受肉というスキャンダル

今日は灰の水曜日であり、レント(四旬節)の期間に入りました。教会暦では復活祭に先立つ40日間を、自らを省みる祈りと悔い改めの期間としています。40日という期間は、イエスの公生涯に先立つ荒野での試練に対応していますが過去記事を参照)、それはもちろん究極の試練である十字架をも指し示すものでもあります。

灰の水曜日には、教会によっては信者の額に灰で十字のしるしをつける儀式を行います。そこには自分が死すべき存在であることを覚え、悔い改めて神に立ち返るようにというメッセージがあります。このことを思いめぐらしていたとき、死すべき存在である人間のひとりに神がなってくださったという受肉の意味について、改めて考えさせられました。

私はレントと受難週にはよくバッハのマタイ受難曲を聴きます。お気に入りは大定番ですがカール・リヒター。中学時代に初めて彼の演奏でマタイを聴いて以来、愛聴しています。先日この曲についてインターネットを検索していたら、衝撃的な動画を見つけました。それがこちらです。 続きを読む

Even Saints Get the Blues(信仰者と嘆きの歌)(4)

その1 その2 その3

これまでの投稿の中で、詩篇88篇を「聖書の中のブルース」として何度か引用してきました。今回はこの詩篇を正面から取り上げようと思います。

1  わが神、主よ、わたしは昼、助けを呼び求め、
夜、み前に叫び求めます。
2  わたしの祈をみ前にいたらせ、
わたしの叫びに耳を傾けてください。

3  わたしの魂は悩みに満ち、
わたしのいのちは陰府に近づきます。

4  わたしは穴に下る者のうちに数えられ、
力のない人のようになりました。

5  すなわち死人のうちに捨てられた者のように、
墓に横たわる殺された者のように、
あなたが再び心にとめられない者のように
なりました。
彼らはあなたのみ手から断ち滅ぼされた者です。

6  あなたはわたしを深い穴、
暗い所、深い淵に置かれました。

7  あなたの怒りはわたしの上に重く、
あなたはもろもろの波をもって
わたしを苦しめられました。

8  あなたはわが知り人をわたしから遠ざけ、
わたしを彼らの忌みきらう者とされました。
わたしは閉じこめられて、のがれることはできません。

9  わたしの目は悲しみによって衰えました。
主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、
あなたにむかってわが両手を伸べました。

10  あなたは死んだ者のために
奇跡を行われるでしょうか。
なき人のたましいは起きあがって
あなたをほめたたえるでしょうか。

11  あなたのいつくしみは墓のなかに、
あなたのまことは滅びのなかに、宣べ伝えられるでしょうか。

12  あなたの奇跡は暗やみに、
あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。

13  しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。

14  主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。
なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。

15  わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。
あなたの脅かしにあって衰えはてました。

16  あなたの激しい怒りがわたしを襲い、
あなたの恐ろしい脅かしがわたしを滅ぼしました。

17  これらの事がひねもす大水のようにわたしをめぐり、
わたしを全く取り巻きました。

18  あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、
わたしの知り人を暗やみにおかれました。

この詩篇は一般にあまりなじみがない詩篇だと思います。「好きな聖書箇所は?」あるいは「好きな詩篇は?」と訊かれて「詩篇88篇です」と答える人はほとんど皆無でしょう。この詩は最初から悲痛なうめきと叫びに満ち、最後まで救いや賛美の明るいトーンがまったく聞かれません。この詩はおそらく詩篇全体の中で、あるいは聖書全体の中で最も暗い箇所であると思います。だからなのでしょう、この詩篇が礼拝説教で取り上げられることはほとんどありません。私がベテル神学校で学んでいたとき、旧約学のクラスで、デイヴィッド・ハワード教授が「この詩篇から説教ができたら、聖書のどこからでも語ることができる」と語っておられたのを今でも覚えています。けれども、この詩篇が聖書の中に収められているということはとても深い意味があると思います。 続きを読む

確かさという名の偶像(22)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第11章「神の約束につまずくとき」を取り上げます。

前章でボイドは信仰を行使するとはどういうことかについて述べました。この章ではボイドは信仰の中身について考察します。もし信仰が神に信頼することであるなら、私たちは何について神に信頼すべきなのでしょうか?もし、ボイドが言うように信仰が私たちと神との間の人格的契約関係であり、相互の信頼にもとづいているとするなら、神が私たちに対して信頼できるお方であるとは、何を意味しているのでしょうか?

