ラルフ・ハモンド師の想い出―人種問題に寄せて

今、米国で人種間の対立が再び表面化してきています。ミネソタ州ミネアポリスで白人警官に拘束された黒人男性が死亡した事件をめぐって抗議デモが全米各地に広がっていることは、各種報道で広く知られているので、それについて詳述することはしません。ただ、今回の事件が起こったミネアポリスは私の妻の出身地であり、今でも家族がその地域に住んでいます。また私がアメリカで最初に学んだベテル神学校も、隣町のセントポールにありました(この2つの町は合わせて「双子都市Twin Cities」と呼ばれています)。したがって、個人的にもつながりのある地で起こった悲惨な事件に深い悲しみを覚えています。

今回の事件についていろいろと思い巡らしていたとき、一人の人物の顔が思い浮かんできました。それはベテル神学校時代の恩師の一人、ラルフ・ハモンド師(Dr. Ralph E. Hammond)でした。 続きを読む

悲しみの人

彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。

また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。
われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。

しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。

彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

(イザヤ53:3-5)

桜の花が咲き乱れる季節がやってきましたが、いつもと変わらないのどかな春の風景とは裏腹に、世界は不穏な空気に包まれています。連日メディアは新型コロナウイルスの話題で溢れています。今も感染者は急増を続けており、ついに日本でも緊急事態宣言が発令される事態になってしまいました。

キリスト教会もこの変化に無縁ではありません。教会も会堂に集まっての礼拝が中止され、オンラインで礼拝を行うところも増えてきました。私が所属している教会も、まず主日礼拝以外のすべての活動を休止し、先週の日曜日からはインターネットを通して各家庭で礼拝を捧げる形になりました。今教えている神学校も、3月の卒業式は規模を縮小して開催、入学式は中止となり、新年度の授業開始も4月末に延期して、授業はオンラインで行う準備を進めています。

私たちの生活は、一変してしまいました。

日本だけではありません。世界中の国々がこのウイルスの感染拡大によって大混乱に陥っています。たとえば戦争や台風のような自然災害の場合にも、局地的に大きな被害をもたらすことはあります。疫病の流行は昔もありましたが、それも特定の地域に限定されることが多かったです。けれども、今回の新型コロナウイルスはアジア、ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカ、オーストラリアとすべての地域に拡がっています。世界中が同時に同じ脅威に直面するのは極めて異例の事態と言えます。

そのような中で私たちは今週、イエス・キリストの十字架を覚える受難週を迎えました。この混沌とした世界の中で、イエスの十字架は何を語りかけているのか、自分なりに思いを巡らしてみました。 続きを読む

N・T・ライト著『驚くべき希望』紹介(のようなもの)

近年著書の邦訳ラッシュが続いている英国の聖書学者N・T・ライトですが、このたびまた新しい訳本が出ました。『驚くべき希望:天国、復活、教会の使命を再考する』(中村佐知訳・あめんどう。原題はSurprised by Hope)です。ライトについては、以前『クリスチャンであるとは』の翻訳が出たときに、当ブログでも紹介したことがあります(こちら)。本書『驚くべき希望』の日本語版出版に際して、私も少しばかりお手伝いをさせていただいた関係で、あめんどう様より見本を頂戴しました。感謝します。

SBH

本書は専門的な学術書ではなく、一般向けの書ではありますが、翻訳にして500頁近くになりますので、近寄りがたいと感じる方もおられかもしれません。巻末には山口希生先生による簡潔な解説もついていますので、そちらで全体像を掴んでから読み進めていくと良いかもしれません(こちらでも読むことができます)。このブログでは、本書の内容を細かく紹介していくというよりは、この本をきっかけにいろいろと考えたことを書き綴っていきたいと思います。

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悪魔の解釈学(3)

さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。
‭‭(ルカ福音書‬ ‭15章1-2‬ ‭節)

その1 その2

ヘヴィーメタル(あるいは大衆文化一般)における悪魔のイメージをどう解釈するかについて、これまでいくつかのポイントについて考察してきました。最後にもう一つの重要なポイントについて触れたいと思います。

神がデスヴォイスで歌うとき」の5でも少し触れましたが、1982年にイギリスのヘヴィーメタルバンド、Iron MaidenがアルバムThe Number of the Beast(邦題は「魔力の刻印」――これに限らず海外ポピュラー音楽の楽曲の邦題は不正確な訳が多いので注意が必要です)を発表したとき、アメリカのモラルマジョリティを代表とする保守系団体が同バンドを悪魔主義と非難して反対運動が巻き起こりました。黙示録13章に出てくる「獣の数字」にまつわるタイトルとともに、その大きな原因となったのは、悪魔を描いたアルバムジャケットでした(画像はウィキペディアを参照)。

