エペソ書とキリストの戦い(5)

その1 その2 その3 その4

エペソ書における霊的戦いについてのシリーズ、今回が最終回です。

10  最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11  悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12  わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13  それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。14  すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15  平和の福音の備えを足にはき、16  その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。17  また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。18  絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。19  また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。20  わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。
(エペソ6章10-20節)

この箇所でパウロはギリシア語の動詞の二人称複数命令形を用いて、「(あなたがたは)武具を取りなさい」と命じているのに、「武具(パノプリア)」という言葉は単数形で書かれています。前回4章1節の「召し」についても同様のことを見ましたが、この戦いは個々のクリスチャンがばらばらに戦う「個人戦」ではなく、教会全体が一致して戦うべき「団体戦」だと言えます。前回も見たように、パウロの手紙を個人主義的な視点からではなく、共同体的(教会的)な視点から読むことはたいへん重要です。しかも、エペソ書において「教会(エクレーシア)」と言うことばは個別の地域教会ではなく、キリストのからだとしての普遍的教会をさして使われています。霊的戦いはすべてのキリスト者が一致して行うべきものなのです。

神の武具のイメージは、旧約聖書や中間時代の文書にも見出すことができます。たとえばイザヤ書では神とそのメシヤが武具を身にまとう様子が描かれています。

主は義を胸当としてまとい、救のかぶとをその頭にいただき、報復の衣をまとって着物とし、熱心を外套として身を包まれた。(59章17節)

正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。(11章5節。メシヤについての説明)

つまり、パウロが(共同体としての)教会が身に着けるべきものとして語っている武具は、神ご自身またはキリスト(メシヤ)が身に着けるものとして旧約聖書に語られているものです。このことからも、霊的戦いが地上におけるキリストのからだとしての教会が行うものであるという、上で述べた主張が裏付けられます。パウロは共同体としての教会全体があたかもひとりの戦士であるかのようにイメージしていることが分かります。これは、キリストが十字架によって教会を「ひとりの新しい人」に造り上げた(2章15節)という内容ともつながります。

これらの武具の比喩の細部についてあまりうがった解釈をしてはなりません(たとえば救いのかぶとは頭脳つまり理性を守るものである、等々)。神の武具としての「胸当」はエペソ書では「正義」となっていますが、1テサロニケ5章8節では「信仰と愛」になっています。このことはパウロ自身、特定の武具の比喩とクリスチャンの霊的性質との間に厳密な一対一の対応関係を考えていたわけではないことを示しています。もし私たちが霊的武具の比喩をあまり字義通りに解釈するようになると、アニミズム的信仰に陥る危険があります。

個々の武具の比喩についての詳しい説明もここではしませんので、興味のある方は注解書等を参照していただきたいと思いますが、重要なのは、ここでパウロが語っている内容は、すべて本書の他の箇所でも語られている内容だということです。神の武具としてパウロが列挙している概念とそれに関連する語が本書のどのような箇所に出てくるかを見てみましょう。

・真理(真実):1章13節、4章21、24、25節、5章9節
・正義(義):4章24節、5章9節
・平和(平安):1章2節、2章14、15、17節、4章3節、6章23節
・福音:3章6節、6章19節
・信仰:1章15節、2章8節、3章12、17節、4章5、13節、6章23節
・救い(救う・救い主):2章5、8節、5章23節
・(神の)ことば:1章13節、5章26節、6章19節
・祈り:1章16節

つまり、これらの武具を身に着けて戦うとは、何か特殊なことをすることではなく、パウロがこれまで本書で語ってきたような、神に召された民としての教会の歩みを忠実に行っていくことにほかならないのです。そうしていく時、私たちは霊的な敵対勢力に勝利していくことができるのです。

まとめ

霊的戦いはエペソ書を貫く重要な主題の一つです。本書はおそらくエペソ周辺の諸教会で回覧されることを意図して書かれたもので、パウロの手紙の中でも普遍的な性格の強いものです。この手紙でパウロが展開している霊的戦いの教えも、特定の地域教会の特殊な実践について述べたものではなく、広くキリスト教会一般に適用すべきものであると思われます。

パウロにとって霊的戦いとは何よりも、神とキリストがご自分に敵対する霊的勢力と戦う宇宙規模の闘争であることが分かります。復活して神の右に挙げられたキリストは、天においてすべての敵対勢力よりも優位に立っておられます。これらの敵は世の終わりには滅ぼされる定めになっていますが、現在のところは戦いが継続しています。それは、地上においてキリストのからだとして建て上げられつつある教会を通してなされるのです。

6章でパウロが教える霊的戦いを個人主義的な視点から理解してはなりません。それは教会全体が共同体として戦う戦いであり、しかもそれは、1章で語られている、天におけるキリストの戦いの地上におけるカウンターパートなのです。

教会は天と地が出会う場です。地において教会が、歴史の中で展開する神の救いの計画の中で与えられている召しにふさわしく歩む(4章1節)とき、天と地がつながり、キリストのからだとして正しく機能することができます。そしてそのような教会を通して、神の知恵が敵対勢力に対して示されていきます(3章10節)。これこそが、教会のなすべき霊的戦いにほかなりません。

このシリーズのタイトルを「エペソ書とキリストの戦い」と付けたのには理由があります。霊的戦いはキリストご自身の戦いなのです。パウロがエペソ書で教えている霊的戦いとは、教会がその召しにふさわしく歩むことによって、キリストの戦いに参加することにほかならないのです。

エペソ書とキリストの戦い(4)

その1 その2 その3

エペソ書における霊的戦いについてのシリーズ、今回は、6章の「神の武具」の箇所についてさらに見ていきます。

10  最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11  悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12  わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13  それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。14  すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15  平和の福音の備えを足にはき、16  その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。17  また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。18  絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。19  また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。20  わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。
(エペソ6章10-20節)

パウロは10節で「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。 」と言います。ここの表現はギリシア語の動詞の受動態(「強められなさい」)が使われており、動作主が神ご自身であることを暗示しています。キリスト者は自分の力で強くなるのではなく、神によって強めていただく必要があります。ここで彼はゼカリヤ書10章12節を念頭に置いているのかもしれません。

わたしは主にあって彼らに力を与える。彼らは御名において歩み続けると主は言われる。(新共同訳)

ゼカリヤ書のこの章は捕囚からの民の帰還を描いたものであり、パウロは世の終わりに主が集められた神の民として教会が強められる様子をイメージしていたのかもしれません。エペソ書では「主」はキリストを指しますが、「主にあって」という表現はパウロの手紙の重要な鍵概念である「キリストにあるin Christ」とのつながりも無視できません。つまり、クリスチャンは「キリストにある」という教会の枠組みの中でなければ、強められることはないのです。言い換えれば、教会につながらないで一匹狼で霊的戦いをすることはできないということです。

10節で「その偉大な力」と訳されているギリシア語の表現は1章19節でも出てきます。つまりこれはキリストにあって教会の内に働く神の力のことを言っているのです。さらに、12節に出てくる「支配(アルケー)」や「権威(エクスーシア)」は1章21節に出てきたものと同じ存在です。これらのことから、パウロが6章で論じている教会の戦いと、1章で語っていたキリストの戦いが非常に密接なつながりを持っていることが分かります。パウロは1章で、神の右の座に挙げられたキリストが天における霊的敵対勢力に対して優位に立たれたことを述べています。霊的戦いにおけるキリスト者の力は、主であるキリストがすべての霊的敵対勢力に対して持っておられる権威なのです。

1章でキリストが天において勝利しておられる相手と、6章で教会が戦うべき相手が同じであることはたいへん重要です。私たちは地上において、キリストの戦いを継続しているのです。それは、教会がキリストをかしらとする(1章22節)、キリストのからだであることから当然導かれることです。天における戦いと地における戦いは別々のものではないのです。

