イスラエルの王イエス(2)

前回の記事では、マタイとルカの福音書における降誕物語において、イエスがイスラエルの王(メシア)として描かれていることを見ました。それでは、このことは現代の(大部分異邦人である)クリスチャンに対して、どのような意味があるのでしょうか?

私たちは二千年前に人として来られたイエス・キリストをイスラエルの王として理解する時、その到来と救いのわざを、歴史の中で何の背景もなく単発で起こったものではなく、神がなさっておられる大きな救いのご計画の中にあるものとして捉えることができるようになります。

ある意味では、たしかにイエスは全人類を罪から救うために来られたと言えるでしょう。けれどももし私たちが、イエスがイスラエルのメシアとして、神の民を回復するために来られた、という事実をバイパスして「全人類の救い主」という結論に飛びついてしまうならば、イエスの救いのわざはイスラエルの歴史とは切り離されてしまいます。もしそうなら、イエスはユダヤ人として生まれなくても良かったですし、そもそも「キリスト(イスラエルの王)」という称号そのものが無意味なものになってしまいます。

けれども、イエスはイスラエルを回復し解放する王として来られました。それは、旧約聖書のイスラエルの希望を成就するためだったのです。そしてイスラエルの希望は、ただたんに全人類が救われるということではなく、もっと具体的に、イスラエルが慰められることであり(ルカ2:25)、エルサレムが救われることでした(2:38)。

それでは、イスラエルの回復(解放・救いと言ってもいいですが)は、なぜそれほど大切なのでしょうか? それは単なる自民族中心的な願望だったのでしょうか? そうではありません。それは、聖書全体を貫く神の救いの計画と関わっているのです。

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イスラエルの王イエス(1)

今年もアドベント(待降節)に入りました。イエス・キリストの最初の到来(クリスマス)を覚え、次なる到来(再臨)を待ち望む期間です。そこでこの機会に、イエスの到来の意味について考えてみたいと思います。

マタイ福音書から、イエスの誕生告知の箇所を取り上げます。

イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。
(マタイ1:18-25)

ルカ福音書の降誕物語もそうですが、マタイによる降誕物語もユダヤ的な色彩が濃厚です。そのことは、冒頭の「イエス・キリスト」という言葉からも明らかです。

今日では「イエス・キリスト」という表現は固有名詞のように扱われていますが、もともと「キリスト」という表現は固有名ではなく「油注がれた者(メシア)」を意味する称号です。イエスが生まれた当時、これはイスラエルを解放する王として理解されていました。したがって、マタイがこの書き出しで言おうとしていることは、「イスラエルの王であるイエスの誕生の次第はこうであった」ということなのです。

イエスがイスラエルの王として到来した、ということは、マタイ福音書の冒頭部分の系図でも明らかです。

アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。(1:1)

ここでも、マタイは「イスラエルのメシア(王)であるイエス」の系図について、アブラハムからダビデ王を通ってイエスに至るまでの系図を示しています。

2章ではイエスが誕生した後のエピソードが語られますが、東方から来た博士たちがエルサレムのヘロデ王を訪れて、「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。」と尋ねます(2:2)。

実際、福音書は一貫してイエスを「ユダヤ人の王」として描いており、その物語のクライマックスである受難記事においても、イエスはユダヤ人の王として描かれています。

さて、イエスは総督の前に立たれた。すると総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。(マタイ27:11)

それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集めた。そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。(27:27-29)

そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。(27:37)

このように、イエスが福音書全体を通して「イスラエルのメシア(王)」として描かれているとするなら、クリスマスとは、イスラエルの王であるイエスが来られたできごとと言うことができます。このことは、私たちのクリスマス理解にどのように関わってくるのでしょうか?

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受難週に聴いた音楽

教会暦では昨日が受難日でした。2年前のこの日に「受難日に聴いた音楽」という記事を書きました。そこではポーランドの作曲家クシシュトフ・ペンデレツキ「ルカ受難曲」を取り上げました。

今年の受難節も、イエス・キリストの受難について思い巡らしていましたが、今年はパッション2000のために作曲された受難曲を全部聴いてみようと思い立ちました。

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受肉と順応(クリスマス随想)

さだめたまいし 救いのときに
神のみくらを はなれて降り
いやしき賎の 処女(おとめ)にやどり
世人のなかに 住むべき為に
いまぞ生まれし 君をたたえよ

(讃美歌98番、2節)

今年もクリスマスの時期がやってきました。

クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う時です。キリスト教会は、このことを、神が人となった受肉のできごととして理解してきました。つまり、宇宙の創造主なる神が自ら人間となることによって、ご自分を人間に啓示されたのです。

神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。

(ヨハネ1:18)

しかし、神は抽象的・普遍的な意味で「人間」となられたわけではありません。そうではなく、「神のことば」(ヨハネ1:1、14)は特定の時代と地域に生きた、一人の個人として現れたのです。ナザレのイエスは紀元1世紀のローマ帝国支配下にあったパレスチナに生きた、一人のユダヤ人男性でした。彼は当時の一般のユダヤ人と同じ生活をし、同じ言葉を話しました。つまり、神は1世紀のパレスチナに生きた人々に理解できるような姿で、ご自分を啓示されたのです。

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墓がひらくとき

さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。
(マルコ16章1-4節)

昨日はイエス・キリストの復活を記念するイースター(復活祭)でした。イエスが十字架に架けられて殺されたとき、その遺体は岩を掘ってつくった墓に収められ、大きな石を転がして入口がふさがれました。そして四福音書はどれも、イエスが復活した日にその石が墓の入口から取り除かれたことを記しています。イエスの復活は、墓が開いたときであったのです。

