物語としての福音書【書籍紹介】

聖書の物語的分析は、近年の聖書学の中でも重要な位置を占めるようになってきました。私の博士論文も、ルカ文書の物語的分析の手法を取り入れたものでした。

ところで、四福音書の物語分析に関して、新しい本が出ましたので紹介したいと思います。

これは Jeannine K. Brown, The Gospels as Stories: A Narrative Approach to Matthew, Mark, Luke, and John (Baker Academic, 2020) です。著者のジェニン・ブラウン博士はベテル神学校サンディエゴ校の新約学教授であり、広く使われている英訳聖書 New International Version (NIV) の翻訳者の一人でもあります。同時に、ブラウン先生は私がベテル神学校に留学した時に聖書学を教わった恩師でもあります。当時先生はミネソタ州のセント・ポール校で教えておられましたが、私はこの先生の聖書解釈学の授業で大きな感銘を受けたことがきっかけで、聖書学の道に進むことを決意しました。

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この世でよそ者として生きる(リチャード・ヘイズ教授講演より)

5月5日(金)に開かれた北東アジアキリスト者和解フォーラムに参加しました。このフォーラムは米国デューク大学の神学部と和解センターのイニシアティヴで始まったもので、今回が7回目になります。私自身は、韓国済州島で開催された昨年のフォーラムに続いて2回目の参加となります。今回は新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、半日のみのオンラインでの開催になりましたが、多くの発見や励ましを受けました。

フォーラムには、日中韓米から招待された約150名以上のキリスト者が集いました(オンラインだからこそ参加できた人々も多く、参加者は例年より大幅に増えました)。参加者はカトリックやプロテスタントの聖職者や学者、パラチャーチ活動家、学生などさまざまで、非常に多様な顔ぶれであるのが特徴です。

今回のフォーラムでは、世界的に著名な新約学者である、デューク大学のリチャード・ヘイズ名誉教授が講演をしてくださいました。私はこれまでヘイズ博士の学問的業績に大いに啓発されてきただけでなく、何年か前に来日された際には、立ち話程度でしたが個人的にお話しする機会も与えられたこともあり、今回の講演を楽しみにしていました。この何年か膵臓がんと闘病されてこられましたが、今回Zoomの画面を通してお元気そうな姿を見ることができて感謝でした。 続きを読む

聖霊降臨と新時代の幕開け(『舟の右側』ペンテコステメッセージ)

今週の日曜日(5月31日)はペンテコステ(聖霊降臨日)でした。それに先立ち、『舟の右側』誌に依頼されて、6月号にペンテコステのメッセージを書かせていただきましたので、同誌の許可を得てこちらにも掲載させていただきます(ただし聖書の訳をはじめ、いくつか変更を加えてあります)。内容的には過去記事「王なるイエスの元年」と重なる部分もありますが、そこで書いた内容を、もう少し広い聖書の文脈の中で捉え直したものです。

 

聖霊降臨と新時代の幕開け 

それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。 (使徒2・ 33)

ペンテコステおめでとうございます。教会暦では、復活祭から50日目にあたる日曜日を聖霊降臨の日として祝います。これは、イエス・キリストの昇天後、エルサレムにいた弟子たちに聖霊が注がれたできごとを記念するもので、キリスト教会にとってはクリスマスや復活祭と並んで重要な祝日です。

十字架につけられた後、3日目に復活したイエスは40日間にわたって弟子たちに現れた後、天に昇っていかれました。主はその際、エルサレムを離れないで、聖霊の訪れを待つようにと彼らに命じられました(ルカ24・49、使徒1・4-5)。その約束通り、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれたのです。

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。(使徒2・1-4)

この有名な「聖霊降臨」のできごとは、教会誕生の瞬間として有名ですが、そこで起こったことは、実際には何を意味しているのでしょうか? ある人々は弟子たちが「異言」を語ったことを強調します。けれども、この時弟子たちが語った言葉がパウロが手紙で語っている異言(1コリント14章を参照)と同じものであるかは定かではありません。宣教への力が与えられたできごと(使徒1・8参照)として理解する人々もいます。しかし、聖霊降臨を孤立した特異なできごととして捉えるのではなく、より大きな聖書的文脈の中に位置づけていく時に、さらに深い意味が見えてきます。 続きを読む

ピスティス・イエスゥ・クリストゥ論争とキリストの像(藤本満師ゲスト投稿2)

その1

藤本満先生による、ゲスト投稿シリーズ、第2回をお送りします。

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ピスティス・イエスゥ・クリストゥ論争とキリストの像

  • ピスティス・クリストゥ論争とは?

