『聖書信仰とその諸問題』への応答5(藤本満師)

その1 その2 その3 その4

藤本満先生によるゲスト投稿シリーズ、第5回目です。

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5 伝承と聖書の関係――語られ、聞かれた「言葉」の意義

5回目と6回目は、言葉は、「書かれる・読まれる」以前に、まず「話される・聞かれる」という常識論(私としては)を記してみます。筆者は、この2回も、『その諸問題』への直接的応答を念頭においていません。しかし、逐語霊感説(言語霊感説)の陥りやすい問題に言及しようとする試みです。「神の言葉はまず語られ、聞かれた言葉である」と言うとき、もちろん、書き下された言葉(聖書)に神の霊感が直接に及んでいることを否定することでも、その真実性を減じることでもありません。しかし、言語霊感と言いつつ、あまりにも霊感を「書かれた言葉に限定して」聖書信仰を理解しようとすると、まず神の言葉は話されたもの、語られたもの、聞かれたものであるという大前提を見逃す傾向が生まれることを2回にわって考えてみます。

第5回目の今回は、「書かれた言葉」である聖書を逐語霊感的に論じる場合に、軽視しがちな「伝承の意義」を考えます。そして次回は、言葉が語られる・聞かれるということの本質から「聖書と説教」の関わりに言及してみます。

なお本稿には、先のベン・ウェザリントン、またヤロスラフ・ペリカンの『聖書は誰のものか?――聖書とその解釈の歴史』の第一章から、さらには近年大きな反響を呼んだリチャード・ボウカムの『イエスとその目撃者たち――目撃証言としての福音』から、筆者が教えられたことが多く含まれています。 続きを読む

『聖書信仰とその諸問題』への応答3(藤本満師)

その1 その2

藤本満先生によるゲスト投稿シリーズ、第3回目をお送りします。

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3 シカゴ声明のローカルでヒストリカルな限定性

『聖書信仰とその諸問題』(聖書神学舎教師会編)にその要約版が所収されている『聖書の無誤性を巡る五つの見解』については投稿1ですでに触れました。5つの見解の3番目に登場するのが、オーストラリアの気鋭な福音主義神学者マイケル・バードです。彼は自分の見解に「国際的な観点から見た無誤性」とタイトルをつけ、「無誤性」は米国の外にある福音主義にとっては必要ではない、とまとめています。無誤に代わる用語として、シカゴ声明の第9項で用いられている「真の、信頼できる」(true and trustworthy)啓示の書とするので良いのではないか、と。 続きを読む

『聖書信仰とその諸問題』への応答2(藤本満師)

その1

藤本満先生によるゲスト投稿の第2回目です。第1回目の記事には多くのアクセスをいただき、投稿当日の当ブログアクセス数はこれまでの最高記録を更新しました。この主題についてどのような立場を取るにせよ、関心の高さを感じています。寄稿くださっている藤本先生には心から感謝しています。

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2 1970~80年代日本の福音派における論争

『聖書信仰とその諸問題』(以下、『諸問題』)では、1970~80年代における福音派内の論争を拙著よりも詳しく取り扱っています(27~32頁)。その中で、JPC(日本プロテスタント聖書信仰同盟)の機関誌であった『聖書信仰』編集の責任をもちながら、その「ゆらぎ」の故に1983年のJPCの総会において、村瀬俊夫氏とともに引責辞任をした中澤啓介氏のことも取り上げてくださいました。感謝なことに、中澤氏の言葉が引用されています。

「その総会後、本論文を執筆した筆者(中澤氏)と機関誌の編集長だった村瀬俊夫氏は、引責辞任することになった。筆者は、本論文の中身はあまりに常識的なものであり、なぜこの程度のことが問題視されるのかがわからなかった。ただ、日本の福音派の神学的状況は、欧米に比べてかなり遅れていることだけは明らかになった。日本の福音派が、自らの聖書学と神学方法論は近代の認識論哲学以前のスコットランド常識哲学に基づいていることに気づき、その狭い神学的ゲットーから脱却しない限り、未来の展望は開かれていかない。筆者自身は、そのように確信した。そこで、しばらくの間福音派の中では冬眠することを決め込んだ」(『諸問題』、29~30頁)。

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『聖書信仰とその諸問題』への応答1(藤本満師)

以前当ブログで藤本満先生の著書『聖書信仰 その歴史と可能性』(いのちのことば社)の紹介をさせていただき、それに関連して先生にゲスト投稿をいただいたこともありました。

