オープン神論とは何か(4)

その1 その2 その3

第2回、第3回の投稿では、オープン神論の聖書的根拠について、ごく簡単に概観しました。これまで述べてきましたように、オープン神論の特徴的な主張は、「未来は部分的に開かれている」ということです。今回はこの点についてもう少し詳しく説明していきたいと思います。 続きを読む

復活のキリストの現われ

ヨハネの福音書21章には、復活したイエスがテベリヤ湖(ガリラヤ湖)でペテロと他の6人の弟子たちに現れたできごとが書かれています。

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話の筋を追うのは難しくありません。ペテロたちが漁に出て、夜通し働いても何も獲れなかったのが、そこに現れたイエスの助けによってたくさんの魚を獲り、その後イエスと一緒に食事をした、というものです。15節からは、イエスがペテロに「わたしを愛するか。」と三度問いかける有名な問答が描かれています。そして21章の最後には、ペテロがどのような死に方をするかについてのイエスの予告(18-19節)と、「イエスの愛しておられた弟子」すなわち福音書記者ヨハネの運命について述べられています(20-23節)。

ふつう、この章はヨハネ福音書の20章までがひとまず完成した後に(ヨハネ自身によってであれ他の人間によってであれ)付け加えられた部分であると論じられることが多いです。その目的は、一つには初代教会のリーダーであったペテロの「回復と再召命」について記すこと、そして、著者のヨハネがイエスの再臨までは死なないという噂があったのに対して、その誤解を解くことが目的であったとされます。しかしこの記事では少し違った角度からこの章を読んでみたいと思います。 続きを読む

確かさという名の偶像(9)

(シリーズ過去記事        

少し間が空いてしまいましたが、グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズを続けます。今回は第3章「確実性という偶像」の続きです。

「神学」や「聖書」という偶像

あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。(ヨハネ5章39-40節)

ユダヤ人の宗教指導者たちとの対話の中で、イエスは彼らが熱心に(旧約)聖書を研究し、それに精通していたにもかかわらず、聖書が指し示している、「いのち」の源であるイエスご自身のもとに来ようとしないことを指摘しました。ボイドはこの箇所から、聖書を知り、聖書に基づいた教えを信じていたとしても、それが彼らをイエスに導くことがなければ、彼らは聖書から「いのち」を得ることができないと言います。前回定義したように、偶像とは私たちが「いのち」を得ようとして神の代わりに用いようとするあらゆるものを指します。したがって、このユダヤ人指導者にとって聖書は偶像になっていたということができます。ボイドは言います:

このエピソードは、私たちが何かを信じる信じ方によっては、私たちが信じるその何かは偶像になってしまい、キリストから「いのち」を得ることの妨げとなることがある、ということを示している。そしてそれは、私たちの信じている内容が完全に正しいものであったとしても、そうなのである!そしてこのような事態は、私たちが「いのち」の唯一のまことの源であるお方との関係のゆえではなく、私たちが信じていることがらのゆえに、自分は神とうまくやっていると確信するときには、いつでも起こるものだ。もし自分の信条の正しさに対する確信によって、私たちが神とうまくやっていると感じているとしたら、自分の信条についての確信は、事実上私たちの神となっているのである。これによって私たちは「いのち」についての偽りの感覚を持ってしまうのだ。(p. 63)

ボイドはさらに、このような信仰的態度は、誤った神観に基づいていると言います。つまり、ユダヤ人宗教指導者が前提としている神は、熱心な聖書研究や正確な聖書知識を人間そのものよりも尊ばれる神だということです。このような神観は、十字架において啓示されたまことの神の姿よりも確実に劣ったものであると彼は言います。そして、あらゆる罪と偶像礼拝の根源には、このような誤った神観、信頼の置けない、「いのち」を与えることのない神のイメージがあるというのです。

