キリストの福音にふさわしい生活

所属教会で礼拝説教の奉仕がありましたので、その内容を要約・編集したものを掲載します。ただし、説教そのままではなく、かなり手を加えています。

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「キリストの福音にふさわしい生活」(ピリピ1章27-30節)

27  ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、 28  かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救のしるしであって、それは神から来るのである。 29  あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。 30  あなたがたは、さきにわたしについて見、今またわたしについて聞いているのと同じ苦闘を、続けているのである。

この箇所で、パウロは開口一番「ただ一つ。(モノン)」(新改訳)と語っています。ピリピのクリスチャンたちが、これだけはどうしても外してはならない、もっとも大切なこと、それは「キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」ということでした(27節)。これこそ、私たちクリスチャンがフォーカスすべき、ただ一つの大切なことなのです。

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Equipper Conference 2016

12月27日から31日にかけてJCFNの主催でカリフォルニア州マリエータで行われたEquipper Conference 2016 (EC16)に参加して来ました。

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会場となったMurrieta Hot Springs Christian Conference Center

すでにシリーズ「ルカ文書への招待」(最終回の記事に各回へのリンクがあります)で書いてきたように、今回私は講師の一人としてお招きいただき、朝の4回の「聖書講解」の時間でルカ福音書からお話をさせていただきました。箇所とタイトルは以下の通りです。

第1回 「信じる者になること」(ルカ1章26-38節)
第2回 「弟子になること」(ルカ5章1-11節)
第3回 「隣人になること」(ルカ10章25-37節)
第4回 「証人になること」(ルカ24章44-53節)

参加者は毎朝の聖書講解の前に、小グループに分かれてIBS (Inductive Bible Study、帰納的聖書研究)と呼ばれるバイブルスタディを行いましたが、毎朝のIBSの箇所はその日の聖書講解と同じ箇所が取り上げられました(このような形でIBSと聖書講解を連動させたのは今回が初めての試みだったそうです)。このようにして、IBSで個人や小グループで読み、考え、話し合った同じ箇所について、さらに聖書講解で語られるのを聞くことで、聖書の理解がぐっと深まったということを何人もの方々から聞きました。語る側としても、会衆がとてもしっかりとこちらのメッセージを受けとめてくれているという手応えを感じて、安心してお話しすることができました。このような部分も含めて、集会全体が非常に緻密に考えられ、組み立てられていると思い感銘を受けました。 続きを読む

復活のキリストの現われ

ヨハネの福音書21章には、復活したイエスがテベリヤ湖(ガリラヤ湖)でペテロと他の6人の弟子たちに現れたできごとが書かれています。

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話の筋を追うのは難しくありません。ペテロたちが漁に出て、夜通し働いても何も獲れなかったのが、そこに現れたイエスの助けによってたくさんの魚を獲り、その後イエスと一緒に食事をした、というものです。15節からは、イエスがペテロに「わたしを愛するか。」と三度問いかける有名な問答が描かれています。そして21章の最後には、ペテロがどのような死に方をするかについてのイエスの予告(18-19節)と、「イエスの愛しておられた弟子」すなわち福音書記者ヨハネの運命について述べられています(20-23節)。

ふつう、この章はヨハネ福音書の20章までがひとまず完成した後に(ヨハネ自身によってであれ他の人間によってであれ)付け加えられた部分であると論じられることが多いです。その目的は、一つには初代教会のリーダーであったペテロの「回復と再召命」について記すこと、そして、著者のヨハネがイエスの再臨までは死なないという噂があったのに対して、その誤解を解くことが目的であったとされます。しかしこの記事では少し違った角度からこの章を読んでみたいと思います。 続きを読む

暗闇からの叫び

所属教会で礼拝説教の奉仕をしました。多少手を加えた原稿をアップします。

暗闇からの叫び(詩篇88:1-2)

