ジョン・ウォルトン博士来日講演(2)

昨日の投稿に続き、ホィートン大学の旧約学教授であるジョン・ウォルトン博士の来日講演会の内容を紹介します。5月14日(月)は福音主義神学会東部部会の主催で行われた、春期公開研究会での講演「創世記1章は何を語っているのか?~機能的コスモロジーの再発見~」に出席しました。

タイトルを見て分かるように、この講演は12日(土)に行われた講演会と同じ主題について行われました。しかし、神学会での講演ですので、前回よりも専門的な内容に踏み込んで話がなされました。そこで、この記事では、前回と重なる内容は割愛して、前の記事で詳しく触れなかった内容について、ポイントごとに紹介したいと思います。 続きを読む

「主の祈り」を祈る(3)

(シリーズ過去記事  

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

今回から「主の祈り」の内容を細かく見ていきたいと思います。

「天にまします・・・」

まず、この祈りは神に対する呼びかけから始まります。日本ではクリスチャンでなくても、「旅の無事を祈ります」「成功を祈ります」など、「祈る」という表現はよく使われます。けれどもそれらの人々が誰に対して祈っているのかは明らかでない場合が多いです。おそらく多くの人々が「祈る」という時、それは特定の神仏に対して祈願しているというよりは、「~であってほしい」という漠然とした願望を表しているように思います。けれども、ユダヤ教の厳格な一神教信仰に生きていたイエスと弟子たちの文脈にあっては、祈りを捧げる対象は唯一の生ける神以外にはありえませんでした。しかし問題は、その神がどのようなお方であるという理解のもとに祈っているか、ということです。これは私たちが主の祈りを祈るときにも意識すべき重要な問題です。

まず、この神は「天」におられる神です。ここで言う「天」は必ずしも物理的な空間をさすわけではなく、第一義的には「神のおられるところ」です。これに対して私たちが住むこの世界を「地」といいます。過去記事で触れたように、N・T・ライトによると、聖書の世界観はこの天と地が部分的に重なり合い、かみ合う世界観であるといいます。特定の時と場所において、天と地が出会い、神と人とが出会うことができる―祈りとはまさにそのような「場」の一つと言えるでしょう。

さて、1世紀のユダヤ人たちは基本的に次のような世界観を持っていました。

AncientHebrewCosmology

古代ヘブライ人の宇宙像(© 2012 Logos Bible Software)

この宇宙像では、基本的に世界は「天」「地」「地下(よみ)」からなる三層構造で捉えられていました。当時のユダヤ人は、「空」は地の上をおおう固いドーム状の物質で、神はその上に住んでおられると考えていました。したがって、神のおられる場としての「天」は基本的には物理的空間としての「天」と重なってイメージされていたと考えられます。ただし、この神は上空の天に常にとどまっている存在ではなく、頻繁に地上の世界のできごとに介入し、人々とやりとりをし、みこころを行われる存在として描かれています。そのような、地上における神の臨在と働きをライトは「天と地が重なる」と表現しているのだと思います。ライトが終末において「天と地が一つになる」という時に意味しているのは、神の臨在と支配が天においてだけでなく地においても完全にあらわされ、神が「すべてにおいてすべてとなられる」(1コリント15章28節)ということだと理解できます。

ところが問題は、このような古代ヘブライ人の宇宙像は、現代の私たちにとってはまったくなじみのないものであるということです。私たちは、空は固いドームのような物質ではなく、地球の周囲には果てしない宇宙空間が広がっていることを知っています。そのような宇宙像においては、「天」を単純に「空の上」と考えることはできません。日本における「上方」とイスラエルにおける「上方」はことなりますし、宇宙空間を何億光年突き進んでも、神にたどり着けるとは思えません。このような現代の宇宙像において、神はどこにおられると考えたらよいのでしょうか?

