によると、それは日本キリスト者自身が有していた「内なる天皇制」ともよべる精神構造です。古屋氏は、書翰はもちろん、当時の国家情勢の中でやむにやまれず書かれた文章ではあるが、それでも日本教会が以前から持っていたナショナリズム、また英米のキリスト教に対する批判がこの戦争を契機に顔を出したものではないかと述べています。

たとえば教団統理富田満は1943年2月1日に高知教会において行った講演の中で、米国が日本にキリスト教を植え付けたのは帝国主義の手先としてであったと述べ遺憾の意を表すると共に、教団創立と共に日本のキリスト教は「現在は何処の国の世話になることもなく純粋な日本キリスト教として信仰上日本のものとなつたのである。・・・我々は何処々々迄も日本人たる自覚を前提としてキリスト教を信仰し倫理道徳を通じ天皇陛下に帰一し奉るべきである」と述べました。

さらに、日本人の思想的特質ということも考えなければなりません。大塩清之助氏は丸山真男の『日本の思想』に依拠しながら、日本教会の体質的な弱さの原因を、異質なものを平然と結合する日本人の「精神的雑居性」に求めています:

日本のキリスト教は、「精神的雑居性の原理的否認」(イエスのみが主である!!)を要請する真理を奉じつつも、日本に対して「それを執拗に迫る」ことをせず、むしろ「この風土と妥協させる」ことによってかろうじて自己を保存して来たのだと言わざるをえない(少なくとも敗戦までは)。(大塩清之助「教会の罪の告白―日本キリスト教団の戦争責任をめぐって」『福音と世界』1967年1月号、22頁。強調は原文。)

そして大塩氏は続けて、このような精神的雑居性を偶像礼拝性と言い換え、「戦争責任の罪は、このような日本的体質を持ったわれわれが、その偶像礼拝の罪を真に心から悔い改めることをせず、イエスのみが主であるとの福音の絶対性に服従できなかった罪である」というのです。

このような「精神的雑居性」はキリスト教とナショナリズムの融合を容易にします。佐藤敏夫氏も丸山の同書に言及しつつ、過去と正面から対決することなく、新しいものを取り入れるため、キリスト教の受容が上滑りなものになってしまったと論じています。危機が訪れると、沈潜していたナショナリズムが顔を出してくるのです(古屋安雄他『日本神学史』)。

以上のポイントは互いに関連しあっています。日本においてキリスト教は常に米英という「敵国の宗教」と見なされがちであったため、教会はそのような疑惑を常に打ち消す必要に迫られていきました。それは裏を返せば、国家への歩み寄りという誘惑に常にさらされていたということです。このことと、明治以来の教会が持っていたナショナリズムの流れが合わさったとき、「日本的キリスト教」運動につながっていきました。そして日本人の「精神的雑居性」は、そのような、論理的には困難と思えるキリスト教とナショナリズムの融合をよりいっそう容易にしたと想像できるのです。

さて、書翰に表れているような日本の神学の問題には、以上の理由のほかに、神学的な理由もあるように思われます。それは偶像礼拝のとらえ方に関する日独教会の違いです。バルメン宣言やドイツ教会闘争において見られるような信仰の戦いはアジアの各国でも見られました。しかし、同様の戦いは戦前の日本教会では、美濃ミッションのようなごく一部の例外を除いて見られませんでした。その大きな理由の一つは、明治以来の日本キリスト教会が持っていた、偶像礼拝に対する批判的態度の弱さであったと考えられます。

「唯一の真の神以外の存在を神としない」という十戒の第一戒(出エジプト20:3)こそ、ドイツ教会闘争で告白教会を支えた神学的バックボーンだったのであり、バルトや、同じくナチズムに抵抗したボンヘッファーといった神学者は繰り返し第一戒の重要性を強調していました 。バルメン宣言でもそれをキリスト論的に言い換えた形で、イエス・キリストこそが唯一の、すべての主であることが宣言されています。キリストのみがすべての主であり、国家であれ人間であれ、キリスト以外の存在がその座に座ることは許されないというのです。しかし書翰においてはまさにこのキリストの主権性がないがしろにされています。ボンヘッファーはヒトラー暗殺の陰謀に加わったかどで逮捕され、終戦の直前に処刑されましたが、1944年に獄中で書いた「十戒の第一の板」と題する文章の中で、「日本のキリスト者の大部分は、最近、国家の皇帝礼拝に参加することが許されていると宣言した」ことに触れ、これを批判しています 。

