パンデミックを考える(4)

その1 その2 その3

前回は、ウォルター・ブルッゲマン著『信仰への召喚としてのウイルスの内容を紹介しました。今回はそれに対する私なりの応答を記したいと思います。

ブルッゲマンの主張は、これまで取り上げてきたパイパーやライトの主張と重なる部分もたくさんありますが、そのどちらとも異なるユニークな側面も持っています。

彼はライトと同じように、信仰者がパンデミックの危機の中にあって嘆くことの重要性を強調します。けれども、ライトがコロナウイルスの「意味」を問うことをほぼ全面的に拒否しているのに対し、ブルッゲマンはあえてその領域にも足を踏み入れようとしています。

他方で、ブルッゲマンはパイパーのように単純明快な「解答」を提示することはしません。彼の主張はもっとニュアンスに富んだものであり、そのため分かりにくいものであるとも言えます。この点についてもう少し考えてみましょう。

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パンデミックを考える(3)

その1 その2

このシリーズの第1回目はジョン・パイパー、第2回目はN・T・ライトによる、今回のパンデミックの考察を紹介してきました。今回取り上げるのは、ウォルター・ブルッゲマン著『信仰への召喚としてのウイルス:喪失・悲しみ・不確実の時代における聖書的省察 Virus as a Summons to Faith: Biblical Reflections in a Time of Loss, Grief, and Uncertaintyです。

ブルッゲマンはアメリカの旧約聖書学者であり、このブログでも取り上げたこともあります(たとえばこの記事)。彼の膨大な著書の何冊かは日本語にも訳されています。ブルッゲマンの前書きの日付は今年の棕櫚の主日(4月5日)ですが、Nahum Ward-Levによる序文の日付は4月24日になっていますので、パイパーやライトの本よりわずかに遅く出版されたということかもしれません。

ブルッゲマンが前書きで述べているように、本書のすべてはコロナ禍を受けて書き下ろされたものではなく、過去に書かれた二つのエッセイも収められています(5章と7章)。本書の大部分は旧約聖書のテクストに対する省察で占められています。

旧約聖書における「災い」

1章でブルッゲマンはレビ記、出エジプト記、ヨブ記等を取り上げ、旧約聖書における「災い」の解釈について考えます(英語のplagueにはコロナウイルスのような「疫病」という意味もありますが、ブルッゲマンはより広いニュアンスでも用いているようです)。著者は旧約聖書の中に、少なくとも3つの可能性を見出しています。 続きを読む

パンデミックを考える(2)

その1

パンデミックについての神学的考察、第1回目はジョン・パイパー著『コロナウイルスとキリスト』を取り上げました。

今回取り上げるのは、N・T・ライト著『神とパンデミック:コロナウイルスとその余波についてのキリスト教的省察 God and the Pandemic: A Christian Reflection on the Coronavirus and Its Aftermathです。

N・T・ライトについては、もはや紹介する必要もないでしょう。現在世界で最も影響力のある神学者・聖書学者の一人であり、このブログでもおなじみです。彼は今回のコロナ禍について何を語るのでしょうか? 続きを読む

パンデミックを考える(1)

ここ数ヶ月というもの、「コロナ」という言葉を見聞きしない日はありません。新型コロナウイルスの感染は世界中で爆発的に拡大を続け、今もその勢いは衰えを見せていません。この原稿を書いている時点で、世界の感染者が2千万人を突破しました。感染症がもたらす健康被害はもちろんのこと、それに伴う社会的、政治的、経済的影響は甚大で、世界の国々を大きく揺るがし続けています。

私たちの「日常」は一変してしまいました。そして、コロナ以前の「日常」に戻ることは、もうないのかもしれません。

キリスト教会ももちろん、この変化と無縁ではありません。多くの教会堂は閉鎖され、礼拝はオンラインやその他の手段で行われるようになっています。私が教えている神学校でも、これまでの授業はすべてオンラインで行われるようになりました。

