ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(8)

その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7

『確実性の罪(The Sin of Certainty)』の7章で、エンズは「疑い」について正面から取り上げます。疑いとは何でしょうか、そして、信仰者は疑いにどのように接していったら良いのでしょうか?

信仰者の多くは、これまで自分が確信し、そこに人生のよりどころを見いだしてきたことがらについての深刻な疑いを経験します。そしてそれは私たちに大きな不安や恐れを引き起こします。多くの場合、そのような危機に直面したクリスチャンは、何か自分に問題があると考え、なんとか壊れたところを修復しようと努力します。その試みがうまくいけば、私たちは元の信仰生活に戻り、以前と同じ歩みを続けて行きます。けれども、もしそれがうまくいかず、疑いが長期間にわたって続くような場合、心に絶望を秘めながら表面上はこれまでと同じ信仰の歩みを続けて行く人もいれば、潔く信仰に見切りをつけて去っていく人もいます。いずれにしても、疑いは信仰の敵と考えられています。

しかし、エンズはそのように考える必要はないと言います。エンズによると、疑いは信仰の敵ではありません。疑いが信仰の敵のように思えるのは、私たちが「信仰」を私たちの「確実な考え」と同一視するからだと言います。 続きを読む

復活のキリストの現われ

ヨハネの福音書21章には、復活したイエスがテベリヤ湖(ガリラヤ湖)でペテロと他の6人の弟子たちに現れたできごとが書かれています。

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話の筋を追うのは難しくありません。ペテロたちが漁に出て、夜通し働いても何も獲れなかったのが、そこに現れたイエスの助けによってたくさんの魚を獲り、その後イエスと一緒に食事をした、というものです。15節からは、イエスがペテロに「わたしを愛するか。」と三度問いかける有名な問答が描かれています。そして21章の最後には、ペテロがどのような死に方をするかについてのイエスの予告(18-19節)と、「イエスの愛しておられた弟子」すなわち福音書記者ヨハネの運命について述べられています(20-23節)。

ふつう、この章はヨハネ福音書の20章までがひとまず完成した後に(ヨハネ自身によってであれ他の人間によってであれ)付け加えられた部分であると論じられることが多いです。その目的は、一つには初代教会のリーダーであったペテロの「回復と再召命」について記すこと、そして、著者のヨハネがイエスの再臨までは死なないという噂があったのに対して、その誤解を解くことが目的であったとされます。しかしこの記事では少し違った角度からこの章を読んでみたいと思います。 続きを読む

復活のキリストにはなぜ傷痕があるのか

現在グレッグ・ボイドのBenefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介記事を連載していますが、そこでボイドは、十字架上のイエスにおいて啓示された神の姿は、旧約聖書で啓示された神の姿よりも優先するものであり、同時にそれらを解釈するためのレンズであると論じています(第18回第19回)。それに関連してこの記事では、十字架に先行する旧約聖書に描かれている神のイメージだけでなく、その後に来る終末における神観も、十字架のレンズを通して見なければならないということを論じていきたいと思います。

19  その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 20  そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。 (中略) 25  ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。 26  八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 27  それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。(ヨハネ20章19-27節)

新約聖書に収められている復活顕現記事の中で、ヨハネの福音書だけが、よみがえったイエスのからだに十字架の傷痕が残っていることを記しています。

The_Incredulity_of_Saint_Thomas_by_Caravaggioカラヴァッジョ「聖トマスの懐疑」

ヨハネの黙示録では、復活のキリストが「小羊」として繰り返し登場しますが、このキリストは「ほふられたと見える」小羊として描かれています。

わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。(黙示録5章6節)

なぜこの小羊がヨハネにはほふられたと見えたのでしょうか?おそらくこの小羊にはほふらられた時につけられた傷痕が残っていたのかもしれません。

Retable_de_l'Agneau_mystique_(10)ファン・エイク兄弟「神秘の子羊の礼拝」

有名な讃美歌Crown Him with Many Crowns(聖歌179番「おおくのかむり」)の歌詞にも、次のような一節があります。

Crown Him the Lord of love, behold His hands and side,
Those wounds, yet visible above, in beauty glorified.