12節に出てくる様々な霊的敵対勢力の名前について詳しく述べることはしません。ここではパウロがあらゆる種類の悪しき霊的存在について包括的に語っていることが理解できれば十分です。これらの敵はノンクリスチャンを支配している(2章2節参照)だけでなく、クリスチャンに対しても攻撃を仕掛けてきます。それをパウロは「策略」(11節)といいます。敵の攻撃はすぐにそれと分かるものではなく、策略として巧妙に仕掛けられてくるものであることが分かります。クリスチャンがそれに惑わされていくと、教会が召しにしたがって歩むことが妨げられてしまいます。エペソ書の内容から考えると、「悪魔の策略」とは、知らず知らずのうちに教会に入り込んで堕落させ、その本来の召しから外れた歩みをさせようとするような、この世の価値観や文化、罪の誘惑といったものであると考えられます。「主権」や「力」はそのような策略を持ってこの世を支配しているだけでなく、教会をもその流れに巻き込もうとしているのです。教会はこのような策略を見抜き、それに立ち向かわなければなりません。

クリスチャンはこれらの敵の策略に対してどう戦うべきでしょうか?それは、4章1節にあるように、教会の召しにふさわしく歩むことであり、神の国の価値観(その究極の表現は十字架で表された自己犠牲的な愛です)に従って生きることです。それは具体的にはパウロが4章後半から述べてきたことですが、彼は終わりにあたってそのようなクリスチャンの戦いを、「武具」の比喩を用いて要約しているのです。

(続く)

 

エペソ書とキリストの戦い(3)

その1 その2

このミニシリーズではエペソ書における霊的戦いについて概観していますが、今回は後半の4-6章について見ていきます。

エペソ書6章の有名な「神の武具」の箇所を考えるとき、この部分が4章から始まる倫理的奨励の長いセクションに含まれていることを理解することは決定的に重要です。

3章までの前半部分でパウロは、歴史の中で神が展開してこられた救いの計画について述べ、その中で教会がどのような役割を与えているのかを説明してきました。それを受けて4章冒頭ではこう語られています:

1 さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、2  できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、3  平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。(エペソ4章1-3節)

この部分は4章から6章まで続く倫理的奨励のセクションの要約といって良い部分です。ここでパウロは「召し」について語りますが、これはクリスチャン個人の召し(「自分は牧師に召されている」等)について語っているのではありません。ここでパウロは読者に対して「あなたがた」と複数形で語りかけていますが、「召し(クレーシス)」というギリシア語の名詞は単数形が使われています。つまり、ここでパウロが語っているのは、教会全体に与えられたただ一つの召し、すなわち、神の救いの計画の中で教会に与えられた役割について語っているのです。このように、パウロの手紙を近代的な個人主義の視点からではなく、共同体的な視点から読むことは大変重要です。

すでに見たように、神はキリストの復活と高挙を通して天にある支配や権威に勝利され、その祈念碑として地上に教会を打ち立てられました。この教会は、ユダヤ人と異邦人がキリストにあって一つとなることによって、天における敵対勢力の破壊的なわざをキャンセルし、神の知恵をこれらの霊的存在に対して知らしめる存在です。教会はこのような「召し」にふさわしい歩みをしていかなければならないとパウロは言います。「召し」をこのように理解すると、なぜ4章冒頭でパウロが教会の一致を強調しているかが理解しやすくなります。

この後、パウロは教会が一致し、愛によって建てあげられていくべきことをさまざまな角度から教えていきます。教会や家庭内における人間関係についてのパウロの教えは、このような「教会の召し」に照らして考えていかなければなりません。

さて、4章から続く長い倫理的奨励のセクションの最後は「神の武具」についての教え(6章10-20節)でしめくくられます。

10  最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11  悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12  わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13  それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。14  すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15  平和の福音の備えを足にはき、16  その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。17  また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。18  絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。19  また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。20  わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。
(エペソ6章10-20節)

ここで注意しなければならないのは、パウロは手紙の最後になって、突然取ってつけたように霊的戦いについて語り始めているわけではない、ということです。すでに見たように、霊的戦いのテーマは1章から6章まで、エペソ書全体を貫く一貫したテーマでした。パウロにとって霊的戦いとは、まず天においてキリストが敵対する霊的勢力に勝利されたということであり、その勝利を受けて教会が地上において行う戦いです。したがって、ここでパウロが語っている戦いは、ごく限られた専門家が行うべき特殊なミニストリーではありません。パウロは悪霊追い出しにすら直接言及していないのです。(意外に思う人もあるかも知れませんが、パウロの手紙の中で悪霊追い出しについて述べている箇所は一つもありません)。

4章からパウロは教会がその「召し」にふさわしく歩むため、クリスチャンが具体的にどのように信仰生活を送っていくべきか、実践的アドバイスを与えてきました。そのような文脈の中でパウロは霊的戦いについて語りはじめます。つまり、ここで語られているのは、すべてのクリスチャンの日常の信仰生活における戦いなのです。だからといって、そのような戦いが重要でないとかレベルが低いということではありません。教会の霊的戦いは、天にある「支配」や「権威」といった霊的存在に対して大きな力を持っているのです。

次回は、「神の武具」の箇所についてさらに深く見ていきます。

(続く)

 

「主の祈り」を祈る(8)

(シリーズ過去記事       

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」

私たちが祈る時には、物質的な必要だけでなく、関係における必要についても祈るべきです。それには神との関係人との関係の二つの側面が含まれます。私たちが健全な信仰生活を歩んでいくためには、この二つの側面がどちらも正されていく必要があります。すべての人は罪人であり(ローマ3章23節)、神と人に対して罪を犯しながら生きている存在です。したがって、すべての人の人間関係また神との関係の回復は罪のゆるしによってなされていく必要があります。

「罪」と訳されていることばはマタイ6章12節では「負債ofeilēma」、並行箇所のルカ11章4節では「罪hamartia」となっています。当時のパレスチナの日常語であったアラム語においては、「負債」は罪を表す慣用的な表現でした。罪というのは神に対する負債と考えられていたのです(コロサイ2章14節参照)。したがって、これらの表現は基本的に同じ内容を指していると考えられます。

私たちが日々神にゆるしを求めて行くというのは、救いを得るためではありません。私たちのすべての罪の代価はイエス・キリストの十字架によってすでに支払われ、イエスを信じる私たちは救いをいただいているのです。私たちはまずそのことを感謝する必要があります。同時に、クリスチャンであっても日々罪をまったく犯さないで完璧な歩みをすることは現実的に不可能です。よく言われるように、聖書でいう「罪」とは「的外れ」という意味であり、「悔い改め」とはただ悪事を後悔するということではなく、神の御心に沿った生き方へと方向転換することです。ここで言われているのも、信仰の歩みの中で道から外れたらすぐに方向転換をして神に向きを変え、正しい方向に歩き始めることです。

すでにこのシリーズで何度も強調してきましたように、この祈りも神の国の到来を求めるという主の祈りの文脈の中で考える必要があります。神の国が来るとは、神の支配が行われることであり、神の支配とは、恵み深い父の愛によってすべての関係が規定されることです。私たちが罪のゆるしを祈るのは、私たちと他者との関係、神との関係に愛と平和が満ち溢れ、それによって神の国が地上に現されていくためなのです。

さて、この祈りは主の祈りの中で唯一私たちの行いが条件になっている祈りです。イエスは、私たちが人の罪を赦すことなしに、天の父にゆるしを求めることはできないと言われます。しかも、マタイ福音書では主の祈りの後に念押しするかのように、イエスはゆるしの必要性を説いています(6章14-15節)。さらに、18章21-35節でもイエスはたとえも交えながら他者の罪をゆるす必要性について弟子たちに教えていますが、その結論部分でこう言われています:

「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。(マタイ18章35節)

ちなみに、マタイ18章では教会内におけるクリスチャン同士の関係が主題になっていますが、山上の説教における罪のゆるしも、同様に教会内の人間関係について語られているように思えます(5章23-24節を参照)。もちろん、クリスチャンがノンクリスチャンの罪をゆるすことを妨げるものは何もありませんが、主の祈りが神の国が地上に到来することを願う祈りであり、教会が地上における神の国のもっとも顕著な現れであるならば、クリスチャン同士がゆるしあうことの重要性は強調してもしすぎることはないでしょう。

このように、マタイ福音書では互いの罪をゆるしあうことが繰り返し強調され、しかもそれが神からのゆるしをいただくために必要不可欠であることが強調されています。これは行いによらない、恵みによる救いと矛盾するのでしょうか?必ずしもそうではありません。スコット・マクナイトは、山上の説教の注解書の中で、このことを次のように説明しています。

