受難週に聴いた音楽

教会暦では昨日が受難日でした。2年前のこの日に「受難日に聴いた音楽」という記事を書きました。そこではポーランドの作曲家クシシュトフ・ペンデレツキ「ルカ受難曲」を取り上げました。

今年の受難節も、イエス・キリストの受難について思い巡らしていましたが、今年はパッション2000のために作曲された受難曲を全部聴いてみようと思い立ちました。

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受肉というスキャンダル

今日は灰の水曜日であり、レント(四旬節)の期間に入りました。教会暦では復活祭に先立つ40日間を、自らを省みる祈りと悔い改めの期間としています。40日という期間は、イエスの公生涯に先立つ荒野での試練に対応していますが過去記事を参照)、それはもちろん究極の試練である十字架をも指し示すものでもあります。

灰の水曜日には、教会によっては信者の額に灰で十字のしるしをつける儀式を行います。そこには自分が死すべき存在であることを覚え、悔い改めて神に立ち返るようにというメッセージがあります。このことを思いめぐらしていたとき、死すべき存在である人間のひとりに神がなってくださったという受肉の意味について、改めて考えさせられました。

私はレントと受難週にはよくバッハのマタイ受難曲を聴きます。お気に入りは大定番ですがカール・リヒター。中学時代に初めて彼の演奏でマタイを聴いて以来、愛聴しています。先日この曲についてインターネットを検索していたら、衝撃的な動画を見つけました。それがこちらです。 続きを読む

さいごに残るもの

2018年も終わりに近づきました。この一年は私と家族にとって大きな変化の年になりました。

別れがあり、出遭いがありました。
失ったものがあり、得たものがありました。
引き抜かれ、植えられる体験をしました。
苦しみがあり、喜びがありました。

これまでの歩みを振り返るとき、気づかされることがあります。それは、私たちの目によいと思えることも、悪と思えることも、すべては過ぎ去っていくことです。すべてが私たちの前を幻影のように通り過ぎていったとき、いったい何が残るだろうかと考えさせられます。 続きを読む

自分が好きになれないとき

自己肯定感が低くて悩んでいる人は多いと思います。信仰者であっても同様です。自分はありのままで神に愛され受け入れられている、存在しているだけで価値がある、と頭では分かっていても、それを本心から肯定できないことがあります。自分が嫌でしかたがなくて、たとえ神は自分を愛していても、自分は自分を愛することはできない、たとえ神に赦されていても、自分は自分を赦せない――そのように思ってしまいます。そのような時、自己受容の必要性を感じていればいるほど、それができない自分がまた嫌になり、悪循環に陥ることもしばしばあります。

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私自身、この問題で悩むことがありました。どうしても自分が好きになれないとき、どうしたらよいのでしょうか? 私が暫定的にたどりついた答えは、「自分が好きになれなくてもいい」というものです。 続きを読む

Global Returnees Conference 2018(その2)

昨日の記事に引き続き、GRC18での聖書講解メッセージを掲載します。

集会3日目のテーマは「神の民=家族」でした。前日に行われた1回目の聖書講解は、「福音」とは何か、ということについてのメッセージでした。これは分科会でも取り上げさせていただいたのですが、新約聖書の伝えている「福音」(良い知らせ)とは、「十字架につけられたイエスがよみがえって、全世界を治める王となられたことに関するニュース」です。2回目の聖書講解では、この内容を受けて、それではその「福音」が具体的にどのようにこの世界にインパクトを与えていくのか、ということについてお話しさせていただきました。 続きを読む

神と立方体についての断想

このブログでは時々シモーヌ・ヴェイユを取り上げていますが、最近読んで特に印象に残った箇所を紹介します。

ある物体の周りを巡るとき、わたしたちはその物体が実在していると確信する。それは、間断なく変化するあらわれをつくり出すが、それを決定するのは、あらわれとは別な、あらわれの外にある、あらわれから超越した固定化された形式である。この働きによって、対象が幻ではなくひとつのモノであり、身体を有していることを認識する。(中略)立方体の箱はどこから見ても、立方体の形をしていない。だが、立方体の周りを巡る人にとって、立方体の形式こそが目に見える形の変化を決定する。その決定が客体の身体をわたしたちに授けてくれる。それゆえ箱をじっと見つめていると、それが立方体ではないにもかかわらず、ほかならぬ立方体であると確信する。
(『前キリスト教的直観』)

ここでヴェイユは19世紀フランスの哲学者ジュール・ラニョーの立方体に関する考察について述べています。ラニョーはヴェイユの哲学の師であったアランのそのまた師にあたる人でした。

この投稿の目的はヴェイユのこの記述を哲学的に議論することではなく(私にはそのような能力はありません)、それが私たちの神観について与える示唆について考えて見ることです。もちろん、神は立方体のような、この世界に存在するさまざまなモノ(対象)の一つではありませんが、一つのアナロジーとして、神を立方体にたとえてみると、どういうことが考えられるでしょうか。 続きを読む

読書の死

友人の牧師が、ワシントン・ポスト紙に掲載されたフィリップ・ヤンシーの記事を紹介してくれましたが、それを読んで深く考えさせられてしまいました。

ヤンシーの記事には、「The Death of Reading Is Threatening the Soul(読書の死が魂を脅かす)」という不穏なタイトルがつけられています。英語の読める方はぜひ元記事の全文を熟読することをおすすめしますが、その要約を紹介したいと思います。

記事の中でヤンシーは、現代人が(そして彼自身が)いかに本を読まなくなったかについて書いています。全体的な読書量が減っただけではなく、じっくりと腰を据えて考えながら読まなければならない種類の本を読むことができなくなっている、というのです。ヤンシーはその一因はインターネットとSNSにあると言います。 続きを読む

神の愛への招き

舟の右側』の6月号が届きました。1月号から6回にわたり、「鏡を通して見る――不確かさ、疑い、そして信仰」と題して連載をさせていただきました。

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このブログでも取り上げたグレッグ・ボイドピーター・エンズなどの考察も紹介しつつ、不確実性や疑いを信仰者としてどう考えるかということを拙いながらも書かせていただきましたが、一貫して主張してきたのは、不確実性や疑いを持つことは信仰の弱さのしるしではなく、正しく付き合っていくなら、信仰のさらなる深みに導いてくれる友である、ということです。逆に、疑いや不確実性を悪として徹底的に排除していこうとする時、私たちの信仰は不健全で非聖書的なものになっていきます。なぜなら、その時私たちが信仰の土台としているのは、神との生きた人格的関係ではなく、「この自分の揺るがない信仰」であり、「神についての確実な知識」であるからです。

ところで、疑いにも二種類あるような気がします。 続きを読む

ジェームズ・フーストン師との出会い

1月末にワシントン州で奉仕があり渡米したのですが、その際ヴァンクーヴァーにいる知人を訪問するため、カナダまで足を伸ばしました。その折りに、かねてから興味のあったリージェント・カレッジを見学することができました。現地にお住いの荒木泉さんがキャンパスを案内してくださり、チャペルに出席した後、同大学教授であるジェームズ・フーストン先生のお宅に連れて行ってくださいました。 続きを読む

創造という愛の狂気

最近、シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil:フランス語では「ヴェイ」と発音するらしい)の生涯と思想に心を惹かれて、折に触れてその著作を少しずつ味読しています。彼女は第二次世界大戦中に34歳の若さで亡くなったユダヤ系フランス人で、哲学者・政治活動家・神秘主義者でした。生前に出版した著作は多くはなく、無名に等しい存在でしたが、死後彼女の遺稿が次々と編集・出版され、多くの人々に影響を与えてきました。 続きを読む