クリスマスの星

イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。 ・・・彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。(マタイの福音書2章1-2、9-10節)

東方の博士たちが星に導かれて幼子イエスを拝みに訪れた話は、聖書にあるクリスマスの物語の中でも、ひときわ印象的なエピソードです。

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教会の降誕劇などでも馴染み深いこの話ですが、一般に知られているストーリーには、聖書に書かれていない要素もあります。 続きを読む

世代から世代へ:現代イスラエルのメシアニック賛美

その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。(黙示録7章9-10節)

私は、さまざまな言語、スタイルで神を賛美する音楽を聴くのが好きです。世界には実にさまざまな言語、種類の音楽があり、それは神が造られた世界の多様性、神の美の多様性とともに、上の黙示録の箇所にあるような、神が贖われた民の多様性を実感させてくれます。

今回は現代イスラエルのメシアニック・ジュー(ナザレのイエスをメシアと信じるユダヤ人)によるヘブライ語の賛美を紹介します。 続きを読む

Even Saints Get the Blues(信仰者と嘆きの歌)(3)

その1 その2

アメリカ・ミシシッピ州クラークスデール。ハイウェイ61号線と49号線の交わる十字路に、一人の男が立っていた。時刻は真夜中を回ろうとしていた。男は手に使い古したギターを持ち、何かを、あるいは誰かを待っていた。男の名はロバート・ジョンソン。彼は悪魔と契約を結ぶためにそこに立っていた。おのれの魂を売り渡し、それと引きかえに、ほかの誰にもまねのできないギターの演奏技術を手に入れるために――

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20世紀のポピュラー音楽史に名を残すブルース・マン、ロバート・ジョンソンをめぐるこの「クロスロード伝説」はあまりにも有名ですが、そこには数々の曖昧さが残されています。まず、この逸話の主人公はロバート・ジョンソンではなく、もともとはトミー・ジョンソンという別のブルース・マンの話として語り継がれていたものだといいます。しかしロバートは、自らの超絶的ギターテクニックを売り込むために、すすんでこの「悪魔に魂を売ったギタリスト」のイメージを広めていったのかもしれません。

また、この伝説と絡めて語られることの多いジョンソンの「クロスロード・ブルース」の歌詞には、悪魔はいっさい登場しません。それどころか、この歌の中でジョンソンは十字路にひざまずいて、主なる神に祈りを捧げているのです。 続きを読む

Even Saints Get the Blues(信仰者と嘆きの歌)(1)

「詩篇はブルースである」

音楽を「キリスト教音楽」と「それ以外の音楽」に分けるのは好きではありません。しかし、あえて「世界でいちばん有名なクリスチャン・バンドは?」と聞かれたら、私なら「U2」と答えるでしょう。ここで「クリスチャン・バンド」とは、「キリスト教信仰に関わる主題や価値観に基づいた歌を歌うバンド」という、非常に広い意味で言っています。U2はいわゆるコンテンポラリー・クリスチャン音楽業界(CCM)の枠にははまらないバンドですし、すべての曲が信仰を題材にしているわけでもありませんが、彼らの歌には信仰に裏打ちされた歌詞を持つものも少なくありません。これらの歌は「クリスチャン・ミュージック」という気負いなしに、信仰者としての葛藤や疑いもストレートに表現しているがゆえに、職業的CCMにありがちな「嘘くささ」や「説教くささ」がなく、逆説的に非常に真実に心に響いてきます。

リードボーカルでバンドのフロントマンでもあるボノはクリスチャンで、その信仰をしばしば公にしていますが、彼は欽定訳聖書の詩篇のために序文を書いたことがあります。その中に「詩篇はブルースである」という言葉があって、深く頷いてしまいました:

12歳の時、僕はダビデのファンだった。彼は身近に感じられた・・・ちょうどポップ・スターが身近に感じられるように。詩篇の言葉は宗教的であると同時に詩的でもあり、彼はスターだった。とてもドラマティックな人物だ。なぜなら、ダビデは預言を成就してイスラエルの王となる前に、ひどい目にあわなければならなかったのだから。彼は亡命を強いられ、国境地帯の誰も知らないような町にある洞窟の中で、エゴが崩壊し、神から見捨てられるような危機に直面した。でもこのメロドラマの面白いところは、ダビデが最初の詩篇を作ったと言われているのはこの時だと言われているということだ。それはブルースだった。僕にはたくさんの詩篇がブルースに感じられる。つまり、人が神に叫んでいるということだ―「わが神、わが神。 どうして、私をお見捨てになったのですか。 遠く離れて私をお救いにならないのですか。 」(詩篇22篇)

