イスラエルの王イエス(1)

今年もアドベント(待降節)に入りました。イエス・キリストの最初の到来(クリスマス)を覚え、次なる到来(再臨)を待ち望む期間です。そこでこの機会に、イエスの到来の意味について考えてみたいと思います。

マタイ福音書から、イエスの誕生告知の箇所を取り上げます。

イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。
(マタイ1:18-25)

ルカ福音書の降誕物語もそうですが、マタイによる降誕物語もユダヤ的な色彩が濃厚です。そのことは、冒頭の「イエス・キリスト」という言葉からも明らかです。

今日では「イエス・キリスト」という表現は固有名詞のように扱われていますが、もともと「キリスト」という表現は固有名ではなく「油注がれた者(メシア)」を意味する称号です。イエスが生まれた当時、これはイスラエルを解放する王として理解されていました。したがって、マタイがこの書き出しで言おうとしていることは、「イスラエルの王であるイエスの誕生の次第はこうであった」ということなのです。

イエスがイスラエルの王として到来した、ということは、マタイ福音書の冒頭部分の系図でも明らかです。

アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。(1:1)

ここでも、マタイは「イスラエルのメシア(王)であるイエス」の系図について、アブラハムからダビデ王を通ってイエスに至るまでの系図を示しています。

2章ではイエスが誕生した後のエピソードが語られますが、東方から来た博士たちがエルサレムのヘロデ王を訪れて、「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。」と尋ねます(2:2)。

実際、福音書は一貫してイエスを「ユダヤ人の王」として描いており、その物語のクライマックスである受難記事においても、イエスはユダヤ人の王として描かれています。

さて、イエスは総督の前に立たれた。すると総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。(マタイ27:11)

それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集めた。そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。(27:27-29)

そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。(27:37)

このように、イエスが福音書全体を通して「イスラエルのメシア(王)」として描かれているとするなら、クリスマスとは、イスラエルの王であるイエスが来られたできごとと言うことができます。このことは、私たちのクリスマス理解にどのように関わってくるのでしょうか?

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聖霊降臨と新時代の幕開け(『舟の右側』ペンテコステメッセージ)

今週の日曜日(5月31日)はペンテコステ(聖霊降臨日)でした。それに先立ち、『舟の右側』誌に依頼されて、6月号にペンテコステのメッセージを書かせていただきましたので、同誌の許可を得てこちらにも掲載させていただきます(ただし聖書の訳をはじめ、いくつか変更を加えてあります)。内容的には過去記事「王なるイエスの元年」と重なる部分もありますが、そこで書いた内容を、もう少し広い聖書の文脈の中で捉え直したものです。

 

聖霊降臨と新時代の幕開け 

それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。 (使徒2・ 33)

ペンテコステおめでとうございます。教会暦では、復活祭から50日目にあたる日曜日を聖霊降臨の日として祝います。これは、イエス・キリストの昇天後、エルサレムにいた弟子たちに聖霊が注がれたできごとを記念するもので、キリスト教会にとってはクリスマスや復活祭と並んで重要な祝日です。

十字架につけられた後、3日目に復活したイエスは40日間にわたって弟子たちに現れた後、天に昇っていかれました。主はその際、エルサレムを離れないで、聖霊の訪れを待つようにと彼らに命じられました(ルカ24・49、使徒1・4-5)。その約束通り、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれたのです。

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。(使徒2・1-4)

この有名な「聖霊降臨」のできごとは、教会誕生の瞬間として有名ですが、そこで起こったことは、実際には何を意味しているのでしょうか? ある人々は弟子たちが「異言」を語ったことを強調します。けれども、この時弟子たちが語った言葉がパウロが手紙で語っている異言(1コリント14章を参照)と同じものであるかは定かではありません。宣教への力が与えられたできごと(使徒1・8参照)として理解する人々もいます。しかし、聖霊降臨を孤立した特異なできごととして捉えるのではなく、より大きな聖書的文脈の中に位置づけていく時に、さらに深い意味が見えてきます。 続きを読む

