聖書のグランドナラティヴ再考(1)

聖書を真理の命題を集めた百科事典や道徳の教科書のように読むのではなく、一つの首尾一貫した物語として読むというアプローチは、最近日本でも注目されるようになってきました。私もこのテーマについて書かれた、ヴォーン・ロバーツ著『神の大いなる物語(いのちのことば社)を翻訳させていただきました(過去記事)。

旧新約聖書全巻を貫く「大きな物語」はグランドストーリーgrand storyとか、グランドナラティヴgrand narrativeあるいはメタナラティヴmetanarrativeと呼ばれますが、この記事では「グランドナラティヴ」を用いたいと思います。グランドナラティヴとは、聖書の個々の書巻や細かいエピソードを理解するための背景となる、すべてを包括する大きな物語のことです。

物語(ナラティヴ)には、きまったストーリーライン(プロット、筋)があります。ストーリーラインはいくつかのできごとの意味のあるつながりとして捉えることができます。聖書のグランドナラティヴを考える時、聖書全体がどのようなストーリーラインを持っているかを考えることは大切ですが、これまでいろいろな提案がなされてきました。 続きを読む

ルカ文書への招待(1)

今年の12月に米国カリフォルニア州で行われるEquipper Conference 2016(EC16)の講師としてお招きを頂きました。これは以前もご紹介したことのある、JCFNが主催しているものです。集会について詳しくはこちらをご覧ください。

集会では4回にわたって、ルカ福音書から聖書講解をさせていただきますが、それに先立って8回シリーズで、ルカについての入門的コラムを書いて欲しいと依頼されました。それを通して参加者が講解で扱われる聖書箇所だけでなく、ルカ文書全体により親しみ、理解を深めることが目的です。

EC16ではクリスチャンになって間もない参加者もおられますし、字数も限られていますので、コラムではごく基本的な内容を簡潔に書いていきたいと思っていますが、こちらのブログでは、その内容をJCFNの許可をいただいて掲載させていただいた上で、そこに補足的な内容も加えて書いていきたいと思っています。 続きを読む

「あなたの信仰があなたを救った」(2)

その1

前回は、「あなたの信仰があなたを救った」という表現が現れるルカ福音書の4つの箇所(7章50節、8章48節、17章19節、18章42節)について概観しました。これらの4つのエピソードでは、まったく同一のギリシア語の表現hē pistis sou sesōken seが見られるだけでなく、その表現が各エピソードの結末部におけるイエスのことばとして記されていることから、各エピソードの中核的なメッセージを担っていることが分かります。そして、ルカがこの同一の表現を福音書の中で4回も繰り返し用いているのは、ある特定の意図に基づいていると考えることができます。

この4箇所には、共通して見られる次のようなナラティヴのパターンがあります: 続きを読む

N.T.ライト『新約聖書と神の民』について(山口希生氏ゲスト投稿 その1)

今回は新しいゲスト投稿者をお迎えします。N. T. ライト教授の指導の下で昨年セントアンドリュース大学から博士号を授与された山口希生(のりお)さんです。山口さんは最近新教出版社から日本語版(上巻)が出版されたライトの主著『新約聖書と神の民』の翻訳者であられます。同書について2回にわたって投稿をいただく予定です。

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『新約聖書と神の民』(上)

第一回

新約聖書の権威

この度邦訳出版されたN.T.ライトの「新約聖書と神の民」はずばり「新約聖書」についての本です。この比類のない書をどう読むべきか、特に神の民としての現代の教会がそれをどう読むべきかということが本書で問われています。新約聖書は教会にとって最も大切な書ですが、その「権威」は近代以降、常に挑戦を受けてきました。啓蒙主義が隆盛してゆく中で、まず新約聖書の記述の史実性、特に奇跡についての記述が疑問視されました。また、人々が抱く多様な価値観を等しく認めようというポストモダンの時代が到来すると、新約聖書の提示する倫理の規範性そのものが批判の対象となりました。このような現状を踏まえつつ、ライトは新約聖書の持つ「権威」を高く掲げます。しかしライトはその権威を学校の校則のようなルールとして捉えているわけではありません。端的に言えば、新約聖書の権威はストーリーの中にある、とライトは主張します。新約聖書全体が物語るストーリーは、私たちが世界をどのように理解し、その世界の中でどう行動すべきかを教え導いてくれる、そういう権威あるストーリーなのです。 続きを読む

