王なるイエスの福音

所属教会で礼拝説教の奉仕をしましたので、多少手を加えたものをお分かちします。

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「王なるイエスの福音」(使徒の働き2章32-36節)

32  「このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。33  それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。34  ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、
『主はわが主に仰せになった、

35  あなたの敵をあなたの足台にするまでは、
わたしの右に座していなさい』。

36  だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。

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「全能者キリスト」(ハギア・ソフィアのモザイク)

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キリストの福音にふさわしい生活

所属教会で礼拝説教の奉仕がありましたので、その内容を要約・編集したものを掲載します。ただし、説教そのままではなく、かなり手を加えています。

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「キリストの福音にふさわしい生活」(ピリピ1章27-30節)

27  ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、 28  かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救のしるしであって、それは神から来るのである。 29  あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。 30  あなたがたは、さきにわたしについて見、今またわたしについて聞いているのと同じ苦闘を、続けているのである。

この箇所で、パウロは開口一番「ただ一つ。(モノン)」(新改訳)と語っています。ピリピのクリスチャンたちが、これだけはどうしても外してはならない、もっとも大切なこと、それは「キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」ということでした(27節)。これこそ、私たちクリスチャンがフォーカスすべき、ただ一つの大切なことなのです。

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Equipper Conference 2016

12月27日から31日にかけてJCFNの主催でカリフォルニア州マリエータで行われたEquipper Conference 2016 (EC16)に参加して来ました。

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会場となったMurrieta Hot Springs Christian Conference Center

すでにシリーズ「ルカ文書への招待」(最終回の記事に各回へのリンクがあります)で書いてきたように、今回私は講師の一人としてお招きいただき、朝の4回の「聖書講解」の時間でルカ福音書からお話をさせていただきました。箇所とタイトルは以下の通りです。

第1回 「信じる者になること」(ルカ1章26-38節)
第2回 「弟子になること」(ルカ5章1-11節)
第3回 「隣人になること」(ルカ10章25-37節)
第4回 「証人になること」(ルカ24章44-53節)

参加者は毎朝の聖書講解の前に、小グループに分かれてIBS (Inductive Bible Study、帰納的聖書研究)と呼ばれるバイブルスタディを行いましたが、毎朝のIBSの箇所はその日の聖書講解と同じ箇所が取り上げられました(このような形でIBSと聖書講解を連動させたのは今回が初めての試みだったそうです)。このようにして、IBSで個人や小グループで読み、考え、話し合った同じ箇所について、さらに聖書講解で語られるのを聞くことで、聖書の理解がぐっと深まったということを何人もの方々から聞きました。語る側としても、会衆がとてもしっかりとこちらのメッセージを受けとめてくれているという手応えを感じて、安心してお話しすることができました。このような部分も含めて、集会全体が非常に緻密に考えられ、組み立てられていると思い感銘を受けました。 続きを読む

復活のキリストの現われ

ヨハネの福音書21章には、復活したイエスがテベリヤ湖(ガリラヤ湖)でペテロと他の6人の弟子たちに現れたできごとが書かれています。

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話の筋を追うのは難しくありません。ペテロたちが漁に出て、夜通し働いても何も獲れなかったのが、そこに現れたイエスの助けによってたくさんの魚を獲り、その後イエスと一緒に食事をした、というものです。15節からは、イエスがペテロに「わたしを愛するか。」と三度問いかける有名な問答が描かれています。そして21章の最後には、ペテロがどのような死に方をするかについてのイエスの予告(18-19節)と、「イエスの愛しておられた弟子」すなわち福音書記者ヨハネの運命について述べられています(20-23節)。

ふつう、この章はヨハネ福音書の20章までがひとまず完成した後に(ヨハネ自身によってであれ他の人間によってであれ)付け加えられた部分であると論じられることが多いです。その目的は、一つには初代教会のリーダーであったペテロの「回復と再召命」について記すこと、そして、著者のヨハネがイエスの再臨までは死なないという噂があったのに対して、その誤解を解くことが目的であったとされます。しかしこの記事では少し違った角度からこの章を読んでみたいと思います。 続きを読む

暗闇からの叫び

所属教会で礼拝説教の奉仕をしました。多少手を加えた原稿をアップします。

暗闇からの叫び(詩篇88:1-2)

