黙示録における「暴力」

5月29日の福音主義神学会東部部会での研究会は100名を超える方々が参加してくださり、とても有意義な時を持つことができました。

会では南野浩則先生「旧約聖書の平和論」と題してたいへん有意義な講演を行ってくださいました。個人的に強く共感を覚えたのは、旧約聖書には平和に関して多様な声があり、それに対して現代に生きる私たちがどのような解釈を行うかの責任を与えられている、ということでした。聖書解釈における読者の重要性は先生のご著書『聖書を解釈するということ』においても論じられていますが、これまで福音派の聖書解釈ではあまり強調されてこなかった重要な論点であると思います。

私は「新約聖書の平和論―黙示録を中心に」と題して、特に黙示録における暴力表現をどう解釈するか、という主題でお話させていただきました。以下に脚注等を除き聖書引用等多少手を加えたダイジェスト版を掲載します。

アルブレヒト・デューラー「黙示録の四騎士」

新約聖書の平和論―黙示録を中心に

I.はじめに

今回の発表に関して、福音主義神学会東部部会より「新約聖書の平和論」というテーマを頂いた。これは広範囲にわたる主題であり、発表者の能力的にも時間的制約から言っても新約聖書全体を取り上げることは難しい。そこで今回は、ヨハネの黙示録に絞って平和の問題を考えてみたい。黙示録を取り上げたのは、新約聖書全巻の中で、この書がもっとも平和から遠い、「暴力的な書」というイメージを持たれているからでもある。たとえば英国の作家D・H・ロレンスは、黙示録が体現しているのはイエスやパウロらの宗教とは異なる別種のキリスト教であり、この書は敵を憎悪し世界の破滅を欲する「聖書全篇のうち最もいまわしい一篇」である、と断罪する(『黙示録論』)。米国の聖書学者アデラ・ヤーブロ・コリンズは、黙示録がローマに対する暴力的抵抗を促すものではないと認めつつも、それは他者に対する激しい攻撃的感情をかき立てるものであって、愛に欠けるものであると批判する(Crisis and Catharsis, 156-61, 170-75)。

福音主義的キリスト者の中でさえ、黙示録における暴力を肯定する見解があり、しかもそれは大衆文化にも大きな影響を及ぼしている。たとえば米国を中心として世界的なベストセラーとなった『レフトビハインド』シリーズの最終巻において、再臨のキリストが神に敵対する人々を文字通り虐殺する様子が描かれている:

レイフォードがのぞいている双眼鏡の先では、男女の兵士や馬が立っているその場で爆発しているようだった。主のことばそのものが彼らの血を過熱させ,それが血管と皮膚を突き破っているかのようだった。「彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。」何万という歩兵が持っていた武器を落とし、自分の頭か胸をつかみ、膝をつき、身をよじりながら、目に見えない何かでばらばらに切り裂かれていった。はらわたが砂漠の床に流れ出し、そのまわりで逃げまどう者たちも殺され、血があふれ、キリストの栄光の容赦ない輝きのなかでその嵩を増していった。「天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ。主の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。主がボツラでいけにえをほふり、エドムの地で大虐殺をされるからだ。彼らの地には血がしみ込み、その土は脂肪で肥える」反キリストの軍隊が主の虐殺のいけにえの動物になったかのようだった。

ティム・ラヘイ、ジェリー・ジェンキンズ『グロリアス・アピアリング』258-59頁

この箇所は黙示録19:11–21、特に15節(「この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。」)に基づいているようである。再臨のキリストの口から出る「剣」、すなわちキリストのことばが文字通り敵を虐殺するという解釈である。さらにこのシリーズでは神が暴力的に描かれているというだけではない。神の民であるキリスト者もまた、神の暴力に参加するという名目で暴力を振るうことが正当化されるのである。

