聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿3)

シリーズ過去記事   2

③ヨハネの物語~聖なるものの受肉~

前回見たように「聖」とは「いのちを与えるもの」であり、「肉」は「生身のいのち」であるということですが、両者は「いのち」というキーワードにおいて重なりを持つものです。

イエス・キリストの受肉は、この「聖」と「肉」というふたつの概念が重なるものであると言えるでしょう。ヨハネは手紙の中でイエス・キリストの受肉を強調します。

神からの霊は、このようにして分かります。肉(新改訳2017では「人」)となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。(ヨハネの手紙第一4章2節)

こう命じるのは、人を惑わす者たち、イエス・キリストが肉(新改訳2017では「人」)となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。こういう者は惑わすものであり、反キリストです。(ヨハネの手紙第二7節)

ヨハネは福音書を「信じるため」「いのちを得るため」(ヨハネの福音書20章31節)に書きました。信じるとは、イエス・キリストに繋がり、神との関係を回復すること。ヨハネは救いを「永遠のいのち」という言葉で表します。イエス・キリストと繋がり、神からいのちをいただくこと、それがヨハネにとっての本当の「いのち」なのです。

ヨハネの福音書を「聖」「肉」「いのち」という三つのキーワードに焦点を当てて読んでいきましょう。

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受肉と順応(クリスマス随想)

さだめたまいし 救いのときに
神のみくらを はなれて降り
いやしき賎の 処女(おとめ)にやどり
世人のなかに 住むべき為に
いまぞ生まれし 君をたたえよ

(讃美歌98番、2節)

今年もクリスマスの時期がやってきました。

クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う時です。キリスト教会は、このことを、神が人となった受肉のできごととして理解してきました。つまり、宇宙の創造主なる神が自ら人間となることによって、ご自分を人間に啓示されたのです。

神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。

(ヨハネ1:18)

しかし、神は抽象的・普遍的な意味で「人間」となられたわけではありません。そうではなく、「神のことば」(ヨハネ1:1、14)は特定の時代と地域に生きた、一人の個人として現れたのです。ナザレのイエスは紀元1世紀のローマ帝国支配下にあったパレスチナに生きた、一人のユダヤ人男性でした。彼は当時の一般のユダヤ人と同じ生活をし、同じ言葉を話しました。つまり、神は1世紀のパレスチナに生きた人々に理解できるような姿で、ご自分を啓示されたのです。

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新しいはじまり

所属教会のクリスマス礼拝で語らせていただいた説教をこちらに掲載します(引用聖句の訳など多少変更あり)。クリスマスイヴの今夜は多くの教会でキャンドルサービスが行われますが、暗闇の中に光を灯すために来てくださったイエス・キリストの降誕を覚えたいと思います。

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イエスという道

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14章6節)

これはイエスが受難前に弟子たちに語られた有名な言葉です。イエスは多くの偉大な宗教家や哲学者のように「道を示す」とか「真理を教える」とか「いのちに導く」と言われたのではなく、御自身が真理であり道であり、いのちそのものだと宣言されました。これは非常に大胆な発言と言わなければなりません。今日はその中でも、「道」ということについて考えてみたいと思います。

イエス御自身が道であると聞いて、どのような「道」を思い浮かべるでしょうか? 私自身が初めてこの箇所に触れた時にイメージしたのは、天国に向かって真っすぐ伸びる、広くてなめらかな高速道路でした。

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イエス・キリストの福音を信じた今や、自分は天国へのチケットが与えられている。あとはまっしぐらにこの道を飛ばしていけば、いつの日か天に召されて父なる神のもとに行くことができる――そんなふうに考えていたのです。

けれども、信仰生活が長くなるにつれて、ことはそう単純ではないことが、だんだんと分かってきました。 続きを読む

二人の女性の物語

先日アメリカから一時帰国していた中村佐知さんが聖契神学校に来てくださり、関野校長、吉川直美先生と4人でとても素晴らしい交わりを持つことができました。その際に、この度出版された『隣に座って』を恵贈いただきました。この本は、2016年にスキルス胃がんで亡くなった娘のミホさんとの最後の日々を、当時のブログやフェイスブックの記事をもとに綴ったものです。

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受肉というスキャンダル

今日は灰の水曜日であり、レント(四旬節)の期間に入りました。教会暦では復活祭に先立つ40日間を、自らを省みる祈りと悔い改めの期間としています。40日という期間は、イエスの公生涯に先立つ荒野での試練に対応していますが過去記事を参照)、それはもちろん究極の試練である十字架をも指し示すものでもあります。

灰の水曜日には、教会によっては信者の額に灰で十字のしるしをつける儀式を行います。そこには自分が死すべき存在であることを覚え、悔い改めて神に立ち返るようにというメッセージがあります。このことを思いめぐらしていたとき、死すべき存在である人間のひとりに神がなってくださったという受肉の意味について、改めて考えさせられました。

私はレントと受難週にはよくバッハのマタイ受難曲を聴きます。お気に入りは大定番ですがカール・リヒター。中学時代に初めて彼の演奏でマタイを聴いて以来、愛聴しています。先日この曲についてインターネットを検索していたら、衝撃的な動画を見つけました。それがこちらです。 続きを読む

『聖書信仰とその諸問題』への応答4(藤本満師)

その1 その2 その3

藤本満先生によるゲスト投稿シリーズ、第4回目です。

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4.「原典において無誤」――無誤に執着?

今回は、『諸問題』への直接の応答ではなく、逐語霊感説やシカゴ声明の「無誤論」への違和感として、一つの問題を提起してみます。

2014年、日本の福音主義神学会で聖書信仰が論じられた同じ年に、米国福音主義神学会でも聖書の「無誤論」をどのように理解すべきか論じられました。主題講演を担った一人、ベン・ウィザリントン(Ben Witherington Ⅲ)はメソジストで、ケンタッキーの福音的なアズベリー神学校で新約学を専門に教鞭を執っています。

彼は講演の中で、福音派で定着した「原典において無誤である」という表現に違和感を覚えると述べています。もともとこの表現は、20世紀の初頭、リベラリズムからの脅威に対抗するために、プリンストンのA. A. ホッジが作り出した表現です。それが、あたかも福音派聖書論の砦であるかのように用いられてきました。 続きを読む

創造の神――ジョン・ウォルトン博士来日講演を受けて

前回の更新から間が空いてしまいましたが、ようやく少し時間ができたので、今回のジョン・ウォルトン師の一連の講演その1 その2 その3)を拝聴して考えたことを簡単に書き記しておきたいと思います。

ウォルトン師の講演ではいろいろと興味深い主題が取り上げられていましたが、その中には自分の中でまだ十分に整理し切れていないものや、納得しきれない主張もありました。けれども、少なくとも次の3つの点については、全面的に同意できると思いました。

1.旧約聖書はそれが書かれた古代近東の文化に照らして理解すべきであり、聖書の「字義的」な解釈とは、その文化の中で聖書記者の意図したメッセージを読み取ることである。

2.聖書の記述は科学的知識を教えることを目的としているのではない。したがって現代の科学的知識を聖書テクストに読み込もうとする調和主義(concordism)は避けなければならない。

3.創世記1章の天地創造の記事は物質的な宇宙の起源を説明しているのではなく、すでに存在していた混沌状態に神が秩序と機能を付与し、ご自身が住まわれる聖なる空間とされたこと(宇宙神殿の落成式)について述べている。

この記事では特に最後の点について、さらに考察したいと思います。 続きを読む