一つの方法として、私たちは「天」はSFやファンタジー小説に登場するパラレルワールドや異次元世界のように、この地球と隣り合わせに存在し、目には見えないけれどもすぐそこにある世界と考えることができるかもしれません。C・S・ルイスのナルニア国はまさにそのような世界として描かれています。科学的宇宙像を持った現代人が、どのように聖書的な神のすみかとしての「天」をイメージできるかについては、たとえばPaula GooderがWhere on Earth Is Heaven?という小冊子にコンパクトにまとめています。

それでは、現代の私たちはどのようにして「天におられる神」に祈ることができるのでしょうか?それには2通りの方法があると思います。

第1は、聖書時代の人々が持っていた古代の宇宙像に入り込んで、その世界観のレンズを通して「天」をイメージして祈るということです。この方法では、私たちは文字通り自分たちの上方のどこかに「天」という領域があり、そこに神がおられることを想像します。私たちが祈る時、天に窓が開かれて、天におられる神の御前に私たちの祈りが香の煙のように立ち上っていくことをイメージすることができます。

第2の方法は、「天」に関する聖書の言語表現を、現代の私たちの科学的宇宙像に適合するように「翻訳」して、その理解にそって祈ることです。例えば上記のようなパラレルワールドとしての天をイメージし、私たちの世界のすぐとなりに存在する見えない世界におられる神に向かって祈ることができます。

私は現代のクリスチャンはどちらの方法で祈っても良いと考えていますが、個人的には最初の方法で祈る方が好みです。これはもちろん、「現代科学に基づく宇宙像が間違っていて、古代ヘブライ人の世界観が正しいのだ」と信じこむことではありません。しかし、私たちは聖書を読む時に、そのナラティヴが創り出す物語世界をイメージし、その中に入り込んで、そこで起こるできごとを追体験し、その中で語られるメッセージを受け取ることができます。実はこれが、ナラティヴ一般の正しい読み方でもあると思います。私たちはルイスの「ナルニア国」やトールキンの「中つ国」が実在する場所でないことを知っていますが、それがあたかも実在する場所である「かのように」、想像力(イマジネーション)を用いてその中に入り込むことなしには、それらのナラティヴを本当に味わうことはできません。祈りにおいてもそのような想像力は大変重要であると思います。けれども、どうしても現代の科学的宇宙像を離れては神をイメージできないという人は、第2の方法で祈ることもできるでしょう。

いずれにしても、「天は本当はどこにあるのか」ということよりもっと重要なのは、「天と地はどのように関わっているのか」ということだと思います。祈りは天におられる神に対して、地に住む者たちがささげるものです。天と地はことなる領域です。私たちは、いつでも神の存在を身近に感じられるわけでも、神の意思が私たちの周囲でいつも実現しているわけでもないことを知っています。にもかかわらず、私たちが祈る時、天と地が重なり合い、天に通じる窓が開かれるのです。

(続く)

 

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(3)

その1 その2

今回は第2部、特にその中の第5章「神」について見ていきます。

第二部 太陽を見つめる
第5章 神
第6章 イスラエル
第7章 イエス―神の王国の到来
第8章 イエス―救出と刷新
第9章 神のいのちの息
第10章 御霊によって生きる

第1部でライトは、人間の持つ4種類の渇望について記し、それらがこの世界を越えたもう一つの世界、またそこから語りかけている存在(=神)を指し示していることを論じました。第2部ではこれを受けて、ではその「もうひとつの世界」あるいは「神」はどのようなものなのかについて、キリスト教が語る物語を紹介していきます。

第2部の冒頭に置かれた第5章は世界観の問題を扱った章で、本書の中でもきわめて重要な位置を占めている部分です。ここでライトは、神(と神のいる世界)が、私たちの世界とどのように関わっているのかについて、キリスト教がどのようなモデルを提供しているかを説明しますが、この部分はクリスチャンである読者の多くにとっても示唆に富むものであると思います。

