ルカ文書への招待(6)

    

12月に入り、南カリフォルニアで行われるEquipper Conference 2016も間近に迫ってきました。この集会に向けたルカ文書の入門コラムとその補足を8回シリーズでお送りしていますが、その6回目をお送りします。

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ルカが語る福音の物語⑥ 「教会のルーツを明らかにする物語」

今回は、ルカ文書が書かれた目的について考えてみましょう。ルカ文書は簡単に言うと、イエスから始まる教会の歴史を記した書であると言えます。しかし、なぜルカはテオピロのために教会の歴史を書く必要を覚えたのでしょうか?

以前のコラムでも書いたように、著者のルカも、その読者のテオピロもおそらく異邦人クリスチャンであり、彼らが属していた教会も異邦人クリスチャンが多かったと思われます。どのような個人や共同体にとっても、自分たちが何者であるのかというアイデンティティの問題は重要ですが、異邦人クリスチャンにとって、このことは特に大きな問題だったと思われます。彼らが信じていた唯一の神はイスラエルの聖書が教え、ユダヤ人たちが礼拝している「アブラハム、イサク、ヤコブの神」でした。また彼らが救い主として信じていたイエスもユダヤ人であり、イスラエルのメシヤだったのです。

要するに問題は、なぜユダヤ教に改宗してもいない異邦人がユダヤ人の神を礼拝しなければならないのか?ということでした。異邦人クリスチャンがユダヤ人クリスチャンとともに、イスラエルの神の民とされた、ということにはどういう意味があるのでしょうか?これは21世紀に生きる私たちにとっても切実な問題です。 続きを読む

創造という愛の狂気

最近、シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil:フランス語では「ヴェイ」と発音するらしい)の生涯と思想に心を惹かれて、折に触れてその著作を少しずつ味読しています。彼女は第二次世界大戦中に34歳の若さで亡くなったユダヤ系フランス人で、哲学者・政治活動家・神秘主義者でした。生前に出版した著作は多くはなく、無名に等しい存在でしたが、死後彼女の遺稿が次々と編集・出版され、多くの人々に影響を与えてきました。 続きを読む

N.T.ライト『新約聖書と神の民』について(山口希生氏ゲスト投稿 その2)

その1

山口希生さんによるゲスト投稿の2回目をお送りします。お忙しい中、寄稿してくださった山口さんに心より感謝します。

4月には山口さんを講師として『新約聖書と神の民』出版記念講演会も行われるとのことです(詳細はこちらこちらをご覧ください)。日本でのライトをめぐる議論がさらに活性化する、素晴らしい機会になると思います。

NTPG

『新約聖書と神の民』原書
The New Testament and the People of God

第二回

ユダヤ・キリスト教の創造主信仰

ユダヤ教とキリスト教が共有する根源的な信仰とは、この物質世界は善なる神の創られた世界であり、元来は非常に「良い」世界だったという信仰です。創造主である神への信仰ということです。この創造主信仰と対立するのは、物質的世界を劣ったもの、一時的なものと見なすプラトン主義、この世界が劣った神によって創造されたという「グノーシス主義」、さらにはサタンによって創造されたという「カタリ派」などの一群の宗教的思想です。これらの宗教思想は現世を悪い世として悲観的に見て、この世の人生の喜びを否定し、極端な禁欲主義を推奨します。キリスト教においても「この世との分離」が強調される面がありますので、一見するとグノーシス的禁欲主義もキリスト教的だと理解される場合があります。しかし、その根底にある世界観は全く正反対であると言えます。キリスト教が掲げるビジョンとは、この世の消滅ではなく刷新だからです。 続きを読む

N.T.ライト『新約聖書と神の民』について(山口希生氏ゲスト投稿 その1)

今回は新しいゲスト投稿者をお迎えします。N. T. ライト教授の指導の下で昨年セントアンドリュース大学から博士号を授与された山口希生(のりお)さんです。山口さんは最近新教出版社から日本語版(上巻)が出版されたライトの主著『新約聖書と神の民』の翻訳者であられます。同書について2回にわたって投稿をいただく予定です。

NTPG

『新約聖書と神の民』(上)

第一回

新約聖書の権威

この度邦訳出版されたN.T.ライトの「新約聖書と神の民」はずばり「新約聖書」についての本です。この比類のない書をどう読むべきか、特に神の民としての現代の教会がそれをどう読むべきかということが本書で問われています。新約聖書は教会にとって最も大切な書ですが、その「権威」は近代以降、常に挑戦を受けてきました。啓蒙主義が隆盛してゆく中で、まず新約聖書の記述の史実性、特に奇跡についての記述が疑問視されました。また、人々が抱く多様な価値観を等しく認めようというポストモダンの時代が到来すると、新約聖書の提示する倫理の規範性そのものが批判の対象となりました。このような現状を踏まえつつ、ライトは新約聖書の持つ「権威」を高く掲げます。しかしライトはその権威を学校の校則のようなルールとして捉えているわけではありません。端的に言えば、新約聖書の権威はストーリーの中にある、とライトは主張します。新約聖書全体が物語るストーリーは、私たちが世界をどのように理解し、その世界の中でどう行動すべきかを教え導いてくれる、そういう権威あるストーリーなのです。 続きを読む

確かさという名の偶像(11)

(シリーズ過去記事          10

benefit-of-the-doubt

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回から第2部「真の信仰」を概観します。前回までの記事では、第1部「偽りの信仰」の内容をかなり細かく紹介してきました。これからは少しスピードアップして、基本的に1回で1章の内容をカバーするようにしたいと思います。

前回までの記事では、今日のキリスト教会で広く見られる「確実性追求型の信仰」について、その問題点を考察してきました。第2部でボイドは、確実性を追求し、疑いを排除しようとする信仰のあり方は聖書的なものではないことを論じ、聖書的な信仰のあり方はどのようなものかを探っていきます。今回は第4章「神との格闘」です。

ボイドによると、聖書的な信仰とは真正さauthenticityに基づくものです。「確実性追求型信仰」は疑いを持つことを禁じ、疑いを抑圧しようとします。けれども、聖書的な信仰は、疑いや不平不満も含めて、自らと神に対して正直になろうとする態度に土台を置くものなのです。

ボイドはこのような信仰のあらわれを、創世記32章22-32節に記されているヤコブの物語に見いだします。彼はある人物(物語の中でそれは神ご自身であることが明らかにされます)と夜通し格闘し、その結果その名をヤコブからイスラエルに変えるように命じられます。

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天使と格闘するヤコブ(ギュスターヴ・ドレ)

この奇妙なナラティヴでヤコブは神との格闘の後、「イスラエル」という名前を授かります。「イスラエル」の語源については諸説ありますが、少なくとも創世記の文脈では、彼がこの名前を与えられたのは「神と人とに、力を争って勝ったから」だと説明されます(28節)。そしてヤコブはこの出来事の後、彼は「顔と顔を合わせて神を見た」と言います(30節)。

ボイドはこの記事について、ヤコブが神とこのような親密な関係を持つことができたのは、彼が祝福を受けるために神と格闘することも厭わなかった大胆さのゆえであったと言います。それだけではありません。この「イスラエル的な信仰」の姿勢は、彼の子孫である神の民「イスラエル人」の信仰に受け継がれていく聖書的な信仰であると言うのです。つまり、聖書に見られる「イスラエル的信仰」とは、神と格闘する用意のある信仰なのです。