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その5)

その1 その2 その3 その4

藤本満先生によるゲスト投稿の第5回をお届けします。今回は、前回の物語論に関連して、物語と説教について語っていただきます。お忙しい中執筆のご労をとってくださった先生に心から感謝します。

聖書信仰

聖書信仰』(いのちのことば社)

物語と説教

「あとがき」で、私自身が「物語と説教」に目覚めた話を記しました。そのきっかけを与えてくれたノンフィクション作家の柳田邦男さんに言及しました。実は、私はあの文章を、「聖書は神の創造と救済の物語であり、その中へと私たちの物語が取り込まれ、どこかで神の国の新たなる舞台を演じることになる」というような、壮大な神学的想定で記したのではありません。それはもっと小さな物語論で、自分が務める礼拝講壇(説教)のために、小さな物語をどのように捉えて用いているか、ということを紹介してみたかったのです。――もちろん、小さな物語論も、大きな物語論の欠片(かけら)ではありますが。

柳田さんの『ガン五〇人の勇気』の中に「涙して洗った茶碗」と題されたエピソードがあります。それは末期がんの友人に病院に呼ばれ、洗礼を授けてくれ、と頼まれた牧師の話です。牧師は病室にあった茶碗を涙を流しながら洗い、そこに水を入れて、洗礼を授けます。友人は洗礼を受けた後、晴れやかな表情を見せ、主の祈りを教えてくれと頼み、しばらくして息を引き取ります。最後を迎えた友人は、洗礼を受けたという事実を頼りに、死の陰の谷を行きます。

あるとき、私はこの話を引用してどこかに執筆しました。すると、「洗礼とはそういうものではない!」というお叱りのお手紙をいただきました。その方は、神学的な洗礼の定義でこのエピソードを読まれたのでしょう。でも、この方は、神の憐れみにしがみつくように死線を越えていく一人の人間の苦悩と信仰はわからなかったのです。ましてや、こういうエピソードを伝えている作家の意図も、それを引用した私の意図も頭にはなかったと思います。単純に、洗礼の神学的な定義で私の文章を読まれたのでした。

極端な話かもしれません。しかし、命題的な説教が、それが教理的であれ釈義的であれ、時に、聴衆の心にまったく届かない、聴衆の人生に触れていないのではないか、と思うことがあります。教理や釈義が、場違いに顔を出し、聞いている人びと、彼らの物語にまったく不似合いなのです。

クリント・イーストウッド監督・主演の「ミリオンダラー・ベイビー」(2004年)という映画があります。アカデミー賞主要4部門を獲得した名作です。2008年の「グラン・トリノ」は、まったく違う内容ですが、私はこれを続編のように思っています。この二つの作品には、カトリックの司祭が出てきます。イーストウッド演じる主役は、人生の複雑さをすべて体験したような老齢で頑固な男です。かたや司祭は、両作品とも若いのです。結婚も離婚も、世の中の複雑なことには手を染めず、神学校を出て、神に仕え、きれい事を人びとに説いているようなセッティングです。しかし、この二つの映画で、司祭の役割はかなり違います。2004年の映画では、司祭は世の中の矛盾を何一つ背負えない、人生の複雑な局面で場違いに登場する司祭です。しかし、2008年の映画では、司祭はその矛盾の中に入り込んで行きます。