今日は詩篇の中から、88篇を取り上げました。いま司会者の先生に最初の2節を読んでいただきました。少し長いですがこの詩篇の全体をお読みしたいと思います。

1  わが神、主よ、わたしは昼、助けを呼び求め、
夜、み前に叫び求めます。

2  わたしの祈をみ前にいたらせ、
わたしの叫びに耳を傾けてください。
3  わたしの魂は悩みに満ち、
わたしのいのちは陰府に近づきます。

4  わたしは穴に下る者のうちに数えられ、
力のない人のようになりました。

5  すなわち死人のうちに捨てられた者のように、
墓に横たわる殺された者のように、
あなたが再び心にとめられない者のように
なりました。
彼らはあなたのみ手から断ち滅ぼされた者です。

6  あなたはわたしを深い穴、
暗い所、深い淵に置かれました。

7  あなたの怒りはわたしの上に重く、
あなたはもろもろの波をもって

わたしを苦しめられました。
8  あなたはわが知り人をわたしから遠ざけ、
わたしを彼らの忌みきらう者とされました。
わたしは閉じこめられて、のがれることはできません。

9  わたしの目は悲しみによって衰えました。
主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、
あなたにむかってわが両手を伸べました。

10  あなたは死んだ者のために
奇跡を行われるでしょうか。
なき人のたましいは起きあがって

あなたをほめたたえるでしょうか。
11  あなたのいつくしみは墓のなかに、
あなたのまことは滅びのなかに、
宣べ伝えられるでしょうか。

12  あなたの奇跡は暗やみに、
あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。

13  しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。

14  主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。
なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。

15  わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。
あなたの脅かしにあって衰えはてました。

16  あなたの激しい怒りがわたしを襲い、
あなたの恐ろしい脅かしがわたしを滅ぼしました。

17  これらの事がひねもす大水のようにわたしをめぐり、
わたしを全く取り巻きました。

18  あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、
わたしの知り人を暗やみにおかれました。

これが詩篇88篇です。読んでみてお分かりのように、この詩篇は全体が非常に暗いトーンで貫かれていて、読んでいると心が暗くなってくる、という方もあるかもしれません。

「好きな詩篇は何篇ですか?」と聞かれたら、皆さんは何と答えるでしょうか?「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。」という23篇が好きだという方もおられるでしょうし、「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。」という42篇が好きだという方、「息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。」という150篇が好きな人もおられるかも知れません。しかし、好きな詩篇を聞かれて「私は88篇が大好きで、いつも口ずさんでいます!」と答える人はほとんどいないと思います。

この詩は最初から悲痛なうめきと叫びに満ち、最後まで救いや賛美の明るいトーンがまったく聞かれません。この詩はおそらく詩篇全体の中で、あるいは聖書全体の中で最も暗い箇所であると思います。だからなのでしょう。この詩篇が礼拝説教で取り上げられることはほとんどありません。私がアメリカの神学校で学んでいたとき、旧約聖書を教えてくださった教授が「この詩篇から説教ができたら、聖書のどこからでも説教ができる」と語っておられたのを覚えています。私たちは聖書を通読していても、この詩篇のような箇所は、あまり深く思い巡らすことをしないで、さっと読み飛ばしてしまうことが多いのではないかと思います。

けれども、そのように暗く悲しみに満ちた詩篇88篇ですが、これも聖書の一部であることを、私たちは覚える必要があります。この詩篇が聖書の中に収められているということは、実はとても深い意味があると思いますので、今日はここから学んでいきたいと思います。 続きを読む

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その5)

その1 その2 その3 その4

藤本満先生によるゲスト投稿の第5回をお届けします。今回は、前回の物語論に関連して、物語と説教について語っていただきます。お忙しい中執筆のご労をとってくださった先生に心から感謝します。

聖書信仰

聖書信仰』(いのちのことば社)