ボイドはこのような「イスラエル的信仰」はたとえばヨブの信仰に見出すことができると言います。ヨブはヤコブの子孫ですらありませんが、「イスラエル的信仰」のモデルを提供していると言えます。神の許しの中でサタンによってもたらされた苦難に対し、ヨブは初めのうちは模範的な敬虔を持って耐えていますが、苦難がいや増すにつれて、自分がいわれのない苦しみを受けていると主張し、神に対して論争を挑むようになります:

あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。
わたしはあなたがたに劣らない。
しかしわたしは全能者に物を言おう、
わたしは神と論ずることを望む
(ヨブ13章2-3節)

ヨブ記の結論部分では主なる神ご自身が登場し、ヨブやその友人たち(彼らは因果応報的神学によってヨブの苦しみを説明しようとします)を沈黙させます。しかし、興味深いのはその結末です。神はヨブの信仰を賞賛されたのです!

主はこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、
「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。」(ヨブ42章7節)

あれほど神に対して激しい言葉を投げかけたヨブがなぜ「正しい」とされたのでしょうか?これはヨブの「神学」が正しかったからではありません。彼自身、自分の無知を認め、悔い改めているのです(42章1-6節)。

ボイドは、神がヨブを賞賛されたのはその率直さのゆえであると言います。つまり、ヨブの「正しさ」とはその「率直さ」だったのです。ヨブの友人たちは自分たちの神学(「悪は罪の結果である」)にヨブの状況をあてはめようと躍起になっていました(「ヨブが苦しんでいるのは、彼が罪を犯したからだ」)。彼らは自分たちの神学が正しいことを証明することに、自分の安心を見出そうとしていました。これは「確実性追求型の信仰」であるとボイドは言います。これに対してヨブは正しい神学を持つことによってでもなく、敬虔な言葉を語ることによってでもなく、疑いを排除することによってでもなく、ただ神に対して率直に語ることによって、結果的に神に喜ばれる信仰を示したのです。

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旧約聖書のイスラエルに見られた模範的信仰は、このような神に対する正直な態度、時には神に正面から怒りや不満をぶつけるほどの率直な態度によって特徴づけられています。実はこのような「イスラエル的信仰」は聖書時代よりもはるか後の時代までも受け継がれていきました。

ナチスによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の体験にもとづいて『夜』等の書物をあらわし、ノーベル平和賞を受賞したユダヤ人作家エリ・ウィーゼルは、あるインタビューで自分の信仰について次のように語っています。

私の信仰は傷ついた信仰です。けれども信仰がないわけではありません。私の人生は信仰なしの人生ではありません。私は神から離れたわけではありませんが、神と言い争い、議論し、問いかけ続けています。それは傷ついた信仰なのです。

ElieWiesel

エリ・ウィーゼル

ホロコーストを歌ったウィーゼルの詩「アニ・マアミン(われ信ず)」の中には次のような一節があります。

沈黙の神よ、語りたまえ。
残酷の神よ、微笑みたまえ。
ことばの神よ、答えたまえ。
義なる神よ、不義なる神よ、
ことばを裁き、行いを裁きたまえ。
犯罪を裁き、その手先を裁きたまえ。
臨在の神よ、不在の神よ、
あなたは万物のうちにおられる、
悪の中にさえも。
あなたは万物のうちにおられる、
何よりも、人の中に。
臨在の神よ、不在の神よ。
あなたはどこにおられるのか
この夜に?

ある意味ショッキングな内容ですが、これは想像を絶する悪を体験した信仰者のことばであることを理解する必要があります。何百万人ものユダヤ人たちが殺されていく現実の中で、沈黙を守られる神に対し、ウィーゼルは懇願し、問いかけ、また怒りや疑いをぶつけ、糾弾します。けれどもその表現がどれほど激烈なものであろうと、彼が神に向かって叫び続けるそのこと自体は、彼がまだ神を信じていることを示しているのです。この詩は最後はメシアを待ち望む祈りでしめくくられます。これはいわゆる「敬虔な信仰」ではないかもしれませんが、すくなくとも「真実な信仰」ということができるかもしれません。

神の喜ばれる聖書的信仰、「イスラエル的信仰」は、自らの疑いや問いかけ、神に対する不平などを「神学」や「敬虔」によって説明し去ったり覆い隠そうとするものではなく、それらすべてをそのまま神の前に注ぎ出し、ありのままの姿で神の前に出て行く信仰です。その時に初めて私たちは、「顔と顔を合わせて神を見る」ことができるのだと思います。

(続く)

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(5)

(本シリーズの過去記事    

今回は『クリスチャンであるとは』第2部の6-10章に基いて、ライトが再構成する聖書ナラティヴのストーリーラインについて概観します。聖書の物語の「主人公」は言うまでもなく神ご自身ですが、実際の事件はほとんどが地上で起こります。先に見たように、神は天におられ、その天は地と部分的に重なり、かみ合っています。天の神は地に住む人々の歴史に介入され、人々との間にやりとりがなされます。つまり、聖書の物語は神と人が織りなす物語と言えます。

ライトは本書では人類の創造と堕落については軽くしか触れていません。彼の物語る聖書のナラティヴ(少なくともその本編)はイスラエルから始まります(6章)。現代のクリスチャンの多くは、あたかもイエス・キリストが歴史の真空からある日突然現われて人類の救いをなしとげたかのように、自分たちの信仰にとってイスラエルが持っている重要性について、ほとんど意識していません。しかしライトは、イスラエルの物語を理解することなしにイエスの物語を理解することはできないと言います。

イスラエルの長い物語(ストーリー)において、ナザレのイエスのうちに起こったことこそが、まさにクライマックスであると受け止めることは、クリスチャンの世界観にとって文字どおり最も根本的なことである。(102ページ)

イエスの物語がイスラエルの物語のクライマックスである、というライトの視点は大変重要です。けれどもそれはどういう意味なのでしょうか?