愛の主に冠をささげよ。彼の手とわきを見よ。
これらの傷は今でも天上で、栄光に輝く麗しさの中で見ることができる。

十字架にかかって死なれたイエスは、三日後に肉体をもってよみがえりました。新約聖書によると、復活したイエスのからだは、霊ではなく物質的な肉体であり、しかも通常の人間の肉体とは異なる性質を持ったものでした。しかし、そのような栄光のからだをもって復活したキリストには、十字架の傷跡が残っていた―この非常に印象的なイメージは、十字架と復活の関係をみごとに表していると思います。一言でいえば、復活は十字架の否定ではなく肯定であり、十字架を通してでなければ理解できないということです。

近年、聖書やキリスト教信仰における復活の重要性が主張されてきています。これまでの「十字架偏重」の神学を見直し、復活の重要性を再評価しなければならない、というのです。私はそのような動きは心から歓迎しますし、確かに復活の教理は大いに強調されなければならないと思っています。しかし、問題はその強調すべき復活をどのように理解するかということです。それは一歩間違えると十字架の中心性を否定するような形の安易な勝利主義的神学に導かれれるおそれがあるのではないかと、私は危惧しています。

歴史における神の救済のドラマは、イエスの十字架によって完結したわけではもちろんありません。三日後にイエスは復活し、それは世の終わりのすべての死者の復活と新天新地の到来に導いていくものでした。ですから、確かに十字架のみを強調する神学は不完全のそしりを免れません。しかし、ここで注意しなければならないのは、十字架は終末にいたる神の物語の単なる通過点ではないということです。それどころか、十字架のできごとは、それ以後の救済史の展開を理解する上でも決定的に重要な鍵を提供しているのです。

たとえば、新約聖書が終末に再臨するイエスをどのように描いているか、それを私たちがどのように解釈すべきかを考えてみましょう。特にヨハネの黙示録は、キリストを悪を滅ぼす戦士として、怒りと裁きの神として描いています(19章11-16節)。多くの人々はこのイメージを文字通り受け取り、再臨のキリストを通して啓示される神の本質は怒りと裁きの神であると考えています。しかし、このような解釈は、黙示録自体においてキリストは同時に一貫して「ほふられた小羊」として描かれていることとも、福音書等でイエスが自己犠牲的な愛の神として啓示されていることとも矛盾します。ですから、私たちは黙示録における暴力的なイエスの描写を文字通り解釈するのではなく、ヨハネが黙示文学における戦う神の伝統的表象を逆用していると考えなければならないのです(このことについては、「黙示録における『福音』」のシリーズを参照してください)。しかし、その時私たちは、黙示録にある戦士としてのイエスのイメージを、十字架につけられた愛のイエスの姿をレンズとして見ていることになります。つまり、十字架上のイエスにおいて啓示された神の姿は、それに先行する旧約聖書の神啓示に優先するだけでなく、それ以後の新約聖書におけるその他の神啓示にも優先するということになります。その意味で、十字架は文字通り全聖書の中心であり、解釈学的転回点なのです。

聖書の終末論のポイントは神の国、つまり神の王なる支配が天だけでなく地にも到来し、すべてをおおいつくす、ということです。復活も新天新地もすべてはこの観点から見ていく必要があります。しかし、問題は、それがどのような種類の支配で、どのように行使されるのか、ということです。十字架が全聖書の中心であるというのは、この終末における神の王的支配もまた、十字架のレンズを通して理解しなければならないことを示しています。つまりそれは黙示録の「バビロン=ローマ」に象徴されているような、力による上からの支配ではなく、十字架のイエスが身をもって示されたような、自己犠牲的な愛によって他者に仕える(マルコ10:42-45、ルカ22:24-30)、そういう「支配」なのです。(この点については、「御国を来たらせたまえ(補)」をお読みください)。そういう意味で、新約聖書の終末論は「十字架形の終末論 cruciform eschatology」と言っても良いかも知れません。