松村重雄氏は教団では伝統的に贖罪信仰の強調が見られる反面、キリストの贖罪が個人の罪の赦しという内面の領域に限定され、キリストは教会の主、世界の主、全被造物の主であるという面が強調されてこなかった点に、戦前の教会が天皇制国家に追従してしまった原因の一端を見ています(「バルメン宣言と日本基督教団信仰告白」『福音と世界』2005年5月号、22頁) 。

このように、日本の教会が犯した最大の罪というのは、戦争協力というよりはむしろ、天皇を現人神としてキリストと同列いやその上に置いてしまった、偶像礼拝の罪であると言わなければなりません。と言うよりも、キリストの絶対的主権性という点において妥協し、国家に屈従した教会が、侵略戦争への積極的加担という道に突き進んでいったのは必然であったと言えるのです。律法の中で一番大切な戒めは何かと訊ねられたイエスは、神を愛することと、隣人を愛することの二つをもって答えられました(マルコ12:28-31)。この二つは表裏一体であり、切り離すことができないのです。真の意味で隣人を愛するには、まことの神を神として愛し礼拝することが必要不可欠です。この点で妥協をした教会によって作成された書翰がまさにこの隣人愛の教えを逆用して、その対極に位置する戦争への協力を呼びかけた事実は重大であるといえます。

もうひとつ注目しなければならない問題点は、日本教会がアジアの諸教会に対して持った傲慢の罪です。書翰はくりかえし、国体に基づく日本精神の土壌の上に成立した「日本国自生のキリスト教」の卓越性を宣伝しています。そして、この日本的キリスト教こそが世界を救うのだといいます。書翰で言われているアジア諸国の一致は決して日本と他の国々の対等の関係によるものではなく、あくまで盟主としての日本に他国が追従するというものであって、そのような関係はキリスト教においても前提とされています。

つまり、ここで起こっていたことは、ただ単に日本基督教団が当時の国家権力に妥協し屈従させられているというだけではありません。それと同時に教団は、日本政府と同じ側に立って、アジア諸国のキリスト教会に対して自らの優越性を誇示しているのです。つまりそこには、偶像礼拝の罪と並んで高慢の罪があったと言わなければならないのです。これは今日の日本キリスト教会全体の課題でもあると思われます 。

次回最終回では、これまでの内容を総括し、戦争と神学、そして神学者の関係について考察したいと思います。

(続く)

戦争と神学者(4)

(このシリーズの先頭はこちら

前回は、「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」(以下「書翰」。全文はこちら)における、カール・バルトの神学の影響について考察しました。書翰にはバルトからの著作の引喩が多く含まれ、彼の神学からの影響を随所に見ることができます。それでは、当のバルト自身の戦争との関わりはどのようなものだったのでしょうか?

1933年にアドルフ・ヒトラーが政権を奪取すると、キリスト教会の統制をもすすめていきました。ナチスに迎合する国粋主義的・民族主義的なキリスト者たちによる「ドイツ的キリスト者信仰運動」は力をつけていき、ヒトラーの下での教会の一元化を目指していきました。彼らはユダヤ人の公職からの追放を定めた「アーリア条項」を教会にも導入することを求めていきます。

Berlin, Luthertag

「ドイツ的キリスト者」の集会(Wikimedia Commonsより)

1933年11月13日、ベルリン体育館において、ドイツ的キリスト者の全国大会が二万の参加者を集めて開かれました。この中で急進派のラインホルト・クラウゼは「ナチスの党旗を打ち振る熱狂的な聴衆にこたえて長広舌をふるい、国家社会主義の精神を基盤とする宗教改革の成就に協力できない牧師の追放、あらゆる非ドイツ的なものを礼拝と信仰告白、なかんずく旧約聖書から削除すること、東洋的な歪曲からの福音の解放、民族と種の論理に適合するキリスト教の根底としての英雄的なイエス像の建設を提唱して、満場の熱狂的な拍手を浴びた」 といいます(森平太『服従と抵抗への道―ボンヘッファーの生涯』 [新教出版社、1964年] 、99頁)。この描写は日本における「皇紀二千六百年大会」を彷彿させます。

