神がデスヴォイスで歌うとき(6)

さあ、行きなさい。わたしがあなたがたをつかわすのは、小羊をおおかみの中に送るようなものである。
(ルカ10章3節)

その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。
(黙示録7章9-10節)

(過去記事

一般の音楽界では、1980年代に今では「古典的」とも呼ばれるヘヴィーメタルのスタイルが英米を中心に全盛期を迎えました。1990年代に入るとグランジやオルタナティヴロックの台頭によってメインストリームから後退しましたが、メタルはその後も他ジャンルの要素を取り入れながら、驚くほど多くのサブジャンルに細分化していきました。そのうちのいくつかを列挙すると、スラッシュ、デスメタル、ブラックメタル、パワーメタル、シンフォニックメタル、プログレッシヴメタル、ニューメタル、ドゥームメタル、フォークメタル、はては日本のBabymetalに代表されるような「カワイイメタル(Kawaii metal)」と呼ばれるジャンルまであるようです。これらのサブジャンルについては、他にいくらでも情報源はあると思いますので、ここでは説明を割愛します。詳しく知りたい方はご自分で調べてみてください(手始めにこちら)。メタルは地域的にも広がりを見せ、英米からヨーロッパ全域、そして全世界にメタルは拡大していきました。つまり、メタルは世界の大衆音楽の中で、主流とは言えなくとも確固たる地位を確立していると言えます。

クリスチャンメタルはこのような一般のメタルの展開の後を追うように発展していきました。現在では、多様なサブジャンルのほぼすべてにクリスチャンメタルは存在します(クリスチャンカワイイメタルの存在は確認できていませんが・・・)。そしてここでも、以前述べた様式的整合性を見ることができます。各クリスチャンメタルバンドは自分たちが属しているサブジャンルのスタイルに忠実に従いつつ、キリスト教的メッセージを発信していきました。 続きを読む

神がデスヴォイスで歌うとき(3)

わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。
(1コリント9章19-23節)

その1 その2

そもそも「クリスチャンメタル」とは何でしょうか? クリスチャンメタルについての研究書を著したMarcus Mobergによると、クリスチャンメタルとは次の3つの要素を持つメタルミュージックのことです:

1.そのメッセージ(特に歌詞)がキリスト教的であること
2.ミュージシャンがクリスチャンであり、その信仰を公表していること
3.その音楽がクリスチャンのネットワークを通して制作され流通していること

Mobergはこのうち3番目の要素については重要度は低いとしており、一般的には最初の2つの要件を満たしていることが必要と考えられることが多いです。特にキリスト教会においては2番目の要素はかなり重視され、たとえばキリスト教書店でCDを販売するかどうかに影響します。しかしこの点は問題を含んでいます。あるクリスチャンミュージシャンが後になって信仰を捨てた場合、彼または彼女は「クリスチャンアーティスト」ではなくなります。では彼らがまだクリスチャンであった時に発表した録音はその時点で「クリスチャンミュージック」でなくなるというのはおかしな話です。それに、そもそもある人が真正の信仰を持っているのかどうか、第三者に判定できるものでしょうか?

そのような理由で、私は個人的にはキリスト教的な歌詞を持ったヘヴィーメタルを「クリスチャンメタル」と広く定義したいと思います。ここで言う「キリスト教的な歌詞」についても、第1回で語ったように幅広い内容を考えることができます。

歴史的に言うと、クリスチャンメタルの起源は1970年代後半のアメリカにあります。その中でも、一般の音楽界でも最初に大きな成功をおさめ、今日に至るまで最も有名なクリスチャンメタルバンドとなったのは、1983年にカリフォルニア州で結成されたストライパー です。

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ルカ文書への招待(5)

   

Equipper Conference 2016に向けたルカ文書の入門コラムとその補足、第5回は福音の伝統の継承ということについて書きました。

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ルカが語る福音の物語⑤ 「世代を超えて受け継がれるメッセージ」

 今回も前回に引き続き、ルカ文書の序文(ルカ1章1-4節)を見てみましょう。

「私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」(ルカ1章1-4節)