ボイドはこのことを結婚を例にして説明します。二人の人間が結婚するとき、夫婦はお互いに相手がどのような人間であるかについて、さまざまなことがらを信じて、結婚の誓約を交わします。相手についてのそれらの信念が正確なものであるか、二人は絶対的な確信を持っているわけではありませんが、ある一定レベル以上の確信があるならば、残りの生涯を通して相手に対して献身するという決断をすることができるわけです。ボイドによると、結婚生活においては相手に関する知識の確実性を追求することよりも、不確実な見通しの中でも相手の人格に対して進んで献身することが重要なのです。そして、それはまさに私たちと神との関係についても言うことができます。神との関係において重要なのは私たちの神に関する信念の確実性よりはむしろ、私たちがそのような信念を通して信じている神という人格(ペルソナ)なのです。

*     *     *

ここでボイドが述べている主張は大変重要なものであると思います。ボイドの議論の核心にあるのは、クリスチャンにとってもっとも重要なのは私たちが信じている内容の絶対的正確さやそれについての確信ではなく、キリストを通した神との人格的な関係である、ということです。ボイドは熱心に聖書を学ぶことや正しい神学的知識を持つことの重要性を決して否定しているわけではありませんが、それらは目的ではなく、あくまでも私たちがイエスを通して神と関係を持つための手段に過ぎないことを忘れてはならないと警告するのです。

教会史における最初期の異端にグノーシス主義と呼ばれるものがあります。「グノーシス」とはギリシア語で「知識」という意味です。グノーシス主義についてひとくちで説明することは大変難しいのですが、ここでの議論との関連で重要と思われる点だけを指摘すると、グノーシス主義とは神と自己に関するある特別な「知識(グノーシス)」を得ることによって救われる、という宗教・思想運動でした。

グノーシス的な救済は無知からの救いであって、罪からの救いではない。知識は救いの手段ではなく、救いそのものであった。(Everett Ferguson, Backgrounds of Early Christianity, 3d ed., p. 310)

実はこのようなグノーシス主義的な考え方は、形を変えて現代のキリスト教会の中にも見られるのではないかと思います。ある人々は教理的正確さにこだわるあまり、あたかもそれがクリスチャンの信仰生活にとって最も重要なゴールであるかのようにとらえ、人の永遠の救いは、いかに正しい神学を身につけるかによって決まると考えています。そうすると、ある特定の教理を信じるかどうかということが、救われるかどうかを左右するということになります(その「特定の教理」の内容は人によってさまざまに定義されますが)。このようなタイプの信仰者にとって、教理的な意見の相違は非常に重大な意味を持っており、この点において意見の異なる人々との交わりを拒んだり、極端な場合は彼らの救いを否定したりすることも少なくありません。

しかしこれは、人は神についての正しい神学的知識を得ることによって救われる、というグノーシス的な発想にほかならないと思われます。そしてこのような考え方はさまざまな問題を含んでいると思われます。

第一に、限界のある人間存在が、はたして神に関する完全な知識に到達することは可能なのかという疑問があります。二千年もの間、教会はさまざまな神学論争に明け暮れてきましたが、いまだに全キリスト教会が合意できるような「完全な神学」を持つには至っていません。それに、各人の神学もその信仰人生の歩みに伴い変化していきます。したがって、「完全な神学的正確さ」を追求することは非現実的ですし、ましてやそれを救いの基準にすることはできません。

第二に、神は人間を救われるかどうかを、その知識の量や正確さによって決定されるのか、ということははなはだ疑問です。もしそうだとすると、神学の博士号を持っている人間は、ちいさな子どもよりもより救いに近いことになりますが、必ずしもそうではないように思います。上の結婚のたとえで言うと、夫が妻の誕生日を一日間違えたからといって、それが離婚の理由になるでしょうか?聖書は神と人との関係を父親と子どもにもたとえていますが、子どもが父親のあらゆることについて正確な知識を持っていなければ愛されないということはありません。

ボイドが言うように、この問題は私たちが神をどのようなお方としてイメージしているかに関わってきます。私たちの信じている神は、及第点に達しなければ容赦なく落第させる厳格な教師のような神でしょうか?それとも、私たちの不完全さにかかわらず、子であるがゆえに愛し導いてくださる父親のような神でしょうか?

