聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿3)

シリーズ過去記事   2

③ヨハネの物語~聖なるものの受肉~

前回見たように「聖」とは「いのちを与えるもの」であり、「肉」は「生身のいのち」であるということですが、両者は「いのち」というキーワードにおいて重なりを持つものです。

イエス・キリストの受肉は、この「聖」と「肉」というふたつの概念が重なるものであると言えるでしょう。ヨハネは手紙の中でイエス・キリストの受肉を強調します。

神からの霊は、このようにして分かります。肉(新改訳2017では「人」)となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。(ヨハネの手紙第一4章2節)

こう命じるのは、人を惑わす者たち、イエス・キリストが肉(新改訳2017では「人」)となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。こういう者は惑わすものであり、反キリストです。(ヨハネの手紙第二7節)

ヨハネは福音書を「信じるため」「いのちを得るため」(ヨハネの福音書20章31節)に書きました。信じるとは、イエス・キリストに繋がり、神との関係を回復すること。ヨハネは救いを「永遠のいのち」という言葉で表します。イエス・キリストと繋がり、神からいのちをいただくこと、それがヨハネにとっての本当の「いのち」なのです。

ヨハネの福音書を「聖」「肉」「いのち」という三つのキーワードに焦点を当てて読んでいきましょう。

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受難週に聴いた音楽

教会暦では昨日が受難日でした。2年前のこの日に「受難日に聴いた音楽」という記事を書きました。そこではポーランドの作曲家クシシュトフ・ペンデレツキ「ルカ受難曲」を取り上げました。

今年の受難節も、イエス・キリストの受難について思い巡らしていましたが、今年はパッション2000のために作曲された受難曲を全部聴いてみようと思い立ちました。

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受肉と順応(クリスマス随想)

さだめたまいし 救いのときに
神のみくらを はなれて降り
いやしき賎の 処女(おとめ)にやどり
世人のなかに 住むべき為に
いまぞ生まれし 君をたたえよ

(讃美歌98番、2節)

今年もクリスマスの時期がやってきました。

クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う時です。キリスト教会は、このことを、神が人となった受肉のできごととして理解してきました。つまり、宇宙の創造主なる神が自ら人間となることによって、ご自分を人間に啓示されたのです。

神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。

(ヨハネ1:18)

しかし、神は抽象的・普遍的な意味で「人間」となられたわけではありません。そうではなく、「神のことば」(ヨハネ1:1、14)は特定の時代と地域に生きた、一人の個人として現れたのです。ナザレのイエスは紀元1世紀のローマ帝国支配下にあったパレスチナに生きた、一人のユダヤ人男性でした。彼は当時の一般のユダヤ人と同じ生活をし、同じ言葉を話しました。つまり、神は1世紀のパレスチナに生きた人々に理解できるような姿で、ご自分を啓示されたのです。

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信仰、理性、疑い、そして聖書

神学校で教えていると、多くの学生が知的な学びと信仰や霊性との間に葛藤を覚えるという現実に毎年直面します。神学や聖書学などの学びを通して自らの信仰を理性的に反省していくうちに、それまでの人生で育んできた信仰理解との間に齟齬や違和感を感じることがあります。また、これまで何の疑問も感じていなかったテーマについて、同じキリスト者の間でも多様な考えがあることに混乱を覚えることもあります。学べば学ぶほど聖書や神が分からなくなるということも起こってきます。

実はこれは珍しい現象ではありません。神学校とは少し環境が異なりますが、アメリカの福音主義キリスト教系大学における、同じような問題について、次のような記事があります。

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聖書プロジェクトBOOK

ずいぶん長い間更新が滞っていましたが、またぼちぼち投稿していこうと思います。

以前このブログで「聖書プロジェクト」について紹介したことがあります(こちら)。

聖書プロジェクトは聖書に関する有益な情報を簡潔なアニメーション動画で伝えてくれる、とても有益なサイトですが、この働きのもう一つの魅力として、聖書各巻の内容をひと目で見渡せるように工夫した「ポスター」が提供されていることです。これらのポスターは、聖書各巻の全体像をひと目で概観するためにたいへん便利です。

マルコ福音書の「ポスター」

これらのポスターは聖書プロジェクトのサイトから無料でダウンロードできますが(こちら)、この度これらのポスターが本になり、本日入手しましたので、ご紹介します。

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南野浩則師『聖書を解釈するということ』書評

今年の6月に南野浩則先生の聖書を解釈するということ―神のことばを人の言語で読む(いのちのことば社)が出版され、早速読んでとても感銘を受けました。

南野先生は福音聖書神学校で教鞭を執っておられ、私も福音主義神学会などでお世話になっている先生です。このたびクリスチャン新聞に私が書いた書評が掲載されましたので、同紙の許可を得てその全文を掲載させていただきます(クリスチャン新聞のリンクはこちら)。