ライトによると、旧約聖書におけるイスラエルの物語には繰り返し登場するあるパターンがあります。それは、「捕囚と帰還」のパターンです。エジプトでの奴隷生活とそこからの解放(出エジプト)、バビロン捕囚とそこからの帰還など、イスラエルの歴史は大小様々な隷属と解放、捕囚と帰還の物語で満ちています。それは究極的には、堕落によってエデンの園から追放され、神から離反してしまった人類を神が最終的に回復されるという、聖書全体を貫く大きな物語の反映であるのです。

ライトによると、イエスと同時代のユダヤ人たちは、バビロン捕囚からの帰還は完全には実現していないと感じており、神による最終的な解放を待ち望んでいました。それは神が王となる時であり、世界に義がゆきわたる時であり、天と地が一つとなる時であり、新しい創造がなされる時でした。そのような希望は、捕囚と回復の物語を集約するある人物、すなわち「メシア(油注がれた者)」に向けられていきます。

ユダヤ人たちが待ち望んでいた神による救いを体現したのが、ナザレのイエスでした(7-8章)。イエスは、イスラエルの神のみが為されるとされていた救いのわざを自らの使命として受け入れ、行動しました(ライトによると、イエスは自分が神であることをこのような意味で「知って」いました)。そして、イスラエルの物語で繰り返されてきた捕囚と帰還のパターンが究極的に凝縮された形で現れたのが、イエスの死と復活の物語だったのです。イエスは十字架上でこの世の悪の力のすべてをその身に引受けて死ぬことにより、悪に勝利しました。そしてイエスの復活を通して、天と地が最終的に結びつきました。ライトによると、イエスにおいて神が成し遂げたことこそが、キリスト教のエッセンスなのです:

キリスト教は、今も生きている神が、ご自身の約束の成就として、またイスラエルの物語のクライマックスとして―─見つけだし、救いだし、新しいいのちを与える―─というすべてが、イエスにあって成し遂げられたと信じることにほかならない。神がそれをなされた。イエスと共に、救出のわざをただ一度で完全に実現された。この宇宙において、決して二度と閉じられることのない素晴らしいドアがサッと開かれた。それは、私たちが鎖につながれ、閉じ込められている牢獄から出るために開かれたドアである。(133ページ)

イエスが復活され、天に帰られて後も、聖書の物語は続いていきます。この章における主要な登場人物は教会ですが、ライトは教会の務めは聖霊の助けなしにはありえないと語ります(9-10章)。聖霊は、すでに天に昇られたイエスのいのちを、教会が地上において分かち合い、イエスの働きを進めていくために与えられています。聖霊に導かれて生きるとは、「天と地が重なり合う場で生き、そのあり方に沿って生きること」なのです(192ページ)。

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救済史の展開という視点から聖書のナラティヴを見ていくライトの視点において、もっとも議論を呼ぶのは、「1世紀のユダヤ人は捕囚はまだ終わっていないと考えていた」という主張であると思います。この考えは、ライトの主著であるChristian Origins and the Question of Godシリーズの第1巻The New Testament and the People of Godをはじめとして、彼が繰り返し主張してきたものです。もちろん、1世紀のユダヤ教の多様性については広く知られており、すべてのユダヤ人が同じように考えていたわけではありませんが、ライトはイエスと同時代のユダヤ人の多くがそのように考えていたと主張しています。

これはもちろん「捕囚の終わり」をどう理解するかによって変わってきます。バビロンに捕囚にされたユダの人々がカナンの地に物理的に帰還し、エルサレムに神殿を再建したことをもって「捕囚の終わり」とするなら、確かにバビロン捕囚は終わったと言えますが、もちろんライトはそのような意味で言っているのではありません。

捕囚後のユダヤ人たちが待ち望んでいたのは、異邦人による支配からの完全な解放、神の臨在と栄光あふれる完全な神殿の再建、イスラエルの罪の赦し、そして諸国民によるヤハウェ礼拝などといった、旧約預言書に記されている約束が完全に実現する状態としての「捕囚の終わり」であったとライトは言います。そして捕囚後のユダヤ人の多くが、これらの約束は何一つとしてまだ実現していないと感じていたということを、ライトは様々な旧約聖書や中間時代のユダヤ教文書を元に論じています。本書では一例として、捕囚の期間としてダニエル書に記されている「七十週」(=490年と解釈されます)という数字が、中間時代のユダヤ人たちによって、「捕囚のほんとうの終わり」の時期を計算するために用いられていたと述べています(114ページ)。

「1世紀のユダヤ人たちは、自分たちはまだ捕囚状態にあると思っていた」というライトの表現は、人によってはセンセーショナルに感じるかもしれませんが、彼が言っている内容そのものはそれほど過激なものではないと個人的には感じています。要するに、終末における完全な解放という預言的ビジョンに対して、ユダヤ人の歴史的現実(第二神殿の建設やハスモン王朝の成立などを含め)はつねに部分的で不完全な満足しか与えてくれないものであり、どの時代にも「より完全な解放」を待ち望む人々が存在したと言うことではないかと思います。(このあたりは、第1部でライトが論じていた、「声の響き」の議論に通じるものがあると思います。)

1世紀のユダヤ人たちが感じていたこのような問題に対して、新約聖書が与えている解答は、「捕囚からの完全な解放への道は、十字架につけられ、死んでよみがえったナザレのイエスによって開かれた」というものでした。例えばイザヤ書はバビロンからの解放を「新しい出エジプト」として描いていますが、新約聖書においてはイエスはしばしば新しいモーセとして描かれています。イエスから始まった運動は、まさに新しい出エジプトとしての、捕囚からの最終的解放の始まりだったのです。

もちろん、イエスの死と復活が、当時のユダヤ人たちの終末的希望を即座に完全に実現したわけではありません。神の国の完全な到来はいまだに将来の希望にとどまっていました。したがって、懐疑的な眼差しを向けるユダヤ人も当然多かったことでしょう。しかしイエスの弟子たちはイエスと彼に従う者たちの共同体(教会)のうちに、「捕囚の終わり」として約束されていたものが、世界の主としてのイエス、罪の赦し、神の臨在あふれる神殿としての教会共同体、異邦人の神の民への参加、等々という形ですでに実現し始めているのを見たのです。

(続く)

子としてくださる御霊

所属教会で説教奉仕をさせていただきましたので、いくつか修正を施したテキストをアップします。このメッセージは、継続中のシリーズ「御国を来たらせたまえ」の補論としても読んでいただくことができると思います。

 

子としてくださる御霊(ローマ人への手紙8章14-17節)

14  すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。  15  あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。  16  御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。  17  もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。

神の家族

どんな分野にも「業界用語」のような、独特の用語や言葉遣いがあります。キリスト教会を初めて訪れた人々は、そのようなキリスト教用語に戸惑うこともあるかも知れません。けれども、その意味を知っていく時に、はじめは耳慣れない表現も実は深い意味があることに気づくことと思います。そのようなクリスチャン独特の表現に、「兄弟姉妹」という表現があります。これは文字通りの血のつながったきょうだいのことを指しているのではなく、クリスチャンがお互いを呼び合う表現です。また、クリスチャンは神様のことを「天のお父様」と呼びます。このような表現の背後には、クリスチャンはみな、唯一の神様の子どもであり、従ってみなきょうだいである、という考え方があります。教会とは、神の家族なのです。

聖書は、すべての人間は神様によって造られたと教えていますので、ある意味で全人類は神様の子どもと言えます。けれども、イエス・キリストを信じてクリスチャンになると言うことは、特別な意味で「神の子どもになる」ということなのです。

私たち家族がアメリカに住んでいた時に通っていた教会で、牧師の息子が洗礼を受けたことがありました。牧師自ら息子に洗礼を施したのですが、式の後、その先生がこう言われたのを良く覚えています。「彼は私の息子ですが、今日から私の兄弟になりました。