ここで「初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを」とあるように、著者のルカ自身は自分が書き記そうとしている多くのできごと、特にイエスの地上生涯の目撃証人ではありません。彼は綿密な調査に基づいて福音書を書いているわけですが、地上のイエスに出会ったことはありませんでした。つまり、ルカはイエスから直接教えを受けた第一世代のクリスチャンではなく、第二世代以降のクリスチャンなのです。 続きを読む

ルカ文書への招待(4)

  

Equipper Conference 2016に向けたルカ文書の入門コラムとその補足、第4回は、ルカ文書の序文についてです。

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ルカが語る福音の物語④ 「『みことば』の書」

どのような本であっても、序文というのは、その本を理解するために欠かせないものです。序文には、その本が何について、どのような目的で書かれたのかが記されています。今回は、ルカ文書(ルカの福音書と使徒の働き)の序文を見てみましょう。 続きを読む

平和の君(2)

その1

14  キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、15  数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、16  十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。17  それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。
(エペソ2章14-17節)

前回はエペソ書におけるパウロの議論から、王なるキリストが教会と世界に平和をもたらす方であることを見ました。

ところで、この箇所でパウロは、キリストはこの平和の福音を遠くの人(異邦人)にも、近くの人(ユダヤ人)にも宣べ伝えられた、と述べています(17節)。「平和を宣べ伝える」というと、現代の私たちは何かプラカードを掲げて行進する平和運動の活動家のような存在を想像するかもしれませんが、新約聖書が書かれたローマ時代には、平和をもたらし、平和を宣べ伝えるのは、世界の主である支配者のすることだったのです。

「ローマの平和」とキリストの平和

新約聖書が書かれた当時、ローマは地中海世界を支配し、それらの地域においては空前の平和と繁栄の時代が訪れていました。これを「ローマの平和 Pax Romana」といいます。ローマ帝国は、ローマの支配によって世界に平和が訪れた、と主張しました。特に初代皇帝のアウグストゥスは、ローマの内戦を終わらせて世界に平和をもたらした存在として称賛され、時には神として崇拝されました。「平和 Pax」はローマ帝国の重要な価値概念の一つでした。パクスはまた平和の女神でもあり、アウグストゥスが皇帝になる前に鋳造したコインにもパクスの姿が描かれています。アウグストゥスは前9年、ローマに平和の祭壇Ara Pacisを築きました。しかし、アウグストゥスはまた、「平和は勝利を通してもたらされる」とも言いました。ローマの平和と繁栄は強力な軍隊による広大な地域の征服を前提としていたのです。

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平和の女神Pax(右)をあしらったコイン
(Image by Classical Numismatic Group, Inc.  via Wikimedia Commons

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平和の祭壇
(Image by  Manfred Heyde via Wikimedia Commons

つまり、パウロがエペソ書を書いた当時のローマ市民は、「平和」と言えばローマの平和、ローマ皇帝が力によってもたらした平和、と考えていたのです。けれどもパウロは、真の平和は皇帝ではなくイエス・キリストによって与えられると言うのです。つまりパウロは、ローマ皇帝ではなくイエス・キリストこそが世界の主であると言っているのです。

ローマの平和と同じく、キリストによる平和もまた、戦いによって勝ち取られる平和です。しかし、その戦いの性格はローマ皇帝のものとは全く異なっています。キリストは天にあって神に敵対する霊的勢力に勝利されました(エペソ1章20-22節)。その勝利のモニュメントとして神が地上に建設しているのが、平和の祭壇ならぬ神の宮としての教会です(2章20-22節)。そして教会は地においてその戦いを継続する存在です(6章10-20節)。(エペソ書における霊的戦いについては過去記事「エペソ書とキリストの戦い」をご覧ください。)そして、キリストの勝利はローマ皇帝がしたような暴力的な軍事力とはまったく正反対の方法によって勝ち取られました。この「平和の君」はローマの支配下にあったユダヤの寒村に貧しい幼子として生まれ、まさにローマの暴力的支配の象徴である十字架につけられて殺されることになります。けれども神はこのキリストをよみがえらせ、すべての敵よりも高く挙げられました。

