聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その6)

その1 その2 その3 その4 その5

藤本満先生によるゲスト投稿、6回目は、私(山崎ランサム)とのインタビュー形式でお送りいたします。

聖書信仰

聖書信仰』(再刷おめでとうございます!)

このたび、寄稿の最後に山﨑ランサム和彦先生が質問され、小生が少し応答し、必要があれば、山﨑ランサム先生がさらに応答する、という形式を取っています。読者のみなさまも、先生の質問に対して、様々なお答えがありますでしょう。私の拙い返答にご辛抱ください。

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Q1.どのような神学も歴史の真空状態の中で生み出されてくるものではなく、神学者が生きている具体的な歴史的状況に 必然的に影響を受けるものだと思います。本書における先生の主張をよりよく理解するために、先生ご自身の神学的背景について、簡単に お教えください。

私はインマヌエルという群の中で、牧師の家庭に育ちました。きよめ派の教団で、1945年に群を創設された蔦田二雄先生は、戦後、長老派の常葉隆興先生らと、JPCの旗揚げに貢献された人物です。ですから、私の育った教団は、聖書信仰のど真ん中を歩んできました。しかし、私の周囲でウォーフィールドを読んでいる人・プリンストン神学の聖書観がどのようなものかを論じる人を見たこともありませんでした。しかし、とても伝道的で霊的に真実な群で、純粋に「聖書は神の言葉」であり、滅びる者には愚かであっても、救われる私たちには神の力であると真実に信じてきました。つまり、聖書論の神学的な掘り下げには弱くても、聖書の救済論的な役割はしかと捉えていました。――そういう私に芽生えたのが、聖書信仰はウォーフィールド型だけではないのではないか?という疑問です。

また、あるとき、ふと気がつきました。それなりの理由はあるのでしょうが、日本福音同盟(福音派の集まり)に、本来その中心にいるべき、日本改革派教会が入っていません。また長老教会も、必ずしもその中に入っていません(語弊があったらお許しください)。以前中心におられた村瀬俊夫先生は1980年代の論争で離れていかれました(現在は、福音同盟の社会委員会の委員を務めておられます)。――ここから生まれたのは、日本の福音派を考慮した、聖書信仰の歴史的な変遷を解明してみたいという願いでした。どのようにしてこうなってしまったのだろう?

日本の福音派においては、聖書信仰は、型にはめられたようで、議論にもならないのが現状ではないかと思いました。それは、「信仰」であって「神学」ではないのだから、論じるべきことではない、かのように。一度、バケツをひっくり返してみよう、などと思ったのではありません。少し足跡を検証してみようと思ったまでです。

 

Q2.本書にも登場する神学者トーマス・オーデンは、「復古正統主義(Paleo-Orthodoxy)」を提唱し、 古代の教父や公会議に代表される「古典的キリスト教」の重要性を強調してきました。本書は福音主義の聖書信仰を宗教改革まで遡って描き出していますが、宗教改革以前の「聖書信仰」を今日の福音的キリスト者はどのように評価すべきとお考えでしょうか?

少し字数をいただいて、あらためて宗教改革の聖書主義(聖書信仰)を説明させてください。1517年の10月の終わり、ルターは贖宥状(免罪符)を売り歩いて、大金を稼いでいる教皇サイドに抗議文を出します(ヴィッテンベルクから印刷を通してあっという間に広がります)。教皇サイドとルターは、最終的に1521年のヴォルムスで開催された神聖ローマ帝国の会議にルターが呼び出され、撤回を求められ、それを拒否したことで、決裂します。

「皇帝閣下と諸侯殿が単純な答えを要求されるのですから、歯に衣着せずにお答えします。聖書の証言か明白な根拠をもって納得させられない限り、私は私が挙げた聖句に従います。私の良心は神の言葉にとらえられています。私は教皇も公会議も信用していません。なぜなら、それらがしばしば誤り、互いに矛盾していることは明白だからです。私は何一つ撤回できませんし、そのつもりもありません。良心に反したことをするのは、正しいことではなく、また危険なことだからです。神よ。私を助けたまえ。アーメン。」

ルターの答弁をもってプロテスタント教会が誕生しました。神の言葉、すなわち聖書の生きて働く神の声こそがルターをとらえました。さらに、これまでのカトリック教会は、人間の性質、救いの方法、キリスト者の歩み、等々についての聖書の教えを曖昧にし、時にそれを否定してきたというのが、彼の理解です。今こそ教会は聖書を通して神の真の声を聞かなければなりません。明らかに、プロテスタントの聖書主義の原則は、聖書を教会の上に置きました。

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ヴォルムス帝国議会におけるルター

さて、ヴォルムスの帝国会議は、ルターの答弁で終わったわけではありません。ルターの答弁に応答した審問官の言葉もまた、注目に値します。

「あなたは気が狂っている。どんな目的をもってして、これまで多くの世紀にわたって教会と公会議が討議してきた諸課題に新たに言いかがりをつけるのか。……だれでも公会議と教会の共通理解を聖句によってひっくり返えすような事態を認めたら、もはやキリスト教にはなんら確かな、決定的なことは残らないではないか。」

もし誰もが聖書を味方につけて自分の良心に従うだけでは、その道は、良心の数だけ存在することになります。帝国会議におけるこの言葉もまた、これから先、分裂を繰り返して、諸教派を生み出すプロテスタント教会の将来を予見していたことになります。

そのように考えると、山﨑ランサム先生が挙げてくださったトーマス・オーデンの狙い所が少し見えてきます。彼は、「復古的正統主義」、つまり古代信条を作り上げてきた時代の教会のあり方にならって、聖書主義によって様々に分裂し、多くの教派・神学を生み出してきたプロテスタントを超え、さらに教皇制度と伝統を軸にキリスト教を考える西方カトリック教会を超え、東方教会とも連携を取りながら、それらの分裂が未だなかった時代に目を向けようとしています。

そこでは、教理と霊性の垣根はありません。神学は神学だけをしているのではなく、牧会・伝道・帝国主義との戦い、あらゆることに関わっていました。そこでは聖書が先か教会が先か、というような鶏と卵の論争もありません。鶏も卵も一つのことでした。

