映画「パウロ~愛と赦しの物語」

私はふだんあまり映画を観る方ではありませんが、先週の金曜日に、11月に日本公開される映画「パウロ~愛と赦しの物語」公式サイト)の試写会に行ってきました(ご招待くださったいのちのことば社様に感謝します)。日本公開前の映画ですので、その内容を細かく紹介することは控えたいと思いますが、試写を観た感想を簡単に記したいと思います。

この映画は使徒パウロの最後の日々を描いたものです。皇帝ネロによって帝都ローマのクリスチャンたちは壮絶な迫害を体験していましたが、その中で捕らえられたパウロは死刑を宣告され、牢獄で死を待つ身となっていました。そんなパウロを福音書記者ルカが訪れるところから話は始まります。ストーリーはこの二人と、ローマのクリスチャンたち、そしてパウロを収監するローマ人の看守長を中心に展開していきます。 続きを読む

ルカ文書の執筆年代

昨年秋から、クリスマス前後の休みを挟んで8週間にわたって開講されたeラーニング「ルカが語る福音の物語の講座が先日無事終了しました。40人ほどの方々が受講してくださいました。オンラインのディスカッションを通して、私自身ルカ文書についての理解を整理できたり、新たな気づきを与えられたりして、とても有意義な時を過ごすことができました。あらためてGrace-onlineと関係者の皆様にはお礼を申し上げます。

講座の中で配布した資料の中から、ルカ文書の執筆年代について書いたものを、多少修正の上ここに掲載します。

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聖書の各書巻の執筆年代については、正確な数字をピンポイントで確定できず、人によって意見に幅のあることが多いです。注解書などに書かれている年代はあくまでも学者による推定(educated guess)に過ぎないことに留意し、断定的な態度を取らないことが重要です。 続きを読む

大きな喜びの知らせ

クリスマスおめでとうございます。このクリスマスに行った説教に手を加えたものをアップします。

8  さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。9  すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。10  御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。11  きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。12  あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。13  するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
14  「いと高きところでは、神に栄光があるように、
地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。

15  御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。16  そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。17  彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。18  人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。19  しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。20  羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。
(ルカ2章8-20節)

日本でも年中行事の一つとしてすっかり定着したクリスマスですが、本来はイエス・キリストの誕生をお祝いするキリスト教の祝日です。ただし、12月25日にキリストの降誕を祝うようになったのは後の時代の話で、聖書にはイエスさまが実際何月何日にお生まれになったかは書いてありません。イエスさまがいつお生まれになったかよりも大切なのは、どういう状況でお生まれになったか、ということです。

聖書の中でイエス・キリストの誕生のようすを詳しく書いてところは2箇所ありますが、今日はその中でルカの福音書から、聖書の世界に分け入っていきたいと思います。 続きを読む

ルカ文書への招待(4)

  

Equipper Conference 2016に向けたルカ文書の入門コラムとその補足、第4回は、ルカ文書の序文についてです。

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ルカが語る福音の物語④ 「『みことば』の書」

どのような本であっても、序文というのは、その本を理解するために欠かせないものです。序文には、その本が何について、どのような目的で書かれたのかが記されています。今回は、ルカ文書(ルカの福音書と使徒の働き)の序文を見てみましょう。 続きを読む

「あなたの信仰があなたを救った」(4)

その1 その2 その3

前回の投稿では、ルカ福音書における「信仰」の概念は、ローマ帝国や旧約聖書における「信仰(あるいは信頼)」の概念とつながるものであることを見ました。イエスに対するクリスチャンの「信仰」は、ローマ皇帝が臣民に対して要求した「信頼(忠誠)」と同様のものとして考えることができます。しかし、イエスに対する「信仰」と、皇帝に対する「信頼」とは異なる側面もあります。今回は、両者の間の連続性ではなくて非連続性の側面について見ていきたいと思います。その再注目するのは、ルカがイエスをどのような種類の「王」として描いているか、ということです。 続きを読む

平和の君(2)

その1

14  キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、15  数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、16  十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。17  それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。
(エペソ2章14-17節)