このような現状から、2つの問題提起を行いたい。①黙示録はキリスト者に対して悪に対して暴力を用いて戦う/抵抗することを求めているのか、そして②黙示録の神/キリストは終末のさばきにおいて文字通りの暴力を用いるのか、である。キリスト教倫理としての平和論を考える際には①が中心となるだろうが、①と②は切り離すことができない。キリスト者の行動にはその神観が多かれ少なかれ影響を及ぼすはずだからである。同時にこの2つは同じものではない。クリスチャンは非暴力的に悪に抵抗しつつ、終末における神の暴力的なさばきを待ち望む/祈り求めるということもありうるからである。したがって本発表では、キリスト者の勝利と、神/キリストの勝利という2つの主題において、暴力がどのように関係してくるかについて、黙示録の関連箇所の分析を含めつつ考えたい。

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聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿3)

シリーズ過去記事   2

③ヨハネの物語~聖なるものの受肉~

前回見たように「聖」とは「いのちを与えるもの」であり、「肉」は「生身のいのち」であるということですが、両者は「いのち」というキーワードにおいて重なりを持つものです。

イエス・キリストの受肉は、この「聖」と「肉」というふたつの概念が重なるものであると言えるでしょう。ヨハネは手紙の中でイエス・キリストの受肉を強調します。

神からの霊は、このようにして分かります。肉(新改訳2017では「人」)となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。(ヨハネの手紙第一4章2節)

こう命じるのは、人を惑わす者たち、イエス・キリストが肉(新改訳2017では「人」)となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。こういう者は惑わすものであり、反キリストです。(ヨハネの手紙第二7節)

ヨハネは福音書を「信じるため」「いのちを得るため」(ヨハネの福音書20章31節)に書きました。信じるとは、イエス・キリストに繋がり、神との関係を回復すること。ヨハネは救いを「永遠のいのち」という言葉で表します。イエス・キリストと繋がり、神からいのちをいただくこと、それがヨハネにとっての本当の「いのち」なのです。

ヨハネの福音書を「聖」「肉」「いのち」という三つのキーワードに焦点を当てて読んでいきましょう。

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新刊紹介『ユダヤ人も異邦人もなく』(山口希生師ゲスト投稿)

パウロ研究、特にいわゆる「ニュー・パースペクティブ」に関心のある方々にとって注目すべき新著が刊行されます。このブログでも何度か寄稿してくださった山口希生先生による、『ユダヤ人も異邦人もなく』(新教出版社)です。今回はこの本の刊行に際して、山口先生ご自身がその内容を紹介してくださいます。ぜひお読みください。

(山口先生の過去のゲスト投稿記事  

『ユダヤ人も異邦人もなく―パウロ研究の新潮流』の公刊に寄せて

山口 希生

今年の4月に公刊される拙著『ユダヤ人も異邦人もなく-パウロ研究の新潮流』(新教出版社)について、山崎ランサム和彦先生のご厚意で、先生のブログに紹介文を掲載させていただくことに心から感謝します。

本書は、日本でも長らく注目を集めてきた「ニュー・パースペクティブ」と呼ばれるパウロ研究の新潮流の歴史について、包括的に記述することを目的としています。この神学的潮流がどのような背景から生まれ、発展してきたのかを、19世紀の古典的学術書から21世紀の直近の研究まで、10名の学者の業績を紹介しながらたどっていこうというものです。内容は学術書でありながら、一般の信徒の方にも分かりやすいようにと頑張って工夫して書きました。聖書に親しんでおられる方ならば、特別な知識がなくても読める本になっていると思います。

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イスラエルの王イエス(2)

前回の記事では、マタイとルカの福音書における降誕物語において、イエスがイスラエルの王(メシア)として描かれていることを見ました。それでは、このことは現代の(大部分異邦人である)クリスチャンに対して、どのような意味があるのでしょうか?