しかし、私たちにとって本当に重要なことは、これまでの「活動」や「ミニストリー」をいかに継続していくか、ということではありません。より重要な問題は、信仰者としてこの「非常事態」にどのように向き合い、このパンデミックの世界にあってどのように神の召しに従って歩んでいくか、ということだと思います。

今回のコロナ禍はまさに世界規模のできごとですので、これまでに世界中のキリスト者が様々な考察を発表してきています。日本国内でも、各キリスト教雑誌ではコロナ禍特集を組み、何冊かの書籍が出版されています。その内容も、神学的考察から実践的アドバイスまで多岐にわたります。

そんな中にあって、私も自分なりにいろいろと思うことはありましたが、それをなかなかこのブログ上で公表することができませんでした。

一つには、教会と神学校におけるコロナ禍への実際的な対応に追われて十分に考えを深める時間が取れなかったことがありますが(こちらを参照)、より大きな理由は、この問題があまりにも大きすぎたからです。

私たちにとって今回のパンデミックは現在進行中のできごとであり、まだその渦中にある状況です。現在も感染は拡大中ですし、今後第二波、第三波が続く可能性は大いにあります。感染の終息がいつ訪れるのか、さらにその傷跡から世界が完全に回復するまでどのくらい時間がかかるのか、誰にも予測できません。

日々めまぐるしく移り変わる状況の中で、一個人が何か確定的なことを主張できるとは思いません。そのような状況においては「語らない」「沈黙する」ことが賢明な選択肢である場面もあります。しかし、たとえ不完全なものであったとしても、それを言葉にしていくことによって、自らの考えを深め、他の人々との対話のきっかけになればと思います。それに結局のところ、私たちの思想と実践は切り離すことはできません。たとえ未完成のものであっても、私たちは現時点でできる限り考えを深めたら、そこから一歩を踏み出すしかないのです。

そういうわけで、これから綴っていくのは、パンデミックのただ中で生まれた暫定的な考察に過ぎません。何年か後にすべてが落ち着いた時に振り返ったら、また別の考えが生まれるかもしれません。できれば、ゆるい連載の形で何回か続けていくことができたらと思います。 続きを読む

神学的人間論と同性愛・同性婚(藤本満師ゲスト投稿5)

その1 その2 その3 その4

藤本満先生のゲスト連載、その5回目をお送りします。今回の連載はこれで最終回になりますが、貴重な問題提起を行ってくださった藤本先生に心から感謝します。

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5.神学的人間論と同性愛・同性婚

かつて「聖書信仰」の問題を取り上げたとき、私は福音派の聖書理解が停滞し、神学的にも膠着状態にあることを意識していました。批評学だけでなく、言語学や解釈学に応える「聖書信仰」とはどのようなものなのか? 理性の絶対性への疑いが明らかになった時代にあって、福音派の聖書理解は新しい可能性がどのように展開しているのか、目を上げて見渡してみよう、と。探っていくうちに、私自身、神学的に、信仰的に整理が与えられ、また前進する挑戦をいただきました。しかし、ある方々には、そのような理解の前進は「逸脱」と映ったようでした。

今回の論考は短いものですが、「聖書信仰」という特殊な課題とは違って、日本のキリスト教会の伝統的な考え方全体に一石を投じるくらいのおののき、また覚悟を意識しています。神学的人間論の今日的諸問題の一つとして、同性愛・同性婚の問題は避けることができないでしょう。社会の理解はわずかながら進んでも、日本の教会はこの課題を神学に論議するには至っていません。アメリカでは、すべての州が同性婚を法律的に認めています。また神学的・倫理的・聖書的議論は、ここ20年、福音派の中でも活発になされてきました。活発すぎて、時に教会を分断するような結果を生み出しました。

