バイオロゴス・カンファレンス・レポート(クリスチャン新聞)

3月末に参加したバイオロゴス・カンファレンスについて、クリスチャン新聞の依頼で執筆したレポートが、5月21日号に掲載されました。同紙の許可を得て、その内容をブログでも掲載します。先に投稿した記事とも部分的に重なりますが、興味のある方はお読みください。

DebHaarsma

バイオロゴスのデボラ・ハースマ代表による講演

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科学と聖書(1)

3月29日(水)から31日(金)にかけて、米テキサス州ヒューストンで開催されたバイオロゴス・カンファレンスに参加して来ました。

バイオロゴス(BioLogos)とはアメリカ国立衛生研究所(NIH)の所長であり、ヒトゲノム計画の指導者でもあったフランシス・コリンズ博士によって2007年に設立された、科学とキリスト教信仰の融和を追求・促進することを目的とした団体です。 続きを読む

ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(7)

その1 その2 その3 その4 その5 その6

これまで、『確実性の罪(The Sin of Certainty)』に基づいて、聖書的な信仰のあり方について探求してきました。著者のエンズによると、聖書が証しする信仰とは、神についての正しい思考にこだわるものではなく、不確実性の中でも神に信頼するということでした。なぜこのことが大切なのでしょうか?それは、私たちの神についての確信が揺るがされるようなできごとが人生にはしばしば起こるからです。エンズはそのようなできごとを否定したり避けたりしようとするのではなく、むしろそれらが語りかける内容に耳を傾けることをすすめます。

エンズは第6章で、2013年の夏に自身が運営するブログ上で行なったアンケート調査について書いています。彼はブログの読者に次のような質問を投げかけました:

あなたがクリスチャンであり続けることの最大の障害となっているものを一つ二つ挙げてください。あなたが繰り返しぶつかる障害物は何ですか?そもそもなぜ信仰を持ち続けているのかと疑問に思うような、あなたにつきまとって離れない問題とは何ですか?

これらの質問に対して、エンズは数多くの率直な(しばしば匿名の)回答を受け取りました。それらは、大きく分けて次の5つのカテゴリに分けられるものだったと言います: 続きを読む

ピーター・エンズ著『確実性の罪』 を読む(4)

その1 その2 その3

今回は、『確実性の罪(The Sin of Certainty)』の第2章”How We Got Into This Mess”(私たちがどのようにしてこの混乱状態に陥ったか)を取り上げます。

前回見たように、エンズは現代キリスト教の抱える大きな問題点の一つは、「神への正しい信仰」と「神についての正しい思想」を同一視する考え方にあると主張します。繰り返しますが、エンズは神についての正しい理解を知的に追求していく営みを否定しているわけではありません。問題はそれをキリスト教信仰の中心に据えようとする態度です。

けれども、どうしてこのような信仰的態度が生じてきたのでしょうか?エンズはアメリカの歴史において、聖書はキリスト教信仰の知的基盤(たとえば正確な科学的・歴史的知識)を提供するということに関しては長い間共通の理解がありましたが、19世紀になってそのようなコンセンサスを揺るがすようなできごとが起こってきたといいます。 続きを読む

確かさという名の偶像(21)

(シリーズ過去記事 第1部          10 第2部 11 12 13 14 15 第3部 16 17 18 19 20

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回も前回に引き続き、第10章「実体的な希望」を取り上げます。

前回取り上げた部分でボイドはマルコ11章24節(「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」)などの箇所に見られるイエスの教えは、祈る時に心理的な確信を持ちさえすれば、その祈りがかなえられるという意味ではない、と論じました。確かにこれらの箇所でイエスは信仰の重要性を語っていますが、それは人格的契約covenant関係に基づく信仰なのです。

それでは、具体的に信仰を持って祈るということは、どういうことを意味しているのでしょうか?ボイドはそれは、想像力(イマジネーション)を使って、祈り求めていることがらがすでに与えられているさまを思い描くことだといいます。