では、私たちクリスチャンが「神の子ども」であるとはどういう意味なのでしょうか?今日は使徒パウロが書いたローマ人への手紙から、ご一緒に学んでいきたいと思います。

神の子どもたち

ローマ人への手紙の8章でパウロは、クリスチャンとして生きる人生と、ノンクリスチャンとして生きる人生を対比しています。13節で彼は、キリストを信じないで生きる人生を「肉に従って生きる」人生と呼んでいます。ここに出てくる「肉」という言葉もクリスチャンの「業界用語」で、肉体や肉欲を意味しているのではなく、神から離れた人間の自己中心的な性質、罪深い性質を表しています。私たちが肉に従って生きるなら、その行き着く先は罪と死です。これに対して、パウロは「神の御霊に導かれ」る(14節)生き方について語ります。それは、キリストとの深い結びつきを通して注がれる、神の霊すなわち聖霊によって導かれる生き方であり、そのような人生は「いのち」に導かれると言います。13節で彼は「あなたがたは生きるであろう」と簡潔に言っています。このことは、死んだ後に永遠の命を受けるということだけを意味しているのではなく、今この地上での人生において、神様から与えられたいのちを最高に充実した形で生きる、ということを意味しています。それは別の言い方で表現すれば、「神の子どもとして生きる」ということです。

神との親密な関係

私たちが神の子どもである、ということは何を意味しているのでしょうか?まずは、神様と親しい愛の関係を持つことが許されている、ということを意味しています。パウロは15節で「その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」と言います。「アバ」というのは、新約聖書の時代にユダヤ人が話していたアラム語で「父」を表す言葉ですが、家庭で小さい子どもが父親に呼びかける「お父さん」「パパ」といった、親近感を込めた表現でもありました。福音書には、イエス様が天の神様に対して「アバ」と呼びかけていたことが記されています(マルコ14章36節)。イエス様はご自分で神様を親しく父と呼ばれただけでなく、弟子たちにも同じように神様を父と呼ぶようにと教えられました。主の祈りが「天にまします我らの父よ」で始まるのはとても重要なことなのです。

私たちはかつては罪によって神様から離れ、神様に敵対して生きる存在でした。けれども神様は愛によって私たちをご自分のもとに招き入れてくださり、愛する息子、娘として受け入れてくださったのです。このことが最もドラマティックに描かれているのは、ルカ福音書15章に記されている「放蕩息子のたとえ」でしょう。時間の関係で詳しくお話しはできませんが、父の財産を持ち出して放蕩に身を持ち崩した息子がとうとう父の元に帰ってきた時、彼は「もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」と言おうとしましたが、父は最後まで言わせずに、彼を受け入れ、息子の帰還を盛大に祝ったということが記されています。私たちも、イエス・キリストを信じ従う時に、神様との間の親しい親子関係に入れられるのです。

神の子としてのイスラエル

しかし、クリスチャンが神の子どもであるとは、それだけを意味するのではありません。ローマ書8章におけるパウロの議論は、旧約聖書の時代から続く、神様のご計画と深い繋がりがあるのです。

8章15節では、「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。」と書かれています。パウロはここで、私たちがクリスチャンになるプロセスを奴隷の身分であった者が自由にされて、子としての身分が与えられることにたとえています。ここでパウロは、イスラエルが経験した出エジプトのできごとを念頭に置いて書いているのです。

神様の祝福を全世界に取り次ぐ器として選ばれたイスラエルの民は、エジプトで奴隷の生活を強いられていました。彼らを解放するために、主はモーセを遣わすのですが、彼がエジプトの王パロに伝えるように命じられたメッセージが、出エジプト記4章に書かれています。

あなたはパロに言いなさい、「主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい。」(出エジプト4章22b-23a節)

つまり、神様がイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放された目的は、イスラエルをご自分の子どもとして、愛の関係を築き上げるためだったのです。ホセア書11章1節でも、出エジプトの出来事について、「わたしはイスラエルの幼い時、これを愛した。わたしはわが子をエジプトから呼び出した。」と書かれています。けれども、ホセア書11章を続けて読んでいくと分かるように、イスラエルは神の子らとして、父なる神様に忠実に歩むことができず、繰り返し主に逆らい続けることになってしまいます。

神様と人間との関係を親子にたとえるのは、主がダビデに与えられた約束においても見ることができます。

あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。 彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。(2サムエル7章12-14a節)

ここでは、ダビデの子孫から興されるひとりの王、すなわちメシヤが永遠の王国を確立するということが約束されているのですが、ここでも「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。」と言う表現で、いわば神様がメシヤを養子にするということが言われています。後のユダヤ教では、神の養子となるというアイデアは、個人としてのメシヤだけでなく、民族としてのイスラエル全体に当てはめられて考えられるようになりました(ヨベル書1章24-25節、ユダの遺訓24章3節)。つまり、ダビデの子孫であるメシヤがイスラエルを導いて、そもそもの出エジプトの目的であった、イスラエルを神の子とするという神様のご計画を成就してくださる、これが、新約聖書時代のユダヤ人たちの希望であったのです。

では、今日の私たちクリスチャンが「神の子としていただく」ことは、聖書のイスラエルとどのような関係があるのでしょうか?それは、旧約聖書の昔から一貫して続いている、神様の救いのご計画に私たちも参加させていただく、ということです。先ほど出エジプト記で見たように、神様がご自分の子どもとして召されたのは、あくまでもご自分の選びの民であるイスラエルでした。イスラエル以外の異邦人は、そのご計画から除外されているかに見えたのです。ローマ書の9章4節でも、「彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの」とあるように、神の子と呼ばれるのは、イスラエルの特権だったのです。

けれども、8章でパウロは驚くべきことを言います。ローマ人への手紙の読者の大多数は異邦人クリスチャンでしたが、彼らに対してパウロは「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。」(15節)と言っているのです。ここで「子たる身分を授ける霊」と訳されているギリシア語は、直訳すると「養子の霊」という意味です。パウロがここで使っている「養子にすることhuiothesia」という言葉は、新約聖書の中でパウロの手紙にしか出てこない言葉です。この節でパウロが言おうとしているのは、「あなたがた異邦人はかつては神の子であるイスラエルから除外されていた人々であったけれども、今は神様の養子とされて、イスラエルと同じように神の子どもになることができたのです。」ということです。パウロは9章で次のように言っています。

神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。それは、ホセアの書でも言われているとおりである、
「わたしは、わたしの民でない者を、
わたしの民と呼び、
愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。
あなたがたはわたしの民ではないと、
彼らに言ったその場所で、
彼らは生ける神の子らであると、
呼ばれるであろう」。
(9章24-26節)

さて、この場にいる私たちのおそらく全員はユダヤ人ではなく、異邦人クリスチャンです。私たちが神の子どもと呼ばれること、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神に対して「アバ、父よ」と呼びかけることができること、それは決して当たり前のことではありません。私たちは神様の養子にしていただいて、神の民であるイスラエルに加わることを許された存在です

では、どのようにして、異邦人である私たちが神様の養子になることができたのでしょうか?8章15節でパウロは「子たる身分を授ける霊」と言っています。私たちが神様の子どもとされるのは、聖霊の働きによるのです。私たちがイエス・キリストを主と信じてバプテスマを受け、教会に加えられる時、賜物として聖霊が与えられます(使徒2章38節)。この聖霊がユダヤ人だけでなく、あらゆる種類の人々を神の子として、神の家族に加えてくださるのです。8章16節でパウロは、「御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。」と言います。私たちが神の子であることは、私たちの思い込みや勝手に主張していることではなく、私たちのうちにおられる聖霊ご自身が証言してくださっていることです。しかもユダヤ人も異邦人も同じ御霊によって、神の子であると証言されるのです。