王なるイエスの元年

イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。 (マタイ28:18-20)

イースター(復活祭)は過ぎてしまいましたが、教会暦ではペンテコステまでは「復活節」が続いていますので、今回はイエスの復活について書きたいと思います。

ルカとヨハネの福音書によると、復活したイエスはエルサレムとその周辺でも弟子たちに現れましたが、マタイはパレスチナの北部に当たるガリラヤでの復活顕現を強調します。ユダを除く11人の弟子たちはイエスに指示された山に登り、そこで復活の主と出会いました(16節)。マタイの福音書では「山」は神の啓示を受ける特別な場所、という象徴的意味があります(山上の説教、変貌山など)。

18節から始まるイエスのことばは、マタイ福音書の結論にあたる大変重要な部分です。まずイエスは「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」と語ります(18節)。イエスの復活は、主にすべての権威が与えられた、ということを意味しています。つまり、全宇宙を治める王となったということです。このことは天に昇って父なる神の右の座に着座されることによって公に実現しますが、復活の時点ですでにこのことは確定している、ということでしょう。

イエスは復活してすべての主となられた。この事実が、この後語られるすべての根拠になります。この箇所では「すべて」を意味するギリシア語が繰り返し使われます。「いっさいの権威」(18節)、「すべての国民」(19節)、「いっさいのことを守るように」(20節)、「いつも(直訳:すべての日々に)」(20節)――イエスがすべての主となられたので、この世界のすべては永遠にその支配の中に入れられるということです。これはダニエル書7章に登場して、国々を支配する権威を神から授けられる「人の子」の記述を思い起こさせます。

この福音書は、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである 」(20節)というイエスのことばで終わっています。マタイ福音書の冒頭で、イエスの誕生が予告された時、その名は「インマヌエル」(神われらと共にいます)と呼ばれる、とマタイは語りました(1:23-24)。けれども、不思議なことに、マタイ福音書の中で(あるいは新約聖書の他のどの箇所でも)、イエスが実際に「インマヌエル」と呼ばれている箇所はありません。しかし、具体的な名前は出てこなくても、インマヌエルテーマが、マタイの福音書の結末部分でもう一度出てきます(これはインクルージオと呼ばれる文学技法です)。しかし、これはどのような意味を持っているのでしょうか? 続きを読む

悲しみの人

彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。

また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。
われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。

しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。

彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

(イザヤ53:3-5)

桜の花が咲き乱れる季節がやってきましたが、いつもと変わらないのどかな春の風景とは裏腹に、世界は不穏な空気に包まれています。連日メディアは新型コロナウイルスの話題で溢れています。今も感染者は急増を続けており、ついに日本でも緊急事態宣言が発令される事態になってしまいました。

キリスト教会もこの変化に無縁ではありません。教会も会堂に集まっての礼拝が中止され、オンラインで礼拝を行うところも増えてきました。私が所属している教会も、まず主日礼拝以外のすべての活動を休止し、先週の日曜日からはインターネットを通して各家庭で礼拝を捧げる形になりました。今教えている神学校も、3月の卒業式は規模を縮小して開催、入学式は中止となり、新年度の授業開始も4月末に延期して、授業はオンラインで行う準備を進めています。

私たちの生活は、一変してしまいました。

日本だけではありません。世界中の国々がこのウイルスの感染拡大によって大混乱に陥っています。たとえば戦争や台風のような自然災害の場合にも、局地的に大きな被害をもたらすことはあります。疫病の流行は昔もありましたが、それも特定の地域に限定されることが多かったです。けれども、今回の新型コロナウイルスはアジア、ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカ、オーストラリアとすべての地域に拡がっています。世界中が同時に同じ脅威に直面するのは極めて異例の事態と言えます。

そのような中で私たちは今週、イエス・キリストの十字架を覚える受難週を迎えました。この混沌とした世界の中で、イエスの十字架は何を語りかけているのか、自分なりに思いを巡らしてみました。 続きを読む