信仰と想像力

まずボイドは、私たちが思考するということはどういうことか、について論じます。多くの人はほとんど意識することはありませんが、実際に私たちがものを考えたり、過去のできごとを思い起こしたり、未来のことを予想したりする時には、私たちは単なる文字情報を繰り返しているのではなく、現実世界での体験を想像力によって再現しているのだ、と言います。

たとえば「今日朝食に何を食べたか思い出してください」と言われてそのようにするとき、私たちは「トースト、卵、コーヒー」といった文字情報を頭に思い浮かべているのではなく、実際に私たちが食べた朝食の様子をビデオをリプレイするように、頭の中で想像しているのです。そこには視覚的イメージだけでなく、音や匂いや味、口の中での感触なども含まれているかもしれません。

ボイドはそのようにして想像力の中で私たちが体験を繰り返す働きのことを「再現するre-present」と言います。(英語でrepresentという言葉は「示す」「思い描く」と言った意味がありますが、ボイドは「再び思い描く」というニュアンスを強調するためにre-presentと綴ります。日本語の「現」という言葉はこのニュアンスをよくとらえていると思います。)私たちが過去や現在や未来のものごとを考える時、私たちは常に想像力を使ってさまざまな体験を脳の中で再現しているのです。これらの「再現」は多くの場合無意識の内に、自動的に行われます。

そしてボイドによると、この想像力によって再現されたイメージが具体的で鮮明なものであればあるほど、それは私たちに強い感情的インパクトを与え、したがって私たちの行動やそのための動機づけに影響を及ぼします。そして、このことは私たちが信仰をどのように行使するかに関わってくるのだとボイドは言います。

ボイドは新約聖書でしばしば、私たちの思いをコントロールすることについて書かれていることにふれ(ローマ12章2節、2コリント10章3-5節、ピリピ4章8節など)、これらの箇所で命じられているのは、真なる情報を記憶して唱えること(それも大切ですが)だけでなく、私たちの脳内でほとんど無意識の内に再現される具体的なイメージをコントロールすることだといいます。なぜなら、私たちの実際の行動、したがって生き方に最も強い影響力を及ぼしているのは、頭で覚えた知的情報ではなく、そのようなイメージだからです。私たちが信仰者としてキリストの似姿につくり変えられていくためには、私たちはしばしば外界からの刺激に対して反射的に脳の中に起こってくるイメージをコントロールすることを覚える必要があるのです。

マルコ11章24節に戻りますと、ボイドはここでイエスが言われているのは、私たちが祈り求めているものごとを、あたかもそれがすでに手元に与えられているかのように頭の中で思い描くことだと言います。

これは前回ボイドが批判していた、確実性追求型信仰モデルによる解釈とどう違うのでしょうか?確実性追求型の信仰では、祈り求めたことが必ず応えられるという確信を持つことが重視されますが、ボイドの信仰理解ではそのような確信を持つことが目的ではありません。そうではなく、そのポイントは想像力を働かせて具体的なイメージを再現することにより、祈り求めていることがらを実現しようと忍耐強く努力していくために必要な動機づけを得るということにあります。確実性追求型の信仰では、祈りが応えられるという心理的確信を持つことによってそのことが(魔術的に)実現すると考えますので、確信さえあればそのために努力する必要はありません。

また、確実性追求型の信仰では、祈りが応えられるかどうかは、祈り手がどれだけ心の中で強い確信を持つかによってきまります。これは基本的に神との人格的関係を軽視した、法律的契約contract概念に基づく理解といえます。それに対して、想像力を用いて祈り求めているものを再現すること自体は、祈りが応えられることを保証するものではありません。そうではなく、それは神との人格的契約covenant関係の中で、不確実性の中でも、神に対して忠実に歩んでいくための動機付けに過ぎないのです。しかし、私たちが想像力を働かせて自分の思いをコントロールするようになれば、それは私たちの行動パターンを大きく変える力となっていきます。

ボイドはこれに関してヘブル11章1節を取り上げます:

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

ここで口語訳聖書や新共同訳聖書が「確信」、新改訳聖書が「保証」と訳しているギリシア語はhypostasisですが、ボイドはこれは「実体substance」あるいは「実体化substantiating」と訳すべきだと主張します。つまり、信仰とは強い心理的確信を持つことではなく、望んでいることがらを心の中で「実体化」することに他ならないといいます。(他の学者はhypostasisを”reality,” “actuality,” “actualization”などと訳すこともあります。)またボイドは口語訳で「確認」と訳されているelegchosを証拠に基づいた「信念conviction」と訳します。このように考えると、これは前回見たヤコブ書のことばと同じことを言っていることが分かります。

本書で繰り返し述べてきたように、信仰とは確実性を追い求めることではない。それは不確実性のただ中で忠実であり続けようとすることである。・・・私たちが信仰を働かせるというのは、神の約束を実体的なリアリティ(hypostasis)として想像力を持って受け止めることによるのであり、その実体が今度はそれがそのようになるという信念(elegchos)を生み出す。それによって動機づけられることにより、私たちは想像力で思い描いたものが現実化するだろうと思われるような形で行動できるようになっていくのである。(p. 213)

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ある人は、ボイドの主張は欲しいものをありありと思い描くことによってそれを手に入れることができるというニューエイジ的な教えに近いと感じるかもしれません。ボイドはその懸念をよく承知していて、本章でもそのことについて触れています。確かに、ニューエイジャーや一部のクリスチャンが行っているように、想像力を神との人格的関係から切り離して用いていくと、それは魔術的なものになっていく危険があるとボイドも認めていますが、だからといって信仰における想像力の重要性を否定することは、産湯と一緒に赤子を捨ててしまうようなものだと言います。想像力を活用した祈りは肯定的なcataphatic祈りと呼ばれ、キリスト教の霊性神学の中では長い伝統を持っています。ボイドはまた、想像力が私たちの思考や感情において持っている重要な役割について、Escaping the Matrixという著作では神経科学の視点からも論証を試みています。

想像力についてのボイドの見解には必ずしもすべての人が賛同しないかもしれませんが、ボイドの提案するモデルは、確実性追求型信仰に対する一つの有力なオルタナティブを提供していると思われます。

(続く)

 

 

「主の祈り」を祈る(3)

(シリーズ過去記事  

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

今回から「主の祈り」の内容を細かく見ていきたいと思います。

「天にまします・・・」

まず、この祈りは神に対する呼びかけから始まります。日本ではクリスチャンでなくても、「旅の無事を祈ります」「成功を祈ります」など、「祈る」という表現はよく使われます。けれどもそれらの人々が誰に対して祈っているのかは明らかでない場合が多いです。おそらく多くの人々が「祈る」という時、それは特定の神仏に対して祈願しているというよりは、「~であってほしい」という漠然とした願望を表しているように思います。けれども、ユダヤ教の厳格な一神教信仰に生きていたイエスと弟子たちの文脈にあっては、祈りを捧げる対象は唯一の生ける神以外にはありえませんでした。しかし問題は、その神がどのようなお方であるという理解のもとに祈っているか、ということです。これは私たちが主の祈りを祈るときにも意識すべき重要な問題です。

まず、この神は「天」におられる神です。ここで言う「天」は必ずしも物理的な空間をさすわけではなく、第一義的には「神のおられるところ」です。これに対して私たちが住むこの世界を「地」といいます。過去記事で触れたように、N・T・ライトによると、聖書の世界観はこの天と地が部分的に重なり合い、かみ合う世界観であるといいます。特定の時と場所において、天と地が出会い、神と人とが出会うことができる―祈りとはまさにそのような「場」の一つと言えるでしょう。

さて、1世紀のユダヤ人たちは基本的に次のような世界観を持っていました。

AncientHebrewCosmology

古代ヘブライ人の宇宙像(© 2012 Logos Bible Software)

