『焚き火を囲んで聴く神の物語・対話篇』書評

以前紹介した本ですが、私も執筆者の一人に加えていただいた焚き火を囲んで聴く神の物語・対話篇』の書評が『本のひろば』9月号に掲載されました。評者はこのブログでもおなじみの藤本満先生です。

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藤本先生は本書の魅力を的確に、分かりやすく紹介してくださっていますが、特に強調しておられるのが、本書はいわゆる対談集ではない、ということです:

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聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その4)

その1 その2 その3

藤本満先生によるゲスト投稿の第4回を掲載します。今回は物語論についてです。

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聖書信仰(4) 物語

物語の復権

昨今、聖書の物語性、あるいはナラティブとしての聖書という表現をよく耳にするようになりました。アブラハム、士師、ダビデ、福音書、使徒の働きなど、聖書を切れば必ずと言って良いほど物語が出てきます。1974年にイエール大学のハンス・フライが著した『一九世紀における聖書の物語の陰り』という書物がきっかけとなって、急にナラティブとしての聖書が注目されるようになりました。

なぜそれまで、聖書の物語性が無視されてきたのでしょう。19世紀、リベラルなドイツの学者たちは、歴史の中に全能の力をもって介入してくる神を前提とせずに、聖書を文献として研究します。彼らの多くは、紅海が二つに分かれる物語からイエスの奇蹟や復活の物語に至るまで、神の力にあふれる物語をフィクション(神話)として読み流し、その中から宗教的な真理命題だけを抽出すればよいと考えていました。物語が記述する出来事の詳細は乏しくても、そこから宗教的なメッセージは抽出でき、理性的に解釈し直せる、と。これならば、物語を構成する「史的イエス」(歴史上の人物としてのイエス)と、そこから抽出された初代教会の「使信としてのキリスト」は別物であっても、かまわないことになります。

ここでは詳しく説明しませんが、先のフライの書物以来、聖書の出来事性、そしてそれを描く物語を「軽く見る」ような考え方は、ひっくり返されてきました。物語の復権です。(拙著16 章)

物語(ナラティブ)理解は危険か?

しかし保守的な福音主義は、依然として聖書の物語性を掘り下げることを敬遠します。それは「物語=神話」というような、上述のリベラリズムに対するトラウマが原因しているだけではありません。そもそも物語のもつ「意味の相対性・多様性」に危惧を覚えているのです。物語という文学類型を当てはめて聖書を読むと、読み手の印象によって御言葉の意味と理解は相対的になります。最終的には「託宣」としての権威を傷つけると警戒しているわけです。

もっとも物語の復権を待つまでもなく、言語学は長年、言葉の多様性・多義性(相対性)を指摘してきました。

・言葉の機能は、話し手の考えを一方的に相手に伝えるためだけではない。同じ言葉をもって、人は願い、感謝し、呪い、挨拶をし、祈り、命令し、問いかける。
・言葉は幅広く機能し、その意味も状況に応じて多様である。
・詩的な言葉だけでなく、日常の記述も、時に正確性よりも象徴性を重んじることがある。

この言葉の機能の多様性、意味の豊かさは、近代主義や科学が支配する文化においては「曖昧性」とみなされ、それが欠点であるかのように退けられてきました。この欠点を克服するために依然として、聖書のテキストは「原著者の意図にのみ限定された単一の意味しかもたない」と命題的に定義することを志してきました。

確かに、聖書の言葉を象徴的に理解しすぎ、主観的な体験で解釈していけば、限りなく相対的なものとなり、神の啓示は、星の数ほどの理解で解釈されるでしょう。これが物語論の危険性であることは認めるべきでしょう。しかし、危険性と共に可能性は莫大です。現時点で聖書の物語性を主張する人びとは、そのような相対主義を考えているわけではありません。ですから、彼らが提示している可能性に耳を傾けるべきであろうと私は思います。

物語論は、近代主義が言葉の中に、一つの意味、しかも普遍的に通用する客観的な意味を見いだそうとしたことによって、かえって、本来聖書が有している物語のダイナミズムを減じてきた現実を指摘します。マクグラスは次のように述べています。

「聖書の物語性を認めることは、聖書の啓示の豊かさを回復させることになる。この方法論は、福音主義の啓示の客観的知的真理へのこだわりをあきらめることでも弱めることでもない。それは単に、啓示は、客観的真理よりはるかに多くのことを含むことを認めること、またその豊かな啓示を教理へと還元してしまうことを防ぐ知恵を与えることにほかならない。」(拙著315 頁、参照357-360 頁)

では、物語のダイナミズムとは、どのようなものでしょうか。

物語のダイナミズム

プリンストン神学校のウィリアム・ジョンソンは次のように述べています。「物語は固定化されたものではなく、ダイナミックなものであり、それゆえ、新しい場面で新しい事柄が追行されている。換言すれば、聖書的物語は、単に私たちに神の本性について語るだけではない。現在、神がどのようなお方であるのか(神のアイデンティティ)をたえず、新しい仕方で私たちに明らかにし続ける。」(拙著314 頁)。追行されるとは、聖書の物語と私たちの物語が重なり合うことです。この考え方にそって、聖書の物語性を強調する何人かの聖書学者を紹介してみましょう。

石田学は、聖書の物語が語られるとき、「聖書の出来事や民の体験がきわめてドラマ的な仕方で、教会の会衆の想像力の中で再構築され、追体験される」と言う。「現代に生きて聖書を読む読者は、彼ら自身の生活が現代に生きる神の民としての生き方を変容され、形成されるような仕方で、聖書のドラマと自分たちのドラマを相関させるように導かれるべきである」(拙著314 頁)。そうなると、聖書の物語理解は、聖書は神の言葉であって、それを解釈して今日に適用するという、以前の聖書信仰の「上から下へ」の理解だけでは不十分です。物語は、託宣的理解を超えた聖書の言葉の「力」と「機能」を提示していることになります。

ブルッゲマンは、支配者の側に立つ者と抑圧される民の物語(ファラオとイスラエルの民、列王記のソロモンをはじめとする王族と貧しい民)を、現代アメリカ社会の物語と重ねます。彼は、神の正義と平安を歌っている御言葉が、実は利権者の方便にすぎないことを見抜いて、支配者・利権者と対峙する預言者の姿を浮き彫りにします。そのとき彼は、聖書のテキストがどのような「意味を持っていたのか?」ではなく、どのような「意味を持っているのか?」こそが、私たちが取り組むべき課題だと言います(拙著327 頁)。

その意味でブルッゲマンは、物語である聖書が、出来事や教えの「記録」ではなく、「記憶」であると言います。神の言葉は過去に固着しているのではなく、現在と未来のエネルギーにあふれている、と。古代の特定の文化と密接に結びついた物語は、過去の記録ではなく、信仰共同体の記憶として繰り返し体験され、受け継がれ、神が語られるものだと言うのです。

英国のR・ボウカムは、聖書全体を物語として見ることを主張します。聖書は不変の教理や道徳の教典ではなく、第一義的に物語(多様であっても統一性がある)である。物語は、読者をその物語の中へと引き込む力を持っています。私たちが聖書に描かれる大きな物語に登場する人物や出来事に自分自身を重ねるとき、聖書は私たちの人生、また世界の諸問題への取り扱いについて示唆を与え、その最終的な解決を教えてくれます。私たちは大きな物語の中に取り込まれて、変貌していきます(拙著332頁)。

山﨑ランサム先生もレビューしておられるN. T. ライトはさらにこんなことを主張します。彼は聖書の物語を大きく五つの舞台に区切って、次のように神学的な流れで解釈します。

「私たちは創世記一章と二章(創造の物語)を、あたかもこの世界が当時のままであるかのように読むことはしない。また、創世記三章(堕落の物語)を、創世記一二章(信仰の民)を知らされていないかのように、さらに出エジプト(旧約の解放と契約)を、さらに福音書(キリストにある契約)を知らされていないかのように読むことはない。また私たちは福音書を、それがまさに第四の舞台から第五の舞台へと移行するために記されているという事実を知らないかのように読むことはない。」

この第五の舞台を演じているのは教会です。現在の私たちは、第五の舞台に立っていて、キリストの十字架と復活礼拝の中で再現し、その恵みを担いながら、和解の福音の使者として世界に出て行きます。

ライトと共に米国のヴァンフーザーも、第五の舞台を生きる私たちと聖書の関係をダイナミックに定義します。第五の舞台に生きる私たちは、単に正典が基準となってそれに従って生きているだけではありません。正典ドラマは、物語を解釈する者をドラマの役者としても取り込んでいきます。聖書の理解は知の問題である以上に、行動の問題となります。どの時代にあっても信仰者は皆、神の国の物語の中でそれぞれの役割を演じます。そこで私たちは、この物語の中へと取り込まれているのか、自分はどの場面でだれを演じているのか、自分の人生は聖書のどの場面といま関わりをもっているのか、神はいま何をしようとしておられるのか、自分はどう応答するのかが問われているというのです。ヴァンフーザーによれば、聖書は私たちに、舞台で言う台詞を提供しているのではなく、「聖書のテキストが示唆し、意味している」ことを理解し、そこで「演じる」、すなわち神の物語の中で生きることを求めている、と。聖書の解釈は「私たちの見方、考え方、行動の仕方を刷新し変貌させる。……聖書は神のコミュニケーション行為の媒体であって、それによって真理が伝えられるだけでなく、読む者が変貌されていく」。(拙著258-260 頁)