1.神は私たち(のはるかに重い罪)をゆるしてくださった。
2.それゆえ、私たちは神の恵みを拡大するために、他者をゆるすべきである。
3.もし私たちが他者をゆるさなければ、私たちは自分たちがゆるされていないことを示している。
4.ゆるされた人々は他者をゆるす。
5.しかし私たちが人をゆるすことによって、神のゆるしを得ることはできない。

これはヤコブ書における、信仰と行いの関係に似ていると言えるかも知れません。私たちは良い行いをするから救われるのではありませんが、信仰によって獲得される救いのリアリティは、必然的に良い行いを通して表されてくるはずです。まったく良い行いの伴わないクリスチャンは、その信仰と、したがって救いのリアリティを疑われてもしかたがありません。同様に、神の恵みによってゆるしを得ているクリスチャンは、その恵みを体現して生きる者とならなければなりませんし、そうであるなら、当然他者の罪もゆるすことができなければならないはずなのです。

ここにも、神の国の到来に関する「すでに」と「いまだ」の両側面があるように思います。キリストを信じたからといってすぐに聖人君子のような生き方ができるわけではないのと同様、クリスチャンであるからといって他者をいつも完全にゆるすことができるとは限りません。しかし、天の父が無限のあわれみによって私たちをゆるしてくださったのと同様、すべての人が互いにゆるしあって生きるというのが、世の終わりにおける神の国の完成の一つの表れであり、クリスチャンはそのような終末的リアリティを先取りして生きるようにと招かれているのだと思います。

このようなゆるしのリアリティはイエス・キリストにおいてすでに起こりました。十字架につけられたイエスは、自分を殺そうとする者たちについてこう祈られました。

「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。(ルカ23章34節)

この箇所から、クリスチャンが他者をゆるすとは、父なる神から与えられるゆるしの恵みを他者へと取り次ぐ行為であると言えるかもしれません。クリスチャンはこのキリストにあって罪のゆるしを体験した存在であると同時に、敵をゆるしたキリストの足あとに従う者として生きるように召された存在です。キリストの十字架によって罪がゆるされたからこそ、私たちは他者の罪をゆるすことができます。と同時に、私たちが他者をゆるす時、私たちはまさに、その人々に対して、キリストにおいて示された神の恵みとゆるしを体現する存在となるのです。これはまさに、主の祈りの中心テーマである、「神の国(支配)が地上に現されていくこと」であると言えます。

このように考えるなら、主の祈りにおいて神に罪をゆるしていただくことを求める祈りに、他者の罪をゆるすという「条件」がつけられているのは、決していたずらに罪のゆるしを難しくするものでも、クリスチャンを束縛するものでもなく、ましてや行いによる救いを教えるものでもなく、神による罪のゆるしを本当の意味で体験するとはどういうことかを明確化させるものであると言えます。私たちが神に罪をゆるしていただくことと、他者の罪をゆるすこととは、車の両輪のように働いて、地上に神の国を拡大していくのだと思います。

(続く)

「主の祈り」を祈る(4)

(シリーズ過去記事   

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

「・・・我らの父よ。」

前回は主の祈りの冒頭の神への呼びかけの部分について、私たちが祈るべき神は「天」におられる神であることについて書きました。この神に対して「父」と呼びかけるように、イエスは弟子たちに命じられました。神が私たちの「父」であるというのは、大きく二つの意味があります。

まず第一に、神は私たちの創造者という意味で「父」なる方です。

はじめに神は天と地とを創造された。 (創世記1章1節)

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。(創世記1章27節)

神は人間を含めて天地万物を創造されました。私たちは神によって造られ、生かされている存在であるという意味で、「父」なる神の子どもであると言えます。

すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。(エペソ4章6節)

第二に、神は私たちをキリストにあって贖ってくださり、ご自分の子としてくださったという意味で、「父」なる方です。上述の創造者という意味では、神はクリスチャンであるとないとを問わず全ての人間の「父」ですが、この救済者としての意味では、神はクリスチャンにとって特別な意味で「父」である、ということができます。

あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。(ローマ8章15節)

「アバ」は当時のパレスチナに住むユダヤ人の日常言語であったアラム語で、親しみを込めた父への呼びかけの表現です。天地の主であり、王である神を父と親しく呼ぶことができるのは、おどろくばかりの恵みです。このように神を「父」と呼ぶことができるのは、イエス・キリストが私たちを贖うために十字架にかかってくださり、私たちに聖霊を与えてくださったからにほかなりません。

ところで、パウロが上のローマ書の箇所で語っている、「子たる身分を授け」られるというのは、神の「養子になる」ということですが、このことについては過去記事で取り上げたことがありますので、そちらを参照してください。いずれにしても、天の父は私たちを愛し、養い、導いてくださる方であり、私たちはそのようなお方として神に対して祈るべきです。その祈りを導くのは「恐れ」ではなくて「愛」です。

もう一つ、ここで注意しなければならないのは、「我らの父」という表現です。「私の父」ではありません。私たちは祈りというと、往々にして「この私と神様との個人的な関係」という、個人主義的な理解を持ちがちです。もちろん、祈りには神と一対一で向き合う側面もありますが、主の祈りではそれとともに共同体的な視点を持って祈ることが必要であると思います。

神は教会の父でもあるお方です。私たちが神に対して「我らの父よ」と呼びかけるとき、私たちは世界中に広がる公同の教会の一員として祈っているのです。クリスチャンは教団教派に関係なく、兄弟姉妹であり、神の家族であることを忘れてはなりません。クリスチャンは「異父兄弟・異父姉妹」ではありません。同じ神を「父」と呼ぶ存在なのです。

からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。 (エペソ4章4-6節)

第2回の記事で、主の祈りをキリスト論的視点から祈ることの重要性について書きました。今回取り上げた、神による創造と救済の両方について、キリストは重要な役割を果たしておられます。キリストは神の創造の担い手でした(ヨハネ1章3節、コロサイ1章16節)。そしてもちろん、私たちが救われ神の子とされる特権が与えられたのは、このキリストを通してでした(ヨハネ1章12節)。そして教会はキリストのからだです(1コリント12章27節)。私たちが主の祈りを祈る時、私たちはキリストを通して造られ、キリストによって贖われ、キリストを頭として一つにされている存在として、父なる神に祈るのです。

(続く)

子としてくださる御霊

所属教会で説教奉仕をさせていただきましたので、いくつか修正を施したテキストをアップします。このメッセージは、継続中のシリーズ「御国を来たらせたまえ」の補論としても読んでいただくことができると思います。

 

子としてくださる御霊(ローマ人への手紙8章14-17節)

14  すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。  15  あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。  16  御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。  17  もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。

神の家族

どんな分野にも「業界用語」のような、独特の用語や言葉遣いがあります。キリスト教会を初めて訪れた人々は、そのようなキリスト教用語に戸惑うこともあるかも知れません。けれども、その意味を知っていく時に、はじめは耳慣れない表現も実は深い意味があることに気づくことと思います。そのようなクリスチャン独特の表現に、「兄弟姉妹」という表現があります。これは文字通りの血のつながったきょうだいのことを指しているのではなく、クリスチャンがお互いを呼び合う表現です。また、クリスチャンは神様のことを「天のお父様」と呼びます。このような表現の背後には、クリスチャンはみな、唯一の神様の子どもであり、従ってみなきょうだいである、という考え方があります。教会とは、神の家族なのです。

聖書は、すべての人間は神様によって造られたと教えていますので、ある意味で全人類は神様の子どもと言えます。けれども、イエス・キリストを信じてクリスチャンになると言うことは、特別な意味で「神の子どもになる」ということなのです。

私たち家族がアメリカに住んでいた時に通っていた教会で、牧師の息子が洗礼を受けたことがありました。牧師自ら息子に洗礼を施したのですが、式の後、その先生がこう言われたのを良く覚えています。「彼は私の息子ですが、今日から私の兄弟になりました。