私たちは二千年前に人として来られたイエス・キリストをイスラエルの王として理解する時、その到来と救いのわざを、歴史の中で何の背景もなく単発で起こったものではなく、神がなさっておられる大きな救いのご計画の中にあるものとして捉えることができるようになります。

ある意味では、たしかにイエスは全人類を罪から救うために来られたと言えるでしょう。けれどももし私たちが、イエスがイスラエルのメシアとして、神の民を回復するために来られた、という事実をバイパスして「全人類の救い主」という結論に飛びついてしまうならば、イエスの救いのわざはイスラエルの歴史とは切り離されてしまいます。もしそうなら、イエスはユダヤ人として生まれなくても良かったですし、そもそも「キリスト(イスラエルの王)」という称号そのものが無意味なものになってしまいます。

けれども、イエスはイスラエルを回復し解放する王として来られました。それは、旧約聖書のイスラエルの希望を成就するためだったのです。そしてイスラエルの希望は、ただたんに全人類が救われるということではなく、もっと具体的に、イスラエルが慰められることであり(ルカ2:25)、エルサレムが救われることでした(2:38)。

それでは、イスラエルの回復(解放・救いと言ってもいいですが)は、なぜそれほど大切なのでしょうか? それは単なる自民族中心的な願望だったのでしょうか? そうではありません。それは、聖書全体を貫く神の救いの計画と関わっているのです。

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イスラエルの王イエス(1)

今年もアドベント(待降節)に入りました。イエス・キリストの最初の到来(クリスマス)を覚え、次なる到来(再臨)を待ち望む期間です。そこでこの機会に、イエスの到来の意味について考えてみたいと思います。

マタイ福音書から、イエスの誕生告知の箇所を取り上げます。

イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。
(マタイ1:18-25)

ルカ福音書の降誕物語もそうですが、マタイによる降誕物語もユダヤ的な色彩が濃厚です。そのことは、冒頭の「イエス・キリスト」という言葉からも明らかです。

今日では「イエス・キリスト」という表現は固有名詞のように扱われていますが、もともと「キリスト」という表現は固有名ではなく「油注がれた者(メシア)」を意味する称号です。イエスが生まれた当時、これはイスラエルを解放する王として理解されていました。したがって、マタイがこの書き出しで言おうとしていることは、「イスラエルの王であるイエスの誕生の次第はこうであった」ということなのです。

イエスがイスラエルの王として到来した、ということは、マタイ福音書の冒頭部分の系図でも明らかです。

アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。(1:1)

ここでも、マタイは「イスラエルのメシア(王)であるイエス」の系図について、アブラハムからダビデ王を通ってイエスに至るまでの系図を示しています。

2章ではイエスが誕生した後のエピソードが語られますが、東方から来た博士たちがエルサレムのヘロデ王を訪れて、「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。」と尋ねます(2:2)。

実際、福音書は一貫してイエスを「ユダヤ人の王」として描いており、その物語のクライマックスである受難記事においても、イエスはユダヤ人の王として描かれています。

さて、イエスは総督の前に立たれた。すると総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。(マタイ27:11)

それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集めた。そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。(27:27-29)

そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。(27:37)

このように、イエスが福音書全体を通して「イスラエルのメシア(王)」として描かれているとするなら、クリスマスとは、イスラエルの王であるイエスが来られたできごとと言うことができます。このことは、私たちのクリスマス理解にどのように関わってくるのでしょうか?

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受難週に聴いた音楽

教会暦では昨日が受難日でした。2年前のこの日に「受難日に聴いた音楽」という記事を書きました。そこではポーランドの作曲家クシシュトフ・ペンデレツキ「ルカ受難曲」を取り上げました。

今年の受難節も、イエス・キリストの受難について思い巡らしていましたが、今年はパッション2000のために作曲された受難曲を全部聴いてみようと思い立ちました。

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墓がひらくとき

さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。
(マルコ16章1-4節)

昨日はイエス・キリストの復活を記念するイースター(復活祭)でした。イエスが十字架に架けられて殺されたとき、その遺体は岩を掘ってつくった墓に収められ、大きな石を転がして入口がふさがれました。そして四福音書はどれも、イエスが復活した日にその石が墓の入口から取り除かれたことを記しています。イエスの復活は、墓が開いたときであったのです。

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