新刊紹介『ユダヤ人も異邦人もなく』(山口希生師ゲスト投稿)

パウロ研究、特にいわゆる「ニュー・パースペクティブ」に関心のある方々にとって注目すべき新著が刊行されます。このブログでも何度か寄稿してくださった山口希生先生による、『ユダヤ人も異邦人もなく』(新教出版社)です。今回はこの本の刊行に際して、山口先生ご自身がその内容を紹介してくださいます。ぜひお読みください。

(山口先生の過去のゲスト投稿記事  

『ユダヤ人も異邦人もなく―パウロ研究の新潮流』の公刊に寄せて

山口 希生

今年の4月に公刊される拙著『ユダヤ人も異邦人もなく-パウロ研究の新潮流』(新教出版社)について、山崎ランサム和彦先生のご厚意で、先生のブログに紹介文を掲載させていただくことに心から感謝します。

本書は、日本でも長らく注目を集めてきた「ニュー・パースペクティブ」と呼ばれるパウロ研究の新潮流の歴史について、包括的に記述することを目的としています。この神学的潮流がどのような背景から生まれ、発展してきたのかを、19世紀の古典的学術書から21世紀の直近の研究まで、10名の学者の業績を紹介しながらたどっていこうというものです。内容は学術書でありながら、一般の信徒の方にも分かりやすいようにと頑張って工夫して書きました。聖書に親しんでおられる方ならば、特別な知識がなくても読める本になっていると思います。

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男と女―相互に向き合うパートナー(藤本満師ゲスト投稿4)

その1 その2 その3

藤本満先生によるゲスト連載、その4回目をお届けします。

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女のかしらは男?

前回の投稿を読んでくださった方は、私が神学的な男女平等論に立っていることをご理解されたことでしょう。男女が等しく神のかたちに創造されているばかりか、社会や家庭における役割においても平等、さらに聖職的な立場においても等しく奉仕ができるという立場です。今回、そのような立場の背景にある聖書理解を記してみます。

  • 神は人を男と女に創造された

創世記1:27「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に創造された」。すぐそのあとの28節に「生めよ。増えよ。地に満ちよ」と、神は人を男と女に創造することによって、人に新しい生命の誕生の恵みを授けられました。

こうして誕生した男女には、生物学的、身体的、心理的な差異があることは事実です(一様ではないにしても)。しかし、神が人を男と女に造られた意図は、他の動物が雌と雄に区別され、生命の増殖がなされるのとは同じではありません。

その点を明らかにしているのが、創世記2章の創造の物語です。7節に「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」。創造したアダムに神は言われました。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう」(18節)。こうして神は人(アダム)を眠らせ、あばら骨の一つを取り、それをもって一人の女を造られます。つまり男と同質・同類の人として創造されています。

しかし、ここで女が男の「ふさわしい助け手」(口語訳・新改訳)として造られた、とあります。ともすると、「ふさわしい」となると、男にとってふさわしいと勝手に考えてしまいます。男が社会に出て働き、女は子どもを産み、主婦として家事をし、夫の主導に聞き従う、と。しかし、この言葉はそういう意味ではありません。聖書の訳では、そこを苦心しているのが新共同訳聖書で、「彼に合う助ける者」と訳されています。「ふさわしい」を「合う」に変えたのです。 続きを読む

『聖書信仰とその諸問題』への応答8(藤本満師)

(過去記事       

藤本満先生によるゲスト投稿シリーズの8回目をお送りします。

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8 聖書(新約)が聖書(旧約)を解釈するとき

筆者はジェームズ・ダンに倣って(前掲論文、113)、「釈義」(エクセジーセス)と「解釈」(インタープリテーション)とを分けておきます。

釈義とは、私は聖書の文書をそのオリジナルな意味において、オリジナルな表現、オリジナルの文脈において意味を理解する試みであると考えています。それに対して、解釈とは、便宜的に言えば、そのオリジナルな意味にできるだけ付け加えることも削除することもせずに、解釈者の生きている時代の言葉、考え方、表現の仕方に言い替える試みです。