では、私たちクリスチャンが「神の子ども」であるとはどういう意味なのでしょうか?今日は使徒パウロが書いたローマ人への手紙から、ご一緒に学んでいきたいと思います。

神の子どもたち

ローマ人への手紙の8章でパウロは、クリスチャンとして生きる人生と、ノンクリスチャンとして生きる人生を対比しています。13節で彼は、キリストを信じないで生きる人生を「肉に従って生きる」人生と呼んでいます。ここに出てくる「肉」という言葉もクリスチャンの「業界用語」で、肉体や肉欲を意味しているのではなく、神から離れた人間の自己中心的な性質、罪深い性質を表しています。私たちが肉に従って生きるなら、その行き着く先は罪と死です。これに対して、パウロは「神の御霊に導かれ」る(14節)生き方について語ります。それは、キリストとの深い結びつきを通して注がれる、神の霊すなわち聖霊によって導かれる生き方であり、そのような人生は「いのち」に導かれると言います。13節で彼は「あなたがたは生きるであろう」と簡潔に言っています。このことは、死んだ後に永遠の命を受けるということだけを意味しているのではなく、今この地上での人生において、神様から与えられたいのちを最高に充実した形で生きる、ということを意味しています。それは別の言い方で表現すれば、「神の子どもとして生きる」ということです。

神との親密な関係

私たちが神の子どもである、ということは何を意味しているのでしょうか?まずは、神様と親しい愛の関係を持つことが許されている、ということを意味しています。パウロは15節で「その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」と言います。「アバ」というのは、新約聖書の時代にユダヤ人が話していたアラム語で「父」を表す言葉ですが、家庭で小さい子どもが父親に呼びかける「お父さん」「パパ」といった、親近感を込めた表現でもありました。福音書には、イエス様が天の神様に対して「アバ」と呼びかけていたことが記されています(マルコ14章36節)。イエス様はご自分で神様を親しく父と呼ばれただけでなく、弟子たちにも同じように神様を父と呼ぶようにと教えられました。主の祈りが「天にまします我らの父よ」で始まるのはとても重要なことなのです。

私たちはかつては罪によって神様から離れ、神様に敵対して生きる存在でした。けれども神様は愛によって私たちをご自分のもとに招き入れてくださり、愛する息子、娘として受け入れてくださったのです。このことが最もドラマティックに描かれているのは、ルカ福音書15章に記されている「放蕩息子のたとえ」でしょう。時間の関係で詳しくお話しはできませんが、父の財産を持ち出して放蕩に身を持ち崩した息子がとうとう父の元に帰ってきた時、彼は「もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」と言おうとしましたが、父は最後まで言わせずに、彼を受け入れ、息子の帰還を盛大に祝ったということが記されています。私たちも、イエス・キリストを信じ従う時に、神様との間の親しい親子関係に入れられるのです。

神の子としてのイスラエル

しかし、クリスチャンが神の子どもであるとは、それだけを意味するのではありません。ローマ書8章におけるパウロの議論は、旧約聖書の時代から続く、神様のご計画と深い繋がりがあるのです。

8章15節では、「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。」と書かれています。パウロはここで、私たちがクリスチャンになるプロセスを奴隷の身分であった者が自由にされて、子としての身分が与えられることにたとえています。ここでパウロは、イスラエルが経験した出エジプトのできごとを念頭に置いて書いているのです。

神様の祝福を全世界に取り次ぐ器として選ばれたイスラエルの民は、エジプトで奴隷の生活を強いられていました。彼らを解放するために、主はモーセを遣わすのですが、彼がエジプトの王パロに伝えるように命じられたメッセージが、出エジプト記4章に書かれています。

あなたはパロに言いなさい、「主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい。」(出エジプト4章22b-23a節)

つまり、神様がイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放された目的は、イスラエルをご自分の子どもとして、愛の関係を築き上げるためだったのです。ホセア書11章1節でも、出エジプトの出来事について、「わたしはイスラエルの幼い時、これを愛した。わたしはわが子をエジプトから呼び出した。」と書かれています。けれども、ホセア書11章を続けて読んでいくと分かるように、イスラエルは神の子らとして、父なる神様に忠実に歩むことができず、繰り返し主に逆らい続けることになってしまいます。

神様と人間との関係を親子にたとえるのは、主がダビデに与えられた約束においても見ることができます。

あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。 彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。(2サムエル7章12-14a節)

ここでは、ダビデの子孫から興されるひとりの王、すなわちメシヤが永遠の王国を確立するということが約束されているのですが、ここでも「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。」と言う表現で、いわば神様がメシヤを養子にするということが言われています。後のユダヤ教では、神の養子となるというアイデアは、個人としてのメシヤだけでなく、民族としてのイスラエル全体に当てはめられて考えられるようになりました(ヨベル書1章24-25節、ユダの遺訓24章3節)。つまり、ダビデの子孫であるメシヤがイスラエルを導いて、そもそもの出エジプトの目的であった、イスラエルを神の子とするという神様のご計画を成就してくださる、これが、新約聖書時代のユダヤ人たちの希望であったのです。

では、今日の私たちクリスチャンが「神の子としていただく」ことは、聖書のイスラエルとどのような関係があるのでしょうか?それは、旧約聖書の昔から一貫して続いている、神様の救いのご計画に私たちも参加させていただく、ということです。先ほど出エジプト記で見たように、神様がご自分の子どもとして召されたのは、あくまでもご自分の選びの民であるイスラエルでした。イスラエル以外の異邦人は、そのご計画から除外されているかに見えたのです。ローマ書の9章4節でも、「彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの」とあるように、神の子と呼ばれるのは、イスラエルの特権だったのです。

けれども、8章でパウロは驚くべきことを言います。ローマ人への手紙の読者の大多数は異邦人クリスチャンでしたが、彼らに対してパウロは「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。」(15節)と言っているのです。ここで「子たる身分を授ける霊」と訳されているギリシア語は、直訳すると「養子の霊」という意味です。パウロがここで使っている「養子にすることhuiothesia」という言葉は、新約聖書の中でパウロの手紙にしか出てこない言葉です。この節でパウロが言おうとしているのは、「あなたがた異邦人はかつては神の子であるイスラエルから除外されていた人々であったけれども、今は神様の養子とされて、イスラエルと同じように神の子どもになることができたのです。」ということです。パウロは9章で次のように言っています。

神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。それは、ホセアの書でも言われているとおりである、
「わたしは、わたしの民でない者を、
わたしの民と呼び、
愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。
あなたがたはわたしの民ではないと、
彼らに言ったその場所で、
彼らは生ける神の子らであると、
呼ばれるであろう」。
(9章24-26節)

さて、この場にいる私たちのおそらく全員はユダヤ人ではなく、異邦人クリスチャンです。私たちが神の子どもと呼ばれること、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神に対して「アバ、父よ」と呼びかけることができること、それは決して当たり前のことではありません。私たちは神様の養子にしていただいて、神の民であるイスラエルに加わることを許された存在です

では、どのようにして、異邦人である私たちが神様の養子になることができたのでしょうか?8章15節でパウロは「子たる身分を授ける霊」と言っています。私たちが神様の子どもとされるのは、聖霊の働きによるのです。私たちがイエス・キリストを主と信じてバプテスマを受け、教会に加えられる時、賜物として聖霊が与えられます(使徒2章38節)。この聖霊がユダヤ人だけでなく、あらゆる種類の人々を神の子として、神の家族に加えてくださるのです。8章16節でパウロは、「御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。」と言います。私たちが神の子であることは、私たちの思い込みや勝手に主張していることではなく、私たちのうちにおられる聖霊ご自身が証言してくださっていることです。しかもユダヤ人も異邦人も同じ御霊によって、神の子であると証言されるのです。

この聖霊はまず、イエス様が地上で宣教された時に、主の上に注がれました(ルカ3章21-22節)。そして、主が復活して昇天された後、使徒たちをはじめ、信じるユダヤ人たちに注がれました(使徒2章1-4節、38節)。それだけでなく、同じ聖霊が主を信じる異邦人にも注がれたことが、使徒行伝に書かれています(使徒11章15-17節)。つまり、この多種多様な人々がみな等しく「神の子ども」と呼ばれるのは、同じ聖霊が働いておられるからなのです。実に聖霊は神の子どもたちに共通して流れている「血」であり、彼らの細胞の一つ一つに含まれる「DNA」と言っていいでしょう。だからパウロは、神の子であるとは、御霊によって「生きる」(13節)ことだと語っているのです。

