戦争と神学者(6)

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日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」(以下「書翰」。全文はこちら)について述べてきたシリーズも、今回で最終回としたいと思います。まとめに入る前に、第一回でも述べたことをもう一度確認したいと思います。

このシリーズの目的は、特定のグループや個人を批判することにあるのではありません。戦時中の極限状況の中で先人が取った言動を、現代の平和な時代に生きる私たちが軽々しく裁くことができるものではありません。しかし、歴史の中で過去にどのようなことが起こったかを知ることは、現代に生きる私たちが今後同じ過ちを繰り返さないために必要不可欠な作業であると信じるために、敢えて歴史の暗部に光を宛てるような内容を書いてきました。同様の検証作業はすでに多くの方々がなさっておられますし、これからも引き続きおこなっていく必要があるでしょう。

さて、神学に限らず学問一般は時代や国によって変わることのない客観的真理を追究するものであり、したがって国家の思想的統制を受けたりするものではないはずだと一般に考えられています。しかし、実際の歴史の中ではこの建前はしばしばあやふやにされてしまいます。このシリーズで取りあげた書翰もその典型的な例であるといえるでしょう。

本シリーズでは書翰とカール・バルトの神学の関係について考察しました。これも誤解を招きかねない書き方をしてしまったかもしれませんが、以下に述べるように、本シリーズの主眼はバルト神学の正当性を証明することにあるのではありません。バルトの神学にどのような評価を下すにせよ、少なくとも戦時中のバルト自身の立場は全体主義をはっきりと拒絶するものであったにもかかわらず、彼の神学が日本では軍国主義イデオロギーに奉仕するように用いられたということは紛れも無い事実であり、なぜそのようなことが起こったのかを考えようというのが、本シリーズの目的でした。

しかも、バルトは当時の日本の神学者たちに影響を与えた海外の神学者の中で最大の人物であったことからも、この問題の深刻さをうかがい知ることができます。当時多くの日本人キリスト者がバルトの神学を熱狂的に受け入れていった一方、戦争という時代背景の中で、彼らが進んでいった道はバルト本人とは正反対の道でした。しかも彼らは、バルトの神学を用いることによってそうしたのです。日本の神学者たちはバルトの神学は学んでもバルトという神学者から学ぶことをしなかったといえます。

神学は変わることのない神の真理を追究していきます。それと同時に、神学はその時代、国に固有の問題と格闘し、それに対する解答を追い求めていくものです。神学はその置かれた歴史的政治的文脈と切り離して考えることはできないのです。1930年代のバルトの神学は、ナチズムの台頭と猛威という当時のドイツの歴史的文脈における教会の戦いと無縁ではありませんでした。ところが「日本では、バルトの神学と文脈を分離して神学的抽象性のレベルにおいてのみ受容するという限定がひそかに行われた」のです(『日本におけるカール・バルト』序) 。このような、「神学的抽象性と社会的・政治的具体性の二元論」が日本におけるバルト受容の特色であったといえます

このことはまた、似たような神学的立場に立っていても、神学する主体である神学者の生き方、態度、霊性といったものによって、神学自体の内容および適用が異なる場合があることを示唆しています。本シリーズのタイトルを「戦争と神学」ではなく「戦争と神学者」としたのは、この理由によります。単純に考えますと、神と人間との間の断絶を強調する弁証法神学は、国家を絶対化する全体主義とは最初から適合しないように思われますが、日本ではそうなりませんでした。これは日本だけの問題ではありません。ドイツにおいても、バルトと同じ弁証法神学の立場を取ったフリードリヒ・ゴーガルテンを始めとする何人かの神学者たちはナチスを支持したのです 。その一方で、神の国と地上の国という「二つの王国」を分けて考える傾向の強いルター派のキリスト者たちは、ナチスを受け入れやすかったのではとも考えられますが(実際バルトは二王国論に批判的でした)、ボンヘッファーやマルティン・ニーメラーといった告白教会の指導者たちはルター派でした 。また、エマヌエル・ヒルシュとパウル・ティリッヒは神学的に非常に近い立場にありましたが、政治的には全く正反対の道を歩み、ヒルシュはナチスを支持し、ティリッヒはナチスに抵抗して米国に渡ることになります(ロバート・エリクセン『第三帝国と宗教』を参照)。つまり、キリスト者の神学的な立場そのものは、その人の国家に対する立場を一意的に決定するわけではないのです。