キリストの平和を宣べ伝える

さて、エペソ2章17節に戻りますと、キリストは遠くの者にも近くの者にも平和を宣べ伝えられた、とあります。しかし、「キリストが平和を宣べ伝えられた」とは何を意味しているのでしょうか?上にも述べたように、平和を宣べ伝えるというのは、世界の支配者のすることでした。しかし、ローマ皇帝自身が実際に帝国中をくまなく行きめぐって平和を宣べ伝えるわけではありません。実際に平和の知らせを宣べ伝えたのは、彼の臣下たちだったのです。パウロはこの節で「遠くにいたあなたがたに平和を宣べ」と書いていますが、本書の読者である小アジアの異邦人たちに実際に平和の福音を宣べ伝えたのは、パウロ自身でした(使徒18章19節、19章1節以下)。つまり、王であるキリストご自身は天の父なる神の右に着座しており、地上ではそのしもべである使徒たちが地上においてキリストの平和を宣べ伝えているのです。あるいは、キリストの霊である聖霊が使徒たちを満たしていたということから、キリストご自身が平和を宣べ伝えた、と理解することもできるでしょう。

いずれにしても、王なるキリストが実現した平和を宣べ伝えるのは、クリスチャンの務めであることは明らかです。新約聖書ではこのことをさまざまな箇所に見ることができます。すでに公生涯においてイエスは弟子たちを「平和をつくり出す人たち」と呼び(マタイ5章9節)、弟子たちは遣わされた先の家で「平和がこの家にあるように」と告げるように命じられました(ルカ10章5節。ここのギリシア語エイレーネーは多くの日本語訳聖書では「平安」と訳されていますが、個人的には「平和」と訳す方がよいと思います)。パウロが手紙の冒頭の挨拶として好んで用いた表現は、父なる神とイエス・キリストから「恵みと平和(平安)があるように」というものでした。さらに、パウロはエペソ6章の神の武具の箇所で、クリスチャンたちに「平和の福音の備え」を足にはきなさいと命じています(15節)。ちょうどローマ皇帝のもたらした平和を、ローマの役人や兵士たちがその領土の隅々にまで告げ知らせたように、キリストのしもべであり兵士でもあるクリスチャンは、キリストの平和を地の果てにまで宣べ伝える存在です。そしてそのことは、私たちがイエスの十字架に従って生きる時になされていくのだと思います。

クリスマスは、「平和の君」として来られたイエス・キリストの降誕をお祝いする時です。それは同時に、キリストの到来によってもたらされた平和を宣べ伝える教会の務めを改めて思い起こす時でもあると思います。

平和の君なる 御子を迎え
救いの主とぞ ほめたたえよ
(讃美歌112番「もろびとこぞりて」)

Global Returnees Conference 2015

このシルバーウィークに富士吉田市で開かれたGlobal Returnees Conference 2015に夫婦で参加してきました。私は分科会の講師として「福音の全体像を求めて」というタイトルでお話をさせていただき、妻はスモールグループのリーダーとして奉仕させていただきました。聖会の恵みとともに、多くの新しい出会いや懐かしい方々との再会もあり、大変充実した数日間を過ごさせていただきました。

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この集会を主催したのはJCFN(Japanese Christian Fellowship Network)という団体です。毎年海外で多くの日本人がイエス・キリストに出会ってクリスチャンになっています。実際、日本人が海外で信仰を持つ割合は、国内の数十倍であると言われます。ところが、その多くは日本に戻ってくると、様々な困難に直面します。教会探しの難しさ、家族や職場からのプレッシャー、異教的な日本文化との葛藤、周りにクリスチャンの友人がいない孤独感・・・残念なことに、海外で信仰を持った日本人の多くが、帰国後教会につながることができず、数年以内にキリスト者の交わりから姿を消していくそうです。JCFNはそのような大きな宣教的ニーズを見据え、在外日本人クリスチャンの帰国支援とフォローアップを行っておられる団体です。

実は私はJCFNについては十数年前から知っており、当時編集に携わっていたキリスト教系の雑誌でインタビュー記事を掲載したこともありました。それ以来、自分自身6年間の海外留学を経験したこともあり、ずっとその働きに関心を持ち続けてきましたが、こうして今回奉仕の機会が与えられ、実際に参加してみて、改めて帰国者ミニストリーの重要性を認識させられました。

