ピーター・エンズ著『確実性の罪』 を読む(4)

その1 その2 その3

今回は、『確実性の罪(The Sin of Certainty)』の第2章”How We Got Into This Mess”(私たちがどのようにしてこの混乱状態に陥ったか)を取り上げます。

前回見たように、エンズは現代キリスト教の抱える大きな問題点の一つは、「神への正しい信仰」と「神についての正しい思想」を同一視する考え方にあると主張します。繰り返しますが、エンズは神についての正しい理解を知的に追求していく営みを否定しているわけではありません。問題はそれをキリスト教信仰の中心に据えようとする態度です。

けれども、どうしてこのような信仰的態度が生じてきたのでしょうか?エンズはアメリカの歴史において、聖書はキリスト教信仰の知的基盤(たとえば正確な科学的・歴史的知識)を提供するということに関しては長い間共通の理解がありましたが、19世紀になってそのようなコンセンサスを揺るがすようなできごとが起こってきたといいます。 続きを読む

Context Is King

聖書解釈における大原則の一つに、「文脈(コンテクスト)に即した解釈をする」というものがあります。英語では“Context is King” (文脈は王)などと言われます。聖書テキストの意味は、その前後の文脈の中ではじめて正確に捉えることができる、というもので、神学校で学ぶと、このような聖書の読み方を徹底的にたたき込まれます。

前後の文脈に即して聖書を解釈することが身についてくると、こんどは文脈を無視した解釈に生理的な違和感を覚えるようになってきます。牧師の説教やキリスト教関係の書籍、メディア、クリスチャンの友人との会話などで前後の文脈を無視した聖書の解釈や引用が行われると、条件反射的に頭の中に黄色信号や赤信号が点灯し、「この箇所はそんな意味じゃないよ」と頭の中でつぶやいてしまいます(口に出して言うことは滅多にありませんが)。

文脈を無視した解釈の代表的なものは「アレゴリー的解釈」です。「アレゴリー」は寓喩とも言われますが、ある言葉によって、その語が通常指示する事物とは別の事物を意味する表現技法です。これは著者が意図して行うこともありますが、「アレゴリー的解釈」とは普通は読者がテキストにある言葉の背後に、著者が意図したものとは異なる意味を読み取ろうとする解釈法を指します。 続きを読む

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その6)

その1 その2 その3 その4 その5

藤本満先生によるゲスト投稿、6回目は、私(山崎ランサム)とのインタビュー形式でお送りいたします。

聖書信仰

聖書信仰』(再刷おめでとうございます!)

このたび、寄稿の最後に山﨑ランサム和彦先生が質問され、小生が少し応答し、必要があれば、山﨑ランサム先生がさらに応答する、という形式を取っています。読者のみなさまも、先生の質問に対して、様々なお答えがありますでしょう。私の拙い返答にご辛抱ください。

 *     *     *

Q1.どのような神学も歴史の真空状態の中で生み出されてくるものではなく、神学者が生きている具体的な歴史的状況に 必然的に影響を受けるものだと思います。本書における先生の主張をよりよく理解するために、先生ご自身の神学的背景について、簡単に お教えください。

私はインマヌエルという群の中で、牧師の家庭に育ちました。きよめ派の教団で、1945年に群を創設された蔦田二雄先生は、戦後、長老派の常葉隆興先生らと、JPCの旗揚げに貢献された人物です。ですから、私の育った教団は、聖書信仰のど真ん中を歩んできました。しかし、私の周囲でウォーフィールドを読んでいる人・プリンストン神学の聖書観がどのようなものかを論じる人を見たこともありませんでした。しかし、とても伝道的で霊的に真実な群で、純粋に「聖書は神の言葉」であり、滅びる者には愚かであっても、救われる私たちには神の力であると真実に信じてきました。つまり、聖書論の神学的な掘り下げには弱くても、聖書の救済論的な役割はしかと捉えていました。――そういう私に芽生えたのが、聖書信仰はウォーフィールド型だけではないのではないか?という疑問です。

また、あるとき、ふと気がつきました。それなりの理由はあるのでしょうが、日本福音同盟(福音派の集まり)に、本来その中心にいるべき、日本改革派教会が入っていません。また長老教会も、必ずしもその中に入っていません(語弊があったらお許しください)。以前中心におられた村瀬俊夫先生は1980年代の論争で離れていかれました(現在は、福音同盟の社会委員会の委員を務めておられます)。――ここから生まれたのは、日本の福音派を考慮した、聖書信仰の歴史的な変遷を解明してみたいという願いでした。どのようにしてこうなってしまったのだろう?