前回はエペソ書におけるパウロの議論から、王なるキリストが教会と世界に平和をもたらす方であることを見ました。

ところで、この箇所でパウロは、キリストはこの平和の福音を遠くの人(異邦人)にも、近くの人(ユダヤ人)にも宣べ伝えられた、と述べています(17節)。「平和を宣べ伝える」というと、現代の私たちは何かプラカードを掲げて行進する平和運動の活動家のような存在を想像するかもしれませんが、新約聖書が書かれたローマ時代には、平和をもたらし、平和を宣べ伝えるのは、世界の主である支配者のすることだったのです。

「ローマの平和」とキリストの平和

新約聖書が書かれた当時、ローマは地中海世界を支配し、それらの地域においては空前の平和と繁栄の時代が訪れていました。これを「ローマの平和 Pax Romana」といいます。ローマ帝国は、ローマの支配によって世界に平和が訪れた、と主張しました。特に初代皇帝のアウグストゥスは、ローマの内戦を終わらせて世界に平和をもたらした存在として称賛され、時には神として崇拝されました。「平和 Pax」はローマ帝国の重要な価値概念の一つでした。パクスはまた平和の女神でもあり、アウグストゥスが皇帝になる前に鋳造したコインにもパクスの姿が描かれています。アウグストゥスは前9年、ローマに平和の祭壇Ara Pacisを築きました。しかし、アウグストゥスはまた、「平和は勝利を通してもたらされる」とも言いました。ローマの平和と繁栄は強力な軍隊による広大な地域の征服を前提としていたのです。

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平和の女神Pax(右)をあしらったコイン
(Image by Classical Numismatic Group, Inc.  via Wikimedia Commons

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平和の祭壇
(Image by  Manfred Heyde via Wikimedia Commons

つまり、パウロがエペソ書を書いた当時のローマ市民は、「平和」と言えばローマの平和、ローマ皇帝が力によってもたらした平和、と考えていたのです。けれどもパウロは、真の平和は皇帝ではなくイエス・キリストによって与えられると言うのです。つまりパウロは、ローマ皇帝ではなくイエス・キリストこそが世界の主であると言っているのです。

ローマの平和と同じく、キリストによる平和もまた、戦いによって勝ち取られる平和です。しかし、その戦いの性格はローマ皇帝のものとは全く異なっています。キリストは天にあって神に敵対する霊的勢力に勝利されました(エペソ1章20-22節)。その勝利のモニュメントとして神が地上に建設しているのが、平和の祭壇ならぬ神の宮としての教会です(2章20-22節)。そして教会は地においてその戦いを継続する存在です(6章10-20節)。(エペソ書における霊的戦いについては過去記事「エペソ書とキリストの戦い」をご覧ください。)そして、キリストの勝利はローマ皇帝がしたような暴力的な軍事力とはまったく正反対の方法によって勝ち取られました。この「平和の君」はローマの支配下にあったユダヤの寒村に貧しい幼子として生まれ、まさにローマの暴力的支配の象徴である十字架につけられて殺されることになります。けれども神はこのキリストをよみがえらせ、すべての敵よりも高く挙げられました。

キリストの平和を宣べ伝える

さて、エペソ2章17節に戻りますと、キリストは遠くの者にも近くの者にも平和を宣べ伝えられた、とあります。しかし、「キリストが平和を宣べ伝えられた」とは何を意味しているのでしょうか?上にも述べたように、平和を宣べ伝えるというのは、世界の支配者のすることでした。しかし、ローマ皇帝自身が実際に帝国中をくまなく行きめぐって平和を宣べ伝えるわけではありません。実際に平和の知らせを宣べ伝えたのは、彼の臣下たちだったのです。パウロはこの節で「遠くにいたあなたがたに平和を宣べ」と書いていますが、本書の読者である小アジアの異邦人たちに実際に平和の福音を宣べ伝えたのは、パウロ自身でした(使徒18章19節、19章1節以下)。つまり、王であるキリストご自身は天の父なる神の右に着座しており、地上ではそのしもべである使徒たちが地上においてキリストの平和を宣べ伝えているのです。あるいは、キリストの霊である聖霊が使徒たちを満たしていたということから、キリストご自身が平和を宣べ伝えた、と理解することもできるでしょう。