ピスティス・クリストゥ論争については、多くが語られてきました。簡易に整理いたします。ローマ人への手紙3:21に「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました」、そして続く22節に「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です」(新改訳2017)とあります。

イエス・キリスト「を」信じるとは、原語では「イエス・キリスト『の』ピスティス」となっているだけです。新改訳2017の注には「イエス・キリストの真実」と原語そのままの別訳が掲載されています。「ピスティス」は、新約聖書では「信仰」の意で用いられていますが、本来は、真実・信実・誠実を意味する言葉です。イエス・キリスト「の」という属格は、対格的(目的格)用法で訳されるのが一般的と言えるでしょう。つまり、「イエス・キリストを信じる信仰」(新改訳)、「イエス・キリストを信じること」(新共同訳)、「イエス・キリストへの信仰」(岩波訳)と。

この対格用法に異論を詳しく唱えたのが、カール・バルトでした(『ローマ書』第二版)。バルトは「の」を、対格ではなく主格的用法で訳しました。「神の義は、イエス・キリストにおける『神の』信実によって啓示される」と(『カール・バルト著作集14 ローマ書』、新教出版1967年、114頁)。「の」は対格ではなく、つまり人間がキリストを信じる信仰ではなく、キリストを主格とした「の」、つまりキリストの真実、あるいは神がキリストにおいて現された真実(信実)と考えたわけです。ですから、聖書協会訳共同訳では
「イエス・キリストの真実」と訳されています。 続きを読む

王なるイエスの元年

イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。 (マタイ28:18-20)

イースター(復活祭)は過ぎてしまいましたが、教会暦ではペンテコステまでは「復活節」が続いていますので、今回はイエスの復活について書きたいと思います。

ルカとヨハネの福音書によると、復活したイエスはエルサレムとその周辺でも弟子たちに現れましたが、マタイはパレスチナの北部に当たるガリラヤでの復活顕現を強調します。ユダを除く11人の弟子たちはイエスに指示された山に登り、そこで復活の主と出会いました(16節)。マタイの福音書では「山」は神の啓示を受ける特別な場所、という象徴的意味があります(山上の説教、変貌山など)。

18節から始まるイエスのことばは、マタイ福音書の結論にあたる大変重要な部分です。まずイエスは「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」と語ります(18節)。イエスの復活は、主にすべての権威が与えられた、ということを意味しています。つまり、全宇宙を治める王となったということです。このことは天に昇って父なる神の右の座に着座されることによって公に実現しますが、復活の時点ですでにこのことは確定している、ということでしょう。

イエスは復活してすべての主となられた。この事実が、この後語られるすべての根拠になります。この箇所では「すべて」を意味するギリシア語が繰り返し使われます。「いっさいの権威」(18節)、「すべての国民」(19節)、「いっさいのことを守るように」(20節)、「いつも(直訳:すべての日々に)」(20節)――イエスがすべての主となられたので、この世界のすべては永遠にその支配の中に入れられるということです。これはダニエル書7章に登場して、国々を支配する権威を神から授けられる「人の子」の記述を思い起こさせます。

この福音書は、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである 」(20節)というイエスのことばで終わっています。マタイ福音書の冒頭で、イエスの誕生が予告された時、その名は「インマヌエル」(神われらと共にいます)と呼ばれる、とマタイは語りました(1:23-24)。けれども、不思議なことに、マタイ福音書の中で(あるいは新約聖書の他のどの箇所でも)、イエスが実際に「インマヌエル」と呼ばれている箇所はありません。しかし、具体的な名前は出てこなくても、インマヌエルテーマが、マタイの福音書の結末部分でもう一度出てきます(これはインクルージオと呼ばれる文学技法です)。しかし、これはどのような意味を持っているのでしょうか? 続きを読む