まずライトは、そもそも「神」について考えるとはどういうことか、ということから説き起こします。

神についての大論争、すなわち神の存在、神の性質、この世界でなされる神のわざについての多くの論争は、太陽が輝いているのにそれを確かめようと、空に灯りをかざすような愚かな行為である。同じように簡単に陥りがちな過ちは、神がいるとしても、まるで私たちの世界にある独立した実在、あるいは音楽や数学のように、努力して学べば神に近づけると思って語ったり考えたりすることである。そして、この世界にある物体や存在を扱うのと同じテクニックで扱えるかのように思うことである。(中略)クリスチャンの立場から言えば、神について語るのは難しい。なぜならそれは、太陽を見つめるようなものだからだ。目がくらむ。それよりもっと簡単なことがある。太陽から目をそらし、陽が昇ったことですべてが明るく照らし出されている事実を楽しむことである。(82-83頁)

ここでライトが言おうとしていることは、神はもともとこの世界の中に存在しているお方ではないということです。宇宙空間をどこまで突き進んでいっても、決して神を見出すことはできません。人間が神を見出すことができるのは、神がご自身のいる世界から「こちら側」に現れるときにのみ、可能になります。つまり、神の世界と私たちの世界という二つの異なる世界が存在することになります。聖書では前者を「天」、後者を「地」と呼びます。もちろん、ヘブル語やギリシア語でも「天」という言葉は空間的な場所としての「空」を意味することもありましたが、それとともに「神の住処」としての重要な用法があります。そしてこの「天」は、一般に考えられている「天国」すなわち死者の魂が最終的に憩う場所、ということではなく、今現在神がおられる(この物質世界とは異なる)「場」なのです。そこで問題になるのが、そのような神の場としての「天」と人間の場としての「地」はどのように関わり合っているのか、ということです。ここでライトは世界観についての3つの選択肢を提供し、比較検討していきます。

選択肢1:神の場と私たちの場は重なりあって一体となっている

このタイプの世界観では、神の場と私たちの場は渾然一体となっています。神は世界のあらゆるところに存在し、世界そのものが神であるか(汎神論)、あるいは世界のすべてが神の中に含まれます(汎内在神論)。すべてのものに、そして自分の内面に神性を見出すことができるという考えは現代も人気がありますが、ライトによるとこの世界観の欠点は、悪の問題を扱うことができないということです。全てが神であるなら、なにか悪いことが起こった時に、一体どこに訴えたら良いのでしょうか?

選択肢2:神の場と私たちの場は明確に分けられている

2番目のタイプの世界観では、神(々)と人間とは互いにかけ離れており、無関係に生活しているとされます。神(々)は存在するとしても、地上の出来事には関心もなければ干渉することもないというのです。これは古代のエピクロス派の哲学や近代の理神論に見られる考えで、神を信じると言う現代人の多くもこのような世界観を持っているとライトは指摘しています。ライトは、この世界観の問題点は、彼が第1部で取り上げたような、この世界を越えた世界を指し示す「声」に耳をふさがなければならないことであると言います。恐らくライトが言いたいことは、このような世界観を持つ人々にとって、この世界を越えた神の世界への渇望を意識することは、(それが決して満たされることのないことを知っているがゆえに)耐えがたい苦痛をもたらすことになる、ということなのでしょう。つまり、ここでも悪の問題がその醜悪な顔をのぞかせていることが分かります。たとえ神々がいたとしても、彼らは地上に満ちている問題の解決には何の助けにもならないのです。

選択肢3:神の場と私たちの場は重なりあい、かみ合っている

最後のタイプの世界観は、古典的ユダヤ教とキリスト教に見られるものです。

天と地は完全に一体として重なり合ってはいない。しかし、その間に大きな溝があって隔てられているのでもない。その代わり、いろいろ異なった仕方で重なり合い、かみ合っている。(92頁)