このアルバムの禍々しいアートワークは、当時の保守的なクリスチャンを戦慄させるに足るものでした(アナログレコード時代のジャケットの大きさを考えると、そのインパクトはCDとは比べものにならなかったと思います)。ここでは、このアルバムの内容自体の是非について論じることはしませんが、私がこの絵に描かれている悪魔の姿を見て思ったのは、「はたして悪魔は実際このような姿をしているのだろうか?」ということです。 続きを読む

神がデスヴォイスで歌うとき(1)

またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。
(ヨハネの黙示録14章2節)

私は音楽を聴くのが好きです。いわゆる「キリスト教音楽」だけを聴くわけではありませんが、広い意味で神への信仰を表現した音楽を多種多様なスタイルで聴くのが好きです。クラシック、ジャズ、ポップス、民族音楽・・・イエス・キリストへの信仰が実にさまざまなスタイルで表現されるのを耳にするにつけ、神の創られた世界と教会の豊かな多様性に触れる思いがします。そんなわけで、このブログでも過去にU2ブルースメシアニック・ジューの賛美など、いろいろな音楽を取り上げてきました。

さて、そのような多様な「キリスト教音楽」の中で、私がとりわけ関心を持っているひとつのジャンルがあります。それはクリスチャンのヘヴィーメタル、いわゆる「クリスチャンメタル」です。 続きを読む

聖書のグランドナラティヴ再考(2)

前回の記事では、聖書のグランドナラティヴを次のような7部構成で考えることを提案しました:

A 創造
 B 悪の起源
  C 神の民(イスラエル)
   X イエス・キリスト
  C’ 神の民の刷新(教会)
 B’ 悪の滅び
A’ 創造の刷新

さて、この7部構成が従来の6部構成(1.創造、2.堕落、3.イスラエル、4.イエス、5.教会、6.新創造)と違う点は、6番目の要素(集中構造で言うB’)として「悪の滅び」を追加したことです。「悪の滅び」とは、キリストの再臨、最後の審判、そしてすべての悪への最終的勝利を含みます(1コリント15章23-28節、黙示録19-20章など)。もちろん、これらの要素は終末論的成就の一部として、従来のグランドナラティヴ理解にも含まれています。これを独立した一つの要素としたのには、二つの理由があります。 続きを読む

Even Saints Get the Blues(信仰者と嘆きの歌)(2)

前回の記事では、U2のボノの発言にこと寄せて、「詩篇はブルースである」ということについて書きました。今回は同じテーマを、聖書学の観点からもう少し掘り下げてみたいと思います。

米国の旧約聖書学者ウォルター・ブルッゲマンはその著書Spirituality of the Psalms (『詩篇の霊性』)の中で、詩篇を三つの類型に分けています。第一は定位の詩篇psalms of orientation、第二は混迷の詩篇psalms of disorientation、第三は新しい定位の詩篇psalms of new orientationです。

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ウォルター・ブルッゲマン(Image via Flickr

定位の詩篇は神に対する揺るがぬ信頼に裏付けられた、幸福な状態を歌った詩篇です。信仰者は自らの生に満足しており、感謝と自信にあふれ、疑いや恐れはありません。世界は秩序だっており、神の善と信実を反映しています。たとえば詩篇8篇133篇などはこのカテゴリーに属します。

しかし、現実はいつもこのような定位の詩篇に歌われているようなものばかりではありません。むしろ、理想を裏切るような厳しい現実が人生や社会を支配していることが多いのです。ブルッゲマンは混迷を極める現実の中で、信仰をもって定位の歌をうたうことの意義を一定程度認めますが、しかしそのような行為は部分的にしか正当化されないと論じます。

すくなくとも明らかなのは、生の現実を前にして「ハッピーな歌」をうたい続ける教会は、聖書自体が行っていることとはとても違うことをしているということである。抗議の詩篇が宗教的な場で用いられることがほとんどなかったのは、否定的なことがらを認め、受け入れるのは信仰ではない、と私たちが信じてきたからだと思う。私たちは、否定的なことがらを認めるのは不信仰な行為だと考えた――まるでそのようなことを口にすること自体、神が「コントロールを失っている」ことを認めてしまうことであるかのように。(p. 26)