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パンデミックを考える(2)

その1

パンデミックについての神学的考察、第1回目はジョン・パイパー著『コロナウイルスとキリスト』を取り上げました。

今回取り上げるのは、N・T・ライト著『神とパンデミック:コロナウイルスとその余波についてのキリスト教的省察 God and the Pandemic: A Christian Reflection on the Coronavirus and Its Aftermathです。

N・T・ライトについては、もはや紹介する必要もないでしょう。現在世界で最も影響力のある神学者・聖書学者の一人であり、このブログでもおなじみです。彼は今回のコロナ禍について何を語るのでしょうか? 続きを読む

パンデミックを考える(1)

ここ数ヶ月というもの、「コロナ」という言葉を見聞きしない日はありません。新型コロナウイルスの感染は世界中で爆発的に拡大を続け、今もその勢いは衰えを見せていません。この原稿を書いている時点で、世界の感染者が2千万人を突破しました。感染症がもたらす健康被害はもちろんのこと、それに伴う社会的、政治的、経済的影響は甚大で、世界の国々を大きく揺るがし続けています。

私たちの「日常」は一変してしまいました。そして、コロナ以前の「日常」に戻ることは、もうないのかもしれません。

キリスト教会ももちろん、この変化と無縁ではありません。多くの教会堂は閉鎖され、礼拝はオンラインやその他の手段で行われるようになっています。私が教えている神学校でも、これまでの授業はすべてオンラインで行われるようになりました。

しかし、私たちにとって本当に重要なことは、これまでの「活動」や「ミニストリー」をいかに継続していくか、ということではありません。より重要な問題は、信仰者としてこの「非常事態」にどのように向き合い、このパンデミックの世界にあってどのように神の召しに従って歩んでいくか、ということだと思います。

今回のコロナ禍はまさに世界規模のできごとですので、これまでに世界中のキリスト者が様々な考察を発表してきています。日本国内でも、各キリスト教雑誌ではコロナ禍特集を組み、何冊かの書籍が出版されています。その内容も、神学的考察から実践的アドバイスまで多岐にわたります。

そんな中にあって、私も自分なりにいろいろと思うことはありましたが、それをなかなかこのブログ上で公表することができませんでした。

一つには、教会と神学校におけるコロナ禍への実際的な対応に追われて十分に考えを深める時間が取れなかったことがありますが(こちらを参照)、より大きな理由は、この問題があまりにも大きすぎたからです。

私たちにとって今回のパンデミックは現在進行中のできごとであり、まだその渦中にある状況です。現在も感染は拡大中ですし、今後第二波、第三波が続く可能性は大いにあります。感染の終息がいつ訪れるのか、さらにその傷跡から世界が完全に回復するまでどのくらい時間がかかるのか、誰にも予測できません。

日々めまぐるしく移り変わる状況の中で、一個人が何か確定的なことを主張できるとは思いません。そのような状況においては「語らない」「沈黙する」ことが賢明な選択肢である場面もあります。しかし、たとえ不完全なものであったとしても、それを言葉にしていくことによって、自らの考えを深め、他の人々との対話のきっかけになればと思います。それに結局のところ、私たちの思想と実践は切り離すことはできません。たとえ未完成のものであっても、私たちは現時点でできる限り考えを深めたら、そこから一歩を踏み出すしかないのです。

そういうわけで、これから綴っていくのは、パンデミックのただ中で生まれた暫定的な考察に過ぎません。何年か後にすべてが落ち着いた時に振り返ったら、また別の考えが生まれるかもしれません。できれば、ゆるい連載の形で何回か続けていくことができたらと思います。 続きを読む

物語神学とキリスト者の生(藤本満師ゲスト投稿1)

当ブログではもうおなじみの藤本満先生ですが(過去記事はこちらこちらを参照)、このたび神学的人間論というテーマで、シリーズで投稿していただけることになりました。今回はその第1回をお送りします。

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神の像に創造され、キリストの像に贖われる
――キリスト者の「生」と人間論」の今日的諸課題――

2020年5月に福音主義神学会〔東部)で、このテーマで講演をさせていただく予定でした。それは11月に開催予定の学会全国研究会議が「キリスト者の成熟」であるからです。とりあえず、私の講演は来年に21年に延期となりましたが、今回用意したものを東部の許可を得て、山﨑ランサム和彦先生のブログに掲載させていただくことにしました。

まだ全部まとめていません。書きやすいところから書き始めました。4つ論考を掲載の予定ですが、

① 物語神学とキリスト者の生
② ピスティス・クリストゥ論争とキリストの像
③ 「神の像をゆがめて用いるとき」
④ 土の器と神の像

です。4つの関連性は必ずしも一貫していません。そこで「諸課題」としました。 続きを読む