神の子どもたちの使命

さて、私たち異邦人がユダヤ人とともに一つの神の民イスラエルとなり、神の子どもとされたことには、どのような意味を持っているのでしょうか?もちろん、私たちは神様を父として日々親しい交わりをことができます。それは確かにすばらしい祝福ですが、それだけではありません。多くのクリスチャンはここで止まってしまい、神の子どもであることにどのような大きな祝福と使命が伴うのかを知りません。

8章17節でパウロは、「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。 」と言っています。私たちが神の子どもであることは、神様からいただける素晴らしい相続財産が約束されているということなのです。それは何でしょうか?その答えはさらに先を読むとわかります。

わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。(ローマ8章18-22節)

18節から22節まで、パウロは突然「被造物」について語り始めます。被造物つまり神様が造られた宇宙の全体が現在は虚無に服してうめいているけれども、世の終わりに「滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る」(21節)と言うのです。

ローマ書8章のこの部分は、一見するとあまり意味のない余談のように思えるかもしれません。私たち人間がイエス・キリストを信じることによって義と認められ、罪が赦されて、天国に行くことができる・・・そのような救いの理解をもってローマ書を読むと、たしかにこの部分はあまりパウロの議論の本筋と関係のない補足のように見えます。しかし、実はこの部分はローマ書におけるパウロの議論の中で大変重要な意味を持っているのです。

私たちの罪が赦されて、魂が救われること、確かにそれは聖書が教える大切な救いですが、パウロが救いということで考えていたのは、人間の魂の救いだけにとどまらないのです。創世記によると、神様はこの宇宙をすばらしく良いものとして創造されました。そして、この素晴らしい被造物世界を管理し支配する存在として、人間をお造りになったのです。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。(創世記1章27-28節)

神様はこのように人間を被造物世界の管理者として造り任命されました。その後でこう書かれています。「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」(31a節)。つまり、神様が造られた世界は、人間がそれを愛と知恵を持って適切に管理していく時に、「非常に良い」世界となったのです。

ところが、ご存知のように、最初の人間アダムとエバは罪を犯して神様に反逆し、堕落してしまいました。その結果として、非常に良いものとして造られたこの世界ものろわれた存在となってしまったのです(創世記3章17-18節)。これがパウロがローマ書で「被造物が虚無に服した」と言っていることの意味です。聖書全体で語られている神様の救いのご計画とは、この虚無に服した被造物世界を元通りの「非常に良い」世界に回復することにほかなりません。もちろんその中には、世界の管理者である人間の回復すなわち救いが含まれています。けれども、神様の救いは人類の救いだけにとどまるものではなく、この被造物世界全体の回復にまで及んでいくのです。

しかも、人間の回復も、単なる魂の救いにとどまるものではありません。パウロはローマ8章23節で次のように述べています。「それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。 」

多くのクリスチャンは「救い」という言葉を聞くと、死んだ後霊魂が肉体を離れて天国に行き、そこで神様とともに永遠に過ごす、ということを考えますが、聖書がはっきり述べている、クリスチャンの究極の望みは、私たちの肉体が復活するということです。聖書は、物質を霊より劣ったものとか邪悪なものとは言っていません。この物質世界は神様が造られた良いものだという理解があります。神様の救いの完成とは、この被造物世界が回復し、栄光の身体に復活した神の子たちによって素晴らしく管理され、神様の栄光を表していくということなのです。これがパウロが21節で「被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されている」と言っていることの意味なのです。

ここで23節にもう一度注目してみましょう。パウロはここで世の終わりに起こる肉体の復活について語っているのですが、それは同時に「子たる身分を授けられること」であると言っています。ここで疑問に思う人がいるかもしれません。私たちは14-15節で、キリストを信じる私たちは、現在既に神の子どもとされていることを学んだばかりです。それなのに、どうしてパウロは世の終わりに私たちが神の子にしていただくと言っているのでしょうか?

この疑問に答えるためには、パウロが「世の終わり」というものをどのように理解していたかを知る必要があります。パウロは、イエス・キリストが来られて、十字架にかかられ、復活された時にすでに世の終わりは始まっていると考えていました。けれども、最終的な終わりはまだ来ていません。それは、将来キリストが再臨され、すべての死者が復活する時に起こるというのです。新約聖書によると、世の終わりは二段階で来ます。回りくどい言い方をすると、「終わりの始まり」はイエス・キリストが最初に来られた時で、「終わりの終わり」はキリストが再臨される時なのです。

私たちが神の子とされるということも、このような枠組みの中で考えることができます。私たちは今現在キリストを信じ、聖霊を受けた時に既にある意味で神の子とされました。けれども私たちは「神の子ども」としての人生をフルに生きているわけではありません。私たちが完全な意味で「神の子ども」になるのは、世の終わりに、栄光のからだに復活する時なのです。私たちはこのことをどのようにして信じることができるのでしょうか?それは、私たちに聖霊が与えられているという事実によってです。パウロはこのことを「御霊の最初の実を持っている」(23節)と表現しています。「最初の実」は新改訳聖書では「初穂」と訳されていますが、「初穂」とは、畑の穀物の収穫の最初の部分のことです。昔のイスラエル人は、この初穂を神様に捧げました。初穂が捧げられたということは、やがてまもなく本格的な収穫が始まることを保証しています。今現在私たちに聖霊が与えられている事実は、やがて世の終わりに私たちの身体が贖われることの保証なのです。

もう一つ、私たちの復活を保証している事実があります。それは、イエス・キリストがすでに私たちに先んじて復活してくださったことです。パウロは1コリント15章でイエス・キリストの復活のことも「初穂」と呼んでいます(1コリント15章20、23節)。イエス様は完全な神の子としてまずよみがえってくださいました。私たちも世の終わりにはこのキリストと似た者に復活する希望が与えられているのです。その時私たちは本当の意味で「神の子ども」となることができます。パウロはこのことをローマ8章29b節で、「それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。」と表現しています。イエス様が、贖われた神の子どもたちの長子となってくださり、贖われた被造物世界の管理を導いてくださいます。これが神の子どもとしての教会の最終的な務めなのです。

子としてくださる愛

ここまで、イエス・キリストを信じて聖霊を受けた私たちは神の子どもとされたこと、それは神の民イスラエルに組み入れられることであり、最終的にはキリストを長子として被造物世界を治める神様の働きに参加させていただく希望があることについてお話してきました。最後に、これらすべてを貫く一つの大切なテーマについて触れたいと思います。それはということです。

これまで見てきたことから、神様がこの地上における救いのご計画を進めていくのは、この地上においてご自分の子どもたちの輪を拡げていくことによってである、ということが分かります。神様はまずイスラエルを選び、ご自分の子とされました。その後、イエス・キリストが来られてから、「神の子ども」となる特権は、異邦人も含めて、信じるすべての人に拡大されました。「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」(ヨハネ1章12節)とある通りです。

パウロが言うように、異邦人は神様の養子となって、神の家族であるイスラエルに迎え入れられた存在です。ここで問題となるのは、神様は元から神の子らであったユダヤ人と同じように、異邦人も愛してくださるのだろうか、ということです。養子になった子どもが一番気にするのは、自分が家族の一員として本当に受け入れてもらえているか、特に、養父母に実の子がいる場合には、その子たちと差別されることがないか、ということです。養子になったある子どもが、養母にこう尋ねたそうです。「ママのお腹に新しく赤ちゃんができたら、私は元の所に送り返されるの?」パウロの答えはどうでしょうか?