終末における復活や神の国の完成を十字架のレンズを通して見るか見ないかということは、クリスチャン信仰のありかたそのものを大きく左右する、決定的に重要なことであると思います。この点を見誤ってしまうと、復活は単なる「十字架の死や弱さという否定的な効果のキャンセル」という理解になってしまいます。そうすると、死からよみがえったイエスは「本来そうであった」力と栄光に満ちた神として、敵対する者に復讐するために地上に戻ってくる存在として理解されることになります。つまり、このような勝利主義的な理解においては、復活は十字架において示された愛なる神の本質を否定あるいは少なくとも限定するものとしてとらえられてしまいます。しかし復活は十字架の否定でも限定でもありません。復活は十字架を通して啓示された愛なる神の本質を確証する、神の「しかり」なのです。復活のイエスが十字架の傷跡を持ち続けておられるのは、そのことを意味しているのだと思います。

聖書解釈や神学において、イエス・キリストを中心に考える「キリスト中心的 Christocentric」アプローチが語られることがあります。それは確かに重要な考え方であると思いますが、そこで中心に置かれる「キリスト」がどのようにイメージされるか―十字架上の愛のイエスか、それとも力に満ちた裁きの神としての勝利主義的イエスか―によって、その内容は大きく変わってきます。ですから、私は自分の神学を表現する時には「キリスト中心的」という表現より、「十字架中心的 crucicentric」という表現を用いたいと思っています。パウロが「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(1コリント2章2節)と語っている通りです。

十字架は復活がなければ完結しません。けれども同時に、復活は十字架の光に照らしてはじめて本当に理解できます。復活のイエスのからだに残された十字架の傷跡は、そのことを私たちにいつも思い起こさせてくれるのだと思います。

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(5)

(本シリーズの過去記事    

今回は『クリスチャンであるとは』第2部の6-10章に基いて、ライトが再構成する聖書ナラティヴのストーリーラインについて概観します。聖書の物語の「主人公」は言うまでもなく神ご自身ですが、実際の事件はほとんどが地上で起こります。先に見たように、神は天におられ、その天は地と部分的に重なり、かみ合っています。天の神は地に住む人々の歴史に介入され、人々との間にやりとりがなされます。つまり、聖書の物語は神と人が織りなす物語と言えます。

ライトは本書では人類の創造と堕落については軽くしか触れていません。彼の物語る聖書のナラティヴ(少なくともその本編)はイスラエルから始まります(6章)。現代のクリスチャンの多くは、あたかもイエス・キリストが歴史の真空からある日突然現われて人類の救いをなしとげたかのように、自分たちの信仰にとってイスラエルが持っている重要性について、ほとんど意識していません。しかしライトは、イスラエルの物語を理解することなしにイエスの物語を理解することはできないと言います。

イスラエルの長い物語(ストーリー)において、ナザレのイエスのうちに起こったことこそが、まさにクライマックスであると受け止めることは、クリスチャンの世界観にとって文字どおり最も根本的なことである。(102ページ)

イエスの物語がイスラエルの物語のクライマックスである、というライトの視点は大変重要です。けれどもそれはどういう意味なのでしょうか?

ライトによると、旧約聖書におけるイスラエルの物語には繰り返し登場するあるパターンがあります。それは、「捕囚と帰還」のパターンです。エジプトでの奴隷生活とそこからの解放(出エジプト)、バビロン捕囚とそこからの帰還など、イスラエルの歴史は大小様々な隷属と解放、捕囚と帰還の物語で満ちています。それは究極的には、堕落によってエデンの園から追放され、神から離反してしまった人類を神が最終的に回復されるという、聖書全体を貫く大きな物語の反映であるのです。

ライトによると、イエスと同時代のユダヤ人たちは、バビロン捕囚からの帰還は完全には実現していないと感じており、神による最終的な解放を待ち望んでいました。それは神が王となる時であり、世界に義がゆきわたる時であり、天と地が一つとなる時であり、新しい創造がなされる時でした。そのような希望は、捕囚と回復の物語を集約するある人物、すなわち「メシア(油注がれた者)」に向けられていきます。