日本の福音派においては、聖書信仰は、型にはめられたようで、議論にもならないのが現状ではないかと思いました。それは、「信仰」であって「神学」ではないのだから、論じるべきことではない、かのように。一度、バケツをひっくり返してみよう、などと思ったのではありません。少し足跡を検証してみようと思ったまでです。

 

Q2.本書にも登場する神学者トーマス・オーデンは、「復古正統主義(Paleo-Orthodoxy)」を提唱し、 古代の教父や公会議に代表される「古典的キリスト教」の重要性を強調してきました。本書は福音主義の聖書信仰を宗教改革まで遡って描き出していますが、宗教改革以前の「聖書信仰」を今日の福音的キリスト者はどのように評価すべきとお考えでしょうか?

少し字数をいただいて、あらためて宗教改革の聖書主義(聖書信仰)を説明させてください。1517年の10月の終わり、ルターは贖宥状(免罪符)を売り歩いて、大金を稼いでいる教皇サイドに抗議文を出します(ヴィッテンベルクから印刷を通してあっという間に広がります)。教皇サイドとルターは、最終的に1521年のヴォルムスで開催された神聖ローマ帝国の会議にルターが呼び出され、撤回を求められ、それを拒否したことで、決裂します。

「皇帝閣下と諸侯殿が単純な答えを要求されるのですから、歯に衣着せずにお答えします。聖書の証言か明白な根拠をもって納得させられない限り、私は私が挙げた聖句に従います。私の良心は神の言葉にとらえられています。私は教皇も公会議も信用していません。なぜなら、それらがしばしば誤り、互いに矛盾していることは明白だからです。私は何一つ撤回できませんし、そのつもりもありません。良心に反したことをするのは、正しいことではなく、また危険なことだからです。神よ。私を助けたまえ。アーメン。」

ルターの答弁をもってプロテスタント教会が誕生しました。神の言葉、すなわち聖書の生きて働く神の声こそがルターをとらえました。さらに、これまでのカトリック教会は、人間の性質、救いの方法、キリスト者の歩み、等々についての聖書の教えを曖昧にし、時にそれを否定してきたというのが、彼の理解です。今こそ教会は聖書を通して神の真の声を聞かなければなりません。明らかに、プロテスタントの聖書主義の原則は、聖書を教会の上に置きました。

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ヴォルムス帝国議会におけるルター

さて、ヴォルムスの帝国会議は、ルターの答弁で終わったわけではありません。ルターの答弁に応答した審問官の言葉もまた、注目に値します。

「あなたは気が狂っている。どんな目的をもってして、これまで多くの世紀にわたって教会と公会議が討議してきた諸課題に新たに言いかがりをつけるのか。……だれでも公会議と教会の共通理解を聖句によってひっくり返えすような事態を認めたら、もはやキリスト教にはなんら確かな、決定的なことは残らないではないか。」

もし誰もが聖書を味方につけて自分の良心に従うだけでは、その道は、良心の数だけ存在することになります。帝国会議におけるこの言葉もまた、これから先、分裂を繰り返して、諸教派を生み出すプロテスタント教会の将来を予見していたことになります。

そのように考えると、山﨑ランサム先生が挙げてくださったトーマス・オーデンの狙い所が少し見えてきます。彼は、「復古的正統主義」、つまり古代信条を作り上げてきた時代の教会のあり方にならって、聖書主義によって様々に分裂し、多くの教派・神学を生み出してきたプロテスタントを超え、さらに教皇制度と伝統を軸にキリスト教を考える西方カトリック教会を超え、東方教会とも連携を取りながら、それらの分裂が未だなかった時代に目を向けようとしています。

そこでは、教理と霊性の垣根はありません。神学は神学だけをしているのではなく、牧会・伝道・帝国主義との戦い、あらゆることに関わっていました。そこでは聖書が先か教会が先か、というような鶏と卵の論争もありません。鶏も卵も一つのことでした。

オーデンは、そのような古代正統主義のルネサンスは不可能だろうとあきらめていました。ところが、拙著でも紹介しました、初代教父による聖書注解、『古代キリスト教聖書注解』(Ancient Christian Commentary on Scripture)の総編集の働きを進めるにつれ、以前とは異なった感触を得るようになります。この注解書は、初代教父による、存在するすべての聖書注解をデータベース化し、それをもとに聖書の各書各節が、どのように教父たちによって注解されてきたかを解説しています。2001年から刊行が始まり、全29巻が発行されました(InterVarsity)。またこの注解書は、世界で七か国語で同時刊行されてきました。

各巻の編集者は、プロテスタントやカトリックの聖書学者だけではありません。ユダヤ教の聖書学者、東方教会の聖書学者も含まれています。そして、各巻の編集者に共通して見られる、古代の正統主義への憧憬、そこに立ち返る姿勢をオーデンは見て取りました。拙著は「聖書のひとり歩き?」という章をもうけましたが、プロテスタントの流れの底流に、ともすると聖書とその解釈が、教会・伝統を離れて一人歩きする傾向があり、それを反省して、どのような動きがあるのかの一端を紹介しました。