いずれにしても、王なるキリストが実現した平和を宣べ伝えるのは、クリスチャンの務めであることは明らかです。新約聖書ではこのことをさまざまな箇所に見ることができます。すでに公生涯においてイエスは弟子たちを「平和をつくり出す人たち」と呼び(マタイ5章9節)、弟子たちは遣わされた先の家で「平和がこの家にあるように」と告げるように命じられました(ルカ10章5節。ここのギリシア語エイレーネーは多くの日本語訳聖書では「平安」と訳されていますが、個人的には「平和」と訳す方がよいと思います)。パウロが手紙の冒頭の挨拶として好んで用いた表現は、父なる神とイエス・キリストから「恵みと平和(平安)があるように」というものでした。さらに、パウロはエペソ6章の神の武具の箇所で、クリスチャンたちに「平和の福音の備え」を足にはきなさいと命じています(15節)。ちょうどローマ皇帝のもたらした平和を、ローマの役人や兵士たちがその領土の隅々にまで告げ知らせたように、キリストのしもべであり兵士でもあるクリスチャンは、キリストの平和を地の果てにまで宣べ伝える存在です。そしてそのことは、私たちがイエスの十字架に従って生きる時になされていくのだと思います。

クリスマスは、「平和の君」として来られたイエス・キリストの降誕をお祝いする時です。それは同時に、キリストの到来によってもたらされた平和を宣べ伝える教会の務めを改めて思い起こす時でもあると思います。

平和の君なる 御子を迎え
救いの主とぞ ほめたたえよ
(讃美歌112番「もろびとこぞりて」)

平和の君(1)

ルカの福音書によると、イエスが誕生した夜、野宿をしながら羊の番をしていた羊飼いたちに天使が現れて、救い主の誕生を告げました。その時天の軍勢が現れてこう歌ったと記されています。

「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。(ルカ2章14節)

天使はそれに先だって、羊飼いたちにこう語っています。

きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。(11節)

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ダビデの町に救い主(キリスト=メシア)が生まれたというこのメッセージは、この時に誕生した幼子は王であるということを示しています。ルカが世界の王としてのイエスの誕生を、ローマ皇帝との対比の中で描いているということについては、過去記事「本当は政治的なクリスマス物語」で述べました。

さて、天使の合唱は、王なるキリストの誕生を「地に平和がもたらされる」という概念と結びつけて歌っています。王が支配するということは、地に平和をもたらすことにほかならないのです。このことは、次のイザヤ書の預言を思い起こさせます。

ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、
ひとりの男の子がわれわれに与えられた。
まつりごとはその肩にあり、
その名は、「霊妙なる議士、大能の神、
とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、
ダビデの位に座して、その国を治め、
今より後、とこしえに公平と正義とをもって
これを立て、これを保たれる。
万軍の主の熱心がこれをなされるのである。
(イザヤ9章6-7節)

イエスはまさに、旧約聖書が約束していた「平和の君」としてお生まれになったのです。

 

旧約聖書における平和(シャローム)

「平和」という言葉はヘブル語では「シャローム」といいます。「平和」というと世の中に戦争や争いのない状態、という政治的・社会的な概念をまず思い浮かべるかもしれませんが、聖書的なシャロームはもっと広い概念であり、「完全性、健康、安全、繁栄、幸福、救い」といった様々な概念を含む言葉です。それは個人の状態を表すことも、人と人の関係、また人と神の関係を表すこともあります。要するに「シャローム」とは、人間や社会が理想的な幸福な状態にあることを描いていると言えます。イザヤ書ではバビロン捕囚からの解放という「良い知らせ(福音)」は、神が王となられたというできごとと、その結果もたらされる平和(シャローム)との関係で語られています。

よきおとずれを伝え平和を告げ
よきおとずれを伝え、救を告げ、
シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と
言う者の足は山の上にあって、
なんと麗しいことだろう。
(イザヤ52章7節)

旧約聖書では、終わりの日に訪れる神の最終的な救い、つまり神の国の訪れが「シャローム」という言葉で描かれています。そして、この最終的なシャロームをもたらすのがメシヤと呼ばれる存在でした。上で見たイザヤ書にあるように、この来るべきメシヤは「平和の君」と呼ばれます。またこの王は平和を告げ知らせる存在として描かれます。