オーデンは、そのような古代正統主義のルネサンスは不可能だろうとあきらめていました。ところが、拙著でも紹介しました、初代教父による聖書注解、『古代キリスト教聖書注解』(Ancient Christian Commentary on Scripture)の総編集の働きを進めるにつれ、以前とは異なった感触を得るようになります。この注解書は、初代教父による、存在するすべての聖書注解をデータベース化し、それをもとに聖書の各書各節が、どのように教父たちによって注解されてきたかを解説しています。2001年から刊行が始まり、全29巻が発行されました(InterVarsity)。またこの注解書は、世界で七か国語で同時刊行されてきました。

各巻の編集者は、プロテスタントやカトリックの聖書学者だけではありません。ユダヤ教の聖書学者、東方教会の聖書学者も含まれています。そして、各巻の編集者に共通して見られる、古代の正統主義への憧憬、そこに立ち返る姿勢をオーデンは見て取りました。拙著は「聖書のひとり歩き?」という章をもうけましたが、プロテスタントの流れの底流に、ともすると聖書とその解釈が、教会・伝統を離れて一人歩きする傾向があり、それを反省して、どのような動きがあるのかの一端を紹介しました。

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Q3.本書では欧米と日本の聖書信仰について主に書かれていますが、日本以外のアジア諸国、アフリカ、中南米の教会の中で、聖書信仰というテーマについて注目すべき動きをご存じでしたら、お教えください。

回答は持っていないのですが、この質問の重要性を強調させてください。1910年の統計では、プロテスタント教徒の58%が欧州、31%が米国、11%がその他の国でした。ところが、2010年の統計ですと、欧州はわずか12%、米国は15%、そしてアフリカ・南米・アジアに73%、となっています。さらに、73%のうち、かなりの割合が聖霊派・ペンテコステ派です。福音派の分布が、欧米以外に、しかもそのかなりの%が聖霊派である、というのが現実です。

山﨑ランサム先生が挙げてくださった地域で「聖書信仰」がどのように論じられているのか、私にはまったくわかりません。しかし、これは十分に考察に値するテーマです。これを神学的に論じる研究者がだれかというよりも、この課題がそれらの地域でどのように扱われているのか、論争はあったのか、米国的な理解がどのように浸透しているのかに、私も興味があります。山﨑ランサム先生は、動向をご存じでしょうか?

聖書信仰の実践・適用という見地からですと、拙著でも取り上げました、デヴィッド・ボッシュ『宣教のパラダイム転換』は、南アフリカのオランダ改革派です。彼のメッセージは、未だに植民地的社会構造に縛られている世界からの叫びでした。ローザンヌ会議に出席したペルーのサムエル・エスコバール(Samuel Escobar)は、福音派における解放の神学と社会構造の変革を訴えた人物でした。

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藤本先生、お忙しい中、私からのとらえどころのない質問に一つ一つ丁寧にお答え下さり、心から感謝いたします。Q3でご質問した、(日本以外の)アジア・中南米・アフリカ諸国における「聖書信仰」については、私も正直なところほとんど知らないのが現状ですが、ごく限られた範囲で知っていることをお分かちしたいと思います。

アジア神学協議会(Asia Theological Association: ATA)は福音主義に立つアジアの神学教育機関の集まりですが、そこが出版しているアジア聖書注解Asia Bible Commentary)というシリーズがあります。これはATAがジョン・ストットによって創始された Langham Partnershipとの提携のもとに刊行中のプロジェクトですが、その目的はアジアの聖書学者による、アジアの牧師や教会指導者、神学生等のための聖書注解を生み出すことにあります。

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アジア聖書注解シリーズ

アジア聖書注解シリーズのユニークな特徴は、「アジアに文脈化された聖書講解」という点にあります。その編集方針では、注解本文において釈義 exegesis と適用 application をはっきりと分離することはせず、聖書講解の中にアジアというコンテクストにおける適用と、アジアにおける聖書解釈の歴史を織り込んでいくことが明確にうたわれています。つまり、歴史的・文法的解釈のスタンダードな手法である、まずオリジナルの歴史的文脈において聖書が「意味したこと」を釈義し、しかるのちに現代の教会の置かれている文脈に適用する、という二段構えの構造を意図的にくずし(あるいはゆるめ)、現代のアジアにある教会に語りかける神のみことばとしての聖書のインパクトに重点を置いて聖書を読んでいこうという試みであると言えます。これは、藤本先生がおっしゃってこられた、「救済論的な聖書観」に基づくアプローチの一例といえるでしょう。

もちろん、注解書は実際に聖書を解き明かしてなんぼの世界ですので、実際に生み出されてくる注解の善し悪しは個別に判断されなければなりません。また、メインラインの聖書解釈では、アジア人の視点から聖書を解き明かそうという試みは、これまでにもありました。しかし、従来はそのようなアプローチに対しては、福音派からは「ポストモダン的な読み手応答批評」「主観的な読み込み eisegesis」として否定的にしか評価されてこなかった気がします。けれども、近年になってこのような聖書解釈の方法論がアジアの福音派の聖書注解の方針としてはっきりうち出されていること自体、注目すべき動きであると思います。

(続く)

確かさという名の偶像(17)

(シリーズ過去記事 第1部          10 第2部 11 12 13 14 15 第3部 16

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズも第3部に入っています。なるべく1回で1章を紹介しようと努めていますが、内容が濃くて1回では紹介しきれない章もあります。今回も第8章「強固な中心」の続きになります。

信仰の同心円モデル

前回も見たように、ボイドは福音派によく見られる「トランプの家」的な信仰モデルを批判します。このモデルにおいては、すべての信仰箇条が他のすべての信仰箇条に依存しているので、一つの要素が否定されると、全体が崩れてしまいます。それに対してボイドは同心円的な構造を持った信仰のあり方を提案します。それはいのちの源であるイエス・キリストを中心としてすべての信仰箇条をとらえるモデルです。ボイドが提唱する信仰モデルにあっては、個々の信仰箇条はそれ自体が目的ではなく、すべてこの中心であるイエス・キリストを通して神との人格的契約関係を持つために存在しているのです。

このイエス・キリストを中心に、ボイドはクリスチャンとしてのすべての信仰箇条を位置づけていきます。ここでポイントとなるのは、すべての信仰箇条は同じ重要性を持っているわけではないということです。より重要な要素は中心に近く、そうでないものは遠くというように位置づけていくと、クリスチャンが信じているさまざまな信仰箇条は、次のような同心円上に分布することになります。