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ボノ(Image by Phil Romans via Flickr)

嘆きの詩篇

旧約聖書に収められている150の詩篇には、さまざまな種類のものがあります。もちろん神への賛美や感謝なども含まれていますが、その中でもっとも多いのは、実は「嘆きの詩篇」と呼ばれるものです。詩篇の作者はしばしば敵にいのちを狙われ、自分の罪に打ちひしがれ、絶望の淵をさまよい、夜を徹して神に向かって泣き叫びます。時には敵に対する怒りや憎しみをむき出しにした呪いの表現さえ見られます。

わたしは嘆きによって疲れ、
夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、
わたしのしとねをぬらした。
わたしの目は憂いによって衰え、
もろもろのあだのゆえに弱くなった。
(詩篇6篇6-7節)

これはまさに、「古代イスラエルのブルース」と言ってよいでしょう。

興味深いのは、詩篇は古代イスラエルの公の礼拝によって歌い継がれてきた、いわば公式の賛美歌集のようなものだったということです。神の民の公の集まりで、嘆きの歌がしばしば歌われていたということはとても示唆に富んでいます。

嘆きの詩篇は、一見するとまったく「信仰的」「敬虔」には見えません。しかし、そこには信仰者にとって欠くことのできない、非常に大切な要素が見られます。それは真実を語ることです。

私たちの生きているこの地には、悪と苦しみが満ち溢れています。神を信じていても、その現実から逃れられるわけではありません。そのような現実に直面したとき、私たちは苦しみ、嘆き、うめき、泣き叫びます。人や時には神に対する激しい怒りにさいなまれることさえあります。聖書は、そのような私たちの内側に存在するネガティブな感情を否定しません。それどころか、そのような感情をありのままに神の前に注ぎだしていくことをすすめています。嘆きの詩篇はまさにそのような、信仰者の現実を直視した真実の歌ということができるでしょう。

過去記事にも書きましたが、神に対して、自分に対して正直であること、真実であることは、聖書的な信仰の重要な特質です。もちろん聖書は悲惨な現実を超えた救済の希望について語り、またそのような救いを待ち望みつつ、苦しみの中でも神に信頼し続けることの大切さを教えます。実際、嘆きの詩篇には最後には神への信頼と賛美で終わるものが少なくありません。しかし、詩篇の記者は賛美の前に嘆きの歌を歌う必要がどうしてもあったのです。聖書的な信仰とは、いまここに否定しがたく存在する苦しみから目を背けた現実逃避ではありません。

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振り返って、現代のキリスト教会はどうでしょうか?

詩篇に曲をつけて教会で歌われることは多いですが、嘆きの詩篇を歌っている教会はどのくらいあるでしょうか。より伝統的な教派では、詩篇全巻を特定の期間内に朗唱することがありますが、多くの福音主義プロテスタント教会ではそのような習慣は失われてしまっています。ましてや、信仰者の嘆きをテーマにしたオリジナル曲を歌う教会はほとんどないのではないかと思います。もしそうであるなら、教会は嘆きの言語を失ってしまったと言えるのではないでしょうか。

パウロは「泣く者と共に泣きなさい」と言いました(ローマ12章5節)。しかし多くの教会では、泣く者がいると、その人と共に悲しむというプロセスを経ないで、「泣いてはいけない。信仰を持ちなさい。疑ってはいけない。」と一足飛びにポジティブな結論に辿り着こうとすることが多いような気がします。たとえ善意から出ているものにせよ、そこにはともすれば皮相的な信仰に導き、安易な勝利主義を生み出していく危険性があると思います。クリスチャンの信仰にとって重要なのは、嘆きや悲しみをおおい隠し、敬虔そうな顔をして神を賛美することよりも、苦しみのただ中でも、嘆きが賛美へと変えられていく内面の変革を体験することなのではないでしょうか。そのためにはまず、自分の内面にある嘆きの歌を押し殺さないことが大切であると思います。

主よ、いつまでですか?