人の物語の複雑さ、善とも悪とも言えない人間の弱さ。でも、くずおれるだけではなく、ひたむきに前を向く。弱さを引きずりながらも、自分の愚かさを乗り越えようとし、悪と戦い、真理に手を伸ばそうとする。痛みや傷に引き裂かれながらも、生の尊さを実感し、信念を貫く。人生に裏切られても、生きる意味は失わない。そういう生き方をしたいのですが、なかなかできない。せめて自分の最後だけでも、そのように生きたいのですが、痛み苦しむだけで、言葉にもならない。

先の柳田さんは、誰もがこうした物語を書くことはできない、しかし共感することができる、と考えました。そこでガン患者五〇人のそれぞれの最後を一人あたり数頁でまとめることによって物語とし、いわば五〇人分の、死の迎え方、生きてきた意味を読者に提供しました。

説教をする者は、御言葉に描かれている情景、神の御思い・働き、それに応答する信仰者、時にそれに応答し損ねる、あるいは逆らう私たちの姿を描きます。それは単なる物語ではなく、神の声です。御言葉を語る説教者は、そこに罪に対する神の宣告、赦し、愛、希望、と神の声を響かせたいのです。そのとき、聖書の物語を今の私たちの物語へと適用するよう、説教者は苦心するのでしょう。

でも、逆に私たちの物語を聖書の御言葉に吸い込ませるという手法も可能だろうと思います。つまり、神の言葉(上)を人の世界(下)に解釈・適用させるだけでなく、人の物語(下)を神の言葉(上)へと吸い上げる手法も可能であろうと。これを単に説教の「組み立て」「構成」の問題ではなく、神の言葉の「力」として考えてみました。

一言で申し上げたら(自分でも何を言っているのか明確ではないのですが……)、「物語」には、神の言葉である聖書にも、人の物語である「お話」にも、とても心を打つ深みがあります。神の言葉を「命題的に」語ることに一生懸命で、いつの間にか、人の物語をどう理解し、どう用いるかを忘れるような説教者にはなりたくない、という反省が私にあります。さらに、神の物語(御言葉)には、人の物語を吸い上げる力があり、矛盾や恐れの多い人の物語が聖書の中へと吸い上げられ、まるで聖書の物語を生きているかのように、主イエスがその矛盾と恐れを包むように私と共に歩んでいてくださることを実感できる力が、御言葉にはあるのではないか、と。私たちは今もエマオへの途上を主と共に歩んで、自分に起こった人生の出来事と神の御言葉(あの時は旧約聖書)を重ねているのではないでしょうか。

 

東日本大震災の年に、私の尊敬している教会員が息子さんを失いました。ご夫妻は教会のために長年労され、年齢故に仕事を退いて、これからは宣教地を回って様々に奉仕したいとの夢を与えられていました。すでにケニアとボリビアと台湾を訪れ、奉仕をされました。私たちの誰もが、このご夫妻が大きな試練につぶされそうになっている姿に心を痛めました。

納骨式の後、食事の席でした。お父さんは立って、家族の前でこんな話をしました。「震災で津波がやってくる。懸命に港に船をつなぎ止めた漁師たちの船はすべてやられました。しかし、その中に、津波に向かっていった漁師もいました。彼らは生き延びたそうです。ですから私たちも、これから津波に向かって船出します」。

その姿、その証しに、私は感動しました。そして、説教の中でその話を使わせてもらいました。どこかで物語はつながります。震災時の漁師、息子を失った父母、同じような境遇にある人びと、そして私たちを雲のように取り巻いている多くの聖徒たち(ヘブル12:1)。証しは、聖書と比したら「お話」なのでしょう。しかし、証しが主の恵みをゆびさすとき、神の御言葉は生きて動き出します。つまり大きな物語が小さな私たちの物語を吸い込み、大きな物語の中に私たちの出来事が組み込まれてしまいます。