このような動きに反対するキリスト者たちは1934年5月バルメンにおいて「告白教会」を形成し、その神学的指針として「バルメン宣言」と後に呼ばれる宣言を行いました。バルトはこの宣言の起草者であり、彼はこの後も告白教会の理論的指導者であり続けたのです。

この宣言は六つのテーゼからなりますが、その土台となる中心的告白(第一テーゼ)では、キリストのみが唯一の主であること、第二テーゼでは、このキリストの支配領域に含まれない領域はないことが告白されます。ここでは偶像礼拝を禁じた十戒の第一戒の重要性が再確認されています。第三テーゼでは教会の使命について、第四テーゼでは教会の職位について、第五テーゼでは教会と国家との関係について、第六テーゼでは教会への委託について語られていきます 。この「バルメン宣言」が教会と国家との関係という問題に関して、書翰と対極に位置するのはいうまでもありません。バルトはその後ヒトラーへの忠誠宣誓を拒否して、1934年にボン大学教授の職を奪われます。そして翌年スイスに追放されると、国外から教会闘争を援助していくことになるのです。

1938年に書かれた「義認と法」においてもバルトは「国家そのものが、根源的・究極的にイエス・キリストに属している」と述べています。バルトはすべての国家が悪であるとは言っていませんが、国家が「デーモン化」つまり自己を絶対化することがいつでも起こりうるということに対して警鐘を鳴らしています。そしてそのような場合に教会が受けるべき栄光は、書翰が力説しているような「宗教報国」ではなく、「キリストに従うことによって受ける苦しみ」であるといいます 。「義認と法」には他にも次のような内容が見られます:

hypotassesthai(従う)ということは、決して教会とその肢々が、国家権力の意図と企てを、それが義認の宣教を護ろうとする代りに禁じようとする場合にも、自ら肯定し、自発的にそれを促進するということを、決して意味しえない。(カール・バルト「義認と法」『世界思想教養全集21 現代キリスト教の思想』井上良雄訳 [河出書房新社、1963年] 、201-202頁)

もし国家に対する誓約が、全体的誓約(トタリテーツァイト)として(すなわち、事実上或る神人という意味と力を持っている名前に対して義務を負わせるものとして)、したがって神の御言葉の自由を脅かす国家権力に対する積極的な順応を意味する場合、そしてそのことによってキリスト者にとっては、教会と教会の主に対する裏切りを意味する場合には、そのような国家に対する誓約は、(国家に対する尊敬の故にこそ)なされることは可能である。(同上、206-207頁。強調は原文)

ここにも書翰とは180度異なる神学が見られます。このような内容を当時の日本のキリスト者は知らなかったのでしょうか?驚くべき事に、実は知っていたのです。バルトの「義認と法」は日本のキリスト者の一部で熱心に学ばれ、部分的には一般に紹介されました 。書翰の中心的作者と考えられる山本和もこの論文を深い感動を持って熟読したと戦後語っています。

日本の神学者たちはバルトのナチスへの抵抗運動、またドイツ教会闘争について、当初からかなり詳しい情報を持っていたことが分かっています。その中には、バルメン宣言についての情報、バルトのボン大学追放とバーゼルへの赴任、スイスに追われたバルトが継続した反ナチ闘争についての情報も含まれていました。これらの情報を桑田秀延、熊野義孝、福田正俊らの神学者、牧師たちが精力的に紹介していったのです 。また、エーゴン・ヘッセル宣教師は1931年に来日してバルト神学の紹介に努めていましたが、ナチスによって東アジア・ミッションから解任されて後は、「在日ドイツ告白教会の《在外牧師兼日本宣教師》」として宣教活動を続けました 。

このようにバルトや告白教会についての情報は入ってきてはいたものの、それが日本の神学界に実質的な影響を及ぼすには至りませんでした。バルト神学は、日本においては「屈折」した受容のされ方をしていくのです 。

書翰の選考委員であった熊野義孝は当時の日本の代表的な神学者であり、バルト神学を早くから日本に積極的に紹介した神学者の一人です。彼は1932年に『弁証法的神学概論』を著していますが、すでに1926年の時点でバルトに関する論文を書いています(『福音新報』掲載の「神と世界との限界―カール・バルトの神学に就いて」) 。熊野はバルトの神学をどう受けとめたのでしょうか。熊野の神学一般に対する見解は、現実的政治的情況における神学と、思想としての神学を区別するもので、神学と社会との関わりについては重要視しないというものでした。バルトに関しても同様だったのです 。