物語と説教

「あとがき」で、私自身が「物語と説教」に目覚めた話を記しました。そのきっかけを与えてくれたノンフィクション作家の柳田邦男さんに言及しました。実は、私はあの文章を、「聖書は神の創造と救済の物語であり、その中へと私たちの物語が取り込まれ、どこかで神の国の新たなる舞台を演じることになる」というような、壮大な神学的想定で記したのではありません。それはもっと小さな物語論で、自分が務める礼拝講壇(説教)のために、小さな物語をどのように捉えて用いているか、ということを紹介してみたかったのです。――もちろん、小さな物語論も、大きな物語論の欠片(かけら)ではありますが。

柳田さんの『ガン五〇人の勇気』の中に「涙して洗った茶碗」と題されたエピソードがあります。それは末期がんの友人に病院に呼ばれ、洗礼を授けてくれ、と頼まれた牧師の話です。牧師は病室にあった茶碗を涙を流しながら洗い、そこに水を入れて、洗礼を授けます。友人は洗礼を受けた後、晴れやかな表情を見せ、主の祈りを教えてくれと頼み、しばらくして息を引き取ります。最後を迎えた友人は、洗礼を受けたという事実を頼りに、死の陰の谷を行きます。

あるとき、私はこの話を引用してどこかに執筆しました。すると、「洗礼とはそういうものではない!」というお叱りのお手紙をいただきました。その方は、神学的な洗礼の定義でこのエピソードを読まれたのでしょう。でも、この方は、神の憐れみにしがみつくように死線を越えていく一人の人間の苦悩と信仰はわからなかったのです。ましてや、こういうエピソードを伝えている作家の意図も、それを引用した私の意図も頭にはなかったと思います。単純に、洗礼の神学的な定義で私の文章を読まれたのでした。

極端な話かもしれません。しかし、命題的な説教が、それが教理的であれ釈義的であれ、時に、聴衆の心にまったく届かない、聴衆の人生に触れていないのではないか、と思うことがあります。教理や釈義が、場違いに顔を出し、聞いている人びと、彼らの物語にまったく不似合いなのです。

クリント・イーストウッド監督・主演の「ミリオンダラー・ベイビー」(2004年)という映画があります。アカデミー賞主要4部門を獲得した名作です。2008年の「グラン・トリノ」は、まったく違う内容ですが、私はこれを続編のように思っています。この二つの作品には、カトリックの司祭が出てきます。イーストウッド演じる主役は、人生の複雑さをすべて体験したような老齢で頑固な男です。かたや司祭は、両作品とも若いのです。結婚も離婚も、世の中の複雑なことには手を染めず、神学校を出て、神に仕え、きれい事を人びとに説いているようなセッティングです。しかし、この二つの映画で、司祭の役割はかなり違います。2004年の映画では、司祭は世の中の矛盾を何一つ背負えない、人生の複雑な局面で場違いに登場する司祭です。しかし、2008年の映画では、司祭はその矛盾の中に入り込んで行きます。

人の物語の複雑さ、善とも悪とも言えない人間の弱さ。でも、くずおれるだけではなく、ひたむきに前を向く。弱さを引きずりながらも、自分の愚かさを乗り越えようとし、悪と戦い、真理に手を伸ばそうとする。痛みや傷に引き裂かれながらも、生の尊さを実感し、信念を貫く。人生に裏切られても、生きる意味は失わない。そういう生き方をしたいのですが、なかなかできない。せめて自分の最後だけでも、そのように生きたいのですが、痛み苦しむだけで、言葉にもならない。

先の柳田さんは、誰もがこうした物語を書くことはできない、しかし共感することができる、と考えました。そこでガン患者五〇人のそれぞれの最後を一人あたり数頁でまとめることによって物語とし、いわば五〇人分の、死の迎え方、生きてきた意味を読者に提供しました。

説教をする者は、御言葉に描かれている情景、神の御思い・働き、それに応答する信仰者、時にそれに応答し損ねる、あるいは逆らう私たちの姿を描きます。それは単なる物語ではなく、神の声です。御言葉を語る説教者は、そこに罪に対する神の宣告、赦し、愛、希望、と神の声を響かせたいのです。そのとき、聖書の物語を今の私たちの物語へと適用するよう、説教者は苦心するのでしょう。