――これくらいにしておきます。

物語のダイナミズムが注目するとき、私たちの「聖書信仰」理解も新しくされるはずです。アイルランド・メソジストのウィリアム・エイブラハムは、ボウカムやライトを引用しながら、次のように言います。「私たちは基準、正典的標準、正統主義、知識という表現から、神の国、救い、解放、備え、変貌といった表現にシフトした。私たちは認識論から救済論へとシフトした」(拙著334 頁)前者の表現の鍵を握っていたのは「命題」です。そして、後者の鍵を握っているのは「物語」です。

聖書の物語理解が聖書信仰の中に入り込み、従来の近代主義的真理と託宣にそった聖書信仰を超えて、さらに豊かな可能性が探り、「聖書こそ神の言葉である」との信仰理解がさらに深まっていくことを期待します。

(続く)

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その3)

その1 その2

藤本満先生によるゲスト投稿、第3回をお届けします。

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聖書信仰』(キンドル版)

前置き(あらためて)

あの本を著して以来、私は「包括的福音主義」者と呼ばれているらしいのです。そのカテゴリーに入れていただけることに何ら不満はありません。私は神学が信仰信条という枠にはめられたものではなく、モザイク的でよいと主張しています。また、批評学やポスト近代による近代主義批判に耳を傾けようという姿勢を表明しています。ただ、私が提示したかった趣旨は、少し観点が違います。

私は、「聖書信仰」を神学的に論じる場合、改革派・長老派系の論ばかりに偏っていると感じてきました。もちろん、聖書信仰の巨人にプリンストン(当時は厳格な改革派神学)のウォーフィールドのような人物がいましたので、神学的にはそちらの論が中心に展開されて当然と言えば、当然だったのです。日本で聖書信仰を神学的に論じてきたのは、岡田稔、また戦後に訳されたパッカーと、いずれもウォーフィールドに傾倒していきました。

しかし、ここであらためて救済論的な視点で論じる聖書信仰の復権を、拙著は掲げました。その意図は、これまでの聖書信仰の中心をそのままにして枠の範囲を外へと広げるというよりは、何も中心点はそこ(ウォーフィールド型)だけではなかったのではないか、という主張です。そこで、聖書信仰に「第二の視点」の導入を試みました。

少し言い換えてみましょう。福音派は、「聖書は誤りなき神の言葉」という命題で括るのが一般的です。この命題はさらに二つのタイプに分かれます。第一のタイプは、17世紀のウェストミンスター信仰告白のように、「誤りなき」という範囲を救いと信仰生活の領域を想定します(無謬論)。もう一つのタイプは、19世紀後半のプリンストン神学や20世紀後半のシカゴ宣言のように、聖書に記されているすべての事柄に誤りがないとして、その範囲を科学や歴史にまで広げます(無誤論)。

「誤りなき」という定義づけで、どちらを選ぶか?と問われれば、私は前者を選びます。それは後者の方は、リベラリズムと同じ土俵でリベラリズムを批判することで、かえって聖書の本質を見失っていると思うからです(拙著17章B「聖書はモダンの客観性を超える」)。

しかし拙著は、上記二つの選択枝とは異なる次元での「聖書信仰」を提示しました。それが、敬虔主義や信仰復興運動に見られた、聖霊が御言葉を用いて神の力を働かせ、人の罪深さを確信させ、神の愛を心に注ぎ、神の平安を与える、聖書はいわば「実効力を持った救いの導管」です。言うなれば、伝道的・救済論的な聖書信仰です。

この次元での聖書信仰は、神学的考察を欠いた「一般の信仰者レベル」の聖書「感」とみなされてきました。しかし、決してそうではありません。「導管」(means, channel)という用語は、英国教会の中で脈々と息づいてきました。そして神の言葉・聖書は神の創造・贖い・新創造の導管であるという表現を、最近ではリチャード・ボウカムやトム・ライトが頻繁に用いています。

私は、この次元における聖書信仰を「あえて」ウォーフィールド型と区別して論じました。しかし、本当はそれを別物として区別する必要はないのでしょう。それを一つのことと論じれば(拙著18章A「神の口と神の手」)、それは聖書信仰の豊かさをさらに掘り下げることになるのではないかと思うからです。

私が山﨑ランサム先生のブログへ寄稿させていただきましたのは、もちろん、先生からのお招きがあったからです。加えて申し上げるなら、先生が拙著を読んでくださったときに、上述の意図を明確にくみ取ってくださったからです。

 

聖書信仰(3)言葉の限界・言葉の力

近代主義は、世界の客観性とそれを認識する理性、さらに理性の道具である言語、という大前提の上に成り立ってきました。世界には客観的秩序があり、個々人にはそれを把握する力、すなわち理性が備わっている。その理性の道具の筆頭が言語です。

客観的世界が正しく理解されれば、それは真理と呼ばれます。そうしてとらえられた真理は命題的に定義され、さらに種々の命題は論理的に組み合わされて一つの体系を構築するようになります。ですから、17世紀プロテスタント正統主義にあっても、プリンストン神学や、それ以降の米国福音派にあっても、聖書信仰が最終的に到達しようとする先は、しっかりとした組織神学でした。

このような近代主義に対する批判は、拙著でも取り上げましたが、山﨑ランサム先生のブログに掲載されている「確かさという名の偶像」の連載を読んでいただければ、よくわかります。

近代主義に染まった聖書信仰を、たとえば、福音派のバーナード・ラムは次のように批判します。「命題的啓示を強調する昨今の福音主義の強調が、実のところヘーゲルの純粋概念言語の一つの表れにすぎないとは驚くべきことである」(拙著9章B)。神が無限であるとしたら、有限である人間がその言語をもって無限なる神をとらえることはできない、と考えるのが普通ではないか、とラムは述べています。あるいは戦後日本の聖書信仰を率いてきた村瀬俊夫先生も、こう述べています。「十全に霊感された言語とは、どういう言語なのか。考えられるのは『絶対的な意味をもつ、不可謬である言語』という概念である。しかし、そんな概念の言語を歴史的次元における文化的現象の中に求めるのは、〔すべて歴史的なものは相対的であることを免れないのであるから〕不可能である」(拙著12章C)。

これらはいずれも近代主義に染まった逐語霊感説への批判です。言語はそこまで普遍的な役割をになうことができるのでしょうか? ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」という表現を使って、それぞれの世界を体験する感じ方・とらえ方・表現法は、同じであるはずはなく、一つの世界の言語をもってして普遍性を主張することはできないことを主張しました。言語は社会性を帯びています。それはすなわち言葉の個別性であり限界性です。

スイスのソシュールは、人は言葉によって単に客観的な事実や実在世界を写し取って把握するだけでなく、言葉の世界を編むことによって社会や文化を創り上げると述べました。そして、人が現実を把握し、編み上げているのは、純粋理性を助ける普遍言語によってではなく、特定の時代・世界における、その時代・世界に固有な言語によります。ですから、この時代・世界に生きるとき、私たちの存在のあり方も出来事の経験の仕方も、またそれを解釈する方法も、決して普遍的なものではありません。

しかし、この言語の持つ制限に着目したからと言って、聖書のテキストに神秘性・聖性は失われたと結論する必要はありません。以下に3つの主張を挙げておきます。

①たとえば、福音派の言語霊感説とはおおよそ立場を異にするポール・リクール(フランスの哲学者、人生の後半でシカゴ大学神学部教授)でさえ、次のように述べます。リクールは、キリスト教は聖書が書かれたヘブル語、アラム語、ギリシャ語という言語に特権を与えることをせず、他の言語に自由に翻訳し、それがあらゆる文化言語で読まれることを期待してきたことに注目します。つまり、聖書の聖性がテキストそのものにあるのではないと考えるからこそ、翻訳が可能であり、そこには批評的精神も許されてきた。これが聖書とコーランの決定的な違いだと言います。(コーランはムハンマドがアッラーから受けた啓示を一言一句書き留めたものですから、翻訳は許されません。アラビア語こそが神聖な言語であり、そこに直接的な啓示があるからです。)

しかしリクールは、それでもユダヤ教もキリスト教も、聖書のテキストに独特な聖性を与えてきたことを信じます。聖書が神の言葉であるのは、聖書の「テキストの世界」がテキストの前方(テキストによって繰り広げられる世界)に「読者の世界」を引き込む神性な力を有しているからだとリクールは言います。読者がテキストを受け入れるとき、テキスト世界と読者の世界が交わり、読者を変容させる力が働くというのです。それは、寄稿2で取り上げた聖霊が御言葉を用いるからです。

②さらに、言語の歴史性・文化性という制約を大胆に乗り越えるバルトの発言も紹介してみます。教義学的方法ではなく、歴史的方法を自覚に取り入れてキリスト教を解釈しようとしたトレルチという人物がいます。彼は、全人類の唯一の中心点を、歴史のただ一点(キリストの出来事)に見ることは、「古代の、あるいは中世の、牧歌的な小規模で狭い世界像」に過ぎず、そこからキリスト教の絶対性はおおよそ証明できないと結論しました。