ユダヤ人たちが待ち望んでいた神による救いを体現したのが、ナザレのイエスでした(7-8章)。イエスは、イスラエルの神のみが為されるとされていた救いのわざを自らの使命として受け入れ、行動しました(ライトによると、イエスは自分が神であることをこのような意味で「知って」いました)。そして、イスラエルの物語で繰り返されてきた捕囚と帰還のパターンが究極的に凝縮された形で現れたのが、イエスの死と復活の物語だったのです。イエスは十字架上でこの世の悪の力のすべてをその身に引受けて死ぬことにより、悪に勝利しました。そしてイエスの復活を通して、天と地が最終的に結びつきました。ライトによると、イエスにおいて神が成し遂げたことこそが、キリスト教のエッセンスなのです:

キリスト教は、今も生きている神が、ご自身の約束の成就として、またイスラエルの物語のクライマックスとして―─見つけだし、救いだし、新しいいのちを与える―─というすべてが、イエスにあって成し遂げられたと信じることにほかならない。神がそれをなされた。イエスと共に、救出のわざをただ一度で完全に実現された。この宇宙において、決して二度と閉じられることのない素晴らしいドアがサッと開かれた。それは、私たちが鎖につながれ、閉じ込められている牢獄から出るために開かれたドアである。(133ページ)

イエスが復活され、天に帰られて後も、聖書の物語は続いていきます。この章における主要な登場人物は教会ですが、ライトは教会の務めは聖霊の助けなしにはありえないと語ります(9-10章)。聖霊は、すでに天に昇られたイエスのいのちを、教会が地上において分かち合い、イエスの働きを進めていくために与えられています。聖霊に導かれて生きるとは、「天と地が重なり合う場で生き、そのあり方に沿って生きること」なのです(192ページ)。

*   *   *

救済史の展開という視点から聖書のナラティヴを見ていくライトの視点において、もっとも議論を呼ぶのは、「1世紀のユダヤ人は捕囚はまだ終わっていないと考えていた」という主張であると思います。この考えは、ライトの主著であるChristian Origins and the Question of Godシリーズの第1巻The New Testament and the People of Godをはじめとして、彼が繰り返し主張してきたものです。もちろん、1世紀のユダヤ教の多様性については広く知られており、すべてのユダヤ人が同じように考えていたわけではありませんが、ライトはイエスと同時代のユダヤ人の多くがそのように考えていたと主張しています。

これはもちろん「捕囚の終わり」をどう理解するかによって変わってきます。バビロンに捕囚にされたユダの人々がカナンの地に物理的に帰還し、エルサレムに神殿を再建したことをもって「捕囚の終わり」とするなら、確かにバビロン捕囚は終わったと言えますが、もちろんライトはそのような意味で言っているのではありません。

捕囚後のユダヤ人たちが待ち望んでいたのは、異邦人による支配からの完全な解放、神の臨在と栄光あふれる完全な神殿の再建、イスラエルの罪の赦し、そして諸国民によるヤハウェ礼拝などといった、旧約預言書に記されている約束が完全に実現する状態としての「捕囚の終わり」であったとライトは言います。そして捕囚後のユダヤ人の多くが、これらの約束は何一つとしてまだ実現していないと感じていたということを、ライトは様々な旧約聖書や中間時代のユダヤ教文書を元に論じています。本書では一例として、捕囚の期間としてダニエル書に記されている「七十週」(=490年と解釈されます)という数字が、中間時代のユダヤ人たちによって、「捕囚のほんとうの終わり」の時期を計算するために用いられていたと述べています(114ページ)。

「1世紀のユダヤ人たちは、自分たちはまだ捕囚状態にあると思っていた」というライトの表現は、人によってはセンセーショナルに感じるかもしれませんが、彼が言っている内容そのものはそれほど過激なものではないと個人的には感じています。要するに、終末における完全な解放という預言的ビジョンに対して、ユダヤ人の歴史的現実(第二神殿の建設やハスモン王朝の成立などを含め)はつねに部分的で不完全な満足しか与えてくれないものであり、どの時代にも「より完全な解放」を待ち望む人々が存在したと言うことではないかと思います。(このあたりは、第1部でライトが論じていた、「声の響き」の議論に通じるものがあると思います。)