またもう一人の代表的バルト主義者松谷義範は日独の国情の違いを理由に、日本の神学者は「バルトの政治的運命と彼の神学とを(中略)区別して学ぶべきものを学び、我らが日本といふ特殊な国に置かれていることを考えつつバルトの神学を考究する」ようになったと書いています (宮田光雄『国家と宗教―ローマ書十三章解釈史=影響史の研究』 [岩波書店、2010年] 、419頁より引用)。

このような傾向に対して、すでに1934年の段階で、植村環が「神学の危機」と題する一文をもって警告を発しています。ここで植村は日本のキリスト教会において「西欧諸国の学説は盛んに輸入らせるけれども活きた宗教運動としてそれが発展して来ない」ことを嘆じ、特にバルト神学の受容について、「今現にバルトの思想の研究家を以て任ずる人々でも、果たしてバルトの如く、基督を生命として信仰の中心に置き、之に生きつゝある経験を発見し、世を覚醒せしめつゝあるものがあるであらうか。研究は研究、自己の生活は生活と言ふのでは心細い」と批判し、「今や我が国神学の危機である」と結論づけています (『福音新報』1934年3月8日号)。

1934年の時点でこうであれば、その後政治統制が強まる一方の日本におけるバルト受容については推して知るべしです。こうして原誠氏が言われるように、「日本の戦時下においてバルト神学は、沈黙の神学、すなわち一方的な絶対的な啓示による救済の神学として、いわば後退のための、沈黙のための神学となった」のです 。これは、日本においてバルト神学が圧倒的な人気を博した理由がまさにその「徹底性(Radikalität)」にあったことを考えると 、実に皮肉なことと言わざるをえません。バルト神学の徹底性は、日本においてはあくまでも神学理論上のそれに留まり、実践の領域において貫徹されることはなかったのです。

このような日本における自らの神学の受容について、バルト本人はどう思っていたのでしょうか。彼は1940年9月に、ヘッセルに宛てて書かれた手紙の中で、最近松谷から日本語への翻訳許可を求められた彼の著作リストの中には、政治問題に関する論文が一切含まれていないと言うことに苦言を呈しています 。さらに戦後になっても、『福音主義神学入門』日本語版への序(1962年)においてバルトは、北森嘉蔵『神の痛みの神学』の「日本的キリスト教」を批判しています。彼は「神学者の思考がある種の国民的特性を有する」ということを認めつつ、北森が「日本的な固有性を持ちながら、『日本的』ではなくて、福音主義的であり、聖書に根ざし、世界教会的に妥当するようなひとつの神学を目ざ」すことを期待しています 。ここで彼は勿論、ドイツにおける「ドイツ的キリスト教」の試みの失敗のことを念頭に置いて言っているのです。

このように、書翰に表れているような「バルト神学」とバルト本人の立場とは全く相容れないものであることが分かります。次回はなぜこのようなバルト神学の「変質」が起きたのか、日本における神学の問題点を考察します。

(続く)

戦争と神学者(3)

前回は、「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」(以下「書翰」。全文はこちら)の内容を概観しました。今回は、神学という視点から本書翰を考察してみたいと思います。その中で特に、スイスの改革派神学者カール・バルト(1886-1968)の神学が本書翰に及ぼした「影響」について考えます。ここで「影響」と「」をつけているのは、それが本当の意味でバルトの真意・神学を正しく受けとめたものか、疑問があるからです。

Karl Barth

カール・バルト

バルトの神学は1925年頃から日本に紹介され始め、1930年代以降にその影響は決定的なものとなり、多くの神学者がバルトの影響を受けたのみならず、西田幾多郎、三木清、和辻哲郎といったキリスト教会外の思想家たちにまで注目されるに至りました。そもそも日本の教会はドイツ神学の影響を多く受け、戦後の若い神学者たちによって日本神学の「ゲルマン捕囚」からの解放が叫ばれるほどでしたが 、その中でもひときわ大きな影響力を及ぼしたのがバルトだったのです。