しかし、これに対してバルトは次のように応えます。キリスト教は、その絶対性を証明できなくても、その「真理性」を堅持することができ、そして真理性は絶対性を凌駕する、と。キリスト教の真理の物語は、著しい浸透性・拡散性をもっていて、たとえ真理がからし種のように小さく見えても、歴史の中で大きな枝をはることができるのである、と。私はなんとも胸のすく答えだと思います。つまり言語の普遍性を歴史的文脈による制限・制約にゆずったとしても、その真理性まで消し去る必要はないのです。

③あるいはマクグラスは次のように主張します。きわめて限定的な(狭い)、妥協のないキリスト論的スタンスこそが、福音主義の伝統である。かつてリベラリズムが普遍的理性・普遍的経験を支えにキリスト教信仰の真理性を説明しようとしたのとは違い、また聖書を普遍的土台としてキリスト教信仰の真理性を弁証しようとしたモダンな福音主義とも違い、聖書が証しするキリストと福音こそが、きわめて限定的であっても、それは普遍的インパクトをもっている。そのことを常に説いてきたのが福音主義ではないか、と(すべて拙著14章D)。私はこれもまた爽快な答えだと思います。確かに私たちは世界の片隅にあって、キリスト教言語がおおよそ通用しない日本で、聖書の語る真理性を堂々と主張してきました。聖霊は、このユダヤ的な概念さえも用いて、人の心を打つ、と信じてきました。

①~③のどの主張も、近代主義に基づいた理性の普遍性と言語の客観性に固執しなくても、そして言語学の一般的な理解を受け止めたとしても、それによって聖書信仰が崩れるわけではない、という主張を支えていると私は考えています。

日本に育ち、日本語しか話さない私であれば、日本語でしか物事を考えられないし、日本語にない概念については語ることができません。ですから、聖書信仰に立つ聖書学者は、様々なツールを駆使して古代の世界に入り込み、当時の状況の中で言葉を釈義し、現代の私たちにも理解できるような方法で聖書を翻訳し、その言葉の意味を教えてくれているのではないでしょうか。そして前回の寄稿で聖霊の働きに言及したように、聖霊は、過去の記者と現在の読者との橋を架け、聖書の言葉を現代の私たちに生き生きとした神の言葉として響かせるのではないでしょうか。

 

ポスト近代主義から学ぶことができるのは、言語の限界性だけではありません。その力強い可能性も教えてくれます。注目したいのは、「言語行為」(スピーチ・アクト)という考え方です。言葉を発するときに、発言者はその言葉の出来事の中に入るという「言語行為」の理論は、イギリスのJ・オースティンやアメリカのJ・サールによって明らかにされ、真理や歴史事実の記述言語としての聖書の考え方を大きく変えてきました。聖書の言葉を聖霊が用いて今日に力を及ぼすだけでなく、言葉そのものに現在的な発言者の力も含まれているという考え方です。「光あれ」「これはわたしのからだです」という言葉は、単なる記述言表ではなく、発言した者がそれを実現する力のある言葉である。

先のリクールが聖書観にこの考え方を導入しました。福音派のヴァンフーザーも特にこの考え方を取り入れて聖書信仰を論じていますので、それをここで紹介しておきます(詳しくは拙著18章)。

ヴァンフーザーは「聖書即啓示」、「聖書=神の命題」という考え方が、きわめて近代主義に染まった聖書観であると批判しつつも、啓示の「言葉」性にこだわります。神が絶対的な超越者であるとしても、その神が人格的存在であるとしたら、人に対して何かを行うだけでなく、人と出会い、人に語りかけ、人格と人格をめぐるコミュニケーションを取ろうとされることに何ら不思議はない、と。その主要な手段が言葉です。偶像が言葉を発することができないのであれば、真の神である第一の証しが、その言葉にあるといっても過言ではありません。

言葉のコミュニケーションを考えつつ、ヴァンフーザーは「言語行為論」に立って、コミュニケーションにおける言葉の「実効力」を論じます。人が人に対して言葉を発するとき、それは言葉だけのことではなく、言葉の意味するところが行動となる、いわゆる言葉の後を追いかけて行動が伴うというのです。ですから、人は言葉によって人と出会い、言葉のコミュニケーションによってつながれていきます。神が人と出会われるとき、神は人のために語られます。神が、何かを命じ、警告し、約束し、赦す言葉を発せられると、その言葉はむなしく神へと戻ることはありません。神は発せられた言葉に真実であり、スピーチとそれに基づくアクトを通して、人は神がいかなる方であるかを体験します。また神が語りかけるとき、それは過去や将来についての叙述に限りません。問いかけ、警告、約束、祈り、賛美、物語、手紙等、様々なジャンルを用いて、神は私たちに「実効力」の伴う言葉をもって語りかけるというのです。

ヴァンフーザーは、言語行為として神の言葉を考えるとき、もはや「聖書は神の言葉である」あるいは「聖書は神の言葉となる」という区別は意味をなさないと言います。そもそも言葉をコミュニケーションと考えるならば、聞き手の応答はコミュニケーション成立のために必須です。聖書それ自体が神の言葉であるとしても、聞き手がそれに応答しない限り、神の言葉としての有効性はありません。聖霊の働きによって、神の言葉が聞き手・読み手に受け止められてはじめて、コミュニケーションが成り立ち、神の言葉が成立していることになります。その両方を含めない限り、人格と人格が交わるコミュニケーションとしての言葉は成立していません。言葉の真髄は、真理の言表にあるのではなく、コミュニケーションの「力」にあります。

だからこそ、神の言葉は、その目的とするところを達成します。この目的とは、最終的に何でしょうか。ヴァンフーザーは、それが神の言葉の具現化(embodiment)であると考えます。神の言葉は、契約の民の生涯・言葉・行動において今日的意味をもって新たに繰り返し具現化されていきます。「神は、聖書の中の律法・知恵書・詩歌・黙示・預言・物語とあらゆるジャンルにある言葉によってキリスト者の存在を形づくっていく。つまり聖書は、キリストにあって神がなされたことの現実を神の民の生の中に具現化していくために『神が定められた手段』(ordained means)である」と。

私が冒頭に記した「前書き」の課題を、ヴァンフーザーは現代の言語論を取り入れた神学理解をもって見事に、繊細に論述しています。しかも彼が、ウォーフィールドの引用をもって、自身の主張を締めくくっているところに、さらに奥へと歩を進めることができる「聖書信仰のあり方」を示しているよう思います。

「聖書は……啓示の一記録たるにとどまらず、それ自身神の贖罪的啓示の一部である。すなわち、神が世を救いつつある贖罪的行為の記録としてだけではなく、それ自身これらの贖罪的行為の一つとして、神の国樹立・建設という大事業にそれ自らの果すべき役割を持つものとして、考えられている。」(『聖書の霊感と権威』、一六〇頁)

 

*次回は、物語論についてお話します。

確かさという名の偶像(25)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は「結びのことば:信仰をどう生きるか」を取り上げます。

この最後の章でボイドは、彼自身が信仰と疑いをどのように生きているかについて語ります。たしかに、私たちは信仰の歩みの中で自分が信じていることがらについて深い確信を抱くようなときがあります。それについてボイドは言います。

私はそのような時を大切にはする。しかし、それらを追求することはしない。時として確信を持つことができるなら、それは賜物である。けれども心理的な操作によって確信を持とうと努めることは、決して適切なことでも健全なことでもないと思う。(p. 251)

それでは、確信ではなく疑いを抱いてしまうときにはどうすればよいのでしょうか?

疑いが長引くときには、私はただ一歩下がって、すでに何度も探求した、「なぜ私は自分が信じていることを信じているのか?」という問題をもう一度検討してみるだけである。疑いとは、乗り越えなければならない問題ではない。それはさらなる探求への招きなのである。それは信仰の敵ではなく、友なのだ。(p. 251)

ボイドは、イエスが神の究極の自己啓示であるということについて、それが真理であるかのように生きる人生にコミットするために必要なだけの確信さえあれば、疑いや確実性の感覚は、彼自身の信仰の歩みとはまったく無関係であると言います。このコミットメントによって、ボイドはイエス・キリストに対する信仰を持って毎日を情熱的に生きることができる一方で、信仰に対するさまざまな反論を探求し、それを自らの信仰の再検討のために役立てると同時に、同じような問題で葛藤している人々を助けることができるようになると言います。このような柔軟な信仰の姿勢は、疑いを恐れて極力それを排除しようとする信仰のモデルとは大きく異なっていることが分かります。

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本書においてボイドが展開してきたような、確実性を追求せず、疑いを排除しない信仰のあり方は、今日大きな意義を持っていると思われます。「十字架につけられたイエス・キリスト」を信仰と神学の中心に据え、このキリストにおいてご自身を完全に啓示された愛なる神との人格的な契約関係から与えられるいのちをよりどころにして生きていくとき、たとい疑いや苦しみや知的チャレンジに直面しても、それらを信仰に対する脅威としてではなく、むしろ信仰を深め成長させる契機として受けとめることができるのだと思います。