でも、逆に私たちの物語を聖書の御言葉に吸い込ませるという手法も可能だろうと思います。つまり、神の言葉(上)を人の世界(下)に解釈・適用させるだけでなく、人の物語(下)を神の言葉(上)へと吸い上げる手法も可能であろうと。これを単に説教の「組み立て」「構成」の問題ではなく、神の言葉の「力」として考えてみました。

一言で申し上げたら(自分でも何を言っているのか明確ではないのですが……)、「物語」には、神の言葉である聖書にも、人の物語である「お話」にも、とても心を打つ深みがあります。神の言葉を「命題的に」語ることに一生懸命で、いつの間にか、人の物語をどう理解し、どう用いるかを忘れるような説教者にはなりたくない、という反省が私にあります。さらに、神の物語(御言葉)には、人の物語を吸い上げる力があり、矛盾や恐れの多い人の物語が聖書の中へと吸い上げられ、まるで聖書の物語を生きているかのように、主イエスがその矛盾と恐れを包むように私と共に歩んでいてくださることを実感できる力が、御言葉にはあるのではないか、と。私たちは今もエマオへの途上を主と共に歩んで、自分に起こった人生の出来事と神の御言葉(あの時は旧約聖書)を重ねているのではないでしょうか。

 

東日本大震災の年に、私の尊敬している教会員が息子さんを失いました。ご夫妻は教会のために長年労され、年齢故に仕事を退いて、これからは宣教地を回って様々に奉仕したいとの夢を与えられていました。すでにケニアとボリビアと台湾を訪れ、奉仕をされました。私たちの誰もが、このご夫妻が大きな試練につぶされそうになっている姿に心を痛めました。

納骨式の後、食事の席でした。お父さんは立って、家族の前でこんな話をしました。「震災で津波がやってくる。懸命に港に船をつなぎ止めた漁師たちの船はすべてやられました。しかし、その中に、津波に向かっていった漁師もいました。彼らは生き延びたそうです。ですから私たちも、これから津波に向かって船出します」。

その姿、その証しに、私は感動しました。そして、説教の中でその話を使わせてもらいました。どこかで物語はつながります。震災時の漁師、息子を失った父母、同じような境遇にある人びと、そして私たちを雲のように取り巻いている多くの聖徒たち(ヘブル12:1)。証しは、聖書と比したら「お話」なのでしょう。しかし、証しが主の恵みをゆびさすとき、神の御言葉は生きて動き出します。つまり大きな物語が小さな私たちの物語を吸い込み、大きな物語の中に私たちの出来事が組み込まれてしまいます。

上述の出来事は、私自身が体験したものではありません。しかし、私はこの兄姉は教会共同体を代表してこの試練を味わい、希望の神に近づかれたのだと思っています。聖書の中の出来事は、歴然とした過去性を帯びています。しかし、私たちはすーっとその中に引き込まれて、自分もまた十字架の下に立ち、復活の墓を目撃していることになります。神の言葉は、私たちの小さな物語を取り込もうと待っています。そのやっかいで不条理な物語さえも。その意味でも、人生の出来事・私たちの物語を読める人になりたいと思います。

 

もう一つ。

これは、スティーブ・ジョブス氏のスピーチです。スタンフォード大学の卒業式で語られたものです。

わずか、これだけの時間で、これほどインパクトのある式辞。卒業式は、英語ではコメンスメント(はじまり)です。それは彼のこれまでの物語であり、聞いている卒業生はそれが自分の物語となるであろうことを予想し、将来の扉を開けます。みなさんは、この式辞を聞きながら、どこかの聖書の言葉をすぐに連想するだろうと思います。