これは1番目と2番目の世界観の中間にあるものと言えますが、それらのように白黒はっきりしたものではなく、複雑な様相を呈していますが、これこそがライトが本書で提唱していく世界観なのです。この世界観によると、神は天におられ、人間は地にいます。けれども、天と地は特定の時と場所において重なり合い、神が人と出会うことができるというのです。それは、聖書にしばしば登場する神顕現の記事(たとえば神が燃える柴においてモーセに現れたできごと)に見ることができますし、旧約聖書において天と地が重なる典型的な場所はエルサレムにある神殿でした。

さて、ライトによると、この(聖書的)世界観の利点は、悪の問題を適切に取り扱う(少なくとも真剣に受け止める)ことができることです。なぜ聖書の神はこれほどまでに地上の世界に積極的に関わり続けるのでしょうか?それは、ご自分が創造した世界に対する愛のゆえであるといいます。第1部で取り上げられた様々な「声の響き」は、世界と人間に対して語りかける神のラブコールにほかならないことが分かります。ライトによると、この神は「愛する被造物が堕落し、反抗し、その結果苦しみに陥っている事実を大変深刻に受け止めている」神です(96頁)。そして、神は事態を打開するために、行動を起こします。それが聖書に描かれている救いの物語(ストーリー)、イスラエルに始まり、ナザレのイエスにおいて一つのクライマックスに達し、終末において天と地が一つになることによって完結する物語なのです。

*   *   *

上にも述べたように、第5章は世界観について論じた章で、本書全体読み解く上でも中心的な重要性を持っています。クリスチャンであっても、ライトが提示する「キリスト教の(つまり聖書的な)世界観」に対して新鮮な驚き、あるいはむしろショックを覚える人がいるかもしれません。つまり、クリスチャンであるからといって自動的にある特定の世界観を持つようになるわけではない、ということです。

本書では特にライトは「選択肢2」の理神論的世界観に基づくキリスト教理解に厳しい批判の矢を向けています。

クリスチャンの信仰について広く普及している誤った理解の多くは、この点を既存の理神論の枠に当てはめて理解しようとするところからくる。理神論的キリスト教を次のように示すことができる。遠くかけ離れたところにいる厳格な神が、ある日、唐突に何ごとかを決断する。そして神がご自身の子をこの世界に遣わしたのは、彼を通してどのように私たちがこの世界から逃れ、神と一緒に住むことができるかを教えるためだった。そしてさらに、神ご自身の不可解で気まぐれな要求を満足させるため、残酷な運命をその子に課して断罪した、と。(96-97頁)

あるクリスチャンにとっては、このような批判は不当なカリカチュアに思えるかも知れません。けれども、理神論的な世界観が近代西洋のキリスト教、そしてその影響を受けた日本を含む非西洋世界のキリスト教に大きな影響力を及ぼしてきたことは確かであると思われます。そのような世界観を持つクリスチャンにとって神は普段の生活には何も影響をもたらさず、神を信じることの意義といえば、せいぜい死んだ後に天国に行くことができる、というだけのことです。したがって、そのような人々の生活態度は非キリスト教徒のそれと実質的にほとんど変わらないものになってしまっているのです。

米国の宣教学者・人類学者ポール・ヒーバートはこのような状態を「排除された中間領域の欠陥The Flaw of the Excluded Middle)」と呼んで批判しました。簡単に言うと、近代西洋キリスト教の世界観では、神が支配する超自然的な領域と、自然法則が支配する領域とが切り離されてしまい、両者が相互作用する中間の領域が欠落してしまっているということです。(余談ですが、2007年に亡くなったヒーバート教授は私の母校であるトリニティ福音主義神学校で長年教鞭を取っておられ、私の留学時にはまだ存命中でした。私は先生のクラスを取る機会はありませんでしたが、キャンパス近くの同じ教会に通っていました。)