ますます多様化し、情報化する現代社会において、キリスト教信仰は教会外からのさまざまなチャレンジ(たとえば宗教多元主義や科学と信仰の問題など)に直面しているだけでなく、教会内に存在する教理的・実践的多様性も無視できなくなってきています。福音派と呼ばれる保守的プロテスタント教会も例外でないことは、先日紹介した藤本満先生の『聖書信仰』を読めば明らかです。以前なら日曜日に所属教会で聴く礼拝説教が主な情報源であった信徒の人々も、今ではインターネットで簡単に様々な情報にアクセスすることができ、自分が育ってきた教会的伝統以外のあり方に触れることができるようになりました。私は個人的にはこれは健全で好ましいことだと思っていますが、同時にそれは自分の信仰のあり方をたえず吟味することを迫られる時代ということでもあります。絶対的な真理を確実性を持って信じることに信仰の本質を見いだすという、今日広く見られる確実性追求型信仰のモデルは、このようなチャレンジに対して硬直した融通のきかない対応しか見せることができず、一方では世に対して効果的な証しをすることができず、他方では知的に誠実であろうとする真摯な信仰者をつまずかせる危険性があると思います。

ボイドが本書で展開しているような確実性追求型信仰への批判は、モダニズム的な信仰のあり方に対するポストモダニズムの立場からの批判ということができます。確実性追求型の信仰は、客観的な真理が存在し、適切な方法(それは知的な神学的探求であるかもしれませんし、霊的な宗教体験かもしれません)を用いさえすれば、その真理を正確に把握することができると考える点で、モダニズムの考え方に基づいています。ポストモダニズムの立場では、そのような、絶対に確実な知識を持つことは不可能であると考えます。なぜなら、すべての知識は認識する主体が置かれている特定の文化的・歴史的なコンテクストによって影響を受けると考えるからです。

このことから、保守的なクリスチャンの中にはポストモダニズムを敵視する人々もいます。けれどもそれは一面的な見方です。ポストモダニズムも一様ではなく、いろいろな立場がありますが、大きくハードなポストモダニズムとソフトなポストモダニズムの二つに分けて考えることができます。ハードなポストモダニズムは客観的な真理の存在そのものを否定するラディカルな相対主義で、このような立場は当然神の存在を前提とするキリスト教信仰とは相容れません。しかし、ソフトなポストモダニズムでは客観的な真理の存在を否定するわけではありません。この立場がモダニズムと違うところは、客観的な真理は実在するが、それを絶対的な確実性を持って認識することはできないとするところです。

私はこのようなソフトなポストモダニズムの認識論はじつは非常に聖書的な立場ではないかと考えています。それはパウロの次の言葉に通じるものです。

わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。(1コリント13章12節)

ここでパウロが言うように、たしかに客観的な真理としての神は存在しますが、限界のある被造物である人間には神のすべてを絶対的な確実性を持って知ることは(すくなくとも今の世では)不可能です。それでは、神を知ろうとする試みには何の意味もないのでしょうか?そうではありません。確かに絶対確実な知識を持つことは不可能だとしても、たえず自己の認識を批判的に吟味していくことによって、ちょうど数学における漸近線のように、真理に到達することはできなくても、それに近づいていくことはできるのです。私たちはそのことを謙虚に認め、他者から学びつつ、成長していく必要があります(このことについては以前書いたこの記事をご覧ください)。

確実性追求型信仰の落とし穴は、このように真理に向かって成長していくプロセスを無視して一足飛びに真理を手にしようとするために、自分が現在手にしている知識の体系(それは往々にして、最初に信仰を持った教会で教えこまれた教理であることが多いのですが)を絶対視してしまい、それを死守することが信仰であると思ってしまうところにあります。ボイドの提唱する信仰モデルでは、信仰者はより柔軟で謙遜な歩みをすることが可能になります。そしてそのような信仰の歩みにあっては、疑いや迷い、考えを改めることは決して避けるべきことではなく、むしろ成長のために必要なものであることが分かります。

しかし、確実性追求型信仰の問題は、それがポストモダンの現代社会では「うまく機能しない」ということだけではありません。ボイドが指摘する最大の問題は、本シリーズのタイトルにもあるように、確実性追求型信仰では「確かさ」ということが偶像、すなわち信仰者にとってのいのちの源泉となってしまうということだと思います。十字架のイエス・キリストを通してご自身を啓示された愛なる神との人格的関係からではなく、自分の信条に対する心理的な確実性の感覚(それが知的な神学的体系によるものであれ、何らかの宗教的体験によるものであれ)からいのちを得ようとする試みは失敗に終わります。なぜなら、そのような信仰者にとっては、自分のアイデンティティや存在価値や安心感は、いかに確実な真理の体系を把握・所有しているかどうかにかかっているからです。したがって、自分の信じているシステムが何らかの知的議論や人生の体験によって脅かされるなら、たちまちそのようなアイデンティティや存在価値や安心感は失われてしまいます(だからこそ、そのようなタイプの信仰者は自分の持っている確実性の感覚が脅かされないようにあらゆる手を尽くします)。言い換えれば、確実性という偶像はいのちを与えることができないのです。

ブログではあまり紹介できませんでしたが、本書ではボイドの個人的な信仰の歩みについてもかなりの紙数が費やされています。彼の祈りの生活など、興味深い内容が多いですが、中には普通なら他人に明かしたくないような失敗や罪についても赤裸々に綴られています。それは本書の神学的な内容を身近なものにするだけでなく、彼が自分の信仰を生きている証しとして貴重なものであると思います。ボイドは自分の弱さをさらけ出し、信仰の歩みの紆余曲折について語り、もっとも驚くべきことには、自分が本書で主張していることがらですら、絶対的な確信があるわけではないことを認めるのです(そしてそれは、確かに本書の中心的主張と首尾一貫した態度です)。彼がそのようにできるのは、いのちの源を自らの「信仰の強固さ」や「神学の正しさ」にではなく、イエス・キリストにおいてご自身を啓示した神との人格的関係に置いているからこそと思えるのです。

*     *     *

長きにわたって連載してきたこのシリーズも、今回が最終回です。このシリーズを通して、これまで日本でほとんど知られていなかったボイド神学の一端を紹介することができたと思います。連載中から、何人もの方々からフィードバックをいただき、彼の神学に対する関心が広まりつつあることを実感しています。重要なことはボイド師の主張すべてを無批判に受け入れることではなく(それはまさに、彼が本書を通じて主張してきた信仰のあり方に反することです)、彼の問題意識を受けとめ、私たちの信仰や生活のあり方に関わってくる部分があれば、それを批判的かつ創造的に取り入れていくことだと思います。グレッグ・ボイドの神学については、今後も折に触れて紹介していきたいと思います。

(完)

藤本満著『聖書信仰』を読む

たいへん素晴らしい本が出版されました。藤本満先生(イムマヌエル綜合伝道団高津キリスト教会牧師・イムマヌエル聖宣神学院教師)による、『聖書信仰―その歴史と可能性』(いのちのことば社)です。

聖書信仰

本書は昨年11月に行われた日本福音主義神学会全国研究会議における、藤本先生の発表を元にしています。私もその場にいて先生の発表を拝聴し、深い感銘を受けた者の一人でしたので、本書の出版を心待ちにしていました。出版後早速入手して、研究会議の感動を新たにしつつ読了しました。

本書の主題は、タイトルにもあるように「聖書信仰」です。この言葉は、福音主義キリスト教の核心をなすものとしてしばしば語られますが、それはそもそもどのようなものなのでしょうか?藤本先生は本書の冒頭で次のように述べておられます。

「聖書信仰」という表現には、あたかも聖書を神やキリストと同じく信仰の対象であるかのような印象を与えるので、違和感を覚えるかも知れない。ただ、この日本語の表現は、戦前から岡田稔等が、いわゆる聖書の逐語霊感説・十全霊感説に立つという聖書理解を、当時一世を風靡した高倉徳太郎の『福音主義キリスト教』と区別するために用いてきたことに端を発している。私はこのような「聖書信仰」の定義づけを固守するために本書を記しているのではない。むしろ、「聖書を誤りなき神の言葉」とするという福音主義の聖書理解を歴史的な流れにそって検証することで、この言葉に含まれる真意を明らかにし、さらに今後の可能性を論じてみようと思っている。(16頁、強調は引用者)

今日の福音主義では、「聖書信仰」は逐語霊感(神の霊感は聖書記者の言葉の選択のレベルにまで及んでいる)、十全霊感(聖書はその全体が霊感されている)、そして無誤性(聖書は科学や歴史に関することがらを含め、すべての内容に関して誤りがない)といった諸概念と関連づけて語られることが多いですが、藤本先生はそのような福音主義の聖書観が形成されてきた歴史的過程を宗教改革にまで遡って丁寧にあとづけ、さらにポストモダニズムなどの現代的課題にも触れながら、将来の可能性を探っておられます。

特に、聖書信仰の歴史をたどることによって、福音主義における聖書理解には歴史的に豊かな多様性があったことを説得力を持って描き出している前半部分の議論はたいへん貴重です。先生ご自身の表現によりますと、福音主義の「聖書信仰」という「水槽の中には複数の流れがあり、その中を泳ぐ魚の種類が多」かった(392頁)ということです。