この聖霊はまず、イエス様が地上で宣教された時に、主の上に注がれました(ルカ3章21-22節)。そして、主が復活して昇天された後、使徒たちをはじめ、信じるユダヤ人たちに注がれました(使徒2章1-4節、38節)。それだけでなく、同じ聖霊が主を信じる異邦人にも注がれたことが、使徒行伝に書かれています(使徒11章15-17節)。つまり、この多種多様な人々がみな等しく「神の子ども」と呼ばれるのは、同じ聖霊が働いておられるからなのです。実に聖霊は神の子どもたちに共通して流れている「血」であり、彼らの細胞の一つ一つに含まれる「DNA」と言っていいでしょう。だからパウロは、神の子であるとは、御霊によって「生きる」(13節)ことだと語っているのです。

神の子どもたちの使命

さて、私たち異邦人がユダヤ人とともに一つの神の民イスラエルとなり、神の子どもとされたことには、どのような意味を持っているのでしょうか?もちろん、私たちは神様を父として日々親しい交わりをことができます。それは確かにすばらしい祝福ですが、それだけではありません。多くのクリスチャンはここで止まってしまい、神の子どもであることにどのような大きな祝福と使命が伴うのかを知りません。

8章17節でパウロは、「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。 」と言っています。私たちが神の子どもであることは、神様からいただける素晴らしい相続財産が約束されているということなのです。それは何でしょうか?その答えはさらに先を読むとわかります。

わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。(ローマ8章18-22節)

18節から22節まで、パウロは突然「被造物」について語り始めます。被造物つまり神様が造られた宇宙の全体が現在は虚無に服してうめいているけれども、世の終わりに「滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る」(21節)と言うのです。

ローマ書8章のこの部分は、一見するとあまり意味のない余談のように思えるかもしれません。私たち人間がイエス・キリストを信じることによって義と認められ、罪が赦されて、天国に行くことができる・・・そのような救いの理解をもってローマ書を読むと、たしかにこの部分はあまりパウロの議論の本筋と関係のない補足のように見えます。しかし、実はこの部分はローマ書におけるパウロの議論の中で大変重要な意味を持っているのです。

私たちの罪が赦されて、魂が救われること、確かにそれは聖書が教える大切な救いですが、パウロが救いということで考えていたのは、人間の魂の救いだけにとどまらないのです。創世記によると、神様はこの宇宙をすばらしく良いものとして創造されました。そして、この素晴らしい被造物世界を管理し支配する存在として、人間をお造りになったのです。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。(創世記1章27-28節)

神様はこのように人間を被造物世界の管理者として造り任命されました。その後でこう書かれています。「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」(31a節)。つまり、神様が造られた世界は、人間がそれを愛と知恵を持って適切に管理していく時に、「非常に良い」世界となったのです。

ところが、ご存知のように、最初の人間アダムとエバは罪を犯して神様に反逆し、堕落してしまいました。その結果として、非常に良いものとして造られたこの世界ものろわれた存在となってしまったのです(創世記3章17-18節)。これがパウロがローマ書で「被造物が虚無に服した」と言っていることの意味です。聖書全体で語られている神様の救いのご計画とは、この虚無に服した被造物世界を元通りの「非常に良い」世界に回復することにほかなりません。もちろんその中には、世界の管理者である人間の回復すなわち救いが含まれています。けれども、神様の救いは人類の救いだけにとどまるものではなく、この被造物世界全体の回復にまで及んでいくのです。

しかも、人間の回復も、単なる魂の救いにとどまるものではありません。パウロはローマ8章23節で次のように述べています。「それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。 」

多くのクリスチャンは「救い」という言葉を聞くと、死んだ後霊魂が肉体を離れて天国に行き、そこで神様とともに永遠に過ごす、ということを考えますが、聖書がはっきり述べている、クリスチャンの究極の望みは、私たちの肉体が復活するということです。聖書は、物質を霊より劣ったものとか邪悪なものとは言っていません。この物質世界は神様が造られた良いものだという理解があります。神様の救いの完成とは、この被造物世界が回復し、栄光の身体に復活した神の子たちによって素晴らしく管理され、神様の栄光を表していくということなのです。これがパウロが21節で「被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されている」と言っていることの意味なのです。

ここで23節にもう一度注目してみましょう。パウロはここで世の終わりに起こる肉体の復活について語っているのですが、それは同時に「子たる身分を授けられること」であると言っています。ここで疑問に思う人がいるかもしれません。私たちは14-15節で、キリストを信じる私たちは、現在既に神の子どもとされていることを学んだばかりです。それなのに、どうしてパウロは世の終わりに私たちが神の子にしていただくと言っているのでしょうか?

この疑問に答えるためには、パウロが「世の終わり」というものをどのように理解していたかを知る必要があります。パウロは、イエス・キリストが来られて、十字架にかかられ、復活された時にすでに世の終わりは始まっていると考えていました。けれども、最終的な終わりはまだ来ていません。それは、将来キリストが再臨され、すべての死者が復活する時に起こるというのです。新約聖書によると、世の終わりは二段階で来ます。回りくどい言い方をすると、「終わりの始まり」はイエス・キリストが最初に来られた時で、「終わりの終わり」はキリストが再臨される時なのです。

私たちが神の子とされるということも、このような枠組みの中で考えることができます。私たちは今現在キリストを信じ、聖霊を受けた時に既にある意味で神の子とされました。けれども私たちは「神の子ども」としての人生をフルに生きているわけではありません。私たちが完全な意味で「神の子ども」になるのは、世の終わりに、栄光のからだに復活する時なのです。私たちはこのことをどのようにして信じることができるのでしょうか?それは、私たちに聖霊が与えられているという事実によってです。パウロはこのことを「御霊の最初の実を持っている」(23節)と表現しています。「最初の実」は新改訳聖書では「初穂」と訳されていますが、「初穂」とは、畑の穀物の収穫の最初の部分のことです。昔のイスラエル人は、この初穂を神様に捧げました。初穂が捧げられたということは、やがてまもなく本格的な収穫が始まることを保証しています。今現在私たちに聖霊が与えられている事実は、やがて世の終わりに私たちの身体が贖われることの保証なのです。

もう一つ、私たちの復活を保証している事実があります。それは、イエス・キリストがすでに私たちに先んじて復活してくださったことです。パウロは1コリント15章でイエス・キリストの復活のことも「初穂」と呼んでいます(1コリント15章20、23節)。イエス様は完全な神の子としてまずよみがえってくださいました。私たちも世の終わりにはこのキリストと似た者に復活する希望が与えられているのです。その時私たちは本当の意味で「神の子ども」となることができます。パウロはこのことをローマ8章29b節で、「それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。」と表現しています。イエス様が、贖われた神の子どもたちの長子となってくださり、贖われた被造物世界の管理を導いてくださいます。これが神の子どもとしての教会の最終的な務めなのです。