多くのクリスチャンにとって、「神が信頼できるお方である」とは、彼らに神が「約束」してくださったできごとが成就することを意味しています。具体的な約束の内容は家族の守りであったり、病のいやしであったり、さまざまです。しかし、実際にはすべてのそのような「約束」が成就するわけではありません。ボイドは、幼い時に性的虐待を受けた経験を持つために、神を信頼することができなくなったという若いクリスチャン女性の例について語ります。クリスチャンたちの熱心な祈りにもかかわらず、病がいやされなかったり、家庭に悲劇が起こったりすることもあります。これは神が信頼できないお方であることを意味しているのでしょうか?

多くの教会では、ただ神に信頼して従えば神は彼らを守って祝福してくださるという「魔法の定式」を暗黙の了解としており、信仰者の人生に現実に起こってくるできごとがそれとは合致しないということを指摘するのはタブー視されることがあります。ボイドは、人生におけるさまざまな思い煩いを神に委ねることは重要であるといいます。けれども、それは私たちが願っている守りや祝福を保証するものではない、というのです。

そうあってほしくないという私たちの願いとはうらはらに、人間や天使が下したすべての決断がそれ以降に起こるできごとに影響を与えるような、計り知れないほど複雑な世界においては、ものごとがある仕方ではなく別の仕方で起こることを保証するような魔法の定式は存在しない、というのが本当のところである。(p. 224)

クリスチャンはしばしば「神の約束に信頼する」ことについて語ります。もちろん、それは大切なことですが、神の約束とは実際何であるのかについて考察することは最も重要であるとボイドはいいます。クリスチャンはしばしば、神が実際には約束しておられないものを「約束」と思い込んでいることがあるのです。ボイドは、それは一つには誤った聖書解釈によるものであると言います。

長年にわたる奉仕の中で、私は保守的なクリスチャンたちの中に見られるある傾向に気がついた。それは、聖書の中で約束のように見えるものは何でも、神が彼らに与えておられる約束だと思い込む傾向である。時としてクリスチャンたちは、恐ろしいものとなりうる世界の中で安心感を見出す必要に迫られ、それらの箇所の文脈やオリジナルの意味に注意を払うことをせずに、彼らが探し求めているものを約束しているように見える箇所には手当たり次第にしがみつく傾向があるのである。(p. 224)

しかし、ボイドによると、根本的な問題は信仰に対する誤った理解にあるといいます。つまり、それは信仰faithを信条beliefと同一視し、すべての神学的主題を法律的パラダイムでとらえ、人格的契約covenantと法律的契約contractを混同する傾向のことです。

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ボイドは本書において、聖書的信仰は法律的契約ではなく人格的契約に基づいた概念であることを主張してきました。法律的契約においては、当事者相互の信頼は法的拘束力を持つ文書にありますが、人格的契約においては当事者は相手の人格に信頼を置きます。聖書を探し回って神の「約束」を見つけ、そこに安心感を見出そうとする態度は法律的契約的な態度であるとボイドは言います。しかし、イエスが十字架にかかられたのは、私たちと人格的な契約を結ぼうとする行為でした。そして、このことは私たちが何について神を信頼すべきなのかを考える時に決定的に重要であるとボイドはいいます。

もし私たちが、異教徒が彼らの神々といつもしているように、法律的契約に基づいた取り決めを行うなら、ここで問題になっている「何か」は、私たちを益する具体的なものごとということになり、その場合は聖書をくまなく調べて私たちに益を与えるような隠された条項を探したとしてもおかしくはない。けれども、私たちが結ぶように招かれているのは法律的契約ではなく人格的契約であるので、ここで問題になっている「何か」とは、ただ神のご性質ということに尽きるのである。(p. 230)

したがって、私たちが信仰を持つ時に信頼すべきなのは、神が与えてくださるあれやこれやの具体的祝福ではなく、それを与えてくださる神ご自身のご性質であるということになります。では、私たちが実際に信頼すべきなのは、神のどのようなご性質なのでしょうか?次回はそのことについて見ていきたいと思います。

(続く)