「『いいね』文化」考

フェイスブック断食

ここしばらく、わが家では「ジャンクメディア断食」と称するものを行っています。詳しくは妻のブログに書いてありますが、特にわが家の子どもたちによるメディア使用を(本人たちも同意の上)制限しようとする試みです。親もそれに合わせて、寝室にスマートフォンを持ち込まないなどの試みをしています。今のところ家族全員が良い影響を受けていると感じています。

それに伴い、私も個人的に、フェイスブックの使用をしばらく休止することにしました。いわば「フェイスブック断食」です。フェイスブックはここ数年使っていますが、このようなソーシャルメディアによって、自分の心がどのような影響を受けているのかを、一度立ち止まって考えてみようと思ったのです。(私の場合は仕事でもフェイスブックを使っていますので、必要最小限の使用は続けますが、個人としての使用はやめました。)

フェイスブックを始めてまもなく、自分の投稿がどのような反応を引き起こすかということを自分が強く意識していることに気づきました。投稿にたくさんの「いいね」やコメントがつくと喜び、あまり反応がなかったり否定的なコメントがあったりすると落ち込むなどといったことです。これは誰しも感じる自然な反応かもしれませんが、自分の投稿に人々がどう反応するかが絶えず気になり、そのためにフェイスブックをチェックする頻度が増えていきました。

それだけではありません。自分が投稿する内容だけでなく、自分がどのような投稿やページに「いいね」を押しているか(あるいはいないか)、誰に誕生祝いのメッセージを送って誰に送っていないか、と言ったネット上の「行動」が他の人々にどのように受け取られるのか、そのようなことも常に意識するようになり、それが大きな精神的ストレスを生むようになりました。

もっとも恐ろしいと思ったのは、自分の発信する情報の内容が、そのような「他人の目」によって変わってきたことです。たとえば、長く堅苦しい内容の投稿は「いいね」がつきにくい(そのような種類の文章にはブログの方が合っていると感じたのが、このブログを始めた動機の一つでもあります)、テキストだけの投稿よりも写真や動画をつけた方が「いいね」がつきやすい、などなど、経験的にいろいろな「法則」が分かってきますと、それにしたがって多くの人に「評価されやすい内容」の投稿をするようになっている自分に気づきました。つまり、ソーシャルメディアに露出している「私」は本当の私ではなく、他人に見られることを想定して「作られた私」なのです。ここに来て、私はソーシャルメディアとの関わり方をもう一度考えなおさなければならないと感じました。

「いいね」文化

フェイスブックのようなソーシャルメディアには、普通の環境ではなかなか交流できない人々(たとえば遠隔地に住んでいる人など)と手軽に繋がることができるなど、多くの利点があります。私自身、その恩恵を受けてきました。しかし、その反面、自分のオンライン上での言動が他人からどのように受け取られるかということを過剰に意識するようになり、それは精神的にかなり大きなストレスになってきたのも事実です。

これは実はソーシャルメディアに固有の問題ではなく、実社会における問題がインターネットの仮想現実世界でさらに強化されたものだと言えます。特に私たち日本人は常に「他人の目」を気にしながら生きています。自分の容姿や学校の成績、仕事の業績、等々、「人からどう評価されるか」が、私たち自身の価値を決定するものであるかのように考えられています。フェイスブックでは、そのような「他者からの評価」が「いいね」やコメントの数、「友達」の数などで目に見える形で数値化されていきますが、実生活においても私たちは常に他人からの目に見えない「いいね」を求めて生きているのです。このような社会のあり方を「『いいね』文化」と呼ぶことができるかもしれません。

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「いいね」文化においては、自分の価値やアイデンティティは他人の評価によって大きく影響されます。したがって、私たちにとって、他人から良い評価を得ることが人生の至上目標となり、そのために全ての精力を注ぎこむことになります。言い換えれば、私たちは自分の価値や安心感を「他人からの高評価」に見出そうとしていることになります。これはまさに偶像にほかなりません偶像礼拝とは、私たちの「いのち」(無条件で愛され受け入れられていること、自己価値、安心感)を得ようとして神以外の存在を求めていくことだからです。