したがって、国家を神としその前にひざまずいてしまう誘惑は、その神学的立場を問わずすべてのキリスト者が直面している問題だといえます。バルトの神学を共有しないキリスト者であっても、その生き方から学ぶことができるゆえんがここにあります。(もちろん、バルト以外にもそのような模範となる人々は存在しました)。

ナチスに抵抗したバルトと、その神学を熱心に受け入れながらも戦争に協力した(させられた)日本のバルト主義者の対照的な進路の分岐点となったのは、十戒の第一戒(唯一のまことの神以外の存在を神としてはならない)への徹底的服従であると思われます。教会がその置かれた国にあって福音を宣べ伝えていく時に、聖書が証しする三位一体の神だけが唯一まことの神であること、またイエス・キリストだけがすべての主であるという信仰と告白に立っていくことが重要です。この信仰的基礎の重要性に比べれば、教理的見解や教派的伝統の違いは二次的なことがらに過ぎないといっても過言ではありません。この点を考慮しないでバルト神学(あるいは他のいかなる神学も)と戦争との関係を議論することはあまり意味がないと思われます。

教会の主がキリスト以外の何ものかによって取って代わられていないかどうか。このことが、福音の純粋性、神学の健全さを測る一つの物差しとなります。日本基督教団がそもそも発足したのは、皇国史観に基づく「皇紀二千六百年」を記念した全国信徒大会が発端であったことを考えると、あのような書翰は決して突然変異的に生じてきたものではなく、その出発点からの論理的帰結であり、なるべくしてなったと言ってよいと思います。

日本人キリスト者の多くはキリストの十字架による罪の赦しという贖罪信仰はよく分かりますが、イエス・キリストだけが唯一の主である、という偶像禁止の教えには戸惑います。しかし福音のこの二つの側面は切り離すことができません。十字架の福音に意味があるのは、この贖いをなしてくださったイエス・キリストが、私たちの罪のために死んで復活してくださっただけでなく、やがて再び来られてさばきをなし、すべてを支配される時が来る、という信仰にあってのみです。もし私たちがすべての主であるキリストに従うことをしないなら、十字架の福音はボンヘッファーの言う「安価な恵み」に堕してしまうでしょう。神の唯一性とキリストの絶対的主権性こそ、日本のみならずあらゆる地域の神学の基礎であり、それはまた、真のいのちに溢れた神学が日本においても育っていくために必要な土壌でもあると思うのです。

(終わり)

戦争と神学者(5)

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前回までの投稿では、戦前日本の軍国主義イデオロギーを体現したかのような「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」(以下「書翰」。全文はこちら)とカール・バルトの神学の関係を見てきました。そこでは、当時日本で絶大な影響のあったバルト神学が天皇制イデオロギーと強引に結びつけられている姿を見ることができます。ここで生じるのは、明治以来ドイツ神学の影響を大いに受けてきた日本のキリスト教会において、なぜドイツの教会闘争に当たるような運動が出て来なかったのか、という疑問です。これにはいくつかの理由が考えられます。

一つは日独のキリスト教会がそれぞれの社会の中で置かれていた立場の違いです。古屋安雄氏(『日本の神学』)は、ドイツ教会闘争は国家と余りにも癒着した教会をどうただしていくか、という教会内の問題であったのに対し、日本の場合はマイノリティのキリスト教会、しかも敵国であるアメリカ系の教会がいかに弾圧から身を守るか、ということが問題であったと述べています。

次に、日本教会がそもそもナショナリズム的傾向を持っていたことが挙げられます。金田隆一氏(『昭和日本基督教会史』)によると、それは日本キリスト者自身が有していた「内なる天皇制」ともよべる精神構造です。古屋氏は、書翰はもちろん、当時の国家情勢の中でやむにやまれず書かれた文章ではあるが、それでも日本教会が以前から持っていたナショナリズム、また英米のキリスト教に対する批判がこの戦争を契機に顔を出したものではないかと述べています。

たとえば教団統理富田満は1943年2月1日に高知教会において行った講演の中で、米国が日本にキリスト教を植え付けたのは帝国主義の手先としてであったと述べ遺憾の意を表すると共に、教団創立と共に日本のキリスト教は「現在は何処の国の世話になることもなく純粋な日本キリスト教として信仰上日本のものとなつたのである。・・・我々は何処々々迄も日本人たる自覚を前提としてキリスト教を信仰し倫理道徳を通じ天皇陛下に帰一し奉るべきである」と述べました。

さらに、日本人の思想的特質ということも考えなければなりません。大塩清之助氏は丸山真男の『日本の思想』に依拠しながら、日本教会の体質的な弱さの原因を、異質なものを平然と結合する日本人の「精神的雑居性」に求めています:

日本のキリスト教は、「精神的雑居性の原理的否認」(イエスのみが主である!!)を要請する真理を奉じつつも、日本に対して「それを執拗に迫る」ことをせず、むしろ「この風土と妥協させる」ことによってかろうじて自己を保存して来たのだと言わざるをえない(少なくとも敗戦までは)。(大塩清之助「教会の罪の告白―日本キリスト教団の戦争責任をめぐって」『福音と世界』1967年1月号、22頁。強調は原文。)

そして大塩氏は続けて、このような精神的雑居性を偶像礼拝性と言い換え、「戦争責任の罪は、このような日本的体質を持ったわれわれが、その偶像礼拝の罪を真に心から悔い改めることをせず、イエスのみが主であるとの福音の絶対性に服従できなかった罪である」というのです。

このような「精神的雑居性」はキリスト教とナショナリズムの融合を容易にします。佐藤敏夫氏も丸山の同書に言及しつつ、過去と正面から対決することなく、新しいものを取り入れるため、キリスト教の受容が上滑りなものになってしまったと論じています。危機が訪れると、沈潜していたナショナリズムが顔を出してくるのです(古屋安雄他『日本神学史』)。

以上のポイントは互いに関連しあっています。日本においてキリスト教は常に米英という「敵国の宗教」と見なされがちであったため、教会はそのような疑惑を常に打ち消す必要に迫られていきました。それは裏を返せば、国家への歩み寄りという誘惑に常にさらされていたということです。このことと、明治以来の教会が持っていたナショナリズムの流れが合わさったとき、「日本的キリスト教」運動につながっていきました。そして日本人の「精神的雑居性」は、そのような、論理的には困難と思えるキリスト教とナショナリズムの融合をよりいっそう容易にしたと想像できるのです。

さて、書翰に表れているような日本の神学の問題には、以上の理由のほかに、神学的な理由もあるように思われます。それは偶像礼拝のとらえ方に関する日独教会の違いです。バルメン宣言やドイツ教会闘争において見られるような信仰の戦いはアジアの各国でも見られました。しかし、同様の戦いは戦前の日本教会では、美濃ミッションのようなごく一部の例外を除いて見られませんでした。その大きな理由の一つは、明治以来の日本キリスト教会が持っていた、偶像礼拝に対する批判的態度の弱さであったと考えられます。

「唯一の真の神以外の存在を神としない」という十戒の第一戒(出エジプト20:3)こそ、ドイツ教会闘争で告白教会を支えた神学的バックボーンだったのであり、バルトや、同じくナチズムに抵抗したボンヘッファーといった神学者は繰り返し第一戒の重要性を強調していました 。バルメン宣言でもそれをキリスト論的に言い換えた形で、イエス・キリストこそが唯一の、すべての主であることが宣言されています。キリストのみがすべての主であり、国家であれ人間であれ、キリスト以外の存在がその座に座ることは許されないというのです。しかし書翰においてはまさにこのキリストの主権性がないがしろにされています。ボンヘッファーはヒトラー暗殺の陰謀に加わったかどで逮捕され、終戦の直前に処刑されましたが、1944年に獄中で書いた「十戒の第一の板」と題する文章の中で、「日本のキリスト者の大部分は、最近、国家の皇帝礼拝に参加することが許されていると宣言した」ことに触れ、これを批判しています 。

松村重雄氏は教団では伝統的に贖罪信仰の強調が見られる反面、キリストの贖罪が個人の罪の赦しという内面の領域に限定され、キリストは教会の主、世界の主、全被造物の主であるという面が強調されてこなかった点に、戦前の教会が天皇制国家に追従してしまった原因の一端を見ています(「バルメン宣言と日本基督教団信仰告白」『福音と世界』2005年5月号、22頁) 。

このように、日本の教会が犯した最大の罪というのは、戦争協力というよりはむしろ、天皇を現人神としてキリストと同列いやその上に置いてしまった、偶像礼拝の罪であると言わなければなりません。と言うよりも、キリストの絶対的主権性という点において妥協し、国家に屈従した教会が、侵略戦争への積極的加担という道に突き進んでいったのは必然であったと言えるのです。律法の中で一番大切な戒めは何かと訊ねられたイエスは、神を愛することと、隣人を愛することの二つをもって答えられました(マルコ12:28-31)。この二つは表裏一体であり、切り離すことができないのです。真の意味で隣人を愛するには、まことの神を神として愛し礼拝することが必要不可欠です。この点で妥協をした教会によって作成された書翰がまさにこの隣人愛の教えを逆用して、その対極に位置する戦争への協力を呼びかけた事実は重大であるといえます。