今回のカンファレンスでは、海外から日本に帰国してくるクリスチャンたち、彼らを送り出す海外のミニストリー、そして日本で彼らを受け入れる働き、という様々な立場からの証詞や報告を聴く機会がありました。その中で、日本の教会が帰国者クリスチャンの存在を知り、彼らを受け入れる意識と体制を整えていくことの重要性を思いました。「帰国者大会」と聞くと、海外経験もなく、そのような人々に普段接する機会のないクリスチャンはまったく自分と無関係の働きのような印象を持つかもしれませんが、JCFNのような働きはそのような人々や教会にも広く知られていく必要があると思いました。

近年宣教学の中でも「ディアスポラ」(自発的・非自発的な移住・入植により、故郷を離れて移動した状態)の概念が注目されてきています。最近日本に帰国したという多くの(大多数が)若いクリスチャンたちの姿を見るにつけ、行き詰まりや閉塞感というキーワードで語られることが多い日本のキリスト教会にも大きなチャレンジと希望があることを思わされました。

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黙示録における「福音」(8)

(このシリーズの先頭はこちら

黙示録において「福音」ということばが登場する2箇所のうち、前回は10章7節について見ました。今回はもう一つの箇所について考えていきたいと思います。

わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるeuangelizōために、永遠の福音euangelionをたずさえてきて、大声で言った、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」。(黙示録14章6-7節)

この天使のメッセージは、神の差し迫った裁きについて警告し、創造者である神を礼拝するようにという呼びかけです。地の住人に対する神の裁きの宣言が「福音(良い知らせ)」というのは奇妙に思えるかもしれません。これはどう考えたらよいのでしょうか?

まず、この「福音」は神がすべてを支配する王となられたことを表します(11章15-18節)。「本当は政治的なクリスマス物語」でも指摘したように、「福音」と言う言葉はローマ皇帝の支配についても使われた言葉です。黙示録において天使が宣べ伝えるのが永遠の福音であるというのは、皇帝が主張する現世的な「福音」との対比が意図されているのかもしれません。

しかし、唯一の神が全世界の王となられたということは、全ての人々がこの神を礼拝すべきであるという主張を含みます。これは異教徒に対する宣教のことばに他ならないのです。このシリーズで何度も紹介したリチャード・ボウカムは、14章6節の「地上に住む者」と13章8節の「地に住む者」、14章6節の「あらゆる国民、部族、国語、民族」と13章7節の「すべての部族、民族、国語、国民」が対応していることを指摘しています。13章で獣(反キリスト)が全世界の人々を支配していることが語られた後に、14章でその同じ人々に「永遠の福音」が語られているのは意味深いことです。続く15章からは、神の最終的な裁き(7つの鉢の災害)が始まりますが、その前の時点でこの福音が全人類に宣べ伝えられるということは、マタイ福音書24章14節(「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」)ともつながります。

14章の冒頭では、シオンの山に立っている小羊と、14万4千人の人々が登場します。小羊が「立って」いる姿勢、また14万4千人が「女にふれたことのない者」であるという記述は、軍事的なニュアンスがあります(古代の聖戦においては性交渉に伴う祭儀的穢れから兵士が遠ざかることが求められていました)。つまりこれはキリストと彼に従う軍隊としての教会を表しています。彼らは何のために戦うのでしょうか?それは獣の支配下に置かれている人々を、その支配から解放する戦いにほかならないのです。

さらに ボウカムによれば、14章6節の「永遠の福音」は詩篇96篇2節後半の「日ごとにその救を宣べ伝えよ」から取られています。この詩篇は全体として、造り主である主の支配と、やがて来る裁きを歌い、国々に主をほめたたえるよう呼びかける内容になっていますが、これはヨハネの「永遠の福音」の内容と重なると考えて良いでしょう。ボウカムは著書の中でこう書いています。

したがって、永遠の福音とは詩篇96篇自体に含まれる呼びかけ、すなわち、やがて来られて世界を裁き、その普遍的な支配を打ち立てる唯一の真の神を礼拝するようにとのすべての国々への呼びかけである。

つまり、14章6-7節で天使が告げ知らせるメッセージは、取り消すことのできない裁きの一方的宣言ではなく、悔い改めて唯一の創造神に立ち返るようにとの呼びかけに他ならないのです。このことは、この箇所が15章から始まる最終的な裁きの直前に置かれており、14章の後半では悔い改めない者への警告と最後まで忍耐する者の祝福が語られていることからも裏付けられます。