シオンの娘よ、大いに喜べ、
エルサレムの娘よ、呼ばわれ。
見よ、あなたの王はあなたの所に来る
彼は義なる者であって勝利を得、
柔和であって、ろばに乗る。
すなわち、ろばの子である子馬に乗る。
わたしはエフライムから戦車を断ち、
エルサレムから軍馬を断つ。
また、いくさ弓も断たれる。
彼は国々の民に平和を告げ
その政治は海から海に及び、
大川から地の果にまで及ぶ。
(ゼカリヤ9章9-10節)

 

キリストによる平和

この約束を成就したのが、イエス・キリストです。パウロは「キリストはわたしたちの平和」であると述べています。

14  キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、15  数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、16  十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。17  それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。
(エペソ2章14-17節)

エペソ書の中心的主題は「教会」です。パウロは2章で、以前は敵対していたユダヤ人と異邦人がどのように十字架によって一つとされたか、ということについて語ります。キリストは二つのグループの間にあった隔ての壁を打ちこわし(14節)、敵意を廃棄されました(15節)。パウロはこの敵意とは律法であるといいます。律法は二重の敵意、二重の壁を生み出します。一方ではユダヤ人と異邦人を分断し(なぜなら律法はユダヤ人にしか与えられていないから)、他方では人類と神との間の断絶を作り出すのです(なぜなら、ユダヤ人も異邦人も、律法に適う生き方をすることができないから)。

けれどもキリストはユダヤ人と異邦人の間、また人類と神の間にある二重の壁を打ち壊されました。キリストにあって、ユダヤ人と異邦人は和解して一つの神の民となることができるのです。それをパウロは「ひとりの新しい人」(15節)と呼びます。それはただ単にユダヤ人と異邦人が仲良くするということではありません。またユダヤ人が異邦人のようになることでも、その逆でもありません。キリストにある者は、ユダヤ人も異邦人も超越した新しいアイデンティティを獲得するのです。それだけではありません。そのようにして一つとされた神の民は、今度は神ご自身と和解することができるのです(16節)。

このようなパウロにおける「平和」の概念は、キリストが死からよみがえって神の右に着座され、すべてにまさって高く挙げられたお方である(エペソ1章20-22節)、という彼の理解と切り離して考えることはできません。キリストが王として治められるところには、平和があるのです。

(続く)

 

もう一つの座標系

ひとつ前の記事「アドベント―夜明けを待ち望む」で教会暦について書きましたが、「ミルトスの木かげで」のブログではちこさんが教会暦を用いたカレンダーを紹介し、その説明文を引用しておられました。

一般のカレンダーは、ローマ帝国に起源があります。ローマ帝国では、役人たちが一月一日に就任するのです。それとは異なる教会暦カレンダーのフォーマットは、私たちは神の時間の中に生きる、神の国の民であることを日々思い起こさせてくれます。

はちこさんのブログ記事のタイトルは「Happy Christian New Year!」です。つまり、クリスチャンにとっては1月1日ではなくアドベントの始まりが新年なのだということです。そこに表現されている、この世の時間とは異なる「神の時間の中に生きる」感覚はとても大切だと思わされました。クリスチャンは「天に国籍を持つ」存在であり(ピリピ3章20節)、この世と異なる世界観・時空観を持って生きるべき存在です。そのことヨハネの黙示録から見てみたいと思います。

ヨハネが生きていた当時のローマ帝国では、世界は皇帝によって定義されていました。世界の中心は皇帝の住む首都ローマであり、皇帝の家系はギリシア・ローマ神話の神々と結び付けて描かれることによって、世界の始まりと関係づけられていました。そして初代皇帝であるアウグストゥスの到来が人類史の黄金時代の幕開けであると考えられて(宣伝されて)いたのです。つまり、ローマのイデオロギーにおける世界は、首都を中心とした空間軸と、神話的起源からアウグストゥスの到来に至る時間軸によってとらえられていたのです。このような「座標系」は、人々にある特定のしかたで時間と空間を経験し、特定の物語(ナラティヴ)を生きることを要求し、したがって彼らに特定のアイデンティティを与えます。

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アウグストゥス(Photo by Alexander Z.