信仰の同心円モデル信仰の同心円モデル

ボイドは中心に近い内側の輪を「教義dogma」と呼びます。これは歴史的正統キリスト教会が一貫して尊重してきた最も重要な信仰箇条で、ニカイア信条や使徒信条などで告白されているような内容です。ここにはたとえば三位一体論、キリスト両性論(イエス・キリストの神性と人性を両方とも認める立場)などが含まれます。

次の輪は「教理doctrine」と呼ばれます。ここには、正統的キリスト教会が常に受け入れてきたものの、その理解については見解の違いがあるようなものが含まれます。このレベルにおける立場の違いによって、様々な教派が分かれてきます。たとえば、神がこの世界を統治されるということはすべてのクリスチャンが認めてきましたが(つまりこれは教義です)、神がどのようにその統治を行われるかについては、見解の違いが存在します。つまり、神が歴史上起こるすべてのことがらを直接コントロールされるのか、それとも被造物にある程度の自由意志を与えておられるのか、ということです。

最後に、一番外側の輪は「意見opinion」と呼ばれます。これは個々のクリスチャンが時として主張することがあっても、キリスト教会全体において広く支持されることはないものです。これは特定の教理の異なる解釈として生じてくることが多いです。ボイドはこの中に含まれるものの例として、創世記1章1節と2節の記述の間には長い時間的隔たりがあるという、いわゆる「ギャップ理論」や、未来は部分的に開かれているという考え(いわゆるオープン神論)を挙げています。

ボイドはこのような信仰のモデルには多くの利点があると言います。このモデルは柔軟性に富むために、個々の信仰者が、中心であるキリストとのいのちにあふれる関係を保持しつつも、知的・霊的に成長していくことを容易にします。彼らのいのちがキリストに根ざしている限り、どのような問題について悩んだとしても、それらに真摯に向き合うことができるのです。したがって、このモデルを採用することによって、クリスチャンは異なる立場の信仰者やノンクリスチャンと、さまざまな主題について、愛をもって、防御的にならず、理性的に話し合うことができるようになる、と言います。これはまさに「確実性追求型」信仰、「トランプの家」的信仰の弱点をカバーする重要な利点であると言えます。

ボイドはさらに、このモデルは他者に福音を分かち合う時にもたいへん有効であると言います。多くの人々はキリストとのいのちにあふれる関係に魅力を感じながらも、キリスト教会が「福音」をさまざまな要素(聖書の無誤性、若い地球の創造論など)からなる「パッケージ」として提供し、その全体を受け入れるか、拒否するかの二者択一を迫るために、その一部でも受け入れられない場合、福音の全体を拒絶してしまうという残念な事態が生じています。しかし、同心円モデルでは、人々はまずキリストと人格的関係を持つことから始め、歴史的正統キリスト教会の教義を学ぶところから出発して、あとは自分の知的興味に応じて自由にさまざまな主題を吟味し、成長していくことができます。そこでは、さまざまな教理や意見に関する議論は信仰に入るための前提条件ではなく、すでに信仰を持った者たちの間の「仲間うちの議論」として位置づけられます。そして、このレベルにおける立場の違いは、キリストとのいのちあふれる関係を脅かすことはないので、愛をもって、防御的にならず、楽しみさえ覚えながら行うことができるとボイドは言います。

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このブログを開設当初から読んでくださっている方は、ここでボイドが提示している「同心円モデル」は、「違いの違いが分かる男(女)」で提案したモデルとよく似ていることに気づかれたことと思います。ただし、そこには一つ違いがあります。私がかつて提案していたモデルには、中心に人格としてのキリストの存在がなく、すべてが信仰箇条の相対的重要性のみによってとらえられていました。今では私も、ここでボイドが提案しているように、イエス・キリストの人格をすべての中心に置くモデルの方が好ましいと考えています。しかし、基本的な考え方は同じです。クリスチャンとしての信仰箇条には重みの違いがあり、最も重要な部分において一致していれば、相対的に重要でないことがらに関する意見の違いは、クリスチャンとしての交わりを妨げることはないはずなのです。

この問題は次のように考えることもできます。ある人々は「正統的・聖書的キリスト教信仰」を明確な境界線をもって定義される「領域」と考えています。すなわち正統的クリスチャンを特徴づける一群の信条や行動規範があり、それを外れた(境界の外にある)信条や行動は「異端的」「非聖書的」「非キリスト教的」として拒否する態度です。そこでは「内と外」「白と黒」「天国(救い)と地獄(滅び)」がはっきりしており、人々の関心はいかに境界線を厳密に「定義」し、誰が中にいて誰が外にいるかを「判定」することに向けられます。このような考え方を「境界線思考」と呼ぶことができると思います。

境界線思考

これに対して、ボイドの提唱する同心円モデルのように、イエス・キリストという人格を中心にして、その中心への距離感によってものごとの重要性を相対的に判断していく考え方もあります。これを「中心点思考」と呼ぶことができるでしょう。

中心点思考

この中心点思考では、どこまでが「正統的キリスト教」という明確な境界線があるわけではありません。このモデルでも、中心から離れれば離れるほどクリスチャンとしての正統性に疑問が増していきますが、「境界線思考」と違って、白と黒の明確な区別があるわけではありません。ある意味ファジーなモデルといえますが、福音の中心であるイエス・キリストとの人格的関係を基盤にしつつ、互いの違いを認め、また互いの不完全さも認めつつ、互いに交わり、励まし合いながら、共に成長していこうとするものです。

私の少年時代には、「太陽系は中心の太陽と水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星の9つの惑星からなる」と教わったものでした。けれども、近年では冥王星が「惑星」としての資格を失っただけでなく、これらの惑星の外側にもさまざまな準惑星や小惑星が存在し、「エッジワース・カイパーベルト」や「オールトの雲」といった外縁天体もあることが分かってきました。オールトの雲は長周期彗星の起源と考えられており、理論上その存在が推測される仮説的天体だそうですが、大きく見積もると太陽から10万天文単位(1天文単位は太陽から地球までの距離)の大きさにまで拡がっている可能性があるそうです。いずれにしても、実際の太陽系の外縁は雲のようなとらえどころのないものであり、昔のように「冥王星の軌道までが太陽系」という明確な境界線が引けなくなってきたようです。

F_oort_cloud太陽系(画像は”F oort cloud” by Jedimaster投稿者自身による作品. Licensed under CC 表示-継承 3.0 via Wikimedia Commons.)

