確かさという名の偶像(24)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回も前回に続いて第12章「十字架の約束」を見ていきます。

私たちのアイデンティティ

ボイドによると、十字架において神が与えてくださる第二の約束は、私たちについてのことばです。これは前回紹介した、神ご自身についてのことばにすでに暗示されているものです。それは、私たちの存在そのものが、神によって愛されているということです。

ボイドによると、アダムとエバの堕落以来、人間は神と親密な関係をもって、そこからいのちを得ていくためには、あるがままの存在でいるだけでは不十分であり、何か特定の行為を行ったり、特定のものを獲得しなければならないと思い込むようになりました。私たちのアイデンティティ・価値・存在意義・安心は私たちが何を持っているか、何を達成できるか等々によって定義されるようになってしまったのです。ボイドの表現を借りれば、人間はhuman beingからhuman doingになってしまったのです。これは前回見た、誤った神観に基づいて起こる神からの疎外の主要な現れです。

ボイドは、十字架上のイエスの姿は神がどのようなお方であるかを示しているだけでなく、私たち自身がどのような存在であるかを表していると言います。なぜなら、贖われるものの価値は、そのために支払われる代価によって計られるからです。それでは、神が私たちをキリストの花嫁とするために支払ってくださった代価とは何でしょうか?キリストが十字架にかかられたとき、彼は私たちの罪そのものとなり(2コリント5章21節)、のろいとなってくださいました(ガラテヤ3章13節)。罪やのろいは聖なる神のご性質とまったく相反するものです。つまり、神は私たちへの無限の愛のゆえに、ご自分とは正反対の存在になることさえ辞さなかったのです。ボイドは、これは神が払うことのできる最高の犠牲であると言います。そしてそのことは、私たちが神の目から見て最高に価値のある存在であることを示しているのです。つまり、神はいま実際に私たちをこれ以上ないほどの偉大な愛を持って愛してくださっているということになります。私たちは今すでに、神の目にはこの上なく価値ある存在なのです。神からさらに愛されるために、何かをしたり何かを獲得したりする必要はまったくありません。

そして、この最高の愛は、三位一体の神が永遠に持っておられる愛と同じであるとボイドは言います。十字架で表現されているのは、私たちにそのような愛の交わりに加わるようにとの招きなのです(ヨハネ17章26節、エペソ1章4-6節、2ペテロ1章4節、1ヨハネ3章16節、4章8節参照)。

そして、このような揺るぐことのない完全な神の愛は、まったく無条件の愛であることをボイドは強調します。そしてこのことは、私たちのアイデンティティ形成にとって大変重要です。このような無条件の愛で愛されているということをアイデンティティの中核に持っている人は、人生の道中で何が起ころうとも、いのちにあふれた揺るがされない歩みをすることができるとボイドは言います。なぜならその人は、自分が何を持っているかいないか、あるいは何をするかしないかによって、自分に注がれている神の愛が減じることはけっしてないということを知っているからです。

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私たちの将来

十字架で与えられる三番目の約束は、私たちの将来に関することばです。これは第一(神についてのことば)と第二(私たちについてのことば)の約束の中に暗示されているものです。

ボイドによると、ここで決定的に重要なのは、十字架を復活と密接に結びついたものとしてとらえることです。十字架と復活はコインの裏表のような関係にあるのです。少し長いですが、彼自身のことばを引用します。

私たちが十字架を復活と切り離して考えるなら、十字架につけられたキリストは1世紀のローマ人によって苦しめられ処刑された何千人もの犯罪者の一人に過ぎないことになる。そして、もし復活を十字架と密接に結びついたものとして考えることをやめてしまうなら、それはいともたやすく勝利主義的な超自然的力の爆発となってしまう。それは敵を愛する自己犠牲的な十字架の性質を欠いているだけでなく、それを覆してしまうのである。

実際、西洋の神学の中には、十字架に至るイエスの生涯に反映されているような、へりくだった自己犠牲的なアプローチを神が取られたのは、人間の罪のあがないをするためにはイエスが十字架にかかる必要があったからだ、という思想の系譜がある。このまちがった考え方によると、ひとたびこのことがなしとげられるなら、神は再びその圧倒的な力を容赦なくふるってその意志を地上で達成し、悪に勝利することができる。これが復活の意味するところだ、というのである。このような考え方に基づいて、神学者たちはクリスチャンの支配者や兵士やその他の人々に、神はすべてのクリスチャンが敵を愛する非暴力的なイエスの模範と教えに従うことを意図してはおられない、と請け合うことができたのである。不幸なことに、クリスチャンがイエスの教えと模範を脇に置いて、異端者を拷問し、敵を虐殺し、国々を征服する必要を感じる時はいつも、この考え方はたいへん好都合であった。