宗教改革に端を発するプロテスタントの聖書観の歴史は決して単一のラインで発展してきたわけではありません。本書ではそれが大きく二つの流れでとらえられています。一方は17世紀プロテスタント正統主義につながる主知主義的に真理を追求する流れで、これはプリンストン神学からファンダメンタリズムを経て、主にアメリカの保守的な新福音主義に受け継がれ、さらに日本の福音主義にも大きな影響を与えてきました。この流れでは、客観的な真理の啓示としての聖書の側面が強調され、「誤りのない聖書」というア・プリオリな前提から出発して神学の体系を構築していこうとしました。上で述べたような、逐語霊感・十全霊感・無誤性といった今日の福音派に馴染み深い概念はここから生じ、無誤性は自由主義と聖書批評学に対する防波堤の役割を果たすようになっていきます。

もう一つの流れは18世紀の敬虔主義と信仰復興運動につながるもので、神が今日聖書を通して人間に語りかけ救いに導く力という、聖書の機能的・救済論的な側面を強調します。藤本先生は「信仰的な批評学believing criticism」を掲げて、聖書批評学に対してより開かれた態度を見せるイギリス福音主義もこの流れの中に位置づけています。

本書によると、今日のアメリカや日本の福音主義「聖書信仰」に直結する重要な歴史的転回点となったのは、1970年代にアメリカにおいて福音派の保守勢力が、その聖書観を一気に硬化させたことです。1976年にハロルド・リンゼル著『聖書のための戦い』(「 これほどまでに時代を後退させ、過去に論争を蒸し返した本はなかったであろう。 」152頁)が出版され、その2年後には「聖書の無誤性に関するシカゴ声明」が出されました。この声明は聖書の無誤性を強力に打ちだし、「これまで存在してきた福音主義の聖書理解の『幅』を否定した」ものであったとされています(213頁)。このような限定された形での「聖書信仰」は日本の福音派にも影響を与え、日本プロテスタント聖書信仰同盟(JPC)が1987年に発表した「聖書の権威に関する宣言」においても、基本的にシカゴ声明の路線が踏襲されています。日本では1980年代に聖書論に関する論争が行われましたが、議論の深まりが見られないまま簡単な幕引きがなされてしまったため、「日本においては、シカゴ宣言によって、福音派の聖書信仰は身動きが取れない定式にはめ込まれることになったのである。」というのが藤本先生の評価です(215頁)。

本書の後半では、近年における聖書論の展開を概観しつつ、福音主義「聖書信仰」の可能性を探るという内容になっています。ここで取り上げられているのは主にシカゴ声明に典型的に見られるようなモダニズム的聖書観にポストモダンの立場から加えられている批判(命題中心主義や基礎付け主義への批判、物語や共同体の強調など)に対して、より柔軟に対話をしていこうとする態度です。

いまやポスト近代による近代の批判は定着しているのではないだろうか。近代主義が批判されれば、近代の思想的背景をもって形づくられた聖書観も批判を受けて当然である。そのような批判がなされるときに、過剰な拒否反応は不要ではないだろうか。(18頁)

このような藤本先生の主張は、前半の歴史的分析で明らかにされた福音主義聖書観の多様性というコンテクストに照らして考える時、決して単なる時流への迎合ではなく、むしろかつての福音主義が持っていた豊かな聖書観を取り戻していこうという呼びかけであることが分かります。ハンス・フライの「寛容な正統主義generous orthodoxy」という表現を引きながら、「福音主義にはそもそも、そのような『寛容さ』が歴史的に備わっていた。」と先生は言われます(393頁)。そして、福音派の教会がそのような素晴らしい歴史的遺産を継承しつつ、新しい考えにもオープンな姿勢で対話を深めていくことが、これからの福音主義の発展のために必要であるというのです。

聖書を誤りなき神の言葉として信じている純粋な信仰に水を差すつもりはない。ただ、信仰者が聖書を読んで様々な疑問を持つとき、それらの疑問を一辺倒に「聖書信仰」という看板で抑えつけ、批評学を批判し、聖書とは本質的にどのような書物であるのか、聖書をめぐる様々な考え方を無視するようであれば、それは先に紹介したマーク・ノルの言う「福音主義のスキャンダル」である。(394頁)

上で見た福音主義聖書論の二つの大きな潮流、すなわちプロテスタント正統主義の流れと敬虔主義の流れからいうと、本書のシンパシーは明らかに後者にあります。しかし、藤本先生は決して前者を敵に回すことは意図していないと明言されます。そこには「あれかこれか」の二者択一ではなく、その多様性をむしろ福音主義の豊かさとして積極的に評価していこうと言う姿勢を見ることができます。

聖書信仰は新たな多くの可能性を取り込んでモザイク的で良いと筆者は思っている。なぜなら、福音主義の聖書信仰は歴史的にそのようなものであったからである。(398頁)

本書は福音派の中ではかなりセンシティブな問題に正面から取り組んだ意欲作といえます。藤本先生の「聖書信仰」理解や個別の論点について同意しない方もおられるかもしれません。しかし、「霊感」や「無誤性」に関する議論がともすると感情的な水掛け論やレッテル貼りに終始してしまう危険性をはらんでいることを考えると、本書のように歴史的なコンテクストの中に議論を位置づけることによって、より冷静で有意義な対話が生まれてくるのではないかと思います。そして、論争を引き起こす可能性のある本書をあえて世に問うた出版社の英断にも拍手を送りたいと思います。教職者・神学生はもちろん、広く福音派のクリスチャンに読んでいただきたい、おすすめの一冊です。

 

確かさという名の偶像(17)

(シリーズ過去記事 第1部          10 第2部 11 12 13 14 15 第3部 16

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズも第3部に入っています。なるべく1回で1章を紹介しようと努めていますが、内容が濃くて1回では紹介しきれない章もあります。今回も第8章「強固な中心」の続きになります。

信仰の同心円モデル

前回も見たように、ボイドは福音派によく見られる「トランプの家」的な信仰モデルを批判します。このモデルにおいては、すべての信仰箇条が他のすべての信仰箇条に依存しているので、一つの要素が否定されると、全体が崩れてしまいます。それに対してボイドは同心円的な構造を持った信仰のあり方を提案します。それはいのちの源であるイエス・キリストを中心としてすべての信仰箇条をとらえるモデルです。ボイドが提唱する信仰モデルにあっては、個々の信仰箇条はそれ自体が目的ではなく、すべてこの中心であるイエス・キリストを通して神との人格的契約関係を持つために存在しているのです。

このイエス・キリストを中心に、ボイドはクリスチャンとしてのすべての信仰箇条を位置づけていきます。ここでポイントとなるのは、すべての信仰箇条は同じ重要性を持っているわけではないということです。より重要な要素は中心に近く、そうでないものは遠くというように位置づけていくと、クリスチャンが信じているさまざまな信仰箇条は、次のような同心円上に分布することになります。

信仰の同心円モデル信仰の同心円モデル

ボイドは中心に近い内側の輪を「教義dogma」と呼びます。これは歴史的正統キリスト教会が一貫して尊重してきた最も重要な信仰箇条で、ニカイア信条や使徒信条などで告白されているような内容です。ここにはたとえば三位一体論、キリスト両性論(イエス・キリストの神性と人性を両方とも認める立場)などが含まれます。

次の輪は「教理doctrine」と呼ばれます。ここには、正統的キリスト教会が常に受け入れてきたものの、その理解については見解の違いがあるようなものが含まれます。このレベルにおける立場の違いによって、様々な教派が分かれてきます。たとえば、神がこの世界を統治されるということはすべてのクリスチャンが認めてきましたが(つまりこれは教義です)、神がどのようにその統治を行われるかについては、見解の違いが存在します。つまり、神が歴史上起こるすべてのことがらを直接コントロールされるのか、それとも被造物にある程度の自由意志を与えておられるのか、ということです。

最後に、一番外側の輪は「意見opinion」と呼ばれます。これは個々のクリスチャンが時として主張することがあっても、キリスト教会全体において広く支持されることはないものです。これは特定の教理の異なる解釈として生じてくることが多いです。ボイドはこの中に含まれるものの例として、創世記1章1節と2節の記述の間には長い時間的隔たりがあるという、いわゆる「ギャップ理論」や、未来は部分的に開かれているという考え(いわゆるオープン神論)を挙げています。

ボイドはこのような信仰のモデルには多くの利点があると言います。このモデルは柔軟性に富むために、個々の信仰者が、中心であるキリストとのいのちにあふれる関係を保持しつつも、知的・霊的に成長していくことを容易にします。彼らのいのちがキリストに根ざしている限り、どのような問題について悩んだとしても、それらに真摯に向き合うことができるのです。したがって、このモデルを採用することによって、クリスチャンは異なる立場の信仰者やノンクリスチャンと、さまざまな主題について、愛をもって、防御的にならず、理性的に話し合うことができるようになる、と言います。これはまさに「確実性追求型」信仰、「トランプの家」的信仰の弱点をカバーする重要な利点であると言えます。