キリスト教信仰もまた、イエス・キリストという「太陽」を中心として、その重力圏内でキリストの周りを回転運動する「キリスト系」あるいは「キリスト圏」のようなものととらえることができるかもしれません。これは「何でもあり」のモデルではありません。惑星と外縁天体ではかなりの違いがあります。けれども、それらの間に明確な境界線を設けない「中心点思考」の信仰モデルの方が、信仰のあり方として健全であり、またポストモダンの現代社会においてクリスチャンとして歩む上でも有効であると考えています。

(続く)

小文字のキリスト教

これが当ブログ通算100回目の投稿になります。開設したのが昨年の11月16日でしたから、ほぼ1年かかったことになります。毎日のように更新されるブログに比べるとまことに遅々たるペースですが、ここまで続けることができて感謝しています。当初はここまで続くとは正直思っていませんでした。いつも読んでくださっている方々に心から感謝します。

ということで、今回は現在進行中のシリーズはお休みして、以前から考えていることをお分ちしたいと思います。

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何年も前のことになりますが、はじめて英語で使徒信条を読んだ時、日本語では「我は・・・聖なる公同の教会・・・を信ず。」と訳されている部分が英語では”I believe in . . . the holy catholic Church”となっているのを知って、とても興味深く思いました。これはもちろん、いわゆるローマ・カトリック教会を指しているわけではありません。英語のcatholicカトリコスというギリシア語に由来する言葉で、「普遍的」という意味があります。ですから、プロテスタントに限らずすべての教派のクリスチャンが使徒信条を唱える時には、キリストのからだとしての普遍的な(「公同の」)教会に属しているということを告白しているのです。これに対してローマ・カトリック教会はRoman Catholic Churchと言いますが、ここでのCatholicは大文字で書かれ、ローマ教皇を最高指導者とする特定の教派を言います。

同じことはorthodoxということばについても当てはまります。これは本来は「正しい教え・賛美を持つ」を意味するギリシア語オルトドクソスから来ており、使徒たちに遡る正統的な信仰を意味します。しかし、大文字でOrthodox Churchというといわゆる東方正教会という特定の教派を指すことになります。

キリスト者としての自分の位置づけはといえば、敢えていうなら「福音派Evangelical Christianity」に属する者です。この言葉は一般的な用法で言えば、聖書の権威とイエス・キリストへの信仰による個人的回心を重んじる保守的プロテスタントの諸教会を指しますが、語源的には福音(エウアンゲリオン)に根ざしている教会、という意味です。

このような大文字(Catholic, Orthodox, Evangelical)小文字(catholic, orthodox, evangelical)の表現には興味深い違いが表れていると思います。それぞれ、元来は全キリスト教会に当てはまるべき重要な特質(普遍、正統、福音的)を表した形容詞でありながら、それを大文字化して特定の教派の名称にしてしまうと、あたかもその特質がその教派の専売特許であるかのような錯覚を与えてしまう危険性があるのではないかと思います。そしてそのような「大文字化」の背後に、自分たちのグループのみが神の真理を代表しているという排他的独善性が見え隠れするように感じているのは私だけでしょうか。

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このことに関して興味深い記述がパウロのコリント人への手紙の中に見いだせます:

さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにして、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。 わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。(1コリント1章10-12節)

コリント教会の中心的な問題は、教会に分派があったことです。それぞれのグループは特定の指導者を担ぎ上げて、「パウロ派」や「アポロ派」「ケパ(ペテロ)派」などに分かれて争っていました。ところがここで興味深いのは、そのような分派の中に「キリスト派」とでもいうべきグループがあったということです。これは何を意味しているのでしょうか?クリスチャンが「わたしはキリストにつく」と言うことのどこが問題なのでしょうか?

おそらく、ここで言われているのは、「自分たちだけがキリストに忠実なグループである」と主張し、他の人々を見下しているような分派ではないかと思われます。「私たちはキリストにつく」と言えば、他のクリスチャンたちはキリストについていない、ということを暗に意味します。「キリストへの忠誠」という、クリスチャンにとって最も大切な特質も、それが排他性を帯びてくるときに、教会に分裂をもたらし、神の国の働きを妨げる結果になってしまうということです。同様に、現代の私たちも自分たちだけが「普遍的」「正統的」「福音的」な教会であるという自負を持つとき、コリントの「キリスト派」と同じ過ちを犯していることにならないでしょうか。

この大文字と小文字の違いは、自分にとってキリスト者としてのアイデンティティを考える上でとても重要です。私はいわゆるカトリック(大文字のCatholic)信徒ではありませんが、公同の(小文字のcatholic)教会に属するクリスチャンとして、同じ信仰を共有する他教派のキリスト者と交わり、彼らから学んでいきたいと願っています。同様に、私は大文字のOrthodox Church(正教会)に所属してはいませんが、初代教会につながる正統的な(orthodox)信仰を保持する者でありたいと願っています。さらに、私は広い意味での福音派Evangelicalに属する者ですが、いわゆる「福音派」だけが福音に根ざした(evangelical)キリスト教であるとは思っていません。福音派であろうとなかろうと、イエス・キリストの良い知らせ(福音、エウアンゲリオン)を受け入れ、これを宣べ伝える人々とは神の家族であると思っています。

もちろんこれは、キリスト者が特定の教派に属することを否定するものではありませんし、私も歴史の中で培われてきたそれぞれの教派的伝統の意義は十分に認めています。しかし、ここで述べてきたようなキリスト教の特質は、本来全教会の共有財産であるべきものだということを意識するだけで、教派的背景の異なる兄弟姉妹とも偏見なく交流を持つことができるようになるのではないかと思います。ですから、evangelicalなカトリック信徒やcatholicな正教徒がいてもいいし、orthodoxなプロテスタントのクリスチャンも当然あってしかるべきだと思います。

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「神学する」というと、自分の所属する特定の教派や伝統の独自性に強調点が置かれることが多いですが、時には一歩下がって、自分の信仰をより大きな、よりジェネリックな「キリスト教」の枠組みの中で見つめ直してみることも必要であると思います。N・T・ライトは端的にクリスチャンであることについて書きましたし(Simply Christian、邦訳は『クリスチャンであるとは』)、C・S・ルイスは「ただのキリスト教」(Mere Christianity、邦訳は『キリスト教の精髄』)について語りました。同じような問題意識の下、私はcatholic, orthodox, evangelicalといった「小文字のキリスト教 small-letter Christianity」という信仰のあり方を追い求めていきたいと思います。

「主の祈り」を祈る(9)