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Q3.本書では欧米と日本の聖書信仰について主に書かれていますが、日本以外のアジア諸国、アフリカ、中南米の教会の中で、聖書信仰というテーマについて注目すべき動きをご存じでしたら、お教えください。

回答は持っていないのですが、この質問の重要性を強調させてください。1910年の統計では、プロテスタント教徒の58%が欧州、31%が米国、11%がその他の国でした。ところが、2010年の統計ですと、欧州はわずか12%、米国は15%、そしてアフリカ・南米・アジアに73%、となっています。さらに、73%のうち、かなりの割合が聖霊派・ペンテコステ派です。福音派の分布が、欧米以外に、しかもそのかなりの%が聖霊派である、というのが現実です。

山﨑ランサム先生が挙げてくださった地域で「聖書信仰」がどのように論じられているのか、私にはまったくわかりません。しかし、これは十分に考察に値するテーマです。これを神学的に論じる研究者がだれかというよりも、この課題がそれらの地域でどのように扱われているのか、論争はあったのか、米国的な理解がどのように浸透しているのかに、私も興味があります。山﨑ランサム先生は、動向をご存じでしょうか?

聖書信仰の実践・適用という見地からですと、拙著でも取り上げました、デヴィッド・ボッシュ『宣教のパラダイム転換』は、南アフリカのオランダ改革派です。彼のメッセージは、未だに植民地的社会構造に縛られている世界からの叫びでした。ローザンヌ会議に出席したペルーのサムエル・エスコバール(Samuel Escobar)は、福音派における解放の神学と社会構造の変革を訴えた人物でした。

*     *     *

藤本先生、お忙しい中、私からのとらえどころのない質問に一つ一つ丁寧にお答え下さり、心から感謝いたします。Q3でご質問した、(日本以外の)アジア・中南米・アフリカ諸国における「聖書信仰」については、私も正直なところほとんど知らないのが現状ですが、ごく限られた範囲で知っていることをお分かちしたいと思います。

アジア神学協議会(Asia Theological Association: ATA)は福音主義に立つアジアの神学教育機関の集まりですが、そこが出版しているアジア聖書注解Asia Bible Commentary)というシリーズがあります。これはATAがジョン・ストットによって創始された Langham Partnershipとの提携のもとに刊行中のプロジェクトですが、その目的はアジアの聖書学者による、アジアの牧師や教会指導者、神学生等のための聖書注解を生み出すことにあります。

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アジア聖書注解シリーズ

アジア聖書注解シリーズのユニークな特徴は、「アジアに文脈化された聖書講解」という点にあります。その編集方針では、注解本文において釈義 exegesis と適用 application をはっきりと分離することはせず、聖書講解の中にアジアというコンテクストにおける適用と、アジアにおける聖書解釈の歴史を織り込んでいくことが明確にうたわれています。つまり、歴史的・文法的解釈のスタンダードな手法である、まずオリジナルの歴史的文脈において聖書が「意味したこと」を釈義し、しかるのちに現代の教会の置かれている文脈に適用する、という二段構えの構造を意図的にくずし(あるいはゆるめ)、現代のアジアにある教会に語りかける神のみことばとしての聖書のインパクトに重点を置いて聖書を読んでいこうという試みであると言えます。これは、藤本先生がおっしゃってこられた、「救済論的な聖書観」に基づくアプローチの一例といえるでしょう。

もちろん、注解書は実際に聖書を解き明かしてなんぼの世界ですので、実際に生み出されてくる注解の善し悪しは個別に判断されなければなりません。また、メインラインの聖書解釈では、アジア人の視点から聖書を解き明かそうという試みは、これまでにもありました。しかし、従来はそのようなアプローチに対しては、福音派からは「ポストモダン的な読み手応答批評」「主観的な読み込み eisegesis」として否定的にしか評価されてこなかった気がします。けれども、近年になってこのような聖書解釈の方法論がアジアの福音派の聖書注解の方針としてはっきりうち出されていること自体、注目すべき動きであると思います。

(続く)

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その4)

その1 その2 その3

藤本満先生によるゲスト投稿の第4回を掲載します。今回は物語論についてです。

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聖書信仰(4) 物語

物語の復権

昨今、聖書の物語性、あるいはナラティブとしての聖書という表現をよく耳にするようになりました。アブラハム、士師、ダビデ、福音書、使徒の働きなど、聖書を切れば必ずと言って良いほど物語が出てきます。1974年にイエール大学のハンス・フライが著した『一九世紀における聖書の物語の陰り』という書物がきっかけとなって、急にナラティブとしての聖書が注目されるようになりました。

なぜそれまで、聖書の物語性が無視されてきたのでしょう。19世紀、リベラルなドイツの学者たちは、歴史の中に全能の力をもって介入してくる神を前提とせずに、聖書を文献として研究します。彼らの多くは、紅海が二つに分かれる物語からイエスの奇蹟や復活の物語に至るまで、神の力にあふれる物語をフィクション(神話)として読み流し、その中から宗教的な真理命題だけを抽出すればよいと考えていました。物語が記述する出来事の詳細は乏しくても、そこから宗教的なメッセージは抽出でき、理性的に解釈し直せる、と。これならば、物語を構成する「史的イエス」(歴史上の人物としてのイエス)と、そこから抽出された初代教会の「使信としてのキリスト」は別物であっても、かまわないことになります。

ここでは詳しく説明しませんが、先のフライの書物以来、聖書の出来事性、そしてそれを描く物語を「軽く見る」ような考え方は、ひっくり返されてきました。物語の復権です。(拙著16 章)

物語(ナラティブ)理解は危険か?