もちろん、どのような存在であれ、相手と意味のある人格的関係を持つことができるためには、相手についてある程度の知識を持っている必要があります。そして、交わりを深めていくにつれて、相手のことをもっと良く知りたいと思うようになるのは自然なことでしょう。ですから、神学が神との交わりの中に不要であるとか意味がないということではありません。しかし、私たちが神との人格的交わり以上に神学や聖書の知識を重視していくとき、それは私たちにとって偶像になっていくのです。

人は救いに関する特定の教理を信じることによって救われるのではありません。たとえば、「人は信仰によって義とされる」という聖書の教えは、「信仰義認の教理を信じることによって救われる」ということではありません。そうではなく、イエス・キリストと出会い、この方を主として信頼し、生きた人格的つながりを持っていく時に人は救われるのです。

(続く)

御国を来たらせたまえ(補)

(本シリーズの過去記事         

本シリーズは一応前回で終了のつもりだったのですが、はちこさんこと中村佐知さんのブログ「ミルトスの木かげで」上でとても重要なご質問をいただきました。これは本シリーズでこれまで述べてきたこと全体の理解に関わる問題ですので、それに応答する形で補足記事を書きたいと思います。

詳しい質問の内容はリンク先のブログ記事を見ていただくとして、このご質問の核心は、「世の終わりに神(と神の民)が『支配する』とはどういう意味なのか?」ということだと思います。

このシリーズでも繰り返し、「神の国basileia」とは神の王としての支配であり、「御国が来る」とは神が天のみならず地においても王となられて支配されることだと書いてきました。けれども、「支配」というと何か自分の意に沿わない存在を力づくで従わせるようなネガティブなイメージがあり、永遠の至福の状態というクリスチャンの希望とはどこか相容れない違和感を感じる人々もおられると思います。

この問題を考える時には、神が「王」であるとはどういうことか、王なる神が「支配」するとはどういう意味かについて、聖書的な正しい理解を持つ必要があります。その鍵になるのが次の聖書箇所です。

24  それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。  25  そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。  26  しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。」(ルカ22章24-26節)

ここでイエスは、世の中一般における「支配」の理解(「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。」)と、神の国における「支配」(「あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。」)を対比しています。つまり、神の国における「支配」とは、この世の王国のような暴力と強制によるのではなく、愛と謙遜にもとづく奉仕によるものであると言えます。そして、このような神の国における「王権」「支配」のあり方を身を持って示してくださったのがイエスご自身なのです。

「神が王である」ということは旧約聖書から一貫して見られる聖書の主張です。しかし、イエス・キリストにおいてはじめて、そのことの真の意味が明らかにされました。イエス時代のユダヤ人のメシヤ観は一様ではありませんでしたが、最も広く受け入れられていたのは、「メシヤはダビデの家系に属する王である」というものでした。来るべき救い主は、異邦人(この場合はローマ帝国)の支配を打ち破って、神の民を解放してくれるような、軍事的・政治的指導者と考えられていたのです。

さて、そのような王なるメシヤへの期待感が広がる1世紀のユダヤに登場したのがナザレのイエスでした。たとえば福音書におけるイエスのエルサレム入城の記事を見ると、群集がイエスを王として歓迎していることが伺えます(たとえばマタイ21章1-9節)。ところが、イエスはローマへの反乱を率いるどころか、逆に捕らえられてローマ人の手によって十字架刑に処されてしまいます。イエスが多くのユダヤ人が期待していたような種類の「王」でないことは明らかでした。しかし、十字架上で死なれたイエスは三日目によみがえり、弟子たちに現れてこう言われます。 「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」(マタイ28章18節)つまり、イエスは真の王であることが明らかにされたのです。