イエスという道

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14章6節)

これはイエスが受難前に弟子たちに語られた有名な言葉です。イエスは多くの偉大な宗教家や哲学者のように「道を示す」とか「真理を教える」とか「いのちに導く」と言われたのではなく、御自身が真理であり道であり、いのちそのものだと宣言されました。これは非常に大胆な発言と言わなければなりません。今日はその中でも、「道」ということについて考えてみたいと思います。

イエス御自身が道であると聞いて、どのような「道」を思い浮かべるでしょうか? 私自身が初めてこの箇所に触れた時にイメージしたのは、天国に向かって真っすぐ伸びる、広くてなめらかな高速道路でした。

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イエス・キリストの福音を信じた今や、自分は天国へのチケットが与えられている。あとはまっしぐらにこの道を飛ばしていけば、いつの日か天に召されて父なる神のもとに行くことができる――そんなふうに考えていたのです。

けれども、信仰生活が長くなるにつれて、ことはそう単純ではないことが、だんだんと分かってきました。 続きを読む

ピーター・エンズ著『聖書は実際どう働くか』(2)

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随分間が空いてしまいましたが、ピーター・エンズの最新刊、『聖書は実際どう働くか』についての紹介記事の続きをアップします。前回、聖書は解答を与えるのではなく知恵を与えるというエンズの主張を見ました。今回は、聖書の中に見られる知恵の表れの一つについて見ていきます。それは、より新しい時代のテクストが古い伝統を新しい状況の下で再解釈する現象です。

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死をもたらす神学

昨年のこの時期に書いた「クリスマスの星」という記事が、今年になってまた読まれているようです。そこでも取り上げた、マタイ福音書の降誕物語を改めて読み返していると、昨年とは違う側面に目が留まりました。

異教徒の占星術師である東方の博士たちがエルサレムを訪れて、ヘロデ大王に「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。」と訊ねると、王とエルサレムの住民は不安に陥ります。マタイは次のように続けます:

そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。(マタイ2:4-6)

ここで興味深いのは、ユダヤの宗教家また学者であった祭司長や律法学者たちは、キリストがベツレヘムで生まれるはずだということを、聖書から正確に読み取っていたということです。にもかかわらず、彼らは東方の博士たちのようにベツレヘムまで行ってキリストを訪ねようとはしなかったのです。(エルサレムからベツレヘムまでは10キロもありません。) 続きを読む

主にあってむだでない労苦(1コリント15:58)

すでに周囲の方々にはお知らせしてきましたが、本年3月におけるリバイバル聖書神学校閉校にともない、4月から関東に移って、聖契神学校で奉仕することになりました。以下に掲載するのは、新城教会で行なった最後の礼拝説教原稿に少し手を加えたものです。

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主にあってむだでない労苦(1コリント15:58)

「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」

この箇所はコリント人への第一の手紙の15章の最後の節ですが、15章は復活について教えている部分です。私たちクリスチャンの希望は、この肉体の死が終わりではないということです。いつの日か神さまが定められた時にイエス・キリストが再びこの地上に来られて、私たち一人ひとりの肉体をよみがえらせてくださり、私たちは主が創造される新しい天地において、新しい復活の肉体をいただいて永遠に主と共に生きることができるというのです。その内容を受けて、パウロは「だから、あなた方の労苦は無駄ではない」と語っています。私たちの働きが無駄にならないのは、復活の希望があるからなのです。 続きを読む

クリスマスの星

イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。 ・・・彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。(マタイの福音書2章1-2、9-10節)

東方の博士たちが星に導かれて幼子イエスを拝みに訪れた話は、聖書にあるクリスマスの物語の中でも、ひときわ印象的なエピソードです。

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教会の降誕劇などでも馴染み深いこの話ですが、一般に知られているストーリーには、聖書に書かれていない要素もあります。 続きを読む