今日は詩篇の中から、88篇を取り上げました。いま司会者の先生に最初の2節を読んでいただきました。少し長いですがこの詩篇の全体をお読みしたいと思います。

1  わが神、主よ、わたしは昼、助けを呼び求め、
夜、み前に叫び求めます。

2  わたしの祈をみ前にいたらせ、
わたしの叫びに耳を傾けてください。
3  わたしの魂は悩みに満ち、
わたしのいのちは陰府に近づきます。

4  わたしは穴に下る者のうちに数えられ、
力のない人のようになりました。

5  すなわち死人のうちに捨てられた者のように、
墓に横たわる殺された者のように、
あなたが再び心にとめられない者のように
なりました。
彼らはあなたのみ手から断ち滅ぼされた者です。

6  あなたはわたしを深い穴、
暗い所、深い淵に置かれました。

7  あなたの怒りはわたしの上に重く、
あなたはもろもろの波をもって

わたしを苦しめられました。
8  あなたはわが知り人をわたしから遠ざけ、
わたしを彼らの忌みきらう者とされました。
わたしは閉じこめられて、のがれることはできません。

9  わたしの目は悲しみによって衰えました。
主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、
あなたにむかってわが両手を伸べました。

10  あなたは死んだ者のために
奇跡を行われるでしょうか。
なき人のたましいは起きあがって

あなたをほめたたえるでしょうか。
11  あなたのいつくしみは墓のなかに、
あなたのまことは滅びのなかに、
宣べ伝えられるでしょうか。

12  あなたの奇跡は暗やみに、
あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。

13  しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。

14  主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。
なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。

15  わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。
あなたの脅かしにあって衰えはてました。

16  あなたの激しい怒りがわたしを襲い、
あなたの恐ろしい脅かしがわたしを滅ぼしました。

17  これらの事がひねもす大水のようにわたしをめぐり、
わたしを全く取り巻きました。

18  あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、
わたしの知り人を暗やみにおかれました。

これが詩篇88篇です。読んでみてお分かりのように、この詩篇は全体が非常に暗いトーンで貫かれていて、読んでいると心が暗くなってくる、という方もあるかもしれません。

「好きな詩篇は何篇ですか?」と聞かれたら、皆さんは何と答えるでしょうか?「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。」という23篇が好きだという方もおられるでしょうし、「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。」という42篇が好きだという方、「息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。」という150篇が好きな人もおられるかも知れません。しかし、好きな詩篇を聞かれて「私は88篇が大好きで、いつも口ずさんでいます!」と答える人はほとんどいないと思います。

この詩は最初から悲痛なうめきと叫びに満ち、最後まで救いや賛美の明るいトーンがまったく聞かれません。この詩はおそらく詩篇全体の中で、あるいは聖書全体の中で最も暗い箇所であると思います。だからなのでしょう。この詩篇が礼拝説教で取り上げられることはほとんどありません。私がアメリカの神学校で学んでいたとき、旧約聖書を教えてくださった教授が「この詩篇から説教ができたら、聖書のどこからでも説教ができる」と語っておられたのを覚えています。私たちは聖書を通読していても、この詩篇のような箇所は、あまり深く思い巡らすことをしないで、さっと読み飛ばしてしまうことが多いのではないかと思います。

けれども、そのように暗く悲しみに満ちた詩篇88篇ですが、これも聖書の一部であることを、私たちは覚える必要があります。この詩篇が聖書の中に収められているということは、実はとても深い意味があると思いますので、今日はここから学んでいきたいと思います。 続きを読む

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その5)

その1 その2 その3 その4

藤本満先生によるゲスト投稿の第5回をお届けします。今回は、前回の物語論に関連して、物語と説教について語っていただきます。お忙しい中執筆のご労をとってくださった先生に心から感謝します。

聖書信仰

聖書信仰』(いのちのことば社)