実際、マタイ福音書の受難記事で、イエスはくりかえし「王」と呼ばれています(27章11、29、37、42節)が、ここには二重のアイロニーが含まれています。つまり、人々はイエスが(本当はそうでないのに)ユダヤ人の王を自称した、ということでイエスを十字架につけたわけですが、マタイと福音書の読者には彼が本当の王であることが分かっているのです。イエスはダビデの家系に属する王なるメシヤとして、確かにイスラエルの救いをなしとげました。しかしそれは、人々が思っていたように武力を用いてローマを打倒することによってなされたのではなく、十字架の上でいのちを捨てることによってなされたのです。イエスはまさに「仕える王Servant King」ということができるでしょう。

さて、このことは冒頭のご質問にあった、終末における神の国の支配とどのように結びつくのでしょうか?多くの人々は、確かに初臨のイエスは十字架にかけられた無力な姿で来られたけれども、再臨のイエスはそれとはうって変わって力と栄光に満ちた姿で地上に到来し、この地上の権力を力で滅ぼす王であると考えています。つまり、多くの人の思い描く終末の王としてのイエスのイメージは、当のイエスがまさに批判したところの、この世の王たちの姿と何ら変わらないのです。

しかし、このような一般的イメージが間違っていることは、以前書いた黙示録についてのシリーズで論じましたので、そちらをご覧ください(黙示録における「福音」     )。再臨のキリストが悪に打ち勝たれるのは、ローマやバビロンのような暴力によってではなく、十字架に表されているような自己犠牲的な愛によるのです。そして、新天新地で神が王として永遠にすべ治めるということも、同じように考えるべきだと思います。上で引用したルカ福音書の箇所にあるように、もしイエスがこの世的な支配のあり方を否定し、弟子たちにそれとは反対の生き方を教えながら、世の終わりにイエスご自身がこの世的な支配のあり方に逆戻りするとは考えられません。やがて来るべき世界の王の姿は、十字架にかけられたイエスの姿において既にはっきりと示されているのです。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」お方です(ヘブル13章8節)。

このように考えてくると、「神の国が地上に到来する」「神がすべての王となられる」「神の民が神の支配に参加させていただく」といった、本シリーズで何度も述べてきたことがらを、この世的な王や支配のイメージで考えてはならない、ということが分かります。黙示録において世々にわたって世界を統べ治める王は、ほふられた小羊としてのキリストです。神の国における「支配」を考える時に、私たちは十字架にかけられたイエスというレンズを通して考えなければならないのです。つまり、神の国における支配とは、自己犠牲的な愛による奉仕にほかならないのです。

本シリーズで見てきたように、クリスチャンの究極的な希望は、神が王として世界のすべてを支配し、神の民もその支配に参加させていただくことです。一方、新約聖書が記しているもう一つの終末的ビジョンは、三位一体の神が永遠の昔から持っておられる愛の交わりの中に、神の民が参加することです(ヨハネ17章21-26節、1ヨハネ1章3節、4章12-16節)。以上述べてきたことから、この二つは別々のことがらではなく、同じものを指していると考えることができます。

神と神の民が世の終わりにすべてを支配する王となるということは、すべての存在が互いに愛をもって仕えあい、神の造られた素晴らしい被造物世界をいつくしみをもって管理していくということです。言い換えれば、終末において完成する「神の国」とは、三位一体の神のアガペーの愛によってすべてが覆い尽くされた世界のことなのです。

御国を来たらせたまえ(5)

(シリーズ過去記事    

前回に引き続き、「携挙」について考えます。携挙の聖書的根拠として取り上げられるもう一つの箇所は、マタイ福音書の次の箇所です。

37  人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 38  すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 39  そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。 40  そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。 41  ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。 42  だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。(マタイ24章37-42節)

二人の人物が一緒にいるときに、一人が取られ、一人が残されるという印象的なイメージは、ルカ福音書17章にも並行箇所がありますが、ここで問題になるのが、「取られる」「残される」というのがそれぞれ何を指しているのか、ということです。この二つはどちらか一方がさばきを、他方が救いを表していると考えられますが、どちらがどちらなのかははっきりしません

