『聖書信仰とその諸問題』への応答8(藤本満師)

(過去記事       

藤本満先生によるゲスト投稿シリーズの8回目をお送りします。

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8 聖書(新約)が聖書(旧約)を解釈するとき

筆者はジェームズ・ダンに倣って(前掲論文、113)、「釈義」(エクセジーセス)と「解釈」(インタープリテーション)とを分けておきます。

釈義とは、私は聖書の文書をそのオリジナルな意味において、オリジナルな表現、オリジナルの文脈において意味を理解する試みであると考えています。それに対して、解釈とは、便宜的に言えば、そのオリジナルな意味にできるだけ付け加えることも削除することもせずに、解釈者の生きている時代の言葉、考え方、表現の仕方に言い替える試みです。

いわば、「釈義」とは近代聖書学が始まって以来考えられてきた歴史的・文法的手法をもってオリジナルな意味を探し求める努力です。そして「解釈」とは、読者がその時代に理解できる枠組み・表現・考え方を用いてテクストの意味を理解できるように、その意味を引き出し表現することです。釈義の方が技術的で精密な研究の積み重ねで、解釈は時代性・アーティスティックな要素が求められます。

まず初めに、この二つを分けて考えることは、キリスト者が旧約聖書を読むときに特に大切でしょう。私たちが旧約聖書を旧約聖書としてオリジナルな文脈とセッティングで釈義したとしても、キリスト者である限り、その解釈においては、福音というフィルターでもう一度その意味を篩わなければなりません。そうして現れるのがキリスト者としての解釈です。 続きを読む

ピーター・エンズ著『聖書は実際どう働くか』(1)

このブログでもたびたび取り上げてきた人物に、アメリカの旧約聖書学者ピーター・エンズがいます(たとえばこの過去記事を参照)。私は彼の著作からいつも大きな刺激を受けています。今年の2月に出た最新作How the Bible Actually Works(聖書は実際どう働くか)も早速読んでみましたが、期待に違わぬ充実した内容でしたので、紹介してみたいと思います。

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Image from peteenns.com

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悪魔の解釈学(1)

そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤへ送り出した。ふたりはベレヤに到着すると、ユダヤ人の会堂に行った。ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。
(使徒行伝17章10-11節)

「神がデスヴォイスで歌うとき」4で取り上げた、1980年代のアメリカで起こった反ロック/メタル運動には、保守的キリスト教会も深く関わっており、今日の日本のキリスト教会にとってもいろいろと意義深い教訓を残していると思います。そこで、キリスト者が一般社会、特に大衆文化の中にある悪魔的イメージをどう捉えるべきかについて考えてみたいと思います。

アメリカの社会学者Deena Weinsteinのヘヴィーメタルに関する先駆的研究によると、メタルの批判者は、ヘヴィーメタルは若者に有害な思想、すなわち自殺教唆、暴力、性的逸脱、悪魔主義等を吹き込んでいる、と主張しましたが、その実例として引用された曲のタイトルや歌詞はしばしば大きくこじつけて解釈されました。 続きを読む

進化(深化)する信仰(2)

前回の記事)

今年に入って、レイチェル・ヘルド・エヴァンズの新刊Inspired(『霊感された書』)が発売されることを知り、早速予約注文して読みました(正確に言うと、多くの部分はキンドル版の音声読み上げ機能を使って通勤途中に聴いたのですが)。

今回彼女が取り上げた主題は、ずばり聖書です。本書はこんな書き出しで始まります。

昔むかし、あるところに、魔法の本を持った少女がいました。――

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「パウロ中心主義」を超えて

福音主義神学会の全国研究会議における、「信仰のみ」についての発表で提起した問題の一つは、聖書のすべてをパウロ神学のレンズを通して読もうとする傾向についてでした。

「信仰と救い」というテーマが議論されるとき、しばしばパウロ書簡における「信仰義認」をめぐって議論がなされます。パウロによる信仰義認論の解釈、およびパウロ神学におけるその位置づけが聖書学の重要課題の一つであることはいうまでもありません。けれども、その一方で、信仰の問題について、パウロ以外の新約文書、とりわけ大きな割合を占めるナラティヴ(福音書・使徒行伝)による証言が不当に軽視されてきたのではないだろうかと思います。

たとえば福音書において「信仰と救い」という主題が語られるとき、福音書のテクストが語ることにじっくりと耳を傾ける前に、条件反射的に福音書をパウロ的な信仰義認論の枠組みの中で解釈しようとする、ということが往々にしてなされているのではないでしょうか? 続きを読む