しかし保守的な福音主義は、依然として聖書の物語性を掘り下げることを敬遠します。それは「物語=神話」というような、上述のリベラリズムに対するトラウマが原因しているだけではありません。そもそも物語のもつ「意味の相対性・多様性」に危惧を覚えているのです。物語という文学類型を当てはめて聖書を読むと、読み手の印象によって御言葉の意味と理解は相対的になります。最終的には「託宣」としての権威を傷つけると警戒しているわけです。

もっとも物語の復権を待つまでもなく、言語学は長年、言葉の多様性・多義性(相対性)を指摘してきました。

・言葉の機能は、話し手の考えを一方的に相手に伝えるためだけではない。同じ言葉をもって、人は願い、感謝し、呪い、挨拶をし、祈り、命令し、問いかける。
・言葉は幅広く機能し、その意味も状況に応じて多様である。
・詩的な言葉だけでなく、日常の記述も、時に正確性よりも象徴性を重んじることがある。

この言葉の機能の多様性、意味の豊かさは、近代主義や科学が支配する文化においては「曖昧性」とみなされ、それが欠点であるかのように退けられてきました。この欠点を克服するために依然として、聖書のテキストは「原著者の意図にのみ限定された単一の意味しかもたない」と命題的に定義することを志してきました。

確かに、聖書の言葉を象徴的に理解しすぎ、主観的な体験で解釈していけば、限りなく相対的なものとなり、神の啓示は、星の数ほどの理解で解釈されるでしょう。これが物語論の危険性であることは認めるべきでしょう。しかし、危険性と共に可能性は莫大です。現時点で聖書の物語性を主張する人びとは、そのような相対主義を考えているわけではありません。ですから、彼らが提示している可能性に耳を傾けるべきであろうと私は思います。

物語論は、近代主義が言葉の中に、一つの意味、しかも普遍的に通用する客観的な意味を見いだそうとしたことによって、かえって、本来聖書が有している物語のダイナミズムを減じてきた現実を指摘します。マクグラスは次のように述べています。

「聖書の物語性を認めることは、聖書の啓示の豊かさを回復させることになる。この方法論は、福音主義の啓示の客観的知的真理へのこだわりをあきらめることでも弱めることでもない。それは単に、啓示は、客観的真理よりはるかに多くのことを含むことを認めること、またその豊かな啓示を教理へと還元してしまうことを防ぐ知恵を与えることにほかならない。」(拙著315 頁、参照357-360 頁)

では、物語のダイナミズムとは、どのようなものでしょうか。

物語のダイナミズム

プリンストン神学校のウィリアム・ジョンソンは次のように述べています。「物語は固定化されたものではなく、ダイナミックなものであり、それゆえ、新しい場面で新しい事柄が追行されている。換言すれば、聖書的物語は、単に私たちに神の本性について語るだけではない。現在、神がどのようなお方であるのか(神のアイデンティティ)をたえず、新しい仕方で私たちに明らかにし続ける。」(拙著314 頁)。追行されるとは、聖書の物語と私たちの物語が重なり合うことです。この考え方にそって、聖書の物語性を強調する何人かの聖書学者を紹介してみましょう。

石田学は、聖書の物語が語られるとき、「聖書の出来事や民の体験がきわめてドラマ的な仕方で、教会の会衆の想像力の中で再構築され、追体験される」と言う。「現代に生きて聖書を読む読者は、彼ら自身の生活が現代に生きる神の民としての生き方を変容され、形成されるような仕方で、聖書のドラマと自分たちのドラマを相関させるように導かれるべきである」(拙著314 頁)。そうなると、聖書の物語理解は、聖書は神の言葉であって、それを解釈して今日に適用するという、以前の聖書信仰の「上から下へ」の理解だけでは不十分です。物語は、託宣的理解を超えた聖書の言葉の「力」と「機能」を提示していることになります。

ブルッゲマンは、支配者の側に立つ者と抑圧される民の物語(ファラオとイスラエルの民、列王記のソロモンをはじめとする王族と貧しい民)を、現代アメリカ社会の物語と重ねます。彼は、神の正義と平安を歌っている御言葉が、実は利権者の方便にすぎないことを見抜いて、支配者・利権者と対峙する預言者の姿を浮き彫りにします。そのとき彼は、聖書のテキストがどのような「意味を持っていたのか?」ではなく、どのような「意味を持っているのか?」こそが、私たちが取り組むべき課題だと言います(拙著327 頁)。