パウロが生きたローマ時代には、養子縁組の制度は社会的にとても重要な役割を持っていました。ある学者は次のように説明しています。

「養子にされた人物はそれ以前の環境から引き出され、すべての負債は帳消しにされ、新しい家長の息子として新しい人生を歩み始め、家長の名字を名乗り、相続権を持つようになる。新しく父となった者は今や養子の財産を所有し、彼の人間関係を統制し、しつけを行う権利を持つと同時に、彼を養う責任を持ち、その行動に関しても法的責任を負う。これらすべてにおいて、養子はその家で自然に生まれた子どもたちとまったく同じ扱いを受ける。養子縁組は法的な行為であって、証人によってあかしされる。」(Everett Ferguson, Backgrounds of Early Christianity, 3d ed, pp. 65-66)。

神様が私たちを養子にしてくださったとパウロが言う時、彼が念頭に置いていたのはこのような社会的関係でした。神様は私たちを罪と死の奴隷状態から解放してくださり、ご自身との新しい親子関係の中に入れてくださいました。私たちは神の子どもとしてのあらゆる法律的な権利を与えられた存在であり、そのことは私たちに与えられている聖霊が証ししてくださるのです。

ローマ書8章15節でパウロは、異邦人の読者に対して二人称で「あなたがたは・・・子たる身分を授ける霊を受けたのである。」と語った後、一人称複数形を使って(つまり、パウロたちユダヤ人クリスチャンも含めて)「その霊によって、わたしたちは、『アバ、父よ』と呼ぶのである。」と語っています。御霊によって神様を「アバ、父」と呼ぶ者は、ユダヤ人でも異邦人でも同じ神の子どもなのです。

ローマ書2章11節には、ユダヤ人と異邦人の関係についてこう書かれています。「なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。えこひいきのない神様。公平な神様。異邦人の使徒と呼ばれたパウロの宣教活動を支えていたのは、この確信だったのかもしれません。神様はユダヤ人も異邦人も関係なく、ご自分の愛する子どもとして受け入れてくださいます。子としてくださる御霊は、愛の御霊でもあるのです。

そればかりではありません。先ほど、8章29節で世の終わりには御子キリストが復活した神の子たちの長子となられるということを見ました。ユダヤ人と異邦人が分け隔てなく神の子どもとされることもすごいことでしたが、ここでパウロはさらに驚くべきことを述べています。つまり彼は、父なる神様は、御子イエス様が神の子であるのと同様に、私たち人間をもご自分の子どもとしてくださるというのです。

パウロは、私たちクリスチャンの信仰の歩みはキリストに似た存在につくり変えられていくプロセスであるということを述べています。

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。 (2コリント3章18節)

しかもこれは、単に私たちの内面がきよめられて、キリストに似た人格になっていくということだけでなく、最終的には私たちの肉体も、復活のキリストと似た栄光の身体に変えられるというのです。

彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。(ピリピ3章21節)

このことはもちろん、イエス様が神であるのと同じように私たちも神になるということではありません。けれども、私たちは神であるイエス様が持っておられる様々な良い性質に与るものとなる(2ペテロ1章4節)ということです。

ここに神様の偉大な愛が表されています。父なる神様は、御子イエス様を愛されたのとちょうど同じように、分け隔てなく私たち信じる者を愛してくださるのです。イエス様が十字架にかかられる前にこう祈られました。

わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。(ヨハネ17章23節)

私たちが神様の愛の中で一つになること、父・子・聖霊なる三位一体の神様が永遠の昔から持っておられた全き愛の関係の中に私たちも参加させていただくこと、それが神様の救いの究極的な目的です。

このような愛は世の中の価値観とは対立するものです。だから今の世でそのような愛に従って生きようとするなら、そこには苦しみが伴います。パウロはローマ書8章17節で、「キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている」と言っていますが、彼はクリスチャンとして神の子とされた者には苦しみが必然的に伴うと言っています。けれども彼は続けて、「今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。」(18節)とも言っているのです。もし今苦しみの中にある人がおられるなら、その方は復活のイエス様を思ってください。私たちもその主と同じ姿に変えられていく希望があるのです。

けれども、そのような栄光に満ちた祝福の希望は、世の終わりになってはじめて実現することではなく、今ここですでに始まっているのです。私たちクリスチャンが神の家族として互いに愛し合う時に、神の国が地上に現れ、世の終わりが現在に訪れます。そして、ヨハネが言うように、そのことを「世が知る」ようになっていきます。教会が本当の意味で神の家族になっていくことは、もっとも強力な宣教の働きであるのです。

私たちクリスチャンが互いを「兄弟姉妹」と呼び合うこと、神様を「天のお父様」と呼ぶこと、それは単なるキリスト教の「業界用語」ではありません。もし私たちがその本当の意味を知るだけでなく、その真理に従って生きていくなら、私たちを通して神の国が表されていくのです。

 

「福音」とは何か?(2)

前回の投稿では、イエスが宣べ伝えられた「福音」は「神の国の福音」であった、というところまで述べました。今回は福音の内容である「神の国」の三つの側面について考えてみたいと思います。

神の国は救済史的である

神の国は歴史から切り離された単なる神学的概念や理念ではありません。それは旧約時代の聖徒たちによって待ち望まれ、イエス・キリストの受肉によって到来し、今も教会を通して拡大し、やがて世の終わりに完成する、ダイナミックな歴史的現実なのです。

「福音」とは単なる普遍的・抽象的な「罪の赦し」のメッセージではありません。聖書の教える罪の赦しも、二千年前に地上を歩まれ、十字架にかかって死なれ、復活されたナザレのイエスという歴史上の人物、さらにその背景にあるイスラエルの歴史を離れては本当の意味で理解することはできません。しかも聖書はキリスト復活以降の教会の歴史、さらには世の終わりについても語っています。現代の私たちも、このような現在進行中の救いの歴史(救済史)のただ中に生かされているのです。神の国とは、このような神の歴史的みわざの中で現されてきた神の支配のことです。

このような救済史的な神の国の理解は、私たちの信仰生活を大局的な視野から見る必要を教えてくれます。私たちはとかく、自分の信仰生活を個人主義的な視点でのみ捉えがちです。「私の救い」「私の祝福」「私の問題解決」が私たちの主な関心事となってしまうのです。しかし、そこからさらに視野を広げて、天地創造から始まる壮大な神の民の物語(ドラマ)に私たちも参加しているという意識を持っていくなら、私たちは自分の祝福を願うばかりでなく、神が歴史の中で教会を通して成し遂げようとされるご計画の中で、この私がどのように用いていただけるかを考えるようになるのではないでしょうか。

神の国は共同体的である

一人しか臣下のいない王などありえないように、神の王としての支配も、ご自身に仕える神の民の存在を前提としています。神の国はそれ自体共同体的な概念です。神の国の福音の共同体的な側面は、旧約聖書ではイスラエルの救いと密接に結びついています(イザヤ書52章7節など)が、新約聖書においては、この概念は教会に受け継がれています。神の国を教会と直接同一視することはできませんが、教会という共同体は神の国が地上で拡大していくための必要不可欠なコンテキストと考えることができます。たしかに、神の国に入ることができるかどうかは個人の信仰にかかっています(ヨハネ福音書3章3―5節など)。しかし、神の民は単に救われたばらばらの個人として存在しているのではなく、互いに有機的なつながりを持った共同体を形成しているのです。パウロはこのことを、有名な「キリストのからだ」の比喩を用いて説明しています。

なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。(1コリント12章13節)

イエス・キリストを信じてバプテスマを受けることは、個人の救いのための必要不可欠な条件ではありますが、それは同時に、聖霊によってキリストのからだなる共同体に組み入れられるプロセスであるということを理解しないと、私たちの信仰は個人主義的な偏ったものになってしまいます。聖書の教える福音とは、単なる「この私が死後天国へ行くための保証」ではありません。それは、今まで神から離れてそれぞれ自分勝手に生きていた人々が、神の民(教会)を通して一つになり、この地上に拡大していく神の支配に参加することができるようになる、という意味での「良い知らせ」なのです。

神の国は終末論的である

新約聖書によると、神の国は異なる形で二回訪れます。イエス・キリストの受肉と公生涯、受難と復活を通して、神の国は「既に」到来し、今も教会を通して拡大し続けています。しかし、最終的な神の国の完成、神の支配の完全な現れを見るには、将来の再臨を待たなければなりません。その意味では、神の国は「未だ」到来していないのです。この、「既に」と「未だ」の間の緊張関係が、新約聖書の終末論を特徴づけています。回りくどい言い方で恐縮ですが、終わりの時代は既に始まっていますが、「終わりの終わり」はまだ未来のできごとなのです。このような終末論の視点から神の国の福音を考えると、そこには、神の支配がキリストの初臨を通してこの地上に始まり、今日も教会を通して拡大しているという、「現在の祝福」と、その支配はまだ地上のすべてに及んではおらず、神の国とサタンの国との間の激しい戦いが進行中であるが、やがて神の完全な支配が訪れるという「将来の希望」の二つの側面があることが分かります。