ボイドはさらに、このモデルは他者に福音を分かち合う時にもたいへん有効であると言います。多くの人々はキリストとのいのちにあふれる関係に魅力を感じながらも、キリスト教会が「福音」をさまざまな要素(聖書の無誤性、若い地球の創造論など)からなる「パッケージ」として提供し、その全体を受け入れるか、拒否するかの二者択一を迫るために、その一部でも受け入れられない場合、福音の全体を拒絶してしまうという残念な事態が生じています。しかし、同心円モデルでは、人々はまずキリストと人格的関係を持つことから始め、歴史的正統キリスト教会の教義を学ぶところから出発して、あとは自分の知的興味に応じて自由にさまざまな主題を吟味し、成長していくことができます。そこでは、さまざまな教理や意見に関する議論は信仰に入るための前提条件ではなく、すでに信仰を持った者たちの間の「仲間うちの議論」として位置づけられます。そして、このレベルにおける立場の違いは、キリストとのいのちあふれる関係を脅かすことはないので、愛をもって、防御的にならず、楽しみさえ覚えながら行うことができるとボイドは言います。

*     *     *

このブログを開設当初から読んでくださっている方は、ここでボイドが提示している「同心円モデル」は、「違いの違いが分かる男(女)」で提案したモデルとよく似ていることに気づかれたことと思います。ただし、そこには一つ違いがあります。私がかつて提案していたモデルには、中心に人格としてのキリストの存在がなく、すべてが信仰箇条の相対的重要性のみによってとらえられていました。今では私も、ここでボイドが提案しているように、イエス・キリストの人格をすべての中心に置くモデルの方が好ましいと考えています。しかし、基本的な考え方は同じです。クリスチャンとしての信仰箇条には重みの違いがあり、最も重要な部分において一致していれば、相対的に重要でないことがらに関する意見の違いは、クリスチャンとしての交わりを妨げることはないはずなのです。

この問題は次のように考えることもできます。ある人々は「正統的・聖書的キリスト教信仰」を明確な境界線をもって定義される「領域」と考えています。すなわち正統的クリスチャンを特徴づける一群の信条や行動規範があり、それを外れた(境界の外にある)信条や行動は「異端的」「非聖書的」「非キリスト教的」として拒否する態度です。そこでは「内と外」「白と黒」「天国(救い)と地獄(滅び)」がはっきりしており、人々の関心はいかに境界線を厳密に「定義」し、誰が中にいて誰が外にいるかを「判定」することに向けられます。このような考え方を「境界線思考」と呼ぶことができると思います。

境界線思考

これに対して、ボイドの提唱する同心円モデルのように、イエス・キリストという人格を中心にして、その中心への距離感によってものごとの重要性を相対的に判断していく考え方もあります。これを「中心点思考」と呼ぶことができるでしょう。

中心点思考

この中心点思考では、どこまでが「正統的キリスト教」という明確な境界線があるわけではありません。このモデルでも、中心から離れれば離れるほどクリスチャンとしての正統性に疑問が増していきますが、「境界線思考」と違って、白と黒の明確な区別があるわけではありません。ある意味ファジーなモデルといえますが、福音の中心であるイエス・キリストとの人格的関係を基盤にしつつ、互いの違いを認め、また互いの不完全さも認めつつ、互いに交わり、励まし合いながら、共に成長していこうとするものです。

私の少年時代には、「太陽系は中心の太陽と水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星の9つの惑星からなる」と教わったものでした。けれども、近年では冥王星が「惑星」としての資格を失っただけでなく、これらの惑星の外側にもさまざまな準惑星や小惑星が存在し、「エッジワース・カイパーベルト」や「オールトの雲」といった外縁天体もあることが分かってきました。オールトの雲は長周期彗星の起源と考えられており、理論上その存在が推測される仮説的天体だそうですが、大きく見積もると太陽から10万天文単位(1天文単位は太陽から地球までの距離)の大きさにまで拡がっている可能性があるそうです。いずれにしても、実際の太陽系の外縁は雲のようなとらえどころのないものであり、昔のように「冥王星の軌道までが太陽系」という明確な境界線が引けなくなってきたようです。

F_oort_cloud太陽系(画像は”F oort cloud” by Jedimaster投稿者自身による作品. Licensed under CC 表示-継承 3.0 via Wikimedia Commons.)

キリスト教信仰もまた、イエス・キリストという「太陽」を中心として、その重力圏内でキリストの周りを回転運動する「キリスト系」あるいは「キリスト圏」のようなものととらえることができるかもしれません。これは「何でもあり」のモデルではありません。惑星と外縁天体ではかなりの違いがあります。けれども、それらの間に明確な境界線を設けない「中心点思考」の信仰モデルの方が、信仰のあり方として健全であり、またポストモダンの現代社会においてクリスチャンとして歩む上でも有効であると考えています。

(続く)

確かさという名の偶像(16)

(シリーズ過去記事 第1部          10 第2部 11 12 13 14 15

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回から第3部「信仰の行使」に入ります。今回は第8章「強固な中心」です。第1部でボイドは「確実性追求型信仰」の問題点を指摘し、第2部では聖書的な信仰のあり方について論じました。第3部では、どのようにその信仰を実践していけばよいのか、具体的な提案がなされます。

この章でボイドは信仰を知的に基礎づけつつ、しかも柔軟に神学を構築していく方法について議論します。

本シリーズの第2回で、「トランプの家」的な信仰のモデルについて述べました。それは、信仰を構成する多くの要素が危ういバランスを保ちながら組み合わされた体系になっており、そのどれか一つでも真理性が疑問にさらされると、全体が崩壊してしまうような不安定な信仰のあり方です。ここでボイドは、その時にも軽く触れた聖書の理解について詳しく論じていきます。

多くの福音派の教会は聖書の「無誤性inerrancy」を標榜しています。これは聖書は誤りなき神のことばであって、信仰の規範としてだけではなく、科学や歴史の分野においても一切の誤りを含まないという立場です。聖書の無誤性がキリスト教信仰の不可欠な基盤であるという立場からすると、もし聖書に一箇所でも明白な誤りが見つかったとすると(それが科学や歴史に関するものであっても)、キリスト教信仰全体が重大な危機にさらされることになります。これはまさに「トランプの家」的な聖書観にほかなりません。

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したがって、この立場の人々は、全精力を傾けて、聖書のすべての記述があらゆる点から見て真理であることを証明しようと努めます。しかし、これはたいへんな難事業であることが分かります。聖書には互いに矛盾しているように見える記述(たとえば福音書間の相違など)や、現代の歴史学や自然科学の成果と矛盾するように見えるような記述(創造記事の文字通りの解釈など)などが数多くあります。それらの中には、比較的容易に説明できるものもありますが、非常に難しいものもあります。英語圏では、そのような「難解な」聖書箇所を説明する専門の参考図書などもあったりします(たとえばこれ)。

聖書の真理を生涯をかけて護ろうとするこれらの人々の動機は高邁なものであり、彼らの真剣な信仰は尊敬に値します。しかし、ボイドは彼のそのような聖書観はどこか根本的にずれているところがあるのではないかと考えました。彼が自分の神学を深めていくにつれて、彼はこの「トランプの家」が何度も崩壊する経験をしました。そのたびに彼は大変な努力を払ってその家を建てなおすのですが、さらに学びを続けていくと再びその家は崩れ去ってしまう・・・。こんな経験を何度も繰り返すうちに、彼はそもそもこのような「トランプの家」的な聖書理解自体が間違っているのではないかと考えるようになったと言います。

ボイドがたどり着いた結論は、クリスチャン信仰の最重要な中心は、私たちが信じる「何か」(つまり聖書のような「もの」)ではなく、イエス・キリストという人格である、ということでした。私たちにとって最も大切なことは、このお方といのちを与える人格的関係を持っていくことです。このことはボイドにとって、大きな発想の転換をもたらしました。

そしてボイドは、キリストとの人格的関係をもつためには、聖書が霊感された神のことばであることに頼る必要はないことに気づいたと言います:

福音派の人々が典型的にするように、聖書が霊感された神の言葉であると信じるからイエスを信じる、というのではなく、私はまずイエスを信じるので、聖書が霊感された神のことばであると信じるようになった。(p. 159)

ボイドのアプローチはこうです。彼はまずイエスを歴史上の人物として研究し、なぜこの人物の死と「復活」が、キリスト教という歴史的ムーブメントを生み出したのかを考えます。彼はそこから、新約聖書のイエスに関する主張が基本的に信頼できること、イエスが確かによみがえった神の子であり、神の決定的な自己啓示であることを確信するに至ります。もちろん、その過程で彼は福音書や書簡を資料として用いるわけですが、この段階では彼はそれらを「霊感された誤りのない書物」としてではなく、一般の歴史資料と同列に扱います。つまり、彼は純粋に歴史的なアプローチによって、イエスがキリストであることを受け入れるようになりました。ボイドはこの結果について100パーセントの確信を持っているわけではありませんが(歴史学という学問においてそれは不可能です)、イエス・キリストとの人格的関係にコミットして生きるに十分なだけの確信は得ることができたのです。

そしてボイドは様々な理由によって、聖書が霊感された神のことばであると信じていますが、それはイエスがキリストであるという信仰から導き出されてくるのであって、その逆ではないと言います。分かりやすく図示すると、福音派に典型的な信仰モデルでは、まず「霊感された誤りなき神のことば」という土台があって、その上に「イエスは神の決定的自己啓示である」という教理が乗っています。このことは、多くの組織神学の教科書がまず聖書論から始まることからも裏付けられます。