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新しいはじまり

所属教会のクリスマス礼拝で語らせていただいた説教をこちらに掲載します(引用聖句の訳など多少変更あり)。クリスマスイヴの今夜は多くの教会でキャンドルサービスが行われますが、暗闇の中に光を灯すために来てくださったイエス・キリストの降誕を覚えたいと思います。

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クリスマスの不思議

今年のクリスマスはコロナ禍のために、例年とはまったく異なる雰囲気でクリスマスを迎える教会も多いのではないかと思います。私の所属教会でも毎年行っているアドベントコンサートが中止になり、20日のクリスマス礼拝は教会堂でソーシャルディスタンスを保ちながら集まる少数の出席者と、ズームで参加する出席者からなるハイブリッド礼拝になりました。

礼拝の問題だけではありません。感染症自体からくる不安や恐怖以外にも、パンデミックの影響からくる経済的その他の様々な困難により、社会の分断が浮き彫りにされ、全体的に世の中の人々の心に余裕がなくなっているような気がします。私自身、なんとなく落ち着かない気持ちで今年のアドベントは過ごしていました。けれども、このような状況であるからこそ理解できるようなクリスマスの意味があるのではないかと思っていました。

そんな中、一枚の画像に目が止まりました。

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聖霊降臨と新時代の幕開け(『舟の右側』ペンテコステメッセージ)

今週の日曜日(5月31日)はペンテコステ(聖霊降臨日)でした。それに先立ち、『舟の右側』誌に依頼されて、6月号にペンテコステのメッセージを書かせていただきましたので、同誌の許可を得てこちらにも掲載させていただきます(ただし聖書の訳をはじめ、いくつか変更を加えてあります)。内容的には過去記事「王なるイエスの元年」と重なる部分もありますが、そこで書いた内容を、もう少し広い聖書の文脈の中で捉え直したものです。

 

聖霊降臨と新時代の幕開け 

それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。 (使徒2・ 33)

ペンテコステおめでとうございます。教会暦では、復活祭から50日目にあたる日曜日を聖霊降臨の日として祝います。これは、イエス・キリストの昇天後、エルサレムにいた弟子たちに聖霊が注がれたできごとを記念するもので、キリスト教会にとってはクリスマスや復活祭と並んで重要な祝日です。

十字架につけられた後、3日目に復活したイエスは40日間にわたって弟子たちに現れた後、天に昇っていかれました。主はその際、エルサレムを離れないで、聖霊の訪れを待つようにと彼らに命じられました(ルカ24・49、使徒1・4-5)。その約束通り、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれたのです。

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。(使徒2・1-4)

この有名な「聖霊降臨」のできごとは、教会誕生の瞬間として有名ですが、そこで起こったことは、実際には何を意味しているのでしょうか? ある人々は弟子たちが「異言」を語ったことを強調します。けれども、この時弟子たちが語った言葉がパウロが手紙で語っている異言(1コリント14章を参照)と同じものであるかは定かではありません。宣教への力が与えられたできごと(使徒1・8参照)として理解する人々もいます。しかし、聖霊降臨を孤立した特異なできごととして捉えるのではなく、より大きな聖書的文脈の中に位置づけていく時に、さらに深い意味が見えてきます。 続きを読む

王なるイエスの元年

イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。 (マタイ28:18-20)

イースター(復活祭)は過ぎてしまいましたが、教会暦ではペンテコステまでは「復活節」が続いていますので、今回はイエスの復活について書きたいと思います。

ルカとヨハネの福音書によると、復活したイエスはエルサレムとその周辺でも弟子たちに現れましたが、マタイはパレスチナの北部に当たるガリラヤでの復活顕現を強調します。ユダを除く11人の弟子たちはイエスに指示された山に登り、そこで復活の主と出会いました(16節)。マタイの福音書では「山」は神の啓示を受ける特別な場所、という象徴的意味があります(山上の説教、変貌山など)。

18節から始まるイエスのことばは、マタイ福音書の結論にあたる大変重要な部分です。まずイエスは「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」と語ります(18節)。イエスの復活は、主にすべての権威が与えられた、ということを意味しています。つまり、全宇宙を治める王となったということです。このことは天に昇って父なる神の右の座に着座されることによって公に実現しますが、復活の時点ですでにこのことは確定している、ということでしょう。

イエスは復活してすべての主となられた。この事実が、この後語られるすべての根拠になります。この箇所では「すべて」を意味するギリシア語が繰り返し使われます。「いっさいの権威」(18節)、「すべての国民」(19節)、「いっさいのことを守るように」(20節)、「いつも(直訳:すべての日々に)」(20節)――イエスがすべての主となられたので、この世界のすべては永遠にその支配の中に入れられるということです。これはダニエル書7章に登場して、国々を支配する権威を神から授けられる「人の子」の記述を思い起こさせます。

この福音書は、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである 」(20節)というイエスのことばで終わっています。マタイ福音書の冒頭で、イエスの誕生が予告された時、その名は「インマヌエル」(神われらと共にいます)と呼ばれる、とマタイは語りました(1:23-24)。けれども、不思議なことに、マタイ福音書の中で(あるいは新約聖書の他のどの箇所でも)、イエスが実際に「インマヌエル」と呼ばれている箇所はありません。しかし、具体的な名前は出てこなくても、インマヌエルテーマが、マタイの福音書の結末部分でもう一度出てきます(これはインクルージオと呼ばれる文学技法です)。しかし、これはどのような意味を持っているのでしょうか? 続きを読む