ここで特にバルトに注目する理由は、今述べたような、日本神学界における彼の絶大な影響力のためばかりではなく、書翰の中にバルト神学の影響が濃厚に表れているからです。実際、書翰の文章の随所にバルトの著作からの借用、ないしバルト的表現が見出され、特に1928年に出た『ピリピ書注解』への引喩が目を引きます。ちなみに同書の訳者は書翰の二等入賞者であり、日本における熱烈なバルト主義者であった山本和(かのう)です。そして問題は、そのようなバルトの神学が天皇制賛美と戦争協力の道具として用いられたことです。

シリーズ第1回で、本書翰は懸賞募集で当選した複数の候補作をもとに作成された事を述べましたが、具体的に誰の文章がどのように用いられたかについては、今日も謎に包まれています(二等となった鮫島と山本の二人は戦後いずれもこの書翰が自分のものであることを否定しています)。

一條英俊氏は『福音と世界』誌上において、この問題について詳細な検討を行いました(「大東亜書翰と『バルト神学』上」『福音と世界』2005年4月号、「同下」2005年5月号)。以下の考察は同氏の論文に負うところが大です。それによると、書翰の中に山本が後年訳出したバルトの『ピリピ書注解』からの借用と思われる表現が散見されるだけでなく、書翰の内容自体も山本の戦後の著作とも通ずるものがあります。また、書翰の内容は、山本が愛読していた『ピリピ書注解』に、表現だけでなく構成まで類似しているというのです。ここから、一條氏は山本が教団首脳部の指示を受けて、他の入選者の原稿を参考にしつつ書き下ろしたと結論づけています 。その上で書翰には教団首脳部の指示に従って『国体の本義』などから天皇制賛美の内容が補強されて完成されたものとします。書翰の最終版は選考委員の熊野義孝、序文を書いた富田満教団統理、発行責任者である総務局長鈴木浩二ら教団首脳部が関わり、さらに文部省の意向にも神経をとがらせながら作成されたと考えられます 。

それでは、書翰に盛り込まれたというバルトの神学は、国体を護持し大東亜戦争に突入していった当時の日本軍国主義のイデオロギーと適合するものだったのでしょうか。その答えは否です。一條氏は「書翰はバルト神学をダシに使っただけというほかない」と述べています 。バルトの神学が書翰の中でどのように「ダシに使」われているかについての詳細は同氏の論文に譲るとして、ここでは、書翰の根幹をなす二つのテーマについて見てみたいと思います。書翰の中心的メッセージは二つに絞られます。第一は東アジア諸国のキリスト者に対して一致を呼びかけること、第二はそのようにして一致したキリスト者が、天皇の権威の下にあって大東亜共栄圏建設に邁進するよう促すことです。これらの神学的裏付けがバルト神学を援用することによってなされているのです。

第一の一致という主題について、書翰はまず第1章でエペソ書を引きつつ次のように語ります:

「汝ら召されたる召しにかないて歩み、平和の繋ぎ(靭帯)のうちに勉めて御霊の賜う一致を守れ」(エペソ書四・一、三)。兄弟たちよ、われらは牛が力を合わせて犂を牽くように、この強靭なる紐を牽いてゆかなくてはならぬ。

ここで目を引くのは、「平和の繋ぎ」ということばと関連させて牛が力を合わせて犂を牽くイメージが語られていることです。ところがこれとよく似た箇所を、バルトの『ピリピ書注解』に見出すことができます:

幾人もの《たましい(心)》―それはいかにもまさに争い合っている《たましい(心)》にすぎない―が言わば共通の軛の下に繋がれて、いっしょに同じ犂を引かなければならない。これこそ《平和の絆》(エペソ四・三)であり、ちょうど今真剣に争い合って不和になっている心を結合しうる唯一のものなのである。( 『ピリピ書注解』山本和訳 [新教出版社、2003年]、62頁)

ここから、書翰の著者がバルトの『ピリピ書注解』を意識していたことが推測されます。しかも、バルトのこの文章は、ピリピ2章2節の注解の中に見出されるものですが、まさにこの句が書翰の第4章で引用されているのです:

使徒パウロがピリピの教会に勧めているように、われらはキリストの慰めによって呼びかけられている者として同じ愛と同じ思念とを懐き一つとならなければならない。われらは敵性国民らのキリスト教にのみならず、われらの自らの中にも、自己に立ち、己れを高しとし、他を己れに優れりとなしえぬ罪が「唯一つの事」(ピリピ二・二)を念おうと欲せざる人間固有の分裂的遠心作用が働いていることを人間存在の秘奥の底に認めざるをえない 。