ところがヨハネが神から受け取った啓示は、これとはまったく異なる時空観を持っていました。彼が見せられた幻では、世界の中心は天にある神の御座でした(4-5章)。この王座から神はすべてを支配しておられるのです。

そして、黙示録における時間は、歴史における三つの重要なポイントによって枠付けられています。最初のポイントは歴史の起点である世界の創造です。このことは黙示録における神が万物の創造者として描かれていることから分かります。

「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。(4章11節)

神による創造によって始まった世界の歴史は、二つの出来事によって新しい段階を迎えます。このことをヨハネは「新しい」(ギリシア語kainos)という形容詞を用いて表現しています。ひとつ目は、小羊キリストによる救済のみわざです。ヨハネの見た天の御座の幻では、5章で小羊キリストが登場し、天使たちがその十字架のあがないをたたえます。

彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。 (5章9-10節)

ここで彼らが歌っているのが「新しい歌」と呼ばれているのは、キリストの救済のわざによって、人類の歴史が新しい段階に入ったことを示しています。

けれども、ヨハネの幻の中ではさらに「新しい」できごとが起こります。それは終末における再創造のわざです。

わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。(21章1-2節)

つまり、黙示録における時間軸は創造からキリストによる救済を経て新創造へと至るものであることが分かります。上の引用箇所では、宇宙の中心である神の御座が新しいエルサレムという形で天から地上へとシフトしてくるダイナミックな動きを見ることができますが、空間的中心は礼拝の対象たる神と小羊であることは変わりません。

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黙示録の世界観

世界の中心は皇帝のいるローマではなく神と小羊の御座であり、新しい時代の始まりは皇帝の到来ではなくイエスの到来でしるされ、それは来るべき新天新地の希望へとつながっていく・・・。これが黙示録の提示している空間軸と時間軸です。ヨハネが提供しているのは、私たちが生きるべき新しい「座標系」、新しい物語、新しいアイデンティティです。

キリスト教信仰とは、この世から隔絶した別世界(「天国」)を夢想する思想ではありません。そうではなく、この現実世界に対するもう一つの見方、世界観を提供するものです。クリスチャンはイエスの到来を起点とする「新しい暦」に従って生き、イエスが来られたことを祝う「新しい歌」を歌い、つねに宇宙の中心である神と小羊の御座を見つめながら生きる存在です。それはこの世から逃れて生きることではなく、この世にありながらこの世とは別の座標系を持って同じ現実を見つめ、そこに新しい意義を見出して生きていくことだと思います。

なお、聖書のクリスマス物語とローマ帝国の関係については、昨年書いたこの記事をご覧ください。

御国を来たらせたまえ(補)

(本シリーズの過去記事         

本シリーズは一応前回で終了のつもりだったのですが、はちこさんこと中村佐知さんのブログ「ミルトスの木かげで」上でとても重要なご質問をいただきました。これは本シリーズでこれまで述べてきたこと全体の理解に関わる問題ですので、それに応答する形で補足記事を書きたいと思います。

詳しい質問の内容はリンク先のブログ記事を見ていただくとして、このご質問の核心は、「世の終わりに神(と神の民)が『支配する』とはどういう意味なのか?」ということだと思います。

このシリーズでも繰り返し、「神の国basileia」とは神の王としての支配であり、「御国が来る」とは神が天のみならず地においても王となられて支配されることだと書いてきました。けれども、「支配」というと何か自分の意に沿わない存在を力づくで従わせるようなネガティブなイメージがあり、永遠の至福の状態というクリスチャンの希望とはどこか相容れない違和感を感じる人々もおられると思います。

この問題を考える時には、神が「王」であるとはどういうことか、王なる神が「支配」するとはどういう意味かについて、聖書的な正しい理解を持つ必要があります。その鍵になるのが次の聖書箇所です。

24  それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。  25  そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。  26  しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。」(ルカ22章24-26節)

ここでイエスは、世の中一般における「支配」の理解(「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。」)と、神の国における「支配」(「あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。」)を対比しています。つまり、神の国における「支配」とは、この世の王国のような暴力と強制によるのではなく、愛と謙遜にもとづく奉仕によるものであると言えます。そして、このような神の国における「王権」「支配」のあり方を身を持って示してくださったのがイエスご自身なのです。

「神が王である」ということは旧約聖書から一貫して見られる聖書の主張です。しかし、イエス・キリストにおいてはじめて、そのことの真の意味が明らかにされました。イエス時代のユダヤ人のメシヤ観は一様ではありませんでしたが、最も広く受け入れられていたのは、「メシヤはダビデの家系に属する王である」というものでした。来るべき救い主は、異邦人(この場合はローマ帝国)の支配を打ち破って、神の民を解放してくれるような、軍事的・政治的指導者と考えられていたのです。