受難日に聴いた音楽

今日はイエス・キリストの十字架の死を記念する受難日(Good Friday)です。新型コロナウイルスの感染拡大に伴う社会的混乱によって、今年の受難日は例年とは全く違う状況で迎えることになりましたが、それだけにイエスの苦しみと死の意味について、深く考えさせられる受難日となりました。

昨年のレントの時期に書いた記事(「受肉というスキャンダル」)でも書いたように、レントと受難週にはバッハのマタイ受難曲をよく聴いてきました。けれども今年聴いたのは、つい先日(3月29日)亡くなったペンデレツキによる「ルカ受難曲」でした。 続きを読む

『シンプリー・グッドニュース』完成しました

すでにお知らせしているN・T・ライト著『シンプリー・グッドニュース』(あめんどう)が完成し、昨日神学校に届きました。

この本の翻訳に取り掛かったのはずいぶん前になりますが、ついに完成にこぎつけて感無量です。お世話になったあめんどうさんに心から感謝します。 続きを読む

『聖書信仰とその諸問題』への応答8(藤本満師)

(過去記事       

藤本満先生によるゲスト投稿シリーズの8回目をお送りします。

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8 聖書(新約)が聖書(旧約)を解釈するとき

筆者はジェームズ・ダンに倣って(前掲論文、113)、「釈義」(エクセジーセス)と「解釈」(インタープリテーション)とを分けておきます。

釈義とは、私は聖書の文書をそのオリジナルな意味において、オリジナルな表現、オリジナルの文脈において意味を理解する試みであると考えています。それに対して、解釈とは、便宜的に言えば、そのオリジナルな意味にできるだけ付け加えることも削除することもせずに、解釈者の生きている時代の言葉、考え方、表現の仕方に言い替える試みです。

いわば、「釈義」とは近代聖書学が始まって以来考えられてきた歴史的・文法的手法をもってオリジナルな意味を探し求める努力です。そして「解釈」とは、読者がその時代に理解できる枠組み・表現・考え方を用いてテクストの意味を理解できるように、その意味を引き出し表現することです。釈義の方が技術的で精密な研究の積み重ねで、解釈は時代性・アーティスティックな要素が求められます。

まず初めに、この二つを分けて考えることは、キリスト者が旧約聖書を読むときに特に大切でしょう。私たちが旧約聖書を旧約聖書としてオリジナルな文脈とセッティングで釈義したとしても、キリスト者である限り、その解釈においては、福音というフィルターでもう一度その意味を篩わなければなりません。そうして現れるのがキリスト者としての解釈です。 続きを読む

『聖書信仰とその諸問題』への応答7(藤本満師)

(過去記事      

藤本満先生による寄稿シリーズの第7回をお送りします。

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7 主イエスが旧約聖書を用いるとき

第7回、8回目となる二つの論考は、『聖書信仰とその諸問題』に掲載されている鞭木由行氏「キリストの権威と聖書信仰」をきっかけとして記しています。そして、筆者の応答は、1981年のAnglican Evangelical Assemblyで発表されたジェームズ・ダンによる「聖書による聖書の権威」(The Authority of Scripture According to Scripture, Churchman, 1983, 104~122, 201~225 から多くを援用しています。

この講演論文でダンは「聖書(新約)は聖書(旧約)をどのように取り扱っているか」を検証しています。そしてダンが到達する結論は、聖書を第一とする福音派がこの課題を取り扱うとき、聖書を重んじるという自己意識を具現するために、プリンストン神学に見られるような神学の演繹的結論ではなく、聖書は聖書をどのように語り、用いているのかを具体的に聖書の中で検証することが求められると言います。

この課題におけるその後の研究はさらに重厚なものになっていますが、基本的に同じ土俵で同じような相手にぶつかっている、つまり、イギリス福音主義の聖書学者が米国のシカゴ声明(背後のウォーフィールド型聖書信仰)を問題視する諸点は、変わらないのが現実です。筆者は、ジェームズ・ダンの論考に共感を覚えて、以下を記していることを先に明らかにしておきます。 続きを読む