U2がライブの最後に歌う定番の曲に、「40」という歌があります。この曲はタイトルが示すように、詩篇40篇に基づいています。サビの”How long to sing this song?“(いつまでこの歌を歌わなければならないのですか)というフレーズは実際には詩篇40篇には出てきませんが、ボノはそれを詩篇6篇から取ったそうです。

「Yahweh」(これもいい曲です)と「40」

“How long?”という叫びは、1972年に北アイルランドで起こった「血の日曜日事件」を題材にした初期の代表曲「Sunday Bloody Sunday」でも聞かれます。この曲も「40」も1983年のアルバム「War」に収録されています。

How long
How long must we sing this song
How long, how long

いつまで
いつまで僕たちはこの歌を歌い続けなければならないのか
いったいいつまで?

そしてこの曲は次のように終わります:

The real battle just begun
To claim the victory Jesus won
On
Sunday Bloody Sunday

本当の戦いは始まったばかりだ
この血みどろの日曜日に
イエスが勝ち取った勝利を主張するために

いつまでですか?」という神への叫びには、目の前に厳然として存在する苦しみの現実と、そこから救い出してくださる神への信頼という、複眼的な信仰の視点が見られます。私たちはこの両者のバランスを大切にしなければならないと思います。

ボノは「いつまでこの(嘆きの)歌を歌わなければならないのですか?」と歌います。けれども現代の多くのキリスト教会では、そもそも嘆きの歌を歌いません。それどころか、教会では嘆きや葛藤の思いをそのまま口にすることは「不信仰」として忌避される場合さえあります。

どちらが真実な聖書的信仰を表していると言えるでしょうか?

主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。(詩篇13篇1節)

(続く)

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(6)

(シリーズ過去記事     

今回は第3部「イメージを反映させる」を概観したいと思います。この部分で著者ライトは、第2部で提示したようなキリスト教信仰の要点に基づいて、今日の私たちがクリスチャンとして生きるとはどういうことなのかについて語っていきます。

すでに見たように、第2部でライトはクリスチャンの世界観と、クリスチャンが語る物語(救済史)を提示しました。世界観はいわば舞台設定であり、救済史はその舞台上で展開していく神のドラマであると考えられます。しかし、聖書の物語は紀元1世紀の初代教会の物語で終わる、単なる過去の歴史物語ではありません。聖書の物語は今も継続中であり、私たちはその現在進行中の物語に参加するように招かれているのです。

つまり、現代の私たちがクリスチャンとして生きると言うことは、天と地が部分的に重なり合うダイナミックな世界観を持ち、その天地が最終的に合一する終末のビジョンを意識しつつ、聖書の物語を継続するようなかたちで生きるということなのです。

具体的に言うとそれは、教会という共同体、神の民に属する者として生きるということです。ライトによると、教会の目的は、神を礼拝することと、この世にあって神の王国のために働くことであり、そのために互いに交わりを持つことでもあります(15章)。

まず、教会は神を礼拝する民です(11章)。そこでは、神による創造と救いの物語として聖書が読まれ、イエスとその死の物語の告知として聖餐式が行われます。ライトによれば、礼拝もまた、天と地が出会う契機の一つなのです。また、教会は祈る民でもあります(12章)。特に主の祈りは、キリスト教が何であるかを端的に表す祈りとして重視されます。主の祈りは天と地の間を生きるイエスの生き方にならうという意思表明です。そしてクリスチャンの祈りとは、天と地の狭間に立って、その二つが永続的に重ねられることを求めてうめくことでもあります。

ライトは教会の中心的目的は個人の霊的成長でも究極的救いでもなく、「宣教(ミッション)」であると言います。教会は福音を宣べ伝える共同体なのです。では「福音」とは何でしょうか? ライトによると、これは神がイエスの死と復活においてご自分の王国を開始されたという、すでに起こったことに関する「良い知らせ」を意味します(290-291ページ)。そのメッセージに対して、信仰と悔い改めをもって応答する人々は、神が全世界を正そうとするプロジェクトの先駆けとして「義とされる(正される)」―─これがパウロの言う「信仰義認」の意味であると、ライトは言います(295ページ)。バプテスマを受けて教会に加わるとは、神の創造から新しい創造に至り、イエスの死と復活が中心であるような神の物語の中に参加し、神のプロジェクトの一部となることなのです(303ページ)。

