力の支配に抗して(2)

いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。(ルカ2:14)

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前回は、シモーヌ・ヴェイユのエッセイ「『イリアス』あるいは力の詩篇」に基づいて、万人を奴隷にする力の支配について考えました。

誤解のないように書いておきますと、このエッセイが好きだからと言って、私はヴェイユがそこに書いている内容のすべてを肯定しているわけではありません。それどころか、プラトン的な二元論、またキリスト教のヘブライ的ルーツに対する不当に低い評価といった、個人的にまったく同意しかねる部分もあります。けれども、そのためにこのエッセイ全体を否定するのは、まさに産湯とともに赤子を捨ててしまうような愚であると思います。私にとってヴェイユが典型ですが、ひとりの人の思想の中に、まったく同意できない部分と、おおいに共感できる部分が同居していることがあります。そこがヴェイユの不思議な魅力になっているとも言えます(過去記事「クリスマスの星」も参照)。

ともあれ、前回紹介した彼女の「力」の概念は非常にすぐれた洞察であり、今日もその輝きを失ってはいません。むしろその意義はますます大きくなっていると言えます。今回はこれを足がかりに、新約聖書に目を向けてみたいと思います。 続きを読む

神と立方体についての断想

このブログでは時々シモーヌ・ヴェイユを取り上げていますが、最近読んで特に印象に残った箇所を紹介します。

ある物体の周りを巡るとき、わたしたちはその物体が実在していると確信する。それは、間断なく変化するあらわれをつくり出すが、それを決定するのは、あらわれとは別な、あらわれの外にある、あらわれから超越した固定化された形式である。この働きによって、対象が幻ではなくひとつのモノであり、身体を有していることを認識する。(中略)立方体の箱はどこから見ても、立方体の形をしていない。だが、立方体の周りを巡る人にとって、立方体の形式こそが目に見える形の変化を決定する。その決定が客体の身体をわたしたちに授けてくれる。それゆえ箱をじっと見つめていると、それが立方体ではないにもかかわらず、ほかならぬ立方体であると確信する。
(『前キリスト教的直観』)

ここでヴェイユは19世紀フランスの哲学者ジュール・ラニョーの立方体に関する考察について述べています。ラニョーはヴェイユの哲学の師であったアランのそのまた師にあたる人でした。

この投稿の目的はヴェイユのこの記述を哲学的に議論することではなく(私にはそのような能力はありません)、それが私たちの神観について与える示唆について考えて見ることです。もちろん、神は立方体のような、この世界に存在するさまざまなモノ(対象)の一つではありませんが、一つのアナロジーとして、神を立方体にたとえてみると、どういうことが考えられるでしょうか。 続きを読む

十字架に啓示された神の性質(グレッグ・ボイド)

グレッグ・ボイド師による最近のブログ記事の中で、とても参考になるものがありましたので、ReKnewの許可を得て翻訳・転載します(元記事はこちら)。これは少し前に連載したボイド師のインタビュー(特に第4回第5回)に対する良い補足となると思います。哲学や神学のやや専門的な内容に関心のない方は、最後にいくつか挙げられている質問の部分だけでもお読みになることをお薦めします。 続きを読む

グレッグ・ボイド・インタビュー(5)

その1 その2 その3 その4

グレッグ・ボイド博士のインタビューを連載していますが、今回は神と時間についてです。

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――オープン神論の基本的特徴の一つに、神は時間的な存在であるというものがあります。神が時間の中に存在するというのは、古典的神論とはかなりちがう考えです。このことについて説明していただけますか? 続きを読む

グレッグ・ボイド・インタビュー(4)

その1 その2 その3

グレッグ・ボイド博士のインタビューの4回目です。今回は、神学における「ミステリー(奥義・神秘)」の役割についてです。

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――オープン神論に対する批判の中で、もう一つよくなされるのは、神の主権と人間の自由意志の関係について、オープン神論はあまりにも合理的に説明しようとしすぎる、ヒューマニスティックな神学だ、というものです。最近読んだ論文でも、オープン神論を批判する中で、「私たちは神のミステリーを認めなければならない」と主張されていました。つまり、神の主権と自由意志がどうやって両立するのかは、人間の理性を越えたミステリーなので、それを合理的に説明しようとするのは誤りだ、ということです。個人的にはその論文自体はあまり説得力を持たなかったのですが、一方で人間の理解を超えた神のミステリーというものも確かにあると思います。私たちは神学におけるミステリーをどう位置づけたら良いのでしょうか? 続きを読む