私は、自分が担当しているキリスト教概論の学生に、最後にこれを見せて、授業期間を終えます。そしてあらためて思います。ほとんどの学生にとって、私の授業は馬耳東風であろうと。どうしたら人の物語を、御言葉の舞台の中へと招き入れることができるか。「はぁ」とため息をつき、疲れて帰途につきます。そうして、説教が空回りする疲れを抱えて、笑顔で「いってらっしゃい」と教会員を送り出します。

 

山﨑ランサム先生、本当にありがとうございました。先の4回の原稿で、少しは自分の言おうとしていることを把握できました。この原稿で、大いに自分の言いたいことがわからなくなりました。混迷から少し抜け出すために、次回、先生と対話できたらと願っています。

先生が差し伸べてくださった友情に心から感謝します。

(続く)

十字架形の神

所属教会で礼拝説教のご奉仕をさせていただきました。その原稿に多少手を入れたものをアップします。

「十字架形の神」 コリント人への手紙 第一 1章18節-25節

18  十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。 19  すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。 20  知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。 21  この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。 22  ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。 23  しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、 24  召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。 25  神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

私たちは普段言葉を使って生活しています。言葉は私たちがものを考えるだけでなく、自分の考えていることを他の人に伝える伝達の手段としても大切なものです。しかし、私たちは同じ言葉を使っていても、同じものを思い描いているとは限りません。人によって、あるいは文化によって言葉の持つイメージは異なっているのです。

たとえば、日本では「マンション」というと集合住宅の意味ですが、英語でmansionというと「大邸宅」という意味になります。アメリカ人が日本の「マンション」を見て大笑いしたという話も聞いたことがあります。英語の賛美歌で「Mansion Over the Hilltop」という曲がありますが、これは日本の「マンション」のイメージで歌うとおかしなことになってしまいます。

「来るべき神の国では、私はマンションに住む」と歌うプレスリー

イメージは私たちの信仰生活や聖書の読み方にも影響してきます。たとえば詩篇42篇1節を考えて見ましょう。

 神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。

これは賛美歌にもなっている有名な聖句ですが、ここにある「しかが谷川を慕いあえぐ」という表現について、しばらく思い巡らしてみてください。「谷川」と聞いて、みなさんはどういう情景をイメージされたでしょうか?ある方々は、日本に良くあるような、緑豊かな山間の渓谷にとうとうと流れる川の流れを想像されたかも知れません。けれども、詩篇の作者がこの句を書いたときにイメージしていたのはそういうものではなく、中東の砂漠地帯の乾ききった大地に溝が走っていて、その底にちょろちょろと水が流れているような川だったのかもしれません。このどちらの川をイメージするかによって、作者の心の飢え渇きというものはだいぶ違ってくると思います。

NachalParan1

イスラエルのワジ(涸れ川)

このように、信仰生活においてイメージというのはとても大切です。その中でもっとも大切なのは、言うまでもなく神様ご自身のイメージです。今日はこのことについてご一緒に考え、聖書から学んでいきたいと思います。

クリスチャンはみな神を信じている、あるいはイエス・キリストを信じていると言いますが、一口に「神」とか「イエス・キリスト」と言っても、人によっていろいろなイメージがあると思います。みなさんは神様についてどんなイメージを持っているでしょうか?

私たちが持っている神様のイメージのことを「神観」と呼びたいと思います。神観は「神学」とは異なります。神学というのは神様がどのようなお方であるかを理性的に考えるもので、たとえば「神は創造主である」「神は全能である」「神は永遠である」といった、神様についての抽象的な概念です。神観は私たちが心の中で神様をどのような人格を持ったお方としてとらえ、感じているかということです。たとえば「白いひげを生やした優しいおじいさんのような方」とか、「厳しい学校の先生のような方」といった具合です。

私は神学校で教えていますので、神学の大切さをもちろん否定するわけではありません。けれども、私たちの実際の信仰生活に大きな影響を与えているのは、実は神観の方なのです。私たちはクリスチャンとして、神様について、人間について、世界についていろいろなことを信じていると言います。また、自分でも本当にそのことを信じているかも知れません。けれども、そのように私たちが信じていると告白する内容と、私たちの実際の生き方には大きなギャップがあることがあります。なぜなのでしょうか?