上述の出来事は、私自身が体験したものではありません。しかし、私はこの兄姉は教会共同体を代表してこの試練を味わい、希望の神に近づかれたのだと思っています。聖書の中の出来事は、歴然とした過去性を帯びています。しかし、私たちはすーっとその中に引き込まれて、自分もまた十字架の下に立ち、復活の墓を目撃していることになります。神の言葉は、私たちの小さな物語を取り込もうと待っています。そのやっかいで不条理な物語さえも。その意味でも、人生の出来事・私たちの物語を読める人になりたいと思います。

 

もう一つ。

これは、スティーブ・ジョブス氏のスピーチです。スタンフォード大学の卒業式で語られたものです。

わずか、これだけの時間で、これほどインパクトのある式辞。卒業式は、英語ではコメンスメント(はじまり)です。それは彼のこれまでの物語であり、聞いている卒業生はそれが自分の物語となるであろうことを予想し、将来の扉を開けます。みなさんは、この式辞を聞きながら、どこかの聖書の言葉をすぐに連想するだろうと思います。

私は、自分が担当しているキリスト教概論の学生に、最後にこれを見せて、授業期間を終えます。そしてあらためて思います。ほとんどの学生にとって、私の授業は馬耳東風であろうと。どうしたら人の物語を、御言葉の舞台の中へと招き入れることができるか。「はぁ」とため息をつき、疲れて帰途につきます。そうして、説教が空回りする疲れを抱えて、笑顔で「いってらっしゃい」と教会員を送り出します。

 

山﨑ランサム先生、本当にありがとうございました。先の4回の原稿で、少しは自分の言おうとしていることを把握できました。この原稿で、大いに自分の言いたいことがわからなくなりました。混迷から少し抜け出すために、次回、先生と対話できたらと願っています。

先生が差し伸べてくださった友情に心から感謝します。

(続く)

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その4)

その1 その2 その3

藤本満先生によるゲスト投稿の第4回を掲載します。今回は物語論についてです。

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聖書信仰(4) 物語

物語の復権

昨今、聖書の物語性、あるいはナラティブとしての聖書という表現をよく耳にするようになりました。アブラハム、士師、ダビデ、福音書、使徒の働きなど、聖書を切れば必ずと言って良いほど物語が出てきます。1974年にイエール大学のハンス・フライが著した『一九世紀における聖書の物語の陰り』という書物がきっかけとなって、急にナラティブとしての聖書が注目されるようになりました。

なぜそれまで、聖書の物語性が無視されてきたのでしょう。19世紀、リベラルなドイツの学者たちは、歴史の中に全能の力をもって介入してくる神を前提とせずに、聖書を文献として研究します。彼らの多くは、紅海が二つに分かれる物語からイエスの奇蹟や復活の物語に至るまで、神の力にあふれる物語をフィクション(神話)として読み流し、その中から宗教的な真理命題だけを抽出すればよいと考えていました。物語が記述する出来事の詳細は乏しくても、そこから宗教的なメッセージは抽出でき、理性的に解釈し直せる、と。これならば、物語を構成する「史的イエス」(歴史上の人物としてのイエス)と、そこから抽出された初代教会の「使信としてのキリスト」は別物であっても、かまわないことになります。

ここでは詳しく説明しませんが、先のフライの書物以来、聖書の出来事性、そしてそれを描く物語を「軽く見る」ような考え方は、ひっくり返されてきました。物語の復権です。(拙著16 章)

物語(ナラティブ)理解は危険か?

