遠隔授業事始

新型コロナウイルスは、神学教育にも甚大な影響を及ぼしています。感染拡大防止のため、はじめに首都圏で、さらに全国で緊急事態宣言が出され、私たちの神学校も事実上の閉鎖状態になりました。通常は教室で教師と学生が顔を合わせながら行う授業ができなくなり、すべてをインターネットを通して行う必要が出てきました。

私が教えている神学校でも、前年度末から休校になり、新年度の開始も4月末に遅らせた上で、すべての授業をオンラインで開講することになりました。とは言え、私たちの神学校にとっては初めてのことであり、何をどうしたらいいのか皆目検討もつかないまま、手探りで準備が始まりました。

これはおそらくITネイティヴの若い世代の学生より、教師の側に大きなストレスをもたらしたのではないかと思います。私も含め多くの教師は伝統的な対面型の授業に強いこだわりを持っており、異なる方法を導入することに抵抗を感じています。今回のような危機的状況によって背中を押されない限り、なかなか変わることはなかったでしょう。けれども、もはやそのようなことを言っている余裕もなくなりました。いわば新型コロナ危機という「黒船」の到来によって、私たちは遠隔授業への「開国」を余儀なくされたのです。

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「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たった四はいで夜も寝られず」

予算も限られており、専任の技術スタッフもいない小さな神学校では、とにかく今いるスタッフで知恵を絞って対応していかなければなりません。そんな中で、専門知識もない私が「IT担当スタッフ」をおおせつかり、リサーチして資料を作り、教師や学生のサポートにあたることになりました。同時に、自分が担当するクラスのオンライン化も考えていくことになりました。以下に記すのは、その導入プロセスを忘備録的に綴った「遠隔授業事始」です。 続きを読む

[リソース紹介] The Bible Project

先週、シンガポールで開催されたアジア神学協議会(ATA)の総会に出席してきました。今回のテーマは「未来の教会:その神学的応答 The Future Church: A Theological Response」で、次世代に対する神学教育のあり方について議論がなされ、多くのことを学ばされました。

今回フォーカスが当てられたのは、特にミレニアル世代(1980年代はじめから1990年代半ばまでに生まれた世代)です。(1990年代中盤以降に生まれたさらに若いポストミレニアル世代もいますが、今回議論の中心となったのはミレニアル世代でした。)ミレニアル世代はインターネットと共に育った世代であり、スマートフォンやソーシャルメディアが生活の一部になっています。彼らはポストモダニズムの中で産声をあげた最初の世代であり、Leonard Sweetの言うEPICExperiential, Participatory, Image-driven, Connected)、つまり体験と参加とイメージとつながりを重んじるポストモダン文化の中に生きています。

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聖書を「聴く」ということ

「聖書を読む」というと、どんな情景をイメージするでしょうか。多くの人は、一人で聖書を開いて黙読する様子を思い浮かべるのではないかと思います。

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しかし、このような「聖書の読み方」は、歴史的に言えば比較的最近に出てきたものです。現代の私たちは簡単に個人で聖書を所有して、好きな時に好きな場所で読むことができます。しかし、神の民の歴史の中で多くの時代には、聖職者のような一部の人間を除いて、大多数の人々は自分一人で聖書を読むことはありませんでした。昔は書物は高価で個人で所有することは困難でしたし、多くの人々はそもそも読み書きができませんでした。古代世界の文化はテクスト中心ではなく、口頭のコミュニケーションが中心でした。彼らにとって聖書に親しむ唯一の方法は、教会で聖書が朗読され、解き明かされるのを「聴く」ことだったのです。

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「『いいね』文化」考

フェイスブック断食

ここしばらく、わが家では「ジャンクメディア断食」と称するものを行っています。詳しくは妻のブログに書いてありますが、特にわが家の子どもたちによるメディア使用を(本人たちも同意の上)制限しようとする試みです。親もそれに合わせて、寝室にスマートフォンを持ち込まないなどの試みをしています。今のところ家族全員が良い影響を受けていると感じています。

それに伴い、私も個人的に、フェイスブックの使用をしばらく休止することにしました。いわば「フェイスブック断食」です。フェイスブックはここ数年使っていますが、このようなソーシャルメディアによって、自分の心がどのような影響を受けているのかを、一度立ち止まって考えてみようと思ったのです。(私の場合は仕事でもフェイスブックを使っていますので、必要最小限の使用は続けますが、個人としての使用はやめました。)

フェイスブックを始めてまもなく、自分の投稿がどのような反応を引き起こすかということを自分が強く意識していることに気づきました。投稿にたくさんの「いいね」やコメントがつくと喜び、あまり反応がなかったり否定的なコメントがあったりすると落ち込むなどといったことです。これは誰しも感じる自然な反応かもしれませんが、自分の投稿に人々がどう反応するかが絶えず気になり、そのためにフェイスブックをチェックする頻度が増えていきました。

それだけではありません。自分が投稿する内容だけでなく、自分がどのような投稿やページに「いいね」を押しているか(あるいはいないか)、誰に誕生祝いのメッセージを送って誰に送っていないか、と言ったネット上の「行動」が他の人々にどのように受け取られるのか、そのようなことも常に意識するようになり、それが大きな精神的ストレスを生むようになりました。