すべての人は、自分が信じていると頭で思ったり告白していることがらに従って生きているのではなく、本当は心の奥底で、時には無意識に信じていることに従って生きています。たとえば、「神様は愛です」「神は良いお方です」ということを皆さんは信じておられると思います。それはもちろん、聖書が教える正しい神学です。正しい神学を持つことはもちろん大切なことですが、それが単なる頭の理解にとどまっているならば、皆さんの実際の生活は何も変わってこないと思います。

たとえ私たちが「神は愛です」という正しい神学を信じていたとしても、私たちの心の奥底にある実際の「神観」が「神様はいつも怒っている気むずかしい老人のような方で、私が失敗をするたびに雲の上から雷を落として私を罰しようと見張っている」というようなものだったらどうでしょうか?私たちは神様が愛であるということを頭の知識としては知っていたとしても、実際の私たちの人生は、怒りの神様に裁かれるのではないかとびくびくしながら生きる人生になってしまいます。つまり、私たちが頭で知っている神様の知識(神学)と、心で感じている神様のイメージ(神観)は必ずしも一致していないのです。

私たちが祝福された信仰生活を送っていくためには、正しい神学を学ぶだけでなく、聖書的な正しい神観を持っていく必要があります。ダビデも詩篇16篇8-9節で、次のように言っています。

8  わたしは常に主をわたしの前に置く。
主がわたしの右にいますゆえ、
わたしは動かされることはない。
9  このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。
わたしの身もまた安らかである。

ご存じのように、ダビデは多くの苦難に満ちた生涯を送った人物でした。人から命を狙われたり、祖国を追われたり、家庭の問題に悩んだり、自分の犯した罪に苦しんだこともあります。けれども、彼はそんな中でも神様に対する揺るぐことのない信仰を持ち続けただけでなく、その心には喜びがあったと言います。なぜでしょうか?その秘訣は、「わたしは常に主をわたしの前に置く。」という言葉にあります。ここはある英訳では「私はいつも主に目を注ぎ続ける(I keep my eyes always on the LORD)」となっています(NIV 2011)。ダビデは神様が良い方であり、愛なる方であり、ダビデを愛し、守り、祝福してくださる方であることを頭の神学として知っていただけでなく、そういう神様をいつもイメージして、心の中に思い描き、このお方を見つめていたのです。つまり、ダビデは正しい「神観」を持っていたと言えます。そこから、ダビデは単なる知的な神学は与えることのできないもの、すなわちゆるぐことの平安と喜びを得ることができたのです。

しかし、ここで問題があります。私たちの信じている神様は、純粋な霊であって、目で見ることのできないお方です。どうやったらこの神様をイメージすることができるのでしょうか?その答えは「イエス・キリスト」です。目に見えない神様が人間となってこの地上に来てくださった、それがイエス・キリストです。

キリスト教の神様はどのようなお方か、ということを考える時、私たちは哲学的な神のイメージ(永遠、全知全能、等)から出発して神様を考え、その神が人間になったのがイエス様だというふうに考えてしまうことがありますが、これは聖書的に言うと順序が違っているのです。

聖書が教えているのはその逆であって、人として二千年前にこの地上に来られたイエス・キリストを知ることによって、初めて目に見えない神様がどのようなお方であるのかが分かるというのです。ヨハネはその福音書で、「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」と言っています(ヨハネ1章18節)。

だから、神様についてイメージするには、イエス・キリストについてイメージすれば充分なのです。イエス様ご自身、弟子たちに「わたしを見た者は、父を見たのである。」と言われました(ヨハネ14章9節)。そしてパウロも、「御子は、見えない神のかたちであ」ると書いています(コロサイ1章15節)。ここで「かたち」と訳されているギリシア語は「エイコーン」で、コンピューターのアイコンの語源になっている言葉ですが、英訳聖書ではimageと訳されています。イエス様はまさに「神のイメージ」そのものである、とパウロは言っているのです。目に見えない神様がはっきりと目に見えるかたちで現れてくださった方、それが御子キリストということなのです。