その意味でブルッゲマンは、物語である聖書が、出来事や教えの「記録」ではなく、「記憶」であると言います。神の言葉は過去に固着しているのではなく、現在と未来のエネルギーにあふれている、と。古代の特定の文化と密接に結びついた物語は、過去の記録ではなく、信仰共同体の記憶として繰り返し体験され、受け継がれ、神が語られるものだと言うのです。

英国のR・ボウカムは、聖書全体を物語として見ることを主張します。聖書は不変の教理や道徳の教典ではなく、第一義的に物語(多様であっても統一性がある)である。物語は、読者をその物語の中へと引き込む力を持っています。私たちが聖書に描かれる大きな物語に登場する人物や出来事に自分自身を重ねるとき、聖書は私たちの人生、また世界の諸問題への取り扱いについて示唆を与え、その最終的な解決を教えてくれます。私たちは大きな物語の中に取り込まれて、変貌していきます(拙著332頁)。

山﨑ランサム先生もレビューしておられるN. T. ライトはさらにこんなことを主張します。彼は聖書の物語を大きく五つの舞台に区切って、次のように神学的な流れで解釈します。

「私たちは創世記一章と二章(創造の物語)を、あたかもこの世界が当時のままであるかのように読むことはしない。また、創世記三章(堕落の物語)を、創世記一二章(信仰の民)を知らされていないかのように、さらに出エジプト(旧約の解放と契約)を、さらに福音書(キリストにある契約)を知らされていないかのように読むことはない。また私たちは福音書を、それがまさに第四の舞台から第五の舞台へと移行するために記されているという事実を知らないかのように読むことはない。」

この第五の舞台を演じているのは教会です。現在の私たちは、第五の舞台に立っていて、キリストの十字架と復活礼拝の中で再現し、その恵みを担いながら、和解の福音の使者として世界に出て行きます。

ライトと共に米国のヴァンフーザーも、第五の舞台を生きる私たちと聖書の関係をダイナミックに定義します。第五の舞台に生きる私たちは、単に正典が基準となってそれに従って生きているだけではありません。正典ドラマは、物語を解釈する者をドラマの役者としても取り込んでいきます。聖書の理解は知の問題である以上に、行動の問題となります。どの時代にあっても信仰者は皆、神の国の物語の中でそれぞれの役割を演じます。そこで私たちは、この物語の中へと取り込まれているのか、自分はどの場面でだれを演じているのか、自分の人生は聖書のどの場面といま関わりをもっているのか、神はいま何をしようとしておられるのか、自分はどう応答するのかが問われているというのです。ヴァンフーザーによれば、聖書は私たちに、舞台で言う台詞を提供しているのではなく、「聖書のテキストが示唆し、意味している」ことを理解し、そこで「演じる」、すなわち神の物語の中で生きることを求めている、と。聖書の解釈は「私たちの見方、考え方、行動の仕方を刷新し変貌させる。……聖書は神のコミュニケーション行為の媒体であって、それによって真理が伝えられるだけでなく、読む者が変貌されていく」。(拙著258-260 頁)

――これくらいにしておきます。

物語のダイナミズムが注目するとき、私たちの「聖書信仰」理解も新しくされるはずです。アイルランド・メソジストのウィリアム・エイブラハムは、ボウカムやライトを引用しながら、次のように言います。「私たちは基準、正典的標準、正統主義、知識という表現から、神の国、救い、解放、備え、変貌といった表現にシフトした。私たちは認識論から救済論へとシフトした」(拙著334 頁)前者の表現の鍵を握っていたのは「命題」です。そして、後者の鍵を握っているのは「物語」です。

聖書の物語理解が聖書信仰の中に入り込み、従来の近代主義的真理と託宣にそった聖書信仰を超えて、さらに豊かな可能性が探り、「聖書こそ神の言葉である」との信仰理解がさらに深まっていくことを期待します。

(続く)

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その3)

その1 その2

藤本満先生によるゲスト投稿、第3回をお届けします。

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聖書信仰』(キンドル版)

前置き(あらためて)

あの本を著して以来、私は「包括的福音主義」者と呼ばれているらしいのです。そのカテゴリーに入れていただけることに何ら不満はありません。私は神学が信仰信条という枠にはめられたものではなく、モザイク的でよいと主張しています。また、批評学やポスト近代による近代主義批判に耳を傾けようという姿勢を表明しています。ただ、私が提示したかった趣旨は、少し観点が違います。