この宇宙像では、基本的に世界は「天」「地」「地下(よみ)」からなる三層構造で捉えられていました。当時のユダヤ人は、「空」は地の上をおおう固いドーム状の物質で、神はその上に住んでおられると考えていました。したがって、神のおられる場としての「天」は基本的には物理的空間としての「天」と重なってイメージされていたと考えられます。ただし、この神は上空の天に常にとどまっている存在ではなく、頻繁に地上の世界のできごとに介入し、人々とやりとりをし、みこころを行われる存在として描かれています。そのような、地上における神の臨在と働きをライトは「天と地が重なる」と表現しているのだと思います。ライトが終末において「天と地が一つになる」という時に意味しているのは、神の臨在と支配が天においてだけでなく地においても完全にあらわされ、神が「すべてにおいてすべてとなられる」(1コリント15章28節)ということだと理解できます。

ところが問題は、このような古代ヘブライ人の宇宙像は、現代の私たちにとってはまったくなじみのないものであるということです。私たちは、空は固いドームのような物質ではなく、地球の周囲には果てしない宇宙空間が広がっていることを知っています。そのような宇宙像においては、「天」を単純に「空の上」と考えることはできません。日本における「上方」とイスラエルにおける「上方」はことなりますし、宇宙空間を何億光年突き進んでも、神にたどり着けるとは思えません。このような現代の宇宙像において、神はどこにおられると考えたらよいのでしょうか?

一つの方法として、私たちは「天」はSFやファンタジー小説に登場するパラレルワールドや異次元世界のように、この地球と隣り合わせに存在し、目には見えないけれどもすぐそこにある世界と考えることができるかもしれません。C・S・ルイスのナルニア国はまさにそのような世界として描かれています。科学的宇宙像を持った現代人が、どのように聖書的な神のすみかとしての「天」をイメージできるかについては、たとえばPaula GooderがWhere on Earth Is Heaven?という小冊子にコンパクトにまとめています。

それでは、現代の私たちはどのようにして「天におられる神」に祈ることができるのでしょうか?それには2通りの方法があると思います。

第1は、聖書時代の人々が持っていた古代の宇宙像に入り込んで、その世界観のレンズを通して「天」をイメージして祈るということです。この方法では、私たちは文字通り自分たちの上方のどこかに「天」という領域があり、そこに神がおられることを想像します。私たちが祈る時、天に窓が開かれて、天におられる神の御前に私たちの祈りが香の煙のように立ち上っていくことをイメージすることができます。

第2の方法は、「天」に関する聖書の言語表現を、現代の私たちの科学的宇宙像に適合するように「翻訳」して、その理解にそって祈ることです。例えば上記のようなパラレルワールドとしての天をイメージし、私たちの世界のすぐとなりに存在する見えない世界におられる神に向かって祈ることができます。

私は現代のクリスチャンはどちらの方法で祈っても良いと考えていますが、個人的には最初の方法で祈る方が好みです。これはもちろん、「現代科学に基づく宇宙像が間違っていて、古代ヘブライ人の世界観が正しいのだ」と信じこむことではありません。しかし、私たちは聖書を読む時に、そのナラティヴが創り出す物語世界をイメージし、その中に入り込んで、そこで起こるできごとを追体験し、その中で語られるメッセージを受け取ることができます。実はこれが、ナラティヴ一般の正しい読み方でもあると思います。私たちはルイスの「ナルニア国」やトールキンの「中つ国」が実在する場所でないことを知っていますが、それがあたかも実在する場所である「かのように」、想像力(イマジネーション)を用いてその中に入り込むことなしには、それらのナラティヴを本当に味わうことはできません。祈りにおいてもそのような想像力は大変重要であると思います。けれども、どうしても現代の科学的宇宙像を離れては神をイメージできないという人は、第2の方法で祈ることもできるでしょう。