そして、このような試みは多くの場合破壊的な影響をもたらします。ほとんどの人はコンスタントに他人から良い評価を受けることなどできません。したがって、それはしばしばセルフイメージの低下につながります。私たちはこの世の「いいね」文化の悪影響から身を守るすべを身に着けていく必要があると思います。

しかし、人のアイデンティティが神ご自身に根ざしているなら、その人は揺るがされることがありません。フェイスブックで何百人の「友達」がいようとも、本当の親友に恵まれているとは限りません。けれども、キリストは私たちの真の「友」となってくださいます(ヨハネ15章13-15節)。キリストにあって神ご自身が私たちを受け入れ、愛し、喜んでくださっていることを実感するとき、私たちはこの世の「いいね」文化によって押しつけられた偽りのセルフイメージから解放されることができます。誰が何と言おうと、神ご自身がこの私に「いいね!」とおっしゃってくださっているのです。もちろん、これはすでに多くの人が指摘していることで、何も目新しい主張ではありません(たとえばマックス・ルケードは『たいせつなきみ』という絵本の中で、子どもにも分かりやすくこのことを述べています)。しかし、「いいね」文化の蔓延する社会においては、このことを繰り返し自分に思い起こさせる必要があると思っています。

神よ、わたしをお守りください。
わたしはあなたに寄り頼みます。
わたしは主に言う、「あなたはわたしの主、
あなたのほかにわたしの幸はない」と。
地にある聖徒は、
すべてわたしの喜ぶすぐれた人々である。
おおよそ、ほかの神を選ぶ者は悲しみを増す。
わたしは彼らのささげる血の灌祭を注がず、
その名を口にとなえることをしない。
主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの。
あなたはわたしの分け前を守られる。
測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。
まことにわたしは良い嗣業を得た。
わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。
夜はまた、わたしの心がわたしを教える。
わたしは常に主をわたしの前に置く。
主がわたしの右にいますゆえ、
わたしは動かされることはない。
このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。
わたしの身もまた安らかである。
あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、
あなたの聖者に墓を見させられないからである。
あなたはいのちの道をわたしに示される。
あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、
あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。
(詩篇16篇)

今後私がソーシャルメディアとどのように関わっていくかは分かりません。おそらくその否定的な影響力に留意しつつ、健全な利用法を探っていくことになると思います。しかし、一時的にソーシャルメディアを離れることによって、一種すがすがしい解放感を味わっているのも事実ですので、しばらくこのまま離れていようと考えています。

Be Thou My Visionという、アイルランドに古くから伝わる賛美歌があります(讃美歌 358番「こころみの世にあれど」、聖歌259番「きみはわれのまぼろし」)。昔から好きな曲ですが、特に最近その中の次の歌詞を繰り返し口ずさみ、心に刻みつけています(日本語訳は私訳です)。

Riches I heed not,
Nor man’s empty praise,
Thou mine inheritance,
Now and always:
Thou and Thou only,
First in my heart,
High King of heaven,
My Treasure Thou art.

富に心をとめることはしません
人からの空しい称賛にも
あなたこそ私の受け継ぐべき分
今も、いつまでも
あなたが、ただあなただけが
私の心で第一の場所を占めるかた
天のいと高き王よ
あなたこそ我が宝

Be Thou My Vision (私の好きなJars of Clayによる演奏です)

 

確かさという名の偶像(10)

(シリーズ過去記事         

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズ、第3章「確実性という偶像」を取り上げるのは今回が最後です。

確実性の追求という偶像

前回までの記事を通して、偶像礼拝の特徴について見てきました。これまでの議論を受けてボイドは次のように結論づけます:

ありていに言うと、その真摯な姿勢は否定しないものの、確実性を追求し、疑いを避けようとするような信仰理解は、イエスの時代の宗教指導者たちが捕らわれていたのと同じ宗教的偶像礼拝を反映していると結論づけざるを得ない。確実性を追求するクリスチャンたちが、愛と自己価値と神の前の安全を感じる―つまり自分の「救い」を確信する―ために必要とするのは、自分が正しいことがらを十分な確実性を持って信じているという自信を持つことなのである。このことは、彼らにとって「いのち」の源泉となっているのは、神ご自身と言うよりは、神について彼らが信じていることがらについての確信だということを意味しないだろうか?(p. 68)