私は、「聖書信仰」を神学的に論じる場合、改革派・長老派系の論ばかりに偏っていると感じてきました。もちろん、聖書信仰の巨人にプリンストン(当時は厳格な改革派神学)のウォーフィールドのような人物がいましたので、神学的にはそちらの論が中心に展開されて当然と言えば、当然だったのです。日本で聖書信仰を神学的に論じてきたのは、岡田稔、また戦後に訳されたパッカーと、いずれもウォーフィールドに傾倒していきました。

しかし、ここであらためて救済論的な視点で論じる聖書信仰の復権を、拙著は掲げました。その意図は、これまでの聖書信仰の中心をそのままにして枠の範囲を外へと広げるというよりは、何も中心点はそこ(ウォーフィールド型)だけではなかったのではないか、という主張です。そこで、聖書信仰に「第二の視点」の導入を試みました。

少し言い換えてみましょう。福音派は、「聖書は誤りなき神の言葉」という命題で括るのが一般的です。この命題はさらに二つのタイプに分かれます。第一のタイプは、17世紀のウェストミンスター信仰告白のように、「誤りなき」という範囲を救いと信仰生活の領域を想定します(無謬論)。もう一つのタイプは、19世紀後半のプリンストン神学や20世紀後半のシカゴ宣言のように、聖書に記されているすべての事柄に誤りがないとして、その範囲を科学や歴史にまで広げます(無誤論)。

「誤りなき」という定義づけで、どちらを選ぶか?と問われれば、私は前者を選びます。それは後者の方は、リベラリズムと同じ土俵でリベラリズムを批判することで、かえって聖書の本質を見失っていると思うからです(拙著17章B「聖書はモダンの客観性を超える」)。

しかし拙著は、上記二つの選択枝とは異なる次元での「聖書信仰」を提示しました。それが、敬虔主義や信仰復興運動に見られた、聖霊が御言葉を用いて神の力を働かせ、人の罪深さを確信させ、神の愛を心に注ぎ、神の平安を与える、聖書はいわば「実効力を持った救いの導管」です。言うなれば、伝道的・救済論的な聖書信仰です。

この次元での聖書信仰は、神学的考察を欠いた「一般の信仰者レベル」の聖書「感」とみなされてきました。しかし、決してそうではありません。「導管」(means, channel)という用語は、英国教会の中で脈々と息づいてきました。そして神の言葉・聖書は神の創造・贖い・新創造の導管であるという表現を、最近ではリチャード・ボウカムやトム・ライトが頻繁に用いています。

私は、この次元における聖書信仰を「あえて」ウォーフィールド型と区別して論じました。しかし、本当はそれを別物として区別する必要はないのでしょう。それを一つのことと論じれば(拙著18章A「神の口と神の手」)、それは聖書信仰の豊かさをさらに掘り下げることになるのではないかと思うからです。

私が山﨑ランサム先生のブログへ寄稿させていただきましたのは、もちろん、先生からのお招きがあったからです。加えて申し上げるなら、先生が拙著を読んでくださったときに、上述の意図を明確にくみ取ってくださったからです。

 

聖書信仰(3)言葉の限界・言葉の力

近代主義は、世界の客観性とそれを認識する理性、さらに理性の道具である言語、という大前提の上に成り立ってきました。世界には客観的秩序があり、個々人にはそれを把握する力、すなわち理性が備わっている。その理性の道具の筆頭が言語です。

客観的世界が正しく理解されれば、それは真理と呼ばれます。そうしてとらえられた真理は命題的に定義され、さらに種々の命題は論理的に組み合わされて一つの体系を構築するようになります。ですから、17世紀プロテスタント正統主義にあっても、プリンストン神学や、それ以降の米国福音派にあっても、聖書信仰が最終的に到達しようとする先は、しっかりとした組織神学でした。

このような近代主義に対する批判は、拙著でも取り上げましたが、山﨑ランサム先生のブログに掲載されている「確かさという名の偶像」の連載を読んでいただければ、よくわかります。

近代主義に染まった聖書信仰を、たとえば、福音派のバーナード・ラムは次のように批判します。「命題的啓示を強調する昨今の福音主義の強調が、実のところヘーゲルの純粋概念言語の一つの表れにすぎないとは驚くべきことである」(拙著9章B)。神が無限であるとしたら、有限である人間がその言語をもって無限なる神をとらえることはできない、と考えるのが普通ではないか、とラムは述べています。あるいは戦後日本の聖書信仰を率いてきた村瀬俊夫先生も、こう述べています。「十全に霊感された言語とは、どういう言語なのか。考えられるのは『絶対的な意味をもつ、不可謬である言語』という概念である。しかし、そんな概念の言語を歴史的次元における文化的現象の中に求めるのは、〔すべて歴史的なものは相対的であることを免れないのであるから〕不可能である」(拙著12章C)。