このような、「既に」と「未だ」の間の緊張感は、私たちの信仰をダイナミックで現実的なものにしてくれます。一方では、神の国が既に到来していることによって、その祝福を日々の信仰生活の中で体験することができます。しかし同時に、神の国が未だ完成してはいない現在、悩み苦しみや問題、罪との戦いから完全に自由になることはできないという現実も私たちは直視しなければなりません。しかし、そのような中でも、私たちは神の国が完成する日、神が「すべてとなられる」(Iコリント15章28節)時が来ることをみことばと聖霊とによって確信し、パウロの言う「祝福に満ちた望み」(テトス2章13節)を抱いて歩み続けていくことができるのです。

このように、「神の国」の視点からの福音理解は、私たちの信仰を救済史的、共同体的、終末論的な枠組みの中に位置づけることを可能にしてくれます。それはまた、「十字架の福音」を正しい聖書神学的文脈の中でさらに深く理解していくためにも有益と思われるのです。

 

使徒たちは聖書をどう読んだか(14)

(シリーズ過去記事             

前回は、聖書の救済史ナラティヴが教会共同体のアイデンティティを形成するということを述べました。今回はそれへの補足として、このような聖書テキストを通した共同体のアイデンティティ形成における聖霊の働きについて述べたいと思います。

プロテスタント信仰において、教会が従うべき最終的な権威は聖書のテキストを通して語られる聖霊にあるとされてきました(たとえばウエストミンスター信仰告白を参照)。しかし、聖霊が教会にあって、聖書のテキストを通して語られるということは、聖書記者の意図した意味を正確に伝達するという以上のことがあります。

私たちが言語を使う時、ただ単に情報を伝達するだけではなく、言葉を発することによっていろいろなことを行っています。そのように「何かを言うことによって何かを行うこと」を「言語行為speech act」と言います。例えば強盗が銀行員にピストルを突きつけて「手を上げろ」と言う時(発話行為locutionary actと呼ばれます)、強盗は手を上げるようにと命令しており(発話内行為illocutionary act)、その発話行為によって相手を脅している(発話媒介行為perlocutionary act)ということができます。

さて、聖書のテキストを通して聖霊が語られるという事実も、このような言語行為として捉えることができます。聖霊が聖書を通して私たちに語りかけるとき、それは私たちに神に関する正しい情報を伝達するというだけでなく、その語りを通して私たちに様々な働きかけがなされます。例えば次の聖書箇所を考えてみましょう。

しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。(2テモテ3章14-17節)

この箇所は聖書の霊感の議論で必ずと言って良いほど引用される箇所ですが、福音派の釈義においては、聖書記者が聖霊の導きを受けて誤りのない神のメッセージを書き記した、という意味で解釈されることが多いようです。しかし、パウロはこの箇所で旧約聖書の原典がいかに生み出されたかということについて語っているのではありません。そもそも彼がここで念頭に置いている「聖書」は旧約聖書のヘブル語原典ではなく、そのギリシア語訳(七十人訳聖書)であると思われます。

しかしさらに重要なのは、パウロがこの文脈で語っているポイントは、霊感を受けた(原文を直訳すると「神の霊・息を吹き込まれた」)聖書がいかに存在するようになったかという成立事情ではなく、そのような聖書がいかにして教会の働き人を訓練していくことができるか、という現在の機能にあります。つまり、ここでパウロは、聖書は聖霊によるいのちに満ちているので、それを読む人々を変革し、教会という共同体を建て上げていくことができる、と言っているのです(ここでパウロは創世記2章7節で、アダムに神の息が吹き込まれ、彼が生きるものとなったと言う記述を念頭に置いているのかもしれません)。

聖霊が聖書のテキストを通して行う言語行為の結果、何が起こるのでしょうか。スタンリー・グレンツStanley J. Grenzとジョン・フランケJohn R. Frankeは、聖書テキストを通した聖霊の発話媒介行為(発話を行うことによって達成されること)は、神がテキストによって意図している終末論的世界を創り出すことであると言います。ちょうど神がはじめにことばを発することによって世界を創造されたように、現在も神は聖書を通して語る聖霊によって、神の「ことば」なるキリストを中心とした世界を創造しておられるというのです。これは前回扱った、ナラティヴによる世界の創出ということとつながってきます。聖霊が聖書の救済史ナラティヴを通して語る時、そこにキリストを中心とする新しい世界が生まれ、キリストをかしらとする神の民としての教会が生まれていきます。

私たちが教会の一員として聖書を読むということは、聖書のテキストを通して語りかける御霊に聴くことであり、それは単に正しい神学的知識を取得するということだけでなく、御霊によって人格が作り変えられ、キリストを中心とする終末論的な世界に引き入れられていくということなのです。

思わぬ長さになってしまったこのシリーズも、今回でとりあえず最終回としたいと思います。かつてリチャード・ヘイズはパウロの解釈学を形容するのに「自由freedom」という言葉を使いました。パウロは旧約テクストの「オリジナルな意味」に縛られることなく、御霊による自由の中で聖書を解釈したというのです。これはもちろん何の制約も受けない恣意的な解釈ということではなく、キリストにおける神のわざによって聖書に与えられた新しい統一的ナラティヴに照らして聖書を読むことができるようになったということです。そしてそのような解釈はまた、聖書を通して語られる聖霊の声の微妙なニュアンスに、教会共同体として耳を傾けることによってなされていきました。新約聖書はそのようなダイナミックな聖書との関わりを証ししています。21世紀に生きる私たちも、使徒たちのこのような柔軟で自由な聖書観に学ぶべきではないでしょうか。

使徒たちは聖書をどう読んだか(13)

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前回は教会共同体というコンテクストで聖書を読むことによって、個人による聖書解釈の限界を補っていくことができるということを述べました。しかし、教会で聖書を読むことはもっと積極的な意義もあります。それは私たちが何者であり、どのように生きるべきかについての指針を与えてくれるということです。つまり、私たちは教会共同体において聖書が正しく読めると同時に、聖書は教会にアイデンティティを与え、それぞれの時代と文化において神の民を形成していくという循環的な関係があるのです。

聖書を救済史ナラティヴの枠組みを通して読むことの重要性は既に指摘しましたが、ナラティヴと私たちのアイデンティティとは密接な関係があります。私たちがアイデンティティ(自分が何者であるのかの理解)を持つためには、私たちがこれまでたどってきた人生の記憶というものが重要な役割を果たします。記憶を喪失した人にはアイデンティティがありません。私たちにアイデンティティを与えるのは、自分の人生の物語(ナラティヴ)なのです。

同様に、共同体のアイデンティティも、その構成員が共有するナラティヴによって形成されます。部族の長老が物語る昔話や国家における建国神話などはそのような機能を持っているといえるでしょう。このようなナラティヴは単なる過去の記録ではなく、そのナラティヴを共有する人々が生きる象徴世界を創り出します。共同体のメンバーは自分たちのルーツに関するナラティヴを繰り返し聞き、それを自分の物語にすることによって、そのナラティヴが創り出す象徴世界の住人となり、共同体の成員としてのアイデンティティを形成していくのです。

初代教会のクリスチャンたちは、自分たちが旧約聖書における神の民イスラエルの正当な後継者であると考えていました。使徒たちは聖書を単なる神学の資料集や過去の事件の記録として扱ったのではありません。そうではなく、彼らは旧約聖書を自分たちのルーツを物語るナラティヴとして読んだのです。さらに、旧約聖書のイスラエルの物語に、イエス・キリストという新しい章が付け加えられた時、新しく補完されたナラティヴの全体は、新しく拡張された神の民のアイデンティティを提供するようになりました