トランプの家的聖書観

ところが、ボイドの提唱する信仰モデルでは、まず「イエスは神の決定的自己啓示である」という土台があり、その上に「聖書は霊感された神のことばである」という教理が乗っているのです。

ボイドの聖書観

この二つのモデルは一見同じようなものに見えますが、実は大きな違いがあります。上のモデルでは、「霊感された誤りなき聖書」という「もの」が信仰の土台・中心になっているのに対して、下のモデルでは、イエス・キリストという「人格」が信仰の土台・中心になっています。さらに、上のモデルでは、聖書の無誤性という前提が何らかの形で脅かされてしまうと(たとえば特定の箇所の科学的・歴史的真実性が疑われるなど)、その上に乗っているキリストへの信仰までが揺るがされることになります。つまり、このモデルは「トランプの家」的な構造を持っているのです。これに対して、ボイドのモデルでは、イエス・キリストが神の決定的自己啓示であるという土台を支えるに十分なだけの史的信頼性が聖書によって保証されればそれで十分であって、たとえいくつかの箇所の史実性や科学的妥当性が疑われたとしても、それによってキリストへの信仰が揺らぐ心配はありません。つまり、ボイドが提唱する信仰モデルの方が、より柔軟で安定した構造を持っていると言えるのではないかと思います。

*     *     *

ボイドが提唱する聖書と信仰のモデルは、特に現代社会で生きるクリスチャンにとって大きな意義を持っていると思われます。価値観の多元化と情報化が進んだポストモダンの社会において、キリスト教信仰はかつてない挑戦を受けています。そのような中で、「トランプの家」的な信仰モデルは柔軟性に欠け、クリスチャンが自己の信仰を知的に吟味し、世界観を拡張し、成長していくニーズに対応する力が弱いと思われます。しかし、ボイドのモデルでは、イエス・キリストとの人格的関係に土台を置いていくために、様々な知的挑戦によって多少の疑いや不確実性が生じたとしても、このお方との関係にコミットし続けることは十分に可能となります。

それだけでなく、このような信仰モデルは聖書的なものであると思われます。イエスの弟子たちは、旧約聖書を権威ある神のことばと信じていましたが、旧約聖書の綿密な釈義によってイエスがキリストであるという確信に至ったわけではありません。その逆に、イエスとの生きた出会い(特に復活のできごと)を通してイエスがキリストであると確信するようになったからこそ、彼らは旧約聖書がイエスを指し示しているということが分かるようになったのです。つまり、使徒たちの聖書解釈はイエスとの人格的関係という土台の上に乗っていたのであって、その逆ではありません。(これについては、以前「使徒たちは聖書をどう読んだか」というシリーズで取り上げましたので、そちらをご覧ください)。

最後に、このモデルでは、聖書の無誤性を擁護することが至上命令ではなくなりますので、聖書記述のあらゆる細部の真実性を水も漏らさぬように弁証するために全精力を費やす必要から解放されます(この「戦い」は困難であるだけでなく、学問の進歩に伴い常に新しい挑戦が生じてくるので、終わることがありません)。信仰者がその分のエネルギーと情熱を、キリストとの生きた人格的関係を育むために注いでいくことができるとしたら、そちらのほうがはるかに好ましいのではないかと、個人的には考えています。

(続く)

 

 

確かさという名の偶像(6)

(シリーズ過去記事     

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)第2章「感情のとりこ」の続きです。ボイドは確実性追求型信仰の問題点をさらに挙げていきます。

硬直した信仰

ボイドは、「疑いは信仰の敵」という考え方は、信仰に関する硬直した態度を生み出すと言います。しかし、複雑で曖昧な現代世界に生きる人々にとって、このような考え方は受け入れ難いものとなってしまっています。

このタイプの信仰は、ひと揃いの永遠の真理から成り立っており、それをすべて受け入れるか拒否するかの選択を迫ります。このような信仰姿勢にとっては、これらの真理のいくつかだけを受け入れたり、あるいはある程度までしか受け入れなかったり、留保つきで受け入れたりといったりすることは許されません。

この硬直したキリスト教理解においては、信仰は人が答えを探し求め、その途中で信じる内容を変えていく可能性もある旅路であるとは見られていない。それは固定化されたパッケージであって、人はそれについて確信を持つように努めなければならないのである。(p. 42)

このようなキリスト教信仰の理解が多くの人々にとって実行可能であった時代もありましたが、多元的で複雑で曖昧な現代世界においてこのようなタイプの信仰を保持していくことはますます難しくなってきています。ボイドはこのような信仰理解が、(アメリカにおいて)多くの若者が教会を離れていく大きな理由になっているといいます。若いクリスチャンが世の中に出てその世界観を拡張していく時に、もしそのキリスト教信仰の一部にでも深刻な疑問を持つようになると、その信仰の全体が危機にさらされるようになるからです。

ボイドが指摘しているような「すべてか無か」の二者択一を迫る信仰のあり方はキリスト者の一致にとっても有害であると思います。このような信仰理解はキリスト教信仰において本質的なことがらと周縁的なことがらを区別することができないからです。このような信仰理解が極端な形をとると、「自分たちとすべて同じことを信じていないと救われない」というカルト的信仰に至る危険性があります。現代のような情報化社会では自分とは異なる信仰的背景を持つ教会の教えに触れることはいとも簡単にできてしまいます。ですから、牧師が信徒の受け取る情報を完全にコントロールすることは不可能ですし、そもそもそのようなことは健全ではありません。今日求められる健全な信仰のあり方とは、多様な信仰的立場があることを前提とした上で、本質的なことがらで一致できるならよしとすることではないでしょうか(このことについては、過去記事「違いの違いが分かる男(女)」をご覧ください)。

学ぶことへの恐れ

上の問題に関連して、ボイドは確実性追求型信仰は信仰者に学ぶことへの恐れを植えつけると言います。

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すでに見たように、確実性追求型信仰は、人が救われるためには特定の教えを確信を持って受け入れることが必要であると主張します。このような信仰を持つ人にとって、もしそれらの確信が揺らぐようなことがあれば、その人は永遠の救いを失うばかりでなく、同じような信仰を持っている人々の共同体からも受け入れられなくなり、自分のアイデンティティも、人生の目的も幸福も失うことになってしまいます。疑いを持つことによって失うものがこれほど大きいとすれば、その人が自分の確信にチャレンジを与える可能性のある本を読んだり、異なる意見の人々と対話することを恐れるようになるのはごく当然に思われます。

ボイドはさらに、神経学の研究によると、私たちにとって重要性を持っている信念を確証するような事実や意見に触れた時、私たちの脳の快楽中枢が活性化されるといいます。その逆に、それらの信念に対立するような事実や意見に接するとき、脳の中で恐れの反応をコントロールする扁桃体と呼ばれる部位が活性化されることが明らかにされたと言います。このことは、すでに見たように、認知的不協和が当人にいかに苦痛をもたらすかを裏付けてくれます。ですから、学ぶということは潜在的に苦痛を伴う経験になる可能性があるのです

ボイドによると、疑いを敵視する信仰モデルのセールスポイントは、このモデルを受け入れる人々に、確信を持つことに伴う快楽を味わい、疑いに伴う苦痛を避けることを許してくれることです。このモデルにとっては、それはただ許されるだけでなく、美徳でもあるのです。しかし、そのためには払うべき代償があります。彼らはその確信を脅かす可能性のあるあらゆるものから自分を隔離しなければならないのです。それはまた、彼らの信念と対立する可能性のある領域の学びについて恐れを持つことでもあります。

そして、このようなタイプの信仰者が実際に自分の確信を脅かすできごとに直面した時には、それに対して激しく抵抗することになります。ボイドは、アメリカの保守的キリスト者が偏狭で不寛容だというありがたくない評判を得ていることの理由であり、さらには歴史上に宗教の名による流血沙汰の絶えない理由でもあると言うのです。

(続く)

 

 

 

 

 

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(1)

このブログではこれまでの投稿の中でさまざまな本やウェブサイトを参照してきましたが、特定の著作についての感想やレビューを書いたことはありませんでした。これからはそういった「書籍紹介」の記事も書いていきたいと思います。

最初に取り上げるのは、最近邦訳が出版されたばかりのN.T.ライト著『クリスチャンであるとは(上沼昌雄訳・あめんどう)です。

NTWrightSimplyChristian

N.T.ライト(Nicholas Thomas Wright, 1948-)については本ブログでもしばしば取り上げてきましたので、読者はご存じの方も多いのではないかと思います。英国の世界的に著名な新約聖書学者で、現在はスコットランドのセント・アンドルーズ大学で教鞭を執っています。日本語で読める簡単な紹介としては、こちらのウィキペディアの記事をご覧ください。

ライトは専門的な聖書学の著作だけでなく、一般向けの著作も数多く世に問うていますが、日本ではこれまでその業績がなかなか知られていませんでした。いのちのことば社から出版されているコロサイ書・ピレモン書の注解書を除けば、今回の『クリスチャンであるとは』が邦訳された初めての著作になります。日本語版の副題が「N・T・ライトによるキリスト教入門」となっていますが、日本人にとっての「N・T・ライト入門」でもあるともいってよいでしょう。