しかし保守的な福音主義は、依然として聖書の物語性を掘り下げることを敬遠します。それは「物語=神話」というような、上述のリベラリズムに対するトラウマが原因しているだけではありません。そもそも物語のもつ「意味の相対性・多様性」に危惧を覚えているのです。物語という文学類型を当てはめて聖書を読むと、読み手の印象によって御言葉の意味と理解は相対的になります。最終的には「託宣」としての権威を傷つけると警戒しているわけです。

もっとも物語の復権を待つまでもなく、言語学は長年、言葉の多様性・多義性(相対性)を指摘してきました。

・言葉の機能は、話し手の考えを一方的に相手に伝えるためだけではない。同じ言葉をもって、人は願い、感謝し、呪い、挨拶をし、祈り、命令し、問いかける。
・言葉は幅広く機能し、その意味も状況に応じて多様である。
・詩的な言葉だけでなく、日常の記述も、時に正確性よりも象徴性を重んじることがある。

この言葉の機能の多様性、意味の豊かさは、近代主義や科学が支配する文化においては「曖昧性」とみなされ、それが欠点であるかのように退けられてきました。この欠点を克服するために依然として、聖書のテキストは「原著者の意図にのみ限定された単一の意味しかもたない」と命題的に定義することを志してきました。

確かに、聖書の言葉を象徴的に理解しすぎ、主観的な体験で解釈していけば、限りなく相対的なものとなり、神の啓示は、星の数ほどの理解で解釈されるでしょう。これが物語論の危険性であることは認めるべきでしょう。しかし、危険性と共に可能性は莫大です。現時点で聖書の物語性を主張する人びとは、そのような相対主義を考えているわけではありません。ですから、彼らが提示している可能性に耳を傾けるべきであろうと私は思います。

物語論は、近代主義が言葉の中に、一つの意味、しかも普遍的に通用する客観的な意味を見いだそうとしたことによって、かえって、本来聖書が有している物語のダイナミズムを減じてきた現実を指摘します。マクグラスは次のように述べています。

「聖書の物語性を認めることは、聖書の啓示の豊かさを回復させることになる。この方法論は、福音主義の啓示の客観的知的真理へのこだわりをあきらめることでも弱めることでもない。それは単に、啓示は、客観的真理よりはるかに多くのことを含むことを認めること、またその豊かな啓示を教理へと還元してしまうことを防ぐ知恵を与えることにほかならない。」(拙著315 頁、参照357-360 頁)

では、物語のダイナミズムとは、どのようなものでしょうか。

物語のダイナミズム

プリンストン神学校のウィリアム・ジョンソンは次のように述べています。「物語は固定化されたものではなく、ダイナミックなものであり、それゆえ、新しい場面で新しい事柄が追行されている。換言すれば、聖書的物語は、単に私たちに神の本性について語るだけではない。現在、神がどのようなお方であるのか(神のアイデンティティ)をたえず、新しい仕方で私たちに明らかにし続ける。」(拙著314 頁)。追行されるとは、聖書の物語と私たちの物語が重なり合うことです。この考え方にそって、聖書の物語性を強調する何人かの聖書学者を紹介してみましょう。

石田学は、聖書の物語が語られるとき、「聖書の出来事や民の体験がきわめてドラマ的な仕方で、教会の会衆の想像力の中で再構築され、追体験される」と言う。「現代に生きて聖書を読む読者は、彼ら自身の生活が現代に生きる神の民としての生き方を変容され、形成されるような仕方で、聖書のドラマと自分たちのドラマを相関させるように導かれるべきである」(拙著314 頁)。そうなると、聖書の物語理解は、聖書は神の言葉であって、それを解釈して今日に適用するという、以前の聖書信仰の「上から下へ」の理解だけでは不十分です。物語は、託宣的理解を超えた聖書の言葉の「力」と「機能」を提示していることになります。

ブルッゲマンは、支配者の側に立つ者と抑圧される民の物語(ファラオとイスラエルの民、列王記のソロモンをはじめとする王族と貧しい民)を、現代アメリカ社会の物語と重ねます。彼は、神の正義と平安を歌っている御言葉が、実は利権者の方便にすぎないことを見抜いて、支配者・利権者と対峙する預言者の姿を浮き彫りにします。そのとき彼は、聖書のテキストがどのような「意味を持っていたのか?」ではなく、どのような「意味を持っているのか?」こそが、私たちが取り組むべき課題だと言います(拙著327 頁)。