このような状況で歌われるのが、混迷の詩篇です。その典型的なものは詩篇88篇でしょう。ほとんどの嘆きの詩篇は最後には肯定的な調子で終わりますが、この詩篇では最後まで希望が見えないかのようです。これはまさに「古代イスラエルのブルース」と言ってもよいでしょう。

主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。
なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。
わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。
あなたの脅かしにあって衰えはてました。
あなたの激しい怒りがわたしを襲い、
あなたの恐ろしい脅かしがわたしを滅ぼしました。
これらの事がひねもす大水のようにわたしをめぐり、
わたしを全く取り巻きました。
あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、
わたしの知り人を暗やみにおかれました。
(詩篇88篇14-18節)

ブルッゲマンは、このような詩篇を用いることができるためには、私たちの信仰がつくり変えられる必要があるといいます。つまり、私たちの神の概念が変えられる必要があるのです。私たちが信じるべき神は、人生の暗闇や弱さの中に臨在してくださり、注意を向けてくださり、関わってくださるような神、私たちの悲しみを知っておられる神なのです。

これらの詩篇で前提とされ、また呼びかけられている神は「悲しみの」神であり、「苦悩を知っておられる」神である。この神について語るには、不変性immutabilityよりは誠実さfidelityというカテゴリーがふさわしい。そして誠実さが不変性に取って代わる時、神の主権についての私たちの概念も深く変えられていく。このような混迷の詩篇は、変化を被ることのない神という概念とは根本的に矛盾するものである。(p. 27-28)

ブルッゲマンによると、混迷の詩篇によって私たちの神観だけでなく、人生観も変化していきます。今や人生は巡礼の旅として捉えられ、そのプロセスの中で私たちが通って行く暗闇は、人間であることの正常な一部であると考えられるようになります。なぜなら、そのような死ととなりあわせの場所においてこそ、新しいいのちが神から与えられるからです。

ブルッゲマンは、この種の詩篇は教会ではあまり人気がないことを承知しています。なぜなら、混迷の詩篇は人生の現実を私たちの目の前につきつけるものだからです。近代の宗教は、十分な力と知識があれば世界を管理・制御できるし、そのようにして恐れを飼い馴らし、暗闇を根絶できると考えてきました。しかし、私たちの偽らざる経験は、個人であれ社会であれ、暗闇は頑として消え去ろうとしないことを示しています。しかし、ブルッゲマンは詩篇に込められたイスラエルの驚くべき信仰に目を留めます。

イスラエルについて注目すべきは、その宗教活動から暗闇を排除したり、それを否定したりすることがなかったということである。それは暗闇を新しいいのちの本質的要素として受け入れた。実際のところ、新しいいのちが根付くのは、暗闇以外にはないということを、イスラエルは知っていたように思われる。(p. 29)

ブルッゲマンはここからさらに進んで、新しい定位の詩篇についても述べています。これは、上で述べたような暗闇を通り抜けた後、神の恵みと新しいいのちを経験した者たちが到達する、新しい信仰の境地について歌った詩篇です。しかし、私たちは詩篇の中でも最も顧みられることの少ない混迷の詩篇について、立ち止まって考える必要があるのではないかと思います。

ブルッゲマンは、このような定位→混迷→新しい定位という運動は、新約聖書、特にイエス・キリストのうちにも見ることができると言い、ピリピ2章5-11節を例に挙げています。

キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが(定位)、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり(混迷)、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ(新しい定位)すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

私たちの信仰と神学にとって、いわゆるキリストの謙卑が持っている重要性については論を待たないでしょう。キリストはローマ帝国支配下の貧しいユダヤ人としてこの世に生まれ、「悲しみの人で、病を知って」おられました(イザヤ53章3節参照)。そして最後には十字架につけられて悲惨な死を味わわれました。イエスはユダヤの民衆とともに嘆きの詩篇を幾度となく歌われたことと思います。それはまさに神が混迷のさ中にある私たちに寄り添ってくださったできごとでした。そして、そのような暗闇の中でこそ、私たちは神の恵みといのちを体験することができるのです。

ブルースを歌うことを許さない社会は心の貧しい社会と言えるでしょう。同様に、嘆きの詩篇、混迷の詩篇を読み、歌うことをしない教会も、聖書的な信仰について、この世界の現実について、そして神ご自身について、大切な部分を見落としているのではないでしょうか。

(続く)