さらに、ヘブル人への手紙には、「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であ」ると書かれています(1章3節)。つまり、イエス・キリストのうちに表されていないような神様の本質はないのです。この、人となって来られたイエス・キリストのうちに、神様がどのようなお方であるかということが、あますところなく、すべて表されているということです。

そして、イエス・キリストの生涯のクライマックスは、十字架でした。このことは新約聖書自体が証ししています。四福音書すべては、イエス様の受難をクライマックスとした物語として書かれています。そして、パウロの宣べ伝えた福音のメッセージの中心にも、十字架につけられたイエス様の姿があったのです。

今日お読みしたコリント人への第一の手紙で、パウロは彼がコリントを初めて訪れた時、そこに住む人々にどのようにして福音を伝えたかを読者に思い起こさせています。1章23節で彼は「しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。」と語っています。「十字架につけられたキリスト」―これこそ、パウロの福音のメッセージの中心でした。使徒の働き18章を見ると、パウロのコリントでの伝道の様子が書かれていますが、そこでは彼が「イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちに力強くあかしした。」(5節)と書かれています。つまり、この十字架につけられたイエスという人物こそが、旧約聖書で預言されていた救い主メシアである、とパウロは語ったのです。

これは当時の人々には、ユダヤ人にも異邦人にもまったく理解不可能なメッセージでした。パウロは彼の語った十字架のメッセージは「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものである」と言います(23節)。十字架はいまでこそおしゃれなアクセサリーなどにもなっていますが、当時はもっとも残酷な死刑の道具でした。十字架刑で処刑されるのは普通の犯罪人ではなく、国家に対する反逆罪などの特別に重い罪を犯した極悪人に限られていたのです。彼らは見せしめのために、恐ろしい苦しみを味わいながらじわじわと死んでいきました。そのような方法で死刑になった「犯罪者」が神であり救い主であるなどという教えは、当時のローマ市民の想像を超えていたと思います。

また、十字架はユダヤ人にとっては別の意味でもつまずきとなりました。旧約聖書には「木にかけられた者は神にのろわれた者」であると書かれていました(申命記21章23節)。十字架に磔になるということはある意味で木に架けられることですので、ユダヤ人は十字架刑で殺された者は神に呪われた存在だと考えていました。そのような存在が救い主メシアであるというのは、これまたあり得ないことだったのです。

パウロは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えることは、ユダヤ人にも異邦人にも受け入れがたい方法であることを承知していました。けれどもパウロは「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」と断言します(1コリント1章18節)。世の中の人には愚かさの極みに見えるような、十字架につけられたイエス様の姿にこそ、救いを得させる神の力が表されているというのです。

この箇所でパウロは「神の知恵」と「この世の知恵」を対比して論じています。十字架に表された神の知恵は、この世の知恵の標準からすると愚かに見えるけれども、実はこちらの方が優れているというのです。

21  この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。 22  ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。 23  しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。(1コリント1章21-23a節)

ここで、パウロは世の中の人々も神を知ろうとしていることを認めています。世界には宗教があふれていることからも、それは分かります。しかし、世の人々は自分の知恵を用いて神様を知ろうとしているので、その試みはうまくいかないというのです。本当に神を知ろうと思ったら、神の知恵に従ってそのことをしなければなりません。神の知恵とは、十字架に架けられたキリストを通してのみ、本当の神様を知ることができるということです。実際、パウロは2章2節で「わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心した」と言っています。