今回の論考では、同性愛を「擁護する神学的な考え方」を紹介し、神学的なことにとどめます。運動的な、あるいは文化的な風潮には触れません。紹介するのは、戦後ドイツの偉大な神学者のひとりヘルムート・ティーリケと、最近の英国教会(聖公会)で絶大な影響力を持っている神学者ローワン・ウィリアムズです。

今回は、同性愛を禁じている6つの聖書箇所の解釈には触れません。6つの聖書箇所とは、創世記19章のソドム、レビ記18:22、同20:13、Ⅰコリント6:9-10、Ⅰテモテ1:10、ロマ1:26-27です。これらの聖句の歴史的背景、解釈の仕方については多くの議論が積み重ねられてきました。それらについても学ぶ機会を得て、あらためて紹介したいと思っています。ちょうど今年、いのちのことば社からLGBTと聖書の福音(アンドリュー・マーリン著、岡谷和作訳)が出版されました。支持する人も反対する人も、妙なレッテルをはって片付けてしまうのではなく、「神学的な視点」からこの問題を見てみましょう。ブログ記事としては長いのですが、最後まで読んでくださると感謝です。 続きを読む

男と女―相互に向き合うパートナー(藤本満師ゲスト投稿4)

その1 その2 その3

藤本満先生によるゲスト連載、その4回目をお届けします。

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女のかしらは男?

前回の投稿を読んでくださった方は、私が神学的な男女平等論に立っていることをご理解されたことでしょう。男女が等しく神のかたちに創造されているばかりか、社会や家庭における役割においても平等、さらに聖職的な立場においても等しく奉仕ができるという立場です。今回、そのような立場の背景にある聖書理解を記してみます。

  • 神は人を男と女に創造された

創世記1:27「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に創造された」。すぐそのあとの28節に「生めよ。増えよ。地に満ちよ」と、神は人を男と女に創造することによって、人に新しい生命の誕生の恵みを授けられました。

こうして誕生した男女には、生物学的、身体的、心理的な差異があることは事実です(一様ではないにしても)。しかし、神が人を男と女に造られた意図は、他の動物が雌と雄に区別され、生命の増殖がなされるのとは同じではありません。

その点を明らかにしているのが、創世記2章の創造の物語です。7節に「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」。創造したアダムに神は言われました。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう」(18節)。こうして神は人(アダム)を眠らせ、あばら骨の一つを取り、それをもって一人の女を造られます。つまり男と同質・同類の人として創造されています。

しかし、ここで女が男の「ふさわしい助け手」(口語訳・新改訳)として造られた、とあります。ともすると、「ふさわしい」となると、男にとってふさわしいと勝手に考えてしまいます。男が社会に出て働き、女は子どもを産み、主婦として家事をし、夫の主導に聞き従う、と。しかし、この言葉はそういう意味ではありません。聖書の訳では、そこを苦心しているのが新共同訳聖書で、「彼に合う助ける者」と訳されています。「ふさわしい」を「合う」に変えたのです。 続きを読む

この世でよそ者として生きる(リチャード・ヘイズ教授講演より)

5月5日(金)に開かれた北東アジアキリスト者和解フォーラムに参加しました。このフォーラムは米国デューク大学の神学部と和解センターのイニシアティヴで始まったもので、今回が7回目になります。私自身は、韓国済州島で開催された昨年のフォーラムに続いて2回目の参加となります。今回は新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、半日のみのオンラインでの開催になりましたが、多くの発見や励ましを受けました。

フォーラムには、日中韓米から招待された約150名以上のキリスト者が集いました(オンラインだからこそ参加できた人々も多く、参加者は例年より大幅に増えました)。参加者はカトリックやプロテスタントの聖職者や学者、パラチャーチ活動家、学生などさまざまで、非常に多様な顔ぶれであるのが特徴です。