これらはいずれも近代主義に染まった逐語霊感説への批判です。言語はそこまで普遍的な役割をになうことができるのでしょうか? ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」という表現を使って、それぞれの世界を体験する感じ方・とらえ方・表現法は、同じであるはずはなく、一つの世界の言語をもってして普遍性を主張することはできないことを主張しました。言語は社会性を帯びています。それはすなわち言葉の個別性であり限界性です。

スイスのソシュールは、人は言葉によって単に客観的な事実や実在世界を写し取って把握するだけでなく、言葉の世界を編むことによって社会や文化を創り上げると述べました。そして、人が現実を把握し、編み上げているのは、純粋理性を助ける普遍言語によってではなく、特定の時代・世界における、その時代・世界に固有な言語によります。ですから、この時代・世界に生きるとき、私たちの存在のあり方も出来事の経験の仕方も、またそれを解釈する方法も、決して普遍的なものではありません。

しかし、この言語の持つ制限に着目したからと言って、聖書のテキストに神秘性・聖性は失われたと結論する必要はありません。以下に3つの主張を挙げておきます。

①たとえば、福音派の言語霊感説とはおおよそ立場を異にするポール・リクール(フランスの哲学者、人生の後半でシカゴ大学神学部教授)でさえ、次のように述べます。リクールは、キリスト教は聖書が書かれたヘブル語、アラム語、ギリシャ語という言語に特権を与えることをせず、他の言語に自由に翻訳し、それがあらゆる文化言語で読まれることを期待してきたことに注目します。つまり、聖書の聖性がテキストそのものにあるのではないと考えるからこそ、翻訳が可能であり、そこには批評的精神も許されてきた。これが聖書とコーランの決定的な違いだと言います。(コーランはムハンマドがアッラーから受けた啓示を一言一句書き留めたものですから、翻訳は許されません。アラビア語こそが神聖な言語であり、そこに直接的な啓示があるからです。)

しかしリクールは、それでもユダヤ教もキリスト教も、聖書のテキストに独特な聖性を与えてきたことを信じます。聖書が神の言葉であるのは、聖書の「テキストの世界」がテキストの前方(テキストによって繰り広げられる世界)に「読者の世界」を引き込む神性な力を有しているからだとリクールは言います。読者がテキストを受け入れるとき、テキスト世界と読者の世界が交わり、読者を変容させる力が働くというのです。それは、寄稿2で取り上げた聖霊が御言葉を用いるからです。

②さらに、言語の歴史性・文化性という制約を大胆に乗り越えるバルトの発言も紹介してみます。教義学的方法ではなく、歴史的方法を自覚に取り入れてキリスト教を解釈しようとしたトレルチという人物がいます。彼は、全人類の唯一の中心点を、歴史のただ一点(キリストの出来事)に見ることは、「古代の、あるいは中世の、牧歌的な小規模で狭い世界像」に過ぎず、そこからキリスト教の絶対性はおおよそ証明できないと結論しました。

しかし、これに対してバルトは次のように応えます。キリスト教は、その絶対性を証明できなくても、その「真理性」を堅持することができ、そして真理性は絶対性を凌駕する、と。キリスト教の真理の物語は、著しい浸透性・拡散性をもっていて、たとえ真理がからし種のように小さく見えても、歴史の中で大きな枝をはることができるのである、と。私はなんとも胸のすく答えだと思います。つまり言語の普遍性を歴史的文脈による制限・制約にゆずったとしても、その真理性まで消し去る必要はないのです。

③あるいはマクグラスは次のように主張します。きわめて限定的な(狭い)、妥協のないキリスト論的スタンスこそが、福音主義の伝統である。かつてリベラリズムが普遍的理性・普遍的経験を支えにキリスト教信仰の真理性を説明しようとしたのとは違い、また聖書を普遍的土台としてキリスト教信仰の真理性を弁証しようとしたモダンな福音主義とも違い、聖書が証しするキリストと福音こそが、きわめて限定的であっても、それは普遍的インパクトをもっている。そのことを常に説いてきたのが福音主義ではないか、と(すべて拙著14章D)。私はこれもまた爽快な答えだと思います。確かに私たちは世界の片隅にあって、キリスト教言語がおおよそ通用しない日本で、聖書の語る真理性を堂々と主張してきました。聖霊は、このユダヤ的な概念さえも用いて、人の心を打つ、と信じてきました。

①~③のどの主張も、近代主義に基づいた理性の普遍性と言語の客観性に固執しなくても、そして言語学の一般的な理解を受け止めたとしても、それによって聖書信仰が崩れるわけではない、という主張を支えていると私は考えています。

日本に育ち、日本語しか話さない私であれば、日本語でしか物事を考えられないし、日本語にない概念については語ることができません。ですから、聖書信仰に立つ聖書学者は、様々なツールを駆使して古代の世界に入り込み、当時の状況の中で言葉を釈義し、現代の私たちにも理解できるような方法で聖書を翻訳し、その言葉の意味を教えてくれているのではないでしょうか。そして前回の寄稿で聖霊の働きに言及したように、聖霊は、過去の記者と現在の読者との橋を架け、聖書の言葉を現代の私たちに生き生きとした神の言葉として響かせるのではないでしょうか。