いずれにしても、「天は本当はどこにあるのか」ということよりもっと重要なのは、「天と地はどのように関わっているのか」ということだと思います。祈りは天におられる神に対して、地に住む者たちがささげるものです。天と地はことなる領域です。私たちは、いつでも神の存在を身近に感じられるわけでも、神の意思が私たちの周囲でいつも実現しているわけでもないことを知っています。にもかかわらず、私たちが祈る時、天と地が重なり合い、天に通じる窓が開かれるのです。

(続く)

 

「福音」とは何か(関野祐二師ゲスト投稿 その3)

その1 その2

関野祐二先生によるゲスト連載の第3回です。お忙しい中寄稿してくださる先生に心から感謝します。それでは、お楽しみください。

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「『福音』とは何か」の三回目、だいぶ間が空いてしまいましたが、「福音と被造物統治/管理」の続きです。

2011年3月11日に発生した東日本大震災、関連する福島第一原発の事故は、キリスト教界にも多くの課題を突きつけました。折しもそれは、2010年10月、第3回ローザンヌ世界宣教会議が南アフリカのケープタウンで開催され、その成果である「ケープタウン決意表明(コミットメント)」が宣言されて五ヵ月後のこと。本コミットメントでは、包括的(ホリスティックな)宣教、包括的福音理解が提示され、天地創造から新天新地に至る、全被造物を対象とした神の贖い(和解と回復と再統合)計画を「神の宣教」と位置づけて、キリストを王なる主権者としたキリスト者がその統合的宣教に参与する見取り図を得たのでした。ならば福音主義に立つ者たちは当然のことながら、震災と原発事故による諸課題のキリスト教的理解も、このコミットメントの文脈に即して考えるべきものと言えましょう。投げかけられた具体的諸課題を思いつくまま並べるなら、自然災害は神のさばきなのか、いわゆる神義論の問題、福音的聖書的自然理解と環境問題、被造物を支配せよとの文化命令の意味、被災者救援と伝道の関係性と優先順位、包括的宣教と包括的福音の中身、聖書から見た核技術と原発の是非などなど。本来ならこうした課題は福音派キリスト教界がとっくに取り組んでおくべきものだったはずですが、どちらかというと後回しにしてきた苦手な分野だったようで、震災と原発事故を契機に、自戒を込めて遅ればせながら正面から取り扱うことになった経緯があります。

さて、包括的福音理解に基づく包括的宣教を深める上で鍵となる出発点は、我々福音に生きる者が文化命令(創世記1:28)に基づき統治/管理を命じられている「自然」(Nature)です。よって最初になすべきは、「キリスト教的自然理解」、すなわち我々が生き、そこに置かれている宇宙をも含めた自然界を神がどのようなものとして創造し治めているのか、その自然を支配するよう委託された「神のかたち」としての人間のあり方、そして贖いの対象でもある自然を、同じく贖いの対象である我々人間がどのように理解し、管理したらいいのかという問いかけに帰結します(人間が宇宙を統治/管理するとはいかなる意味合いを持つのかは、天文がライフワークの筆者にとっても興味深いテーマです)。主なる神は、被造物全体が贖われる新天新地への回復のプロセスにおいて、我々人間を「贖われた統治者」と位置づけ、ご摂理の内に用いておられます。換言するならこれは、主イエスの十字架と復活によって成し遂げられた、人類における被造物統治/管理権の回復であり、この地上におけるキリスト者の使命に直結するものです。被造物を治めるためにはそれらを理解し、各分野における最新の学問的成果と歴史的文化的価値を評価する必要がありますから、聖書以外のあらゆる領域にも関心を持ち、各分野の専門家たちの意見も取り入れ、協力していかなければなりません。

あらためて、創世記1:28を引用しましょう。「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ』」。この「地を従えよ」「支配せよ」というみことばをめぐっては、これこそが今日の環境破壊を引き起こした元凶であり、キリスト教は自然界に対し罪の責任を負っているとの、リン・ホワイトによる有名な指摘があります。しかしこのみことばには確かに神から委託された統治・支配の意味があるものの、決してそれは上からの横暴なわざでなく、神との共同(協働)統治であり、統治支配のニュアンスを含んだ管理という意味で、統治/管理との複合的表現がふさわしく、リン・ホワイトの理解は一面的と思われます。