もうひとつ注目しなければならない問題点は、日本教会がアジアの諸教会に対して持った傲慢の罪です。書翰はくりかえし、国体に基づく日本精神の土壌の上に成立した「日本国自生のキリスト教」の卓越性を宣伝しています。そして、この日本的キリスト教こそが世界を救うのだといいます。書翰で言われているアジア諸国の一致は決して日本と他の国々の対等の関係によるものではなく、あくまで盟主としての日本に他国が追従するというものであって、そのような関係はキリスト教においても前提とされています。

つまり、ここで起こっていたことは、ただ単に日本基督教団が当時の国家権力に妥協し屈従させられているというだけではありません。それと同時に教団は、日本政府と同じ側に立って、アジア諸国のキリスト教会に対して自らの優越性を誇示しているのです。つまりそこには、偶像礼拝の罪と並んで高慢の罪があったと言わなければならないのです。これは今日の日本キリスト教会全体の課題でもあると思われます 。

次回最終回では、これまでの内容を総括し、戦争と神学、そして神学者の関係について考察したいと思います。

(続く)

戦争と神学者(2)

前回は、「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」(以下「書翰」。全文はこちら)の成立事情について概観しました。今回はその内容を見てみたい と思います。

富田満統理による序文では本書翰が「現代の使徒的書翰」と称され、この後もしばしば同様の書翰を送る計画があることが記されています。

第1章ではまず、日本基督教団という形で「一国一教会」となった日本の教会と、アジア諸地域の教会との連帯が語られます。日本教会とアジアの教会を結ぶ「紐帯」の一つは、英米という「共同の敵」に対する戦いであり、大東亜戦争が米英の植民地主義からアジア諸民族を解放する「大聖戦」であり、「サタンの凶暴に対する一大殲滅戦」であると語られます。そこでは米英のキリスト教会がいかに堕落しているかが語られ、米英に対する日本の戦いは「神の聖なる意志」によるものであるとされていきます。この章で米英のキリスト教はパウロがローマ2:17-22で攻撃している「ユダヤ的キリスト者と同一の型にはまった」ものだとされています 。

(パウロが上の箇所で言及している「ユダヤ人」がはたして「ユダヤ的キリスト者」をさすのか、それともユダヤ人一般を指すのかという釈義上の問題はおくとして、ここで書翰がユダヤ人に対して否定的な視点をもっていることは間違いありません。書翰の末尾近くでは、キリストをさして「かのイスラエル民族によって捨てられ、天地の主なる神によって栄光の中に証示され給える者」といった表現も見られます。これは同盟国であったナチス・ドイツのユダヤ人迫害と関係しているのかもしれません。)

もう一つの「紐帯」は、日本とアジアの教会は共に主イエス・キリストに属する存在だということです。書翰では、主イエスの「己れの如く汝の隣りを愛すべし」という隣人愛の教えを取りあげて、「大東亜共栄圏の理想は、この主の隣人愛の誡めを信仰において聞き、服従の行為によって実践躬行することをわれらに迫る」と主張します。そしてエペソ4:1、3(「汝ら召されたる召しにかないて歩み、平和の繋ぎ[靱帯]のうちに勉めて御霊の賜う一致を守れ」)を引用しつつ、この目的のために一致するよう呼びかけます。

第2章では日本とその国体がいかにすぐれたものであるかが宣伝されますが、「おおよそ真なること、おおよそ尊ぶべきこと、おおよそ正しきこと、おおよそいさぎよきこと、おおよそ愛すべきこと、おおよそよき聞こえあること、いかなる徳、いかなる誉にても汝らこれを念い」(ピリピ4:8)の聖句から、大東亜戦争遂行の理想という「おおよそ尊ぶべきもの」に心をとめるように促します。そして「全世界をまことに指導し救済しうるものは、世界に冠絶せる万邦無比なるわが日本の国体である」と主張します。そしてこの国体の指導の下に新しい政治秩序を東亜に建設することは「神の国をさながらに地上に出現せしめること」であるといいます。この章の文言は日本の国体があたかも神と同一視されているかのような印象を与えます。

