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黙示録において「福音」ということばが登場する2箇所のうち、前回は10章7節について見ました。今回はもう一つの箇所について考えていきたいと思います。
わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるeuangelizōために、永遠の福音euangelionをたずさえてきて、大声で言った、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」。(黙示録14章6-7節)
この天使のメッセージは、神の差し迫った裁きについて警告し、創造者である神を礼拝するようにという呼びかけです。地の住人に対する神の裁きの宣言が「福音(良い知らせ)」というのは奇妙に思えるかもしれません。これはどう考えたらよいのでしょうか?
まず、この「福音」は神がすべてを支配する王となられたことを表します (11章15-18節)。「本当は政治的なクリスマス物語 」でも指摘したように、「福音」と言う言葉はローマ皇帝の支配についても使われた言葉です。黙示録において天使が宣べ伝えるのが永遠の 福音であるというのは、皇帝が主張する現世的な「福音」との対比が意図されているのかもしれません。
しかし、唯一の神が全世界の王となられたということは、全ての人々がこの神を礼拝すべきであるという主張を含みます。これは異教徒に対する宣教のことば に他ならないのです。このシリーズで何度も紹介したリチャード・ボウカムは、14章6節の「地上に住む者」と13章8節の「地に住む者」、14章6節の「あらゆる国民、部族、国語、民族」と13章7節の「すべての部族、民族、国語、国民」が対応していることを指摘しています。13章で獣(反キリスト)が全世界の人々を支配していることが語られた後に、14章でその同じ人々に「永遠の福音」が語られているのは意味深いことです。続く15章からは、神の最終的な裁き(7つの鉢の災害)が始まりますが、その前の時点でこの福音が全人類に宣べ伝えられるということは、マタイ福音書24章14節 (「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」)ともつながります。
14章の冒頭では、シオンの山に立っている小羊と、14万4千人の人々が登場します。小羊が「立って」いる姿勢、また14万4千人が「女にふれたことのない者」であるという記述は、軍事的なニュアンスがあります(古代の聖戦においては性交渉に伴う祭儀的穢れから兵士が遠ざかることが求められていました)。つまりこれはキリストと彼に従う軍隊としての教会 を表しています。彼らは何のために戦うのでしょうか?それは獣の支配下に置かれている人々を、その支配から解放する戦い にほかならないのです。
さらに ボウカムによれば、14章6節の「永遠の福音」は詩篇96篇2節後半の「日ごとにその救を宣べ伝えよ」 から取られています。この詩篇は全体として、造り主である主の支配と、やがて来る裁きを歌い、国々に主をほめたたえるよう呼びかける内容になっていますが、これはヨハネの「永遠の福音」の内容と重なると考えて良いでしょう。ボウカムは著書 の中でこう書いています。
したがって、永遠の福音とは詩篇96篇自体に含まれる呼びかけ、すなわち、やがて来られて世界を裁き、その普遍的な支配を打ち立てる唯一の真の神を礼拝するようにとのすべての国々への呼びかけである。
つまり、14章6-7節で天使が告げ知らせるメッセージは、取り消すことのできない裁きの一方的宣言ではなく、悔い改めて唯一の創造神に立ち返るようにとの呼びかけ に他ならないのです。このことは、この箇所が15章から始まる最終的な裁きの直前に置かれており、14章の後半では悔い改めない者への警告と最後まで忍耐する者の祝福が語られていることからも裏付けられます。
このような国々へのメッセージが「永遠の福音」の内容であるというのは、黙示録の一般的イメージからは理解しがたいかも知れません。特に千年紀前再臨説(プレミレ)の立場に立つクリスチャンは、一般的に再臨に先立つ世界の歴史に関しては悲観的な理解を持っています 。終末に向けて世の中はどんどん悪くなっていき、その悪が極限に達した時にキリストは再臨し、その時人類の大多数は滅ぼされ、忠実な少数のキリスト者のみが救われるというのです。
確かにそのような面もありますが、黙示録は同時に、教会の宣教の働きが確かに多くの実を結ぶということも述べています。国々の回心が黙示録の主要テーマの一つである ことが理解できれば、この箇所を理解するのも難しくはありません。15章4節ではこう書かれています:
主よ、あなたをおそれず、御名をほめたたえない者が、ありましょうか。あなただけが聖なるかたであり、あらゆる国民はきて、あなたを伏し拝むでしょう。あなたの正しいさばきが、あらわれるに至ったから であります。
ここでも主の正しい裁きが国々の滅びではなく礼拝につながる ことが歌われています。
14章4節では、贖われた神の民は「初穂」 と呼ばれています。「初穂」とは収穫期の最初に収穫された少量の作物のことで、やがてくる本格的な大収穫の前触れ となるものです。キリストの自己犠牲は少数の選ばれた人々を神のために贖いました。ヨハネと仲間のクリスチャンたちはそのような「初穂」としての神の民に属していました。しかし、キリストの十字架の目的はそこにとどまりません。究極の目的は、選ばれた神の民がキリストに倣って証しをすることによって、すべての国々を回心させ、それによって神の普遍的な支配が確立すること なのです。
このように、教会の宣教と世界の回心は黙示録の重要なテーマ なのです。本書の結末部分ではこう書かれています:
御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。 (22章17節)
教会は主の再臨を待ち望みますが、それは邪悪な世から救いだしてくださいという内向きな願いではなく、同時にまだ時間のあるうちに悔い改めるようにと、世の人々に呼びかける ことが求められているのです。
ここでも黙示録の解釈はその適用を大きく左右します。黙示録のメッセージは、選ばれた少数のクリスチャンが迫害に耐え、信仰を守り通すことによって、大多数の不信仰な人類が裁かれて滅びる時にそこから救い出されるということなのでしょうか、それとも、教会には終わりの時代にキリストの十字架の愛を実践し、いのちをかけて証しすることによって、国々をキリストに導く使命があるということでしょうか? これまで見てきた黙示録の読み方は、後者の適用を指し示していると思われるのです。
おわりに
黙示録についてはまだ書きたいテーマがいろいろありますが、このシリーズでは黙示録における「福音」に焦点を当ててきましたので、とりあえず今回で一区切りをつけたいと思います。
黙示録の福音(良い知らせ)は一言で言えば、「ほふられた小羊が天の御座におられる」ということ だと思います。イエス・キリストは今も生きておられ、父なる神の右の座にあって統べ治めておられます。そしてやがて時が来ると、キリストは再び来られ、神の支配を地上においても確立され、ご自分の民と共に永遠に統べ治められます。しかしキリストはご自分の御国を、バビロンやローマのようなこの世的な力によって打ち立てるのではなく、十字架でかつて示されたような愛の力によって完成される のです。そして教会もほふられた小羊キリストにならい、その後に従って行く時に、御国を受け継ぐことができます。このように読むならば、黙示録はまさに聖書正典の最後を飾るに相応しい、福音的な書である と言うことができるでしょう。
(終わり)
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(おまけ:黙示録22章17節のヘブル語訳に基づくメシアニックの賛美。このコンサートの全体 がお薦めです。)