 

ポスト近代主義から学ぶことができるのは、言語の限界性だけではありません。その力強い可能性も教えてくれます。注目したいのは、「言語行為」(スピーチ・アクト)という考え方です。言葉を発するときに、発言者はその言葉の出来事の中に入るという「言語行為」の理論は、イギリスのJ・オースティンやアメリカのJ・サールによって明らかにされ、真理や歴史事実の記述言語としての聖書の考え方を大きく変えてきました。聖書の言葉を聖霊が用いて今日に力を及ぼすだけでなく、言葉そのものに現在的な発言者の力も含まれているという考え方です。「光あれ」「これはわたしのからだです」という言葉は、単なる記述言表ではなく、発言した者がそれを実現する力のある言葉である。

先のリクールが聖書観にこの考え方を導入しました。福音派のヴァンフーザーも特にこの考え方を取り入れて聖書信仰を論じていますので、それをここで紹介しておきます(詳しくは拙著18章)。

ヴァンフーザーは「聖書即啓示」、「聖書=神の命題」という考え方が、きわめて近代主義に染まった聖書観であると批判しつつも、啓示の「言葉」性にこだわります。神が絶対的な超越者であるとしても、その神が人格的存在であるとしたら、人に対して何かを行うだけでなく、人と出会い、人に語りかけ、人格と人格をめぐるコミュニケーションを取ろうとされることに何ら不思議はない、と。その主要な手段が言葉です。偶像が言葉を発することができないのであれば、真の神である第一の証しが、その言葉にあるといっても過言ではありません。

言葉のコミュニケーションを考えつつ、ヴァンフーザーは「言語行為論」に立って、コミュニケーションにおける言葉の「実効力」を論じます。人が人に対して言葉を発するとき、それは言葉だけのことではなく、言葉の意味するところが行動となる、いわゆる言葉の後を追いかけて行動が伴うというのです。ですから、人は言葉によって人と出会い、言葉のコミュニケーションによってつながれていきます。神が人と出会われるとき、神は人のために語られます。神が、何かを命じ、警告し、約束し、赦す言葉を発せられると、その言葉はむなしく神へと戻ることはありません。神は発せられた言葉に真実であり、スピーチとそれに基づくアクトを通して、人は神がいかなる方であるかを体験します。また神が語りかけるとき、それは過去や将来についての叙述に限りません。問いかけ、警告、約束、祈り、賛美、物語、手紙等、様々なジャンルを用いて、神は私たちに「実効力」の伴う言葉をもって語りかけるというのです。

ヴァンフーザーは、言語行為として神の言葉を考えるとき、もはや「聖書は神の言葉である」あるいは「聖書は神の言葉となる」という区別は意味をなさないと言います。そもそも言葉をコミュニケーションと考えるならば、聞き手の応答はコミュニケーション成立のために必須です。聖書それ自体が神の言葉であるとしても、聞き手がそれに応答しない限り、神の言葉としての有効性はありません。聖霊の働きによって、神の言葉が聞き手・読み手に受け止められてはじめて、コミュニケーションが成り立ち、神の言葉が成立していることになります。その両方を含めない限り、人格と人格が交わるコミュニケーションとしての言葉は成立していません。言葉の真髄は、真理の言表にあるのではなく、コミュニケーションの「力」にあります。

だからこそ、神の言葉は、その目的とするところを達成します。この目的とは、最終的に何でしょうか。ヴァンフーザーは、それが神の言葉の具現化(embodiment)であると考えます。神の言葉は、契約の民の生涯・言葉・行動において今日的意味をもって新たに繰り返し具現化されていきます。「神は、聖書の中の律法・知恵書・詩歌・黙示・預言・物語とあらゆるジャンルにある言葉によってキリスト者の存在を形づくっていく。つまり聖書は、キリストにあって神がなされたことの現実を神の民の生の中に具現化していくために『神が定められた手段』(ordained means)である」と。

私が冒頭に記した「前書き」の課題を、ヴァンフーザーは現代の言語論を取り入れた神学理解をもって見事に、繊細に論述しています。しかも彼が、ウォーフィールドの引用をもって、自身の主張を締めくくっているところに、さらに奥へと歩を進めることができる「聖書信仰のあり方」を示しているよう思います。

「聖書は……啓示の一記録たるにとどまらず、それ自身神の贖罪的啓示の一部である。すなわち、神が世を救いつつある贖罪的行為の記録としてだけではなく、それ自身これらの贖罪的行為の一つとして、神の国樹立・建設という大事業にそれ自らの果すべき役割を持つものとして、考えられている。」(『聖書の霊感と権威』、一六〇頁)

 

*次回は、物語論についてお話します。