(シリーズ過去記事        

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

「我らをこころみにあわせず、悪より救いだしたまえ。」

「こころみ」と訳されているギリシア語peirasmosは「試練」とも「誘惑」ともとることができることばです。いずれにしても、私たちの内と外から働きかけて、神から引き離し、罪を犯させ、御心にかなった歩みをさせなくするような力のことを言います。「悪」と訳されているギリシア語も「悪しき者」すなわち悪魔ととることも可能です。それぞれの言葉についてどちらの訳語を採用するにしても、以下に論じる内容にはあまり影響はありません。

このシリーズで何度も述べてきたように、主の祈りは「神の国の地上への到来」という文脈の中で祈る必要があります。そして、神の国はサタンの国に侵攻してくるものであり(過去記事を参照)、そこには必ず衝突があります。ですから、試練や誘惑のないクリスチャン生活はありえないのです。

私たちが日々体験する信仰の戦いはリアルなものです。そうでなければ、「悪(い者)から救ってください」という祈りは意味をなしません。この地上ではまだ悪の力が猛威を振るっており、クリスチャンであっても罪と死と苦しみの現実から完全に隔離されて生きることはできません。だからこそ私たちは、日々「我らを悪より救いだしたまえ」と祈るのです。ある人々にとっては、それは祈りというより叫びであるかもしれません。私たちが生きている世界はそういう世界です。しかし、イエスは十字架と復活を通してサタンに対して決定的な勝利をおさめてくださっており、世の終わりにはその勝利を完全に表してくださいます。究極的な勝利はすでに保証されているのです。この祈りは、そのような終末的勝利が現在においても現されることを求める祈りであると言えます。

私たちは自分からこれらの試練を求める必要はありませんし、そこから救い出していただくように神に求めるべきです。イエスご自身も、ゲッセマネの園で十字架という試練から救い出されるように祈られました。

そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。(マタイ26章39節)

El_Greco_019エル・グレコ「園における苦悩」

しかし、この祈りは、先に祈った「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という祈りの文脈で考えなければなりません。試練や悪から逃れることを求めることは決して間違ってはいませんが、それがクリスチャン生活の最優先事項ではないのです。それらすべてに対して、神の御心が優先します。イエスがゲッセマネで祈られたように、私たちは避けられない試練があるならばそれを信仰を持って受けとめなければなりませんし、実際に誘惑が来たらそれに対して抵抗しなければならないのです。

ですから、この祈りを祈ったから誘惑や試練が来なくなるというわけではありません。けれども、少なくとも私たちは、試練の中にも主の御心があることを信頼していくことができます。そして、神は耐えられない試練は与えられないお方です(1コリント10章13節)。

以前にも述べたように、イエスご自身、この部分を含め主の祈りを日々祈っておられたと考えられます。にもかかわらず、イエスは地上の生涯で多くの試みと誘惑を受けられました(マタイ4章1-11節、ルカ4章1-13節)。けれどもイエスは、それらすべてに打ち勝たれ、罪を犯されませんでした。これは私たちの従うべきモデルです(ヘブル12章1-3節)。同時に、イエスは私たちの弱さに同情できないお方ではない(ヘブル4章15節)ということも、この祈りを祈る時に大きな励ましになります。

「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。」

この頌栄の部分はマタイ福音書の古い重要な写本には含まれておらず、ルカ福音書の並行箇所にもありません。内容的には1歴代誌29章11-13節との類似が見られます。この部分は初期のキリスト教会の礼拝において主の祈りに続いて唱えられていたものが定着したものと考えられています。したがって、この頌栄はイエスが弟子たちに教えられたオリジナルの主の祈りには含まれていなかったと思われますが、主の祈りを締めくくるにふさわしい内容になっています。

私たちがここまでの祈りを祈ることができた理由は、神がすべての栄光と権威をもっておられるからです。神は宇宙の王であって、その支配を天だけでなく地にも拡大してくださり、永遠に支配されるお方です。たとえ現在地上には神の支配が完全には実現していなくても、私たちは今この瞬間にも天においてはその現実があることを信じ(黙示録4-5章)、やがて時が来るとそのことが地上でも実現することを信じています(黙示録11章15節)。だからクリスチャンは、悪の嵐が吹き荒れる世界においても、神の栄光をほめたたえるのです。 「アーメン」とは「その通り」「真実である」という意味です。神の国(支配)がこの地上に訪れる―その確信がなければ、私たちは主の祈りを真実に祈ることはできないのです。

そして、神の国の中心におられるのがイエス・キリストです。キリストが約二千年前に来られたことによって、神の国はある意味でこの地上に訪れ、拡大を始めました。そしてキリストが再び地上に来られる時に、神の支配は地上においても完成します。キリストこそ、永遠の御国を治める方なのです(2サムエル7章12-16節、ダニエル7章13-14節、2ペテロ1章11節、黙示録11章15節)。主の祈りが神の国の到来を求める祈りであるなら、それはまた王なるキリストの主権を認め、その再臨を待ち望む祈りでもあると言えます。

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N・T・ライトは『クリスチャンであるとは』の中で、主の祈りについてこう言っています。

この祈りを私たちが唱えることは、天の父に向かって「イエスは私を、良い知らせの網(イエス自身が用いたイメージであるが)で捕らえました」と言うのに等しい。この祈りは、祈っている私自身も、イエスの宣べ伝えた神の国運動の一員になりたいという意思表明である。この祈りを唱えると、天と地を生きるイエスの生き方に私が引き込まれていくのが分かる。(227ページ)

主の祈りは、単なる信心深さの表明ではありませんし、私たちの個人的な必要が満たされ、霊性が高められるための祈りでもありません。主の祈りを祈ることは、歴史において神が人類と世界の救済計画を遂行されつつあること(これが「福音」です)を認め、それに応答してその働きへの参加表明をすることなのです。そしてそれは、そのような生き方のモデルを示してくださったイエスの足あとに従って生きることでもあります。

主の祈りを含む山上の説教はおもに弟子たちに向けて語られていますが、マタイ福音書の結末部分では、復活のイエスは弟子たちに対して「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」(28章20節)と命じておられます。この「いっさいのこと」には当然主の祈りを祈ることも含まれるはずです。つまり、すべてのクリスチャンは主の祈りを祈るようにと命じられているのです。これは素晴らしい恵みです。どんなに信仰歴が浅くても、知識や能力がなくても、あるいは自分の罪と弱さに葛藤していても、主の祈りを心から祈るクリスチャンは神の国の運動に参加しているのです。