なぜパウロは十字架につけられたイエス・キリストを宣べ伝えるのでしょうか?彼は人々がわざと信じられないような難しい話をして、救いのハードルを上げているのではありません。キリスト教は「分かる人だけ分かればよい」というエリート主義の宗教ではありません。むしろ逆であって、パウロは人々が求めていた神への道を、これ以上ないほどストレートに語っているのです。十字架につけられたイエス・キリストを知ることが、神様を知る一番の近道なのです。いいえ、本当の神様を知ろうと思ったら、それ以外の道はないのです。イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 」と言われました(ヨハネ14章6節)。

つまり、「十字架につけられたイエス・キリストを通して神様が分かる」というメッセージが分かりにくい、というのは、神様の側に問題があるのではなく、私たちの神観が罪によってあまりにも歪められてしまっているので、神様がご自分の本当の姿を啓示されたとき、それを認め、受け入れることができないということなのです。もちろん、神様は天地万物を造られ、支配しておられる偉大な王なる方です。けれども、この方はご自分の支配を力を持って行われるのではなく、謙って愛を持って仕えることを通して行われるのです。イエス様ご自身が、弟子たちにこう言われました。

「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。 43  しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、 44  あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。 45  人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。(マルコ10章42-45節)

これが神様のやりかたであり、私たちの生き方でもあります。私たちの罪のために十字架にかかってくださったイエス様の姿に、神様の本質、つまりアガペーの愛が完全な形で表されているのです。宗教改革者のマルティン・ルターは「十字架の神学」ということを言いました。神様の本当の偉大さ、素晴らしさは、人間にとっていかにも素晴らしいと思えるような栄光に輝く姿を通して表されるのではなく(彼はそのような考えを「栄光の神学」と呼んで否定しました)、十字架につけられたキリストの弱さと躓きを通して表される、と言うのです。

そして、神様の恵みによって目が開かれた人は、この十字架につけられたイエス様に、神ご自身の姿を見ることができます。マルコの福音書は「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」と言うことばで始まります。しかし、福音書の物語を通して、イエス様が神の子であるということは、人間の登場人物は誰一人として悟りませんでした。しかし福音書の最後になって、イエス様が十字架の上で息を引き取られるのを見たローマの百人隊長が、 「まことに、この人は神の子であった」と言ったのです(15章39節) 。神の子としてのイエス様のアイデンティティは、イエス様がなされた奇跡でも、また復活でもなく、十字架上の死を通して明らかにされたのです。もちろん復活はとても大切ですし、復活がなければ十字架は完結しません。けれども、復活は十字架の逆転や否定ではなく、十字架を確証するものです。十字架と復活はコインの裏表のような関係にあり、復活は十字架で明らかにされたアガペーの愛が、たしかに神の本質であることを証しする、神の「しかり」なのです。

先に言いましたように、神様の本当の姿は人となったイエス・キリストに表れています。そして、イエス・キリストの本質は、十字架の上でいのちを捨てた愛のうちに表れています。だから、イエス様のイメージ、特に十字架に架けられた愛のイエス様のイメージから離れて父なる神様を想像することはできないのです。聖書の啓示する神様はいわば「十字架の形をしている(cruciform)」のです。聖書の中で神様について書かれているすべてのことは、この十字架のレンズを通して受け取っていかなければなりません。

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あなたが心の中で思い描いている神様はどのようなお方でしょうか?遠く離れた、地上の細々したできごとや、私たちの悩みや苦しみには無関心な神でしょうか?それとも私たちの罪や過ちのゆえにいつも不機嫌で、私たちを罰しようと待ち構えているような、恐ろしい神でしょうか?今日、もう一度十字架に架けられたイエス様を心に思い描きましょう。イエス様は私たちがまだ神を知らず反抗して生きていた時に、私たちを愛していのちを捨ててくださいました。今も弱く不完全な私たちを受け入れ、導いてくださいます。イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがありません(ヘブル13章8節)。このイエス様は私たちと世の終わりまでいつも私たちと共にいてくださいます(マタイ28章20節)。このイエス様の姿を、ダビデのようにいつも目の前に置いて歩んでいきましょう。