聖書の物語はどのような結末を迎えるのでしょうか? それは、これまで断続的かつ部分的にしか重なってこなかった天と地が最終的に完全に重なり合い、神の栄光がすべてをおおいつくすことです(16章)。ライトによると、「死後天国に行く」ということは、聖書の物語の結末ではありません。聖書の物語の結末は、私たちが肉体を脱ぎ捨てて天にある霊的楽園に昇っていくことではなく、新しいエルサレムが地上に降りてきて、神が、肉体をもって復活した人々と共に住まわれることです(黙示録21章1節以下)。「復活」とは、人が死んでキリストともに過ごした後(いわゆる「死後のいのち」)、新しい肉体をもってよみがえることであり、ライトはそれを「死後のいのちの後のいのち」と呼んでいます(306ページ)。そしてこの復活への信仰こそがキリスト教の終末的希望の中心であるといいます。聖書の物語の結末では、この物質的世界は見捨てられるのではなく造り直され、復活した人々は新しい被造物世界に住んで神と共にそこを治めることになります。これこそ、聖書の物語が指し示すクリスチャンの救いのビジョンなのです。

このようなキリスト教の希望は、第1部でライトが取り上げた4つの「声の響き」、すなわち義への希求、霊的なことがらへの渇望、人間関係への飢え、美における歓びという、人間の基本的な求めに応えるものであると言います(16章)。神は世界に義をもたらそうとしており、教会はイエス・キリストの福音と聖霊の力によって、その義の実現のために地上で働くように召されています。またイエスに見られるような神と人との関わりに生きる生き方に進むように召され、新しい創造の美を先取りして祝うように召されているのです。

クリスチャンは、このような終末の希望を抱きつつ、今を生きています。クリスチャンであるとは、「私たちの前に開かれた新しい世界、神の新しい世界のただ中を、イエス・キリストに従って歩んでいく」ことなのです(334ページ)。

(続く)

C・S・ルイスの「七つの大罪」?

C・S・ルイスは20世紀の最も影響力のあったクリスチャン著述家の一人と言えるでしょう。映画にもなった児童文学の傑作「ナルニア国ものがたり」シリーズをはじめ、『キリスト教の精髄(Mere Christianity)』、『悪魔の手紙(The Screwtape Letters)』などを読まれたことのある方も多いと思います。

ルイスは英国国教会に属していましたが、教派を超えて、特に英米の福音主義キリスト教界に今日に至るまで強い影響力を持ち続けています。彼の死後40年以上も経った2005年にルイスはアメリカ福音派の雑誌『クリスチャニティ・トゥデイ』の表紙を飾りました。その号の「C. S. Lewis Superstar」と題されたカバーストーリーでは、ルイスを「福音派のロックスター的存在」と形容しています。

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ところが、福音派におけるルイスの絶大な人気とは裏腹に、彼のキリスト教信仰は標準的な福音主義プロテスタントのそれとは必ずしも一致しません。それどころか、保守的な福音派のクリスチャンなら戸惑いを隠せないような側面が彼の信仰にはあったのです。

フランク・ヴィオラは「C・S・ルイスのショッキングな見解」と題するブログ記事を書いています。その中で彼はルイスが信じていた6つの「ショッキングな」ことがらを列挙しています。

1.ルイスは煉獄の存在を信じていた。

2.ルイスは死者への祈りの有効性を信じていた。

3.ルイスは地獄に堕ちた者が死後に恵みへと移行することは可能であると信じていた。

4.ルイスは全てのクリスチャンが禁酒すべきだという考えは間違っていると信じていた。

5.ルイスはカトリックのミサは聖餐の妥当な理解であると信じていた。

6.ルイスはヨブ記は史実ではなく、聖書は誤りを含むと信じていた。

ヴィオラ自身が述べているように、これらのルイスの見解がすべてのクリスチャンにとって「ショッキング」というわけではありません。しかし、これらの項目は、多くの保守的な福音派クリスチャンにとってはかなり受け入れがたいものではないかと思います。

ヴィオラが挙げているのは以上の6項目ですが、私はこれに7番目を付け加えたいと思います。

7.ルイスは生物の進化を信じていた。

神学的には乱暴な表現であることを承知であえて言うなら、これらの7ポイントは福音派にとってのルイスの「七つの大罪Seven Deadly Sins」と言ってもよいかもしれません