子としてくださる愛

ここまで、イエス・キリストを信じて聖霊を受けた私たちは神の子どもとされたこと、それは神の民イスラエルに組み入れられることであり、最終的にはキリストを長子として被造物世界を治める神様の働きに参加させていただく希望があることについてお話してきました。最後に、これらすべてを貫く一つの大切なテーマについて触れたいと思います。それはということです。

これまで見てきたことから、神様がこの地上における救いのご計画を進めていくのは、この地上においてご自分の子どもたちの輪を拡げていくことによってである、ということが分かります。神様はまずイスラエルを選び、ご自分の子とされました。その後、イエス・キリストが来られてから、「神の子ども」となる特権は、異邦人も含めて、信じるすべての人に拡大されました。「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」(ヨハネ1章12節)とある通りです。

パウロが言うように、異邦人は神様の養子となって、神の家族であるイスラエルに迎え入れられた存在です。ここで問題となるのは、神様は元から神の子らであったユダヤ人と同じように、異邦人も愛してくださるのだろうか、ということです。養子になった子どもが一番気にするのは、自分が家族の一員として本当に受け入れてもらえているか、特に、養父母に実の子がいる場合には、その子たちと差別されることがないか、ということです。養子になったある子どもが、養母にこう尋ねたそうです。「ママのお腹に新しく赤ちゃんができたら、私は元の所に送り返されるの?」パウロの答えはどうでしょうか?

パウロが生きたローマ時代には、養子縁組の制度は社会的にとても重要な役割を持っていました。ある学者は次のように説明しています。

「養子にされた人物はそれ以前の環境から引き出され、すべての負債は帳消しにされ、新しい家長の息子として新しい人生を歩み始め、家長の名字を名乗り、相続権を持つようになる。新しく父となった者は今や養子の財産を所有し、彼の人間関係を統制し、しつけを行う権利を持つと同時に、彼を養う責任を持ち、その行動に関しても法的責任を負う。これらすべてにおいて、養子はその家で自然に生まれた子どもたちとまったく同じ扱いを受ける。養子縁組は法的な行為であって、証人によってあかしされる。」(Everett Ferguson, Backgrounds of Early Christianity, 3d ed, pp. 65-66)。

神様が私たちを養子にしてくださったとパウロが言う時、彼が念頭に置いていたのはこのような社会的関係でした。神様は私たちを罪と死の奴隷状態から解放してくださり、ご自身との新しい親子関係の中に入れてくださいました。私たちは神の子どもとしてのあらゆる法律的な権利を与えられた存在であり、そのことは私たちに与えられている聖霊が証ししてくださるのです。

ローマ書8章15節でパウロは、異邦人の読者に対して二人称で「あなたがたは・・・子たる身分を授ける霊を受けたのである。」と語った後、一人称複数形を使って(つまり、パウロたちユダヤ人クリスチャンも含めて)「その霊によって、わたしたちは、『アバ、父よ』と呼ぶのである。」と語っています。御霊によって神様を「アバ、父」と呼ぶ者は、ユダヤ人でも異邦人でも同じ神の子どもなのです。

ローマ書2章11節には、ユダヤ人と異邦人の関係についてこう書かれています。「なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。えこひいきのない神様。公平な神様。異邦人の使徒と呼ばれたパウロの宣教活動を支えていたのは、この確信だったのかもしれません。神様はユダヤ人も異邦人も関係なく、ご自分の愛する子どもとして受け入れてくださいます。子としてくださる御霊は、愛の御霊でもあるのです。

そればかりではありません。先ほど、8章29節で世の終わりには御子キリストが復活した神の子たちの長子となられるということを見ました。ユダヤ人と異邦人が分け隔てなく神の子どもとされることもすごいことでしたが、ここでパウロはさらに驚くべきことを述べています。つまり彼は、父なる神様は、御子イエス様が神の子であるのと同様に、私たち人間をもご自分の子どもとしてくださるというのです。

パウロは、私たちクリスチャンの信仰の歩みはキリストに似た存在につくり変えられていくプロセスであるということを述べています。

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。 (2コリント3章18節)

しかもこれは、単に私たちの内面がきよめられて、キリストに似た人格になっていくということだけでなく、最終的には私たちの肉体も、復活のキリストと似た栄光の身体に変えられるというのです。

彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。(ピリピ3章21節)

このことはもちろん、イエス様が神であるのと同じように私たちも神になるということではありません。けれども、私たちは神であるイエス様が持っておられる様々な良い性質に与るものとなる(2ペテロ1章4節)ということです。

ここに神様の偉大な愛が表されています。父なる神様は、御子イエス様を愛されたのとちょうど同じように、分け隔てなく私たち信じる者を愛してくださるのです。イエス様が十字架にかかられる前にこう祈られました。

わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。(ヨハネ17章23節)

私たちが神様の愛の中で一つになること、父・子・聖霊なる三位一体の神様が永遠の昔から持っておられた全き愛の関係の中に私たちも参加させていただくこと、それが神様の救いの究極的な目的です。

このような愛は世の中の価値観とは対立するものです。だから今の世でそのような愛に従って生きようとするなら、そこには苦しみが伴います。パウロはローマ書8章17節で、「キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている」と言っていますが、彼はクリスチャンとして神の子とされた者には苦しみが必然的に伴うと言っています。けれども彼は続けて、「今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。」(18節)とも言っているのです。もし今苦しみの中にある人がおられるなら、その方は復活のイエス様を思ってください。私たちもその主と同じ姿に変えられていく希望があるのです。

けれども、そのような栄光に満ちた祝福の希望は、世の終わりになってはじめて実現することではなく、今ここですでに始まっているのです。私たちクリスチャンが神の家族として互いに愛し合う時に、神の国が地上に現れ、世の終わりが現在に訪れます。そして、ヨハネが言うように、そのことを「世が知る」ようになっていきます。教会が本当の意味で神の家族になっていくことは、もっとも強力な宣教の働きであるのです。

私たちクリスチャンが互いを「兄弟姉妹」と呼び合うこと、神様を「天のお父様」と呼ぶこと、それは単なるキリスト教の「業界用語」ではありません。もし私たちがその本当の意味を知るだけでなく、その真理に従って生きていくなら、私たちを通して神の国が表されていくのです。

 

御国を来たらせたまえ(2)

前回の記事では、主の祈りの中の「御国を来たらせたまえ」という部分を手がかりに、キリスト教の希望は神の国(支配)がこの地上に到来するということであって、この地上から霊的な楽園としての「天国」に逃避することではない、ということを書きました。にもかかわらず、「死んだら霊魂が天国に行く」のがキリスト教の最終的希望だという考えはいまだに根強くあります。

なぜこのような誤解が生じたのでしょうか?これにはいろいろな理由があると思われますが、一つには、西洋のキリスト教思想が、霊と物質(肉体)を対立するものと考え、前者を後者より優れたものとする、ギリシア的な霊肉二元論に影響されたということが考えられます。(二元論とは対立する二つの原理や要素の関係を通して世界をとらえていこうとする考え方のことです。)

使徒行伝の中で、パウロがアテネでギリシア人に伝道した時のことが書かれています。はじめは興味深く彼の話を聞いていたギリシア人たちは、パウロが復活のことに言及したとたんに態度を一変させます。