第3章で書翰は日本基督教団の成立にふれ、なぜこのような「一国一教会」が生まれる必要があったのかを論じます。それは欧米の宣教師の影響から解放された「日本国自主のキリスト教」を打ち立てる必要性があったからであるといいます。その先駆者として内村鑑三の言葉「世界は畢竟キリスト教によりて救わるるのである。しかも武士道の上に接木せられたるキリスト教に由りて救われるのである」が引用されます。そして日本のキリスト教会の歩みを「キリスト教は日本武士道に接樹され、儒教と仏教とによって最善の地ならしをされた日本精神の土壌に根を下ろし花を開き結実していったのである」と振り返り、その成功が「わが国体の本義と日本精神の美しくして厳しいものが遺憾なく発揚せられた事実」によるものであると誇ります。

日本基督教団の成立はそのような流れのクライマックスとして位置づけられています。そのくだりを少し長いですが引用します:

しかして遂に名実とも日本のキリスト教会を樹立するの日は来た、わが皇紀二千六百年の祝典の盛儀を前にしてわれら日本のキリスト教諸教会諸教派は東都の一角に集い、神と国との前にこれらの諸教派の在来の伝統、慣習、機構、教理一切の差別を払拭し、全く外国宣教師たちの精神的・物質的援助と羈絆から脱却、独立し、諸教派を打って一丸とする一国一教会となりて、世界教会史上先例と類例を見ざる驚異すべき事実が出来したのである。これはただ神の恵みの佑助にのみよるわれらの久しき祈りの聴許であると共に、わが国体の尊厳無比なる基礎に立ち、天業翼賛の皇道倫理を身に体したる日本人キリスト者にして初めてよくなしえたところである。

かかる経過を経て成立したものが、ここに諸君に呼びかけ語っている「日本基督教団」である。その後教団統理者は、畏くも宮中に参内、賜謁の恩典に浴するという破格の光栄に与り、教団の一同は大御心の有難さに感泣し、一意宗教報国の熱意に燃え、大御心の万分の一にも応え奉ろうと深く決意したのである 。

ここでは1940年の全国信徒大会と翌年の教団創立が振り返られていますが、ここから書翰がこれら一連の動きをどう位置づけていたかが分かります。すなわち、日本人キリスト者のよって立つ基礎が日本の「国体」にあること、また教団の存在目的が「宗教報国」にあることが明言されています。「一国一教会」としての日本基督教団の成立は、このような認識と目的意識の下になされたものでした。

たしかにこの章は日本からさらに範囲を拡げて「大東亜のキリスト教」を樹立する必要についても述べられていますが、この章の大部分は「日本キリスト教」の自画自賛で占められており、またここで設立を目指されている大東亜共栄圏そのものが実質的には日本帝国による支配ということを意味するのであれば、この「大東亜のキリスト教」が意味するものは結局日本的キリスト教のアジア諸国への押しつけと見ても良いでしょう。

この章の末尾には、「一国一教会」の統一達成の一環として、「在来の諸学校が教団立神学校として統一され」たことが報告されていますが、この短い箇所には神学教育にまで政府の統制が及んでいた事実が示唆されています。

最終章である第4章では、再びピリピ書に言及しつつ、アジアのキリスト者に対してもう一度一致を呼びかけ、「隣人愛の高き誡命の中にあの福音を聞き信じつつ大東亜共栄圏の建設という地上における次の目標に全人を挙げ全力を尽さなければならぬ」と語り、「汝らキリスト・イエスのよき兵卒としてわれらと共に苦難を忍べ」(2テモテ2:3)の聖句をもって書翰を閉じています。つまり、結局のところ、アジアにおけるキリスト者が一致してなさなければならぬ働きとは、大東亜戦争の遂行ということなのでした。

以上が書翰の内容ですが、これは募集要項の指針に正確に沿ったものであることが分かります。ここでは日本の天皇制イデオロギーと戦争の遂行を神学的に正当化しようとする試みが見られます。宮田光雄氏はこれについて次のように述べています:

この「共栄圏書翰」が出された時点では、日本軍占領下の各地では、当初抱かれた《解放軍》への期待はすでに破れ、過酷な占領軍政にたいする民衆的抵抗運動が活発化し始めていたことが知られている。「書翰」の疑似使徒的勧告は、そうした民族主義的な独立への動きにたいして、教団がキリスト教的宣撫工作の一翼を担うにいたったことを暴露するものである 。(『国家と宗教―ローマ書十三章解釈史=影響史の研究』、476頁)

ここに、1940年の皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会におけるプロテスタント教会諸教派の合同という決議に基づき、翌年成立した日本基督教団が戦時中に到達した一つの姿を見ることができるのです。

次回は、特に神学的視点からこの書翰の内容を考察してみたいと思います。

(続く)