ちなみに「七つの大罪」とは、カトリック教会において、悔い改めなければ永遠の死に至るとされる七つの罪のことで、伝統的に「傲慢」「嫉妬」「憤怒」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」がこれに当たります。ただし、ここで述べているルイスの「七つの大罪」はあくまでもアナロジーですので、これらのカトリックの概念に対応しているわけではありません。「福音派のクリスチャンにとって、ルイスのキリスト教信仰の正統性を疑問視させる根拠となりうるような7つの信仰内容」程度に受け止めていただければ幸いです。

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さて、このようなルイスの「ショッキングな見解」について、どう考えるべきでしょうか?この記事の趣旨は上に列挙したルイスの考えが教理的に正しい「聖書的な」ものかを吟味することではありません。むしろここで提起したいのは、上で述べたような神学的見解を持っているからといって、福音派のクリスチャンはルイスのキリスト教信仰の正統性を否定すべきなのか?(通俗的な表現を使えば、ルイスは天国に行けたのか?)という問題です。言い換えれば、これら(福音派にとって)非正統的な信仰内容は、ルイスのいわば「死に至る罪」なのでしょうか?

ここで、ヴィオラのコメントに耳を傾けてみましょう。

(このような「ショッキングな見解」について記事にする理由は)これらの人々が今日の福音派の大多数が眉をひそめるような意見を持っていたからといって、キリストのからだに対して彼らの貴重な思想がおこなった貢献が覆されたり否定されたりすることはない、ということを示すことにある。

不幸なことに、多くの福音主義者は、いわゆる教理的誤りについて、キリストにある兄弟姉妹をすぐに軽視したり、罵倒さえしたりする。それらの兄弟姉妹たちが歴史的正統信条(使徒信条、ニカイア信条など)を堅持していたとしても、である。そのような軽視や罵倒は神の国に属する者たちの誰にも益することがなく、いつでも避けることができるものである。

ここでヴィオラは「歴史的正統信条」について触れていますが、これを堅持しているということは、キリストと使徒たちに起源を持ち、二千年にわたって受け継がれてきた正統的信仰の中核的部分を共有しているということです。これらの信条は、教派を問わず世界中のすべての正統的キリスト教の最大公約数的な信仰内容を要約したものであると言えます。ここでは、その一つとして「使徒信条」を取り上げたいと思います。

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。
アーメン。

さて、この信条の内容と上で述べたルイスの「七つの大罪」とを比較してみると、ルイスの「ショッキングな見解」のどれ一つとして、使徒信条の内容と矛盾するものはないと言えます。おそらくルイスは、何の留保もなく使徒信条を告白していたことでしょう。

このことは、ルイスの信じていたことがすべて正しいということではありません。ルイスと他のクリスチャンとの間には多くの解消しがたい意見の相違があり、ルイスの信じていたことの少なくともいくつかは間違っている可能性もあります。しかし、あらゆる点で完全無欠な教理の体系を持つことは誰にもできません。大切なことは、ルイスの信仰は歴史的正統キリスト教の中核的信仰告白とは何ら矛盾しないのであり、その意味で「正統的信仰」であったということです。つまり、ルイスが「教理」や「意見」のレベルでは多くの福音派クリスチャンと異なる部分を持っていたとしても、「教義」のレベルでは両者は同意することができるのです。(「教義」「教理」「意見」についてはこちらの過去記事をご覧ください。)

福音派のクリスチャンがルイスの神学的見解のすべてを受け入れる必要はありません。しかし、彼の「ショッキング」な見解を知って彼を異端視したり、彼の豊かな信仰的遺産から学ぼうとすることをやめてしまうのはたいへん不幸なことであると思います。むしろ、彼の一見違和感を覚えるような見解と向き合い、じっくりと吟味していくことによって、福音派自身の信仰を見つめなおしていく機会も与えられてくるのではないかと思います。

C・S・ルイスは「福音派」ではありません。しかし、彼はこれからも多くの福音派プロテスタントにとって「スーパースター」であり続けるでしょうし(偶像視するという意味ではなく、大きな影響を受けるという意味で)、それは福音派にとっても良いことであると思います。