今回のフォーラムでは、世界的に著名な新約学者である、デューク大学のリチャード・ヘイズ名誉教授が講演をしてくださいました。私はこれまでヘイズ博士の学問的業績に大いに啓発されてきただけでなく、何年か前に来日された際には、立ち話程度でしたが個人的にお話しする機会も与えられたこともあり、今回の講演を楽しみにしていました。この何年か膵臓がんと闘病されてこられましたが、今回Zoomの画面を通してお元気そうな姿を見ることができて感謝でした。 続きを読む

人種差別と女性差別(藤本満師ゲスト投稿3)

その1 その2

藤本満先生のゲスト投稿、3回目をお送りします。今回は先日私が投稿した記事とも重なる、差別の問題を取り上げてくださいました。時期的にもとてもタイムリーな寄稿をいただき、心から感謝しています。

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「神の像」をゆがめて用いるとき――人種差別と女性差別

 「キリスト者の生」「キリスト者の成熟」を念頭に置きながら、その根底にある「神学的人間論」を論じること、所詮、それは筆者にとっては手の届かぬ試みです。H. W. ヴォルフによる『旧約聖書の人間論』(1983年に邦訳)辺りから聖書の人間論に関心が持たれるようになりました。W. パネンベルク人間学――神学的考察』(2008年に邦訳)はおそらく最も包括的な論でしょう。福音派では、河野勇一わかるとかわる!《神のかたち》の福音』(2017年)も優れた書物として挙げるべきであると考えています。

それらの書を前に筆者の切り込む余地はないと判断し、記すことにしたのは、今日、神学的人間論において話題となっているトピック、(1)物語神学とキリスト者の生、(2)ピストゥス・クリストゥス論争とキリストの像。そして今回3回目は、「神の像」をゆがめて用いながら「差別を正当化してきた歴史」についてです。 続きを読む

『いのちのことば』誌特集「50人が選ぶこの一冊」

本であれ音楽アルバムであれ、自分の好きなもの、思い入れのあるものを人に紹介するのは楽しいものです。他の人たちからおすすめを聞くのも同様です。それは単なる情報共有ではなく、その人のおすすめを通して当人の趣味や考え方、人となりを垣間見ることができるからです。その意味では、人に何かを推薦するのは緊張する体験でもあります。自分のおすすめを通して、自分自身の教養や人間性が見透かされてしまうような気になるからです。それでも、自分が大きな恵みを受けたものを他者と共有する楽しみは、他に代えがたいものがあります。ビブリオバトルが流行しているのも、そんな理由からかもしれません。

さて、月刊『いのちのことば』誌が今年の7月号で500号目を迎えます(創刊は1979年1月だそうです)。その節目を記念する特集として、(福音派?)キリスト教界の50人が推薦書を紹介する「50人が選ぶこの一冊」という企画がなされました。私も依頼を受けておすすめの本を挙げさせていただきました。

50books [2]

 

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物語神学とキリスト者の生(藤本満師ゲスト投稿1)

当ブログではもうおなじみの藤本満先生ですが(過去記事はこちらこちらを参照)、このたび神学的人間論というテーマで、シリーズで投稿していただけることになりました。今回はその第1回をお送りします。

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神の像に創造され、キリストの像に贖われる
――キリスト者の「生」と人間論」の今日的諸課題――

2020年5月に福音主義神学会〔東部)で、このテーマで講演をさせていただく予定でした。それは11月に開催予定の学会全国研究会議が「キリスト者の成熟」であるからです。とりあえず、私の講演は来年に21年に延期となりましたが、今回用意したものを東部の許可を得て、山﨑ランサム和彦先生のブログに掲載させていただくことにしました。

まだ全部まとめていません。書きやすいところから書き始めました。4つ論考を掲載の予定ですが、

① 物語神学とキリスト者の生
② ピスティス・クリストゥ論争とキリストの像
③ 「神の像をゆがめて用いるとき」
④ 土の器と神の像

です。4つの関連性は必ずしも一貫していません。そこで「諸課題」としました。 続きを読む