エデンの園におけるアダムとエバの堕落の結果、人間と自然との関係性に起きた問題点とは、ひとつには人間が原初において完全であった「神のかたち」ではなくなり、本来的に統治支配権を行使した被造物支配の責任が与えられてはいても、今や正しく支配することが出来なくなってしまったこと、もうひとつは、「非常に良かった」(創世記1:31)はずの被造物世界全体に「ある変化」が生じ、土地はのろわれ(3:18)、いばらとあざみが生え、被造物は虚無に服した(ローマ8:20)ことでした。人間の堕落ゆえ虚無に服した被造物は、我々自身の身体も含め、うめきつつ贖われる日を待ち望んでいます(ローマ8:19-23)。贖われるとは、今の不完全な状態が人間の罪による滅びの束縛から解放され、元の完全な姿へと買い戻され回復させられるということでしょう。それは、先の後藤敏夫先生による解説の通り、詳細は不明ですが、新天新地の完成が今の被造世界となんらかの連続性や関連性を持っていることを暗示します。つまり、今の被造世界がすべて失われ滅びた後に、今とは断絶した形で全く新しい新天新地が現れるとの従来型理解は、聖書本来のメッセージとはいいがたいのです。

ということは、現在の地上におけるあらゆる営みが永遠の御国と連続性を持ち、地上での忠実な働きがなんらかの意味で完成された未来の御国へと持ち込まれることを意味し、今のこの地上における社会的活動すべては、神の目に意義あるものと認められており、委ねられた働きへの忠実さ誠実さが問われているということになります。そうでなければ、この世の生活はキリスト者にとってかりそめの意味しか持たなくなり、悪い意味で御国の待合室と化してしまうでしょう。

したがって私たちはここに、「身体の贖い(復活)を待ち望みつつ、神のかたちとして被造世界を統治/管理しながら、被造世界の贖いをも待ち望む」という、地上における生の枠組みと意義付けを確認できることになります。しかしその一方で、(1)アダムの罪により堕落して、正しい意味での統治/管理者としての資格や能力を失った我々に、堕落前(創世記1:28)定められたこの世を治める委託業務行使の資格や力はあるのか。(2)創造の当初、我々人間に委ねられていた被造物世界の統治/管理のわざは、神への反逆と堕落とともに我らの手から取り上げられ、主ご自身の直接統治へと戻されたのではないのか。(3)そこにあえて文化を築き、バベルの塔を建設した人類に、主にある健全な地の管理や文化形成は不可能なのではないか。(4)主イエスの十字架と復活による贖いのわざは、我々のこの世に対する統治/管理能力や権限をも回復したのだろうか。 こうした疑問が次々と沸き起こってきます。これはアウグスティヌスとペラギウスの論争以来常に議論されてきた、原罪による神のかたちの破壊や歪みの問題、自由意志能力の有効性、および神の主権と人間の自由意志の関係性も含めた、根本的問いかけと言えましょう。

筆者は、主イエスの十字架と復活による贖いのみわざが、人間の被造物統治/管理能力をも回復させ、神は再度そのわざを人類に委託して、贖いの歴史進展の中で人間との共同(協働)統治を進めていると理解しています。この結論については今後も幅広い継続的議論が必要ですが、福音を「個人的霊的救い」から解き放ち、自然科学を含むこの世一般の学問や文化活動の価値を認めた上で理解を深め、主イエスの十字架と復活によって神の国の統治者/管理者に召し出されたキリスト者こそが、地の贖いの完成を目指してこの地上の統治/管理を神との協働によって推し進めて行く、という基本的道筋は妥当な見解と思われます。であれば、「福音」とは、「十字架による罪からの救いと天国行きの保証」という単純化された表現では収まりきれない、キリスト教的自然観と世界観、贖い理解に基づくきわめて広い包括概念となるでしょう。

(続く)