「唯一つの事」はギリシア語to autoの訳ですが、文語訳の「思ふことを一つにして」とは異なるユニークな訳です。ところがバルトはピリピ書のこの箇所をまさに「ただ一つの事das Eine」と訳しているのです。書翰はこのようなピリピ2章2節のバルト的解釈を援用して、東アジアのキリスト者に「唯一つの事」を思うようにと呼びかけていますが、そこでの「唯一つの事」とは、「大東亜共栄圏の建設」に他ならないのです。一條氏は、このピリピ書からの引用こそが「バルトと書翰をつなぐ”決定的な絆”」であると述べています。

ところが『ピリピ書注解』で当のバルトは次のように述べています:

ただ一つの事は、いずれにしてもある人間的な、わたしの、あなたの、彼の真理とか義などではない。さらに、交わりの中に統合された人間的諸真理ともろもろの義―それらの間にはさてまあ寛容が支配しなければならぬはずだが―の総体でさえもないであろう。それどころか、後で示されるように、これらの個々人にとって真理と義であるものいっさいの、神的根源が支配すべきである 。(前掲書、61頁。強調は原文)

ここから明らかなように、「大東亜共栄圏の建設」といった人間の政治的理想がパウロのいう「唯一つの事」であるなどとは、バルト本人は到底認めるはずのないものです。書翰はバルトの釈義の一断片を文脈を無視して取り出し、自らの目的のために利用していると言わざるをえません。

次に、なぜ一致団結した東アジアのキリスト者が日本の軍事政策に従わなければならないのかを説いた第2章の冒頭で、書翰はピリピ4章8節「おおよそ真なること、おおよそ尊ぶべきこと、おおよそ正しきこと、おおよそいさぎよきこと、おおよそ愛すべきこと、おおよそよき聞こえあること、いかなる徳、いかなる誉にても汝らこれを念い」を引用します。

書翰の論理は次のような筋道をたどります。この「おおよそ尊ぶべきこと」とは「単に教会の中なる諸徳について言っているのではなく、教会の外の一般社会の中にあるかのごときもの」である。そして「分裂崩壊の前夜にある個人主義西欧文明が未だ一度も識らなかった『おおよそ尊ぶべきもの』が、東洋には残っている」と続け、最終的にはこれは「世界に冠絶せる万邦無比なるわが日本の国体」に他ならない、だから東アジアのキリスト者もこの日本の国体を思念し、尊敬するようにと結論づけるのです。つまり書翰では、パウロのいう、教会外にある「おおよそ尊ぶべきもの」が日本の国体と直結されているのです。

では、ピリピ書のこの箇所に関するバルトの解釈はどうでしょうか。確かに彼はパウロが「ちょうどローマ書一三章が国家に対する尊敬を命じているように、そのようにここでも、すべて人間的に真なるものや善なるものいっさいに対する尊敬を、キリスト者たちに命じている」といいます(152頁) 。ここだけ見ると、バルトの解釈は書翰の主張と一致するか、少なくとも許容しているようにも見えます。一條氏も「この個所の釈義はバルトらしくない。」と書いておられます。一方、訳者である山本はまさにこの部分に注をつけて「バルトを文化否定の危険神学と烙印したのは、昭和初年期の幼稚性、原始素朴な錯覚であった。この神学的釈義に基づいてこそ、日本におけるキリスト教的文化形成が一つの課題となる」と述べているのです(163頁)。

しかしその後の箇所でバルトは、「しかし善についての知識は、ただ善が誡めである場合、しかもその戒めが守られている場合にのみ、神認識である」と警告しているのです(152頁。強調は原文) 。つまり、ここでバルトが言っていることは、この世で尊ばれているものをキリスト者が尊重しつつも、それをよく吟味して、それが神からの誡めに合致する限りにおいてそれを実行せよと言うことです 。ここから、キリスト者が日本の国体とその遂行する侵略戦争を尊び実行するということは、バルト本人の意図から大きく外れたものと言わなければなりません。