主の祈りは全てのキリスト教の教派で受け入れられている基本の祈りです。教理や聖書解釈において様々な違いがあったとしても、どんなクリスチャンとでも、この祈りなら共に祈ることができる―これもまた、素晴らしいことであると思います。ある意味で、主の祈りを祈ることは、聖なる公同の教会、唯一のキリストのからだなる神の民に属しているしるしであると言っても良いかもしれません。クリスチャンとして生きるとは、主の祈りを生きることなのです

(終わり)

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(1)

このブログではこれまでの投稿の中でさまざまな本やウェブサイトを参照してきましたが、特定の著作についての感想やレビューを書いたことはありませんでした。これからはそういった「書籍紹介」の記事も書いていきたいと思います。

最初に取り上げるのは、最近邦訳が出版されたばかりのN.T.ライト著『クリスチャンであるとは(上沼昌雄訳・あめんどう)です。

NTWrightSimplyChristian

N.T.ライト(Nicholas Thomas Wright, 1948-)については本ブログでもしばしば取り上げてきましたので、読者はご存じの方も多いのではないかと思います。英国の世界的に著名な新約聖書学者で、現在はスコットランドのセント・アンドルーズ大学で教鞭を執っています。日本語で読める簡単な紹介としては、こちらのウィキペディアの記事をご覧ください。

ライトは専門的な聖書学の著作だけでなく、一般向けの著作も数多く世に問うていますが、日本ではこれまでその業績がなかなか知られていませんでした。いのちのことば社から出版されているコロサイ書・ピレモン書の注解書を除けば、今回の『クリスチャンであるとは』が邦訳された初めての著作になります。日本語版の副題が「N・T・ライトによるキリスト教入門」となっていますが、日本人にとっての「N・T・ライト入門」でもあるともいってよいでしょう。

とはいえ、日本でも数年前からライトに対する関心は高まっており、フェイスブック上には「N.T.ライトFB読書会」のグループがありますし(私もほとんど貢献できていませんが、メンバーに加えていただいています)、一般に公開されているものとしては「N.T.ライト読書会ブログ」もあります。そういった中で満を持して登場した本書ですので、おそらく他にもいろいろなところで書評が書かれていくのではないかと思います。(この原稿を用意している間にも、ミーちゃんはーちゃんさんのブログで本書の連載書評がスタートしました。かなり詳細に論じておられるので、長期連載になりそうです。)また上記のFB読書会では邦訳が出る前から原書を用いて本書についてのディスカッションが始まっています。

このような状況ですので、このブログでは本書の包括的で詳細な書評を試みるというよりは、本の内容を紹介しつつ、あくまで私の個人的な関心に沿ってつまみ食い的に感想を述べていきたいと思っています。最終的にはこれを読まれた方々が実際に本書を手にとってお読みになるためのアペタイザー的な役割を果たせればと願っています。

さて、「はじめに」の部分でライトは本書の執筆目的を簡潔に述べています。

私の目的は、キリスト教とは要するにどういうものなのかを記述し、信仰を持たない人にはそれを勧め、信仰を持っている人にはそれを解説することにある。(1-2頁)

本書の原書は2006年に出版されたSimply Christian: Why Christianity Makes Senseです。Simply Christian(日本語に直訳すると「ただ単にクリスチャンであること」とでもなるでしょうか)というタイトルは、C・S・ルイスの古典的名著Mere Christianity(邦題は『キリスト教の精髄』)を意識していると思われます。ライトは英国国教会の聖職者でもありますが、特定の教派の立場からではなく、プロテスタントですらなく、カトリックや正教会も含めたキリスト教信仰の最大公約数的な核心部分を提示したいという意欲を伺わせます。

さらに副題に注意したいと思います。Why Christianity Is True(なぜキリスト教が真理なのか)ではありません。Why Christianity Makes Sense(なぜキリスト教が意味をなすのか)です。もちろん、著者であるライトを含め、キリスト者は皆、キリスト教が真理であると信じています。しかし、ポストモダンの時代と言われる今日、多くの人々は客観的・普遍的な「真理」の存在をもはや信じられなくなっています。そのような人々に対して、キリスト教が真理であることを「証明」することはきわめて困難です。しかし、一度キリスト教という前提を受け入れるならば、私たちがこの世界で共通に体験している様々な現実を非常にうまく説明することができる。これがライトの言う、キリスト教が「意味をなす」ということなのだと思われます。

C・S・ルイスに次のような有名なことばあります。

私がキリスト教を信じるのは、太陽が昇ったのを信じるのと同じです。それを見ることができるからというだけでなく、それによって他のすべてのものを見ることができるからです。(I believe in Christianity as I believe that the Sun has risen: not only because I see it but because by it I see everything else.)

ライトもまさに、このような、世界をよりよく理解するためのレンズ、すなわち一つの有効な世界観としてキリスト教を提示しようとしていることが分かります。これはキリスト教の信仰内容を共有しない一般の読者に対して対話を呼びかけるには、とても良い方法であると思います。

けれども、ライト自身も言うように、本書は非キリスト教徒だけにむけて書かれているわけではありません。クリスチャンであっても、自分の信仰内容がどこか「意味をなさない」ということはままあるものです。聖書は神のことばであると信じているけれども、それが全体として何を教えているのかはっきりしなかったり、キリスト者としての自分の信仰と自分の生きている世界の現実とをどのように関係づけていったらよいのか分からなくて途方に暮れるということはよくあります。

本書はそのようなクリスチャンにとっても、たいへん有益な本であると言えます。ただし、次回以降に具体的に見ていくように、ライトの提示する「キリスト教の全体像」は、多くのクリスチャンが慣れ親しんできた「キリスト教」理解とはことなる可能性が(大いに)あります。ですから、本書は学術書ではありませんが、必ずしも「読みやすい」本ではありません。ライトが新鮮な視点から描き出してみせる「キリスト教」について、ある人々は拒絶反応をひきおこすかもしれません。けれども、彼の語る内容に注意深く耳を傾け、その主張を理解しようとする努力を惜しまなければ、たとえ最終的に彼の見解に賛成できなくても、本書を読む体験は決して無駄にはならないでしょう。

今回の邦訳出版にあたり、依頼されて本書の推薦文を書かせていただきました。あめんどうさんの了解を得て、最後にそれを引用します。

N.T.ライトはbig pictureの人である。本書は聖書を貫く神の物語(ドラマ)の全体像を強靱な神学的想像力でまとめ上げ、世界観のレベルにまで踏み込んで説得力を持って描き出すことに成功しているばかりでなく、その物語に読者も参加するようにと招いている。著者の提示する「キリスト教」は歴史的正統キリスト教信仰の伝統に根ざしながらも新鮮であり、ポストモダンの社会に生きる今日の人々にもアピールする力を持っている。クリスチャンのための「再入門」としても比類ないものがある。

(続く)

<付記>
個人的なことですが、私は2010年の米国福音主義神学会でライト教授にお会いしたことがあります。その時の様子をのらくら者さんのブログでご紹介いただいたことがありますので、興味のある方はお読みください。

C・S・ルイスの「七つの大罪」?