1世紀のユダヤ人たちが感じていたこのような問題に対して、新約聖書が与えている解答は、「捕囚からの完全な解放への道は、十字架につけられ、死んでよみがえったナザレのイエスによって開かれた」というものでした。例えばイザヤ書はバビロンからの解放を「新しい出エジプト」として描いていますが、新約聖書においてはイエスはしばしば新しいモーセとして描かれています。イエスから始まった運動は、まさに新しい出エジプトとしての、捕囚からの最終的解放の始まりだったのです。

もちろん、イエスの死と復活が、当時のユダヤ人たちの終末的希望を即座に完全に実現したわけではありません。神の国の完全な到来はいまだに将来の希望にとどまっていました。したがって、懐疑的な眼差しを向けるユダヤ人も当然多かったことでしょう。しかしイエスの弟子たちはイエスと彼に従う者たちの共同体(教会)のうちに、「捕囚の終わり」として約束されていたものが、世界の主としてのイエス、罪の赦し、神の臨在あふれる神殿としての教会共同体、異邦人の神の民への参加、等々という形ですでに実現し始めているのを見たのです。

(続く)

復活の福音

このところ多忙のためブログの更新が滞っていましたため、久しぶりの投稿になります。昨日の復活主日の礼拝にお招きいただいて語らせていただいたメッセージに手を加えて公開します。

復活の福音

兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。(1コリント15章1-5節)

復活の中心性

イエス・キリストの復活をお祝いするイースター(復活祭)はキリスト教の祝日の中で最も重要なもので、ある意味でクリスマスよりも大切なものです。今日の主題聖句でパウロは、コリントのクリスチャンたちに、彼が宣べ伝えている「福音(良い知らせ)」とは何かということを説明しています。その内容は、キリストが私たちの罪のために死なれたこと、葬られたこと、よみがえられたこと、そして復活後に弟子たちに現れたことです。つまり「福音」の最も大切な要素は、キリストの十字架の死と復活であることが分かります。

私たちクリスチャンは「福音」という言葉をよく使いますが、自分でもあまりよく分からないまま使ってしまっていることがあります。クリスチャンに「福音の内容を簡潔に要約してみてください」というと、「イエス・キリストはあなたの罪のために十字架にかかって死んでくださったので、そのことを信じるだけで罪がゆるされて天国に行くことができる」というふうに答えることが多います。これは間違いではありませんが、福音の全体ではありません。「福音とは何か」という問題はとても大きな問題で、今日はすべてをお話しする時間がありませんが、このイースターにどうしてもお伝えしたいことは、キリスト教の福音には「イエス・キリストの復活」という要素が必要不可欠だということです。

実際、パウロはキリストがもし復活しなかったなら、キリスト教信仰全体がむなしいものになってしまうと言っています:

もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。 すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。(1コリント15章14-15節)

さらに別の箇所でパウロはこうも言っています:

すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。(ローマ10章9節)

ここで興味深いのは、パウロは人が救われるために信じるべきことがらとして、「神が死人の中からイエスをよみがえらせた」ことを挙げていることです。逆に言えば、パウロによると、イエスの復活を信じなければ救われないということになるのです。

イエス・キリストが十字架で死なれ、三日目によみがえったことは、キリスト教の中心的な信仰内容です。誤解を恐れずに言うなら、イエス・キリストが復活したことを認めないキリスト教は本物のキリスト教ではありえないのです。そのくらい復活というのは大切なものです。

復活の事実

ですから、キリストの復活が歴史的事実であるということを信じ告白することは、クリスチャンにとって絶対的に必要なことです。しかし、およそ二千年前にユダヤに生きたナザレのイエスという人物が、十字架刑に処せられて死んだ後、三日目によみがえったなどということが、どうして信じられるのでしょうか?