またこれとは反対に、「選択肢1」の汎神論的世界観の影響を受けたキリスト教の危険もありうると思います。そこでは、神が私たちの地上での生活に積極的に関わっておられることが強調されます。それは時には超自然的な病のいやしや悪霊からの解放といったことがらも含みますが、より「自然な」関与もあるでしょう。このような地上の人間生活への神の関与は確かに聖書に書かれていることであり、ライトが提唱する「天と地が重なりあう」世界観とも適合します。これが「選択肢3」の世界観と異なるところは、目の前の地上的な問題の解決に過大な重要性を付与するあまり、それがクリスチャン生活の主要な関心事になってしまい、やがて天と地が一つになり、神がこの世界そのものを贖われるという終末的な視点が希薄になってしまうことです。同時に、現時点においては天と地は完全に重なっているわけではないという、「いまだ」と「すでに」の終末論的緊張関係が解消されてしまい、すべての問題が「いま、ここで」解決されるべきだと思い込んでしまう危険性もあります。

ライトが主張しているのは、「天と地が重なり合い、かみ合う」世界観を採用するならば、このような両極端の誤りを避けることができ、聖書のストーリーが意味をなすものとして理解できるということです。

(続く)

 

 

 

 

 

 

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(1)

このブログではこれまでの投稿の中でさまざまな本やウェブサイトを参照してきましたが、特定の著作についての感想やレビューを書いたことはありませんでした。これからはそういった「書籍紹介」の記事も書いていきたいと思います。

最初に取り上げるのは、最近邦訳が出版されたばかりのN.T.ライト著『クリスチャンであるとは(上沼昌雄訳・あめんどう)です。

NTWrightSimplyChristian

N.T.ライト(Nicholas Thomas Wright, 1948-)については本ブログでもしばしば取り上げてきましたので、読者はご存じの方も多いのではないかと思います。英国の世界的に著名な新約聖書学者で、現在はスコットランドのセント・アンドルーズ大学で教鞭を執っています。日本語で読める簡単な紹介としては、こちらのウィキペディアの記事をご覧ください。

ライトは専門的な聖書学の著作だけでなく、一般向けの著作も数多く世に問うていますが、日本ではこれまでその業績がなかなか知られていませんでした。いのちのことば社から出版されているコロサイ書・ピレモン書の注解書を除けば、今回の『クリスチャンであるとは』が邦訳された初めての著作になります。日本語版の副題が「N・T・ライトによるキリスト教入門」となっていますが、日本人にとっての「N・T・ライト入門」でもあるともいってよいでしょう。

とはいえ、日本でも数年前からライトに対する関心は高まっており、フェイスブック上には「N.T.ライトFB読書会」のグループがありますし(私もほとんど貢献できていませんが、メンバーに加えていただいています)、一般に公開されているものとしては「N.T.ライト読書会ブログ」もあります。そういった中で満を持して登場した本書ですので、おそらく他にもいろいろなところで書評が書かれていくのではないかと思います。(この原稿を用意している間にも、ミーちゃんはーちゃんさんのブログで本書の連載書評がスタートしました。かなり詳細に論じておられるので、長期連載になりそうです。)また上記のFB読書会では邦訳が出る前から原書を用いて本書についてのディスカッションが始まっています。

このような状況ですので、このブログでは本書の包括的で詳細な書評を試みるというよりは、本の内容を紹介しつつ、あくまで私の個人的な関心に沿ってつまみ食い的に感想を述べていきたいと思っています。最終的にはこれを読まれた方々が実際に本書を手にとってお読みになるためのアペタイザー的な役割を果たせればと願っています。

さて、「はじめに」の部分でライトは本書の執筆目的を簡潔に述べています。

私の目的は、キリスト教とは要するにどういうものなのかを記述し、信仰を持たない人にはそれを勧め、信仰を持っている人にはそれを解説することにある。(1-2頁)