物語と説教

「あとがき」で、私自身が「物語と説教」に目覚めた話を記しました。そのきっかけを与えてくれたノンフィクション作家の柳田邦男さんに言及しました。実は、私はあの文章を、「聖書は神の創造と救済の物語であり、その中へと私たちの物語が取り込まれ、どこかで神の国の新たなる舞台を演じることになる」というような、壮大な神学的想定で記したのではありません。それはもっと小さな物語論で、自分が務める礼拝講壇(説教)のために、小さな物語をどのように捉えて用いているか、ということを紹介してみたかったのです。――もちろん、小さな物語論も、大きな物語論の欠片(かけら)ではありますが。

柳田さんの『ガン五〇人の勇気』の中に「涙して洗った茶碗」と題されたエピソードがあります。それは末期がんの友人に病院に呼ばれ、洗礼を授けてくれ、と頼まれた牧師の話です。牧師は病室にあった茶碗を涙を流しながら洗い、そこに水を入れて、洗礼を授けます。友人は洗礼を受けた後、晴れやかな表情を見せ、主の祈りを教えてくれと頼み、しばらくして息を引き取ります。最後を迎えた友人は、洗礼を受けたという事実を頼りに、死の陰の谷を行きます。

あるとき、私はこの話を引用してどこかに執筆しました。すると、「洗礼とはそういうものではない!」というお叱りのお手紙をいただきました。その方は、神学的な洗礼の定義でこのエピソードを読まれたのでしょう。でも、この方は、神の憐れみにしがみつくように死線を越えていく一人の人間の苦悩と信仰はわからなかったのです。ましてや、こういうエピソードを伝えている作家の意図も、それを引用した私の意図も頭にはなかったと思います。単純に、洗礼の神学的な定義で私の文章を読まれたのでした。

極端な話かもしれません。しかし、命題的な説教が、それが教理的であれ釈義的であれ、時に、聴衆の心にまったく届かない、聴衆の人生に触れていないのではないか、と思うことがあります。教理や釈義が、場違いに顔を出し、聞いている人びと、彼らの物語にまったく不似合いなのです。

クリント・イーストウッド監督・主演の「ミリオンダラー・ベイビー」(2004年)という映画があります。アカデミー賞主要4部門を獲得した名作です。2008年の「グラン・トリノ」は、まったく違う内容ですが、私はこれを続編のように思っています。この二つの作品には、カトリックの司祭が出てきます。イーストウッド演じる主役は、人生の複雑さをすべて体験したような老齢で頑固な男です。かたや司祭は、両作品とも若いのです。結婚も離婚も、世の中の複雑なことには手を染めず、神学校を出て、神に仕え、きれい事を人びとに説いているようなセッティングです。しかし、この二つの映画で、司祭の役割はかなり違います。2004年の映画では、司祭は世の中の矛盾を何一つ背負えない、人生の複雑な局面で場違いに登場する司祭です。しかし、2008年の映画では、司祭はその矛盾の中に入り込んで行きます。

人の物語の複雑さ、善とも悪とも言えない人間の弱さ。でも、くずおれるだけではなく、ひたむきに前を向く。弱さを引きずりながらも、自分の愚かさを乗り越えようとし、悪と戦い、真理に手を伸ばそうとする。痛みや傷に引き裂かれながらも、生の尊さを実感し、信念を貫く。人生に裏切られても、生きる意味は失わない。そういう生き方をしたいのですが、なかなかできない。せめて自分の最後だけでも、そのように生きたいのですが、痛み苦しむだけで、言葉にもならない。

先の柳田さんは、誰もがこうした物語を書くことはできない、しかし共感することができる、と考えました。そこでガン患者五〇人のそれぞれの最後を一人あたり数頁でまとめることによって物語とし、いわば五〇人分の、死の迎え方、生きてきた意味を読者に提供しました。

説教をする者は、御言葉に描かれている情景、神の御思い・働き、それに応答する信仰者、時にそれに応答し損ねる、あるいは逆らう私たちの姿を描きます。それは単なる物語ではなく、神の声です。御言葉を語る説教者は、そこに罪に対する神の宣告、赦し、愛、希望、と神の声を響かせたいのです。そのとき、聖書の物語を今の私たちの物語へと適用するよう、説教者は苦心するのでしょう。

でも、逆に私たちの物語を聖書の御言葉に吸い込ませるという手法も可能だろうと思います。つまり、神の言葉(上)を人の世界(下)に解釈・適用させるだけでなく、人の物語(下)を神の言葉(上)へと吸い上げる手法も可能であろうと。これを単に説教の「組み立て」「構成」の問題ではなく、神の言葉の「力」として考えてみました。