誰も口に出して認めようとはしてこなかったものの、このようなものの見方が示唆していることは、イエスの謙遜なしもべとしての生き方や、敵を愛し祝福せよという教え、そして何よりもその自己犠牲的な死は、神の真のご性質をすのではなく、おおい隠すものだということなのである!もし私たちが正直に認めるなら、それが暗示しているのは、神がキリストにおいてへりくだった姿勢を取られたのは、ただそのようなふりをしていただけだと言うことになる。神の真のご性質は、彼が十字架につけられたキリストではなく宇宙の皇帝のように振る舞うとき、すなわちご自分の計画を完遂し、その目的を達成するために十字架を担うのではなく、その全能の力を働かせる時に表される、ということになってしまうのである。(p. 242-243)

しかし、このような考え方は、すでに見たような、神の究極の自己啓示は十字架につけられたイエス・キリストであるということと真っ向から矛盾します。そこでボイドは十字架と復活をひとつながりのできごとの両側面ととらえることを提案し、このひとまとまりのできごとを「十字架=復活のできごとcross-resurrection event」と呼びます。それは次のことを意味しています。

復活は神の子が罪と死と地獄の力に勝利したということだけでなく、御子が悪に打ち勝った方法が、神ご自身が悪に打ち勝つ方法でもあることを裏づける。したがってこのことは、謙遜なしもべとしてのイエスの生き方と、敵を愛し祝福せよというその教え、そして特に彼の自己犠牲的な死が、神の真のまた永遠のご性質をおおい隠すのではなく明らかにするということを裏づけるのである。(p.244)

このことはさらに、新約聖書ではイエスを信じてその復活のいのちに与った者たちも、イエスがなさったのと同じ方法で悪に応答するように命じられていることからも裏づけられます(ローマ12章17-21節など)。パウロはまたキリストとその福音のために苦しむ生き方を教えていますが(2コリント1章5節、4章10節、2テモテ1章8節など)、それはまさに復活の力によって生きる生き方にほかならないとボイドは論じます。

ただし、私たちがキリストとともに耐え忍ばなければならない「苦しみ」とは、愛する者を失ったり、不治の病にかかったりというような、この世における「通常の苦しみ」のことではないとボイドは言います。もちろんそのような種類の苦しみも神の御手に委ねて行く必要があり、神は私たちとともに働いて苦しみから善を生み出すことがおできになります。その意味でそういった種類の苦しみが私たちを成長させることも確かにあります。けれども、私たちがキリストの似姿に変えられていく過程でどうしても通らなければならない苦しみ、新約聖書が語っているような「キリストとともに苦しむ」種類の苦しみとは、キリスト者に特有の苦しみ、キリストに従うがゆえに起こってくる種類の苦しみだとボイドは言います。そこには日々古い自我を十字架につける苦しみから始まり、クリスチャンであるがゆえに周囲の人々から拒絶されたり疎外されたりする苦しみを含み、人によっては明確な迫害、拷問、死などに直面することもあります。これらはみな「キリストとともに受ける苦しみ」なのです。キリストの十字架と復活が私たちに約束しているのは、このようにキリストと苦しみをともにしていくなら、私たちは最終的には彼とともに勝利し、統べ治めるようになるということです。それと同時に、十字架と復活は、イエスのやり方で悪に立ち向かうことこそが最終的には勝利するということを示しているのです。

そして、十字架において与えられた将来の約束は、花婿であるキリストが必ず帰ってくるということも意味しています。その時私たちの婚約期間は終わり、私たちは花婿イエスと婚宴の宴に連なることができます(黙示録19章9節)。そして同様に、私たちは神が最後にはかならず私たち一人ひとりをキリストのご性質を反映する存在に作りかえてくださることを確信することができます。十字架において表された神の真実と愛に基づいて、私たちは神が必ずこのフィナーレまで導いてくださることを確信することができるとボイドは言います。その時、まことのいのちに対する私たちの飢え渇きは完全にいやされるのです。

(続く)

確かさという名の偶像(15)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第7章「具体化した信仰」を取り上げます。

ボイドは人が何かを「信じる」とはどういうことかについて論じます。何かを信じるという行為は、私たちの具体的な人生と遊離したものではありません。プラグマティズムの哲学者チャールズ・パースの理論を援用して、ボイドは次のように言います。