もっとも恐ろしいと思ったのは、自分の発信する情報の内容が、そのような「他人の目」によって変わってきたことです。たとえば、長く堅苦しい内容の投稿は「いいね」がつきにくい(そのような種類の文章にはブログの方が合っていると感じたのが、このブログを始めた動機の一つでもあります)、テキストだけの投稿よりも写真や動画をつけた方が「いいね」がつきやすい、などなど、経験的にいろいろな「法則」が分かってきますと、それにしたがって多くの人に「評価されやすい内容」の投稿をするようになっている自分に気づきました。つまり、ソーシャルメディアに露出している「私」は本当の私ではなく、他人に見られることを想定して「作られた私」なのです。ここに来て、私はソーシャルメディアとの関わり方をもう一度考えなおさなければならないと感じました。

「いいね」文化

フェイスブックのようなソーシャルメディアには、普通の環境ではなかなか交流できない人々(たとえば遠隔地に住んでいる人など)と手軽に繋がることができるなど、多くの利点があります。私自身、その恩恵を受けてきました。しかし、その反面、自分のオンライン上での言動が他人からどのように受け取られるかということを過剰に意識するようになり、それは精神的にかなり大きなストレスになってきたのも事実です。

これは実はソーシャルメディアに固有の問題ではなく、実社会における問題がインターネットの仮想現実世界でさらに強化されたものだと言えます。特に私たち日本人は常に「他人の目」を気にしながら生きています。自分の容姿や学校の成績、仕事の業績、等々、「人からどう評価されるか」が、私たち自身の価値を決定するものであるかのように考えられています。フェイスブックでは、そのような「他者からの評価」が「いいね」やコメントの数、「友達」の数などで目に見える形で数値化されていきますが、実生活においても私たちは常に他人からの目に見えない「いいね」を求めて生きているのです。このような社会のあり方を「『いいね』文化」と呼ぶことができるかもしれません。

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「いいね」文化においては、自分の価値やアイデンティティは他人の評価によって大きく影響されます。したがって、私たちにとって、他人から良い評価を得ることが人生の至上目標となり、そのために全ての精力を注ぎこむことになります。言い換えれば、私たちは自分の価値や安心感を「他人からの高評価」に見出そうとしていることになります。これはまさに偶像にほかなりません偶像礼拝とは、私たちの「いのち」(無条件で愛され受け入れられていること、自己価値、安心感)を得ようとして神以外の存在を求めていくことだからです。

そして、このような試みは多くの場合破壊的な影響をもたらします。ほとんどの人はコンスタントに他人から良い評価を受けることなどできません。したがって、それはしばしばセルフイメージの低下につながります。私たちはこの世の「いいね」文化の悪影響から身を守るすべを身に着けていく必要があると思います。

しかし、人のアイデンティティが神ご自身に根ざしているなら、その人は揺るがされることがありません。フェイスブックで何百人の「友達」がいようとも、本当の親友に恵まれているとは限りません。けれども、キリストは私たちの真の「友」となってくださいます(ヨハネ15章13-15節)。キリストにあって神ご自身が私たちを受け入れ、愛し、喜んでくださっていることを実感するとき、私たちはこの世の「いいね」文化によって押しつけられた偽りのセルフイメージから解放されることができます。誰が何と言おうと、神ご自身がこの私に「いいね!」とおっしゃってくださっているのです。もちろん、これはすでに多くの人が指摘していることで、何も目新しい主張ではありません(たとえばマックス・ルケードは『たいせつなきみ』という絵本の中で、子どもにも分かりやすくこのことを述べています)。しかし、「いいね」文化の蔓延する社会においては、このことを繰り返し自分に思い起こさせる必要があると思っています。

神よ、わたしをお守りください。
わたしはあなたに寄り頼みます。
わたしは主に言う、「あなたはわたしの主、
あなたのほかにわたしの幸はない」と。
地にある聖徒は、
すべてわたしの喜ぶすぐれた人々である。
おおよそ、ほかの神を選ぶ者は悲しみを増す。
わたしは彼らのささげる血の灌祭を注がず、
その名を口にとなえることをしない。
主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの。
あなたはわたしの分け前を守られる。
測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。
まことにわたしは良い嗣業を得た。
わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。
夜はまた、わたしの心がわたしを教える。
わたしは常に主をわたしの前に置く。
主がわたしの右にいますゆえ、
わたしは動かされることはない。
このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。
わたしの身もまた安らかである。
あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、
あなたの聖者に墓を見させられないからである。
あなたはいのちの道をわたしに示される。
あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、
あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。
(詩篇16篇)

今後私がソーシャルメディアとどのように関わっていくかは分かりません。おそらくその否定的な影響力に留意しつつ、健全な利用法を探っていくことになると思います。しかし、一時的にソーシャルメディアを離れることによって、一種すがすがしい解放感を味わっているのも事実ですので、しばらくこのまま離れていようと考えています。

Be Thou My Visionという、アイルランドに古くから伝わる賛美歌があります(讃美歌 358番「こころみの世にあれど」、聖歌259番「きみはわれのまぼろし」)。昔から好きな曲ですが、特に最近その中の次の歌詞を繰り返し口ずさみ、心に刻みつけています(日本語訳は私訳です)。

Riches I heed not,
Nor man’s empty praise,
Thou mine inheritance,
Now and always:
Thou and Thou only,
First in my heart,
High King of heaven,
My Treasure Thou art.

富に心をとめることはしません
人からの空しい称賛にも
あなたこそ私の受け継ぐべき分
今も、いつまでも
あなたが、ただあなただけが
私の心で第一の場所を占めるかた
天のいと高き王よ
あなたこそ我が宝

Be Thou My Vision (私の好きなJars of Clayによる演奏です)