まず、死人がよみがえるなどということは科学的にありえないと考える人々が当然います。けれども、この宇宙のすべてを作り、自然法則も支配しておられる神がもし存在するなら、その神が通常の自然のプロセスを覆すような介入を行うことができないと考える理由は何もありません。ですから、私たちが考えなければならない問題は、「神は死人をよみがえらせることができるか?」という原理的な問題ではなくて、「神はナザレのイエスを実際によみがえらせたのか?」という、歴史的事実の問題です。

個人的には、イエス・キリストが復活したことを裏付ける最大の証拠は、キリスト教という宗教が存在していることだと思います。

聖書によると、ガリラヤのナザレ出身(生まれはベツレヘム)のイエスという人物は、3年半の間神の国の福音を宣べ伝え、多くの弟子を作りました。しかし、イエスが捕らえられて殺された時、弟子たちは散りぢりになり、すべての希望を失ってしまいました。イエスが始められた宗教運動は、リーダーであるイエスの十字架の死によって、あっけなく消滅するかに見えました。ところが、その同じ弟子たちがわずか数十日後には大胆に立ち上がって驚くべき一大ムーブメントを開始したのです。しかも、彼らの中心的なメッセージは「イエスはよみがえり、今も生きている」ということだったのです。

このような弟子たちの劇的な変化は、どう説明したらよいのでしょうか?単に「イエスは死んでしまったけれども、弟子たちの心の中で生き続けている」ということではとうてい説明できません。イエスの復活のインパクトはあまりにも大きかったので、クリスチャンたちはユダヤ教の安息日であった土曜日ではなく、イエスがよみがえられた日曜日に礼拝のために集まるようになりました。このような変化を説明するもっとも説得力のある答えは、キリストが事実よみがえったというものです。

ある人々は、弟子たちはイエスを慕うあまり集団幻覚に襲われたと考えます。しかし、もしそうだとすると、ユダヤ人指導者など、キリスト教の反対者たちが弟子たちを黙らせるのは簡単でした。イエスの墓から死体を出してきて示せばよかったのです。しかしそのような反論はなされませんでした。

あるいは、弟子たちはこっそりイエスの死体を盗み出して、イエスがよみがえったと嘘をついたのでしょうか?マタイ福音書28章には、実際ユダヤ人たちの間でそのような噂が広まったことが記されています。しかし、そのためには復活のイエスに出会ったと称する何百人という弟子たちが口裏を合わせなければならなかったはずです。しかも、初代教会の弟子たちはその信仰のために命をもささげたことが分かっています。自分が心から信じている思想信条のために命を捨てる人はいますが、自分で嘘だとわかっていることのために苦しんだり、まして命を捨てたりする者はいません。少なくとも一人くらいは、迫害に耐えかねて秘密を暴露したに違いありませんし、そうなれば弟子たちのいわゆる「陰謀」は水の泡になったはずです。しかし、そのようなことも起こりませんでした。

またある人々は、イエスは本当には死んだのではなく、墓の冷たい空気に触れて仮死状態から生き返り、一人で抜け出してどこかに行ったと考えました。このような「イエス生存説」は今でも時々大衆向けの小説や映画などで現われます。しかし、ローマ式の壮絶な39回の鞭打ちを受け、十字架に釘付けにされ、槍で脇腹を突き刺され、布でぐるぐる巻きにされ、墓に入れられて、大人の男性が2,3人がかりでやっと動かせる巨大な岩で蓋をされた状態からイエスがたとえ息を吹き返したとしても、その状態からローマの番兵の目を逃れて自力で脱出できたとはとうてい思えません。しかも、この説では、弟子たちが復活のイエスに出会ったと証言している事実を説明できないのです。

キリスト教の起源についてもっとも説得力のある説明は、イエス・キリストは死んで三日目に確かによみがえられたということです。

Grunewald-Resurrection

マティアス・グリューネヴァルト「キリストの復活」

復活の意味

ここまで、イエス・キリストが十字架で死なれてから確かによみがえったこと、それを信じることがクリスチャン信仰の核心であることを見てきました。けれども、キリストの復活は、私たちの信仰生活にとって、具体的にどういう意味を持っているのでしょうか?