このような国々へのメッセージが「永遠の福音」の内容であるというのは、黙示録の一般的イメージからは理解しがたいかも知れません。特に千年紀前再臨説(プレミレ)の立場に立つクリスチャンは、一般的に再臨に先立つ世界の歴史に関しては悲観的な理解を持っています。終末に向けて世の中はどんどん悪くなっていき、その悪が極限に達した時にキリストは再臨し、その時人類の大多数は滅ぼされ、忠実な少数のキリスト者のみが救われるというのです。

確かにそのような面もありますが、黙示録は同時に、教会の宣教の働きが確かに多くの実を結ぶということも述べています。国々の回心が黙示録の主要テーマの一つであることが理解できれば、この箇所を理解するのも難しくはありません。15章4節ではこう書かれています:

主よ、あなたをおそれず、御名をほめたたえない者が、ありましょうか。あなただけが聖なるかたであり、あらゆる国民はきて、あなたを伏し拝むでしょう。あなたの正しいさばきが、あらわれるに至ったからであります。

ここでも主の正しい裁きが国々の滅びではなく礼拝につながることが歌われています。

14章4節では、贖われた神の民は「初穂」と呼ばれています。「初穂」とは収穫期の最初に収穫された少量の作物のことで、やがてくる本格的な大収穫の前触れとなるものです。キリストの自己犠牲は少数の選ばれた人々を神のために贖いました。ヨハネと仲間のクリスチャンたちはそのような「初穂」としての神の民に属していました。しかし、キリストの十字架の目的はそこにとどまりません。究極の目的は、選ばれた神の民がキリストに倣って証しをすることによって、すべての国々を回心させ、それによって神の普遍的な支配が確立することなのです。

このように、教会の宣教と世界の回心は黙示録の重要なテーマなのです。本書の結末部分ではこう書かれています:

御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。(22章17節)

教会は主の再臨を待ち望みますが、それは邪悪な世から救いだしてくださいという内向きな願いではなく、同時にまだ時間のあるうちに悔い改めるようにと、世の人々に呼びかけることが求められているのです。

ここでも黙示録の解釈はその適用を大きく左右します。黙示録のメッセージは、選ばれた少数のクリスチャンが迫害に耐え、信仰を守り通すことによって、大多数の不信仰な人類が裁かれて滅びる時にそこから救い出されるということなのでしょうか、それとも、教会には終わりの時代にキリストの十字架の愛を実践し、いのちをかけて証しすることによって、国々をキリストに導く使命があるということでしょうか?これまで見てきた黙示録の読み方は、後者の適用を指し示していると思われるのです。

おわりに

黙示録についてはまだ書きたいテーマがいろいろありますが、このシリーズでは黙示録における「福音」に焦点を当ててきましたので、とりあえず今回で一区切りをつけたいと思います。

黙示録の福音(良い知らせ)は一言で言えば、「ほふられた小羊が天の御座におられる」ということだと思います。イエス・キリストは今も生きておられ、父なる神の右の座にあって統べ治めておられます。そしてやがて時が来ると、キリストは再び来られ、神の支配を地上においても確立され、ご自分の民と共に永遠に統べ治められます。しかしキリストはご自分の御国を、バビロンやローマのようなこの世的な力によって打ち立てるのではなく、十字架でかつて示されたような愛の力によって完成されるのです。そして教会もほふられた小羊キリストにならい、その後に従って行く時に、御国を受け継ぐことができます。このように読むならば、黙示録はまさに聖書正典の最後を飾るに相応しい、福音的な書であると言うことができるでしょう。

(終わり)

 

(おまけ:黙示録22章17節のヘブル語訳に基づくメシアニックの賛美。このコンサートの全体がお薦めです。)

 

 

黙示録における「福音」(7)

(このシリーズの先頭はこちら

今回から、いよいよ本シリーズのタイトルである「黙示録における福音」について考えてみたいと思います。

まず、黙示録の中に「福音」ということばはどのくらい出てくるのかを調べてみると、その頻度は非常に少ないと言うことが分かります。 「福音euangelion」という言葉は「良い知らせ」という意味ですが、黙示録の中でこの名詞形が使われているのは14章6節の1回のみで、「福音を宣べ伝えるeuangelizō」という動詞形は14章6節と10章7節の2回しか出てきません。つまり黙示録全体の中で、明示的に「福音」について語られているのは、10章7節と14章6節の2節しかないのです。しかも、 このどちらの箇所で語られている内容も、私たちが「福音」という言葉を聞いて抱く通常のイメージとは異なる印象を与えるものです。

