物語神学とキリスト者の生(藤本満師ゲスト投稿1)

当ブログではもうおなじみの藤本満先生ですが(過去記事はこちらこちらを参照)、このたび神学的人間論というテーマで、シリーズで投稿していただけることになりました。今回はその第1回をお送りします。

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神の像に創造され、キリストの像に贖われる
――キリスト者の「生」と人間論」の今日的諸課題――

2020年5月に福音主義神学会〔東部)で、このテーマで講演をさせていただく予定でした。それは11月に開催予定の学会全国研究会議が「キリスト者の成熟」であるからです。とりあえず、私の講演は来年に21年に延期となりましたが、今回用意したものを東部の許可を得て、山﨑ランサム和彦先生のブログに掲載させていただくことにしました。

まだ全部まとめていません。書きやすいところから書き始めました。4つ論考を掲載の予定ですが、

① 物語神学とキリスト者の生
② ピスティス・クリストゥ論争とキリストの像
③ 「神の像をゆがめて用いるとき」
④ 土の器と神の像

です。4つの関連性は必ずしも一貫していません。そこで「諸課題」としました。 続きを読む

受難日に聴いた音楽

今日はイエス・キリストの十字架の死を記念する受難日(Good Friday)です。新型コロナウイルスの感染拡大に伴う社会的混乱によって、今年の受難日は例年とは全く違う状況で迎えることになりましたが、それだけにイエスの苦しみと死の意味について、深く考えさせられる受難日となりました。

昨年のレントの時期に書いた記事(「受肉というスキャンダル」)でも書いたように、レントと受難週にはバッハのマタイ受難曲をよく聴いてきました。けれども今年聴いたのは、つい先日(3月29日)亡くなったペンデレツキによる「ルカ受難曲」でした。 続きを読む

[リソース紹介] The Bible Project

先週、シンガポールで開催されたアジア神学協議会(ATA)の総会に出席してきました。今回のテーマは「未来の教会:その神学的応答 The Future Church: A Theological Response」で、次世代に対する神学教育のあり方について議論がなされ、多くのことを学ばされました。

今回フォーカスが当てられたのは、特にミレニアル世代(1980年代はじめから1990年代半ばまでに生まれた世代)です。(1990年代中盤以降に生まれたさらに若いポストミレニアル世代もいますが、今回議論の中心となったのはミレニアル世代でした。)ミレニアル世代はインターネットと共に育った世代であり、スマートフォンやソーシャルメディアが生活の一部になっています。彼らはポストモダニズムの中で産声をあげた最初の世代であり、Leonard Sweetの言うEPICExperiential, Participatory, Image-driven, Connected)、つまり体験と参加とイメージとつながりを重んじるポストモダン文化の中に生きています。

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ピーター・エンズ著『聖書は実際どう働くか』(2)

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随分間が空いてしまいましたが、ピーター・エンズの最新刊、『聖書は実際どう働くか』についての紹介記事の続きをアップします。前回、聖書は解答を与えるのではなく知恵を与えるというエンズの主張を見ました。今回は、聖書の中に見られる知恵の表れの一つについて見ていきます。それは、より新しい時代のテクストが古い伝統を新しい状況の下で再解釈する現象です。

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聖書を「聴く」ということ

「聖書を読む」というと、どんな情景をイメージするでしょうか。多くの人は、一人で聖書を開いて黙読する様子を思い浮かべるのではないかと思います。

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しかし、このような「聖書の読み方」は、歴史的に言えば比較的最近に出てきたものです。現代の私たちは簡単に個人で聖書を所有して、好きな時に好きな場所で読むことができます。しかし、神の民の歴史の中で多くの時代には、聖職者のような一部の人間を除いて、大多数の人々は自分一人で聖書を読むことはありませんでした。昔は書物は高価で個人で所有することは困難でしたし、多くの人々はそもそも読み書きができませんでした。古代世界の文化はテクスト中心ではなく、口頭のコミュニケーションが中心でした。彼らにとって聖書に親しむ唯一の方法は、教会で聖書が朗読され、解き明かされるのを「聴く」ことだったのです。

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『聖書信仰とその諸問題』への応答7(藤本満師)

(過去記事      

藤本満先生による寄稿シリーズの第7回をお送りします。

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7 主イエスが旧約聖書を用いるとき

第7回、8回目となる二つの論考は、『聖書信仰とその諸問題』に掲載されている鞭木由行氏「キリストの権威と聖書信仰」をきっかけとして記しています。そして、筆者の応答は、1981年のAnglican Evangelical Assemblyで発表されたジェームズ・ダンによる「聖書による聖書の権威」(The Authority of Scripture According to Scripture, Churchman, 1983, 104~122, 201~225 から多くを援用しています。

この講演論文でダンは「聖書(新約)は聖書(旧約)をどのように取り扱っているか」を検証しています。そしてダンが到達する結論は、聖書を第一とする福音派がこの課題を取り扱うとき、聖書を重んじるという自己意識を具現するために、プリンストン神学に見られるような神学の演繹的結論ではなく、聖書は聖書をどのように語り、用いているのかを具体的に聖書の中で検証することが求められると言います。

この課題におけるその後の研究はさらに重厚なものになっていますが、基本的に同じ土俵で同じような相手にぶつかっている、つまり、イギリス福音主義の聖書学者が米国のシカゴ声明(背後のウォーフィールド型聖書信仰)を問題視する諸点は、変わらないのが現実です。筆者は、ジェームズ・ダンの論考に共感を覚えて、以下を記していることを先に明らかにしておきます。 続きを読む

Eshet Chayil(勇気ある女性)

5月4日にレイチェル・ヘルド・エヴァンズが37歳の若さで亡くなりました。彼女がここ2週間ほど昏睡状態に陥って危険な状態にあったことは知っていて祈っていましたが、それでも彼女のあまりに早い死に大きなショックと悲しみを覚えました。

過去記事()でも取り上げたように、私は長年彼女のファンでした。彼女のブログをフォローし、新しい本が出るたびに手に入れて読んできました。

レイチェルは私の個人的知り合いではありませんでした。実際に会ったことはもちろん、メール等でのやりとりをしたこともありません。けれども、作家であれミュージシャンであれ、自分が賞賛し、そのアウトプットをリアルタイムでいつも楽しみにしてきた同時代人の死に触れる時、個人的な知り合いの死とはまた違った独特の悲しみと喪失感があります。最近読んだある本で、それは、もしかしたらその人物と持つことができたかもしれない友情が失われる切なさであると書かれていて、深く納得しました。ユーモアと機知に富んだ彼女の文章にもう触れることができないと思うと、とても寂しい気持ちです。

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