いわば、「釈義」とは近代聖書学が始まって以来考えられてきた歴史的・文法的手法をもってオリジナルな意味を探し求める努力です。そして「解釈」とは、読者がその時代に理解できる枠組み・表現・考え方を用いてテクストの意味を理解できるように、その意味を引き出し表現することです。釈義の方が技術的で精密な研究の積み重ねで、解釈は時代性・アーティスティックな要素が求められます。

まず初めに、この二つを分けて考えることは、キリスト者が旧約聖書を読むときに特に大切でしょう。私たちが旧約聖書を旧約聖書としてオリジナルな文脈とセッティングで釈義したとしても、キリスト者である限り、その解釈においては、福音というフィルターでもう一度その意味を篩わなければなりません。そうして現れるのがキリスト者としての解釈です。 続きを読む

新しい世界のはじまり

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(2コリント5:17)

2019年が始まりました。ところで、1年の始まりはなぜ1月1日なのか、考えたことはおありでしょうか。日本の暦では月の名称に数字が使われているので、1月が1番目の月というのは当たり前に思うかも知れません。しかし、たとえば英語のJanuaryはローマ神話のヤーヌス神から来ているもので、必ずしも最初の月である必然性はありません。実際、古代ローマでは一年の始まりは今で言う3月でしたが、ユリウス・カエサルがユリウス暦を導入したとき、1年の始まりをIanuarius(January)にし、それが現行のグレゴリオ暦にも受け継がれたと言います。

実際、世界では私たちと異なる暦のサイクルにしたがって生活している、あるいは複数のカレンダーを同時に生きている人々がたくさんいます。たとえば、中国を中心にアジアで広く祝われている旧正月は1-2月頃、今年2019年の旧正月は2月5日になります。一方キリスト教会には「教会暦」というものがありますが、教会暦の1年はアドベント(待降節)と呼ばれる期間から始まります。これはクリスマスの約4週間前の日曜日から始まりますので、クリスチャンにとっては今年は2018年12月2日に始まっていることになります(教会暦がキリスト教信仰についてもっている意味については、過去記事を参照)。したがって、アジアに住むクリスチャンの中には「新年」を3回迎える人もいることになります。

要するに、新年の区切りは恣意的なものであると言えます。12月31日と1月1日は客観的にそれほど違うわけではありません。太陽の周りを回っている地球の位置がほんの少しずれただけにすぎないのです。国立天文台のサイトでは、「天文学上の理由があって『1月1日をこの日とする』と決めたものではない」とはっきりと書かれています。

しかし不思議なもので、ひとたびこの日を1年の始まりと決めると、こんどはそれによって私たちの意識や生き方が変わってくるのです。毎年多くの人々が家をきよめて新年を迎え、初詣や教会の新年礼拝などの行事を通して、新しい気持ちで一年を始めようとします。私たちの世界観は私たちの行動に大きな影響を与えているのです。 続きを読む

きよしこの夜

するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。(ルカ2章13-14節)

snowy-night

クリスマスに関連して、何年か前に偶然耳にして衝撃を受けた曲があります。それは旧ソ連の作曲家アリフレート・シュニトケによる「きよしこの夜 Stille Nacht」です。同名の有名なクリスマス・キャロルに基づいて作られた曲なのですが・・・まずはお聴きください。 続きを読む

映画「パウロ~愛と赦しの物語」

私はふだんあまり映画を観る方ではありませんが、先週の金曜日に、11月に日本公開される映画「パウロ~愛と赦しの物語」公式サイト)の試写会に行ってきました(ご招待くださったいのちのことば社様に感謝します)。日本公開前の映画ですので、その内容を細かく紹介することは控えたいと思いますが、試写を観た感想を簡単に記したいと思います。