とはいえ、日本でも数年前からライトに対する関心は高まっており、フェイスブック上には「N.T.ライトFB読書会」のグループがありますし(私もほとんど貢献できていませんが、メンバーに加えていただいています)、一般に公開されているものとしては「N.T.ライト読書会ブログ」もあります。そういった中で満を持して登場した本書ですので、おそらく他にもいろいろなところで書評が書かれていくのではないかと思います。(この原稿を用意している間にも、ミーちゃんはーちゃんさんのブログで本書の連載書評がスタートしました。かなり詳細に論じておられるので、長期連載になりそうです。)また上記のFB読書会では邦訳が出る前から原書を用いて本書についてのディスカッションが始まっています。

このような状況ですので、このブログでは本書の包括的で詳細な書評を試みるというよりは、本の内容を紹介しつつ、あくまで私の個人的な関心に沿ってつまみ食い的に感想を述べていきたいと思っています。最終的にはこれを読まれた方々が実際に本書を手にとってお読みになるためのアペタイザー的な役割を果たせればと願っています。

さて、「はじめに」の部分でライトは本書の執筆目的を簡潔に述べています。

私の目的は、キリスト教とは要するにどういうものなのかを記述し、信仰を持たない人にはそれを勧め、信仰を持っている人にはそれを解説することにある。(1-2頁)

本書の原書は2006年に出版されたSimply Christian: Why Christianity Makes Senseです。Simply Christian(日本語に直訳すると「ただ単にクリスチャンであること」とでもなるでしょうか)というタイトルは、C・S・ルイスの古典的名著Mere Christianity(邦題は『キリスト教の精髄』)を意識していると思われます。ライトは英国国教会の聖職者でもありますが、特定の教派の立場からではなく、プロテスタントですらなく、カトリックや正教会も含めたキリスト教信仰の最大公約数的な核心部分を提示したいという意欲を伺わせます。

さらに副題に注意したいと思います。Why Christianity Is True(なぜキリスト教が真理なのか)ではありません。Why Christianity Makes Sense(なぜキリスト教が意味をなすのか)です。もちろん、著者であるライトを含め、キリスト者は皆、キリスト教が真理であると信じています。しかし、ポストモダンの時代と言われる今日、多くの人々は客観的・普遍的な「真理」の存在をもはや信じられなくなっています。そのような人々に対して、キリスト教が真理であることを「証明」することはきわめて困難です。しかし、一度キリスト教という前提を受け入れるならば、私たちがこの世界で共通に体験している様々な現実を非常にうまく説明することができる。これがライトの言う、キリスト教が「意味をなす」ということなのだと思われます。

C・S・ルイスに次のような有名なことばあります。

私がキリスト教を信じるのは、太陽が昇ったのを信じるのと同じです。それを見ることができるからというだけでなく、それによって他のすべてのものを見ることができるからです。(I believe in Christianity as I believe that the Sun has risen: not only because I see it but because by it I see everything else.)

ライトもまさに、このような、世界をよりよく理解するためのレンズ、すなわち一つの有効な世界観としてキリスト教を提示しようとしていることが分かります。これはキリスト教の信仰内容を共有しない一般の読者に対して対話を呼びかけるには、とても良い方法であると思います。

けれども、ライト自身も言うように、本書は非キリスト教徒だけにむけて書かれているわけではありません。クリスチャンであっても、自分の信仰内容がどこか「意味をなさない」ということはままあるものです。聖書は神のことばであると信じているけれども、それが全体として何を教えているのかはっきりしなかったり、キリスト者としての自分の信仰と自分の生きている世界の現実とをどのように関係づけていったらよいのか分からなくて途方に暮れるということはよくあります。

本書はそのようなクリスチャンにとっても、たいへん有益な本であると言えます。ただし、次回以降に具体的に見ていくように、ライトの提示する「キリスト教の全体像」は、多くのクリスチャンが慣れ親しんできた「キリスト教」理解とはことなる可能性が(大いに)あります。ですから、本書は学術書ではありませんが、必ずしも「読みやすい」本ではありません。ライトが新鮮な視点から描き出してみせる「キリスト教」について、ある人々は拒絶反応をひきおこすかもしれません。けれども、彼の語る内容に注意深く耳を傾け、その主張を理解しようとする努力を惜しまなければ、たとえ最終的に彼の見解に賛成できなくても、本書を読む体験は決して無駄にはならないでしょう。

今回の邦訳出版にあたり、依頼されて本書の推薦文を書かせていただきました。あめんどうさんの了解を得て、最後にそれを引用します。

N.T.ライトはbig pictureの人である。本書は聖書を貫く神の物語(ドラマ)の全体像を強靱な神学的想像力でまとめ上げ、世界観のレベルにまで踏み込んで説得力を持って描き出すことに成功しているばかりでなく、その物語に読者も参加するようにと招いている。著者の提示する「キリスト教」は歴史的正統キリスト教信仰の伝統に根ざしながらも新鮮であり、ポストモダンの社会に生きる今日の人々にもアピールする力を持っている。クリスチャンのための「再入門」としても比類ないものがある。

(続く)

<付記>
個人的なことですが、私は2010年の米国福音主義神学会でライト教授にお会いしたことがあります。その時の様子をのらくら者さんのブログでご紹介いただいたことがありますので、興味のある方はお読みください。

御国を来たらせたまえ(6)

(シリーズ過去記事     

神の国についてのシリーズの中で、過去2回にわたって「携挙」の概念について書いてきました。

なぜ「携挙」の概念がこれほど人気があるのでしょうか?それは一つには、これまで論じてきたような、ギリシア的霊肉二元論に基づく通俗的天国観があると思います。つまり、クリスチャンの最終的希望は、滅び行く地上世界を離れ去って、霊的な楽園としての「天国」で神と永遠に過ごすことだという考えです。もちろん、1テサロニケ4章16-17節でパウロは携挙について語っていると信じるならば、その時には同時に死者の復活も起こることも認めなければなりませんので(16節「その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、」)、これは厳密には「死後霊魂が肉体を離れて天国に行く」というものとは異なります。しかし、地上の悪の世界から脱出して神のおられる「天国」に入る、という天国観は、「携挙」の考えと非常になじみやすいということは言えます。このような現世逃避的な思想(「悲観的終末論」と言ってもいいかもしれません)は、携挙によって教会は終末の患難期を経験することがない、という考え方に典型的に表れています。

「携挙」が広く信じられているもう一つの理由は、聖書の中には天に挙げられた人々の記述があるからだと思います。それはエノク(創世記5章24節)、エリヤ(2列王記2章11節)、そしてもちろんイエス(ルカ24章50-51節、使徒1章9節)の昇天記事です。これらの人々は、地上から神の住む領域である天へと移されました。これらの記述から、「神に祝福された人々は最終的に地上から天に挙げられる」という「原則」を人々が見いだしたとしても不思議ではありません。しかし、これは真理の半分しかとらえていない理解です。

確かにこれらの昇天記事は、神の住まわれる領域すなわち「天」に移されること、つまり神とともに生きるいのちの祝福を表していると言えます。しかし、聖書の語る最終的な終末のビジョンは、神ご自身が地上に降りてきて人とともに住み、天と地が神の普遍的な支配の下で一つになるということです。

1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。2  また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。3  また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、4  人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(黙示録21章1-4節)

終末に起こる、再臨のキリストとの出会いはそのような聖書ナラティヴの全体的なストーリーラインの中でとらえなければなりません。そのように考える時、パウロがキリスト者は「いつも主と共にいる」と言ったときに彼が語っているのは、地上に降りてきた新しいエルサレムにおけるキリストとの生活を意味していると考える十分な根拠があります。

このことは、聖書の読み方についても多くの示唆を与えてくれます。私たちが聖書に書かれている断片的事例から普遍的な原則を導き出そうとするとき、聖書に繰り返し出てくるできごとが、永遠に繰り返される固定されたパターンであるかのように誤解してしまうことがあります。たとえばある人々は次のように考えるかもしれません。

スライド1

しかし、聖書は歴史と関わりのない普遍的な命題的真理の単なるコレクションではなく、首尾一貫したストーリーラインを持つ一つの物語(ナラティヴ)です。物語においては話がどのような展開を経てどういう結末にいたるかが重要であり、同じようなできごとがただ繰り返されていくのではありません。物語の各部分はそのようなストーリーラインの枠組みと、その部分が全体の中でどういう位置を占めているかに照らして解釈されなければならないのです。したがって、聖書の昇天物語に見られるテーマ(神とともに生きるいのちへの移行)はかならずしも「地上から天に引きあげられる」という固定された物理的移動によっていつも表現されるわけではなく、同じテーマが終末における救済史の新しい展開(天における神の支配が地にも現される。言い換えれば天と地が一つになる)においては、新しい形態を取る(神の民が再臨の主を地上に迎え入れる)ということも十分にあり得るわけです。

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このように、「携挙」の問題を考えるときにも、聖書の全体像をどう把握するかが重要であることが分かります。そして、最終的に最も説得力のある解釈は、聖書全体のストーリーラインにもっともよく適合する解釈なのです。

(続く)