C・S・ルイスは20世紀の最も影響力のあったクリスチャン著述家の一人と言えるでしょう。映画にもなった児童文学の傑作「ナルニア国ものがたり」シリーズをはじめ、『キリスト教の精髄(Mere Christianity)』、『悪魔の手紙(The Screwtape Letters)』などを読まれたことのある方も多いと思います。

ルイスは英国国教会に属していましたが、教派を超えて、特に英米の福音主義キリスト教界に今日に至るまで強い影響力を持ち続けています。彼の死後40年以上も経った2005年にルイスはアメリカ福音派の雑誌『クリスチャニティ・トゥデイ』の表紙を飾りました。その号の「C. S. Lewis Superstar」と題されたカバーストーリーでは、ルイスを「福音派のロックスター的存在」と形容しています。

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ところが、福音派におけるルイスの絶大な人気とは裏腹に、彼のキリスト教信仰は標準的な福音主義プロテスタントのそれとは必ずしも一致しません。それどころか、保守的な福音派のクリスチャンなら戸惑いを隠せないような側面が彼の信仰にはあったのです。

フランク・ヴィオラは「C・S・ルイスのショッキングな見解」と題するブログ記事を書いています。その中で彼はルイスが信じていた6つの「ショッキングな」ことがらを列挙しています。

1.ルイスは煉獄の存在を信じていた。

2.ルイスは死者への祈りの有効性を信じていた。

3.ルイスは地獄に堕ちた者が死後に恵みへと移行することは可能であると信じていた。

4.ルイスは全てのクリスチャンが禁酒すべきだという考えは間違っていると信じていた。

5.ルイスはカトリックのミサは聖餐の妥当な理解であると信じていた。

6.ルイスはヨブ記は史実ではなく、聖書は誤りを含むと信じていた。

ヴィオラ自身が述べているように、これらのルイスの見解がすべてのクリスチャンにとって「ショッキング」というわけではありません。しかし、これらの項目は、多くの保守的な福音派クリスチャンにとってはかなり受け入れがたいものではないかと思います。

ヴィオラが挙げているのは以上の6項目ですが、私はこれに7番目を付け加えたいと思います。

7.ルイスは生物の進化を信じていた。

神学的には乱暴な表現であることを承知であえて言うなら、これらの7ポイントは福音派にとってのルイスの「七つの大罪Seven Deadly Sins」と言ってもよいかもしれません

ちなみに「七つの大罪」とは、カトリック教会において、悔い改めなければ永遠の死に至るとされる七つの罪のことで、伝統的に「傲慢」「嫉妬」「憤怒」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」がこれに当たります。ただし、ここで述べているルイスの「七つの大罪」はあくまでもアナロジーですので、これらのカトリックの概念に対応しているわけではありません。「福音派のクリスチャンにとって、ルイスのキリスト教信仰の正統性を疑問視させる根拠となりうるような7つの信仰内容」程度に受け止めていただければ幸いです。

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さて、このようなルイスの「ショッキングな見解」について、どう考えるべきでしょうか?この記事の趣旨は上に列挙したルイスの考えが教理的に正しい「聖書的な」ものかを吟味することではありません。むしろここで提起したいのは、上で述べたような神学的見解を持っているからといって、福音派のクリスチャンはルイスのキリスト教信仰の正統性を否定すべきなのか?(通俗的な表現を使えば、ルイスは天国に行けたのか?)という問題です。言い換えれば、これら(福音派にとって)非正統的な信仰内容は、ルイスのいわば「死に至る罪」なのでしょうか?

ここで、ヴィオラのコメントに耳を傾けてみましょう。

(このような「ショッキングな見解」について記事にする理由は)これらの人々が今日の福音派の大多数が眉をひそめるような意見を持っていたからといって、キリストのからだに対して彼らの貴重な思想がおこなった貢献が覆されたり否定されたりすることはない、ということを示すことにある。

不幸なことに、多くの福音主義者は、いわゆる教理的誤りについて、キリストにある兄弟姉妹をすぐに軽視したり、罵倒さえしたりする。それらの兄弟姉妹たちが歴史的正統信条(使徒信条、ニカイア信条など)を堅持していたとしても、である。そのような軽視や罵倒は神の国に属する者たちの誰にも益することがなく、いつでも避けることができるものである。

ここでヴィオラは「歴史的正統信条」について触れていますが、これを堅持しているということは、キリストと使徒たちに起源を持ち、二千年にわたって受け継がれてきた正統的信仰の中核的部分を共有しているということです。これらの信条は、教派を問わず世界中のすべての正統的キリスト教の最大公約数的な信仰内容を要約したものであると言えます。ここでは、その一つとして「使徒信条」を取り上げたいと思います。

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。
アーメン。

さて、この信条の内容と上で述べたルイスの「七つの大罪」とを比較してみると、ルイスの「ショッキングな見解」のどれ一つとして、使徒信条の内容と矛盾するものはないと言えます。おそらくルイスは、何の留保もなく使徒信条を告白していたことでしょう。

このことは、ルイスの信じていたことがすべて正しいということではありません。ルイスと他のクリスチャンとの間には多くの解消しがたい意見の相違があり、ルイスの信じていたことの少なくともいくつかは間違っている可能性もあります。しかし、あらゆる点で完全無欠な教理の体系を持つことは誰にもできません。大切なことは、ルイスの信仰は歴史的正統キリスト教の中核的信仰告白とは何ら矛盾しないのであり、その意味で「正統的信仰」であったということです。つまり、ルイスが「教理」や「意見」のレベルでは多くの福音派クリスチャンと異なる部分を持っていたとしても、「教義」のレベルでは両者は同意することができるのです。(「教義」「教理」「意見」についてはこちらの過去記事をご覧ください。)