最初に考えなければならないのは、イエスの復活はどういう性質のものだったかということです。実は聖書の中には、イエス以外にも死人が生き返った事例が記されています。旧約聖書にも、預言者エリヤ(1列王17章17節以下)やエリシャ(2列王13章21節)が死人を生き返らせた話が記されています。また、福音書でもイエスが何人もの死人を生き返らせたことが書かれています。最も有名なのは、ヨハネ福音書11章に書かれている、ラザロの例でしょう。使徒行伝でも、ペテロ(使徒9章36節以下のドルカス)やパウロ(使徒20章7節以下のユテコ)が死人を生き返らせたことが記されています。

しかし、これらの箇所に書かれているのは、イエスの復活と同じ種類のできごとではありません。これらの人々に起こったことは、「復活」というよりも「蘇生」というべきものです。彼らは通常の肉体の生命活動を再開しましたが、その後やがて普通の人間と同じように死んでいきました。

しかし、イエスの場合はもはや死ぬことのない、全く新しい形態のいのちによみがえったのです。復活のイエスは決して幽霊のような存在ではなく、物質的な肉体を備えていましたが(ルカ24章39節)、それは私たちが現在持っている肉体とは異なる性質(たとえば閉め切った部屋に現れるなど)を備えたものでした(ヨハネ20章19節)。この肉体はもはや決して死ぬことのないものであり、イエスはその新しい肉体をもったまま、弟子たちの見ている前で天に上げられて行ったのです(ルカ24章51節、使徒1章9節)。

パウロは、イエスの復活は、世の終わりに起こる死者のよみがえりの「初穂」であったと言います(1コリント15章20節)。「初穂」というのは、農作物の収穫の最初の部分を指します。初穂が現れたということは、間もなく本格的な収穫が始まることを示しています。復活のイエスは、やがて訪れる、神が支配する新しい世界のリアリティと、そこにある新しい形態の生命を先取りして示したものでした。イエスの復活は、もはや死に支配されることのない、神にある新しいいのちの「初穂」だったのです。つまり、イエスが確かに復活したと信じることは、同時に私たち自身もやがて同じような復活、もはや死に支配されることのない新しいいのちに生きる希望を持つことなのです。パウロはこのことを次のように説明しています:

すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。(ローマ6章4-5節)

私たちがイエス・キリストを信じてこの方と一つになっているなら、イエスを死者から引き上げた神は、私たちのからだをもよみがえらせてくださるのです。

復活と父なる神

ところで、新約聖書におけるイエス・キリストの復活についての記述を調べていくと、興味深い事実が分かります。日本語で「キリストが復活した」というと、なにか死んでしまったイエスが自分の力で新しい命をもってよみがえったかのような印象を受けますが、聖書ではイエスは自分の力で復活したとは書かれていないのです。原文のギリシア語では常に彼は父なる神によって死人のうちから「引き上げられた」という形で語られています。つまり、厳密に言うなら、復活はキリストご自身のわざではなく、父なる神のわざなのです。

このことはとても重要だと思います。私たちはイエス・キリストは全能の神の御子だから、死んでも自分で簡単に生き返ることができると思いがちですが、そうではありません。新約聖書によれば、十字架で死んで葬られたイエスは自分の力でよみがえることはしませんでした。イエスは十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(マタイ27章46節、マルコ15章34節)。イエスは私たちの罪を背負い、父なる神から断絶されるという苦しみを味わってくださいました。けれどもルカ23章46節によると、イエスは「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と語って、息を引き取られました。イエスすべてを失ってもまだ自分を死から引き上げてくださる父を信じ、ご自分を父の御手にゆだねられたのです。イエスの死には、父なる神に対するイエスの完全な信頼が表れています。

そして、父なる神がイエス・キリストをよみがえらせたということは、神の力と愛を表しています。死は人類のもっとも恐ろしい敵と言っても良いでしょう。どんな金持でも、権力者でも、賢い人でも、死を免れることは誰もできません。パウロも死のことを「最後の敵」(1コリント15章26節)と呼んでいます。死の支配から助け出すことができるのは、すべての生命の源であり、世界のすべてを支配しておられる神ご自身しかありません。

けれども、復活は単なる神の全能性の証しではありません。神がイエスをよみがえらせたのは、ただご自身の力を誇示するためではありませんでした。イエスの復活に表されているのは、神の力だけでなく、神の愛でもあるのです。