何かを信じるとは、人がある特定の状況が起こったとき、特定の方法で応答するということである。したがって、人がその信念を反映する方法で行動しようとしないならば、その人はたとえそのことを信じていると主張していたとしても、それを本当には信じていないのである。(p. 129)

これは信仰の問題とどう関わってくるのでしょうか?もしクリスチャンがあることがらを信じていると主張したとしても、その信仰の通りに行動していないなら、その人は本当の意味では信じていない、ということになります。ですから、ヤコブの有名な言葉「行いのない信仰も死んだものなのである。」(ヤコブ2章26節)は、信仰だけでは不十分で善行もしなければならない、という意味ではなく、真の信仰はそこから導かれる選択や行動と切り離すことができない、ということなのです。

このような信仰理解は、前回まで見てきたような人格的契約covenant概念と密接な関係があります。そして、ボイドはそのような信仰理解は、今日アメリカで(そしておそらくは日本でも)広く見られる信仰理解とは大きく異るものであると言います。多くのクリスチャンは、彼らの信仰にとって最も大切なのは、過去のある時点でキリストを受け入れる信仰告白をしたことにより、「イエスと法律的契約関係に入った」ことであると考えています。そのようなクリスチャンにとって、救いの確信の根拠となるのは、過去にそのような契約を交わしたという事実であり、現在において、キリストに人生を捧げて生きることによって、その誓いにふさわしく生きることではないのです。

その結果、人生を変革するはずの人格的契約関係は、安っぽい取引の幻影、ヤコブの言う「死んだ信仰」に置き換えられてしまいます。ある調査によると、キリストを信じると告白するアメリカ人は、非キリスト教徒のアメリカ人とまったく同じように時間とお金を使っており、ほとんどが同じように物質主義的で個人主義的な価値観を持っていることが明らかになったそうです(日本での統計は分かりませんが、それほど大きな違いはないかもしれません)。つまり、このような信仰理解は世の文化を変革するどころか、それに迎合・同化されていってしまいます。彼らは「イエスは主である」と信じていると公言しながら、主であるイエスに仕えるようには生きていないのです。

これに対して、ボイドが提唱する人格的契約関係に基づく信仰理解においては、私たちはキリストを救い主として信じて生涯を捧げる誓いをする時に、彼と婚約関係に入ることになります。この時私たちは「イエスが主である」という命題を100パーセント確信している必要はないとボイドは言います。たとえ多少の疑いがあったとしても、イエスを主と仰ぐ人間にふさわしく行動し、誠実に生きていくために必要なだけの確信さえあれば十分なのです。

このような信仰人生は、これまでのシリーズで見てきたような、「確実性追求型」信仰の持つ様々な問題点を回避することができます。そのような信仰を持つ人は、疑いを恐れる必要がありません。そして、自分が間違っているかもしれないという可能性を受け入れることができ、したがって常に他者から学ぼうとする姿勢があります。

他者との関係だけではありません。神との関係においても、このような信仰の姿勢を持つ人は常に成長していくことができます。その反対に、もし私たちがすでに「完成した神学」(もしそんなものがあるとすればの話ですが)に私たちの心の拠り所を求めていくなら、どのような神学にも収まりきらない神ご自身とのダイナミックな愛の関係というアドベンチャーに乗り出していく機会をみすみす失ってしまうことになるでしょう。

そして、ボイドは本書のタイトルでもある、「疑いの益」について語ります。

真の生きた信仰は決して目的地ではない。それは旅である。そしてこの旅に出かけていくためには、私たちは疑いを活用していく必要がある。ある種の疑いは、私たちがキリストとの人格的契約関係の構築をめざしていく際に適している。なぜなら、私たちは自分の信仰を何にそして誰に土台していくかを理性的に決断していかなければならないからである(第8章参照)。さもないと、私たちの信仰のコミットメントはただ偶然に基づいたものになってしまう。けれども、今私が語っているような種類の疑いは、私たちのキリストとの人格的契約関係の内側における葛藤に関するものなのである。(p. 151)

したがって、私たちは疑いを持ったからといって、キリストとの人格的契約関係が揺るがされることはありません。その逆に、ある種の疑いは私たちとキリストとの関係を深め、強めるために役立つのです。ボイドは言います。「疑いは人格的契約による信仰の敵ではない。それはどうしても必要な同伴者なのである。」(p. 154)。

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(続く)