一言で申し上げたら(自分でも何を言っているのか明確ではないのですが……)、「物語」には、神の言葉である聖書にも、人の物語である「お話」にも、とても心を打つ深みがあります。神の言葉を「命題的に」語ることに一生懸命で、いつの間にか、人の物語をどう理解し、どう用いるかを忘れるような説教者にはなりたくない、という反省が私にあります。さらに、神の物語(御言葉)には、人の物語を吸い上げる力があり、矛盾や恐れの多い人の物語が聖書の中へと吸い上げられ、まるで聖書の物語を生きているかのように、主イエスがその矛盾と恐れを包むように私と共に歩んでいてくださることを実感できる力が、御言葉にはあるのではないか、と。私たちは今もエマオへの途上を主と共に歩んで、自分に起こった人生の出来事と神の御言葉(あの時は旧約聖書)を重ねているのではないでしょうか。

 

東日本大震災の年に、私の尊敬している教会員が息子さんを失いました。ご夫妻は教会のために長年労され、年齢故に仕事を退いて、これからは宣教地を回って様々に奉仕したいとの夢を与えられていました。すでにケニアとボリビアと台湾を訪れ、奉仕をされました。私たちの誰もが、このご夫妻が大きな試練につぶされそうになっている姿に心を痛めました。

納骨式の後、食事の席でした。お父さんは立って、家族の前でこんな話をしました。「震災で津波がやってくる。懸命に港に船をつなぎ止めた漁師たちの船はすべてやられました。しかし、その中に、津波に向かっていった漁師もいました。彼らは生き延びたそうです。ですから私たちも、これから津波に向かって船出します」。

その姿、その証しに、私は感動しました。そして、説教の中でその話を使わせてもらいました。どこかで物語はつながります。震災時の漁師、息子を失った父母、同じような境遇にある人びと、そして私たちを雲のように取り巻いている多くの聖徒たち(ヘブル12:1)。証しは、聖書と比したら「お話」なのでしょう。しかし、証しが主の恵みをゆびさすとき、神の御言葉は生きて動き出します。つまり大きな物語が小さな私たちの物語を吸い込み、大きな物語の中に私たちの出来事が組み込まれてしまいます。

上述の出来事は、私自身が体験したものではありません。しかし、私はこの兄姉は教会共同体を代表してこの試練を味わい、希望の神に近づかれたのだと思っています。聖書の中の出来事は、歴然とした過去性を帯びています。しかし、私たちはすーっとその中に引き込まれて、自分もまた十字架の下に立ち、復活の墓を目撃していることになります。神の言葉は、私たちの小さな物語を取り込もうと待っています。そのやっかいで不条理な物語さえも。その意味でも、人生の出来事・私たちの物語を読める人になりたいと思います。

 

もう一つ。

これは、スティーブ・ジョブス氏のスピーチです。スタンフォード大学の卒業式で語られたものです。

わずか、これだけの時間で、これほどインパクトのある式辞。卒業式は、英語ではコメンスメント(はじまり)です。それは彼のこれまでの物語であり、聞いている卒業生はそれが自分の物語となるであろうことを予想し、将来の扉を開けます。みなさんは、この式辞を聞きながら、どこかの聖書の言葉をすぐに連想するだろうと思います。

私は、自分が担当しているキリスト教概論の学生に、最後にこれを見せて、授業期間を終えます。そしてあらためて思います。ほとんどの学生にとって、私の授業は馬耳東風であろうと。どうしたら人の物語を、御言葉の舞台の中へと招き入れることができるか。「はぁ」とため息をつき、疲れて帰途につきます。そうして、説教が空回りする疲れを抱えて、笑顔で「いってらっしゃい」と教会員を送り出します。

 

山﨑ランサム先生、本当にありがとうございました。先の4回の原稿で、少しは自分の言おうとしていることを把握できました。この原稿で、大いに自分の言いたいことがわからなくなりました。混迷から少し抜け出すために、次回、先生と対話できたらと願っています。

先生が差し伸べてくださった友情に心から感謝します。

(続く)