アイデンティティの問題は異邦人クリスチャンにとって特に切実でした。ユダヤ教とまったく関係のない過去を歩んできた異邦人たちは、どのようにして自分たちがイスラエルの神の民であると理解できたのでしょうか?それは、神の民のナラティヴに、イエス・キリストという決定的な要素が加わったことによって可能になったのです。キリストを主と告白し、キリストとつながることによって、異邦人もキリストを中心として形成される終末的な神の民の中に組み入れられることができます。そしてこのキリストはイスラエルの物語のクライマックス(アブラハムへの約束を成就する存在)として来られたので、異邦人もまた、イスラエルの過去(アブラハム)と未来(相続の約束)を共有する者とされたのです。

あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。(ガラテヤ3章26-29節)

つまり、新約時代のクリスチャンたちが旧約聖書をイエス・キリストのレンズを通して読んだ時、それは単に正しい神学的な情報を学んだと言うことだけではなく、旧約聖書のナラティヴが創出する象徴世界に生きる共同体、すなわち終わりの時代における「まことのイスラエル」になった、ということなのです。

それでは、現代の私たちはどのように聖書を読んでいくべきでしょうか。使徒たちと同様に、私たちがとるべき正しい聖書の読み方は、聖書の救済史的ナラティヴが創り出す象徴世界の中に生きる共同体として読んでいくことです。

私たち一人ひとりもそれぞれのアイデンティティを形成する個人史のナラティヴを持っています。しかし私たちがキリストと出会い、キリストを主と告白し、同じ信仰を共有する人々の共同体に組み入れられる時、私たち一人ひとりのナラティヴも、救済史における神の民のナラティヴに組み入れられていきます。言い換えれば私たちは聖霊が聖書テキストを通してキリストにあって創り出す新しい象徴世界の中に入れられるのです。

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(2コリント5章17節)

この節の前半のギリシア語は、「だれでもキリストにあるならば、新しい創造がある」と訳すほうが良いように思います。パウロはここで、キリストにある個々の人間が新しい被造物となる、と言っているのではなく、キリストにあって世界全体が新しくされている、と言っているのです。

そしてこのナラティヴは、過去の出来事を通して私たちの起源を説明するだけではなく、私たちが向かって進むべき終末のビジョンをも提供するものです。ですから、私たちが現代において聖書に従って生きるとは、イスラエルからイエス、そして初代教会に至る救済の物語にルーツを置きつつ、神が形作ろうと望まれる終末的共同体のビジョンを現在において体現していくことにほかならないのです。

(続く)

 

 

 

 

 

 

 

使徒たちは聖書をどう読んだか(12)

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前回述べたソフト・ポストモダニズムのアプローチでは、聖書の解釈にはどうしてもある程度の幅が原理的に生じてきます。これに対して、第10回で提案した救済史的な視点を導入することによって、解釈の主観的暴走を防ぐことができると考えられます。

今回はそれに加えて、もう一つの重要な枠組みについて考えてみたいと思います。それは教会共同体として聖書を読むという視点です。

前にも書きましたように、歴史的・文法的方法によると、少なくとも理論的には、適切な方法を用いて聖書を解釈すれば、誰が読んでも同じ結論に達することになります。モダニズムの立場では、普遍的人間理性に従っていく限り、誰でも唯一の真理に到達することができるはずだからです。聖書も同じように、基本的には誰が読んでも(信仰者であるなしにかかわらず)、同じ「意味」を見いだすことができるはずだ、ということになります。

このような聖書の読み方は本質的に個人主義的なものです。そこでは共同体における議論や対話は絶対的に必要なものではありません。理想的状況においては、個人が書斎に籠もって歴史的・文法的方法を駆使し、理性の光に導かれて聖書を読めば、誰でも同じ釈義的結論に達するはずだからです。もちろん、実際には歴史的・文法的方法を用いる場合でも、共同体や対話の有効性が語られていますが、それは原理的な要請ではないのです。

これに対して、ポストモダン的状況においては、個人の解釈は必然的に限界を持っているので、その精度を高めていくためには、他の人々との対話が必須条件になってきます。したがって、真に有効な聖書解釈は共同体というコンテクストにおいてのみ可能になると言えます。

この場合、共同体なら何でも良いというわけではありません。個人の視点が特定の歴史的状況によって制約されているのと同様に、共同体も具体的な歴史的・文化的状況と離れては存在しえないからです。ナザレのイエスをメシア(キリスト)と信じていた初代教会の旧約聖書解釈と、そのような神学的前提を共有していなかった同時代のユダヤ教のそれとが異なっていたことを思い起こしましょう(シリーズ第5回参照)。聖書を正しく読むためにはイエス・キリストというレンズを通して読むことが必要だったように、聖書解釈はイエスをキリストと告白する共同体、すなわち教会という共同体のコンテクストでのみ、適切に行っていくことができるのです。

このことは言い換えれば、「聖書は誰が読んでも同じ結論に達する」「聖書は他の書物と同じように解釈することができる」というモダニズム的解釈の前提が成り立たないことを意味します。つまり、聖書は教会(神の民)に対して啓示された神のことばとして読まなくてはならない、ということです。

話は少し逸れますが、このような考えに基づいて、近年アカデミックな聖書学でも、「神学的聖書解釈Theological Interpretation of Scripture」という潮流が脚光を浴びてきています。その代表的な論客の一人に、米国トリニティ神学校のケヴィン・ヴァンフーザーKevin J. Vanhoozerがいます。神学的聖書解釈は解釈者の持つ神学的前提を前面に押し出したものですが、このような流れが米国聖書学会Society of Biblical Literature のようなアカデミックな団体においても認知されてきている状況は、ポストモダン的な時代背景を非常に良く反映しています。また、神学的聖書解釈の立場に基づいた聖書注解のシリーズや学術雑誌なども出版されるようになってきています。

さて、共同体に話を戻しますと、私たちが「教会共同体のコンテクストで聖書を読む」と言う時、その「教会共同体」はいろいろなレベルで考えることができます。「教会」というと、個別の地域教会を思い浮かべることが多いかもしれませんが、唯一のキリストのからだとしての普遍的教会(使徒信条で言うところの「聖なる公同の教会」)に属する意識を持って聖書を読むことも非常に大切なことです。そのためには自分の属する教派や伝統以外の人々の聖書解釈に耳を傾け、対話をしていくことが必要です。同時に、キリストのからだは空間的にだけでなく時間的にも広がっていますので、過去の信仰者たちの聖書解釈から学ぶことも有益です。上で述べた神学的聖書解釈においては、過去(特に近代以前)の聖書解釈も新たに注目を集めています。

同時に、実際の聖書解釈は個別の地域教会という場においてなされていくことを忘れてはなりません。具体的な歴史的状況から遊離した純粋に普遍的な教会というものはこの地上に実在しません。私たちの属する教会は必ず特定の時代と場所に存在し、特定の教会的伝統にルーツを持ち、特定の人々から構成されるユニークな存在です。個々の教会が置かれている具体的な状況によって、同じ聖書テキストの解釈であっても、微妙な幅が出てくるかもしれません。

要するに、教会共同体として聖書を読む時には、ローカルとグローバルの両方の視点を持って読んでいく必要があります。一方では、普遍的な教会における多様な聖書解釈から学ぶことによって無制約な解釈の暴走をとどめ、他方では現実の具体的な状況の中で聖書が語りかける声の微妙なニュアンスに耳を傾けていくことにより、聖書のことばがより活き活きと私たちの生活の中で働き始めると思われます。そして私たちは自分の解釈は誤りうるという可能性を常に心に留め、所属する教会の内(ローカル)と外(グローバル)にいる人々と絶えず対話を行うことにより、より良い聖書解釈を追求していく必要があります。

現代の私たちは特定の信仰共同体に属さなくても、個人で簡単に聖書を所有して読み、また解釈することができます。それは良い面もあると同時に、非常に個人主義的な狭い聖書解釈に陥っていく危険性があります。しかし新約時代のクリスチャンたちは現代の私たちよりもはるかに共同体的な意識を持って聖書を読んでいたと考えられます。使徒たちが一見かなり自由奔放な釈義を行いつつ、非常にバランスの取れた聖書理解を持っていた理由には、救済史的な視点を持っていたことと同時に、イエス・キリストを主と告白する信仰共同体として聖書を読んでいたことがあると思います。

(続く)