死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。(使徒17章32節)

V&A_-_Raphael,_St_Paul_Preaching_in_Athens_(1515)

ラファエロ:「アテネでのパウロの説教」

ギリシア人が追求していたことは、彼らの霊魂が肉体という牢獄から解放されて、純粋な霊だけの存在になることでした。ですから、彼らにとって「肉体の復活」が「福音(良い知らせ)」であるなどという教えはナンセンス以外の何物でもなかったのです。このようなギリシア的な世界観に対して、聖書が教える世界観は、神によって創造された世界は本来は非常に良いものであり(創世記1章31節)、現在は人間の罪によってその良さが損なわれてしまっているけれども、やがて神によって回復されるべきものである(ローマ8章19-22節)というものです。ところが、時としてクリスチャンでも、物質や肉体を霊や精神に比べて何か劣った、汚れたものと考えてしまうことがありますが、これは聖書的な考え方ではありません。「死んだら魂が天国に行って、そこで永遠に神とともに過ごす」という通俗的天国観は、聖書から来ているのではなく、ギリシア思想の影響を受けたものと言えます

重要性では劣るものの、もう一つの理由として、マタイ福音書における「天の御国」と言う表現についての誤解があるのではないかと思われます。(この点に関してはライトもSurprised by Hope, p. 18, でごく簡単に触れています。)

マタイは終末的な救いについて語る時、「天の御国(新共同訳では『天の国』、口語訳では『天国』)に入る」という表現を使っています(5章20節、7章21節など)。しかしこれは、一般にイメージされる「天国に行く」ということとは全く違うのです。

「天の御国Kingdom of Heaven」という表現は、四福音書の中でマタイ福音書だけに見られる独特の表現です。他の福音書では「神の国Kingdom of God」という表現が使われていますが、この二つの表現は同じものを指しています。

ユダヤ人たちは「主の名を、みだりに唱えてはならない。」(出エジプト20章7節)という十戒の一節から、「神」という言葉を口にすることを避け、代わりに神がおられる所である「天」という言葉で神ご自身を指すことがありました。このような婉曲表現はたとえばルカ福音書15章18,21節などにも見ることができます。すなわち、マタイが「天の御国」と言う時の「天」は、「神」のユダヤ的婉曲表現にすぎないのです。

つまり、マタイ福音書における「天の御国」は「神の国」すなわち「神の王としての支配」を表しているのであって、雲の上のどこか遠い所に存在している霊的な楽園を意味しているわけではありません。しかし、それがいつのまにか「天にある国」=「天国」というふうに誤解されて受け取られることが多くなったのかもしれません。マタイ福音書はヨハネと並んで使徒によって書かれた福音書ということで、古代から四福音書の中でも特に重んじられてきた福音書であり、伝統的な聖書の配列においても新約聖書の冒頭に置かれています。それによって、この福音書独特の表現である「天の御国」というイメージが人々に強力な印象を与えたことは十分にあり得ることだと思います。

いずれにしても、聖書の教える最終的な希望は、私たちが天に昇っていくという上向きの運動ではなく、神が地上に降りてこられるという下向きの運動であることを覚える必要があります。このことを最も明確に述べた箇所は、黙示録21章において、新しいエルサレムが天から地上に下ってくる場面でしょう。

わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(黙示録21章1-4節)

私たちは終末の希望の地上的・物質的側面を軽視しないように気をつけなければなりません。さもないと、毎日地上に神の国が来ますようにと祈っていながら、いざ地上での生涯を終えると天国に昇っていく、あるいはキリストが再臨される時に天に引き上げられる(このいわゆる「携挙」も、いろいろと聖書的には問題のある概念だと思いますが、これについてはまた別の機会に書きたいと思います)ということになると、何のためにそのような祈りをしていたのか、よく分からなくなってしまいます。もし「御国を来たらせたまえ」という祈りが、ただクリスチャンとしての地上の生活をより安楽なものにするか、あるいは地上での宣教の働きに力を与えていただく(それは大切なことですが)だけのためになされているのなら、それはいずれにしても終末までの一時的な出来事に関するものになり、この祈りが本来持っている深い終末論的な意義が半減してしまうと思うのです。

クリスチャンは今日も「御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈ります。このように祈る時、私たちはこの地上を脱出して別世界に逃避することを願うのではなく、神の支配がこの地上に実現することを求めます。そして、教会を通して地上に神の支配が表されていくために、私たちの日々の必要が満たされ(「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」)、神と人との間の正しい関係が築き上げられ(「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」)、こころみや悪から守られる(「我らをこころみにあわせず、悪より救いだしたまえ。」)ことを祈っていくのです。

「主の祈り」とはまさに、「時は満ちた、神の国は近づいた。」(マルコ1章15節)というイエスの宣教の言葉を信じた者たちが祈る、応答の祈りです。この祈りを日々祈ることは、イエスが始められた福音宣教のわざを継続していくことに他ならないのです。

(続く)

使徒たちは聖書をどう読んだか(6)

(このシリーズの先頭はこちら

それでは、初代教会のクリスチャンたちの聖書解釈法はどのようなものだったのでしょうか?

使徒たちがユダヤ人たちに対してイエスがキリストであることを旧約聖書から論証し、彼らの議論は少なくともある程度の説得力を持っていたことから、彼らの解釈は当時のユダヤ人たちの旧約聖書理解と何らかの連続性を有していたということは確かです。

ただし、当時のユダヤ的釈義法は今日の歴史的・文法的釈義とはかなり異なるものでした。当時ももちろん旧約聖書の字義的な解釈法(今日で言う歴史的・文法的方法に近いもの)は存在しましたが、それに加えてミドラシュ、ペシェル、アレゴリー的解釈といった方法で、字義的な意味を超えた意味を旧約テキストに読み取る試みがなされていました。

ミドラシュとはラビによる聖書解釈(注釈)で、聖書の字義通りの意味よりさらに深い意味を探っていく解釈法です。ミドラシュにはいろいろな解釈法があります。たとえばヒレルという高名なラビ(パウロの師であったガマリエルは彼の学派に属していました)は7つの解釈原則を唱えました。その一つにカル・ヴァホメル(「小から大」。原義は「軽いものと重いもの」)という原則があります。これはより重要でないことがらに当てはまる原則は、より重要なことがらにはさらによく当てはまる、という解釈原則です。ローマ書5章15-21節でパウロはこのカル・ヴァホメルを用いています:ひとりの人アダムの違反によって罪と死が人類に入ってきたとすれば、ひとりのイエス・キリストによる義といのちはそれにもましてすべての人に満ち溢れる、ということです。

ペシェルは死海文書で有名なクムラン教団で多用された解釈法で、旧約聖書のテキストが、世の終わりに生きる自分たちの共同体に直接向けて書かれたものとして解釈する方法です。新約聖書の中では、このシリーズの第4回でとりあげた、マタイ2章14-15節におけるホセア書の引用はペシェル的解釈と考えられます。