ボイドは二つのまったく異なる信仰のあり方を提示します。一つは、(1)十字架につけられたイエス・キリストこそが神の真の自己啓示(つまり神が無条件に愛してくださるお方であるということ)であり、「いのち」の唯一の源であると信じる信仰のあり方、もう一つは、(2)私たちの信じているすべてのことがらが真理だという確信を持つことに「いのち」の源泉を求める信仰のあり方です。ボイドはこの二つは両立しないと言います。なぜなら、もしイエスの十字架のうちに神の愛が啓示されていると信じ、そこから「いのち」を得ているならば、その「いのち」は私たちが神に関して信じているその他のことがらが真理であるかどうかによって左右されることはないはずだからです。逆に、一群の教理が正しいことに確信を持つことが救いの条件であると考えているなら、その人にとって「いのち」の源泉は十字架のキリストではないということになります。

誤解を招かないために、ボイドは正しい教理を信じることの重要性を繰り返しますが、私たちの「いのち」の源は正しい教理にはないことを強調します。この区別をはっきりさせることは非常に大切であると思います。

クリスチャン信仰の「中心」

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さて、ここまでの議論で、「十字架に架けられたイエス・キリストに、神の真の姿が啓示されている」ということがボイドの信仰理解において中心的重要性を持っていることに気づかれたと思います。そこで次のような疑問が生じるかも知れません。「ボイドの提唱する信仰理解においても、この一つの点については、確実性を持って信じなければならないのではないか?結局彼の主張も、彼が批判している確実性追求型の信仰と同じではないか?

たしかに、十字架において啓示された神を「いのち」の源泉として持つためには、神が十字架においてご自身を啓示したことが真理であると信じなければなりません。そしてボイドは、私たちが信じなければならない唯一のことは「イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト」(1コリント2章2節)であるということを認めます。しかし、ボイドは3つの論点を挙げて、上の疑問に答えています。

まず第一に、十字架において啓示された神から「いのち」を得ることは、神が十字架において啓示されたという信仰内容について確信を持つことから「いのち」を得ることとは違うと言います。私たちが「いのち」を得るのは神との人格的関係からであって、神に関する信条からではありません

第二に、ボイドは十字架における神の自己啓示という中心的論点についても、絶対的な確信を持つ必要はないと言います。私たちに必要なのは、神との相互献身的な関係を築こうと行動を起こすために必要なレベルの確信を持つことだけです。

第三に、ボイドはこの中心的論点に関して、それが正しいと思い込もうとはしないと言います。むしろ、あることがらが正しいかどうかを判断するためにすべての理性的な人間がするように、ボイドはこの主張に賛成したり反対したりするあらゆる議論や証拠を吟味するというのです。(十字架上のイエス・キリストにおいて神の真の姿が啓示されているということをボイドがなぜ受け入れているかについては、本書の後の章で説明されます。)

このように、ボイドは「十字架につけられたイエス・キリスト」をクリスチャン信仰の中心に据えることを提唱しますが、そのような信仰のあり方は、これまで見てきたような確実性追求型の信仰とはまったくことなったものなのです。

ここまで、本書の1-3章を通して、「確実性追求型信仰」の問題点を見てきました。この最初の3章が、第1部「偽りの信仰」を構成しています。続く第2部「真の信仰」では、ボイドが提唱する、そして彼が聖書的な信仰と考えるタイプの信仰について議論が展開していきます。

(続く)

 

確かさという名の偶像(8)

(シリーズ過去記事       

このシリーズでは、グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)に基いて、「確実性追求型信仰」の問題点を考察してきました。今回は第3章「確実性という偶像」を見ていきます。

ボイドはこの章で、「確実性追求型信仰」の最大の問題点と彼が考える主題を取り上げます。彼は、このような信仰モデルは、聖書中最大の罪である偶像礼拝に陥っていると主張します。ボイドはこのような種類の信仰を持つ人々が意図的に偶像礼拝を行っているとか、彼らは救われないと言っているのではありません。しかし、確実性を追求し、疑いを避けようとするタイプの信仰は、確実性というものを偶像視することになってしまうと言います。