たしかにローマ書13章に言及したバルトの文言は、書翰の趣旨に都合の良いように解釈できる余地を残しています。しかし、この『ピリピ書注解』はヒトラーによる政権奪取前の1928年に書かれたものであることを覚えなければなりません。ここでバルトが念頭に置いている国家とはヒトラーのナチスではなくその前のヴァイマール共和国でした 。ナチス時代の1938年に書かれた「義認と法」では、キリスト者の国家に対する服従には限度があることをバルトははっきりと述べているのです。

そもそも神の絶対的主権性を強調するバルトの立場が、書翰の趣旨に適うものでないことは明白です。実際にバルトは同時代のドイツにあって、ヒトラー政権に追従する「ドイツ的キリスト者運動」に対して断固として拒否の姿勢を貫いたのです。次回はバルト本人の戦争との関わりについて見ていきます。

(続く)

戦争と神学者(2)

前回は、「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」(以下「書翰」。全文はこちら)の成立事情について概観しました。今回はその内容を見てみたい と思います。

富田満統理による序文では本書翰が「現代の使徒的書翰」と称され、この後もしばしば同様の書翰を送る計画があることが記されています。

第1章ではまず、日本基督教団という形で「一国一教会」となった日本の教会と、アジア諸地域の教会との連帯が語られます。日本教会とアジアの教会を結ぶ「紐帯」の一つは、英米という「共同の敵」に対する戦いであり、大東亜戦争が米英の植民地主義からアジア諸民族を解放する「大聖戦」であり、「サタンの凶暴に対する一大殲滅戦」であると語られます。そこでは米英のキリスト教会がいかに堕落しているかが語られ、米英に対する日本の戦いは「神の聖なる意志」によるものであるとされていきます。この章で米英のキリスト教はパウロがローマ2:17-22で攻撃している「ユダヤ的キリスト者と同一の型にはまった」ものだとされています 。

(パウロが上の箇所で言及している「ユダヤ人」がはたして「ユダヤ的キリスト者」をさすのか、それともユダヤ人一般を指すのかという釈義上の問題はおくとして、ここで書翰がユダヤ人に対して否定的な視点をもっていることは間違いありません。書翰の末尾近くでは、キリストをさして「かのイスラエル民族によって捨てられ、天地の主なる神によって栄光の中に証示され給える者」といった表現も見られます。これは同盟国であったナチス・ドイツのユダヤ人迫害と関係しているのかもしれません。)

もう一つの「紐帯」は、日本とアジアの教会は共に主イエス・キリストに属する存在だということです。書翰では、主イエスの「己れの如く汝の隣りを愛すべし」という隣人愛の教えを取りあげて、「大東亜共栄圏の理想は、この主の隣人愛の誡めを信仰において聞き、服従の行為によって実践躬行することをわれらに迫る」と主張します。そしてエペソ4:1、3(「汝ら召されたる召しにかないて歩み、平和の繋ぎ[靱帯]のうちに勉めて御霊の賜う一致を守れ」)を引用しつつ、この目的のために一致するよう呼びかけます。

第2章では日本とその国体がいかにすぐれたものであるかが宣伝されますが、「おおよそ真なること、おおよそ尊ぶべきこと、おおよそ正しきこと、おおよそいさぎよきこと、おおよそ愛すべきこと、おおよそよき聞こえあること、いかなる徳、いかなる誉にても汝らこれを念い」(ピリピ4:8)の聖句から、大東亜戦争遂行の理想という「おおよそ尊ぶべきもの」に心をとめるように促します。そして「全世界をまことに指導し救済しうるものは、世界に冠絶せる万邦無比なるわが日本の国体である」と主張します。そしてこの国体の指導の下に新しい政治秩序を東亜に建設することは「神の国をさながらに地上に出現せしめること」であるといいます。この章の文言は日本の国体があたかも神と同一視されているかのような印象を与えます。

第3章で書翰は日本基督教団の成立にふれ、なぜこのような「一国一教会」が生まれる必要があったのかを論じます。それは欧米の宣教師の影響から解放された「日本国自主のキリスト教」を打ち立てる必要性があったからであるといいます。その先駆者として内村鑑三の言葉「世界は畢竟キリスト教によりて救わるるのである。しかも武士道の上に接木せられたるキリスト教に由りて救われるのである」が引用されます。そして日本のキリスト教会の歩みを「キリスト教は日本武士道に接樹され、儒教と仏教とによって最善の地ならしをされた日本精神の土壌に根を下ろし花を開き結実していったのである」と振り返り、その成功が「わが国体の本義と日本精神の美しくして厳しいものが遺憾なく発揚せられた事実」によるものであると誇ります。