さて、そのような王なるメシヤへの期待感が広がる1世紀のユダヤに登場したのがナザレのイエスでした。たとえば福音書におけるイエスのエルサレム入城の記事を見ると、群集がイエスを王として歓迎していることが伺えます(たとえばマタイ21章1-9節)。ところが、イエスはローマへの反乱を率いるどころか、逆に捕らえられてローマ人の手によって十字架刑に処されてしまいます。イエスが多くのユダヤ人が期待していたような種類の「王」でないことは明らかでした。しかし、十字架上で死なれたイエスは三日目によみがえり、弟子たちに現れてこう言われます。 「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」(マタイ28章18節)つまり、イエスは真の王であることが明らかにされたのです。

実際、マタイ福音書の受難記事で、イエスはくりかえし「王」と呼ばれています(27章11、29、37、42節)が、ここには二重のアイロニーが含まれています。つまり、人々はイエスが(本当はそうでないのに)ユダヤ人の王を自称した、ということでイエスを十字架につけたわけですが、マタイと福音書の読者には彼が本当の王であることが分かっているのです。イエスはダビデの家系に属する王なるメシヤとして、確かにイスラエルの救いをなしとげました。しかしそれは、人々が思っていたように武力を用いてローマを打倒することによってなされたのではなく、十字架の上でいのちを捨てることによってなされたのです。イエスはまさに「仕える王Servant King」ということができるでしょう。

さて、このことは冒頭のご質問にあった、終末における神の国の支配とどのように結びつくのでしょうか?多くの人々は、確かに初臨のイエスは十字架にかけられた無力な姿で来られたけれども、再臨のイエスはそれとはうって変わって力と栄光に満ちた姿で地上に到来し、この地上の権力を力で滅ぼす王であると考えています。つまり、多くの人の思い描く終末の王としてのイエスのイメージは、当のイエスがまさに批判したところの、この世の王たちの姿と何ら変わらないのです。

しかし、このような一般的イメージが間違っていることは、以前書いた黙示録についてのシリーズで論じましたので、そちらをご覧ください(黙示録における「福音」     )。再臨のキリストが悪に打ち勝たれるのは、ローマやバビロンのような暴力によってではなく、十字架に表されているような自己犠牲的な愛によるのです。そして、新天新地で神が王として永遠にすべ治めるということも、同じように考えるべきだと思います。上で引用したルカ福音書の箇所にあるように、もしイエスがこの世的な支配のあり方を否定し、弟子たちにそれとは反対の生き方を教えながら、世の終わりにイエスご自身がこの世的な支配のあり方に逆戻りするとは考えられません。やがて来るべき世界の王の姿は、十字架にかけられたイエスの姿において既にはっきりと示されているのです。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」お方です(ヘブル13章8節)。

このように考えてくると、「神の国が地上に到来する」「神がすべての王となられる」「神の民が神の支配に参加させていただく」といった、本シリーズで何度も述べてきたことがらを、この世的な王や支配のイメージで考えてはならない、ということが分かります。黙示録において世々にわたって世界を統べ治める王は、ほふられた小羊としてのキリストです。神の国における「支配」を考える時に、私たちは十字架にかけられたイエスというレンズを通して考えなければならないのです。つまり、神の国における支配とは、自己犠牲的な愛による奉仕にほかならないのです。

本シリーズで見てきたように、クリスチャンの究極的な希望は、神が王として世界のすべてを支配し、神の民もその支配に参加させていただくことです。一方、新約聖書が記しているもう一つの終末的ビジョンは、三位一体の神が永遠の昔から持っておられる愛の交わりの中に、神の民が参加することです(ヨハネ17章21-26節、1ヨハネ1章3節、4章12-16節)。以上述べてきたことから、この二つは別々のことがらではなく、同じものを指していると考えることができます。

神と神の民が世の終わりにすべてを支配する王となるということは、すべての存在が互いに愛をもって仕えあい、神の造られた素晴らしい被造物世界をいつくしみをもって管理していくということです。言い換えれば、終末において完成する「神の国」とは、三位一体の神のアガペーの愛によってすべてが覆い尽くされた世界のことなのです。