ところで、「偶像礼拝」とは何でしょうか?それは普通、真の神以外の神々、あるいはそれらの像を礼拝する行為をさすと考えられます:

あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。(出エジプト20章3-5a節)

このような狭い定義によると、一神教徒であるクリスチャンは原則的に偶像礼拝は行わないはずだということになります。しかし、パウロが「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3章5節)と述べている例からも分かるように、「偶像礼拝」にはもっと広い意味がありえます。ボイドが偶像礼拝をどのように定義しているかを見てみましょう。

まずボイドは人間には根源的な飢え渇きがあることを指摘します。人はいつでも「もっと良いもの」を求めています。より良い車、より良い仕事、より良い配偶者・・・人はこれらのものが手に入りさえしたら、人生は幸せになると考えます。ブルース・スプリングスティーンも唄っているように、「すべての人は飢えた心を持っている(Everybody’s got a hungry heart)」のです。

ところが問題は、たとえ望むものを手に入れたとしても、その喜びは束の間であり、その渇望を完全に満たすことは決してできないということです。このようにとらえどころのない、決していやされることのない渇望をC・S・ルイスはドイツ語のSehnsucht(あこがれ)という言葉で表現しました。これは何か名状しがたい、手の届かないものに対する深い切望を表しています。クリスチャンにとって、このSehnsuchtは神へのあこがれにほかなりません。アウグスティヌスもまさに同じことを語っています:

あなたは、わたしたちをあなたに向けて造られ、わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじないからである。(『告白』第1巻第1章)

さて、ボイドはこのようなあこがれのもっとも重要な要素は、神の完全な、無条件の愛を体験することであると言います。そして私たちは、神にとって無制限の、これ以上ない価値を持つ存在であることを体験的に知り、その愛と価値の中に絶対的に安らうことを欲しているのです。神を信じているかどうかにかかわらず、人間はこのような無条件の愛・この上ない価値・絶対的な安全を感じる度合いに応じて、この世界にあって生きている実感を持つことができると言います。そこでボイドは、Sehnsuchtとはこのような種類の「いのち」への飢え渇きであると言います。(ボイドはこのようなあこがれの対象としての「いのち」を単なる生物学的な生命と区別しています)。そしてこのようなあこがれは、神ご自身の永遠に満ち満ちた「いのち」への渇望であり、その「いのち」は三位一体の神が永遠に持っておられる完全な愛の交わりにほかならないと言うのです。

私たちはこの「いのち」をどこで見つけることができるのでしょうか?ボイドによるとそれはイエス・キリストであり、その十字架に表された自己犠牲的な愛です。彼は言います:

カルバリーで啓示された神の愛以外のいかなるものに対しても、私たちが「いのち」を求めていくなら、それは偶像になり、私たちに「いのち」を与える代わりに、私たちの内から「いのち」を吸い取ってしまうのだ。(p. 61)

ボイドによると、偶像とは「神のみが満たすことのできるものを満たそうとして私たちが用いようとするあらゆるもの、すなわち、神の代替物として私たちが用いようとするあらゆるもの」を指します(p. 63)。私たちの内奥にあるもっとも深い必要―無条件の愛・この上ない価値・そして絶対的な安全、すなわち「いのち」―を満たすために神以外のものに頼ろうとするなら、それは私たちにとって偶像となるのです。

さて、現代世界にはさまざまな種類の「偶像」が満ち溢れています。その中には宗教的・霊的な偶像も含まれます。これは異教の神々の像だけを指すのではありません。それは特定の儀式であったり、行動であったり、信条であったりします。神ご自身が無償で与えてくださる「いのち」をいただく代わりに、神のために何かを行ったり、神について何かを信じたりすることによって「いのち」を得ようとする時、それは偶像となるのです。

それでは、この記事の冒頭で述べた「確実性」はどのようにして私たちの偶像となるのでしょうか?次回はそのことについて見ていきたいと思います。

(続く)