『聖書信仰』は現代日本の福音派プロテスタント教会の聖書観のルーツを歴史的に検証し、その意義を問い直す意欲作でしたが、福音派内で活発な論議を呼び起こしました。そんな中、同じいのちのことば社から『聖書信仰とその諸問題』が出版されました。同書は藤本先生の『聖書信仰』だけをとりあげて論じた本ではありませんが、藤本先生の名前は随所に登場してその主張にたいする反論がなされています。表題からしても『聖書信仰』が中心的な批判対象であることはほぼ間違いないと言ってよいでしょう。

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私はこのような問題に関してオープンな議論ができる雰囲気を作ることこそが、キリスト教会の健全化につながると考えていますので、こうした動きは歓迎したいと思いますし、異なる立場の方々の間でさらなる対話が進んでいくことを願っていました。

そんな中、嬉しいニュースが飛び込んできました。藤本先生ご本人より、この本に対して応答を計画しておられるので、それを当ブログ上で寄稿できないかというお問い合わせをいただいたのです。願ってもないお申し出に、二つ返事でお引き受けさせていただきました。これを機に聖書信仰に関する議論がさらに深まっていくことを願っています。貴重な投稿をいただいた藤本先生には心から感謝いたします。 続きを読む

死をもたらす神学

昨年のこの時期に書いた「クリスマスの星」という記事が、今年になってまた読まれているようです。そこでも取り上げた、マタイ福音書の降誕物語を改めて読み返していると、昨年とは違う側面に目が留まりました。

異教徒の占星術師である東方の博士たちがエルサレムを訪れて、ヘロデ大王に「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。」と訊ねると、王とエルサレムの住民は不安に陥ります。マタイは次のように続けます:

そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。(マタイ2:4-6)

ここで興味深いのは、ユダヤの宗教家また学者であった祭司長や律法学者たちは、キリストがベツレヘムで生まれるはずだということを、聖書から正確に読み取っていたということです。にもかかわらず、彼らは東方の博士たちのようにベツレヘムまで行ってキリストを訪ねようとはしなかったのです。(エルサレムからベツレヘムまでは10キロもありません。) 続きを読む

力の支配に抗して(2)

いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。(ルカ2:14)

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前回は、シモーヌ・ヴェイユのエッセイ「『イリアス』あるいは力の詩篇」に基づいて、万人を奴隷にする力の支配について考えました。

誤解のないように書いておきますと、このエッセイが好きだからと言って、私はヴェイユがそこに書いている内容のすべてを肯定しているわけではありません。それどころか、プラトン的な二元論、またキリスト教のヘブライ的ルーツに対する不当に低い評価といった、個人的にまったく同意しかねる部分もあります。けれども、そのためにこのエッセイ全体を否定するのは、まさに産湯とともに赤子を捨ててしまうような愚であると思います。私にとってヴェイユが典型ですが、ひとりの人の思想の中に、まったく同意できない部分と、おおいに共感できる部分が同居していることがあります。そこがヴェイユの不思議な魅力になっているとも言えます(過去記事「クリスマスの星」も参照)。

ともあれ、前回紹介した彼女の「力」の概念は非常にすぐれた洞察であり、今日もその輝きを失ってはいません。むしろその意義はますます大きくなっていると言えます。今回はこれを足がかりに、新約聖書に目を向けてみたいと思います。 続きを読む

力の支配に抗して(1)

当ブログではこれまでもシモーヌ・ヴェイユについて何度か取り上げてきました(たとえばこの記事)。

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シモーヌ・ヴェイユ(1921年)

私はヴェイユの専門家ではなく、彼女が書いたものをすべて読んでいるわけでもありませんが、暇を見ては少しずつ読んできました。その中で最も好きな作品はと問われれば、躊躇することなく挙げたいのが、「『イリアス』あるいは力の詩篇」です。これまで、冨原眞弓訳(みすず書房『ギリシアの泉』所収)、Mary McCarthyによる英訳(こちらで読むことができます)、そして最近出た今村純子訳(河出文庫『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』所収)といろいろな訳で読んできましたが、読むたびに感動を新たにする珠玉の小品です。

このエッセイは、タイトルからして素晴らしいです。このような、直截的かつ詩的な表題を自分もいつか書いてみたいと思います。そして開口一番、単刀直入に主題が述べられます。

『イリアス』の真の英雄、真の主題、その中枢は、力である。

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