アレゴリーは「寓喩」とも呼ばれ、表面上の字句とは異なる内容を意味する表現技法ですが、本来アレゴリー的でないテキストの言葉の裏に別の意味を読み取っていく解釈法を「アレゴリー的解釈」と呼びます。ガラテヤ書4章21-31節で、パウロがハガルをシナイ山及び地上のエルサレム、サラを天上のエルサレムに結びつけているのはその一例です。

新約聖書におけるユダヤ的解釈法についてこれ以上詳しく述べることはしませんが、結論としては、基本的に使徒たちの釈義方法は当時のユダヤ的解釈法の範疇にあったと考えることができます。これはある意味で当然のことです。聖書は特定の歴史的・文化的状況の中に生きた実在の人々によって書き記されました。1世紀のユダヤ教の中から出現したキリスト教の使徒たちが、当時のユダヤ的な聖書解釈法の強い影響を受けていたと考えるのは決して不思議なことではありません。

他方で、彼らの解釈には当時の一般のユダヤ的解釈法とは決定的に異なる「新しさ」がありました。それは端的に言えばイエス・キリストという要素です。使徒たちは十字架につけられ死んで復活したナザレのイエスがキリスト(メシヤ)であり、旧約聖書のすべてはこのイエスを指し示しているという確信に基づき、そのような視点から旧約聖書を読んでいったのです。

このような読み方は「キリスト中心的Christocentric」あるいは「キリスト論的Christological」解釈と呼ばれることが多いですが、米国の旧約聖書学者ピーター・エンズPeter Enns「キリスト目的的Christotelic」解釈という表現を提案しています。 これは旧約聖書の全体がキリストの死と復活というクライマックスに向かっているという終末論的前提に立って旧約聖書を解釈していこうとする方法です。

エンズの主張で重要なポイントは、「キリスト目的的」な解釈は旧約聖書の歴史的・文法的釈義だけからは導かれないということです。使徒たちは旧約聖書が導く救済史のクライマックスがイエス・キリストであることを既に知っていたが故に、特定の旧約テキストがイエスを指し示していることが(たとえ歴史的・文法的釈義からは導けなくても)分かったというのです。このような主張は、旧約聖書の歴史的・文法的釈義の有効性を制限するものであるため、当然のごとく福音派の聖書学者の間で議論を巻き起こしました。

エンズの主張をどう受け止めるかは人によって様々な立場があるでしょうが、この問題は結局、新約記者が見いだした旧約テキストの「意味」には、旧約記者がオリジナルの歴史的文脈で意図した「意味」以上のもの、「より完全な意味sensus plenior」が含まれるのか、ということに帰着します。新約記者たちの解釈法が歴史的・文法的釈義と同等のものであったとするならば、「より完全な意味」を考える必要はありません。しかし、使徒たちがキリスト目的的解釈を行ったのだとすれば、その可能性を考えざるを得ません。つまり、使徒たちが旧約テキストに見いだした「意味」は旧約記者たちの意図した「意味」を超えたものであったということになります。

歴史的・文法的方法の観点からすれば、これは恣意的な読み込み(eisegesis)であり、受け入れられない解釈法です。しかし、聖書の究極の著者は神であるとする福音主義的聖書観からするならば、旧約聖書のあるテキストが人間の記者の意図を超えた意味を新約時代に持つように神が意図されたと考えることは決しておかしなことではありません。そうなると問題は、聖書自体に見られる現象は、このような「より完全な意味」の存在を示唆しているかどうか、ということになります。

新約聖書のテキストに虚心に耳を傾けて行くなら、その答えは然りであると個人的には考えています。言い換えれば、新約聖書は歴史的・文法的方法に代表されるような解釈学的方法論だけが聖書解釈において規範的なのではないことを示しているのです。

(続く)

使徒たちは聖書をどう読んだか(5)

歴史的・文法的釈義は基本的には「聖書を一般の書物と同じように読む」方法です。理論的には、しかるべき手続きを踏んで聖書テキストの文学的分析と歴史的分析を行いさえすれば、誰でも「著者の意図した唯一の意味」を見いだすことができるはずです。したがって、使徒たちと同時代あるいはそれ以前のユダヤ人たちの中に、旧約聖書の綿密な釈義を通してキリストの到来について正確に理解していた者が出てきても不思議ではないはずです。しかし実際にはそのようなことは起こりませんでした。それだけでなく、イエスの弟子たちでさえ、イエスが復活されるまでは旧約聖書がキリストについて書いてあることを完全には悟ることができなかったのです。これはなぜなのでしょうか?

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(Abraham Bloemaert – The Emmaus Disciples

ルカ福音書に記録されているエマオの途上の出来事は、この問題を考える上で非常に重要な箇所です。復活後のイエスが、エルサレムからエマオに向かっていた二人の弟子に現れ、彼らの無理解を責めて言われました:

 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。(ルカ24章25-27節)

さらに、他の弟子たちにも現れたイエスは言われました:

それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。」(44-47節)

これらの箇所から二つの重要なポイントが明らかになります。第一に、イエスによると、旧約聖書の全体はご自身を指し示している、つまり、旧約聖書をキリスト論的に理解することが正しい解釈法だということです。

それに劣らず重要なことは、このことについて受難前のイエスから聞かされていたにもかかわらず、復活後のイエスによって心を開かれるまで、弟子たちはそのことを悟らなかったということです。弟子たちが旧約聖書の本当の意味を悟るには、何か決定的な要素が欠けていたのです。

ここに、使徒たちの基本的な聖書観を理解する鍵があると思われます。使徒たちは旧約聖書を正しく釈義した結果、イエスがキリストであることを確信したのではありませんでした。そうではなく、まずイエスに出会うことによって彼らは彼がキリストであることを確信し、その結果、イエスの出来事を通して旧約聖書を正しく解釈することができるようになったのです。

パウロも同様に、ダマスコの途上で復活のキリストに出会うまでは、旧約聖書がイエスについて語っていることに気づくことはありませんでした。彼は詳細な聖書研究の結果イエスがキリストであるという結論に達したのではなく、まずキリストと出会う体験があり、十字架につけられたナザレのイエスが神の子であるという確信に達して後に初めて、旧約聖書をキリスト論的に読むことができるようになりました。そのようなキリスト論的再解釈に基づいて、彼はイエスがキリストであることを旧約聖書から論証するようになったのです。

たとえばピシデヤのアンテオケにおける説教の中で、パウロはイエスが罪に定められたのは「安息日ごとに読む預言者の言葉」の成就であったと言います(使徒13章27節)。しかしこのような預言の解釈は、ダマスコ体験以前のパウロには考えも及ばなかったことであったに違いありません。

つまり、使徒たちにとっては、旧約聖書の釈義よりも、イエス・キリストとの出会いが優先していたということです。これは決して使徒たちが旧約聖書を軽視していたということではなく、彼らのキリスト体験というレンズを通して旧約聖書を読むことを通して、初めて旧約聖書が正しく(つまりイエスが教えられたような方法で)解釈できた、ということなのです。

しかし、ここで大きな解釈学的問題が生じます。このようなイエスや使徒たちの旧約聖書理解は、旧約記者たちが意図した、オリジナルの文脈における意味を忠実にとらえるものだったのでしょうか?言い換えれば、使徒たちの聖書釈義は現代でいう歴史的・文法的方法に則ったものだったのでしょうか?

(続く)