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携挙を支持する人々は、ここで「取られる」方の人物が救われるのだ、と解釈します。たとえば上の画像は18世紀末に出版された聖書の挿絵(マタイ24章40節の部分)ですが、この解釈に基づいて描かれたものといえます。31節でキリストがご自分の民を集めると書かれているのもこの解釈を支持するように思われますので、「取られる」方が救われる方であると考えることは可能です。

しかしその場合でも、この部分が必ずしも「携挙」を表しているとは言えません。まず、この箇所では「取られる」人々が天に引き上げられるということが明示されているわけではありません。天から地上に降臨したキリストが、ご自身のおられる場所にご自分の民を集めるという解釈も十分成り立ちます。またいずれにしても、この時の「再臨」は患難期前再臨説が主張するような、(そして「レフト・ビハインド」シリーズに見られるような)、世の人々が知らないうちにキリストが密かに来臨し、クリスチャンが取り去られるというものではありません。30節には、「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。 」とあるからです。

さらに、この箇所は「取られる」方が裁きを受ける方であると解釈することも可能です。この箇所でイエスは終末に起こる、救われる者と裁かれる者との分離をノアの洪水にたとえていますが、39節では「そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。」と書かれています。明らかに、ここで洪水にさらわれていくのは裁きを受けておぼれ死んだ人々です。

したがって、世の終わりには一部の人々が取り去られ、一部が残されるというイエスの表現だけでは、携挙の根拠とするには不十分といえます。

続いて、ヨハネ福音書に目を転じましょう。受難前夜の弟子たちに対する長い説話の中で、イエスはこう言われました:

3 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3  そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。(ヨハネ14章2-3節)

ここも「携挙」を支持する箇所のように見えます。つまり、イエスが死と復活を通して父のみもとに帰るとき、「わたしの父の家」つまり天国で弟子たちのためのすまいを用意し、しかるべき後にこの地上に帰ってきて弟子たちを迎え、天国に連れて行ってくださる、というのです。

ここは非常に難しい箇所で、いろいろな解釈が提示されていますが、イエスがこの箇所で「わたしの父の家」に弟子たちのためのすまいを用意し、そこに弟子たちを導くために迎えに来ると言われているのは確かです。しかし、「わたしの父の家」とは何を指しているのでしょうか?ヨハネ福音書では、この表現は神殿を指しています(2章16節)ので、14章で語られる「わたしの父の家」も神殿と考えることができます。ただし、世の終わりにイエスが弟子たちを導き入れるという神殿は、もちろんエルサレムにある人の手で造られた神殿のことではなく、天から下ってくる新しいエルサレムであると考えられます(黙示録21章2節)。新エルサレムは都全体が神殿であると語られているからです(同22節)。つまり、ここでイエスが弟子たちに語っているのは、世の終わりには彼らはイエスとともに終末的神殿である新しいエルサレムでいつまでも住むことができる、ということです。このように考えれば、この箇所も聖書全体の方向性である「天から地へ」という枠組みの中で考えることができます。

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今回取り上げた聖書箇所は、どれも解釈の幅のある箇所であり、携挙を支持するとも支持しないとも解釈することのできる、難解な部分です。上で示した解釈は、いくつかある解釈の一つの選択肢に過ぎません。しかし、だから「何でもあり」ということではなく、どの解釈がより説得力があるのか、を考えなければなりません。このような場合に大切なことは、聖書の示す大きな物語のストーリーラインに沿ってその箇所を理解することです。

個人的にはクリスチャンが再臨時に空中でキリストと出会い、そのまま天に引き上げられていくという「携挙」は聖書的根拠に乏しいと考えています。それは、これまでとり上げたいくつかの個所の釈義的可能性に基づくだけでなく、「天から地へ」という聖書の終末論全体を貫く方向性と逆行しているように思えるからです。つまり、世の終わりにクリスチャンが天に引き上げられるという解釈よりも、天から降臨するイエスを地上で迎えるという解釈のほうが、聖書の物語全体の文脈により適合するということです。

次回は、携挙の問題をより大きな聖書のストーリーラインの観点からさらに深く見て行きたいと思います。

(続く)