本書の原書は2006年に出版されたSimply Christian: Why Christianity Makes Senseです。Simply Christian(日本語に直訳すると「ただ単にクリスチャンであること」とでもなるでしょうか)というタイトルは、C・S・ルイスの古典的名著Mere Christianity(邦題は『キリスト教の精髄』)を意識していると思われます。ライトは英国国教会の聖職者でもありますが、特定の教派の立場からではなく、プロテスタントですらなく、カトリックや正教会も含めたキリスト教信仰の最大公約数的な核心部分を提示したいという意欲を伺わせます。

さらに副題に注意したいと思います。Why Christianity Is True(なぜキリスト教が真理なのか)ではありません。Why Christianity Makes Sense(なぜキリスト教が意味をなすのか)です。もちろん、著者であるライトを含め、キリスト者は皆、キリスト教が真理であると信じています。しかし、ポストモダンの時代と言われる今日、多くの人々は客観的・普遍的な「真理」の存在をもはや信じられなくなっています。そのような人々に対して、キリスト教が真理であることを「証明」することはきわめて困難です。しかし、一度キリスト教という前提を受け入れるならば、私たちがこの世界で共通に体験している様々な現実を非常にうまく説明することができる。これがライトの言う、キリスト教が「意味をなす」ということなのだと思われます。

C・S・ルイスに次のような有名なことばあります。

私がキリスト教を信じるのは、太陽が昇ったのを信じるのと同じです。それを見ることができるからというだけでなく、それによって他のすべてのものを見ることができるからです。(I believe in Christianity as I believe that the Sun has risen: not only because I see it but because by it I see everything else.)

ライトもまさに、このような、世界をよりよく理解するためのレンズ、すなわち一つの有効な世界観としてキリスト教を提示しようとしていることが分かります。これはキリスト教の信仰内容を共有しない一般の読者に対して対話を呼びかけるには、とても良い方法であると思います。

けれども、ライト自身も言うように、本書は非キリスト教徒だけにむけて書かれているわけではありません。クリスチャンであっても、自分の信仰内容がどこか「意味をなさない」ということはままあるものです。聖書は神のことばであると信じているけれども、それが全体として何を教えているのかはっきりしなかったり、キリスト者としての自分の信仰と自分の生きている世界の現実とをどのように関係づけていったらよいのか分からなくて途方に暮れるということはよくあります。

本書はそのようなクリスチャンにとっても、たいへん有益な本であると言えます。ただし、次回以降に具体的に見ていくように、ライトの提示する「キリスト教の全体像」は、多くのクリスチャンが慣れ親しんできた「キリスト教」理解とはことなる可能性が(大いに)あります。ですから、本書は学術書ではありませんが、必ずしも「読みやすい」本ではありません。ライトが新鮮な視点から描き出してみせる「キリスト教」について、ある人々は拒絶反応をひきおこすかもしれません。けれども、彼の語る内容に注意深く耳を傾け、その主張を理解しようとする努力を惜しまなければ、たとえ最終的に彼の見解に賛成できなくても、本書を読む体験は決して無駄にはならないでしょう。

今回の邦訳出版にあたり、依頼されて本書の推薦文を書かせていただきました。あめんどうさんの了解を得て、最後にそれを引用します。

N.T.ライトはbig pictureの人である。本書は聖書を貫く神の物語(ドラマ)の全体像を強靱な神学的想像力でまとめ上げ、世界観のレベルにまで踏み込んで説得力を持って描き出すことに成功しているばかりでなく、その物語に読者も参加するようにと招いている。著者の提示する「キリスト教」は歴史的正統キリスト教信仰の伝統に根ざしながらも新鮮であり、ポストモダンの社会に生きる今日の人々にもアピールする力を持っている。クリスチャンのための「再入門」としても比類ないものがある。

(続く)

<付記>
個人的なことですが、私は2010年の米国福音主義神学会でライト教授にお会いしたことがあります。その時の様子をのらくら者さんのブログでご紹介いただいたことがありますので、興味のある方はお読みください。