聖書のグランドナラティヴ再考(2)

前回の記事では、聖書のグランドナラティヴを次のような7部構成で考えることを提案しました:

A 創造
 B 悪の起源
  C 神の民(イスラエル)
   X イエス・キリスト
  C’ 神の民の刷新(教会)
 B’ 悪の滅び
A’ 創造の刷新

さて、この7部構成が従来の6部構成(1.創造、2.堕落、3.イスラエル、4.イエス、5.教会、6.新創造)と違う点は、6番目の要素(集中構造で言うB’)として「悪の滅び」を追加したことです。「悪の滅び」とは、キリストの再臨、最後の審判、そしてすべての悪への最終的勝利を含みます(1コリント15章23-28節、黙示録19-20章など)。もちろん、これらの要素は終末論的成就の一部として、従来のグランドナラティヴ理解にも含まれています。これを独立した一つの要素としたのには、二つの理由があります。 続きを読む

Even Saints Get the Blues(信仰者と嘆きの歌)(2)

前回の記事では、U2のボノの発言にこと寄せて、「詩篇はブルースである」ということについて書きました。今回は同じテーマを、聖書学の観点からもう少し掘り下げてみたいと思います。

米国の旧約聖書学者ウォルター・ブルッゲマンはその著書Spirituality of the Psalms (『詩篇の霊性』)の中で、詩篇を三つの類型に分けています。第一は定位の詩篇psalms of orientation、第二は混迷の詩篇psalms of disorientation、第三は新しい定位の詩篇psalms of new orientationです。

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ウォルター・ブルッゲマン(Image via Flickr

定位の詩篇は神に対する揺るがぬ信頼に裏付けられた、幸福な状態を歌った詩篇です。信仰者は自らの生に満足しており、感謝と自信にあふれ、疑いや恐れはありません。世界は秩序だっており、神の善と信実を反映しています。たとえば詩篇8篇133篇などはこのカテゴリーに属します。

しかし、現実はいつもこのような定位の詩篇に歌われているようなものばかりではありません。むしろ、理想を裏切るような厳しい現実が人生や社会を支配していることが多いのです。ブルッゲマンは混迷を極める現実の中で、信仰をもって定位の歌をうたうことの意義を一定程度認めますが、しかしそのような行為は部分的にしか正当化されないと論じます。

すくなくとも明らかなのは、生の現実を前にして「ハッピーな歌」をうたい続ける教会は、聖書自体が行っていることとはとても違うことをしているということである。抗議の詩篇が宗教的な場で用いられることがほとんどなかったのは、否定的なことがらを認め、受け入れるのは信仰ではない、と私たちが信じてきたからだと思う。私たちは、否定的なことがらを認めるのは不信仰な行為だと考えた――まるでそのようなことを口にすること自体、神が「コントロールを失っている」ことを認めてしまうことであるかのように。(p. 26)

このような状況で歌われるのが、混迷の詩篇です。その典型的なものは詩篇88篇でしょう。ほとんどの嘆きの詩篇は最後には肯定的な調子で終わりますが、この詩篇では最後まで希望が見えないかのようです。これはまさに「古代イスラエルのブルース」と言ってもよいでしょう。

主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。
なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。
わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。
あなたの脅かしにあって衰えはてました。
あなたの激しい怒りがわたしを襲い、
あなたの恐ろしい脅かしがわたしを滅ぼしました。
これらの事がひねもす大水のようにわたしをめぐり、
わたしを全く取り巻きました。
あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、
わたしの知り人を暗やみにおかれました。
(詩篇88篇14-18節)

ブルッゲマンは、このような詩篇を用いることができるためには、私たちの信仰がつくり変えられる必要があるといいます。つまり、私たちの神の概念が変えられる必要があるのです。私たちが信じるべき神は、人生の暗闇や弱さの中に臨在してくださり、注意を向けてくださり、関わってくださるような神、私たちの悲しみを知っておられる神なのです。

これらの詩篇で前提とされ、また呼びかけられている神は「悲しみの」神であり、「苦悩を知っておられる」神である。この神について語るには、不変性immutabilityよりは誠実さfidelityというカテゴリーがふさわしい。そして誠実さが不変性に取って代わる時、神の主権についての私たちの概念も深く変えられていく。このような混迷の詩篇は、変化を被ることのない神という概念とは根本的に矛盾するものである。(p. 27-28)

ブルッゲマンによると、混迷の詩篇によって私たちの神観だけでなく、人生観も変化していきます。今や人生は巡礼の旅として捉えられ、そのプロセスの中で私たちが通って行く暗闇は、人間であることの正常な一部であると考えられるようになります。なぜなら、そのような死ととなりあわせの場所においてこそ、新しいいのちが神から与えられるからです。

ブルッゲマンは、この種の詩篇は教会ではあまり人気がないことを承知しています。なぜなら、混迷の詩篇は人生の現実を私たちの目の前につきつけるものだからです。近代の宗教は、十分な力と知識があれば世界を管理・制御できるし、そのようにして恐れを飼い馴らし、暗闇を根絶できると考えてきました。しかし、私たちの偽らざる経験は、個人であれ社会であれ、暗闇は頑として消え去ろうとしないことを示しています。しかし、ブルッゲマンは詩篇に込められたイスラエルの驚くべき信仰に目を留めます。

イスラエルについて注目すべきは、その宗教活動から暗闇を排除したり、それを否定したりすることがなかったということである。それは暗闇を新しいいのちの本質的要素として受け入れた。実際のところ、新しいいのちが根付くのは、暗闇以外にはないということを、イスラエルは知っていたように思われる。(p. 29)

ブルッゲマンはここからさらに進んで、新しい定位の詩篇についても述べています。これは、上で述べたような暗闇を通り抜けた後、神の恵みと新しいいのちを経験した者たちが到達する、新しい信仰の境地について歌った詩篇です。しかし、私たちは詩篇の中でも最も顧みられることの少ない混迷の詩篇について、立ち止まって考える必要があるのではないかと思います。

ブルッゲマンは、このような定位→混迷→新しい定位という運動は、新約聖書、特にイエス・キリストのうちにも見ることができると言い、ピリピ2章5-11節を例に挙げています。

キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが(定位)、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり(混迷)、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ(新しい定位)すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

私たちの信仰と神学にとって、いわゆるキリストの謙卑が持っている重要性については論を待たないでしょう。キリストはローマ帝国支配下の貧しいユダヤ人としてこの世に生まれ、「悲しみの人で、病を知って」おられました(イザヤ53章3節参照)。そして最後には十字架につけられて悲惨な死を味わわれました。イエスはユダヤの民衆とともに嘆きの詩篇を幾度となく歌われたことと思います。それはまさに神が混迷のさ中にある私たちに寄り添ってくださったできごとでした。そして、そのような暗闇の中でこそ、私たちは神の恵みといのちを体験することができるのです。

ブルースを歌うことを許さない社会は心の貧しい社会と言えるでしょう。同様に、嘆きの詩篇、混迷の詩篇を読み、歌うことをしない教会も、聖書的な信仰について、この世界の現実について、そして神ご自身について、大切な部分を見落としているのではないでしょうか。

(続く)