その意味でブルッゲマンは、物語である聖書が、出来事や教えの「記録」ではなく、「記憶」であると言います。神の言葉は過去に固着しているのではなく、現在と未来のエネルギーにあふれている、と。古代の特定の文化と密接に結びついた物語は、過去の記録ではなく、信仰共同体の記憶として繰り返し体験され、受け継がれ、神が語られるものだと言うのです。

英国のR・ボウカムは、聖書全体を物語として見ることを主張します。聖書は不変の教理や道徳の教典ではなく、第一義的に物語(多様であっても統一性がある)である。物語は、読者をその物語の中へと引き込む力を持っています。私たちが聖書に描かれる大きな物語に登場する人物や出来事に自分自身を重ねるとき、聖書は私たちの人生、また世界の諸問題への取り扱いについて示唆を与え、その最終的な解決を教えてくれます。私たちは大きな物語の中に取り込まれて、変貌していきます(拙著332頁)。

山﨑ランサム先生もレビューしておられるN. T. ライトはさらにこんなことを主張します。彼は聖書の物語を大きく五つの舞台に区切って、次のように神学的な流れで解釈します。

「私たちは創世記一章と二章(創造の物語)を、あたかもこの世界が当時のままであるかのように読むことはしない。また、創世記三章(堕落の物語)を、創世記一二章(信仰の民)を知らされていないかのように、さらに出エジプト(旧約の解放と契約)を、さらに福音書(キリストにある契約)を知らされていないかのように読むことはない。また私たちは福音書を、それがまさに第四の舞台から第五の舞台へと移行するために記されているという事実を知らないかのように読むことはない。」

この第五の舞台を演じているのは教会です。現在の私たちは、第五の舞台に立っていて、キリストの十字架と復活礼拝の中で再現し、その恵みを担いながら、和解の福音の使者として世界に出て行きます。

ライトと共に米国のヴァンフーザーも、第五の舞台を生きる私たちと聖書の関係をダイナミックに定義します。第五の舞台に生きる私たちは、単に正典が基準となってそれに従って生きているだけではありません。正典ドラマは、物語を解釈する者をドラマの役者としても取り込んでいきます。聖書の理解は知の問題である以上に、行動の問題となります。どの時代にあっても信仰者は皆、神の国の物語の中でそれぞれの役割を演じます。そこで私たちは、この物語の中へと取り込まれているのか、自分はどの場面でだれを演じているのか、自分の人生は聖書のどの場面といま関わりをもっているのか、神はいま何をしようとしておられるのか、自分はどう応答するのかが問われているというのです。ヴァンフーザーによれば、聖書は私たちに、舞台で言う台詞を提供しているのではなく、「聖書のテキストが示唆し、意味している」ことを理解し、そこで「演じる」、すなわち神の物語の中で生きることを求めている、と。聖書の解釈は「私たちの見方、考え方、行動の仕方を刷新し変貌させる。……聖書は神のコミュニケーション行為の媒体であって、それによって真理が伝えられるだけでなく、読む者が変貌されていく」。(拙著258-260 頁)

――これくらいにしておきます。

物語のダイナミズムが注目するとき、私たちの「聖書信仰」理解も新しくされるはずです。アイルランド・メソジストのウィリアム・エイブラハムは、ボウカムやライトを引用しながら、次のように言います。「私たちは基準、正典的標準、正統主義、知識という表現から、神の国、救い、解放、備え、変貌といった表現にシフトした。私たちは認識論から救済論へとシフトした」(拙著334 頁)前者の表現の鍵を握っていたのは「命題」です。そして、後者の鍵を握っているのは「物語」です。

聖書の物語理解が聖書信仰の中に入り込み、従来の近代主義的真理と託宣にそった聖書信仰を超えて、さらに豊かな可能性が探り、「聖書こそ神の言葉である」との信仰理解がさらに深まっていくことを期待します。

(続く)