福音派のクリスチャンがルイスの神学的見解のすべてを受け入れる必要はありません。しかし、彼の「ショッキング」な見解を知って彼を異端視したり、彼の豊かな信仰的遺産から学ぼうとすることをやめてしまうのはたいへん不幸なことであると思います。むしろ、彼の一見違和感を覚えるような見解と向き合い、じっくりと吟味していくことによって、福音派自身の信仰を見つめなおしていく機会も与えられてくるのではないかと思います。

C・S・ルイスは「福音派」ではありません。しかし、彼はこれからも多くの福音派プロテスタントにとって「スーパースター」であり続けるでしょうし(偶像視するという意味ではなく、大きな影響を受けるという意味で)、それは福音派にとっても良いことであると思います。

違いの違いが分かる男(女)

以前、「違いが分かる男の○○」というインスタント・コーヒーのCMがありました。シリーズ化されて、いろいろな有名人が出ていました。独特の音楽とナレーションで、今でも記憶に残っています。

「違いが分かる男」がはたしてインスタントを選ぶのかという疑問は別にして、「違いが分かる」というのはキリスト教界においても重要なことです。自分の教会を一歩出ると、同じクリスチャンでも多くの主題について多種多様な理解を持っていることが分かるものです。礼拝や賛美の形式から始まって、聖書や救いや終末についての理解など、同じ神を信じ同じ聖書を読んでいても、ここまで違うのかと驚くこともあります。

個人的には、そのような違いを認識すること、まさに「違いが分かる男(女)」になることは、信仰者として健全なあり方であると思います。自分の信仰理解が全てではないこと、キリストのからだなる教会の大きさを知ることは、とても大切なことです。しかし、そこから一歩進んで「違いの違いが分かる男(女)」になる必要があると思います。

ややこしくなってきたので、説明しましょう。

自分と他人との違いを認識することがすべてのスタートです。しかし、違いを認識しただけではまだ「対話」や「協力」「成長」にまで結びつきません。その違いにどう向き合っていくかが大切です。そのためには、「違いには違いがある」ということを知ることです。つまり、すべての意見の違いは同じ重要性を持っているわけではないということです。

コーヒーを飲むのにA社の製品を選ぶかB社の製品を選ぶかは、普通それほど大きな問題ではありません。しかし、Aさんと結婚するかBさんと結婚するかは重大な選択であり、それによってその後の人生が大きく左右されてきます。したがって、AコーヒーとBコーヒーの違いは、AさんとBさんの違いに比べれば些細なものと言えます。このように、違いの中には、単なる「見解の違い」で片付けることができず、「ここはどうしても譲れない」というものがあります。一方、違っていても同じ信仰者としてまったく問題なく協力していけるようなものもあります。

こだわるべき違いにこだわることをしないと絶対的な真理を否定する多元主義・相対主義に陥り、こだわるべきでない違いにこだわり過ぎると排他的な原理主義・セクト主義に陥ってしまいます。私たちはこの両極端を避けなければなりません。そのためには、違いの重要性をレベル分けすることが有益です。

クリスチャンは神について、人間について、世界について膨大な数のことがらを信じています。けれども、どの信仰内容も同じように重要であるわけではありません。試みに、私たちの信仰内容の重要性に従って、1.教義、2.教理、3.意見の3段階に分けてみます。

教義教理意見

教義(dogma)は、正統的キリスト教信仰の根幹をなす基本的な信仰内容で、これを否定すればキリスト教でなくなってしまう(つまり異端ということ)内容のことがらを言います。たとえば三位一体論、キリストの神性と人性などです。教義の部分での一致は私たちが「クリスチャンとして」一致するためには必要不可欠で、この部分での意見の違いを受け入れることはできません。ごくおおざっぱに言うなら、歴史的キリスト教会が受け入れてきた信条(使徒信条、ニカイア・コンスタンティノポリス信条等)に含まれる内容は教義に入ると考えてよいでしょう。

教理(doctrine)は、キリスト教内部のある特定のグループでは共通の立場を取ることを求められるが、上の「教義」のレベルには入らないようなものを言います。ローマ教皇の権威を認めないローマ・カトリックの信徒というのは難しいと思いますし、浸礼(全身を水に浸す洗礼方式)を認めないバプテスト派というのも原則としてはありえないでしょう。しかし、このレベルで立場の違いがあっても、その特定のグループのメンバーにはなれないかもしれませんが、クリスチャンでなくなるわけではありません。他にも聖餐式の理解など、いろいろあると思います。

最後に、意見(opinion)はさらに下位のレベルの信仰内容で、同じグループ(教会)内で立場が違っても構わないようなものを言います。細かい聖書箇所の解釈の違いの多くは、この意見のカテゴリーに含まれます。このレベルで立場の違いがあっても、私たちは同じグループ内で一緒に信仰生活を送っていくことができるのです。

これらの3つのカテゴリーに具体的にどういった信仰内容が含まれるのかを細かく論じるスペースはありませんし、人によって線引きも多少異なってくるでしょう。重要なのは、私たちの信仰内容をその重要度によって区別するということです。このようなニュアンスのある信仰理解を拒絶して、フラットな信仰理解を取ってしまうと、いろいろな弊害が生じます。

たとえば、自分たちの信仰内容のすべてを「教義」のレベルでとらえている人たちは、どんな些細な点においても、立場の違いを認めません。これはセクト主義の立場です。逆に、すべてを「意見」としてしか見ない人々は、絶対的な真理の基準を見失い、何でも受け入れてしまいます。これが相対主義の立場です。私たちはクリスチャンとして一致すべき部分と、多様な立場があってもよい部分を、バランスよく見極め、後者のレベルで立場の異なる人々とも協力していく態度を養っていく必要があります。

世の中には、対話のできる相手とできない相手がいます。対話ができる人は、必ずしも私たちと同じ意見を持っているとは限りません。そのような人々は、「違いの違いが分かる男(女)」なのです。私たちも、そのようになっていく必要があります。

(2015年11月追記) この記事で提案した「教義・教理・意見」の同心円モデルについては、グレッグ・ボイドが同様のモデルを提案しています。彼のモデルでは、すべての中心にイエス・キリストの人格を置いており、今では私もそちらのモデルの方が好ましいと考えています。詳しくは「確かさという名の偶像(17)」をご覧ください。