この映画は使徒パウロの最後の日々を描いたものです。皇帝ネロによって帝都ローマのクリスチャンたちは壮絶な迫害を体験していましたが、その中で捕らえられたパウロは死刑を宣告され、牢獄で死を待つ身となっていました。そんなパウロを福音書記者ルカが訪れるところから話は始まります。ストーリーはこの二人と、ローマのクリスチャンたち、そしてパウロを収監するローマ人の看守長を中心に展開していきます。 続きを読む

進化(深化)する信仰(1)

先進的な仕事をする学者や思想家はたくさんいます。しかし、すぐれた思想家が必ずしもすぐれた書き手であるとは限りません。逆に、たとえその道の専門家でなかったとしても、現代の重要な思想を自らの人生経験のうちに内面化して、平易な文章をもって表現することに長けた人々もいます。キリスト教界で言えば、最先端の神学をより身近で親しみやすい形で一般のクリスチャンに紹介する、そんな人々の役割はたいへん重要なものだと考えています。なぜなら、神学は象牙の塔に閉じこもるのではなく、教会に仕えるものでなければならないと思うからです。

私にとってそんな魅力的なクリスチャン著述家の一人が、レイチェル・ヘルド・エヴァンズです。 続きを読む

創造の神――ジョン・ウォルトン博士来日講演を受けて

前回の更新から間が空いてしまいましたが、ようやく少し時間ができたので、今回のジョン・ウォルトン師の一連の講演その1 その2 その3)を拝聴して考えたことを簡単に書き記しておきたいと思います。

ウォルトン師の講演ではいろいろと興味深い主題が取り上げられていましたが、その中には自分の中でまだ十分に整理し切れていないものや、納得しきれない主張もありました。けれども、少なくとも次の3つの点については、全面的に同意できると思いました。

1.旧約聖書はそれが書かれた古代近東の文化に照らして理解すべきであり、聖書の「字義的」な解釈とは、その文化の中で聖書記者の意図したメッセージを読み取ることである。

2.聖書の記述は科学的知識を教えることを目的としているのではない。したがって現代の科学的知識を聖書テクストに読み込もうとする調和主義(concordism)は避けなければならない。

3.創世記1章の天地創造の記事は物質的な宇宙の起源を説明しているのではなく、すでに存在していた混沌状態に神が秩序と機能を付与し、ご自身が住まわれる聖なる空間とされたこと(宇宙神殿の落成式)について述べている。

この記事では特に最後の点について、さらに考察したいと思います。 続きを読む

Global Returnees Conference 2018(その2)

昨日の記事に引き続き、GRC18での聖書講解メッセージを掲載します。

集会3日目のテーマは「神の民=家族」でした。前日に行われた1回目の聖書講解は、「福音」とは何か、ということについてのメッセージでした。これは分科会でも取り上げさせていただいたのですが、新約聖書の伝えている「福音」(良い知らせ)とは、「十字架につけられたイエスがよみがえって、全世界を治める王となられたことに関するニュース」です。2回目の聖書講解では、この内容を受けて、それではその「福音」が具体的にどのようにこの世界にインパクトを与えていくのか、ということについてお話しさせていただきました。 続きを読む

主にあってむだでない労苦(1コリント15:58)

すでに周囲の方々にはお知らせしてきましたが、本年3月におけるリバイバル聖書神学校閉校にともない、4月から関東に移って、聖契神学校で奉仕することになりました。以下に掲載するのは、新城教会で行なった最後の礼拝説教原稿に少し手を加えたものです。

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主にあってむだでない労苦(1コリント15:58)

「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」

この箇所はコリント人への第一の手紙の15章の最後の節ですが、15章は復活について教えている部分です。私たちクリスチャンの希望は、この肉体の死が終わりではないということです。いつの日か神さまが定められた時にイエス・キリストが再びこの地上に来られて、私たち一人ひとりの肉体をよみがえらせてくださり、私たちは主が創造される新しい天地において、新しい復活の肉体をいただいて永遠に主と共に生きることができるというのです。その内容を受けて、パウロは「だから、あなた方の労苦は無駄ではない」と語っています。私たちの働きが無駄にならないのは、復活の希望があるからなのです。 続きを読む