イエスの復活は、イエスの十字架を抜きにして理解することはできません。神はひとり子イエスをお与えになったほどに、この世を愛されました(ヨハネ3章16節)。またイエスは律法で最も大切な戒めは、神と人を愛することであり(マタイ22章37-40節)、さらに自分の敵さえも愛しなさいと言われました(マタイ5章44節)。イエスの地上での働きを一言で要約するなら、「愛」ということができます。

しかし、そのような真実な愛に生きようとする姿勢は、この世では歓迎されません。真実な愛を貫こうとしたイエスの働きの行き着くところは十字架の死でした。ある意味で、十字架はこの世が神の愛に対して突きつけた、冷酷な「否(No)」だったのです。この世において、イエスが教え、実行されたような愛に生きる人生は無意味で、愚かで、時には危険なものと見なされます。

けれども、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。それは単に神の全能の力を表しているだけではありません。復活はイエスの示された愛の生き方、愛のメッセージに対する神の「しかり(Yes)」なのです。

死者を生かす神

聖書の中で、死者を生かす神を信じた人の話が出てきます。それはアブラハムです。

信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。 18  この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。 19  彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。(ヘブル11章17-19節)

神はアブラハムに対して、彼の子孫を大いに祝福する約束を与えられました。彼は老人になるまで子がありませんでしたので、信仰の試練を経てようやく与えられた、たった一人の跡継ぎであるイサクをたいへん愛していました。ところが神はアブラハムに、モリヤの山の上で愛する息子イサクを殺して捧げよと言われたのです。この一見不条理とも思える命令に対して、アブラハムは従順に従います。けれども、アブラハムがイサクをまさに殺そうとした時、天使が現れて彼をとどめます。創世記22章に書かれているこの有名なエピソードについて、ヘブル書の著者は、これはアブラハムが「神が死人の中から人をよみがえらせる力がある」と信じていたからだ、と解説しています。

アブラハムとイサクが歩いたモリヤへの道。イエスが歩いたゴルゴタへの道。どちらの場合も、神による救いの約束は、不条理な死によって葬り去られようとしていました。アブラハムの場合は、イサクを通して神の民が興されるという約束、イエスの場合はメシヤであるご自身を通して神の国が到来するという約束です。けれども、どちらの場合も、死者を生かす神が介入されています。アブラハムの場合はイサクの実際に生命が失われる直前に、そしてイエスの場合は、死んで葬られてから三日後に。この神にとっては、遅すぎるということはありません。

復活と神の真実

死者の復活が意味しているのは、神は真実なお方であり、必ず約束を果たされるお方だということです。何物も、死でさえも、それを妨げることはできません。そして、この方に信頼して生きる者たち、この世的に見てどれほど愚かであっても、イエスの模範に従って生きる者たちには報いがある、ということです。神は死者を生かしてくださるという復活の信仰が、復活の信仰だけが、神に全てをゆだねて生きる生き方、打算のない完全に自己犠牲的な愛の生き方を可能にしますし、またそのような愛が単なる理想主義的な幻想ではなく、実際に働くものだということを示してくれるのです。

私たちが生きているこの世界は、不条理な世界です。正直者が馬鹿を見る世の中です。素晴らしい人物が若くして病気や事故で亡くなったりすることもあります。イエス・キリストを信じるクリスチャンであっても、様々な悩みや苦しみの種は尽きません。そして、神を信じていてもいなくても、やがて私たちは死を迎えることになります。では、イエス・キリストを信じることに何の意味があるのでしょうか?それは、私たちには死を超えた希望がある、ということです。私たちはイエスを死からよみがえらせた神は全能の神であり、私たちをもいつの日か死からよみがえらせてくださることを信じることができます。そして、この神を信じて、その愛の教えに生きることは決して無意味でも愚かなことでもありません。私たちはいつの日か、神に従って生きた人生に対して、神ご自身が「しかり(Yes)」と言ってくださる声を聞くことができるのです。

なぜ復活は「福音(良い知らせ)」なのでしょうか。それは、イエス・キリストの復活にこそ、聖書の神の本当の姿、神の愛が表されているからです。