日本基督教団の成立はそのような流れのクライマックスとして位置づけられています。そのくだりを少し長いですが引用します:

しかして遂に名実とも日本のキリスト教会を樹立するの日は来た、わが皇紀二千六百年の祝典の盛儀を前にしてわれら日本のキリスト教諸教会諸教派は東都の一角に集い、神と国との前にこれらの諸教派の在来の伝統、慣習、機構、教理一切の差別を払拭し、全く外国宣教師たちの精神的・物質的援助と羈絆から脱却、独立し、諸教派を打って一丸とする一国一教会となりて、世界教会史上先例と類例を見ざる驚異すべき事実が出来したのである。これはただ神の恵みの佑助にのみよるわれらの久しき祈りの聴許であると共に、わが国体の尊厳無比なる基礎に立ち、天業翼賛の皇道倫理を身に体したる日本人キリスト者にして初めてよくなしえたところである。

かかる経過を経て成立したものが、ここに諸君に呼びかけ語っている「日本基督教団」である。その後教団統理者は、畏くも宮中に参内、賜謁の恩典に浴するという破格の光栄に与り、教団の一同は大御心の有難さに感泣し、一意宗教報国の熱意に燃え、大御心の万分の一にも応え奉ろうと深く決意したのである 。

ここでは1940年の全国信徒大会と翌年の教団創立が振り返られていますが、ここから書翰がこれら一連の動きをどう位置づけていたかが分かります。すなわち、日本人キリスト者のよって立つ基礎が日本の「国体」にあること、また教団の存在目的が「宗教報国」にあることが明言されています。「一国一教会」としての日本基督教団の成立は、このような認識と目的意識の下になされたものでした。

たしかにこの章は日本からさらに範囲を拡げて「大東亜のキリスト教」を樹立する必要についても述べられていますが、この章の大部分は「日本キリスト教」の自画自賛で占められており、またここで設立を目指されている大東亜共栄圏そのものが実質的には日本帝国による支配ということを意味するのであれば、この「大東亜のキリスト教」が意味するものは結局日本的キリスト教のアジア諸国への押しつけと見ても良いでしょう。

この章の末尾には、「一国一教会」の統一達成の一環として、「在来の諸学校が教団立神学校として統一され」たことが報告されていますが、この短い箇所には神学教育にまで政府の統制が及んでいた事実が示唆されています。

最終章である第4章では、再びピリピ書に言及しつつ、アジアのキリスト者に対してもう一度一致を呼びかけ、「隣人愛の高き誡命の中にあの福音を聞き信じつつ大東亜共栄圏の建設という地上における次の目標に全人を挙げ全力を尽さなければならぬ」と語り、「汝らキリスト・イエスのよき兵卒としてわれらと共に苦難を忍べ」(2テモテ2:3)の聖句をもって書翰を閉じています。つまり、結局のところ、アジアにおけるキリスト者が一致してなさなければならぬ働きとは、大東亜戦争の遂行ということなのでした。

以上が書翰の内容ですが、これは募集要項の指針に正確に沿ったものであることが分かります。ここでは日本の天皇制イデオロギーと戦争の遂行を神学的に正当化しようとする試みが見られます。宮田光雄氏はこれについて次のように述べています:

この「共栄圏書翰」が出された時点では、日本軍占領下の各地では、当初抱かれた《解放軍》への期待はすでに破れ、過酷な占領軍政にたいする民衆的抵抗運動が活発化し始めていたことが知られている。「書翰」の疑似使徒的勧告は、そうした民族主義的な独立への動きにたいして、教団がキリスト教的宣撫工作の一翼を担うにいたったことを暴露するものである 。(『国家と宗教―ローマ書十三章解釈史=影響史の研究』、476頁)

ここに、1940年の皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会におけるプロテスタント教会諸教派の合同という決議に基づき、翌年成立した日本基督教団が戦時中に到達した一つの姿を見ることができるのです。

次回は、特に神学的視点からこの書翰の内容を考察してみたいと思います。

(続く)