まずは、10章7節から見ていきましょう:

「第七の御使が吹き鳴らすラッパの音がする時には、神がその僕、預言者たちにお告げになったとおり、神の奥義は成就される」。

ここで神が預言者たちに「お告げになった」と訳されている単語が、euangelizō(福音を宣べ伝える)という動詞です。黙示録のナラティヴの中で、7つのラッパは神の裁きを表しており、最後のラッパが鳴り響くとは、神の裁きが完成する時であるとふつう解釈されます。そのどこが「福音(良い知らせ)」なのでしょうか?大きく二つの解釈が考えられます。

第一の解釈は、神の民の敵が完全に裁かれ滅ぼされることによって、神の民が救われることが「福音」である、というものです。しかし、黙示録のテキストを注意深く読んでいくと、この解釈は不適当であることが分かります。

二番目の解釈は、神の民の証しによって、多くの人々が回心することが「福音」である、という解釈です。この解釈は、この箇所の後に続く11章で記述される教会の証しというテーマとつながっていくものであり、こちらの解釈が妥当であると思われます。

10章7節の言葉が御使によって語られた後、ヨハネは御使の手から開かれた巻物を受取り、「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」と語られます。その預言の内容は11章1-13節に要約されています。そこでは「ふたりの証人」が1260日の間預言することが語られます(3節)が、これは世における教会の証しを表しています。そしてその証しの結果何が起こるかが13節に書かれています:

この時、大地震が起って、都の十分の一は倒れ、その地震で七千人が死に、生き残った人々は驚き恐れて、天の神に栄光を帰した

ここでは確かに悔い改めない者たちに破壊と裁きが臨みますが、それは比較的少数(都の十分の一、7000人の死者)であり、残された大部分が「天の神をあがめる」ことが記されています。旧約聖書においては民の「十分の一」(イザヤ6章13節、アモス5章3節)また「七千人」(1列王記19章18節)は残されて救われる忠実な者たちを表す数字ですが、黙示録ではこの数だけの人々が滅ぼされるとなっています。つまり、ヨハネは旧約聖書の象徴的数字を逆用しているのです。この事についてリチャード・ボウカムは「神の国は教会が救われ国々が裁かれることによって来るだけでなく、第一義的には教会の証しの結果国々が回心することによって来る。」と述べています。

これは「裁きの書」としての黙示録のイメージを持っている人々にとっては非常に奇妙で理解しがたい内容です。そこで、この箇所の「回心」は見せかけだと考える人もいますが、そう考えるべき釈義的根拠は何もありません。16章9節では「神に栄光を帰する」ことは明らかに真の回心を指していますので、11章13節でも同様に考えられます。

実際、10章7節で述べられているように、このような終末における大規模な回心は旧約聖書で預言されていたことでした。神がアブラハムに与えられた約束は、地上のすべての民族が彼の子孫を通して祝福される、ということでした(創世記12章3節)。その後イスラエルはたしかに自民族中心主義に陥ってしまいますが、このような普遍的救済のビジョンは預言者によって繰り返し語られていたのです:

終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、 多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。(イザヤ2章2-3節)

このような、終末における国々の回心が教会の証しによって起こるというのは重要です。黙示録では世の終わりに臨む神の裁きが様々な災害の形を取って描かれます。最初のうちに行われる裁きは人類の一部分だけを滅ぼすもので、警告的な意味合いがあります。それでも悔い改めなかった人々に対して、最終的な裁きが臨みます。ここで興味深いのは、これらの裁きを体験した人々は、悔い改めることをしなかったということです(9章20-21節、16章9節、11節、21節)。

しかし、終末には悔い改める人間はいないと考えるのは間違いです。人々は裁きだけでは悔い改めません。しかし、ほふられた小羊の模範に従い、いのちをかけた教会の証しを通して人々は回心するのです

次回は14章6節について見て行きたいと思います。

(続く)